第一回 蘇州の春 ~第六節~

「城隍神のきみなら、さっきの美女が誰なのか判るよね?」

「は? そりゃあまあ調べるくらいはできやすが……ただ、気になるのでしたらなぜさっきのお誘いを断ったんです?」

「いや、説明は難しいんだけどさ……」

「まさか星君どの、下界の人間の女を相手に本気になったんじゃありやせんよね?」

「そんなはずないだろ。僕はただ――」

 みなまで答えず、星秀はまた瓢箪に口をつけた。

 さっきの美女のことが気に懸かって仕方がなかった。なぜかあの美女に対しては、いつものような、束の間いっしょに楽しい時間をすごすだけの相手とは見られないのである。ただ、星秀にもそう感じる理由が判らない。

 とにかく胸がざわつく。あのままあの美女と見つめ合っていたら、自分の正体も何もかも見透かされてしまうのではないかという、根拠のない漠然とした不安もあった。だから星秀は、心惹かれるものを感じながらもあの場を去ったのである。

「……何なんだ、あの子は?」

 ふとよぎった疑念をもらし、星秀はすぐにかぶりを振った。もし彼女が神仙や妖怪のたぐいであれば、手を取った瞬間にそれと判る。

 あの美女は間違いなく人間だった。なのに不思議な――夜空のような色の、すべてを見通すような瞳を持っている。

 だからこそ気になったのかもしれない。


◆◇◆◇◆


 伍先生の屋敷には、この蘇州でも五本の指に入る高さの楼閣があって、その屋根の上からは街のほぼすべてが見渡せる。蘇州を取り囲む城壁は大雑把に見て周囲四〇里を超えると聞くが、これほど巨大な街は、今の宋の国にはもはやいくつもないだろう。

 次第に熱を失っていく瓦の上であぐらをかき、珊釵は両手で璧の帯飾りをもてあそんでいる。何とはなしに壁をいじりながら、夕闇に沈んでいく街並みを見つめている。

「――どうであろうか、伍先生? 反応のほうは?」

「左様……」

 珊釵の隣に立った伍先生は、胸の前で大きな鏡を構え、それを順繰りに四方へと向けている。

「いくつもございますな」

「ある? あるとおっしゃったか?」

「あるといえばありますな。ありすぎです」

「ありすぎ……とは?」

 伍先生が持つ銅鏡は、天界から借り受けてきた武宝具の一種で、これをかざせば人ならざるものの存在が影となって映るという代物である。ラーフ軍の残党を捜している珊釵にとっては、労働意欲のとぼしい弟弟子よりよほど頼りになるといっていい。

「――この鏡が見通すのは、大雑把にいって人ならざるもののみ。現にこの場でもっとも強い反応をしめしているのは、これこの通り、鎮嶽星君どのでございます」

 そういって伍先生が向けてきた鏡には、相も変らぬ仏頂面の珊釵が映っている。鏡の縁に刻み込まれた紋様がやたらと光を放っているのは、間近にいる珊釵にこの鏡が反応しているということだろう。

「妖魔神仙見境なし、か……」

「この蘇州には五〇万もの人間が住んでおります。その中には、人間に身をやつしてひっそりと暮らす仙人もいれば、私のように天界からお役目を授かった神も交じっております。それこそ雑踏にまぎれて息を殺しているラーフ軍の残党もいるやもしれませんし、その何倍もの数の魑魅魍魎もおりますでしょう。……となれば、こういったもので捜し出すのは簡単ではないのでは?」

「考えてみればそれもそうか……道理でこれを借り受ける時、統帥府の担当が微妙な顔をしておったわけよ」

 溜息をつき、珊釵は頬杖をついた。

「……魔仙妖怪が人にまぎれて暮らすのは難しいかと思っておったが、どうやらそうでもないらしい」

「むしろこうした大きな街のほうが、隠れひそむには都合がよいのかもしれませんな」

「本官の不勉強であったな」

 もうひとつ溜息をついた珊釵は、ふと伍先生を見上げ、

「……本官はさほど下界のことには詳しくないゆえ、上から、先生がこの街の顔役のようなものだと聞かされてはおっても、先生が何者なのかということは存じ上げぬ。……不躾を承知でお尋ねするが、先生は土地神でも城隍神でもないのか?」

「それはまあ……ここの城隍神は先日あいさつにやってきた張三郎という者です。よその土地には、私のような立場の者はあまりおらぬでしょうな」

 伍先生は珊釵の隣に腰を下ろすと、そこそこ大きな鏡をあっさりと袖の中にしまい込み、代わりに大きな瓢箪と杯をふたつ取り出した。

「お役目の最中ではございますが、ま」

 眉をひそめて袖の中を覗こうとする珊釵をよそに、伍先生は彼女に杯を差し出し、瓢箪の酒をついだ。

「ありていに申し上げれば、私はただの亡者です」

「……判らぬな。亡者には今のような芸当はできぬと思うが?」

「私は土地神でも城隍神でもございませんが、まあ、天界から神のはしくれに封じられているという意味では彼らと似たようなものです。肩書としては、長江のちょうかみということになっておりますな」

「潮神? ついぞ聞いたことがないが……どのようなお役目なのだ?」

「いえ、実はこれが肩書だけの無役でして」

「お役目がない? だが、名前からして潮の満ち引きをつかさどるような――」

「それは龍王のお役目でしょう」

 いわれてみれば確かにそうだった。およそ下界における水域の大半は、四大龍王をはじめとした龍神たちの管轄だと聞いたことがある。

 珊釵の杯にまたあらたに酒をそそぎ、伍先生は語り出した。

「――私が生まれたのは、かれこれ今から一六〇〇年ほど前のことです。この大陸がまだいくつもの小国に分かれて相争っていた時代……といって通じますかな?」

関帝かんていが人として生きておられたのが三国時代ということくらいは存じておるが……確かあれが一〇〇〇年ほど前ではなかったか?」

 関帝とはかんせいていくん、すなわち三国時代の英雄、かんのことである。下界のことにはさして興味のない珊釵も、天軍の重鎮である関帝のことは知らないではすまされない。

「ま、おおむねそのような感じです。三国時代でいえば、このあたりは呉の国……そして私が生まれた時代でも、やはり呉という国がございました」

「ああ……つまり先生のふるさとなのだな、ここは?」

「いえ、まったく違います」

「は?」

 伍先生の言葉に肩透かしを食らい、珊釵はあやうく杯の酒をこぼしそうになってしまった。

「私はもっと南のほうで生まれたのですが、紆余曲折あって呉の宰相となり、闔閭こうりょ夫差ふさと二代の王に仕えたのですよ」

「優秀なのだな、先生は」

「いやいや、最後は結局、自死を賜ることになったわけですから、晩節を汚したということになるのでしょう」

「自死を賜った? しかし宰相になったというからには、先生は呉の国の功臣なのであろう?」

「そこはまあ……有能な先代に見出されたが、無能な二代目にはうとまれた、と申しますか」

「ほう?」

 先生の語り口に、珊釵も思わず身を乗り出し、くいくい杯をかさねていた。

「呉の南には宿敵とも呼べるえつの国がございましてな。闔閭は越との戦いで命を落とすことになり、私の後押しもあって、夫差が王位を継いだのでございます」

「ふむ」

「夫差にとって越は父の仇、民にとっても王の仇ということで、臣民心をひとつにして呉は見事に越を撃ち破りました。ここでさっさと越王にとどめを刺し、越を亡ぼせばよかったのですが」

「……さらりと物騒なことをおっしゃるな、先生」

「私はそのせいで死ぬはめになったわけですから、恨み言のひとつも出てまいります。暗愚な夫差は、越から送り込まれた美女にあっさりと籠絡され、越王を許し越も滅ぼさなかったのですぞ? ありえません」

 先生はぼやくようにいいながら、袖の中から瓜の薄切りを芥子漬けにしたものを取り出した。唯一、珊釵が天界より下界のほうがいいと思えるのは、こうした多種多様な食べ物があるところだろう。

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