第一回 蘇州の春 ~第五節~

「邪魔っ気だなあ。……ねえ、きみの神通力でどうにかしてよ」

 うんざり顔を隠そうともせずに星秀がいうと、張三郎は肩をすくめ、

「神通力とおっしゃられましても、あっしら城隍神にできそうなことといえば、せいぜい突風を吹かせてあの船を端のほうへ押しやることくらいでして……それに、どうやらただの喧嘩というわけでもなさそうですぜ?」

「は?」

「行く手をふさいでるほうに乗ってるのは確かに人相の悪そうな酔っ払いどもですが、もう一方に乗ってるのは女が三、四人ばかり……どうやらどこぞの奥方が従者を連れてお忍びで出てきたところに、ごろつきどもが難癖をつけてるようで」

「奥方!?」

「ようござんす、神通力なんぞなくとも、これでもあっし、生前はなかなかの腕っ節で鳴らしたもんです。ここはひとつ――」

「いやいやいや」

 女たちが難癖をつけられていると聞いた瞬間、星秀はすぐさま立ち上がり、腕まくりをしている張三郎を押しのけて船縁を蹴っていた。

「星君さま!?」

「男同士の喧嘩になんて興味はないけど、女性を助けるなら僕の領分だろ!」

 二丈ほどの距離をひと息に跳躍し、星秀は男たちの画舫に乗り移った。

「わおぉ!?」

 唐突な揺れに、男たちが慌ててたたらを踏む。この船に乗っているのは船頭も含めて屈強な男が六人――さらにもうひとり、女たちの画舫に乗り込み、あちらの船頭を運河に叩き落としている男もいた。

「なっ、何なんだ、小僧!?」

「いきなりどこから現れやがった!?」

 星秀に気づいた男たちは、そう叫ぶなり懐から匕首ひしゅを抜き放った。

「……?」

 しょせんは人間、彼らが匕首を抜こうが槍を持ち出そうが、神将である星秀にとっては何の脅威にもならない。ただ、ごろつきどもが酒に酔って不埒なふるまいにおよんだというには、その動きにまったく遅滞がないのが気になった。正体はともかく、下界の人間からすれば身なりのいい少年にしか見えない星秀が邪魔に入ったとたん、全員が揃って刃物を抜いてかかってくるというのは、いささか腑に落ちないところがある。

「……そもそもこいつら、酔ってなくない?」

 いうほど酒の匂いがしないことをいぶかしみながらも、星秀は懐から引き抜いた扇子を振るい、突きかかってきた男の手首を打ち据えた。

「いぎ――っああ!?」

 苦痛のあまり匕首を取り落とした男を、軽く手で押して運河に突き落とす。どのみち最初の一撃で手首の骨は折れているはずだから、もはや戦力に数える必要もない。

「てめえ――」

「不安定な船の上で暴れないほうがいいと思うけどね」

 それなりに広いとはいえ、あくまで画舫の上である。一度に襲いかかれば星秀に逃げ場はないと思ったのかもしれない。しかし、男たちと星秀とでは、そもそもの身のこなしに差がありすぎた。

「男が僕に触ろうとするなよ。無礼だぞ?」

 突進してきた男の匕首をかわしざま、衣の裾をまくって無造作な前蹴りを繰り出す。それをまともに食らった男は、すぐ後ろにいた仲間を巻き込んで船から転げ落ちた。残りの男たちも、逆にみずから踏み込んでいった星秀の素早さに追いつけず、手にした白刃もむなしく空を切るばかりで、次々に運河へと落とされていく。

「……で、どうする?」

 軽く髪をかき上げ、星秀は最後にひとり残った船頭を見つめた。

「は、わ……!」

 自分が乗せてきた男たちが運河であぶあぶしているのを目の当たりにした船頭は、言葉で答えるより先に笠を脱いでみずから水の中に飛び込んだ。星秀にひっぱたかれて落とされるよりはましだと考えたのだろう。

「きゃあああ!」

 画舫にいた男たちをあらかた片づけてひと息ついた星秀の耳を、甲高い女の悲鳴が打った。見れば、あちらの画舫に乗り移っていたごろつきのひとりが、座敷にいた身なりのいい美女の袖を掴み、強引に引きずり出そうとしている。

「おいおいおい、女性のあつかいがなってないな」

 眉間にしわを寄せ、星秀は舌打ちとともに扇子を投じた。

「ぐっ!?」

 星秀にすればかなりの手加減をした一撃だったが、男からすれば後頭部を殴りつけられたようなものだったのだろう。男は美女の袖を放し、自分の頭を押さえてその場にうずくまった。

「ほら、お仲間が待ってるだろ?」

 その間に女たちの画舫へ乗り移った星秀は、男の帯を片手で掴んで放り投げた。

「あ……」

 間が抜けた声をもらしたのは、それを見ていた美女おつきの侍女だったのかもしれない。星秀に手で投げ飛ばされた男は、運河の水面で小石のようにいったん大きく跳ね、それから派手な水飛沫とともに水中に没した。

「綺麗なご婦人がたが夜の盛り場に繰り出すなら、信頼できる用心棒のひとりふたりは連れていたほうがいいと思うけどね? たとえばこの僕みたいな――」

 その場にへたり込んでしまっていた美女の手を取り、助け起こしてやった星秀は、いつもなら必要以上に饒舌に動くはずの口を不意に閉ざした。

「あ、ありがとうございます」

 美女は髪と衣の乱れを直し、星秀に向かってふかぶかと一礼した。そしてもう一度彼女が顔を上げた瞬間――。

「…………」

 年の頃ははたちほどか、下界ではなかなかお目にかかれない美女だったが、星秀がもっとも目を惹かれたのはその瞳だった。夜空を思わせる深い群青色に星の輝き、それが自分をじっと見つめていることを自覚したその時、何ともいえない奇妙な感覚に襲われて、星秀はもっとも呉星秀らしからぬ行動に出てしまった。

「そ、それじゃあ僕はこれで!」

「あっ? あの、どうかお名前を――」

「通りすがりの美少年だよ、見れば判るでしょ!」

 そういい置いて、星秀はすぐさま自分の舟へと飛んで戻り、張三郎をせっついた。

「おい、早く舟を出せ。ここから離れるんだ」

「いいんですかい? あの奥方、星君どのにお礼がしたいとおっしゃってやすが……」

「いいから早くしろって!」

「へ、へい」

 いわれるままに、張三郎が竿を突いて舟を動かす。遠ざかっていく画舫の船縁では、先ほどの美女が星秀を見てものいいたげな顔をしていたが、星秀はそれを直視することができなかった。

「いったいどうなさったんです?」

 とっぷりと日も暮れ、どこかの座敷から華やかな音曲が流れてくる。いかにも蘇州らしい夜の運河に舟を進めつつ、張三郎はいった。

「――さっきの調子なら、きっとあの奥方、星君さまを屋敷に招いて下にも置かぬもてなしをしてくれたと思いますがねえ」

「…………」

 張三郎はそういったが、星秀は何もいわなかった。

 身なりからして、確かにさっきの美女はどこかのお大尽の奥方だろう。髪型や髪飾りをはじめとして、華やかなよそおいの中にもそれなりの落ち着きが見られたのは、彼女が未婚の娘ではない証拠だった。

 ただ、星秀がすぐさま美女のもとから離れたのは、彼女に夫がいたからではない。相手が既婚だろうと未婚だろうと、気に入ったのなら口説くのをためらわないのが星秀という少年である。

 まして、向こうが星秀に恩義を感じてもてなしてくれるというのなら、ふだんなら決して断らない。下界に住む人間とはいえ、あの美女は星秀の眼鏡にかなう美貌の持ち主だった。

 にもかかわらず、星秀が彼らしくもなくうろたえ気味にあの場から立ち去ったのは、自分を見つめる美女の瞳にどことなくざわつくものを感じたからだった。

「……ねえ」

 瓢箪の酒で口を湿し、星秀はいった。

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