第一回 蘇州の春 ~第四節~

「なるほど……」

 たくみに竹竿をあやつりながら、老人は感心しきりといった様子でうなずいている。城隍神になったとはいえ、少し前まではただの人間だった彼には、天界の行政構造が判らないのも無理はない。偉そうに説明している星秀ですら、実をいえばさほど詳しくはないのである。

「――で、亡者のきみの将来に影響するっていうのはどういうことなの?」

「ああ、それがですねえ、あっしが城隍神になったばっかりの時に伍先生からご助言いただいたんですが、任期の五〇年をつつがなく勤め上げれば、生まれ変わりの際に何かしらの優遇措置が受けられるとかで――」

「優遇措置?」

「へえ。たとえば金持ちの長男に転生するとか、絶世の美女に転生するとか……判りやすいところでいえばそんな感じでして」

「ああ……そういうことか」

 ふつう、死んだ人間が別の人間に生まれ変わるまでの期間は、生前の善行と悪行によって変わってくる。善行が多く悪行が少ない死者は、転生するまで冥府ですごす期間が短くてすむし、逆に悪行ばかりの死者は地獄に送られて長く苦しむはめになる。そして、いちじるしく善行の多い死者であれば、転生までの待ち時間が短い上に、かなりめぐまれた境遇に生まれ変わることができるのである。

「要するに、問題を起こさずに任期を勤め上げればいい天下り先を紹介してもらえるってわけだ?」

「判りやすくいえば、ま、そんなところで……」

「それじゃせいぜい僕の手伝いをがんばることだね」

「へえ」

 ぺこりと頭を下げた張三郎は、運河の底に竿を突き、花びらの舞う運河に舟を進めた。


◆◇◆◇◆


 簾つきの牛車に揺られていた王楽嬰おうがくえいは、ふと目を開けて膝の上に視線を落とした。

 楽嬰は膝の上に水を張った大きな白磁の皿をかかえていた。その上には孔雀の尾羽が一本、沈むことなく浮かんでいる。水鏡に映った怜悧な美貌の上で、尾羽が静かに波紋を描き出していた。

「楽嬰さま、これは――」

 牛車に同乗していた峰児ほうじが、くるくると回転し始めた尾羽を見て押し殺した声をもらした。

「――停めよ、穿山」

「は」

 楽嬰が簾越しに声をかけると、牛方役の司馬穿山が低い声で応じ、牛車を停めた。

「ここはどのあたりか?」

「……らくきょうそばのとうぼうです」

 数十万の人口をかかえる蘇州にあっても、豪奢な屋敷が建ち並ぶこの界隈は閑静な空気に支配されている。人間たちの猥雑さが浮き彫りになる盛り場からも遠く離れており、ときおり聞こえる鳥の声がいっそのどやかでさえあった。

 じっと水鏡を見つめていた楽嬰は、

「……右手にある屋敷の住人が何者か、聞いてまいれ」

「しばしお待ちを」

 穿山の足音が遠ざかっていく。かたわらの羽扇を取ってゆるゆると空気をかき混ぜていると、橙色の男物の衣に身を包んだ峰児は、ごくごく小さな声で、

「あのヤローじゃ道を尋ねただけで相手がビビっちまうんじゃないですか? ここはウチが乗り込んでって有無をいわせず――」

「峰児」

 威勢のいいことばかりいう峰児を横目に睨みつけ、楽嬰は羽扇をひと振りした。

 蓮っ葉な言葉遣いに加えて男のなりはしているものの、世間の尺度でいえば、峰児はまぎれもなく美少女だった。ただ、それが峰児の生意気さをより際立たせているともいえる。

「……その者がわたしが求める女だとはっきりするまで、目立つことはならぬ」

「は、はい……?」

「数日来、夜空に妙な光をたびたび目にする。おそらく天界の神将どもであろう。今はまだあやつらに嗅ぎつけられてはならぬのだ」

「でも、そんな奴ら楽嬰サマなら――何ならウチが始末をつけたって」

「…………」

 冷ややかなまなざしで峰児を黙らせた楽嬰は、簾の隙間に指を差し入れて押し広げ、外の様子を窺った。

 道に沿って白い壁が続いている。どこまで伸びているのか、端のほうは見えない。かなり大きな屋敷のようだった。

 そこに穿山が戻ってきた。

「聞いてまいりました」

「それで?」

「……こちらはとう家の屋敷です。蘇州でもなかなかの素封家ですが、当主はすでに鬼籍に入っており、今はその未亡人がわずかな小間使いや下男たちと住んでいるとのこと」

「そうか……その中に、今年一九になる女はいるか?」

「小間使いたちはまだほんの小娘ばかりですが、その未亡人が来年はたちだという話ですので、おそらくは――」

 穿山がぼそぼそと報告するのを聞いて、楽嬰は満足そうにうなずいた。

「峰児」

「は、はいっ?」

「この屋敷の女主人とやらをまん寿じゅきゅうに連れてまいれ。――先ほどもいったが、決して目立たぬようにな」

「め、目立たぬよーに……?」

「裏でわたしが手を引いていると知れぬようにだ」

「……楽嬰さま」

 牛車のそばにひざまずいていた穿山が、簾越しに上目遣いで楽嬰を見上げていた。

「峰児ではどうやっても波風が立つはず……どうかご再考を」

「は!?」

 穿山の言葉に峰児が腰を浮かせた。

「――テメー、余計なこといってんじゃねー! ゴサイコーとかバカかよ!? ウチが楽嬰サマのご命令に逆らうわけねーし!」

「峰児」

 みたび峰児を睨みつけて黙らせた楽嬰は、小さく嘆息して続けた。

「手柄を立てたいというおまえのたっての望みを聞いてこの役目をあたえるのだ。しくじればどうなるか、判っておろうな?」

「は、はいっ!」

 がばっと一度平伏し、峰児はすぐさま牛車を飛び出した。

「おいテメー、ちゃんと楽嬰サマを万寿宮に無事にお送りしとけよ?」

「……貴様こそ、こういう場で楽嬰さまの名を大声で口にするな。お忍びの意味も判らんのか?」

「と、とにかく判ったな!? ――それじゃ楽嬰サマ、キッポーをお待ちください!」

 そういい置いて、峰児は小走りに駆け去っていった。

「……よろしいので?」

 轡を取って牛車を先導し始めた穿山が、低い声で楽嬰に尋ねた。

「あの女は気が逸りすぎるところがあります。このような細かく気を配る必要のあるお役目には不向きかと」

「わたしから見れば、逸りすぎてしくじる峰児も、慎重になりすぎて前に進めぬおまえも同じようなものだ。峰児に向かぬというなら、なぜ自分がやるといわぬ?」

「それは……」

「何かをやってしくじる者と、しくじる以前に何もせぬ者……わたしがどちらを重用するか、今一度よく考えてみることだな」

 楽嬰が冷たく告げると、穿山はそれきり口を閉ざした。

「わたしは、あの女が何のはたらきもなくただ愛されていることが何よりも許せぬのだ。何の功もないくせに――ただいるだけで愛されるとは、理不尽の極みではないか」

 羽扇をぎゅっと握り締め、楽嬰は怨嗟の呟きをもらした。


◆◇◆◇◆


 日が暮れるにつれて、運河沿いの商家の軒先に赤い灯籠がともり、川端の柳の緑をほのかに照らし出していた。

 結局、この一刻ほど、星秀は張三郎のあやつる舟に揺られ、酒をちびちび飲んでいただけだった。

「そりゃまあ、川遊びをしているだけで賊が見つかるってのは……さすがに虫がよすぎる考えじゃありやせんかねえ?」

「いやいや、これも哨戒任務の一環だよ、一環。もし師姐や先生に聞かれたら、僕はちゃんと賊を捜してたって答えるんだぞ?」

「そりゃまあ……って、おや?」

「ん? どうしたのさ?」

「いえ、あれを」

 星秀たちの乗った舟の行く手に大小二艘のぼうがただよっていた。大きいほうの画舫が小さいほうの画舫の舳先を押さえ、その行く手をふさいでいるように見える。

「やれやれ……まだ日も暮れたばかりだっていうのに、酔っ払い同士の喧嘩かい?」

 画舫とはいわゆる座敷船のことである。おだやかな流れの川や池、運河に浮かべてその中で酒を楽しむための船で、数多くの運河を持つ蘇州ではごくありふれたものだった。加えて酒が入ればおのずと気が大きくなり、船同士がぶつかっただの何だの、喧嘩が起こるのも道理なのかもしれない。

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