第一回 蘇州の春 ~第三節~
ぼそぼそとそう語る少女は、床にめり込んだ円盤状の盾をみりみりと引っこ抜き、右腕に取りつけた。敵の攻撃を防ぐというより、敵に投げつけて粉砕する投擲武器として活用される武法具、その名も
星秀は天井に張りついたまま、年下にしか見えない姉弟子にうったえた。
「お、下りてこいって――嫌ですよ、絶対! 下りてったらまたそれで叩くつもりなんでしょう? そうだ、そうに決まってる!」
「当たり前であろう? 本官がたった今、貴様に喝を入れてやろうと申したばかりであろうが? ささ、はようはよう」
「はっ、はようはようじゃないでしょう!? 師姐のやり方で喝なんか入れられたら、代わりに魂が抜けるじゃないですか!」
「……相変わらず聞かぬ小僧だな」
少女の手もとでじゃらりと鎖が鳴った。霜華月輪は、その本体が頑丈な鎖によって少女の籠手とつながれており、投げてから振り回したり、手もとに引き戻したり、変幻自在の攻撃ができると聞いている。少女があれをぶるんとひと振りすれば、この豪奢な楼閣も一瞬で崩壊するだろう。
卓の上に広げていた茶器をそろりと下げつつ、伍先生が低い声でいった。
「おふたりとも……できますれば、そういったことは雲の上でやっていただけるとありがたいのですが」
「すまぬな、伍先生。なるべく一撃ですませるゆえ」
「ち、鎮嶽星君どの……ここは天界ではなく下界ですぞ?」
伍先生の顔に焦りの色が浮かぶ。が、今のやり取りを聞いていた星秀は顔色を変えるどころではなかった。
「じょっ……冗談じゃないよ、この暴力女! 僕が女性に寛大な心やさしき美少年だったことに感謝するがいい、するがいいともさ! でなきゃ今頃、きみなんか半死半生になってるぞ!?」
「いうではないか。ならばその実力、本官にも見せてみよ」
「ちょ――」
少女が丸盾を振りかぶるより早く、星秀は天井を蹴って窓の外の欄干の上に移動し、そこからさらに大きく飛んだ。
「――待て、星秀!」
少女が欄干から身を乗り出して叫んだ時には、すでに星秀は
「ふん……さすがの鎮嶽星君どのだって、雑踏に向けてあんな物騒なものはブチ込めないだろ」
姉弟子の脅威から逃れた星秀は、ほっと安堵の吐息をもらして衣の乱れを直した。
ふだんの星秀は、玉帝から拝領した紅玉の鎧姿でいることが多いが、さすがに蘇州の雑踏の中でそんな恰好をしていては目立ちすぎる。だから下界での星秀は、仕立てのいい裾の長い衣をまとい、長い髪を紅玉の簪で結い上げていた。供も連れずに屋敷からひとり抜け出してきた、どこぞの金持ちの御曹司といった風体である。
人混みの中ですれ違う娘たちが、自分の背中にじっと熱い視線を送っているのが星秀にも判る。しょせんは人間、と思う一方で、それはそれで少し誇らしい。
「ふふん……超絶美男子の僕に見惚れる気持ちは判るよ、判る。判りすぎるほどに判るよ。まあ、きみたちにとっては高嶺の花なんだけどさ」
さまざまな店が軒を連ねる通りで、星秀は清酒を瓢箪ひとつぶん買い求めた。神仙の身である星秀にとって、金銭というのは思いのほか縁遠いものだが、下界で活動する間は何かと必要になるだろうと、伍先生からこづかいをもらっていたから、懐はまったく痛まない。酒を買うついでに、親の手伝いをしていた店番の少女に少し多めに心づけをくれてやった星秀は、小さく微笑みかけて少女の頬を赤らめさせると、瓢箪を腰に下げて運河の岸辺へと降りていった。
「さて――」
南斗星君としては先輩、それを差し引いても同門の姉弟子に対してあれだけの悪態をついた挙げ句、その眼前から逃亡してぶらぶら遊んでいたとなれば、あとあとまた面倒なことになりかねない。ここは形だけでもはたらいていたということにしておかなければなるまいと、星秀は橋の下でこつこつと靴を鳴らした。
「おい、出てきてくれ」
「……へい」
星秀の呼びかけにこたえて、橋が落とした影の中からひとりの老人が姿を現した。数刻ほど前、星秀の乗る舟の竿を握っていた、あの笠の老人である。確か名前は
「これはこれは大理星君さま。……どうやらご無事だったようで」
「無事じゃないよ。おかげで身長が半寸は縮んだよ、確実に」
姉弟子のかかとを食らったあたりを撫で、星秀は肩をすくめた。
「ところで、また舟を出してもらいたいんだけど」
「へえ? こりゃまた懲りねえおかたで……」
「これも仕事のうちさ。警戒任務だよ、警戒任務。もしかしたら、凶悪なラーフ軍の残党が蘇州の雑踏の中にまぎれ込んでるかもしれないからね。夜の盛り場を中心にねっちりじっくり探索しないと」
「……左様ですか。ようございます」
どこかしらじらしい空気とともに頭を下げた老人が、懐から取り出した笹の葉を運河の水面に浮かべると、たちまちそれは一艘の小舟に変じた。川岸の通りを行き交う人々の中に、さりげない今の奇跡に気づいた者はいない。
小舟に乗って竿を取った張三郎は、笠をかぶって溜息をついた。
「……あっしがここの城隍神になってまだ一〇年にもなっとりませんが、こんなことは一度もございませんで、妖賊の残党がどうのとおっしゃられちゃあ、気が気でないんでやすがねえ」
城隍神とは、いわばそうした巨大な街を見守る神のことである。管轄しているのが街であれば城隍神、それ以外の場所なら土地神ということになるが、いずれにしても、神仙としての地位でいえば一番の下っ端といっていい。その土地で死んだ亡者たちの中から、生前のおこないがよかった者が任命されることが多く、この張三郎も、もとは蘇州に住んでいた竹細工職人だったという。
「
「将来っていったって、きみは亡者だろ?」
船縁に寄りかかるようにして座り込み、長い髪の毛先を整えながら、星秀はあくび交じりに呟いた。
「は? 南斗星君さまというのは、人の生き死にをつかさどるとお聞きしやしたが……ご存じないので?」
「何をさ?」
「いえ、人の生死をつかさどる南斗星君さまなら、てっきりあっしらの生まれ変わりの仕組みもご存じなのかと……」
「ああ、知らない知らない」
伍先生の屋敷からいただいてきた瓢箪の酒をあおり、星秀はひらひらと手を振った。
「――南斗は生をつかさどり、北斗は死をつかさどる! とかいうとカッコいいけどさあ、それっぽい実務は専門の文官たちがやってるんだよね、南斗星君府って役所で。持ち回りで役所に詰めてる同僚もいるけど、僕はそういうのやったことないし」
「左様でございましたか」
「結局、南斗と北斗の星君たちの本業っていうのは、うーん……特殊部隊? みたいなもんなんだよ。大軍を動かすまでもない事件とか、逆に大軍を動かせない隠密作戦とかに駆り出される精鋭中の精鋭なわけ」
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