第一回 蘇州の春 ~第一節~
天の神々たちが住まう浮遊大陸――俗に天界と呼ばれる空に浮かぶ島の一角にそびえる
「以前から思っていたのですが――」
その日、兜率宮を訪ねてきた
「誰かもうひとりふたり、侍女を置いてはどうです? 老君の身の回りの世話をするのに
「侍女? 別にいらんじゃろ」
古ぼけた書物をかさねて踏み台にし、それに乗って書架の最上段に手を伸ばしていた老人は、太白の言葉に鼻を鳴らした。
道教の祖、いわゆる老子として人々の尊崇を受ける老君は、下界に流布している絵姿そのままの、ずんぐりとした体躯の白髭の老人である。が、よもや彼らも、現実の老君が短気で癇癪持ちの偏屈な老人とは思うまい。
書架と天井の間にはさまっていた書物をどうにか引っこ抜き、踏み台からひょいと飛び降りてきた老君は、腰をぽんぽん叩きながら嘆息した。
「――兜率宮なんぞといっても、実際には少々広いだけの屋敷じゃからな。内向きのことをするだけならさほど人手はいらんわい。
「そうはおっしゃいますが……」
袖をまくって書物の山を運んでいた太白は、書庫の中をぐるりと見渡し、そこで言葉を途切らせた。
確かに老君の兜率宮は、たとえば
にもかかわらず、現在この兜率宮には、その主人たる老君のほかには、彼の孫娘ともいうべき仙女――李淑芳しか住んでいない。老君の生活能力がほぼ皆無にひとしいことを考えれば、老君の世話も含めて、この兜率宮のすべてを淑芳ひとりで管理しているも同然だった。
何かと気難しい老君の世話だけでもたいへんなのに、加えてこの屋敷のすべてをひとりで切り盛りするのは、さすがに家事全般を得意とする淑芳にとっても荷が重いように思える。
「お気遣いありがとうございます。でも、心配はご無用ですわ、太白さま」
まるで出番を見計らっていたかのように、淑芳が盆を捧げ持ってやってきた。
「
そういって、淑芳は庭先の
「それに、誰かお手伝いの子をここに入れたとしても、三日ともたずにみんな逃げ出すに決まってますし」
「それはまあ……ありえないことではないな」
「……何じゃ、太白? なぜそこでわしの顔を見る?」
「いえ、老君も特にお困りではないのかと思いまして……」
「まあな。人手が必要な時は、ほれ、こうしておぬしを呼びつければよいだけのことじゃし」
「私は力仕事は苦手なんですがね」
すでに四阿には香りのいい茉莉花茶が用意されていた。その隣では淑芳お手製の胡麻団子が湯気を立てている。
椅子に腰を落ち着け、茶碗に手を伸ばした太白は、すべての扉を大きく開け放たれた書庫と、虫干しのために庭先に並べられている本の山を見やった。
「……せめて
「呼ぼうとは思ったんじゃがな」
「おふたりとも任務で留守だったんです」
老君の言葉を引き継ぎ、淑芳が説明した。
「緑麗さんは何かの使者として
「ああ……ひょっとすると、例の件か」
「何じゃ、何か知っておるのか、おぬし?」
「いえ、私も小耳にはさんだ程度ですが……何でも、下界のあちこちで古い廟が荒らされるという事件が立て続けに発生していると、各地の土地神たちからのうったえがありまして」
「古い廟?」
「ええ。管理する者のいなくなった廟や道観が、何者かによって次々に荒らされているらしく……」
茶をひとすすりし、太白は茉莉花の香りのする溜息をもらした。
「荒らされるって、どういうことです? 何かが盗まれたということでしょうか? それとも廟が破壊されたということですの?」
「何かを家捜しした痕跡があるらしいのだが……そもそも、被害に遭ったのはどこも盗むものなどないような荒れ果てた廟ばかりだからな」
「ふむ……ただの盗人の仕業とも思えんな」
もにゅもにゅと胡麻団子を頬張り、老君は首をかしげた。
そもそも犯人が人間であれば、土地神たちがすぐにそれと気づく。何なら犯行の途中でそれを阻止するくらいはできるだろう。にもかかわらず、どの案件でも、土地神たちが気づくのは犯行がすでに終わったあとだという。
「――十中八九、犯人は人間ではないでしょう。各地の土地神たちも、それに気づいたから奏上してきたのでしょうし……」
「どこぞの妖怪、さもなければ不良仙人の仕業か……何が目的なのか判らんのはちと不気味じゃのう」
「ラーフに加担した邪仙妖魔の残党どもは、まだその大半が下界のあちこちに潜伏している状態ですからね。そういう連中が何かをたくらんでいるという可能性も捨てきれません」
災厄の権化たる
「――とにかくそういうこともあって、現在は下界の警戒を強化している最中なのですよ。姉上に聞いたわけではありませんが、おそらく星秀も、一連の事件の調査という名目で下界に送られたのでしょう」
「まあ、犯人の目星もついておらぬし、目的も何も判らん以上、今は
「老師ったら……玉帝陛下をくそじじいだなんておっしゃって、不敬罪でうったえられても知りませんわよ?」
「わしはくそじじいとまではいっておらんが」
「老師、太白さまやわたしのぶんのお団子まで食べたらひっぱたきますから」
両手に団子を掴んでむしゃむしゃやっている食い意地の張った老人を押しのけ、淑芳は太白の隣に腰を降ろした。
「――そういえば確か星秀さん、今度の任務は姉弟子といっしょだから余計に気が重いとぼやいてましたけど」
「ああ……だとしたら確かにぼやきたくもなるだろうな」
太白は大仰に溜息をつく星秀の顔を想像してくすりと笑った。
「わたし、存じませんけど、星秀さんの姉弟子ってどんなかたなんですの?」
「星秀にとっては一番の天敵だ」
そう即答し、太白は茶をすすった。
「――星秀の師匠は彼のご尊父、先代の
「あら、何だか鳳月さんと似てますわね」
「確かにそうだ。
有事に玉帝を守る北斗星君と南斗星君は、それぞれ北斗の七つ星、南斗の六つ星の化身である。そのうちの南斗六星を形作るのは、
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