浪子知恋於蘇州

嬉野秋彦

第〇回 三宝浪子の受難




 天軍の神将じんしょうである星秀せいしゅうが人里に下りてくることはめったにない。

 といって、別段、山奥で隠遁生活を送っているわけでもない。そもそも、人里はおろか人の世に下りてくること自体が珍しいのである。上役から任務でもあたえられないかぎり、凡人に身をやつして下界をうろつこうとも思わない。

 判りやすくいえば、星秀は下界の人間に興味がなかった。

「まったく……天軍にその人ありと謳われたこの星秀さまがさ、何が哀しくてこんな人間だらけの街で地味な任務なんか……」

 運河に浮かべた小舟に横たわり、腕を枕に空を見上げていた星秀は、鼻先に舞い落ちてきた桃の花びらをふっと吹き飛ばした。

「……ま、蘇州そしゅうの春は悪くないけどさ」

 まだ冬の厳しさが居座っている華北と違い、江南の春にはしっとりとしたあたたかみがある。人々の心もそぞろ浮き立つようなこの季節に、岸辺はみずみずしい紅緑によっていろどられ、吹く風にもかぐわしい香りが混じっていた。人の世にさして興味のない星秀にも、そんな江南の春の美しさは好ましく思える。星秀の生まれ育った天界には、そもそも四季の移ろいというものが存在しない。鶯の声ひとつにしても、天界にいては耳にすることのできないものだった。

「それにしても熒惑けいわくさまはアレだね、うん、もう少し柔軟に人材運用をすべきだよ。適材適所っていうか……ああもう嘆かわしい、嘆かわしいよ、ホントに」

「あの~……本当によろしいんで?」

 小舟の竿をあやつっていた老人が、星秀の顔色を窺うように口を開いた。

「――こんなことがあのおっかないお嬢さまにばれたら、あとでこっぴどく叱られるんじゃぁ……?」

「きみが告げ口しなきゃばれっこないよ、ばれない、ばれないともさ」

「そりゃああっしは告げ口なんて真似はしたかぁありやせんがねえ。……けど、あっしだって宮仕えの身ですぜ?」

 老人はかぶっていた笠をはずし、まぶしげに空を見上げた。

「上役から詰問されれば、まあ……」

「正直に報告せざるをえないって? 大丈夫だよ」

 春の陽射しは心地いいが、昼寝をするには少しまぶしすぎる。星秀は愛用の扇子を開き、日よけ代わりに顔の上にかざした。

 もともとあまり乗り気のしない任務である。同僚の目をかすめ、こうして暇を潰しているのも、これが自分にふさわしいお役目ではないという意識があるからだった。

「……そもそもさあ、鶏を割くのに牛刀をうんぬん、てあれだよ。僕が出向くほどの任務じゃあない。そうとも、そうともさ」

 あくび混じりにひとりごちた時、扇子越しに星秀の視界を淡い影がよぎった。

 水郷の街である蘇州には無数の運河が張りめぐらされ、そこに架かる大小の橋の数は一〇や二〇どころではあるまい。舟に揺られながらそれらを眺めるのもこの街の楽しみのひとつというが、さしあたって今の星秀には酒のほうが重要だった。

「おい」

 星秀は老人にいった。

「――どこかそのへんの酒家につけてくれ。安い店じゃない、ちゃんとした座敷があって、綺麗なおねえさんがお酌をしてくれる店だぞ?」

「とおっしゃられても、まだ日も傾いてやせんが……」

「この街になら、昼間から飲める店くらいいくらでもあるだろ?」

「そりゃあね、あるにはありやすが……そいつはさすがにお控えになったほうがよろしいかと」

「きみねえ、この僕を誰だと思ってるわけ? 顔よし、腕よし、頭よし! 三拍子揃ったさんぽうろうとは――」

 扇子をたたんで身を起こそうとした星秀の目に飛び込んできたのは、舟の舳先に立って自分を見下ろしている少女の姿だった。

「こっ……」

 星秀は目を見開き、次いでその目をあらぬほうへとさまよわせた。

「……どうした、星秀?」

 不安定な足場にもかかわらず、少女は平然とそこに立ち尽くし、冷ややかな瞳で星秀を見つめている。しばし絶句したあと、星秀は慌てて船底に正座した。

「こ、これはこれは……こう師姐しそではありませんか。どうしてこのようなところへ?」

「どうして? どうしてだと? 本官たちがなぜ下界に来ているか、よもや忘れたとは申すまいな? 貴様、正気か? 重ねて尋ねるが、よもや本気で忘れたなどとは申すまいな?」

 陰鬱にくぐもった声で、しかもやたら早口でつむがれるせいで、少女の言葉はひどく聞き取りにくい。が、そのことへの不満をそのままぶつけることもできず、星秀は慌てて首を振った。

「い、いえ、そういう意味ではなく……さしあたり、こまごましたことは僕に一任いただいたはずなのに、なぜここに師姐がいらっしゃったのかと――」

「なぜであろうな」

 腰から下げた帯飾りをいじりながら、少女は含みのあるいい方をした。

「――だが、こまごましたことを任されたというのなら、何かしら目に見えた成果はあったのであろうな? まさか何の成果もないのにのんびり昼寝などするはずもなかろうし、ましてや昼から酒をかっ食らうなどあろうはずもなし――」

「いえ、成果はまだ……こっ、これからです、これから!」

「そうか。……ふむ。要するに成果なしということか」

 ふかぶかとうなずいた少女は、裾を押さえながら右足を高く振り上げ、そのまま星秀の脳天にかかとを落とした。

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