第133話

英理は図書館を出ると凜にラインを送り、待ち合わせのホテルに向かった。


父に弥生を引き合わされたホテルと同じだったのは、偶然にしてはできすぎていると思った。


現れたのは三十代半ばから四十代にかけての男性で、身なりからしても社会的地位のある人物のようだった。


「東都大学附属病院で医師をしております、楠方和久といいます」


慇懃に頭を下げ、彼は率直に切り出した。


「江本弥生さんから連絡を受けました。あなたにお願いしたいことがあります」


「あのスマホは」


と英理が口を入れると、彼は頷いた。


「シュンの病室に置き去りにされていたものです」


話が未だに飲み込めず、英理は戸惑いを帯びた目で聞き返した。


「シュンって?」


「七歳になる私の息子です。うちの小児科病棟に入院しています」


はあ、と英理は間の抜けた相槌を打つことしかできなかった。


そのとき、和久が一口もコーヒーを口にしておらず、カップの前に置かれたスプーンが音を立てていることに気づいた。


唇と指先が、先ほどから小刻みに震えている。


どこの誰とも分からぬ若造と対峙しているとは思えない、彼の表情には色濃く恐怖が映っていた。


『シュンはどこにいるんですか。シュンを返してください』


昨日の女の声を思い出し、憶測が確信に変わる。


「昨日の十五時過ぎ、息子は病室から姿を消しました。現在は、江本弥生さんの元にいます」


心臓が引きつった。


「江本弥生さんは病院宛てに電話をかけてきて、自分の携帯にかけてくる向井という人間に仲介をさせろと言いました。つまり私と家内ではなく、あなたにシュンを預け、あなたから私たちにシュンを返すということです」


目の前が血の色に染まるような、激烈な怒りが迸った。


「警察には」


「言っていません。言えばあの子は殺される」


「身代金は要求したんですか」


と尋ねると、和久は項垂れてかぶりを振った。


「金ではないんです。彼女が要求しているのは父の研究資料。十年前、秘密裡に行われた新薬開発の全てを……」


「では、あなたのお父さんが楠方友則さんなんですね。脳科学研究所の所長の」


「楠方友則は私の義父です」


まるで自身の敗北を認めるような口調で、和久は言った。

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