第134話

十年前、和久は友則の一人娘と結婚し、シュンという子供に恵まれた。


当時彼は医師になったばかりの若者で、当然義父の研究内容など知らなかったし、脳科学研究所にも出入りしていなかった。


「けれども実験対象だった中学校でバス事故が起こり、立て続けに江本教授らが亡くなってから、江本教授と面識があったせいか、妻は義父の研究について調べるようになりました。二人はそのことでよく口論になっていました。それからシュンが産まれるまで、三年ほど絶縁状態で」


孫が産まれて親子の仲も回復し、妻は事件のことを口に出さなくなった。


だが、それと入れ替わるようにして、和久が義父の研究について疑念を抱くようになっていた。


「でもそれも、仕事や子育ての忙しさに取り紛れて忘れていました。昨日、シュンの枕元に置いてあったスマホを見るまでは」


弥生の残していったスマホを見せられ、英理は最初の画面に表示された「メモ帳」という文字に従い、メモ帳を開いた。


目でなぞって読むのに、たっぷり十分はかかった。


文字数としては1000文字足らず、原稿用紙三枚程度には収まるだけの分量だ。


だが、そこに記されていたのは英理には到底考えつかないような、現実離れした事象が羅列されていた。


これが事実なら、過去の全てが根底から覆されかねない。


「義父はシュンが連れ去られた後、脳梗塞で倒れ、未だに意識が戻っていません。妻も非常に取り乱しており、今は外に出られる状態ではありません」


和久は言い、痛みを堪えるようにして大きく息を吐いた。


眉間には濃い皺が刻まれている。苦悶が彼の表情に苛酷な老いを背負わせていた。


「弥生さんが義父を恨む気持ちは分かります。警察に届け出る気はありません。ただし、シュンが無事に戻ってきたらの話です。あの子にもしものことがあったら、私は」


強い覚悟に裏打ちされた、峻烈な目と目が合う。


英理は頷いた。みなまで言われる必要もなかった。


「あなたは、弥生さんと面識があったんですか」


「いいえ。もちろんシュンも会ったことはないはずです」


それなのに、やすやすと弥生に誘拐された。


七歳といえば、十分すぎるほど自分の意志で行動できる年齢である。


いくら小さくても弥生が力ずくで引っ張ったり、抱いて逃げられるわけがない。


そんなことをしていたら病院内の人間に見咎められるし、第一、ナースコールで助けを呼ばれてしまえばおしまいだ。


英理が訝っている内容を察したらしく、和久は口を入れた。


「シュンは見ず知らずの人間についていくような子ではありません。もしかしたら何らかの方法で、彼女とコンタクトを取っていたのかもしれません」


いきなり知らない女性が見舞いに来たら、少年は不審がるし親にも話すだろう。


二十四歳の女性と七歳の子どもでは、共通の話題を見つけるのも難しい。


違和感なく、自然と二人が出会える場所があるとしたらただ一つ――仮想空間の中だ。


「シュン君は、インターネットのゲームをしていませんでしたか」


問いかけると和久は首を捻っていたが、思い当たる節があったのか、はっと顔を上げた。


「そういえば病室にタブレット端末を置いて、いろいろしていました。テレビを見たり、ゲームをしたり」


――翼の帝国。


――なるほど、よくできている。


英理は内心で膝を打った。


全ては最初から、このためだけに周到に仕組まれていたのだ。























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