第117話

「江本氏は、日本脳科学研究所の研究者だったんですか」


「よくご存知ですね。その通りです」


鷹揚に頷き、久世はソファーに腰かけて足を組んだ。


鼓動の音が差し迫る何かに怯えている。


「マスコミ嫌いでテレビなどには一切出ない方だったので、世間一般で有名というわけではありませんが、彼の研究は今でも多くの研究所や病院で役立てられていますよ」


英理は勢いよくソファーから立ち上がった。


――何だろう。俺は何かを忘れている。


手がかりがそこら中に散らばっているのに、どうしてもそれを上手く繋ぎ合わせることができない。


苛立ちながら考え込んでいると、久世はやけに物柔らかに言った。


「弥生さんなら、ご心配なさらずとも大丈夫ですよ」


労わるような表情が、なぜか猛烈に癇に障る。


「一時はかなり精神的に参っておられたようですが、退院される頃には体力も戻っておられました。あんなことがあった後ですからね。今は一人になって、いろいろと考えを整理したいのかもしれません。しばらく様子を見られてはいかがですか」


気づいたら、英理は久世の襟首を掴んで引っ張り上げていた。


「ふざけるな」


身長でも体格でも相手のほうが勝るため、やんわりと振りほどかれる。


その手を振り払って、英理は怒鳴り声を上げた。


「散々こっちのこと巻き込んでかき回しておいて、自分だけ逃げようっていうのか。放っておいてほしいのは、こっちの方なんだよ。あんた達さえいなければ、俺は……」


息切れがし、目が回り、喉が焼けつくように熱い。


四肢が強張って、体がうまく動かない。


頭だけが高速で回転し、目まぐるしい単語が渦を巻いて血液を駆け巡っていく。


――十年前に事故があり、美咲が丘中学三年一組のバスは海底へ転落した。


――その一ヶ月後、江本家は火事で焼失。弥生は莫大な遺産とともに顧問弁護士の久世家に引き取られる。


――そして十年後、弥生はアリオンとしてMMOゲーム『翼の帝国』で知り合ったヴェリナスこと向井要と結婚し、直後に車は再び海に転落。遺産の半分は配偶者である弥生のものに。


――江本弥生の父は、高名な脳科学者だった。彼は日本脳科学研究所に籍を置き、数々の研究に携わっていた。


――向井要は十年前の事故の後、毎年日記にその日を記録していた。そのページの間に挟まれていたのは、東都大学付属病院と、日本脳科学研究所。


――弥生の目的は何だ?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る