第116話

怯んでいる場合ではないと、英理は顔を上げて問うた。


「では弥生さんは、中学を出た後ここで暮らされていたんですね。久世さんも一緒に」


「いえ、私はその時には大学生で、家を出て一人暮らしをしていました。私が家を出るのと入れ替わりで、弥生さんが引き取られたというのが実際のところです。たまに実家に帰ると顔を合わせていましたが、遠い親戚のような感覚でしたね」


歯切れよく言って、久世は率直な笑みを見せた。


「どうして弥生さんは、こちらに引き取られたんですか」


「父はもともと、江本家の顧問弁護士をしていたんです」


久世は目を細めた。


「生前、父と弥生さんのご両親は親しく交流があり、何かあった時には助けるという約束を交わしていたそうです。江本馨氏の遺言書にも、弥生さんの未成年後見人を依頼するとの旨が明記されておりました。したがって父が弥生さんの身元を引き受け、江本氏の遺された遺産等の財産管理、監護養育に当たることになったというわけです」


「遺産」


父の死に顔が脳裏に蘇り、英理は首を振った。


「弥生さんのお父さんには、どれだけの遺産があったんですか」


普段であればとても聞けないような下世話な質問だったが、なりふり構っていられる余裕はなかった。


久世は特に驚いた様子も軽蔑した様子もなく、実務的に答える。


「私も詳しいことまでは分かりませんが、彼女の養育費や大学までの進学の費用、卒業後も堅実に生活すれば一生お金に困らない程度の額は受け取れるようになっていたようですね」


頭を図太い衝撃が走り抜け、英理は息を詰まらせた。


――最初から、遺産なんか必要なかった。いや、働く必要すらなかったんだ。江本さんは、一生不自由なく暮らせるだけの大金を手にしていたんだ。


当てずっぽうだった推測が的中したことに、唇が冷たく震える。


――だったら親父と、金目当てで結婚する必要なんてない。


青ざめた英理の顔に気付いているのかいないのか、久世はのんびりとした口調で言う。


「江本馨氏といえば、脳科学の分野では知らない人のない著名な科学者ですからね。正確な名称は神経科学というそうですが。様々な研究成果を残されて、今日の脳科学の目覚ましい発展に寄与された方の一人です。あんな若さで亡くなったことは、本当に残念なことです」


英理は弾かれたように視線を飛び散らせた。


父の部屋に置いてあった備忘録は、鞄に入れて常に携帯している。


そこにあったのは日本脳科学研究所と、東都大学付属病院の名前だった。

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