第90話

担架に寝かされて恵美子が部屋から運び出されると、英理と久世は会議室に二人きりとなった。


運ばれてきたコーヒーの氷が溶けてぬるくなっている。


真夏の紅色の日差しは、ホテルの高層階であるこの室内をも窓越しに脅かしていた。


何もかもが鮮やかすぎる季節だった。


「法定相続人は、僕たち兄弟と江本さんの三人だと聞いています」


自分でも驚くほどしっかりした声が出た。


「叔父さんと叔母さんは、僕が頼りないので付き添いとして来てくださっただけです。僕と兄の意見は一致しています。ですから、話し合いは必要ないと思います」


「では、ご意見をお伺いします」


何事もなかったかのように、平然と久世は言った。


英理は何度も打ち合わせて確認した台詞を、慎重に読み上げた。


「配偶者である彼女の取り分である二分の一は、父の預貯金を充当してください。実家の土地建物については兄の名義とし、二分の一を差し引いた残りの額は僕と兄で折半します」


「なるほど」


柔らかく目を眇め、財産目録を確認すると、久世は耳触りのよい声で言った。


「ご実家は改築作業中でしたね。失礼ですが、建物はどうされるおつもりですか」


「今はまだ何も考えていません。とにかくそのままに残しておいて、解体や修繕が必要なら費用はこちらで出します」


英理が話している間中、久世は気詰まりがするほど、じっとこちらの瞳を覗き込んでいた。


その背後に、江本弥生の姿が浮かび上がる。


彼女の透徹な、物言わぬ凝視も。


しばらく沈黙が続いていたが、やがて久世のほうが静寂の糸を切った。


「分かりました。細かいことはおいおい詰めていくとして、大筋で合意という形にいたしましょう。遺産分割協議書は、こちらでお作りした素案をお見せして、ご同意いただければ署名捺印という形でよろしいでしょうか」


「結構です」


英理が答えると、久世は満足そうに微笑んだ。

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