第56話

「あと十年もすりゃ、介護だよ」


ほつれた後れ毛を耳の後ろに乱雑にかき上げ、栄は誰に言うでもなく吐き捨てた。


介護という単語が、鉛玉のような重さで胸にぶち当たってくる。


返す言葉が見当たらず、英理は立ち尽くした。


「若い頃は、そんなこと考えもしないんだろうけどね」


と、栄の目が侮蔑を帯びる。


英理と、恐らくは弥生に向かって。


「あんたも認知症の人、相手にしてみなさいよ。一日で首絞めて殺したくなるよ」


物騒ぶっそうな台詞と栄の表情の忌まわしさに、英理は我知らず及び腰になった。


これ以上聞いていられず、すぐその場を立ち去りたい衝動に駆られる。


だが、栄の果てしない誰かに向けられた剣幕が、それを許さなかった。


「二十四時間いつでも徘徊はいかいするわ、物は壊すわ、うんちもおしっこも垂れ流しにするわ、暴れるわ、汚いわ臭いわ」


言い連ねて、栄は鋭く言葉を切った。


「それでも、生きてる限り誰かが面倒見なきゃいけない。人間、最後はそんなもんだよ」


英理は目の前にいるこの中年女性に、えも言われぬ嫌悪感を覚えていた。


土気色をした乾いた肌も、節くれだった指や腕も、白髪の混じったみすぼらしい髪も、全て。


視界に入れたくない、置き去りにしたいもの全てを、ありありと突きつけてくる。


不愉快極まりない。


「結婚すれば、後悔するって言いたいんですか」


つい切り口上になって、英理は食い下がる。


栄は英理の内情を見透かしたような目で、


「そんなことは私は知らないよ。知ったことじゃない」


にべもなく言い、大きな音を立てて非常階段の扉を閉める。


その瞬間を待ち受けていたかのように、灰色の空を割って、雨が降り始めた。






















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る