第55話

「あ、すいません」


慌てて左に避けた英理を一瞥いちべつし、


「何、辛気くさい顔してるの」


簡潔に栄はののしった。


と、少なくとも英理にはそう思えたのが、彼女の目のかすかな柔らかさに、もしかすると気遣ってくれたのかもしれないという憶測が生じた。


「いやあ、ははは」


どう応えてよいか判じかねて、結果的に腰砕けのへらへら笑いしか出てこない。


栄は表情に不審感をあらわし、心持ち体を引き気味にした。


気持ち悪がられていると悟った英理は、慌てて取り繕おうと口を開く。


「浅間さんは、お元気ですか」


「お元気なわけないだろう」


愚にもつかない質問を、栄は鼻息一つで吹き飛ばした。


「ですよね……」


どうあっても噛み合わず、うまくいかない会話に徒労感を覚え、英理はそそくさと逃げようとした。


その背中に向けて、


「金目当てでもいいんじゃないの」


およそ穏やかでない単語が飛び出したので、英理は足を止めて振り向いた。


「食事から下の世話まで引き受けようって覚悟で嫁ぐんだから、周りがとやかく言うことじゃないよ」


どうやら、江本弥生のことを言っているらしい。


栄が知っているということは、噂は社内の末端まで蔓延まんえんしているに違いない。

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