第54話

弥生が職場に退職届を提出したのは、六月一日のことだった。


六月十四日の金曜日には入籍し、正式に向井の姓を名乗ることになる。


退職は業務引き継ぎ後、六月末日付ということだったが、有給消化の期間を差し引くと、入籍とほぼ同時に永和楽器株式会社には姿を見せなくなるようだった。


「ちょっと、聞いたよ。どういうこと?」


英理の机には勤務中も時間外も、ひっきりなしに人が訪れて事の詳細を知りたがった。


三十歳以上年の離れた男性、しかも同僚の父親と結婚するというのだから、口の端に上らないはずはなかった。


六月から二週間余り、社内中を矢のように回る噂の的になることと質問の応酬に疲れ果て、英理は日ごとに出社するのが憂鬱になっていた。


朝はぎりぎりに出社し、昼は外食ですませ、仕事を終えるとそそくさと帰ることで逃げを打ったものの、日は経つにつれ騒ぎは下火になるどころか、ますますエスカレートしていくばかりであった。


しかも、当の本人はすました顔で何を聞かれても取りつく島がないということで、英理はその余波をもろに喰らう羽目になる。


「疲れた……」


一人になれる場所を探し回り、非常階段に出てようやく一息つくと、口から言葉がこぼれ落ちてきた。


「邪魔だよ、どいて」


下から上がってきた浅間栄が、バケツと雑巾ぞうきんを手につっけんどんな態度で言った。

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