第4話 ぬくもりと、肩車と
「帰らんのか?」
ハンチング帽をかぶった老人は、そう言って白い煙を吐いた。
正幸くんが無言でうなずく。
「そうか」
そう言うと、老人は正幸くんから視線を外し、夕焼け空を見上げてまた煙を吐いた。
「……」
え? それで終わり?
彼が過去の自分だとか、そういうことは置いておいて。
10歳にも満たない子供が一人、帰りたくないと言ってるんだよ?
それなのに声をかけておいて、「そうか」で終わりなの?
そんな思いが脳裏をよぎり、僕は自分が声をかけなければいけないような使命感に襲われた。
子供が「帰りたくない」と泣いているんだ。放置していい訳がない。
彼と話して帰る決意をさせる。それこそが大人の責務だと思った。
「……お母さんに叱られたから」
正幸くんが、そう涙声でつぶやいた。
僕は慌てて、言葉を飲み込んだ。
老人は彼の言葉を待ってたのか。そう思い、少し気恥ずかしくなった。
「……そうか」
ええええっ? やっぱりそれだけ?
続けて放たれた老人の言葉に、僕は彼を二度見してしまった。
老人は煙草を指で器用に揉み消し、携帯灰皿の中に放り込んだ。
「それは大変だな」
驚きを通り越して感心してしまった僕は、思わず口を挟んでしまった。
「あの、その……それだけですか? 他に何かこう、言ってあげてもいいんじゃないかと思うんですけど」
僕の問い掛けに、老人は静かにこう言った。
「それは……私の役目じゃないだろう」
「正幸か?」
背後から聞こえてきた声に、僕は固まった。
もう一度会いたい。
この数日、そう何度も何度も願った人。
親父だった。
夕陽を背にした親父。その姿に、僕は泣きそうになった。
お父さん。
子供の頃の様に、そう呼びそうになった。
しかし僕よりも早く、正幸くんが声をあげた。
「お父さん……うわああああああっ」
大声で泣きながら、親父の元に走る正幸くん。そのまま足にしがみついた。
「うわあああああん、うわああああああん」
何か言おうとするが、うまく言葉に出来ないようだった。全てが泣き声にかき消されていく。
親父はゆっくりとしゃがみ、正幸くんに視線を合わせた。
「何や、また怒られたんか」
「うわあああああん、ごめんなさあああい」
「お父さんに謝ってもしゃあないやろ。お母さんに謝らんと」
「うわあああああん、うわああああああん」
「お前はほんま、泣き虫やなあ」
そう言って、大きな手で正幸くんの頭を撫でる。
「あ……」
思わずそう、声が漏れた。
僕がずっと欲しかったもの。
もう二度と感じることの出来ない、あの温もり。
僕は慌てて口を塞いだ。そして気付いた。
涙が溢れていた。
「しゃあないな。お父さんが一緒に謝ったるから、帰ってお母さんにごめんなさいしなさい」
「うん、うん……うわああああああっ」
「そやから……いつも言ってるやろ? 男が泣くなって」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「そないいつも泣いとったら、肝心な時に泣かれへんようになってまうぞ。男は簡単に泣くもんやない」
そう言った親父の横顔に、僕の胸は熱くなった。
怖かった親父。
普通の親子の会話など、ほとんどなかった。そう思っていた。
でも違う。そうじゃなかった。
もしそうなら。
僕はあの時、親父の手を頭に乗せたりしなかった筈だ。
叱られた記憶だけが強く残っていたから、肝心なことを忘れていたんだ。
子供の頃、普通の父親というものに憧れていた。
でも僕の親父は、どこの父親よりも優しく、僕のことを見守ってくれていた。
こんな笑顔を、僕に向けてくれていたんだ。
そう思うと、強烈に後悔の念が沸き上がってきた。
なんて無駄な日々を送って来たんだろう。
なんで僕は、親父に「ありがとう」と言えなかったんだろう。
こんなに優しかったのに。
こんなに愛してくれていたのに。
親父に会いたい。そして謝りたい。
「ごめんなさい」と。
親父に肩車された正幸くんが、何度も涙を拭っている。
立ち去っていく二人を見て、僕は思った。
この光景を見る為に、ここに来たんだと。
元の世界に戻ったら、すぐに実家に行こう。
そして遺影に頭を下げて、「ありがとう」、そして「ごめんなさい」と言おう、そう思った。
久しぶりに、心の
僕は大きく伸びをして、その場から立ち去ろうとした。
その時だった。
「もういいのか?」
隣に座っていた老人が、新しい煙草に火をつけながらそう言った。
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