第3話 虫取りとサイレンと泥団子
「なんだ、これ……」
自分の記憶にある、懐かしい光景。
子供の頃、何度となく見た光景。
僕は今、その場所に立っていた。
振り返ると、子供たちが遊んでいるのが見えた。
コンクリート塀に囲まれた、巨大な広っぱ。
僕たち子供のエリアは、塀寄りの隅っこだった。
大人たちが野球をしていることが多いので、自然と隅で遊ぶ癖がついていたのだ。
何人かの少年が、塀の上を器用に歩いている。
ああ、そうだった。
僕も子供の頃、こうやって遊んでいたな。
何がそんなに面白かったのか、よく分からない。
ただ自分も、こうして塀の上を歩くことに、何かしらの優越感を感じていた。
別の子供たちは、何やら円盤のような物を投げている。
足元を見ると、その正体が分かった。
近くの町工場で不要になった、
子供にとっては、周りにあるどれもが遊びの対象だった。
どんな物でも工夫して、どうしたら遊べるかを考えていた。
子供の世界は狭い。
大人になっていくということは、その世界を広げていくことと同義なんだと思っている。
しかし大人は、世界を広げる代償として、近くが見えなくなっていく。
逆に子供たちは世界が狭い分、足元がよく見える。
どんな物に対しても好奇の目を向け、楽しもうとする。
一体どっちが幸せなんだろう。
そんなことを思い、苦笑した。
子供にとっては、全てが宝物だった。
今は懐かしい、缶ジュースの旧式プルタブ。これもひっかけて、どれだけ飛ばせるかよく競っていた。
牛乳瓶の蓋はメンコの代わりになる。学校では男児がそれを賭けて戦い、どれだけ持っているかがステータスでもあった。
大きな石があればひっくり返して、その下に潜む虫たちをつかまえる。
カナブンの幼虫なんかを見つけたら、大騒ぎだった。
「ははっ……懐かしいな、これ」
今の状況が理解出来ない僕だったけど、目の前に広がる光景に魅了され、考えるのを後回しにすることにした。
壁際に、背もたれが所々割れているベンチが二つあった。
一つには、煙草をくわえた老人が座っている。
僕はもう一つのベンチに座ると、その老人と同じく煙草に火をつけ、白い息を吐いた。
「……」
気になっている子がいた。
周りの子供たちに比べ、少し体が小さい男児。
それがかつての自分だと認識するのに、そう時間はかからなかった。
子供の頃の自分。正幸くんだ。
その子は野球帽を深々とかぶり、うつむき加減で草むらに足を入れ、何かを探っていた。
しばらく探っていると、中からバッタが飛んでいく。すると子供たちは着地点を予測して、一斉に走っていく。
虫が着地すると同時に手をやり、つかまえる。
そうして気にいった虫を、虫かごに入れる。
懐かしいなぁ。虫取りなんて、何十年してないだろう。
そんなことを思いながら、僕は過去の自分をじっと見つめた。
どうして正幸くんは、周りの子供より小さいのか。
周りが年長者だったからだ。
あの頃の僕は、同年代と遊ぶのが苦手だった。
それよりも、近所の年上と遊ぶ方が楽しかった。
理由は簡単。
競争して負けても悔しくないから。喧嘩しても、泣いたら許してもらえるから。
それに近所の年長者は、ありがたいことに世話好きが多かった。
僕のことを気遣って、優しく接してくれた。
だから僕は、いつも彼らと遊んでいた。
低学年の頃までは。
でもそれが災いして、年長者が自分たちの世界に旅立ってからは、一人になることが多くなっていった。
年長者なら、泣けば慰めてくれた。でも同年代だと、そうはいかない。
泣くと余計にからかってくる。「泣き虫、泣き虫」と笑ってくる。
だから僕は、心に壁を作っていった。そしてそれが、今この年になっても、呪いの様につきまとっているのだ。
突然、大きな音が響いた。
近所の工場のサイレンだ。
確かあの工場では、終業時間が4時45分で、そのタイミングでサイレンが鳴るのだった。
近所の親たちは子供に、あのサイレンが鳴ったら帰る合図だと躾けていた。そしてそれは、僕の家も同じだった。
子供の頃、あのサイレンが何なのか謎だった。
女の人が時間になったら、「アアアアアアアアー」と叫んでいるのだと思っていた時期もある。
でもあのサイレンは、周囲の家にとっても、子供たちにとっても大切なものだった。
携帯もなければ、腕時計を持ってる子供もいない時代。確実に時間を知らせてくれるサイレンは、この地域の生活の一部だった。
サイレンが鳴っても帰らなかった子供たちは、例に漏れることなく親に叱られていた。
「そんなに遊びたいんやったら、いつまでも遊んでたらええやない! もう帰ってこんでいいから!」
そう言われて家に入れてもらえず、玄関先で泣きながら謝る子供の姿は、ある意味日常の光景だった。
子供たちが片付けを始める。片付けといっても、投げた
え? あれ、無茶苦茶懐かしいんだけど。
隠し場所の隣に並べられた丸い物体。泥団子だ。
よく作ったな、あれ。
見たところまだ湿ってるようだから、今日作ったばかりなのかな。
こうして自然乾燥するのを楽しみに待つんだけど、たまに悪ガキに踏み潰されてしまうこともあったっけ。
懐かしいなぁ。
一人、また一人と子供たちが帰っていく。
正幸くんと遊んでいた年長たちも、帰路についていく。
「正幸くん、帰らへんの?」
一人の男児が、正幸くんに声をかけた。
しかし正幸くんはうつむいたまま、黙って首を振った。
「おばちゃんに怒られるよ。一緒に帰ろ?」
そう言って正幸くんの手を握る。
しかし正幸くんは手をほどき、大きく大きく首を振った。
その様子に、年長の子は大体の事情を察したようだった。
「じゃあ、暗くなる前に帰りや。僕らは帰るから」
そう言って、家路へと向かう。
一人残された正幸くんは、黙々と雑草をちぎっていた。
自分のいじけてる姿を客観的に見るのは、何かこう、くるものがあるな。
多分正幸くん、お母さんに叱られたんだろう。
こんなことをしても、余計に怒られるだけなのに。それより早く帰って、謝った方がいいよ。
そう思った時だった。
隣のベンチに座っていた老人が、正幸くんに声をかけた。
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