第2話 幻影と幻想
3日後、親父は死んだ。
宣告された日より、1日長く生きていた。
あの日から親父は、ずっと眠ったままだった。
あれだけ苦しんでいたのが嘘の様に、穏やかに眠り続けた。
そして。
母さんと僕、弟家族が見守る中。
親父の人生は完結した。
葬儀、初七日を終えるまで、バタバタしっぱなしだった。
と言うか、初七日って、葬儀の日にまとめてするんだ。知らなかった。
まあ、みんな忙しいし。こうして集まるのだって大変だから、仕方ないんだけど。
何だかとりあえず「やることやってます」みたいな感じで、ちょっととまどってしまった。
地域の活動にも参加していた親父の人脈は広く、訪れる人は多かった。
みんな親父を偲び、悲しんでくれた。
僕の親父は、こんなにも慕われていたんだ。
そう思うと嬉しかった。誇らしかった。
あの親父の息子として、立派に喪主をやり遂げよう。それがせめてもの恩返しになる、そう思った。
葬儀の翌日、母さんに電話した。
「大丈夫? 疲れてない?」と。
しかし、母さんは笑いながら言った。
「あんたこそ大丈夫なの? ほとんど寝てなかったでしょ」
「僕は……大丈夫。昨日はちゃんと寝たし」
「仕事は?」
「休み。忌引き休暇、一週間もらってるから」
「じゃあ、意識してしっかり休みなさい。何ならご飯食べに、家に来てもいいから。どうせあんた、まともな物食べてないでしょ」
「ありがとう。また連絡するね」
励まそうとしたのに、逆に励まされてしまった。
この歳になっても、僕はまだ親に心配をかけている。そう思うと、少し情けなくなった。
親父が僕の歳の頃には、もう弟も生まれていた。一家の主だった。
親に心配をかけるどころか、僕たちのことで頭がいっぱいだった筈だ。
それなのに僕は今も、こうして心配されている。
それもそうか。
仕事はしてるものの、結婚どころか彼女がいたこともない。
弟は若い内に結婚して、子供もいる。ちゃんと親父と母さんに、孫を抱かせるという親孝行をしている。
でも僕は、ずっと一人身のままだ。
そのことでとやかく言われたことはないけど、それでも二人共、心配しているよと弟から聞いたことがあった。
情けない長男だ。本当に。
ごめん親父、母さん。
気が付けば僕は、自分が生まれ育った場所に向かっていた。
実家から電車で一駅。そこに中学まで住んでいた。
二階建ての安アパート。
親父の癌が見つかってからの3か月、何度となく過去の自分を思い返していた。
そのほとんどが、安アパートでの思い出だ。
久しぶりにあの場所に行ってみたい。
親父が死んでから、自分の中で大きくなっている変な感覚。
このモヤモヤの答えがあるかもしれない。
僕はそこに何かを求めていた、そんな気がする。
何十年かぶりに訪れたその場所に、僕は愕然とした。
アパートはなくなっていた。
そこには今風の、小綺麗な一戸建てがいくつか並んでいた。
時間は止まってくれないんだ。自分の中にある記憶に触れることは、もう出来ないんだ。
その事実に動揺した。
恨めしそうに、周りを何度となく歩く。
どこかに記憶の断片が残っていないか。
アパートの階段があった辺りを見つめる。
金魚の墓があった場所。
アイスクリームの棒に名前を書いて、弟と二人で作った墓。
しかし今、その場所はアスファルトに覆われている。
何度も何度もため息をつく。久しぶりにあの、ボロかった金属製の階段を上ろうと思っていたのに。
どれだけあの階段で転んだことか。
何もかもがなくなっていた。
過去に突き放されたような気がした。
辺りを散策する。
駄菓子屋もなくなっていた。
辛気臭い帽子屋さんもなくなっている。
薄汚れたガラスのショーケース。噂では中のマネキンは店の主人の亡くなった息子で、夜になると動き出すと言われていた。いい歳になるまで、本気で信じていたな。
レコード屋も電器屋もない。
公園も駐車場に変わっていた。
子供の頃、当たり前のようにあった光景。それが何一つ残っていなかった。
「……あの広っぱは」
失意の中、僕の脳裏に蘇った光景。
それは、野球を2ゲーム同時に出来るほどの、大きな広っぱだった。
そこが何だったのか、今でもよく分かっていない。
ただ僕らはその広っぱのことを、近くにあった工場の名前で呼んでいた。
そこで毎日のように遊んだ。
缶蹴りをして、鬼ごっこをして、凧揚げをして。
僕たちにとって、そこは家と同じくらい大切な場所だった。
あの広っぱなら、まだ残ってるに違いない。
まるで根拠のない願望にすがる思いで、僕はその場所を目指した。
「……」
どこにあるんだ、広っぱは。
そびえ立つ何棟ものマンションを前にして、僕はそうつぶやいた。
かつての僕たちの王国。流行っていた漫画の影響から、土を掘って秘密基地を作ろうとした大切な場所。
それはたった今、無残な現実となって僕に突きつけられた。
「……そうだよね」
あれだけの広大な土地、何十年も放置する訳がない。
土地を遊ばせている余裕なんて、今の時代ない筈だ。
そう思い、一人うなずく。
そう思う。
思い込ませる。
でも。
それでも。
何だろう。胸に宿った、この虚しい気持ちは。
思い出は、どこまでいっても思い出に過ぎないのだろうか。
いつまでもそんな物にしがみついているのは、間違っているのだろうか。
僕はここに、何かを求めてやってきた。
親父が死に、心に空いた大きな穴。
それが何なのか、ここに来れば分かる気がしたのに。
それは甘えなんだろうか。
過去を振り返るのは、今が充実している人間だけに許されたことなんだろうか。
だから僕は、過去からも突き放されたんだろうか。
そう思うと滑稽で、情けなくて涙が出て来た。
空を見上げると、夕焼けが広がっていた。
その色に、余計に心が痛む。
僕は。
僕は。
何をしているんだろう。
涙を拭い、目を開ける。
その光景に呆然とした。
そこには、夕陽に染まった広っぱが広がっていた。
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