第16話

 その日、ダンス部の練習が終わった後、部室で夏美がオレに言った。


 「小紫君、今日から隣の女子トイレで『おくねさん』の張り込みをするわよ」


 オレは仰天した。思わず声が上ずってしまった。


 「えっ、き、今日から張り込みぃぃぃ・・・」


 「そうよ。今日から始めましょう」


 「ど、どうして今日から?」


 「今日の全校集会で、あなたがダンスを踊って、安賀多ダンス選手権をリーグ戦で行うことに決まったでしょ。それで、みんなの意気が上がっているじゃない。そんなときだから、『おくねさん』の真相を暴くのは今がちょうどいいのよ」


 みんなの意気が上がっているというのは夏美の言うとおりだった。昼休みの全校集会の後、各クラスではリーグ戦で行う安賀多ダンス選手権の話題で持ちきりだった。ダンス部の中も同じだった。オレは今日のダンス部の練習で、部員たちがなんだかいつも以上に張り切っているのを感じていた。


 でも、それと『おくねさん』とはどんな関係があるのだろう? オレは夏美に聞いた。


 「でも倉持。みんなの意気が上がっているのと『おくねさん』とは関係がないんじゃないの?」


 夏美は『こんなことも分からないの?』といった顔をしてオレに言った。


 「こういった『おくねさん』というような幽霊話はみんなの意気が上がっているときに、一気に片付けるべきなのよ。意気消沈していては幽霊に付け込まれるでしょ。幽霊をやっつけるには、私たちが元気なときに限るのよ。それにどうせ、『おくねさん』のことは、いつか近いうちにケリを付けなければならないのよ。だったら、今が一番いいじゃない」


 なんだか無理がある論旨展開のような気がしたが・・・オレは夏美に反論することができなかった。ついに、張り込みかぁ・・・


 「・・・・・」


 夏美がオレの顔を覗き込んだ。


 「あれっ、小紫君、やっぱり幽霊が怖いの?」


 オレは強がりを言った。オレの顔から血の気が引いているのが自分でも分かった。


 「ぜ、全然。ゆ、幽霊なんて、こ、怖くなんかないよ・・・」


 「じゃあ、どうしたの? 顔が真っ青よ」


 「そ、それは・・・『おくねさん』に会うことは・・・その、とっても危険なことなんじゃないかって心配して・・・」


 夏美が明るく言った。


 「あら、小紫君は私のことを心配してくれてるの? 私だったら大丈夫よ。もし、私が『おくねさん』に襲われたら、小紫君が守ってくれるわよね」


 夏美が眼を大きく見開いて、オレを見つめている。オレの心臓がドキドキと鳴った。


 「そ、それは、もちろん・・・倉持はオレが責任をもって守るよ」


 それを聞いて夏美が微笑んだ。


 「だったら安心だわ。じゃあ、さっそく今夜から女子トイレで張り込みをしましょう。小紫君、お姉さんに『遅くなるので夕食はいらない』って電話しとくのよ・・・ところで、今度はどじょうすくいを踊るのね?」


 「えっ?」


 「だって小紫君。今日のお昼にダンスを踊った後で、『もう新しいダンスはいいよ。どじょうすくいでも踊るよ』って言ったでしょ」


 そうだった。オレは確かにそう言った。夏美がオレを見ながら、妖しく笑った。


 「じゃあ、どじょうすくいを教えてあげようか?」


 オレは苦笑しながら首を振った。


 「いや、いいよ。あんなのアドリブで踊れるよ」


 そう言いながら、オレは首をひねった。あれっ、『おくねさん』を張り込む話が・・・いつの間にかオレのダンスの話に変わっている。なんだか夏美に、張り込みをすることをうまく丸め込まれてしまったようだ。


 こうして、オレは夏美と一緒に今夜から『おくねさん』を張り込むことになってしまった・・・・・


***********


 その日の夜、オレと夏美は学校の近くの食堂で夕食を済ますと、部室の横の女子トイレに行った。


 夏美が言っていた『おくねさん』の張り込みだ。もう夜の9時をすぎている。こんな時間にトイレに来る生徒は誰もいない。そもそも学校に残っている先生も生徒もいないだろう。


 問題の女子トイレの中には9つの個室が一列に並んでいる。オレたちはまず9つの個室をすべて開けて、トイレの中に誰もいないことを確かめた。そうして、個室のドアはすべて開けておいた。そして、入口から一番目の個室に夏美が、二番目の個室にオレが入った。様子を見るために隠れたのだ。オレも夏美もすぐに飛び出せるようにオレたちが入った個室のドアは開けてある。


 オレは二番目の個室の中で、何かが起こるのをじっと待った。トイレの中は物音一つしない。隣の個室に潜んでいる夏美の呼吸が聞こえた。ふと、夏美と二人で帰った夜のことが思い出された。オレは唇に手をやる。オレはあれから・・・唇を洗っていないのだ。個室の中でオレの呼吸が乱れた。


 静寂の中で時間だけが過ぎていった。時計を見ると、何もないままに1時間が過ぎていた。やはり、『おくねさん』なんていないのだろうか。オレの胸にふとそんな思いが湧きおこった。


 そのときだ。トイレの奥から水洗の水が流れる音がひびいた。オレは凍りついた。トイレの中には誰もいないはずなのに・・・どうして?


 夏美が個室から出てきた。オレの個室をのぞきこむ。夏美の眼が恐怖に脅えているのがわがった。オレも個室を出た。夏美と並んでトイレの中を奥へゆっくりと進む。


 足が震えた。一番奥の個室のドアが半閉まりになっていた。さっきは確かにドアを開けておいたはずなのに・・・。個室のドアの前まで来た。夏美がドアに手をかける。オレを見た。オレは大きくうなずいた。夏美がオレにうなずき返した。夏美が前を向く。思い切って、ドアを手前に引いた。


 個室の中に女が立っていた。白いワンピースを着ていた。下を向いている。長い髪が顔に垂れていた。女の手には包丁が握られていた。トイレの照明に包丁がキラリと光った。女が顔を上げた。髪が顔に垂れていて顔はよく見えない。青白い顔だということだけはわかった。女から声が出た。地獄の底から響くような声だった。


 「見たな」


 オレと夏美は後ろにひっくり返った。二人とも腰が抜けて立ち上がれない。あまりのことにオレたちは声も出なかった。女が個室から出てきた。包丁を顔の横に構えていた。女がもう一度言った。


 「見たな」


 オレの脳裏に茜の言葉がよみがえった。「みんなが言うには、『おくねさん』が『見たな』と言ったら、『見てません』とか『何も言いませんから見逃してください』と言うと見逃してくれるそうなんです」


 オレは恐怖で叫んでいた。


 「み、見てません。な、何も、み、見ていません」


 女の口がニヤリと笑った。オレの恐怖は極限に達した。


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