第11話
その夜、オレはダンス部の部室を出て、夏美と一緒に家路についた。
オレの家は学校から歩いて30分のところにある。オレが高校に入るときに、オヤジが東京に転勤になって、両親は東京に行ってしまった。それからは姉の
夏美は高校の女子寮に住んでいた。自転車で高校に通学している。女子寮は学校から自転車で20分ぐらいのところにあった。途中まではオレと同じ道だ。夏美はオレの隣で、自転車を押しながらオレと歩調を合わせて歩いてくれていた。オレはドギマギした。学校から女子と一緒に帰るのはこれが初めてだ。というか・・姉の咲良は別として、女子とこんな風に並んで歩くのは、オレには初めてだ。
安賀多高校があるA市は城下町だ。街の中央に戦国時代の城跡が残っていて、今は市民公園になっている。江戸時代には、A市はこの地方の商工業の中心として栄えたという話だ。通りには今も当時の面影をしのばせる古い家屋が並んでいた。
もうすっかり日は暮れていた。オレたちはそんな古い屋並みの中を並んで歩いた。古い石畳の狭い道だ。通りには誰も見えなかった。周りの家からは夕食の準備をする声が聞こえていた。遠くで、いまどきめずらしい豆腐屋のラッパがピーポーと低く聞こえた。
オレは黙って夏美と並んで歩いた。夏美も学校を出てからは何も言わずに黙っている。時々、オレたちの肩が触れ合った。すると、オレの心臓がドッキンドッキンと鳴る音が大きく響いた。何か言わなければ・・と思うのだが、オレは何を言っていいのか、さっぱり分からなかった。まるで呪縛に掛かったようだ。
すると、急に夏美が足を止めて、オレを振り向いた。右手で自転車のハンドルをつかんでいる。オレも夏美に合わせて足を止めた。古い民家の横だった。民家の江戸時代のものらしい格子窓がかすかに開いている。その隙間から家の中のオレンジの灯りが道に洩れていた。暗い石畳の道が、そこだけオレンジ色に照らされている。
オレは夏美の方を向いた。オレンジの灯りの中に、夏美の顔が浮かび上がっていた。夏美の顔にオレンジの陰影ができている。陰影の中で夏美は妖しく微笑んでいた。オレは初めて夏美を美しいと思った。
オレンジの陰影が動いて夏美の声がした。
「ねぇ、小紫君、今日、ダンス部であなたが部員みんなに挨拶したときのことだけど・・・」
夏美の声に反応するように、オレの口からやっと声が出た。ようやく呪縛が解けたようだ。
「ああ、みんなの前で入部の挨拶をしたときだね・・・」
オレの頭にあのときの情景がよみがえってきた。あのとき、オレは赤いレオタード姿だった。そして、同じ赤いレオタードを着た女子部員全員の前で、オレは震えて、逃げ出そうとしていた・・・ほんの数時間前のことなのに、オレにはずいぶん昔のことのように思えた。
夏美が話を続ける。
「あのとき、部員から小紫君に質問があったでしょ」
あの「好きな人はいますか?」という質問だ。夏美は「好き」という言葉を口にしないようにしてくれている。
「ああ、『好きな人はいますか?』という質問だったね。オレはあれで踊りだしてしまったよ」
自分が「好き」と言っても踊りだすことはない。
すると、夏美がいたずらっ
夏美にのぞき込まれて、オレの顔が真っ赤になった。オレは夏美にさとられないように顔を伏せた。夏美はそんなオレの狼狽にはお構いなしに、額に掛かった前髪を左手で軽く掻きあげると、クスリと笑ってオレに言った。
「私、あの質問の答えを知りたいな」
夏美の形のいい眼が大きく見開かれて・・・オレをじっと見つめていた。
「えっ」
オレは一瞬、言葉に詰まった。好きな人だって・・・?
「そ、そんな。す、好きな人なんて、い、いないよ」
言葉がすっと出てこない。オレの心臓が早鐘のように鳴った。汗が出てきた。
「そうなの?」
夏美はオレをのぞき込んだまま、小首をかしげた。その仕草がなんとも色っぽくて・・・オレはごくりと生唾を飲み込んだ。その唾を飲み込む音が夏美に聞こえたかもしれない・・・オレはあわてて言った。
「倉持は・・・倉持は誰か好きな人はいるの?」
「いるよ」
そう言うと夏美は右手で自転車のハンドルをつかんだまま、オレの方にさらに顔を近づけた。再び、夏美の息がオレの顔にかかった。甘くやさしい香りがした。オレの顔に夏美の前髪が触れた。夏美は目をつぶっていた。こ、これは・・・
オレも眼をつぶった・・・オレのくちびるが柔らかいものにふさがれた。
次の瞬間、夏美はひらりと身をひるがえすと・・・横の自転車に飛び乗った。制服のスカートがひるがえった。オレンジ色の光の中に夏美の素足が光った。周りはオレンジ色の光なのに・・・オレの眼には夏美の素足が白く見えた。白さがオレの眼に焼き付いた。
「近いうちに二人であの女子トイレに行って、『おくねさん』を調べる張り込みをするわよ。そのときには、お姉さんに帰りが遅くなるって言っとくのよ」
そう言うと夏美はさっそうと自転車で走っていった。
闇の中に夏美の制服が小さくなっていく。オレは民家の横に立ったまま、暗闇の中に自転車が見えなくなるまで夏美を見送った。
夏美の素足の白さが、オレの脳裏にいつまでも残っていた。
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