第5話 齢16年の喧嘩狼、いわれなきヘタレ認定

「――とまぁ、加法定理はざっくり説明するとこんな感じかな……。どう、理解できそう……?」

「は、はひっ。だ、大体わかりまひた……」

「そう、よかった……」



 前髪で隠れた先輩の目尻が、優しげに垂れ下がる。


 それと同時に、先輩がさらに俺の腕に身体を密着させてきて……横乳がっ! 横乳がぁぁっ!?



「どうしたの……? 顔、真っ赤だよ……?」

「な、夏の陽射しで日に焼けちゃったんですかね? ハハッ!」

「ふぅぅ~ん……?」



 まるで俺の心の中を見透かしているかのように、メバチ先輩がニマニマと微笑む。


 芽衣と古羊のバイト先で、メバチ先輩に数学を教えて貰い始めて1時間。


 ほどよくサンドウィッチでお腹も膨れた俺たちは、仲良く『チンアナゴでも理解できる! 高校数学』を解いていくのだが……ここで少々問題が発生した。


 というのもね、やっぱり先輩……距離が近いのね?


 もうね、ちょっと顔を動かしたらキス出来そうなくらい近いのね?


 もはや恋人の距離感なんだよね、コレ。


 おかげで先輩からスンゲェ良い匂いがしてきて……もう勉強どころじゃないっていうね!



「そう言えば大神くんは、夏休みの課題はどこまで進んだのかな……?」

「じ、実はまだ。課題が多すぎて、どこから手を出せばよいやら分からず……。メバチ先輩はどこまで進みました?」

「もう終わった……」

「えっ、もう!? 早くないですかっ!?」

「そうかな……? まぁ、そんなに量もなかったし……」



 そう言いながら、何故か俺の太ももを指先でフェザータッチしてくるメバチ先輩。


 あ、あの? なんだか触り方がエッチくないですか?


 俺の足の付け根あたりを、触れるか触れないかのギリギリの所で、指先をサワサワさせる先輩。


 おかげで俺は背筋がゾクゾクしているよっ!


 流石にちょっと身の危険を感じた俺は、器用にお尻を動かしてシートの奥へと移動するのだが……先輩も同じように距離を詰めてくるので、結局何も変わらなかった。


 それどころか、どんどん人目がつかない場所へと自分から移動して……なんだか追い込み漁をされている『お魚さん』の気分である。



「せ、先輩すげぇ。俺なんか、いつ夏休みの課題が終わることやら……」

「見てあげようか……? 夏休みの課題……?」

「えっ? いやでも、先輩は受験勉強もありますし……」

「問題ない……それに」



 先輩はどこか大人の色気を感じる笑みで、俺の耳元にそのプルプルの唇を寄せて、




「ワタシも、この夏休みは君と一緒に居たい……」

「――お待たせいたしましたっ! コチラ、当店サービスのポテトフライになりますっ!」




 ドンッ! と、メバチ先輩の囁くような声を打ち消すように、芽衣の元気ハツラツな声が俺の耳朶じだを叩いた。


 芽衣は頼んでもいないポテトフライを机の上に置くや否や、やんわりと先輩の肩を掴んで、半ば無理やり俺と彼女の彼我(ひが)の距離を引き離した。



「お、おぉ。ありがとう芽衣。でも、声デカくない?」

「今のわたしはウェイトレスさんですからねっ! しょうがありませんよっ!」



 メバチ先輩が居る手前、いつも通り猫を被ってニッコリと微笑む、我らが女神さま。


 でもなんでだろう? 心なしか、ブチ切れているような気がしてならないのは?


 芽衣はニコニコ♪ と机の上に広がっている参考書とメバチ先輩の顔を交互に見返しながら、



「魚住先輩、人に教えるの上手ですね? わたし、感心しちゃいましたよ」

「そんな、上手くなんて……。これくらい普通だよ……」

「そんな、ご謙遜をっ! 将来は学校の先生ですか? ということは、大学は教育学部に進学するんですか?」

「ううん、将来は薬剤師……。大学は教育学部もあるけど、看護科のある森実大学に行こうと思ってる」

「森実大学ですかっ!? すごいですっ! 確かアソコ、偏差値がすごく高いですよね?」



 芽衣はメバチ先輩と楽しげに会話しながら、ナチュラルに俺たちの対面に腰を下ろした。


 もはや居座る気マンマンである。


 あの、お嬢ちゃん? お仕事はどうしたのかな?


 芽衣はキッチンの方に居る店長の『戻ってきて、羊飼さん!?』という視線を華麗にスルーしながら、ギラリッ! と目を輝かせた。



「でも魚住先輩? それなら、なおさら士狼の勉強を見ているヒマなんて、ありませんよね? 早く自宅に帰って、ご自分のお勉強をした方が良いのでは?」

「大丈夫……。人に教えるのも立派な勉強だから……」

「そうでしょうか? やはり勉強というモノは、1人でやった方が効率がいいと思うのですか?」

「いやいや芽衣さん? チミ、中間テストのとき『人に教えることで自分への理解も深まりますし』って言って、俺の勉強を見てくれたよね? ――ひぎぃっ!?」



 ――ゴンッ!



 と、対面に座る芽衣に思いっきり向(む)こう脛(ずね)を蹴られて、思わずエロマンガ界の人妻のような声が唇からまろび出た。


 い、いてぇっ!?


 芽衣のヤツ、今、本気で蹴りやがったな!?



「あら士狼、今、何か言いましたか?」

「……いえ、何も」

「んっ、よろしい♪」

「???」



 メバチ先輩は机の下で繰り広げられる静かなる攻防に気づくことなく、俺の態度を不審そうに眺めながら、頭の上にクエスッチョンマークを乱舞させていた。


 小首を傾げる姿とか、超絶キュートで……もう可愛い♪


 なんて思っていると、またしてもゴンッ! と芽衣に向こう脛を蹴られて、痛ぇ……。


 いったい俺がナニをしたって言うんだ?



「それよりも会長……? 仕事に戻らなくても、いいの……?」

「今は休憩時間中ですので」



 ふわっ♪ と背後に桜の花びらを散らしながら、そうのたまう女神さま。


 そっかぁ。芽衣のヤツ、今、休憩時間なのかぁ。


 でもおかしいなぁ? キッチンに居る店長が『ッ!?』と目を見開いて、首をブンブン振っているように見えるんだけど、アレはなに? 俺の目の錯覚かな?



「お冷の【おかわり】をお持ちしました」

「さ、サンキュー古羊っ!」



 どことなく、芽衣とメバチ先輩の間の空気が淀み始め、呼吸が苦しくなってきたタイミングで、ウォーターピッチャーを持った古羊が救世主のごとく現れる。


 た、助かった!


 とりあえず一息入れて、気分をリフレッシュしよう!


 俺は空のコップを古羊の前に持って行くのだが……何故か古羊はニコニコ♪ 微笑むだけで、微動だにしない。



「あ、あの古羊ちゃん? お水……?」

「そういえば、ししょー?」



 古羊は困惑する俺を他所よそに、メバチ先輩の方を凝視しながら。





「隣町に居るカノジョさんとは、『アレ』からどうなったの?」






 と言った。


 ……ハァッ!?



「ちょっ、古羊!? おまえは一体ナニをっ!?」

「あっ! ごめん、ししょーっ!? この話、ナイショだったよね?」



 あからさまに『しまった!?』という表情を作りながら、申し訳なさそうに俺の空のコップにお冷を注いでいくワン系ギャル。


 途端に、俺の隣に座っていたメバチ先輩が「えっ……?」と声を漏らした。



「大神くん……やっぱり『彼女さん』が居るの……?」

「いや、居ませんよ!? 自慢じゃありませんが【彼女の居ない=年齢】のピチピチの男子高校生ですよ、俺!?」

「でも、庶務ちゃんが今……」

「嘘ですよ、嘘っ! アイツ、今、とんでもない大嘘を吐いたんですっ! なぁ芽衣? おまえからも何か言ってやってくれよ!?」



 俺は自分の無罪を証明するように、対面に座る女神さまに救難信号を送るのだが……何故か返ってきたのは「ニッチャリ……」とした粘着質な笑みだった。


 瞬間、俺の背筋を北風小僧が全力疾走し始める。


 ま、まさかこの女……!? 


 ちょ、ちょっと待て!?


 流石に今は洒落しゃれにならな――



「実はソレぇ、わたしも気になっていたんですよねぇ~♪ ねぇ士狼? 『あのあと』彼女さんとは、一体どうなったんですか?」

「ブルータス、おまえもかっ!?」



 乗るしかない、このビックウェーブにっ! と言わんばかりに、古羊の吐いた嘘に全力で便乗しにかかる我らが生徒会長殿。


 その唇の端は「ふひっ♪」と邪悪に歪んでいて……チクショウっ!?


 俺をフォローする気が微塵もねぇっ!?


『あのあと』って、『どのあと』だっ!?



「やっぱり、彼女さん居るんだ……」

「名前は『友美ともみ』さんです」

「誰ぇ、その女ぁ!?」



 知らねぇよ!?


 俺、友美なんて女、知らねぇよっ!?


 おい古羊っ!? さっきからナニを適当なコトを言ってんだ!?


 強めの口調でギャル子に言い寄ろうとした矢先、俺のお株を奪うように、芽衣がその桜色の唇を動かした。



「友美――正式名称『佐藤友美』。身長160センチ前半の、八重歯がとってもチャーミングな、黒髪巨乳の女生徒会長です」

「いやソレ、ほぼほぼおまえの個人情報じゃねぇの!?」



 なんかポケモ●図鑑みたいことを口走っている芽衣にツッコめば、代わりと言わんばかりに古羊が口を動かして……クソ!?


 止まんねぇっ!? コイツら、止まんねぇよっ!?



「中学卒業と同時に、隣町に引っ越していった友美さん。ししょーはそんな友美さんのコトを、心から愛しているんだよ」

「でも士狼は知らない。実は友美は向こうで別の彼氏を作ってイチャイチャ♪ していることを」

「友美ィィィッ!? ナニしてんだ友美ィィィィィッッ!?」



 2股されてんじゃんっ!


 俺、友美に2股されてんじゃんっ!?


 いや、そもそも『友美』なんて居ないからね!?


 というか『友美』って誰だ!?



「大神くん、かわいそう……」

「ちょ、先輩っ!? 泣かないでっ!? 大丈夫、俺、必ず『友美』のことは吹っ切ってみせますからっ! というか、そもそも『友美』なんて彼女は居ませんからっ!」

「本当に……?」

「ですですっ! 全部コイツらの質の悪い冗談ですからっ! なっ、おまえら?」

「ちなみに士狼は、そんな『友美』に対抗して、コチラでも彼女を作っています」

「えっ!? そ、それ本当なの、ししょーっ!? そんな話、ボク聞いてないよ!?」

「しつけぇぇぇぇっ!? 頑固な油汚れ並みにしつけぇぇぇぇっ!?」



 突然の芽衣の裏切りに、アッサリと騙された古羊が瞳に涙の膜を作りながら、俺に詰め寄ってきて……ちょっ!?


 マジでこれ、収拾がつかないんですけどっ!?


 誰を信じればいいのか混乱しているメバチ先輩に、シレッと笑顔で嘘を吐き続ける芽衣。


 そんな芽衣の嘘に踊らされてオロオロし始める古羊に、共鳴するようにキッチンの方で『2人ともぉっ! はやく帰ってきてぇっ!?』と声をあげて、忙しそうにオロオロし始める店長。


 世界に数多くの喫茶店あれど、間違いなくこの瞬間、この喫茶店が世界で1番カオスな喫茶店だった。

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