第6話 「なんでそうなるんだよお前は!」


 店の奥のチルの部屋は思ったより広かった。

 物もあまりなく、木枠の丈夫そうなベッドが二つ、雑多な書類が積まれた机、嵌め込み式のクローゼット。それが家具のすべてだった。

 一つのベッドには布団が敷かれている。おそらくこれがチルの寝床なのだろう。もう一つは木枠のままだがだいぶ広い。チルは乱暴にその上に奥から取り出したクッションを放り投げた。


 この部屋で一晩過ごすのか、とイーアは興味津々で部屋を見回す。アルはまだ酒場にいるので、今はチルとふたりきりだ。


「ここには同居人さんも暮らしてるの?」

 だとしたら、勝手に泊まって迷惑だったかもしれない。そう思いながら、クッションの上に腰掛ける。ちょっとかび臭いが、思ったよりふわふわだ。

 イーアの懸念に、チルは乱暴に首を振った。

「いや、アロイスはあっちの部屋だから、気にしなくていい。当分帰ってこないし」


「アロイス?」

「この店の店長だな。ほとんどいないので、店は俺がやってるようなもんだ」


 びっくりしたイーアはチルの顔を見る。


「チルはすごいね! なんでもできるんだ!」

 自分と変わらない年なのに、と心から感心していると、チルは呆れたような目で見返してきた。ついでにデコピンも飛んでくる。


「あたっ」

「ばーーか。勘違いすんな。俺はお前より歳上」

「えっ」


 チルはさらに据わった目で、イーアにぐいっと詰め寄る。思わず逃げるような形で壁に背をつけたイーアの目の前、ほんのすぐそばにチルの綺麗な瞳があった。


「だからここではお前は俺のいうことを聞くこと。何があるかわからない鏡とお泊まりするんだからな。わかったか?」

 イーアはただこくこくと頷く。


「じゃあ、チルは今幾つなんだ?」

 痛む額をさすりながら聞くと、ベットの前に裸の鏡を置きながら、乱暴にお前の二つ上と言い放つ。

「15歳か……だいぶお兄さんだね」

 そういえば、自分の年齢について話したことがあっただろうか?

「お兄さんじゃ……まぁいいわ。詰めろ」

 イーアが作った隙間に、チルはすとんとおさまる。


 二人で壁を背にする形で、鏡に向かって座る。部屋の明かりは弱々しいオイルランプのみ。

 隣に座るチルが目を瞑ってしまうと、落ち着かない気持ちでイーアは部屋の中を見回した。


 本当に殺風景な部屋だと思う。

 そういえば、この部屋には窓がない。


「寂しい部屋だな」

「そりゃ、お前のお部屋に比べたら、世の中のほとんどの部屋は寂しいだろうさ」

「そういう意味じゃ……」

 言いかけて、やめた。

 隣に座るチルの、静かな呼吸の音に耳を澄ます。


(嫌われてると思っていたけど……)

 隣に座るくらいなら、もしかしたらそれほどでもないかもしれない。そう思うと嬉しかった。


 嫌われることに慣れていない、確かに自分は傅かれるのが当たり前の環境で育った。

 だが、人は心の底に悪意や敵意を抱いていても、平気で微笑む。それは知っているし、いつだってある程度の警戒はしている。

 でも、イーアに真正面から嫌悪を表す人は、チルが初めてかもしれない。


(なんだか、ちょっと嬉しいな)

 ちゃんと人間同士で会話をしている気がする。


 それにしても、チルの肩は細い。

 触れ合っている場所があまりにも心もとない。

 それが気になりだすと落ち着かなくなり、イーアは少し身動ぎする。すると寝入ったように見えたチルがぱちりと目を開いた。


「なんだお前、起きてたの?」

「うん」

 イーアが頷くと、寝とけとつぶやいてチルは目を瞑った。先ほど持ち込んだ一日時計を見ると、もう黒の女神の時間に入っている。いつ鏡に幽霊が映るのかと思うと、眠れる気がしなかった。


「チルは細いね。僕より歳上なのに、僕より軽いのでは?」

 落ち着かない気持ちのまま話しかけると、チルはちらりとこちらを見た。

「さっきもパン齧ってただけだったよね」

「いいんだよ俺は。これ以上肉つくわけにいかねぇから」

「それにしても細すぎるのは、あんまり体に良くないと思うよ」

「いいんだっつーの」

 そっけなく言い捨てられた。


 やっぱり嫌われているかもしれない。


「でもせっかく、友達になれたのに」

「友達!?」

 言いかけたイーアの言葉を遮って、チルが素っ頓狂な声を上げた。

「うん、ともだち……ではない?」

「違うだろ」

 またもやばっさり切り捨てられた。


「お前は一緒に飯食って寝りゃ友達になんのかよ。おめでたいな」

 辛辣である。


「じゃあ、僕たちって、知り合い?」

 別に全ての関係に名前が必要なわけではないけれど。なんとなく言うと、チルはふと天井を見上げる。

「主人と従僕だろ」

「えっ、チルが僕のご主人様ってこと?」

「なんでそうなるんだよお前は!」


 むう、とイーアは口を噤む。


「お前は俺のことなんて気にしなくて良いんだよ」

 しばらくしてから、隣からとても小さなチルの声がした。

「どうして?」

「そういうもんだからだよ」


 そう言いながら、チルがイーアの肩に頭を乗せる。ふわり、と自分のものではない匂いがした。

「そういうもん……?」

 顔が見えないので、感情を窺い知ることはできない。

 ひどく冷たい声が隣からした。


「お前と俺じゃ、生まれた身分も違う。育った環境も違う。将来何者になるのかも違う。だからお前のような世界の上澄で生きてるようなやつは、俺らのような澱のことは考えなくていい、って意味だよ」


 二人だけの部屋で、隣り合って座っているのに、二人の間のは大きな差がある。

 イーアは眉を寄せた。

「そんなわけがない」


「いや、そうだって。お前だって俺が何を考えてるか、わかんねぇだろ? 何があっても同等の立場にはなれないもの同士なんだから。知らなくていいんだよ」


 突き放すようなチルの言葉の背後には、何があるのだろう。

 きっと彼はこれまで、イーアにはきっと想像のつかない大変な思いをして生きていたのだろうとは思う。

 だから、イーアを拒絶する。

 でもなぜ、この広い部屋の中でわざわざ隣り合って座るのだろうか。


 イーアは小さな胸の痛みを覚えた。


「うん。でも僕は、やっぱりチルの友達でいたい」

 返事の代わりに、鼻を鳴らす音がした。

「もしも僕がチルのいう通り、世界の上澄みで生きているような人間なら、なおさらだよ。視点の違うチルと友達になりたい」


 これにも、かえってくる言葉はなかった。

 なれるわけがない。きっとそう思っているのだろう。


「僕の母様は……泣かないんだ」

 言葉を探したが、なんと言っていいかわからず、イーアは浮かんだ言葉をそのまま声にする。

「いいじゃん、いつもメソメソしてる母親なんて面倒だろ」

 拗ねたような声が、横からする。

 肩にかかる重さが心地よく、イーアは笑う。

「そうだよね。

 でも人ってさ、心の中と外で、違う表情作れるだろ? 僕の母上は、決して心の内を見せないんだ。僕たち子供たちには」


 いつも笑顔でまるで少女のように自分を抱きしめる母が、心の底から笑っているとは思えない。

「そういうのって、本人はそう思っていないけど、辛いなって思うんだ。もっと心の底から笑ってほしいなって」

「うん」


「だからチルとも、ちゃんと話せる友達になりたいな、って思う」

「おい、思いっきり脈絡ないなお前」

 呆れたような声がした。


「そうかな……ごめんね。でもまぁ、チルは僕の友達認定だし、心の中と同じ顔で隣にいてくれれば、それが嬉しいとか……そういうことを言いたいのだと思う」

「ばっかみてぇ」

 そう言いながら、チルの声が少し和やかに感じる。

 イーアはそれが嬉しかった。


「母ちゃんの鏡、見つかるかわかんねーけど、ちゃんと探すからな」

「うん、お願い」

「おう」


 ちーい、かちっと一日時計の進む音がした。

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