第3話 「で、君はどうしたいの?」

 大陸の東のはずれに位置する港湾都市メアーレは、東の大公国の首都、ゴルドメア大陸の東で一番大きい都だ。


 港は常に多くの船が停泊し、街は人で溢れている。

 旅人や商人は、大陸のあちこちから船を使ってこの街に来て、そして来た時とは違う荷をいっぱいに積んで帰っていく。

 ここはそんな交易都市だった。


 ブラント商会は数百年前から、この都で商売をしていたという。

 だがここ10年ほどは、かつてのような華やいだ様子はない。


 それも当然だろう。

 当主のオットー男爵は商売下手なくせに、怪しい投資話に手を出し、その妻もひどい浪費家だったのだ。

 先祖代々築き上げた財産も使い果たした。忠誠心の強かった使用人たちも、いつのまにかこの二人を見限って出ていった。


 口さが無い人達は、それも当然だと笑う。

 そもそも10年前、現当主の母マルゴットが突然家を出てしまった時点で、ブランドに未来はなかったのだと。


 マーナが物心つくようになった頃には、屋敷には片手で数えるほどの使用人と、手入れの行き届いていない庭だけがあった。

 両親もそれぞれ愛人がいるらしく、滅多に家に帰る事はない。顔を合わせればいつも喧嘩ばかりしている。


 幼い頃からマーナは、それを仕方ないと諦めていた。

 幸い、家は広く、彼女が自由に行動する事を咎めるものはいない。

 数人しかいない使用人、とりわけ執事のアインツは彼女をとても可愛がっていたので、寂しいと感じることは滅多に無かった。


 祖母が戻ってきたら怒られるかもしれないが、それでも今の両親を叱ってくれるならと、顔も覚えていない祖母に希望を託したりもした。



 ブラントの屋敷の片隅、昔は祖母の住まいだった部屋は今は荷物置き場として扱われている。

 本来は女当主の部屋で、屋敷の中で最も豪華な部屋だったのに関わらず、マーナの母親が物置にしてしまったのだ。

 曰く、あの性悪な女の気配が残る場所など使いたくない。

 祖母はしっかりした人だったそうで、母とは折り合いが悪かったそうだ。


 確かに豪華ではあるが、調度品は古い。

 大奥様は手入れをして大切に使っていたのに、と残念がる年嵩の使用人達の声を聞いてから、マーナはこの部屋に出入りするようになった。


 部屋はあちこちに物が積み上げられ、雑多としている。ほとんど使われないまま白い布を被った家具や、ドレスの箱などは母の買ったものだ。

 その中でひときわ使い込まれた木の家具は、おそらく祖母のものなのだろう。

 マーナはその家具に触れたり、使用人達の手入れを手伝うようになった。そうすれば自然、愛着が湧く。

 いつしかこの部屋は、マーナにとって心やすやぐ場所になった。


 特に両親の言い争う声が真夜中まで続く時は、そっと自分の部屋を抜け出して、この部屋のソファの上で丸まって寝た。

 使用人は心配してくれるが、マーナは自分の部屋よりずっと気楽にこの部屋で過ごしていたのだ。


 あの夜までは。


 夜中、誰かの泣き声でマーナは目を覚ました。


 ソファから少し身を起こし、室内を見渡す。

 柔らかい毛布がするりと滑り落ちた。どうやら使用人の誰かが心配して、かけてくれたらしい。

 心の底からそのことに感謝しつつ、マーナは起き上がった。毛布をかけてくれた誰かが、まだこの部屋にいると思ったのだ。


 だが室内は暗い。

 窓から、心細い月の光が入り込んでいるだけ。

 人の気配は全くなかった。


(誰かしら……)


 マーナはゆっくりと立ち上がり、室内を見渡す。

 泣き声はまだ続いていた。

 誰かがこの部屋の中で泣いている。


 不思議に思いながら、室内を歩く。


 そしてふと、壁に掛けてある鏡の前で足を止めた。


(女の人……?)


 それは不思議な光景だった。

 普通、鏡が映すのは鏡の前のありのままの風景だ。

 今この状況なら、鏡の前で呆然と立つマーナを映し出すはずである。


 だが、今鏡は一人の女を映していた。

 女は淡い緑の髪を振り乱し、号泣していた。だが鏡から漏れ出る声は小さい。それがまるで幻のようで、マーナは首を傾げた。


 女の姿は美しい。

 肌は透けるように白く、瞳は赤い。きっと美しい瞳なのだろうが、今はひどい慟哭のなかで暗く澱んでいる。

 服装も少し現代と違う。

 歴史書の挿絵のような、数百年ほど昔の人々のようだ。


(……幽霊?)


 普通の13歳の娘なら、おそらく怯えてしまうところだろう。

 だが、マーナはただ女の涙を見て、悲しいと思った。できることならこの涙を拭ってあげたいと。

 だが、手を伸ばしても触れるのは冷たい鏡だけ。その向こうの女には当然のように届かない。


「……どうして泣いているの?」

 そっと問いかけるが、女の耳には届いていないようだ。

「……どうしたら、泣き止んでくれるのかしら」

 首を傾げながら、マーナは一人呟いた。

 部屋には今も静かに、月の光が注ぎ込んでいる。


 ■■■■■


「なるほど、幽霊ねぇ」

 チルはそう言いながら、カウンターの上の鏡を見る。


 鏡はだいぶ古いが、木彫りの見事な枠に嵌められている丸鏡だ。だがその表面は燻んでいる。

 イーアは首を傾げた。


「鏡というか、金属の板にように見えるが…」

 イーアの声にチルが笑う。

「銅鏡だよ。知らねえの?」

「銅鏡?」

 素直に首を傾げるイーアに、チルは鼻で笑った。


「今の鏡はガラスの板に銀を塗って作るものだが、昔は金属の板を磨いたものを鏡にしてたんだ。すぐ燻んじまうし、磨くのも手間だから最近はすっかり廃れたが。

 だがこいつはきっと大切に使われてたんだろうな」

 チルの視線は優しい。

 イーアは改めてその鏡を見た。


「枠はオークっぽい。だいぶ古いけど」

 チルの言葉に、マーナは頷く。

「お屋敷の裏に、大きな樫の木があるんです。この鏡はその枝から作ったそうですわ。

 鏡は我が家に伝わる古いもので、お婆さまが大切に使われていたとか」

 母は興味がなくて、ここ数年は全く磨いてもいないんです。とても寂しそうにマーナはそう告げた。


「では、その木はまだあるんだね」

 イーアが顔を覗き込むように語りかけると、マーナは一瞬驚いた様子で頷いた。ほんのり頬に朱がさす。


「で、君はどうしたいの?」

 チルの問いかけに、イーアの顔をじっと見ていたマーナが慌てて両手で頬を隠した。

「ご、ごめんなさい! えっと……」


 ちっとチルが舌打ちして、赤面しているマーナからイーアを離す。

「お前、近すぎ」

「え、え、あっ」


 チルに引っ張られ、イーアは大きくバランスを崩した。アルが支えてくれなければ、きっとこの埃だらけの商品の上に転がっていただろう。


「ちょっと離れてろ」

 唖然としているイーアに、やはりチルは冷たい。


「か、鏡ですよね。幽霊さんがいるのですけど、ただとってもかわいそうなので、泣き止んでほしいんです」


 マーナは真っ直ぐにチルを見つめて言う。

 チルは彼らしく、にいっと口角を上げて笑った。

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