ゲンゲと桜

アナベル・礼奈

第1話

 零、プロローグ


 ある雨の日。ある島のアパートで2人の女が話をしている。

「姉さんそんなのやめてよ。何にもならないじゃない。」

「春香。決めた事なの。あなたの為にもなるじゃない。」

悔しそうに膝の上の拳を握る、短い黒髪の女は加藤春香という。目の前の異父姉妹の前であぐらをかいて缶ビールを飲んだ。

「でもそれじゃ、姉さんが救われないよ。」

「救いなんて求めてないの。人間なんて好きに生きて好きに死ぬだけよ。私がどう死のうが、春香に迷惑をかける事はしないわ。自殺とかね。病死は勘弁してね。」

左目の目元にほくろがあるグレーのスーツの女が同じ銘柄の缶ビールを開けて飲んだ。

長髪で艶やかな黒髪だ。冷たく加藤春香を見据える姉はじっと黙っていた。加藤春香はうつむき、しばらく沈黙が続いた。

「血で血を洗う、なんて良く言ったわよね。血って水で簡単に落ちないの。血を洗う為に血を求める。血だらけになった所を切り落としちゃっても、今度はその傷が新たな血を求める理由になる。その連鎖か。」

加藤春香が、がばっと顔を上げて、冷徹な目で缶ビールを飲みながら宙を見る姉を見た。気だるそうに低血圧なしゃべり方をするが、言っている事はドギツイ。

数秒考えて、加藤春香は決心した。

「わかったよ。アタシもやる。」

「ありがとう。」

「でも条件があるの。それを呑んでくれなかったら断るよ。」

「聞き入れられる範囲なら。」

加藤春香は一呼吸おいて口を開く。

「あと2人、呼んでほしいの。ダチ子とちさ。」

姉は首を傾げた。

「誰それ?」



 一、足立澄子


 私は足立家の長女。20歳の大学生。 長女と言っても、お兄ちゃんが2人、末っ子だ。

 自分では“普通”だと思っている。特に運動も勉強も得意じゃない。学校は、中学も高校も東京都で、身長は高校2年の頃で173cm。バスケとかバレーによく誘われた。体操部に誘われた事もあったけど、試しにやってみると、平均台から落ちて、鉄棒の逆上がりができず、跳び箱はいつもてっぺんに乗っかる。身長だけで運動神経は無いとも言われたが悔しいとは思わなかった。

 勉強は、全部大体60~70点。得意科目は古文と漢文だった。

 人格的には、目立つタイプではない。大人しい方だ。イジメられた事も、した事もない。それなりに友達はいた。毎日の様にカラオケとかカフェとか男友達と遊びに行ったりは無かった。結構ドライで女友達とたまに映画に行くくらいだ。彼氏はいた事がない。告白される事はあったが、なんだか面倒だと思った。だからって一生独身というわけではない。なにか、来ない、という表現になってしまう。

特技は合気道。強くてかっこよくて、私は水城さんという女性に憧れた。良助兄ちゃんと仲がいいし、水城さんの勧めもあって面白そうに感じて、道場に入る事にした。師範からは才能があると褒められた。良助お兄ちゃんにも言われたけど、水城さんに言われた時は嬉しかった。

 それ以外の特徴は、女の子から告白された事が何度かあったり、やたら変な、狂犬みたいな悪友がいた事くらいか。誇張している訳じゃない。アイツは正に狂犬だ。加藤春香という

 加藤春香との出会いは中学校2年生で、地元では有名なヤンキーと言われていた。顔立ちとスタイルの良さ、言動の乱暴さが混じって暴走族の女だと言う噂が流れていた。私はそれに興味はなく、狂犬の様な言動はさておき、そんな風には見えなかった。実際、荒い言葉の中に、いつも誰かの事を考えている風だった。イジメが大嫌いな性格で、複数人に熱狂的支持者がいるなんていう噂もあった。

 ある日、体育委員の仕事で、体育館の裏に赤いカラーコーンを片付けに行った時、彼女は複数の男子生徒相手に怯まず喧嘩をしていた。ものすごい怒鳴り声を上げて、男子生徒達は去ってった。イジメられていた女子生徒を助け起こして、背中を叩いて、私のいる方向へ押し出した。くしゃくしゃな泣き顔の女子生徒は私の横を走り去った。一本道で、男子生徒達が逃げた方向の道とはち合わせずに、校門までいける近道だ。

 彼女の後姿を眺めた後、正面を向くと、恐ろしく怖い顔をした加藤春香が眼前にいた。何でも切れそうな鋭い目でメンチをきっていた。身長は同じくらいだ。

「あんだよ。」

すごんでくる彼女に、私は赤いカラーコーンを持って佇んで、彼女は何も言わずメンチを切り続けている。

「優しいのね。知らなかった。」

数秒間、私を睨み続けて、彼女は視線を逸らした。私の腕から赤色のコーンを奪って所定の場所に放り投げた。呆気に取られている私の胸を一瞥して「地名かよ。」と言った。私に背を向けて唾を吐いて去っていった。

 翌月の球技大会でバスケットボール大会があった。私は試合開始の時に、目の前にいる加藤春香に驚いた。ポジションは同じセンター。身長で選ばれたんだから当然だ。向こうも驚いていた。「礼!」と体育教師が合図をすると、8人が「よろしくおねがいしまぁーーす!」と頭を下げあった。その時、私達は頭を下げず、無表情だった。不意に加藤春香は微笑み、握手を求めた。私も微笑み返して握手した。

「へっ。」と満面の笑みを浮かべて、私も同じ様に笑った。他の両チームのメンバーも戸惑う様に握手して、ぎこちない笑顔を交し合った。なんでわざわざ?とも思った。

 試合結果は私の惨敗だった。彼女は運動神経がいい。センターで、いつもゴール下を取られて、リバウンドは取られるし、加藤春香は100%シュートを決めた。試合が終わると私に手を振った。バレー大会でも、私はいつも彼女に負けるが、悔しいなんて思った事は無かった。その後は、たまにすれ違った時に「よぉ。」と挨拶してくる様になった。不思議な事といえば、高校進学シーズンが始まる頃だった。

 ある日、彼女から呼び出された。学校の近くの喫茶店だ。不承不承、時間通りにいくと、彼女はいない。アイスコーヒーを頼んで待っていた。カバンから好きな小説を取り出して時間を潰した。当時流行っていた推理小説だ。

どのくらい経っただろう。ドアベルが鳴って、ふと顔を上げると、加藤春香だった。キョロキョロと見回し、すばやく私を見つけ、ズカズカと迫り、私の前の席にドッカリと座った。綺麗なウェイトレスさんがおしぼりを持ってくると、ぶっきらぼうに「エスプレッソ」と言った。「かしこまりました。ごゆっくり。」と言って2枚目の伝票を筒に入れると、すぐに彼女は2枚とも手にとってポケットに突っ込んだ。

「奢ってもらおうなんて思ってないけど。」

「別に気にすんな。誘ったのはアタシなんだからよ。」

「そう。ならごちそうになるわね。」

彼女のエスプレッソが来るまで無言が続いた。彼女は何を見ているのわからないが、ボーっと外を見ていた。彼女のエスプレッソが来る。彼女がカップを上げる。私もならって挨拶をする。「にが。」と言って彼女は小さなカップを置いた。少しすると、彼女の方から口を開いた。

「高校行くの?」

「会田に行きたいかな。」

「なんで? 進学校だから?」

苦いといったエスプレッソを口につけながら聞いてきた。私は一呼吸を置いて答えた。

「学歴に興味は無いの。ただ、お兄ちゃんと水城さんもいるし、合気道部もあるから。お兄ちゃん達は私と入れ替わりで卒業しちゃうけど。」

「水城?」

「そう。私、合気道やってるの。言ってなかったっけ?」

加藤春香はきょとんとして私を見ている。彼女が「へっ。」と笑った。

「そういう事かよ。」

何の事かわからず首を傾げている私を無視して、私に言った。

「相変わらずだな。」

立ち去ろうとした彼女に、つい声をかけた。「ねえ。」彼女は冷たい表情で振り返った。

「あなたの事、なんて呼べばいいの?」

彼女は握り締めた伝票を握り締めて。一呼吸置いて、振り返った。

「言ってみろよ。アタシもそれによって決めるよ。」

「カトハルなんてどう?」 彼女が「へっ。」と笑った。

「じゃあ、おまえはダチ子だ。」

お互い笑って、ヒラヒラと伝票を振って彼女は去った。私はゆっくりアイスコーヒーを楽しんだ。結局、何が聞きたかったのかわからなかった。


 会田高校に進学した時、カトハルの名前がある事には驚いた。

 私はいつも母が作ってくれるお弁当を食べていた。必ずトマトを2、3切れ入れる。

 いつも友達と食べてはいるのだが、何か理由をつけて、たまに1人になりたくて、校庭のベンチでお弁当を食べる事があった。そんな時に、毎回ではないが、たまにカトハルが話しかけてきた。カトハルはいつも売店の焼きそばパンとコロッケパンだった。特に女子高生らしい話をするわけでもなく、ほとんど喋らずに2人とも食べていた。カトハルは、よく私のお弁当から輪切りのトマトを無言で奪った。コロッケパンや焼きそばパンに挟んで食べる。特に好きじゃなかったから何も言わなかったが、2回目に聞いてみた。「トマト好きなの?」カトハルは無表情に空を見上げて答えた。

「別に。ただ口の中がぱっさぱさになって喉につまるから。」

言いたい事はわかる。私のお弁当から奪う理由もなんとなくわかった。ただ単純に自分で飲み物を用意するのが面倒なだけだ。食べ終わると「じゃあな。」といって120円を置いて去った。

 噂には、高校生になってもやんちゃな事をしているみたいだ。彼女自身には何も聞かないが、そんな噂を聞く度にくすっと笑ってしまう。高校生になって変わるのかなと思っていたが、カトハルは全然変わらない。そんな彼女が面白いと思う様になっていた。

 ある時、ある女の子に呼び出されて、告白された。正直困った。

中学校の時、丁重にお断りをした時、泣かれて収拾がつかなかったのを思い出した。今回も同じ事にならなければいいがと、正直、気が重かった。ファミレスで話を聞いた。

目の前の女の子は、小さくてかわいらしくて、真っ赤な顔でもじもじしている。レズじゃないとバッサリ切る事もできなかった。

「変な質問なんだけど。なんでアタシなんかに? かわいいんだから、西原君とか人気あるじゃない。アタシの周りは鬱陶しいくらいそんな話してるよ?」

不満げな顔をして女の子はカフェオレを飲んで、ため息をついた。

私は何をしているんだろう。レズビアンの相手を真剣に対応している自分がわからない。

「だって、男子って体目当てっていうか、なんかがっついてて嫌い。足立さんはいろんな話聞いてくれるし、クールで、優しいんだもん。」

この子は、おっぱいが大きくて、男子が食いつきそうなスタイルをしている。体目当てっていうのも何回か言い寄られた経験があるんだろう。でも、女にはしるのはどうだろう。少なくとも私は救いにならない。

「じゃあ友達でいいじゃない。」

「1番がいいな。」

正直困った。この子と仲良くなっても、なんか束縛されそうで気が進まない。きっぱり断ろうにも言葉が浮かんでこない。中学の頃の記憶がよみがえる。

「よう。ダチ子。」

ガラの悪い女子高生が声をかけてきた。女の子は、露骨にビクついて窓側に退いた。黒髪に耳ピアス、右目に眼帯をつけ、貝殻のブレスレットをしている背の高い女。カトハルだ。

 彼女の後ろに、色黒の金髪の不良みたいな女と、黒髪の小さな女子がいる。2人を従えて、カトハルはガムを噛んでいる。相変わらず相手を威圧する眼力や態度。誰が見ても立派な不良だ。

「カトハル。今、この子と話してんの。邪魔しないでくれる?」

カトハルは半ば怯えている女の子を一瞥して鼻で笑った。

「彼女かよ。」

私も鼻で笑った。

「アンタには関係ないでしょ。」

「へっ。」とカトハルが笑って、3人は奥の席に消えていった。

落ち着いてコーヒーをすする私に、怯えた様子の女の子が言った。

「何なんですか? あの不良達。お友達なんですか?」

私は笑顔で首を横に振った。

「ただの腐れ縁よ。ちょっとトイレに行くわ。」 

 私は伝票を持って去った。レジでお金を払って、帰ってみると彼女はいなかった。ドリンクバーでホットコーヒーを足して、一息ついた。もしかして傷つけちゃったかも。ボーっと窓の外を眺めていた。

「相変わらずモテてるな。」

ドリンクバーのウーロン茶を片手に、右目に眼帯をしたカトハル対面に座った。

「アンタもじゃない。女の子2人もはべらせて。」

「うるせぇよ。」

カトハルは疲れた様に座席にもたれ、天を仰いでため息をついた。

「どうしたの。それ。」

「犯ろうとしてきた男、ぶん殴ったら殴り返されたんだよ。あいつらが来て、運よく教師が近くにいたからこれで済んだ。今日はその礼だよ。アンタも来るか? いい奴等だよ。頭が良いし、頼りになる。」

「男に囲まれたりしたら嫌だから。遠慮するわ。それ、いつ治るの?」

「2週間だって。治療費は全部向こう持ちで、1週間の停学処分。意外と軽いな。」

カトハルは大きなため息をついて、ウーロン茶を飲み干した。どのくらいか、2人とも外の景色をボーっと見ていた。

「これからどうする気だ?」

カトハルが言った。

「とりあえず、アタシの卓の客としてドリンクバー取りに行くのはやめて欲しいかな。お会計すんでるの。」

じろっと私に目線を流して「へっ。」と笑った。

「アタシは高校卒業すると、お見合いなんだってよ。」

あまりの衝撃に私はカップを置いた。

「何とかっていう、キノコみたいな名前の島に親父が異動になって、飲み会の席でアタシの婚約者候補の会社の人間紹介するって酔った勢いでしちまったらしい。酒の席の話で、そのおっさんも親父もうろ覚えで、島の名前を正確に覚えてな印だとよ。でもよ。いつか来てくれよ。」

それだけ言って、カトハルは奥の席に戻っていった。

不思議な気分だった。カトハルの幸せがどんな形になるかも想像できないけど、要は親の都合の政略結婚か。でもアイツならきっと。

私はコーヒーを飲み終わって、何かいづらくて、店を出た。

 高校の卒業式で、カトハルに会った。

 無表情で対面した。少しして、お互い引きつった笑顔で挨拶した。私も、カトハルも女子人気が高くて、記念撮影を後輩や同輩からせがまれ続けて、笑顔に疲れていた。やっとお互いを見つけて、何を言えばいいのかわからなかった。先手はカトハルだった。

「へっ。」

 私も笑い返した。

「キノコ島の春香夫人? いつから行くのよ。」

「へっ。んなもん断るさ。よりによって、あの島だなんて思わなかったけどよ。」

カトハルは、空を見て、いつもの元気が感じられない表情をしていた。いつも付けている貝殻のブレスレットを見ている。

「アタシは頭よくねぇけど、色々がんばってみるさ。」

私信頼する悪湯であっても、心のどこかで心配になった。

「へっ。またな!」

彼女はとても美しい。桜吹雪の演出も相まって、まるで絵画だ。私は満面の笑みで応えた。カトハルが、ぎゅっと私の手を握り、笑って歩み去った。私は心に穴が開いた気分になった。私はカトハルに対して、ある種の好意を抱いていた。同性愛じゃない。単純に友人として、力になりたかった。水城さん鋸刃を思い出した。

「良助が、自分で助からないと意味はないの。誰かに勝手に助けてもらっても、本当には助からないと思うよ。もちろん、きっかけくらいなら力になりたいけどね。」

私は、カトハルの後ろ姿を眺めながら、カトハルを信じようと、自分に言い聞かせた。

 高校を卒業後、そこそこ名の知れた大学の法学部に入学した。

合気道のサークルや部活動はないのは残念だけど、慣れ親しんだ道場で、水城さんや良助お兄ちゃんと接していれば楽しかった。

 大学の生活は、上辺だけの付き合いが多く感じた。普通に数人の友達を作り、普通に飲み会に行き、普通に単位を取得している。特に目立たない普通の女子大生生活だ。

 同期の学部生で有名人がいる。安藤涼子という。

 小顔で、色白で、アイドルみたいにかわいらしくて、身長は少し小さく、胸が大きい。全身のバランスがとれた完璧なプロポーションだ。1年生の4月。サークルの勧誘が活発で、私ですら、歩いてるだけで、うんざりする程声をかけられる。彼女の場合は、その数倍だ。まるでスキャンダル起こした芸能人の様に群集が彼女を囲んでいた。共通の友人から聞いた話だが、安藤涼子はとても社交的で、友達が多く、多趣味らしい。そんなにしてたら疲れちゃうじゃない、と言いたくなる。別に嫉妬する事もなく、私はそこそこの静かな生活が好きなだけだ。主席挨拶をするくらい完璧な才色兼備の、完璧女子大生。私は道場で汗を流して仲間と笑い合っている普通の女。ただそれだけだと思っていた。

 20歳の7月。

 夏合宿だの旅行だのと色めきだっている男女がうろちょろする生協の前には、旅行プランのチラシが棚一杯に並んでいる。私はお弁当とジュースを買って、目立たない裏庭でゆっくり昼ごはんを食べていた。そんな時、ふと悪友を思い出す。

「そういえば、アイツは焼きそばパンとコロッケパンばっかり食べてたな。」

アイツは今何しているんだろうか。婚約破棄したのか、実は素敵な旦那様で結婚したのか。

「隣、いいですか?」

急に女の子が素敵な笑顔で話しかけてきた。安藤涼子だ。驚かない訳は無い。

数秒黙っていると、彼女の目が曇った。彼女が小さく会釈をして去ろうとした。何か悪い事をした様な気になって呼び止めた。

「いいですよ。どうぞ。」

彼女は足を止め、可愛い笑顔でお礼を言って隣に座った。弁当箱を開けて、礼儀正しく「いただきます。」と言って小さいお弁当箱から、ちょっとずつ、ゆっくり咀嚼して食べる。私は彼女の弁当箱よりも大きい手元の弁当を、倍以上のスピードで食べている。

 会話のネタもなく、少しの間2人とも無言で食べていた。日和のいい、風が気持ちいい場所だ。先に食べ終わって、散歩でもしてから授業に行こう。後はちょっとだけのナポリタンスパゲティと。ポテトサラダ。から揚げが1つと3割くらいのごはん。

「あの。」

すごく細い声で彼女が話しかけてきた。「足立、さんですよね。」

目を見開いた。私の事を知っている学部生なんて友人くらいだ。目を見開いた私に対して、彼女はチラチラ視線を逸らしながら、言いずらそうにしている。

「えぇ。安藤さん。」

「え!」

彼女は予想以上に驚いて弁当箱を握り締めた。驚かれた私の方がびっくりした。

「だって、首席で、あなたの周りはいつも人だかり。有名人じゃない。私は目立たない普通の女。なーんにも面白い事なんて無い。あなたが羨ましいわ。」

 私の手元の弁当にはひとかけらのご飯とザラザラした苦手なポテトサラダが残っていた。彼女のお弁当はまだ半分くらい残っている。うつむいて箸が止まっている彼女。これ幸いと思い、ポテトサラダと残りのご飯を口に放り込んで、緑茶でかっ込んで、ビニール袋に容器を突っ込んだ。さて、今日は野球場でも回ろうか。それとも人の少ない所をふらふらしようか。

「お先に失礼するわね。」

ゆっくりと立ち上がって、彼女に背を向けた瞬間だった。

「あ、あの! 加藤春香さん! 知ってますよね?」

 あまりの衝撃の名前に驚いた私が振り返ると、まるで宿敵を見る様に彼女は私を睨んでいた。

 驚いた。カトハルの名前が出た事が8割、彼女の眼力が2割だろうか。私は色々考えた。彼女が何故カトハルを知っている。何故、私との関係を知っている。同じ高校なのか? 中学だっただろうか。これだけの美人なら知っているし、噂にもなるだろう。私とカトハルについて、どこまで知っている。何が言い、何を要求するんだ。考えれば考える程時間は過ぎた。数秒だったのだろうが、ずいぶん長く感じた。成績首席のアイドルが、得体の知れない挙動不審の女に変わった。

「誰。かしら。」

彼女はチラチラと私をみて、何か悩んでいる。もう少し時間が過ぎれば、「何なんだこの女は。」と憎しみさえ沸くだろう。我慢できなくなり、私が去ろうとしたその時、彼女は唇を噛み、弁当箱を置いて勢いよく立ち上がり言った。

「アタシ! 春香ねぇさんの友達です!」

振り返った時の彼女の眼力に、気圧されそうだった。どこかで見た事がある気がした。

「覚えてませんか!?」

冷静にじっくり観察すると、身長、足の長さと肩幅。時間はかかったが、目でピンときた。

「もしかして。あの、ファミレスの時の?」

安藤涼子は力強く頷いた。

 思い出してみるとよく似ていた。高校時代、女の子に告白されたあのファミレスで、カトハルが突っかかってきた時に、カトハルの後ろにいたガングロの金髪少女だ。なんで色白美人になったのかわからないが、随分イメチェンしたものだ。

「今日の夜、お話しできませんか?」

安藤涼子の誘いに、私はのった。

「今夜、7時にとり雅でいい?」

彼女は小さく頷いた。

 その日の授業の内容は全く頭に入らなかった。

安藤涼子が何を求めてきているのか。何が言いたいのか。カトハルに何かあったのか。カトハルの使者なのか。色々な疑念が頭を駆け巡った。授業が終わってから、約束の時間まで、私は1時間くらい暇をもてあまして、カフェに入った。何度もいじっている携帯で、「加藤春香」の電話番号を何回も見た。彼女はメールが嫌いだった。メールを受ける事はあっても、返してくれる事はあまり無い。だから出すのもやめておいた。

 安藤涼子からメールが来た。

「今から出ます。すみません。あと30分くらいかかります。」

キャンパスからは確かにそのくらいかかる。私はカフェを出て、近くのコンビニで発泡酒を買った。近くを歩き回りながら飲んだ。

 2人でとり雅に入り席について、お通しが来て、お互い生ビールを頼んで、乾杯した。安藤涼子はうつむいて目が泳いでいる。私も何を切り出せばいいかわからない。

「足立さん。」

彼女はうつむいたまま。ぼそっとつぶやいた。

「今日はごめんなさい。いきなり。びっくりして当然ですよね。春香ねぇさんの名前出されて驚かないわけ無い事は、わかってたんですけど。つい。」

「つい。どうしたの? カト・・・。春香に何かあったの?」

私が言い直したのはカトハルというのは2人の間でしか通用しないあだ名だったから。

彼女は小さく首を振って、微笑んでいた。

「そういえば、ねぇさんとのつながり、説明してませんでしたね。」

彼女は自己紹介をしてくれた。

彼女は中学高校の時、カトハルと違うクラスの同級生で、ある事が原因でカトハルと

知り合ったらしい。中学の時、安藤涼子は同じクラスの女子に何回もイジメられていたという。ある時、イジメられていた彼女を、ぶっきらぼうでも救い出してくれてから、仲良くなったらしい。奇しくも同じ中学、高校や大学まで一緒。広池中学、会田高校、央真大学までよく気がつかなかったものだ。

 そのイジメ女子は何かに怯える様に大人しくなり、カトハルは裏番扱いになった。その事件の後、安藤涼子は色々とカトハルの影響を受けて、カトハルについて歩く様になったとか。

 私はビールを飲みながらくすくすと笑った。よくもそんな漫画の様な事ができるものかと思った。話し終えると安藤涼子も笑った。

「カトハルらしいわよね。漫画みたいな事やっちゃうんだもん。」

つい出てしまった。そう思ったが、安藤涼子は何も変わらなかった。

「そうですね。ねぇさん。でも。私にとっては、あなたの方が不思議なんです。」

ジョッキの取っ手を握り、涼子はうつむいた。

「ダチ子。ダチ子。ダチ公みたいでいいだろ、って。でも、アタシの事は涼子としか呼んでくれない。なにか特別な呼び方をして欲しかった。」

何を言えばいいかわからなかった。彼女の言葉からは、私に対する敵意を感じた。

鋭い眼光を見た。涼子、私の驚きに気づいたのか、とても可愛い笑顔で「へっ。」て笑った。私はニッコリ笑って応えた。

 その後はお互いカトハルについて語り合った。お互い知らないアイツの事を知る事ができた。高校の頃、私が知らない武勇伝もしょっちゅうやっていたらしい。男女構わず相手にして、気に入らないと胸ぐら掴んで恐喝していてたとか。ぶっきらぼうで優しくて、困ったものだ。同郷というか、同じ環境で過ごした者同士、話も盛り上がり、けらけら笑っていた。カトハルの昔話をしている時は安藤涼子はかわいい笑顔で笑っている。

 お酒もすすみ、おなかもいい具合になってお互い、少し話し疲れた頃だった。安藤涼子は1つだけ心配事があるといった。

「今、ねぇさんが何してるかわからないけど。何か怖いんですよ。誰かに操られている様な。まるで、ねぇさんが駒に使われている様な。」

私にとっては初耳だし、およそイメージがつかない。あの婚約の話しだろうか? 狂犬の様なアイツが誰かに操られているなんて。

「どういうこと?」

「たまに、メールすると、返事もしてくれるんですけど。なんか、ねぇさんらしくないんですよ。杓子定規って言うか、丁寧っていうか。なにか、ねぇさんの虚ろな表情が目に浮かぶっていうか。ここ何日も連絡が取れないし、御実家に電話しても行方不明だって。」

行方不明という言葉に驚いた。

「家出?」

「わからないんだそうです。まだ、そんなに時間が経ってないからって言ってますけど、私、心配で。」

 私は、まずは、警察に頼んだ方がいいのではないかと言った。安藤涼子は首を振った。

「御両親が拒否をしているんです。理由はわかりません。特にお母さんが。」

どういう事だ。いくらカトハルのあの性格でも、実家暮らしで何日も帰ってこなければ、普通は警察に相談するだろう。

「おかしいじゃない。長野は? だいぶ前に写真が送られてきて、長野にいるって。」

私がスマホを取り出してホルスタインと写っている写真を見せた。安藤涼子は首を振った。

「お母さんに聞いたら、最近、島に戻ったって言ってました。」

私は何がどうなっているのかわからなくて困惑した。

「やっぱり。変ですよね。私、ねぇさんが心配なんです。だから、今年の夏休み。私と一緒に舞竹島に行きませんか?」

ビクッと体が反応して顔を上げた。舞竹島。そういえばカトハルが言っていた。「キノコみてぇな名前の島」の事か。

「舞竹?」

「えぇ。先週の夜中にねぇさんが、気持ちいいぜ!ってすごいドヤ顔の写真。これです。見切れていた看板を調べてみたら、多分、舞竹島なんです。姐さんがたまに漏らした故郷の島の名前と合致します。」

安藤涼子はその写真を見せてくれた。突き抜ける様な爽快な空と青い海。自撮りなんだろう。どこか偉そうで人を見下した様な、上から目線のアングルで、その写真から「へっ。」という、あのふてぶてしい笑い声が聞こえてくる気がした。

安藤涼子は、右端に、遠めに見切れている木製の看板を指さした。矢印の形の案内板だ。「八代 3km」と書いてあった。安藤涼子がインターネットで調べたところ「海岸沿いで、舞竹島、八代、3kmの条件に合う場所」を探すとストリートビューで、八代町から3kmの所に同じ風景を見つけたらしい。ほぼ確実にこの場所だろうと私も思った。八代岬。

「この写真は先週のいつ来たの?」

「土曜日です。」

6日前だ。それからはメールを送っても返信はないという。行方不明になっているのにこんな事するなんて理解ができない。期末試験は来週で終わるか・・・。

「私はいいけど。もう予約なんて取れないんじゃないかしら。」

「大丈夫です。もうとってあります。」

 安藤涼子は、まるで先生に提出するレポートの様に、しっかりまとまった紙の束が挟まれたクリアファイルを差し出した。私は面食らって数秒固まった。彼女の目は真剣そのもの。恐る恐るクリアファイルを手に取り、地図が載っている観光パンフレットには○でつながった矢印が引いてあり時刻表、宿の情報など、それぞれに、重要と感じただろう部分に、アンダーラインが引いてある。さすがにドン引きした。

「アタシが断ったらどうするつもりだったの。」

「1人で行きます。」

即答する彼女の目は、全く揺るがない。私は威圧されながらも、ため息をついて頷いた。すると、彼女はにっこりと笑って「よかったぁ~。」と言って、気が抜けた様にテーブルに突っ伏した。緊張の糸が解けたのか。それは私の方だ。ずっと思っていたが、カトハルの近くにいる人は、どこか特殊というのか異常性がありながら、どこか気の抜ける一面を持っている。

「ほんと、アイツの周りの人って変わってるわよね。」

私は笑いながら、ぬるくなったビールを飲み干して、2杯おかわりを頼んだ。

 ふと彼女を見ると、きょとんとした顔をしている。私はくすくす笑って卵焼きを食べた。彼女は箸をおいて、冷静に聞いた。

「ねぇさんは、足立さんが一番変わってるって言ってましたよ。一番。」

安藤涼子の眼はまた冷たくなった。ちらちらレポートを見ていると、宿は3人で取ってある様で「これって?」と聞いたら、涼子は慌ててビールを飲み干して口をぬぐった。

「もちろん悪口じゃないですよ! それと、今回の話し。もう1人強者がいるんです。ほらあの時の小さい子。」

確かにいた。名まえも素性もわからないが。彼女もこの作戦に酸化するのか。

「ねぇさん言ってました。ダチ子はブっ飛んでる。だからおもしれぇって。」

「失礼な奴ね。狂犬に言われたくないわ。」彼女に悪意が無い事は感じたし、カトハルの言いそうな事だ。

 安藤涼子からクリアファイルを受け取って、私の終電の時間近くまで2人で飲んだ。安藤涼子と私の家は反対方向で、駅で別れた。

 電車の中でスマホを確認すると、過保護な良助お兄ちゃんからの着信が何回かあった。サイレントモードにしていたから気づかなかった。和彦お兄ちゃんからもメールが来ていた。「連絡くらいしろ。」和彦お兄ちゃんは優しくて口数が少ない。両親の事を思って、私の失敗を弁護してくれる事が何回かあった。私は良助お兄ちゃん、和彦お兄ちゃんに「ごめんなさい。女の子と飲んでました。もうすぐ帰ります。」とメールを送った。良助お兄ちゃんからはお叱りのメールが何回か来た。良助お兄ちゃんに付き合っていたらきりがないから、私はスマホをポケットにしまい、電車の自動ドアの手すりにもたれながら、夜中の景色を眺めていた。

 確かに、カトハルはぶっとんだ狂犬みたいなところがある。でも、いきなり家出なんてやっぱり訳がわからない。最近、長野から舞竹島に行った途端に、そんな事する理由って何なんだ。

 実家の最寄り駅で電車を降りた時、スマホが震えた。確認すると母からだった。我が家のアイドル、黒猫のヤマトがメンチきってる画像と一緒に「いつ帰ってくるの?」と。

良助お兄ちゃんからは誤字脱字だらけのメールの乱発。「盗人猛々しい」を文字って「末っ子猛々しい」と言う。

「絶対酔っぱらってるなぁ。」

足立家は皆のんべぇだ。それでも李霊的なのは母と和彦お兄ちゃんだけだった。

「カツオブシ買って帰る。」と母に返信した。良助お兄ちゃんは無視。

安藤涼子から受け取ったクリアファイルを見ていた。また読んでもかなり緻密で、実現できるのかとも思った。まるで時計の歯車の様で、どれか1個狂うと頓挫しそうだ。

 夜の11時。ずいぶん長い事話していたんだな。

家の鍵を開け「ただいま。」というと、リビングから良助お兄ちゃんが出てきた。

「澄子! 連絡くらいしろ!」

怒っている。何度、過保護だと言っても聞いてくれない。

「良助。スミちゃんも年ごろなんだから、夜遊びくらい、いいじゃん。」

驚いた。水城さんがいた。赤ら顔で片手にはロックグラスを持っていた。水城さんもイケる口だ。母は理性的に私の買い物袋を取って、カツヲブシを開けると大和が狂った様にエサ箱にかをを突っ込み、母は撫でていた。

「あんまり塩分取らせちゃダメよ。」

「はぁーい。」

私はキンキンに冷えたビールを取り出し飲んだ。

「澄子! どこ行ってたんだ!」

ベロベロの良助お兄ちゃんが絡んできた。私はため息をついて、缶ビールを飲んだ。

「良助。いい加減にしなさいよ。スミちゃんだって彼氏いてもいいじゃない。今日は女の子と一緒だったって言ってるんだし。」

「なんだお前彼氏いるのか!」

水城さんが厄介で妙な火を点けてしまい困った。

「良助。いてもいいだろ。水城さんの言う通りだ。お前のせいで行き遅れになったら責任とれるのか?」

和彦お兄ちゃんがフォローしてくれた。良助お兄ちゃんは黙っていた。

「はっはっは! まぁ、確かに孫の顔が見たいなぁ。何人いてもっていうか、何人でも欲しいよ。」

父もすでに出来上がっているようだ。

「だから、女友達だって。彼氏なんていないよ。」

良助お兄ちゃんがムスッとして水城さんの隣に座った。

「ほら、飲みな。」

水城さんが良助お兄ちゃんのグラスに氷をたして、芋焼酎を注いだ。

「ねぇ~。ヤマト。お酒飲みって、ホント面倒くさいわよねぇ。」と、母がカツオブシを食べ終えたヤマトを抱っこしている。

 私もソファーの端に座って酒宴に参加した。

 「なんかおもしれぇ番組はねぇのかなぁ?」と、父がパチパチとチャンネルを変えている。私はある旅番組に注目し「とめて!」と父に言った。父はリモコンをそふぁあに放り投げた。女子レポが空中から奇麗な島を解説している。

「舞竹島という美しい景観もさる事ながら、伝統的で独特な踊りは必見です。では、VTRをご覧ください。」こんなタイムリーな事もあるものか。バッグの中のクリアファイルに視線をやる。ビールを飲みながら番組を見る事にした。

 舞竹島は東京都から船で2時間の島で、ドローンで映される景観は綺麗だ。海の色は爽やかな青色で、砂浜は真白い。ビーチで遊んでいる子供と、精悍な顔立ちの白人達、女性が2人。家族に見えた。麦わら帽子をかぶった、お腹の大きな、優しい笑顔の美人の白人女性が、ビーチパラソルの下で彼らに手を振っている。お腹の大きな白人女性がインタビューを受けていて、微笑んでいる。

「とても好きな島よ。前は沖縄にいたんだけど。同じくらいステキな所よ。この子と海岸でいっぱい遊びたいわ。」と流暢な日本語で、大きなお腹をさする。

 古来からの漁業の町で、港が観光名所とまではわかった。その後は芸能人のクイズとグルメの話になってほしい情報は得られなかった。

「酔っぱらっちゃった。そろそろ寝るね。」

私はリビングを出て自室に戻り、寝転がって、クリアファイルを机に置いた。考えてみたら、安藤涼子が、私に協力を求めてきた意味は未だにわからない。私を巻き込む必要性がどこにある。知己だから。それだけか? 私がいないと困る理由なんてないだろう。わからない。

「今日は変な日。」

 

 二、安藤涼子

 

 ビリ。

小学校の時についたあだ名だ。

算数と理科だけは人並みにできたけど、他の教科は全部苦手だった。

国語、社会、体育、道徳。一個だけの答えが無いと思っていた。社会は、なんでそうなったのか。本当は違うんじゃないかと聞いても、先生は何も答えてくれなかった。でもテストの解答は1つじゃないといけない。○か×かで点数が決まる。何で正解じゃないか誰に聞いても、両親に聞いても同じ答えが返ってきた。

「算数できるのになんでバカなの?」

わからないんだもん。その正解に至る道がわかって、納得できたらいいだけなのに「そうだからそうなんだ。」って言われる。そんな時、周りからよく言われた。ビリって。

 次第に周りは私を面倒くさくなって相手にしない様になった。元々気が弱く、厳しく躾けられた自身の経験もあってか、すぐに相手に迎合する私の癖に、物事を突き詰めようとして口答えするのが相手の癇に障る様だった。両親も、周りもそうだった。

 気が強いタイプの女子グループとか男の子が苦手で、温和な性格の高橋祥子と友達になり、一緒に、何でもない、漫画とかアニメとか、アイドルの話をしているのが好きだった。祥ちゃんはとても噂好きで、全校生徒の性格まで知っているのかと思った。話が面白いし、楽しそうに話す彼女の笑顔が好きで友達になった。誰が誰を好きかとか、誰と誰が付き合っているとか。何でも知っている。交友関係も広いみたいだ。

 公立の中学校に上がっても、同じ小学校から来た人が多かったから、私のあだ名は「ビリ」だった。強い孤独を感じた。祥ちゃんは優しいから一緒にいてくれたけど、クラスが違ったから1日のほとんどを辛く感じた。相変わらず成績は悪く、私はビリと呼ばれて、悲しい気持ちを殺す方法を考えた。答えを見つけ、実行した。

 笑う事だ。どんな悪口を言われても、からかわれても。イジメられても、笑う事に徹した。それが私の自衛手段だった。

 ある時、酒田君という男子生徒から声をかけられる様になって、最初は戸惑ったけど、段々仲良くなった。酒田君は端正な顔立ちで気のいいサッカー部の少年だった。同じクラスのアイドルで女子人気が高かった。酒田君がフィールドにいると、女子は色めきだっていた。まるで少女漫画の主人公の様に優しくて完璧な男子。でも、私にも彼にも恋愛感情はなかった。私は酒田君に男子としてではなく、人として憧れを抱いていた。あんな人になりたいと思って、よく彼を見ていたし、たまに廊下で見かけると声をかけたり、放課後、彼のサッカーを見つめていた。運動音痴な私は、サッカーの面白さはよくわからないけど、彼や、チームメイトと楽しく会話をしている様子を見ていると、本当に羨ましい。輝かしい彼の様に私はなれるだろうか。

 ある日の事だった。私が帰ろうとした時、下駄箱で酒田君と会った。

「一緒に帰ろう。俺だけ取り残されちゃってさ。」

私は小さく頷いて彼と一緒に帰った。

傍から見たらまるで付き合っている様に見えるんだろうけど、私にはそんな気持ちはないし、彼からもそんな言動はなかった。話の切り出しは彼の方からで、要約すると、私の事を心配していてくれたらしい。「ビリ」なんて呼ばれてひどいと思っていたそうだ。だから、一人でも味方がいてくれていると、思って欲しかったと言った。私は彼の優しさにドキドキして、気が動転した。好意はなかったはずなのに、聞いてみたくて、口を開いた。

「酒田君って好きな人いるの?」

酒田君はひどく狼狽して顔を赤くして視線をそらした。もしかしたら。正直そう思った。

「いや、酒田君ってすごく人気あるし、こんな機会、滅多にないから聞いてみたいかなって思っただけだよ。」

私の顔も赤くなっていくのを自分でも気づいた。

「ん~。まぁ。いるよ。すごい変わった奴なんだけどさ。本当は優しくて、ほっとけないっていうか。学校でも話しかけるんだけど、全然相手にされてないよ。」

私は少し落ち着いた。胸の中がパンパンだったガスが一気に抜けた感覚だった。急に体が軽くなって、頭も体も温度が下がってきた。

「え? そうなの!? 誰誰?」

酒田君はずっと名前を出さなかった。何回聞いても、顔を赤くして、「お前に関係ないじゃん。」としらばっくれた。そんな彼の顔もかわいかった。酒田君が好きな人がどんな人なのかどうしても知りたくなった。変わってて、優しくて、ほっとけない。そして酒田君に興味がない。どんな女子か考えた。誰だって、酒田君に好きと言われたら付き合うだろうに。でもそんな普通じゃない、凛とした素敵な人なんだろう。誰にでも優しくてしっかり者。だから酒田君とも気が合うだろうし、お似合いだろうな。同じクラスなのかな。少なくとも同じ学校のはず。

「酒田君が好きって言えばイチコロでしょ?」

「バ、バカ言わないでよ。相手にされてないし。告白したってフラれるだけだよ。」

「そんな事ないと思うな。酒田君ってすごく優しくていい人だし。かっこいいんだもん。告白されて断る女の子なんていないよ。」

「そうじゃないんだよ。あの子は。」

「ねぇねぇ! 教えてよ! 誰なの?」

「それだけは絶対言わねぇから。」

何回聞いても、やっぱり彼はその名前を言ってくれなかった。

 翌日から酒田君が好きな人が誰か知りたくて、彼の後をつけた。もちろんずっとじゃない。祥ちゃんと話している時は自然なそぶりで酒田君が見える視界に回り、話しながら観察した。多分、昨日話していた感じだと、酒田君は感情が顔に出るタイプのはずだ。けれども、彼に群がる女子に顔を赤くする事はなかった。

 ある時、不良みたいな乱暴な言葉づかいをする女子生徒に、酒田君の方から話しかけた時には驚いた。ちょうど私1人で、周りに人気が無かったから柱の陰から見ていた。2人の言葉はかすかにしか聞こえなかったが、「うるせぇ!」と言って女子生徒が去っていった。酒田君はため息をついて去っていった。なんだろう。とても不思議な光景だった。

酒田君が不良少女を更生させようとしたんだろうか。

 その日の後も、何回かその女子生徒に話しかける酒田君を見かけたけど、結果は同じで、いつも悲しそうな顔して、酒田君は男子の友達にからかわれてた。祥ちゃんにも、酒田君の好きな人について聞いてみたけど「知らない。涼子の方が酒田君と仲いいじゃん。」と突っぱねられた。むしろ私と酒田君の仲を疑われた。そんな事はないとはっきり答えた。

もしかしたら、変な人でほっとけないのってあの不良の人だろうか。でも、優しい人には見えなかった。絶対違うと思った。

 そんな時に、神様はイジワルをした。

 ある日の昼休み、3人の女子生徒に囲まれた。私はいつもどおり笑った。真ん中にいた女子生徒が顔をゆがめて私の顔に唾を吐いた。何が起きたのかわからず、私は唾を吐かれた左頬に手を当てた。臭みがあって嫌な気持ちだった。

「ちょっと来なさいよ。」

腕を強く掴まれて3人に女子トイレに連れ込まれた。後頭部を壁にぶつけられて、顔を叩かれた。頭が痛くて私は座りこんだ。

「あんたさぁ。なにビリのくせに酒田君に色目使ってんの?」

「え?」と驚き、女子生徒を見上げた。もう泣きそうな気持ちで顔を上げると腕を組んで私を見下しているリーダーっぽい1人。その後、すぐに私の胸を踏みつけた。すごく臭かった。私の制服に何かのウンチがこすり付けられていた。

「胸で男子誘うとかさ。そんな程度のブスでかわいいと思ってるのか知らないけど。マジであんたみたいな人間をビリっていうんだよね。そんなビリがなにしてんの?」

彼女の足がグリグリと私をせめる。左の女は唾をかけてくる。いつの間にか、もう1人の女はバケツに水を汲んでいる。

「ねぇー。洗剤あるけどいれとく?」

「ちょーうける。増し増しでぇー。」

笑いながら女はバケツに洗剤を入れた。

 もうわかったよ。いい加減にしてよ。

 確かに酒田くんは私に声をかけて心配してくれた。でも、酒田くんは私の事なんて、全然気にしてないのに。

「私、酒田君と付き合ってないし、恋なんてしてない。」

「だったらなんで一緒に帰ったりしてんだよ。ビリの分際で。」

バケツの水をかけられて、涙も出ない絶望を感じた私。「せーの!」と、掛け声が聞こえて、私の顔に水がぶちまけられた。制服の白いスカーフが黄色い。多分おしっこ入れたんだろう。そんな臭いがした。ゲラゲラ高笑いする3人の女子生徒が私を指さして笑っている。「ネットにあげようぜ。」と、携帯電話を取り出した。私は顔を伏せた。ネットにあげられる事に抵抗した。

 バン!

 そんな音がした。気持ちを切る事しか考えてなかったから、正確に把握できなかった。

少しの間記憶がない。しばらく経って、声が聞こえた。

「ぉぃ。ぉい。おい!」

意識の遠くから、強制的に光が目に入った。私の髪を握り、顔を引き寄せられた。黒髪の綺麗な女子生徒がいた。私の胸を持ち上げて立たせた。表情は怒っている。私は視線を下げて、もう死んでもいいと思った。どうせ4人目だ。

「おい!」

彼女の恫喝は止まらない。もういいってば。どんなひどい辱めを受けるのかわからないけど、もう、いいや。でも、視界を上げて左右を見ると、1人しかいなかった。3人のイジメ女子生徒はいなかった。誰かわからないけど、どこかで見た事がある気もする。その時の私の精神状態では、判別なんてできなかった。彼女の眼を見つめているうちに、涙が流れて大泣きした。その女子生徒は、私の頭を離してまた恫喝した。

「うるせぇ。アタシは静かにションベンしてぇんだ。」

その女子生徒はトイレに入った。泣きじゃくる私は動けなかった。数分くらいだったろうか。やっと立つ気力を振り絞って、壁にもたれながら、立てた。トイレを流す音がして、ドアが開いた。震えて両手を胸の前で組む私に、トイレットペーパーを持った左手を、女子生徒が上下させた。「投げるぞ。」といって、複数回繰り返した後、ぶっきらぼうに放り投げた。私はそれを受け取り、きょとんとした顔でその女子生徒を見た。

「保健室まで汚ねぇ水たらすなよ。」と言って出て行った。

 一通り、応急処置ではあるが、なるべく水分と泡を、もらったトイレットペーパーで吸い取って、スカーフを胸元に隠し、トイレのドアに立った。

 怖くて怖くて仕方なかった。またあの3人がいるんじゃないのか。知らない生徒がずぶぬれでウンチ臭い私を見てなんて思うのか。ここから保健室は1階降りないといけない。絶対誰かの目に触れるだろう。数十秒悩み、私は笑顔を作ってドアを開けた。

昼休み終了直前の時間。私は「今のうちだ。」と思って駆け走った。洗剤のせいか、階段で何回か滑って、手すりにつかまった。とにかく急いだ。なんとか誰にも会わず、1階の保健室になだれ込んだ。

「先生!」

保健室の先生は開けっ放しの窓の前で頭を抱えている。大きなため息をついてから、私を受け入れた。

「とりあえず、着替えてから体育館に行きましょうか。」

 保健の先生は堀田先生という。年齢は20代後半、黒髪でショートカットの、切れ目でとてもかっこいい美人の先生だ。性格は気さくで、姉御肌というか、大雑把で、気持ちの距離が近い、親しみやすいお姉さんの様な雰囲気だった。男子からも女子からも人気がある。堀田先生は、ベッドに座らせ、カーテンを閉めて私に知らない名前の体操着を着る様に指示した。

「午後の授業は心配しなくていいわ。私から言っておく。」

とても臭かっただろうに、私の肩を抱いて頭にタオルをかぶせてくれた。そのまま保健室を出て体育館に向かった。とてもいい香りがする。ラベンダーの香りだった。

シャワー室に入った。服を脱いで、あの3人の女子生徒が誰か思い出そうとした。そういえば、見覚えがある。名前が出てこないが、酒田君によく話しかけていた女子生徒達だ。そうか。女子の嫉妬でこうなったんだ。

シャワー室を出ると、きれいに折りたたまれたバスタオルと、また知らない名前の体操着があった。体操着を着て脱衣場を出ると、堀田先生がすぐ右の壁にもたれかかって携帯電話をいじっていた。私に気づくと、携帯電話を白衣のポケットにしまって微笑んだ。

「さ、行きましょう。」と微笑んで保健室に戻った。

 保健室に戻ると、体操着の私はベッドに寝かされた。

「今洗ってるから。制服が渇くまで寝てなさい。いろいろあったんでしょ。」

堀田先生がどこまで知っているのかわからないけど、今は特に心が疲れていたから、詳細を話す事なんてなかった。堀田先生は優しく微笑んで「今日はゆっくりして帰っていいわ。疲れたでしょう? 寝なさい。」と言った。

 私が目覚めたのは午後の3時だった。起き上がると、堀田先生がカーテンを開けた。

「おはよ。夕方だけどね。」

堀田先生は微笑んで、私の舌の色や目を見てから「気持ち。大丈夫?」と聞いた。私は大きく頷いて、堀田先生は言った。「きっと大丈夫よ。」

 ハンガーに私の制服がかけてあった。真っ白なスカーフも制服もいい匂いがする。私のブラとパンツが椅子の上に置いてあるのはすごく恥ずかしかった。カバンは隣のベッドの傍にある椅子に置いてあった。ゆっくり起き上がり、知らない人の体操着を脱いで、ラベンダーの香りがする制服に着替えた。スカーフを巻いて、鞄を持って、「どうも、ありがとうございました。」と言って、保健室を出ようとした時、堀田先生が言った。

「大事にしたほうがいいわ。とんでもない悪タレだけど、悪い子じゃないわ。」

「どういう意味ですか?」

私は誰の事を言っているのかわからなかった。まさか、あの3人の女子生徒達の事を言っているのなら許せない。

「春香の事知らないの? アタシに経費をかけまくる不良少女よ。今回はいい方よ。」

 春香? そういえば加藤春香と言う名前を聞いた事がある。この前は男子生徒の股間を蹴り上げて重傷を負わせ、なぜか何の処分にもならなかったとか。教員の不倫事実を握っていて教員達を黙らせているとか、野球部を従えて夜な夜な暴力事件を起こしているとか、地元の不良グループの総長の女だとか、噂は様々だ。だが、私が見た彼女は、どうも、そんな暴力的で、マヌケな事をする様な人には見えなかった。数秒して、堀田先生は悟った様で、ペンを置いて、私の前の椅子に座った。

「加藤さんの事聞きたい?」

「加藤春香さんって、噂だけですけど、不良っていうくらいしかないです。」

「ふふ。99%正解よ。とんでもない悪タレだけど、本当はいい子なのよね。」

「どういう意味ですか?」

意味が分からなかった。99%悪なのに本当はいい人なんて意味が分からない。

「そんなにとんがらないで。私の癖なの。しゃべり方のね?」

私の表情がどうなっていたのかわからないけれども、かなり攻撃的だったのかもしれない。

堀田先生は、はぁ~。と大きくため息をついて、ゆっくり話し始めた。

「実はな、春香は何回かこういう事してんの。やり方は教職員として困ったもんやけど、ウチは保健医やから、難しい事は先生に任せる事にしてるし、担任の先生もおるしな。春香はこの前も目ぇ血走らせて、1年生の女の子のメンタルケアをしろって怒鳴り込んできて、その他いろいろあったわ。面倒な事持ち込んできて、子供みたいに要求ばかりぶつけて帰っていくの。まぁ子供なんやけど。こっちも仕事だから断らんし。でも、春香は本当に純粋な子や。」

「私の質問に答えてないです。」

堀田先生は驚いた顔をしていた。私はそれを恥じた。それもそうだろう。私はうつむいた。

「あっはは! おもろいな。」

堀田先生は楽しそうに笑って膝を叩いた。

「私の言いたい事しか言ってなくてごめんな。そやな。ちゃんと答えなな。」

堀田先生が関西の出身だと初めて知った。関西のどの地方か知らないけれども、私も京都生まれだからわかる。

「あの悪タレは、気に入らない事があると力に頼ってしまうのよ。それは悪い事。でも、去年に、クソガキが動物園の動物殺すなんて、ひどい事があってね。アタシは飼育委員の先生だから、その時は呼ばれたよ。学校はね、事件の事を黙殺したかったんだけど、教職員全員に囲まれた春香が猛反対してね。中1の子供とは思えない程の勢いだったよ。校長先生も副校長も教頭も勢いにのまれたっていうか、春香の正義感に何も言えなかったんだ。その、男子生徒達の問題行動が多すぎて流石に看過できなくなってたし。まぁ、いずれにしろ、春香の主張は通らないながらも、クソガキどもはこの学校からいなくなる結果になったけどね。春香の暴行を不問に伏す代わりに、クソガキ共の事もなかった事にするっていう、訳の分からん事になったんだ。アタシも反論はしたけど、却下された。その時のあの子の顔、背筋が凍り付いた。あの鋭い眼で校長や副校長、教頭を睨みつけて、アタシに向いた時、それが初めてかな。アタシがちゃんと目を合わせたのは。本当に、飛び掛かってきそうな眼だった。」

標準語に戻っていた堀田先生はずいぶん楽しそうに話している。

「春香はね、99%悪なのは本当かもしれない。でも、たった1%の正義を感じさせて、逆転させるのがあの子なの。あの子の魅力っていうか、本質なのかもしれないわね。あんなに若いのに不思議な子。究極の下手くそっていうのかしらね。悪い意味じゃないわ。あの子はあれでいいのよ。」

 私はいろいろ考えた。今聞くべき事は何だろう。何を聞けばいいんだろう。堀田先生は私に対してニッコリ笑っている。

「あの事件から、春香は変わったわ。なぜか、どんどんガラが悪くなって、今や不良番長なんて言われるくらい。何かもっと聞きたい事ある?」

私はいろいろ考えたが、今聞くべき事が何か決められない。

「信じていいよ。春香は私のお墨付き。」

私は顔を上げた。相変わらず、堀田先生はニッコリ笑っている。

「そんな子なの。型破りで下手くそで、おバカで、とても優しい子。職員室の評判は悪いけど、アタシは好き。アタシの方がバカなのよね。きっと。」

私は感覚的に堀田先生の言った事を納得した。これほど、加藤春香を適切に表現できるのは堀田先生だと思ったくらいだ。そんな私の感情を見抜いたのか、「ふふっ。」と笑って、堀田先生は書類に向かった。

「もう帰りなさい。あと、今度春香に会ったら、請求書出すから払っておくように言って。私だってタダじゃないのよ?って。」

あっけらかんとした堀田先生の態度を見て、私はふきだした。堀田先生は微笑んでいたなんだか、仲のいいお姉さんと話している様だ。

 学校のチャイムが鳴った。時計を見ると、まだ最後の授業中だし、その後ホームルームがある。教室に戻らないといけないと思った。

「あぁ。さっきも言ったけど今日は早退でええで。先生には伝えてあるし。」

「いや、でも、先生の許可も取ってないし。」

「ええねんて。言ったやろ。もう取ってるから。」と微笑みながら手を振った。私は「失礼します。」と言って保健室を出た。

 まだ授業中の学校を出るのは初めてだった。

帰路の間、悩みながら歩いていた。明日またあの3人にイジメられるのか、加藤春香は私の脅威にならないのか。また偽りの笑顔を張り付けて、人間じゃない、人形として1日の大半を過ごすのか。答えが出ない。考えれば考える程、私の心は堕ちていった。

 家の前で、入るか入らないか考えた。

このままどこかに行ってしまいたいという気分もあった。だけど、どこかに行くあてもないし、長期に宿泊させてくれるのは祥ちゃんくらいだけどすぐ両親が来るだろう。家出になったら大変な事になるし、何の責任もない両親に迷惑をかける事になる。

私はドアノブの鍵穴に鍵を差し込んだ。カチャっと音がして、私は沈んだ顔をしながら家に入った。リビングからドタドタと音を立てて母が現れた。

「涼子? 何があったの?」と母は心配した。病名、生理、ケガなど質問攻めだった。

「堀田先生に診てもらったから安心して。」と言うと、母はしぶしぶ納得して、「今何か温かいものを淹れるから。」と言ってリビングに行った。私は部屋に帰り、鞄を置いてベッドに寝転んだ。イジメの事を言って心配なんてさせたくなかった。

ゆっくり深呼吸を繰り返して、落ち着こうとした。母に何から話せばいいのだろうか。おそらく早退する事は知っていただろうけど、どこまで話せばいいのだろう。色々考えたけど、ありのまま、すべてを話すしかないだろうか。変な嘘をついても仕方ない。でも、この件を学校問題にして気の弱い私は学校生活を健全に送れるだろうか。祥ちゃんにも迷惑をかけるんじゃないだろうか。

 意を決して、リビングに降りた。

お母さんと紅茶を飲みながら、ありのまま、すべてを話した。

「今、ちょっと混乱してるの。」と言ったら、お母さんは頷いた。

「今は休みなさい。」と言って、優しく頭を撫でてくれた。

私は自室に戻ってベッドに横たわった。保健室で寝ていたのに、なぜかすっと眠れた。

ノックで眼が覚めた。お母さんの声だった。

「涼子? あの・・・ハルカさんって言う人がお見舞いに来ているんだけど。初めて聞くんだけどお友達なの? 通していいかしら。」

お母さんはとても臆病な性格で、警戒心が強い。私は加藤春香だとすぐにわかった。

「うん、準備するからちょっと待ってもらって欲しいな。」

「そう。わかったわ。」

私はすぐに玄関が見える窓を開けて玄関に視線を落とした。

やっぱり加藤春香だ。加藤春香は私が窓をそっと開ける音に気づいてニヤッと笑った。正直ゾッとした。堀田先生の「悪タレ」という言葉を思い出した。恩人だとは思いながら、何か得体の知れない怖さを感じていた。すぐにカーテンを閉めて体育座りでベッドに固まった。でも。1回だけでも信じてみよう。恐る恐る1階に降りると、玄関で加藤春香が、お母さんと話している。私は、片目でその様子を覗いていた。

「涼子さんが心配で。先生も心配していたので。」

「まぁ。ありがとうございます。あなたの様な素敵な御学友がいらっしゃって嬉しいです。でも、ただ、娘はお腹が痛くて体調不良で。気にしないでくださいって。」

私が怯えている事を察したのだろうか、お母さんは嘘をついた。このまま何事もなく終わればいいかもしれないけど、私の中にもう1つ感情があった。私の心臓がいつもよりも強く脈打った。

「あら。そうなんですか。では。よろしくお伝えいただければ幸いでございます。」

加藤春香は深々と頭を下げて家を出ようとした。その時、私は感情が堰を切り、言葉にあげていた。

「今日はありがとうございました!」

母の後ろから私は大きな声で応えた。母と加藤春香が私の方に目を見開いていた。

「あ、あの。娘は・・・」と困って、状況を取り繕おうとするお母さん。私は勢いのままに寄って口を開いた。

「お母さん。ごめんなさい。この人は私が苦しんでいる時に、保健室に連れて行ってくれたの。本当に恩人なの。御礼がしたいから、少し出かけていい?」

お母さんはうろたえていた。母は決断できずに、私にチラチラ視線を送る。

加藤春香は何も言わなかった。冷たい眼で、私を見ている。私はキッと睨むと、加藤春香の口元がほころびた。母は、私達を交互に見ながら、口元に手をやり、「そうね。夕飯前には帰ってきてね。」と言った。

 私は加藤春香と玄関を出た。

私はめいっぱい、「まけないぞ」っていう気持ちを持って、キッと彼女を見上げた。

彼女は「へっ。」と、楽しそうに笑って私の手をつないで歩き始めた。

「ハンバーガーとドーナツ。どっちがいい?」

「ラーメン。」

不思議そうな顔で彼女は私を見つめた。すぐに「へっ。」と笑っていた。彼女に連れられて、裏道の豚骨ラーメン店に連れて行かれた。加藤春香は一番シンプルな「ラーメン」を注文した。「アタシも!」と言った。思った以上に早く2杯が来た。慣れた手付きで麺をすする彼女に対して遅れをとる私。とても美味しいラーメンだった。こんな美味しいラーメン店がある事を知らなかった。夢中で食べた後、彼女はお腹をさすって「くった、くった。」とニヤニヤ笑う。

「お前、おもしろいな。」

「え?」

私は、お腹をさする加藤春香が何を求めてくるのか考えた。確かに、学校のトイレでは助けられて、頭の上がらない存在だと思う。堀田先生との関係もある程度聞いた。いい人なんだとは思う。でも、「私に従え」と言わないとは限らないと思った。

「何が目的なんですか?」

加藤春香はきょとんとしていた。

「は? オマエ何言ってんの?」

片肘をついてじっと感情の無い目で見つめられた。どのくらいだろうか、だいぶ長く感じたが、加藤春香は「へっ。」と笑って、手を上げた。

「おやっさん! ギョーザ2枚!」

「あいよ! よく食うな!」

「育ち盛りなんだよ。」

「ダイエットしねぇと嫁の貰い手もねぇぞ!」

「うるせぇ親父だな! アンタが心配する事じゃねぇだろ!」

彼女は楽しそうに笑っている。この人に警戒心や敵意を持つ事が間違っている様な気がした。つるっぱげのご主人は香ばしいゴマ油を四角い鉄板に流しながら餃子を並べている。加藤春香は楽しそうにご主人やおばさんと話している。本当にこの人の考えている事がわからない。おばさんが注いでくれた水を「ありがと。」と言って口をつけ、加藤春香は私を見た。

「言っとくけど、あいつらの事は知らねぇよ。たまたまションベンがしたかったんだ。そしたらアンタがイジメられてたってだけの話だ。あんだけ暴言はいてアタシがアイツらと仲間な訳ねぇだろ。アタシあういう奴、心の底から大っ嫌いなんだよ。」

言葉を失った。何か、心をすべて見透かされている気分だ。

「クソくだらねぇ事考えるなんてやめろよ。アンタ計算は得意らしいじゃねぇか。アタシと違ってよ。だったらビリなんかじゃねぇよ。」

私の事を知っていたのか。私を見て彼女は笑った。その笑顔を見て、私は何を疑っていたんだろうかと、自分を恥じた。人の顔色をうかがいながら生活してきた自分が、ちっぽけな私が、ちっぽけな所で、臆病になって、ちっぽけな空間から出ようとしたかっただけなんだ。同い年なのに、こんなに違うものなのかと思った。一瞬で私の心の闇を晴らしたこの人の事が好きになった。

焼きあがった5個の羽根つき餃子が2枚あった。なんだか顔が火照っていく感じがする。

 美味しいラーメンと餃子を楽しんだ後、店を出て、お腹をさすりながら上機嫌で歩く彼女は、私の家まで送ってくれると言う。なんか恥ずかしくて彼女と少し距離を置いて歩いた。加藤春香の背中を見ているとドキドキした。自宅から3分くらいの所で、彼女は立ち止まり、振り返った。不意に彼女の右手が私の左頬に触れた。

「あいつらが、これからアンタに何もする事はねぇ。安心してくれ。」

彼女の手首を見ると、貝殻がついたブレスレットに隠れた大きな青アザがあった。私はただ頷いて、彼女は「へっ。」と笑って、帰った。

私は家に帰ると、お母さんが過剰に心配した。私は「とにかく大丈夫だから。」と言って部屋に帰ってベッドに転がった。

 翌日、いつもどおり朝ごはんを食べて学校にいった。

教室に行く時、例の3人の女子生徒とすれ違った。私は視線を落として歩いた。何事もなく教室に入り、いつも通りの午前を過ごした。突如、黒板側の扉が開いた。みんな驚いた。加藤春香だった。温和な性格の初老の担任の先生はおろおろしながら立ち上がった。

「き、君ぃ。君のクラスはちがうだろう?」と、おろおろと対応した。加藤春香は私と目線を合わせた。私は視線を逸らした。担任の先生の注意も構わず、ズカズカと私に迫って来た。焼きそばパンが入ったビニール袋を机に置いた。

「昨日は悪かった。」そう言って、彼女は教室を出て行った。何が悪かったのか全然わからなかった。むしろ助けてもらったのに。教室はざわついた。

一番心配してくれたのは祥ちゃんだった。

「ねぇ、涼ちゃん! 知り合いなの?」

私は「ううん。よくわかんない。なんでだろう。」

 祥ちゃんは必死に「あの人と関わっちゃいけない!」と力説した。「そんな人じゃないと思うよ。」祥ちゃんがきょとんとしている。

「涼ちゃん! あの人はヤバいって!」

力説する祥ちゃんに気圧され、加藤春香の焼きそばパンが入った袋は捨てると言った。祥ちゃんは納得してくれた。本当は授業が始まる前にカバンの中に入れておいたけど。

 午後の授業が終わって、祥ちゃんは吹奏楽部の部活動に向かった。私は帰宅部だが、屋上で30分くらいボーっとするのが好きだ。今日は曇りで気分はよくないが、風が吹くといい匂いがした。

「あら、ごめんなさい。」

ビクついて上半身を跳ね上げると、長身の黒髪の女性がいた。身長は加藤春香と同じくらい。凛とした、清楚なイメージだ。でも、なんでだろう。加藤春香と似た様な雰囲気を感じる。キリッとした雰囲気がちょっと威圧的に感じる。そういえばどこかで見た事があるが、名前が出てこない。

「お邪魔じゃなければ、私もいいかしら。」

何がどういいのかわからなかったが、私はカバンを抱えて数m離れた。

彼女はにっこりして、きっと彼女の定位置だろう所に滑らかな動きで腰を下ろした。ビニール袋からトマトジュースを出してストローで飲み始めた。高嶺の華っていう雰囲気だ。曇天。ため息をついて横を向いた。すぐ近くに人がいると落ち着かない。水を感じた。立ち上がって、屋上の出入り口を開けた時、つい振り返って長身の彼女を振り向いた。彼女は仰向けで目を閉じている。雨が降り始めているのに、なにをのんきに。でもその表情は安らかで、美しかった。

「風邪ひきますよ?」

「大丈夫。このくらい。」

私の心配をよそに彼女は動かない。私は屋上を出た。

 春香姉さんと仲良くなってから友達が増えた。年下の女の子でちさという。ある時、ちさと一緒に聞いた話だ。

ねえさんは会田高校を目指していた。数学だけはできる私には難しい。同じ高校に行きたかった。ある日、3人でハンバーガーショップに入りその話をした。ねぇさんは頭いいし運動神経も抜群で絶対合格するだろう。その後は他愛もない話をして、ねぇさんは用事があるって言って学校の方へ戻っていった。いつもはちさもついて行くのに、黙って私の隣にいた。

「勉強。苦手でしょ?」

ちさが冷たい目で私に問いかけた。

「教えてあげてもいいよ。コツだけだけど。」

じっと冷たい目で私を見つめる。私は大きく頷いた。

 ちさに勉強を教えてもらうと、畳針で突く様に、容赦ないくらい私の欠点を全て遠慮なく、冷静にリストアップした。数学や理科が得意なのに、他の教科が苦手な理由がわかった。体育だけは克服できなかったけども。

 私は会田高校に進学する事ができた。次の年、ちさが入学した。中学時代と変わらない、いつもどおりの生活を続けられた。大きなねぇさんと、ちっちゃなちさ。なんだか、真ん中のおねぇちゃんで、妹になった気分だ。幸せだった。

 高校卒業の頃、ねぇさんは大学に進学しない。私はそこそこの偏差値の法学部に合格した。それで何がしたいのかなんて決まってなかった。お見合いするなんて言う。驚愕したが、破談になったんだとか。もっと訳がわからないのは、舞竹島という所に移住して、そこから先は何も決めてないとか。

「絶対あってみせる。」

 

 三、舞竹島 相模雄太・美優 2015年。


 俺は相模雄太。ガキの頃は本土に転校するまで住んでいた。2013年に舞竹島に移住し、22歳で、就職しサガミヤという親父の工場に就職して経理をやっている。

 生まれたのは東京の都心だ。自分で言うのもなんだが性欲が強く、小学生から高校生まで女とやりたくてモテそうな服装や行動をとった。できるだけ派手な奴らと付き合い、その中であえて清純キャラを演じていた。

 中学の頃、乱交パーティーに誘われて初めてセックスをした。こんな快楽があるのかと思う程に没頭して、その日だけで何発かましたことか。その会に通う様になって、性病にかかった。ちんちんが痛くて仕方がなかった。性病科に行くと薬を処方され、医者に「行為を控えるように。」といわれたが、セックスがしたくて仕方がなかった。同じ事が高校でも続いた。何度性病にかかってもセックスは病みつきになる。セックスに飽きると暴力だ。イジメが楽しくて仕方ない。おどおどしたオタクなんて格好の標的だ。最近は録画っていう機能がよく働いてくれる。女をひん剥いて撮影しておく。男をイジメる時も撮影しておく。これを見せると大体は黙る。ネットにあげられる事を嫌うからだ。暴力に飽きたらセックス。セックスに飽きたら暴力。でも、俺は優等生としてふるまっていたし、被害者はみんな黙っていた。俺は清潔感のある優等生として勉強なんでどうでもよく、セックスと暴力を楽しんでいた。

 俺はそれなりの大学に入り、周りのいろんな女と付き合った。女の方もヤリマンのクソもいた。性病にかかる機会も増えた。大学3年の時に就職活動をしていた時だったが、面接とかクソ面倒くさいのが嫌になった。セックスと暴力で適当に暮らしていければいいんだよ。

 そんなこんなで、面接は全て落ちる。いい加減、嫌になって親父の稼業を考えた。そろそろ異動が決まっているらしく、舞竹島というクソみたいな田舎の島らしい。特に興味はなかったが、無職なんて格好がつかない。中堅の大学の経済学部を卒業したんだし、工場長の息子なら融通はきく。案の定そうなった。俺の親父の兄は、サガミヤグループの社長。親父は重役だ。

 サガミグループは、俺が小学校の頃大きくなり始めた。最初は零細企業のだったが、叔父には商才があったようで、段々と中小企業に成長した。特に酪農や農業が得意で、サガミヤというブランドを立ち上げた。

 俺は重役の長男だ家族構成は母親と、年の離れたバカな妹がいる。いずれにしろ重役の息子なんだからそれなりの名誉と金は入るはず。それで十分だ。不満といえば、バカのくせに学校では、すまして優等生気取りでいやがる妹くらい。兄が優秀なんだから妹はバカでいろ。気にくわない。俺は選ばれた人間なんだ。誰だって好きにできるんだ。

 舞竹島に来て、まずはサンドバックを作った。本物じゃない人間のサンドバッグだ。男女は構わない。田舎者をたぶらかすのは簡単だった。友人というか下僕と一緒に脅かして、スマホで全裸を撮影して「アップされたくなかったら言う事聞けよ。」と言ったら、奴隷が一つ出来上がる。俺のウンコを食った時はさすがに笑った。AVで得た知識を散々試したりしてから、それ以上に面白い事は思いつかなくなって、暴力ばかり振るっていた。性欲処理には不自由しなかった。だが、面倒くさい女がいた。今野和子というガキだった。生理が来ないという。妊娠したのかと思った。仲間のせいにしようと思ったが、あいつらも同じ事を考えている。考えてみれば同じ爆弾を背負っている。だが帝王の俺はそいつらを黙らせる工作をし、今野を恫喝して、もしも妊娠したのなら、おろすように言った。ボロボロ泣いてうるせぇから興味をなくして、その女とは縁を切ろうと思ったが、気がくるって産んでしまえば世間体が悪い。親父は世間の体裁を考えて結婚しろというだろう。俺は焦っていた。

 ある日の仕事終わりに今野和子が現れた。人目につくと嫌だから、車に乗せて近くの公園に行った。車を降りると和子がしがみついてきた。まだ腹はデカくない。数か月たっている。堕胎手術に金を出して、やったらしい。生理が来たようだ。俺は安心した。

抜きたくなった。「好きだよ。」と言って抱き寄せてキスをした。肩から力が抜けた和子の腰に手を回して、人気のない森の中に連れ込み、犯した。最後には甘い言葉をかけて、キスをすると、和子は腹に手を当てて微笑んでいた。気持ち悪い女だ。

 家に着くとガラッとリビングの横開きのドアを開いて、優等生の作り笑顔を作った。テーブルには親父がいた。

「よぉ! おつかれ!」

親父はお気に入りのウィスキーをロックで愉しんでいる。酒臭い。

「こんな時間から飲んでるの?」

俺は冷蔵庫に向かい炭酸水を取り出した。

「今日は午後休でな。病院にいってたんだよ。」

病院帰りで酒飲んでんのかよ。ある意味羨ましいか。

「今日汗かいたから。先にシャワー浴びるね。」

爽やかな笑顔で親父に挨拶してリビングを去ろうとした。

「雄太!」

酔っ払った親父を無視すると後が面倒くさい。「なに?」と笑顔で振り返ると、タブレット端末で写真を指差している。俺は嫌になった。親父はいつも絡み酒だ。相当酔っ払っているんだろう。俺は優等生キャラを通す事にした。ニコニコと笑って、しぶしぶ親父のタブレット端末を眺めた。

「昨日な。会社のパーティーがあってよ! 加藤って部下が今度こっちに来るんだよ。有能でさ! こいつこいつ!」

何回もタッチするから画面がコロコロ変わる。この親父はバカだ。これでも重役か。

「あーっと。これこれ! ほら!いい男だろ!」

男になんて興味ねぇし、ましてやおっさんに興味あるわけねぇだろ。写真には真っ赤な顔をした親父と加藤というおっさんがいた。なんのパーティーか知らないが美人の初老のおばさんと、その後ろに、長身で黒髪、美人でスタイルがいい女があきれた顔をして映っている。ぱっぱと写真をスライドする親父の写真には彼女のいろんな表情が写っていた。親父が何をしゃべっているかどうでもよくなって、ずっと、彼女の事が気になった。どの写真もふてぶてしい表情で、あくびも愛おしく思えるくらい好みの女だ。俺は自分でわかるほどニヤニヤしていた。

「ねぇ。この子、加藤さんの娘さん?」

「あぁ。春香ちゃんって言ったかな。まだ18歳なのに、この色気はすげぇよな。美人だし。スタイルもいいし。ただ、加藤も悩みの種なんだってよ。」

「え? なんで?」

「結構なおてんばって言うか、跳ねっ返りで、不良みたいな事してるらしくて、手がつけられないんだってよ。こんな美人なのに男っ気もなくて将来の嫁の貰い手があるか不安で仕方ねぇってさ。」

「ふぅん。」

俺は心が躍った。単純に見た目が好みだし処女か。マジで犯してぇ。こんなクソ田舎のイモ女とは違う。突っ張ってるけど上品な印象がある。このふてくされた顔が俺の前で屈服した顔を見てみたい。いい。すげぇいい。この女を屈服させてしゃぶらせてぇ。無理やり犯してぇ。想像してると勃起してきた。

「移住してくるならウェルカムパーティーでもやろうよ。父さんの部下になるんでしょ?親睦のためにもさ。」

「いいかもな。今度、加藤達が家の下見と引越しの準備に来るんだ。バーベキューでもやろうか。本場の味を味わってもらうのもいいかもしれんしな。」

ケラケラと笑ってハイボールを作って飲んでいる。俺はにっこり笑って、リビングの壁にある給湯器のスイッチを押した。犯った後は必ず風呂に入らないと気持ち悪い。リビングを出て2階の自室に向かう。加藤春香のことを考えると最高に楽しみだ。親父の立場も最高だ。捨てても加藤春香は俺に反抗できない。いう事なしのヤりたい放題、ぶん殴っても文句はいえぇねだろ。俺の欲求の半分どころか、暴力もセックスも満たせるチャンス到来だ。俺はニヤニヤ笑いながら階段を上がる。俺の息子がいきり立っている。「おいおい、気が早ぇぜ。」と語りかける。心躍るってのはこの事か。

 2階に行くと妹と鉢合わせた。

「あら、兄さん。おかえり。」

とっさにカバンで股間を隠した。「ふあぁ。」といって 自室にすれ違い、自室に行った。

 妹の美優は16歳の女子高生だ。ただでも嫌いなのに、都合が悪いのは、俺がいろんな女で遊んでいる事も、俺の本性も知ってる。カーテンを閉めて、服を脱いで、全裸でベッドに身を投げた。風呂に湯が張るまで、さっき見た加藤春香とか言う女を思い出してシコッた。

 相模美優は、兄の部屋の扉が閉まるのを確認して「ふふっ。」と笑い、階段を下りる。

「イカくせぇもんおっ勃ててんじゃねぇよ。クソが。」

美優は、クソこと、兄が入った後の風呂は母が掃除するまで入りたくない。精液がどうのではなくて、あんなクソが入ったと思うだけで汚らわしい。知ってんだよ。ついさっき、テメェが和子と犯ってんのは。だって、私が誘導したんだからよ。バーカ。

 相模美優の過去の話。

 2年前、転校した。舞竹島とかいう、こんな田舎の島なんて嫌だった。でも、芋臭い女ばかりで私はモテた。淑女キャラで男も言い寄ってきたが、本当に芋みたいな男ばかりでまったく興味がなかった。ダサい男なんて嫌だし、この島の男はうるさくて雑だ。

 あると時、黒木綾香という女が私に突っかかってきた。長身で威圧的な雰囲気だった。噂には女番長だった。私に強気にせめてきて腹立たしかった。でも、すぐに腹立つほど私はバカではない。淑女キャラで、当たり障りなく接していた。

 ある時、屋上に行って落ち着きたくなった時、扉が開いていた。ゆっくり歩いて、屋上に出て、左の角を曲がった。そこにいたのは黒木綾香だった。美少年が2人抱き合っている表紙の漫画を読んでいた。私を見つけると、胸にしまって、顔を真っ赤にしていた。

 BL。いわゆるボーイズラブというホモの漫画だ。黒木綾香は紅潮して立ち上がり、私の胸ぐらを掴んだ。私はバカじゃない。表情は無表情だったが、心の中では笑っていた。これ面白れぇネタだな。

「あ、それ知ってる。面白いよね。」

きょとんとした顔で私が言うと、黒木綾香は驚いていた。私の胸ぐらを掴む力はなくなっていた。もちろんその本の事など名前以外知らない。こんな気持ち悪い本なんて。話を合わせているだけだ。

「ねぇ。みせてよ!」と無邪気に迫ると、黒木綾香は私の胸に本を押し付けて、体育座りした。まったく興味はないが「ありがとう。」と言って本を開いた。線の細い美少年が熱愛を繰り広げている。まったく興味はない。少女漫画のテイストで2人が恋愛している様な内容だ。最終的には男同士でセックスする描写まである。気持ち悪い。

でも、美優の中の悪魔は計算をつけた。私は本を黒木綾香に返した。

「ちょっと、エッチだね。なんか興奮しちゃった。」

黒木綾香は、じろっと私を見ていたが、私は演技でモジモジしながら恥ずかしそうに視線を落としていた。そんな私を見て、黒木綾香は立ち上がっていった。

「あんたも。こういうの。その。」

本を背中に隠して、いずらそうにしている。

「うん。実は。恥ずかしいんだけど。ちょっと。」

そういうと、黒木綾香は急になれなれしくなった。本当はBLなんて滅茶苦茶気持ち悪いが、話を合わせて仲良くする。その後から黒木綾香と仲良くなり、学校ではそれなりの地位を確保できた女番長の副長だか参謀だか。山猿の立てそうな噂だ。たまに興味のないBL本を一緒に読んでいると黒木綾香はバカみたいにはしゃいだ。バカは所詮バカなんだ。私の演技力もそれなりに上がったと思う。

 ある時、計画を実行した。ネットで買ったBLの薄い本。黒木綾香の好きそうなジャンルだ。綾香の好きなマンガを仕入れたからと言って話しかけたら、「どんなどんな?」と嬉しそうに詰め寄ってきた。「恥ずかしいから放課後体育館裏で集合しようよ。」と言ったら、頷いた。人気のない倉庫裏に呼び出した。綾香が現れた。私は陰に隠れていた。黒木綾香の前にいるのは、私が用意しておいた柔道部のイジメられ組だ。倉庫裏、必死の抵抗も無駄となり黒木綾香は私の前で代わる代わる犯された。私はその様子を撮影した。バカみたいに腰を振る柔道部の男に抵抗できずに泣いている綾香。私の顔を見て怒りの視線をぶつけてくる。すっきりした顔で去る柔道部のイジメられ組から金を受け取った。

「私に逆らったらネットに画像動画上げるから。勿論モザイク抜きで。」脅しておいたら襲い掛かってくる思ったが虫みたいに丸まって、いつもの勢いなんてなく、ただ股間を押さえて泣いていた。私は「はい。あんたの分。」と言って千円札を1枚投げてその場を去った。私は立ち止まって、「あ、忘れてた。」と言って、薄い本を投げつけた。

 数ヶ月たって、幸運にもあの女は妊娠してなかった。

ただその後も、柔道部のイジメられ組には性行為を強要されたらしい。妊娠されたら困るからゴムをつける事を条件にして舎弟を3人ゲット。もし妊娠したら全部の画像をネットの拡散し教育委員会と警察に送るといった。約束は守っている様だ。一応友達と言う事にはしている。そのほうが周りのイメージはいいだろうし、色々と使える。

 その後、その画像を脅迫材料の発端にしてネットで黒木綾香を性奴隷にして色々稼がせてもらった。素人派遣の斡旋だ。その度、画像を撮っているから黒木綾香に逆らえるよう粗飯くなっていく。噂を流すと、クソみたいな童貞や気持ち悪いおっさんがほいほい集まってきた。そこらの風俗より安い金額で金をとって、売り上げの一部をやる。主従関係は絶対だ。

 そんな生活が続いた後、ある日、今野和子という同級生が私に話しかけてきた。和子は前から兄に好意を寄せていた。よく恋愛相談された。貧乳で特徴のない田舎娘をあのクソが抱くとは思わなかったが、それもまた面白いと思った。2番目の奴隷はこいつだ。

和子には「最近、お兄ちゃんが和子ちゃんの事聞いてくるの。すごく優しくて良い子だよ。って言ったら、ずーっと黙って外見てるんだ。変な兄貴って思ったんだ。」和子は顔を真っ赤にしてうつむいた。

家に帰って、ソファーに腰掛けるクソに話しかけた。

「ねぇ。和子ちゃん知ってるでしょ?」

「あぁ。」とつまらなそうな顔をしている。

「和子ちゃん。好きな人がいるんだって。付き合う寸前みたい。でもね、なんかその前に好きだった人の事が忘れられなくって、悩んでいるの。相談されるんだけど、どうすればいいかな? 前に好きだった人の事忘れさせてあげたいんだけど。」

クソの左眉がぴくっとした。私は心の中で笑った。このクソは苛立つとそんな行動をする。そして、私の思い通りだ。このクソは独占欲が強く、自分が一番じゃないと気が済まない。大した実力も能力もないくせに。図々しい。もちろん、和子にもクソにも真っ赤な嘘どころか作り話をしている。

 朝の登校路でクソに話しかけた。クソの嫉妬心を加速させよう。

「今日ね。和子ちゃんが告白するんだって、何回もメールで相談されたんだけど、私、濃いなんてした事ないし、男の人の気持ちわからないからアドバイスできなくて。どうすればいいのかな。」

クソは「あぁ。どうだろうな。わからねぇ。」って言って黙っていた。

放課後の帰り道、いつもクソが使っている神社の森を静かに通りかかる。蝉の声に聞き入るように耳を澄ます。クソの暴言と和子のあえぎ声が聞こえた。私はニヤッと笑った。

「ばーか、ばーか、ばーか。」

私はスキップをしながら帰路に着いた。こんな事して罪悪感がないか?

 あるわけないじゃん。

 ただのバカが生殖行為をしただけでしょ。子どもができても2人の責任。もしもバレたら父がクソと自分の保身の為に、必死になってもみ消してくれるから私は遊び放題。

最近、クソが、やっと私のトラップに気づき始めたそうだけど、クソはもちろんの事、私の中の悪魔はしっかり、電子データを何重にも保存し書き換えている。

 その日、私はあのクズよりも早く帰宅した。「ただいま。」というとリビングで父親がタブレット端末をいじっていた。上機嫌の父がヒラヒラと手を振る。真っ赤な顔で酒臭い。私は冷蔵庫から取り出した炭酸水を飲みながら、父のタブレット端末に視線を落とすと、4人の写真が見えた。その中の1人が気になった。つい私はニヤリと笑った。ふてくされた、つまらなそうな表情だが、顔は小さいし、美形だし、羨ましい程スタイルがいい。モデルといわれても納得する。この女を奴隷にしたい。このふてぶてしい顔が悔しさで歪む顔が見たい。

「ちょっと無愛想な人だね。この人。」

「あぁ。加藤も悩んでてな。春香ちゃんっていって、とんだ跳ねっ返りで、不良みたいなことしてるんだってよ。言葉も荒いし、男っ気もない。嫁の貰い手が不安で仕方ないってよ。誰かもらってくれる人がいればいいのにって、ずっとこぼしてたよ。」

この女を玩具にしたらと思うとぞくぞくする。反抗的で跳ねっ返りなところがいい。父の部下の娘っていのもいいな。反抗できない立場だ。

「えぇ? そんな人にはみえないなぁ。すごくモテそう。」

「いやぁ、今度こっちに赴任してくるからって、俺も少し話したけど、男言葉でぶっきらぼうで。両親が何度も頭を下げて、俺はいいよいいよっていったけど。」

そそるじゃん。そんな女が面白いよ。私の中の悪魔は思いついた。あのクズとくっつけて遊び放題遊べるかもしれないと思った。加藤春香という女はどういう風に楽しもうかな。そうだ。兄嫁として家の中を立ち回れるのに私の奴隷なんてどうだろうか。

「かっこいいじゃん。いいなぁ。私もそんなかっこいいおねぇちゃんがほしかったな。」

私はいつものおねだり顔。笑顔でじーっと父を見つめる。父は「いやぁ。」と頭を掻いた。私の真意が伝わったと思った。あと一押し。

「お兄ちゃんの好みのタイプだよね。ほら、月9の女優さんに似てない? それに、綾香ちゃんにも少し雰囲気似てる。」

「あぁ。」と父親がウィスキーを飲み始めた。私は黒木綾香については、札つきの不良だったけど、本当は優しいという風に説明しておいた。リンクさせるのが目的だった。

「うーん。そういえば、あの子、あのクソガキどもからおまえを守ってくれたよな。」

あの事件か、報復のつもりか知らないがボディガードの黒騎亜を使って男子生徒を怒鳴り声とともに蹴飛ばして私を守った。そういうことになっている。本当は気に入らない男子生徒をシメさせただけだけどね。私は、うんうんと頷いて続けた。

「悪ぶってても、実は優しい人っていっぱいいるし。あってみたいなぁ。メイクとか美容法とか教えて欲しい。」

父は顔を渋らせて、9月に移住してくることを言った。

いくら何でもこれ以上押すのは不自然かと思い、「飲みすぎはダメだよ。」と父の肩を叩いて2階の自室に入る。普段着に着替えてベッドに腰をかける。大好きな大きな兎のぬいぐるみを抱いて、天井を眺める。どう戦略を立てようか。今は5月。まだだいぶ先だ。時間はある。でも、戦略は確実でなければならない。

 誰かが帰ってきた。置時計を見ると午後6時30分頃。あのクソだろう。1階のリビングのすぐ隣にトイレがある。忍び足で1階に降りて、リビングの会話を聞いている。成程。簡単に食いついた。ウェルカムパーティーか。いい機会だな。

忍び足で2階に戻り、自室のドアを半開きにして身を隠した。クソがちょうど階段を上がりきったとき、わざと鉢合わせた。クソが私の横を通り過ぎて自室に入る。私は冷凍庫に常備されているチョコレートを取りに行った。

「加藤春香か。面白いおもちゃになるといいなぁ。」

母は人前では愛想がいいが、家庭では大体こういう表情だ。

「あらあら。もうこんなはしたない。」

母はいびきをかいて寝ている父に、自分の脇汗がひどいカーディガンをかけた。

「あら、夕飯前にいっぱい食べちゃダメよ。」

「ぅん。少しだけだから。」

母の買い物袋が台所に置かれると乾いた高い音が聞こえる。遠目にだがオープンキッチンのテーブルの買い物袋から、タブがあいた缶チューハイが2本転がっていた。もう2本くらいの同じサイズの缶チューハイも見えた。

「ねぇ。雄太はまたお風呂?」

「うん。今日は汗かいたんだって。」

「・・・そぉ。」

母は死んだ様な目で視線を落としている。あのクソのやっている事を昔から母も知っている。母は日課にさせられている父の一番風呂の前の風呂掃除を待っていた。母は私の前では酒は飲まない。私はリビングを出ると、すに背後でプシュっと音がした。


  後編 ~秘められた過去~


 一、足立澄子、舞竹島へ。


  2017年7月25日。

 長いな。フェリーで2時間。部活の合宿を思い出す様な雑魚寝の船室の窓からぼーっと海を眺めているだけではつまらない。船内の食べ物や飲み物はやたら高いし、クオリティーは低い。売店から座席に戻ると、隣の座席にいたはずの安藤涼子の姿がない。散歩でもしているんだろう。私も歩き回る事にした。高い事がわかっていても、売店で缶チューハイを2本買って飲みながら船内を歩いた。デッキに家族や個人客。色々いる。外にでると開放的な気分になる。海鳥が飛んでて、最上階デッキに出ると潮風が気持ちいい。いつもと違う風景がたまらない。思いっきり叫びたくなった。よく知っている缶チューハイだけどいつもより美味しく感じた。甲板デッキのベンチ近くで安藤涼子を見つけた。ずっと先に見える島を見てウィスキーをラッパ飲みしていた。

「あら。もうやってるのね。」

安藤涼子に話しかけた。このころは頻繁にLINEをして仲良くなっていた。素敵な笑顔で安藤涼子が微笑み返す。片手にウィスキーをもってヒラヒラと手を振っていた。顔が赤かった。

「アンタこそお盛んね。」

彼女とは「アンタ」なんて言っても大丈夫になっていた。

安藤涼子は冷たい目をしている。そんな目を続けてから、安藤涼子はうつむいた。

しばらく続いた。彼女は唇を噛んで、ふっと顔を上げた。その一瞬の表情はものすごく怖かった。アイドル顔ではない。酒に酔っているだけじゃない。私に対する憎しみを感じた。

「なにを? アンタなんて1番じゃないんだから。」

私は何の事を言っているのかさっぱりわからなかった。私も酒を飲んではいたが、突然豹変する彼女を見て、悪酔いにしても妙だと感じた。

 少しして、安藤涼子の方から私に「えへ!」と、さっきまでの態度が嘘かの様に楽しそうに話しかけてきた。私は何も言わず彼女に笑顔を返した。彼女は「実はね。」と話を始め、色々と話した。

 これから行く舞竹島には、渋谷ちさという女の子がいるという。彼女のファイルにあった名前だ。年は私達の1個下。とても頭がよくて子供の頃は神童と呼ばれていたとか。ただ、情報連絡と日程調整が上手くいかなくて安藤涼子の方が遅くなってしまったと言う。とにかく渋谷ちさに会ってもらいたいと安藤涼子は言っている。酔っぱらっているのか何度も同じ話をする。

 30分後、下船して涼子が手を振った先に小さな女の子がいた。とてもかわいらしくて、こんな妹がいたらいいなって思った。彼女が渋谷ちさなんだろう。冷たい視線で私と安藤涼子を見ている。涼子が笑顔で手を振りながら近寄る涼子に「臭い!」と一瞥して距離をとった。涼子はおろおろしながら、「ご、ごめんね! ちょっと気持ちよくなっちゃてつい。」少し怒った顔で安藤涼子を見た後、渋谷ちさは私を見た。はっとしている。彼女の驚いた表情が変わらないまま、私は渋谷ちさに近寄り、自己紹介をした。

「初めまして。足立澄子です。」

渋谷ちさの表情は固まったままだ。そんなに驚く格好でもないと思うのだが。安藤涼子が「どうしたの?」と声をかけると、彼女のフリーズが解けた。渋谷ちさは時計を確認して

「あと5分でバスが来るから。いきましょ。」と先導する。確か宿にチェックインするはずだった。

「ちーちゃんって、いつもはあんなんじゃないんだけど!今日は機嫌が悪いのかなぁ~?」「アタシが言える事じゃないけど、シラフの人にはお酒の臭いってすぐわかるって。」ムスッとして涼子が私の隣を歩く。私よりだいぶ身長が小さいが前を歩く渋谷ちさはだんだん遠くなる。大股で彼女に追いつくとバスが停まっている。整理券をとって、一番後ろの席に座った。渋谷ちさと涼子は色々と話している。渋谷ちさはたまに鼻をつまんで臭そうにしている。私は多少飲んでいるからそんなに感じないのかもしれないのか、彼女の嗅覚が敏感なのかわからないけれども悪い事をしてしまったな。

 バスはのどかな田舎道を走る。広々とした晴天に入道雲。田んぼの緑が風の足跡を描く。右を向けば2人越しに、映画の様な青い空と雲きれいな緑色の山が見える。左を向けば田んぼと海が見える。開放感溢れる車窓からの景色にうっとりした。カトハルがこの島に住んでいるのか。何をやっているんだろう。農家かな。カトハルなら漁師もできそうだ。まさかマタギでもしてるのかな。林業かも。カトハルなら何でもやってそう。相変わらずふてぶてしい態度で「へっ」と笑ってなんでも楽しんでそうだ。色々想像した。

 涼子からもらった旅のしおりを読み返した。今日は風々亭という宿に泊まって明日から漁港に行ったり、農場にいったり。まるで探偵の様だ。

 40分くらい経って、バスを降りた。歩いて10分位して宿についた。海岸沿いのこじんまりとした宿だ。渋谷ちさが先頭をきって入る。「予約していたあとの2人です。」と着物姿の女性に言って階段を上がっていく。涼子と一緒に受付でお金を払う。

 「月の間です。」と言って着物姿の女性が丁寧に頭を下げた。なかなか広い。和室でベランダがある。渋谷ちさがベランダで海を眺めている。私は渋谷ちさの隣に立って景色を眺めた。絶景だ。湾を望んで砂浜に松の木が並んでいる。三日月の様にのびる真っ白な砂浜。湾にはいくつかのいかだが並んでいる。海苔なのか、牡蠣なのかわからないけど。

「いいところね。」

渋谷ちさは何も言わなかった。

「アタシお風呂入ってくるね!」

涼子がどてらと自前のお風呂セットを持って、手を振っている。まだ夕方の4時くらいだ。でも折角の旅だし、この夏はとても暑い。私も風呂に入りたくなってきた。

「お酒はダメだからね!」と渋谷ちさが釘を刺す。この2人のコンビネーションは夫婦漫才みたいでおもしろい。涼子が出て行くと渋谷ちさが私をじっと見た。

「何かおかしいんですか?」

くすくす笑う私に無表情で問いかけてくる。

「いや、ごめんなさい。気持ちいいくらい、すごく仲がいいからつい。」

「あの子お酒すきだから。いっつも飲んでる。今日だって。」

呆れた顔をしているが、彼女の心配は心地いい気分にさせる。年下なのにまるで涼子のお姉さんみたいだ。正直、渋谷ちさの第一印象は良くなかった。あまり仲良くなれないと思ったけど、滲み出る優しさと気真面目さは魅力的。港ではっとした表情で見つめられて、愛想がないし、可愛いんだけど無表情。でも、涼子とのやり取りを見ていて、とても優しくて頼れる人だと思った。カトハルと安藤涼子と渋谷ちさ。とても魅力的なトリオなんだろうな。カトハルはなんでこんなに素敵な友達をほったらかして、この島で何をしているんだろう。素敵な人達だ。

「汗かいたから。私達もお風呂行きませんか?」

「タメ口でいいよ。」

「いえ、年上ですし。」

私と渋谷ちさもどてらとお風呂セットを持って浴場に向かう。脱衣場で渋谷ちさの体を見ると、つるぺたな胸だがお尻がきれいだと思った。きゅっと上がってつい触ってみたくなる。目が合った。渋谷ちさがぽかんとして、私の体を上から下までじろじろ見ている。

「そんなに見ないでよ。」というと渋谷ちさは恥ずかしそうに視線を逸らした。私の方が先にじろじろ見てたんだけどね。タオルで体を隠して浴場にはいる。

「あー!」と渋谷ちさが声を上げた。早歩きで浴場を歩く。転ばなければいいけど。湯気で曇っているガラスの向こうに露天風呂がある。ぼやけてはいるが、湯につかりながら缶飲料を仰いでいる人がいた。ドアを開けて渋谷ちさが大声を出した。

「このバカ!」

渋谷ちさが湯船で酒を飲んでいるアイドルを叱っている。私はドアを押えながら見ていた。

「何でそんなに飲むのよ! アタマおかしいんじゃないの!」

「いーじゃーん。まだ若いから大丈夫よ。」

なんだか涼子は気が大きくなっているみたいだ。幸い他のお客さんはいなかった。渋谷ちさは、たらいで湯船から湯を汲んで涼子の顔にぶちまけた。2人とも何か文句を言い合っている。私はくすくすと笑う。涼子の缶を取り上げて、渋谷ちさは脱衣場に戻った。缶を捨てに行ったんだろう。ふてくされて湯につかっている涼子に「気を付けてね。」と言って内風呂に行った。体を洗って内風呂につかる。いつもの家のお風呂と違って気持ちいいな。暖まったら露店風呂に行こう。

 眠くなってきた。ガラッと音がして起きた。脱衣場から怒った渋谷ちさが現れた。体を洗っている。私は露天風呂に向かった。頭からずぶ濡れの安藤涼子が露天風呂のふちに腰を掛けて、ぼーっと空を眺めている。私に気づいた。

「ちーちゃんってさ!」

「いやいや、お風呂でお酒は危ないよ。」

むすっとして真っ赤な顔のアイドルは顔を背けた。安藤涼子の裸を見たのは初めてだがすごいスタイルだ。グラビアアイドル並みのプロポーション。きれいで大きな胸に、きゅっとくびれた腰、小さなお尻。同性として嫉妬してしまう。私も露店風呂に入る。

 突然の行動に、私は不思議そうに「なにしてるんですか?」と聞いた。

 涼子が月に手をかざし指の隙間からちらちらまだ白い月を見た。4つの指の隙間から月を左右に行ったり来たりさせる。

彼女は「ううん。ただの私の癖。」

 開放感がある自然の中。絶景にうっとりとして、カトハルを探しに来たはずなのに、女友達と温泉旅行に来ている気分になった。渋谷ちさが露天風呂に入ってきて湯船に入る。

 少しの間、沈黙、というか、3人でお湯と景色を楽しんでいる。

「ちーちゃん。」と言って涼子が渋谷ちさに抱きついた。渋谷ちさは、「気持ち悪い。」といって、全く遠慮がない勢いで、ばしばし涼子の頭を叩く。抱きついて寝始めた涼子を諦めて、溺れない様に座らせて渋谷ちさは大きなため息をついた。                                                                   渋谷ちさがじっと私を見た。私がくすくすと笑っているからだろう。

「本当はこんなんじゃないんです。昼間からこんな泥酔する事ないし。涼子、おかしいですよ。何かあったのかわからないですけど。」

心配そうに涼子を見ている。本当に優しい子だ。小さい体でそんな状況だったら、お風呂でも癒えないだろう。

「変わるわ。」

 私が歩み寄り、涼子の腰を押さえて肩を押さえた。渋谷ちさは、私と触れた瞬間、顔を真っ赤にして「大丈夫です。」と言って視線を逸らしたが、私は構わずいいた。3人で肩を組んでいるような様子だ。

 温泉のおかげか、酒も抜けてきて、黙っているだけでも癒された。こんなゆっくりした時間もいいものだ。

突然、がくっと涼子が覚醒した。私も渋谷ちさも驚いた。「ごめん。ごめん。」と何度も謝った。私も渋谷ちさも笑った。

 お風呂を上がって、部屋に戻る。涼子は酔い覚ましなのか、脱衣場で扇風機の前でゆっくりしている。私と渋谷ちさが先に部屋に帰ってテレビをつけた。全国放送の情報番組を見ながらお茶を淹れてお菓子を食べる。いつの間にかお互い自然に振舞っている。いい香りをした涼子が帰ってくる。天真爛漫というのか、この前飲んだ時とは別人だ。やっぱり気心しれた渋谷ちさといると安心するからなのだろうか。

 特に計画の話もせず、日も暮れて、夕食の時間になった。

仲居さんが夕食を持ってきてくれた。帯にかんざしを挿していた。きれいな朱色で、金色の短冊がついている。上品なデザインのかんざしだった。つい気になって私は聞いた。

「素敵なかんざしですね。」

仲居さんは帯を見て微笑んだ。

「あら、すみません。仲居なんかが目立ってはいけないんですけど。この前、娘が京都に行った時のお土産でくれたんです。さすがに髪にさすわけにはいかないから。」

かんざしと同じ印象で、おしとやかで上品な人だ。

 ご馳走は、海の幸、山の幸。チャッカマンで小さな鍋の下の固形燃料に火をつける。

私も食べる方なのだが、渋谷ちさはまるで当然の様に無表情でもりもり食べている。

涼子は少しずつ、いろいろなものを食べる。バッグからウィスキーを取り出して渋谷ちさに怒られる。構わずストレートで飲む。まさかマイグラスまで持っているとは思わなかった。渋谷ちさは諦めた様子だった。

 食事の後、仲居さんが片付けをしにきてくれた時、布団を敷くかどうか聞いてきたが、自分達ですると答えた。好きなタイミングで眠りたい。ただ、涼子は酒臭さを発散しながら布団を敷いてすぐに寝た。普段のアイドルの姿と違い、いびきをかき始めると、渋谷ちさが頬をひっぱたいた。ギョッしたが、涼子は寝ていた。いびきはおさまり、とてもかわいい笑顔で寝転がっている私は微笑んだ。

「ここ、臭いからベランダに行きませんか?」

渋谷ちさが無表情に言う。

「えぇ。私も少し飲んでいいかしら。」

渋谷ちさは小さく頷いた。私は1階のやたら高い自販機で缶チューハイを3本買った。

 なんだか、今日だけで渋谷ちさの事が大好きになってしまった。わくわくして部屋に戻る。潮風と畳の香り。視線の先にはベランダで渋谷ちさが湾を眺めていた。

「おまたせ。」

ぎょっとした。渋谷ちさ。19歳。未成年。ビールを飲んでいる。

「ちょ! ちょっと!」

無表情で私の顔を見る。

「19歳だけど、あと数ヶ月で20歳。妊娠もしてないし、健康上重大な疾病にはならないでしょう。アタシもバカなんだ。」

彼女はぐいっと飲んで夜空の月を見上げる。コロンと1つ落としたチューハイの勘を見て、ちさは「勿体ないですよ。炭酸抜けちゃって。」彼女はビールに口をつけ「何が悪いの?」と言わんばかりの表情だ。でもこのくらいなんでもないか。

「へっ。」と笑った。渋谷ちさは驚いた表情だ。私は意識して言ったつもりはなかった。破天荒という共通項で思いだしたアイツ考えたら何でもない。カウント外だ。

小さなイス。彼女の隣に腰をかけた。プシュっと音を立てて缶チューハイに口をつける。

 しばらく2人で夜空を眺めていた。東京の街中に比べて明かりが少ないからだろうか。月はいつもより大きく輝いて見えたし、白とか赤の星がいっぱい見えた。眠るまでずっと見ていても飽きない気がする。そんな時間が続いた後。彼女が口を開く。

 ちさはベコッと音を立てて床に置いた。「おかわりは?」と席を立つ私。

「大丈夫。」と、渋谷ちさはガラガラと音を立ててクーラーボックスを引きずり出した。中には氷と水。たくさんのビールが泳いでいる。お互い「へへ。」と笑って私も1本もらった。

 また沈黙が続いき、気持ちのいい夜で。お互い、飲む度に、ぷはっと言ったりにゲップして顔を見合わせて笑う。その時のちさはとても可愛い。屈託のない笑顔でケラケラと笑う。そんな魔力がこの子にはある。

「私の事。覚えてますか?」

渋谷ちさがにっこり笑って話しかける。少し考えたが、覚えがない。

「ごめんなさい。」なるべく優しく笑い返す。

「涼子からは足立さんって聞いてたからわからなかったけど。あの時の人だって、すぐにわかった。」

私は、彼女が何を言っているのかわからない。ちさがビールを仰ぐ。ぷはっと気持ち良さそうな声を出して、ニコッと可愛い顔をする。

「赤いカラーコーンを持ってた体操着のお姉さんじゃないですか。」

 ん? と首をかしげて私は考えた。どうも酒が入ると記憶の呼び出しが遅くなる。ニコニコ笑っている渋谷ちさの顔を見ていると、電気が走った様な感覚で思い出した。そして、後ろで寝ている涼子を見た。

「あの時も会いましたよね。」

そうだ。中学2年の時にカトハルがものすごい怒鳴り声で男3人を撃退した時に、私の横を走り去った女の子、そのだいぶ後、カトハルがファミレスで突っかかってきた時のあの小さな少女。よく似ている。

 そうか。だから港で会った時にきょとんとしていたのか。私は全く覚えていなかった。

渋谷ちさは上機嫌でビール飲んでいる。

「私早生まれなんです。学年は同じでも年は一個下で。足立さんだからダチ子さんなんですね。ねぇさんらしいな。」

ケラケラと笑いながら缶ビールを飲む。結構いける口のようだ。

「そっかそっか。だからかぁ。」

ケラケラと笑う渋谷ちさ。私を置いてけぼりにしないでくれ。

「気づかなくてごめん。」

「あ、ごめんなさい。あのあと。あ、あの、足立さんがカラーコーンを持ってたあの事件の後、ねぇさんに会いに行って自己紹介したら、また地名かよ。って笑われたんです。

さっきまで何の事かわからなくてずっと不思議だったんですけど、そういう事だったんですね。」

楽しそうにケラケラ笑っている。カトハルは、ちさや涼子に対しては私の事をダチ子としか呼ばなかったからわからなかったらしい。あの体育館裏の時も、ちさは逃げる事に必死で、私の体操着の名前なんてわからなかったらしい。しかも足立のダチから取ったとか丁寧な説明もなく、ダチ公みたいだからダチ子だって言っていた様だ。

 全く。いい加減でテキトーで、自分勝手で。頭いいくせに、バカなんだから。でも私も可笑しくなってケラケラ笑った。きっとこの子も同じ気持ちなんだろう。笑いの継ぎ目で眼が合うと、2人してまたケラケラと笑う。

 久しぶりだなぁ。こんなに楽しく笑ったのは。

一気にうちとけて、渋谷ちさとも色々昔話をした。


 ここからは渋谷ちさの話になる。昔話だ

渋谷ちさは、小学生の頃からずっと成績優秀、無愛想、身長が小さくて早生まれのせいか子ども扱いされたという。友達は多くは無いらしい。コミュニケーション能力は低く、最低限。彼女にとって友達よりも親しみが持てたのは教科書だったという。親に頼めば喜んで新しい本を買ってくれた。それが楽しくておねだりを続けた。

 結論仮えば彼女のついrくぁいかこだがあの、赤いカラーコーンの件だった。

 ちさはある男子生徒に声をかけられ「一緒に帰ろうよ。」とよく誘われ、最寄り駅まで帰った。そんな日が続いて、何週間か、休みの日に遊びに誘れる様になった。ちさには彼に好意が無かったから、断り続けた。そんな事が続いて、彼から誘わなくなって少しほっとしたという。 

 ある日、いつもは下校ギリギリまで図書館で過ごす本好きの友人、早乙女佳子が風邪で休んでいて1人で帰った時、下駄箱で、良く話しかけてきて、無視する様になった男子生徒がいたという。

「よぉ。久しぶり。」

ちさは妙な表情が変わっていたと感じたという。やつれた様な、疲れている様な。

「俺さぁ。ずいぶん辛かったんだよ。ちょっとだけ話をさ、聞いてくれない?」

ちさは、話だけならいいと思い、不安は感じながら、暴力を振るう事は無いだろうとふんでついて行った。

 体育館裏。愛の告白なのだろうか。でも、今更するものか。彼は両手をポケットに突っ込んで背を向けている。ずいぶん沈黙が続いた。ちさの方から

「話しがないなら帰るわ、」と言ったという。

「なに?」

彼は汗ばんだニヤニヤした顔で近づいてきた。男子生徒は指を鳴らし、2人の男子生徒が後ろから来たという。ちさの直感で逃げようとしたところ、2人の男子に捕まれたらしい、体格的にも、いくら抵抗しても何もできなかったという。

「よくも俺に恥をかかせてくれたよな。」

呼び出した男子の声の調子は静かで、その笑顔には絡みつく様な気持ち悪さを感じたという。ちさは冷静な思考を失って、恐怖を強めたという。彼はニヤニヤと笑っていたという。「おめぇに手を出して、フられた恥ずかしい奴だなんて噂がたって。こちとら何言っても冷やかされたり笑われたり、新しい女に声かけても負け犬呼ばわりでよぉ! とりあえず、再出発の為に抜かせてもらおうかと思ってよ。」

目の前の男がズボンのチャックを下ろし、ちさは大声を出したが拘束していた男の片方にハンカチで口を塞がれたらしい。男の指に噛み付く事もできなかったという。羽交い絞めにしている男が上着を脱がそうとし、必死に抵抗したが、もう1人がスカートを脱がそうとしてきてどうしようもなかったという。目の前には勃起した性器を露出した男が迫る。

ちさは頭が狂いそうになるくらい抵抗したという。でも抵抗は敵わなかったという。

喉がかれそうなくらいハンカチ越しに大きな悲鳴をあげた、誰かが助けてくれないかという必死の願いも虚しいものだったという。

 私はビールを一口飲んで黙って聞いた。

 全力で抵抗しても、胸をもまれ、スカートは脱がされていた。体力もなくなってきて、ちさは涙を流して、先が見えた気がしたという。

その時、女の声が聞こえたという。なんとなくだが、カトハルだと私は思った。

「てめぇら、何してんだよ。」

性器を露出した男が振り返り、。金属バットを持った長身の女が立っていた。鋭い目でホームラン予告のポーズをキメていたという。

「あ、あんだよ! テメェには関係ねぇだろ。」

黒髪の女は物怖じせず、近づいてくる。性器を露出したままの男の眼前に立って、「へっ。」と笑った。次の瞬間、女は男の股間を膝蹴りした。悲鳴をあげて男は股間を押さえて倒れこんだ白いものが漏れ出していたそうだ。小刻みに震えている男にバットを向け女は言ったという。

「タマが漏れてねぇといいな。そこで、人の安眠妨害しやがって、チックっても構ねぇぜ?テメェらみたいなクズは大嫌いでな。」と、ゾッとする怖い表情で男を見下す女。「てめぇ!」

ちさを羽交い絞めにしていた男2人がちさを放り投げて、女は言ったという。

「てめぇらにてめぇ呼ばわりされる筋合いはねぇよ。それとも頭の中身ぶちまけてやろうか? コイツはタマ漏らすくらいで済んでるけどな。」

ちさは脱がされたスカートを拾って、壁にもたれかかったという。女の鋭い目は一切揺るがず、2人の男を見据え、沈黙の後、2人の男は泣きながら震えている男の肩をとって野球場の方へ逃げて行ったという。ちさはその光景をカメラのように記憶しながら、スカートをはいて、上着を羽織り立っていたという。ものすごい怒鳴り声がし、男3人は去って行ったという。女の怒声が何を言ったかわからなかったが、あまりの声量と勢いに耳をふさいだちさだったらしい。ちさが視線を上げると、金属バットを放り投げてちさを無表情で見ていたという。

 女は大きなため息をついて、恐ろしく鋭い目の女。ちさにとっては、普段の平和で幸せな日常とはかけ離れた人。そう感じたという。助けてもらった事はわかりながら、恐怖の念もある。じっと冷たく鋭い目で、助け起こしてくれた。見下していた女の視線がそれ、つられて振り向くと、赤いカラーコーンを持った体操着の女の人がいた。

 ちさはバンっと背中を叩かれ、。カラーコーンを持った体操着の人に恥ずかしい場所を見られたと思って頭は真っ白だったらしい。とにかく逃げたかった。ちさはカラーコーンの女の方に向かって走り出した。あの事件の全貌はそういう事だったらしい。

 ちさが新しいビール缶を開けて、一口飲み、私も飲んだ。

 「形は違えど、やる事は同じね。アイツ。」

私がもう一口飲んだ。

「そうですね。形は全然違うけど、涼子にもねぇさんは同じ事をした。」

 それからちさが話し始めた。友達の早乙女に、性暴力の件は学校に伝えない事を条件に、相談した。あの女を巻き込みたくなかったからという理由だという。彼女が聞いたら「十中八九! 加藤春香だよ!それ!」

「加藤春香。あの女総長の?!」

 当時のちさの中では一気に情報がつながり、溢れ出したそうだ。私はくすりと笑った。

当時の彼女でも、噂で聞いた事がある。早生まれのせいで年は2つ下だが、割球は1個上のとんでもない女総長。キレたら人も平気で殺すなんて噂の立つ女だと。当時のちさでもそこまではと思いを秘かに調べたという。でもなんかしっくりこなかった。図書館の小説で本物のヤクザは非道はしないという文章を思い出したからだという。私は内心「99%ヤクザだけどね。」と思いつつビールに口をつけた。

 当時、ちさの1学年上。2年3組の生徒で悪名は絶えないと聞いたらしい。でも、新しい情報もあった。とにかくイジメが嫌いで、彼女の狂信的なファンはいるという。保健室の堀田先生とは仲がいいみたいだけど、堀田先生が弁護して事なきを得ていたとか。

ちさは加藤春香に会って話してみたくて、放課後、早乙女佳子の誘いを断って2階に上がった。2年3組。できるだけ無音でドアを開けた。1人。加藤春香以外誰もいなかったという。

「なんで?」と私が効いたら一口飲んで笑った。事前に早乙女から「放課後はあのクラス彼女以外無人になるんだって。3年生だって平気でボコボコにするっていうくらい恐れられてるから中途半端に残ると大変だからすぐ部活とか家に帰るんだって」と言ったらしい。私はケラケラ笑ってちさも微笑んでいた。

 その時ちさが見た姿は窓際の椅子に座って机に足をかけて本を読んでいたらしい。そこにも若干の疑問を感じたが、不良だから文字嫌いとは限らないとか色々考えて、細い隙間から覗いていたらしい。だが、そんな時間は続かなかったらしい。

加藤春香が本を机に置いた。紙パックのお茶をベコッというまで飲み干して。大きなため息をついて叫んだらしい。

「おい! そこのストーカー! あんだよ?」

ちさはしりもちをついて向かってっくる女が恐ろしかった。女型のターミネーターかとすら思ったらしく、私は大笑いした。

「アタシに何か用か?」

何でも切れるような鋭い目。ちさは恐怖しながら喉から声が出なかったという。

「あぁ。この前の。堀田先生のとこにはいったか?」と聞かれ、ちさは頷いたらしい。「へっ。」と笑って、自分の席に戻り本を鞄に入れて、また戻ってきたらしいがちさは腰が抜けっぱなしだったという。

「なんか喰いに行こうぜ。鉄板、ラーメン。マックでもいいぜ?」と言われたらしいがちさは抜けた腰をどうしようの方が先だと言って、私はケラケラ笑って一口飲んだ。

「て、鉄板焼き。」そう応えると春香は「へっ。」と笑ったらしい。

腰が抜けたのを見抜いたのか、優しく手を引いてくれた加藤春香に立ち上がらせられて、スカートの埃をポンポンしたという。

 2人で帰宅の準備をして、周りの目が気になったちさは予想通り、ざわついていたという。「気にすんな。アタシに絡まれて拉致られたって言っとけ。」と言ったらしい。

私はまた吹き出しそうになりながらも一口飲んで星空を見た。

ちさが連れてこられたのは鉄板焼きの店で、常連なのか、春香はメニューも見ず「いつもの! あんたは?」そう聞かれたちさは「焼きそば 大盛りで。」といったらしく、春香はケラケラ笑ったらしい。

「ちいせぇ体によく入んな。ここがっつりだぜ?」

「多分大丈夫。」

ちさの大食いは夜食でもわかった。2人で、ずーッとしゃべり続けたわけじゃない。緩急が上手いちさの言葉を私は聞いていた。

 あの鋭い目や冷たい目はどこに行ったのか。気が抜ける程に優しい目。緊張しながら、どうしてもあの事を思い出してしまうちさ。

「そういや自己紹介が送れたな。アタシは加藤春香。普通の加藤に春に香。アンタは?」

「・・・渋谷、ちさ。1年2組。」

春香はきょとんとした顔をして言ったらしい。

「へっ。また地名かよ。」

くすくすと笑っていて、ちさには何がおかしいのかよくわからない。確かに渋谷は地名だけど、そんなに珍しい苗字でもないと思ったという。

「まぁいいや。噂の天才少女か。こんな小さいかわいらしい女の子で天才なんて随分恵まれてんだな。」

「そんなんじゃないです。」

緊張の中春香の鞄から本のタイトルが見えた。「あっ」と声が出たという。ちさの視線に眉をひそめた春香だったらしいが、ちさはその本を知っていた。文章から滲み出てくる人間臭さが好きだった。思い出してついクスッと笑ってしまった。

「やっと見れたよ。アンタの顔。」

視線を上げると春香が微笑んでいたらしい。

「あいよ! 大阪焼きてやんでぇカスタムだ! おぉ。そっちは初めてだよな。」

気持ちのいい笑顔でご主人がお好み焼きを置いて、ちさを見たという、女将さんがおしぼりと冷たい麦茶を持ってきてくれ、ちさは小さく頷いて固まっていたという。

「ちさってんだ。」

「ちさちゃんか。ま、ちいせぇ汚い店だけどよ。ゆっくりしてってくれよ。春香。今日は追加は何だ? モダンか? 豚か?」

「とりあえずモダン。」そーいやここで焼きそば喰った事ねぇからちょうどいいからココ開けとくぜ。」そう言って春香は腹を叩いたそうだ。

「バカやろう。粉ものは太るぜ?」

無口なちさは手を出せずに、女将さんが気を利かせてくれたという。切り分けて、春香とちさに分けて皿に盛ったて、「熱いうちに食べな」と言ったらしい。ちさは小さい声で「いただきます。」と言って食べたら絶品だったそうだ。速にソースが美味しかったとか。それも驚きだったが、お店の人とお客さんがこんなに仲良くなるなんて小説の世界だと思っていたちさは呆気にとられたとか。加藤春香は相変わらず口が悪いが、ご主人も加藤春香に口が悪い。でもちさには優しく接してくれたとか。

「あいよ! モダンの前に焼きそばだ!」

「アタシの注文が先だろ!?。」

「かてぇ子というのは江戸っ子じゃねぇぜ!?」

「アタシ江戸どころか島の出身だし。」

ケラケラとご主人と春香が話していたという。話せば話す程、春香とちさの関係が羨ましい。私はそう思った。

 またちさが嬉しそうに話し始めた。

「オラ! 今日は嬢ちゃんの為に大盛り超えて特盛! ちさ盛りって名前つけようか!」加藤春香はケラケラ笑って、ちさは呆然としていたらしいが。香ばしい香りと、統一感のある香り。千沙の主義は「結局何を食べてるのかわからない料理は、何万円の高級食材を使ってでも価値は格安チェーンに劣る。」だった。きりっと目をとがらせて、一番シンプルな傍とソース、野菜を食べたら、信じられないくらい美味しかったらしい。特にソースがすごく美味しくて、野菜も歯ごたえ最高に仕上がっていると言った。

 正直、その話にはついていけなかったが、私は、港で会った時と印象ががらりと変わった。カトハルに似た所もある。

「そういや、お前あの本知ってるって言ってたよな。感覚はわかるけど、結末聞くなんて野暮な事は言わねぇ。でもさ、」

カトハルが途中まで読んだ不可思議な点を聞いて、食べながら、ちさは持論を展開し、話が盛り上がったらしい。「なんであの時さ?」と質問するカトハルにちさは持論を応えるた。「執筆者じゃねぇくせに鋭いところをついて来るな。言われてみれば不思議なところもあるな。」春香は納得したらしく「おめぇ、流石、進藤頭が良いだな。」といったらしい。

 いつの間にかモダン焼きは無くなった。

「あぁ~。腹いッぺぇだ。大食いののちさ。次何にする?」春香がメニューを出したそうだが、ちさは断ったらしい。「お酒程じゃないけど、満腹中枢も思考を鈍らせるって。ねぇさんとはシラフがいいな。お酒はもちろんダメ! 軽食で。」

女将さんはくすくす笑いながら皿を下げたという。春香は笑ったらしい。

「わかったぜ。今からお前はアタシのダチだ!」

そう言って加藤春香は右手を出して、鉄板が熱い中ちさを握手したという。


 現実。風風亭のベランダに戻る。

「ふふ。いい話ね。聞いてて飽きなかったわ。」

「そうですか? なんか涼子も言ってたみたいですけど、アタシ達なんかよりダチ子さん。澄子さんの方が好きだったみたいに聞こえますけど。」

澄子はビールに口をつけて奇麗な夜空を海を見ていた。邪心に似た質問が浮かんだ。

「ねぇ。ずっと疑問だったの。悪い意味じゃないわ。乗り掛かった舟に警戒せずに乗った私が全責任。でも、なんで、涼子もちさもそんなに大好きなカトハルに会おうとしなかったの? 私抜きでも2人の類稀なる頭脳の持ち主なら。」

少しの間、ちさは黙った。お酒も進んで、クーラーボックスから1本取り出した。プシュッと開けて、澄子が壁時計を見ると夜の10時を過ぎていた。

「そろそろ寝ようか。」というと渋谷ちさは頷いた。室内に入るとずいぶん寝相が悪い涼子がいる。パンツもブラも見えている。まぁ、女だけだからいいけど。渋谷ちさはトイレに行った。その間に私は2人分の布団を敷いた。

「あぁー!」と奇声を上げて涼子が畳を叩いた。寝相が悪いのか。またいびきをかいて寝ている。下の部屋から苦情が来なければいいけど。そういえば、下はロビーか。だからっていいわけじゃないけども。トイレからでてきた渋谷ちさは嫌そうな顔をしていた。

「私も借りるね。」と言ってトイレに入った。何か渋谷ちさの声が聞こえるのかと思ったが、静かだ。むしろ私がトイレを流す音の方が大きい。部屋に入ると、2人とも寝ている。私は電気を消して、布団に入る。

 夜中、何時かは知らない。なかなか寝付けないから静かにベランダに出た。とても気持ちがいい夜風。街道沿いに輝く街灯。見上げれば輝く星を散りばめた夜空。耳を澄ますと、かすかに波音が聞こえる。手すりにもたれかかって、ここがベッドだったらいいのにと思った。

少しして、深呼吸をしてぼーっと考えた。カトハルはこの島のどこにいるんだ。少なくとも3人が心配しているっていうのに。あのバカ。少しして、音に気をつけながら自分の布団に入った。いびきをかいている涼子と、無音の渋谷ちさ。とにかく眠る事にした。がんばってでも。

 翌朝。7月26日、6時頃。私をちさが起こしている。眠くて仕方なかったが、なんとか起きあがる。ボーっとして左を向くと涼子がいない。部屋の隅に布団が2式たたんであった。2人とも朝はしっかりしているんだ。私は起き上がってトイレに行くと鍵がかかっている。ノックをしても反応がない。なにか唸り声が聞こえる。「廊下のトイレ。空いてたよ。」着がえながら渋谷ちさが呟く。私は察して部屋を出た。

 7時30分から朝食だ。身支度を整えて待っている。ベランダで涼子の旅のしおりをベランダで眺める。今日は漁港と農場で聞き込みだ。バスの時間を頭に入れて外を眺める。湾の朝霧が山からの風でゆっくりと流れている。深呼吸をすると緑の香りが混じった清々しい空気だ。こんな空気が毎日吸えたらいいのに。いつの間にかちさが隣にいて

「うわ!」って驚いた。無表情で紙パックの野菜ジュースを飲んでいる。ちさはちょっと私を見て、すぐに視線を逸らす。2人でじっと湾を見ている。

「あぁ~・・・」

振り返ると明らかに二日酔いの涼子がフラフラしている。あぁ~とか、うぅ~とか聞こえてくる。トイレから聞こえた唸り声と同じだ。渋谷ちさは野菜ジュースを飲みながらじろっと振り返る。こんな調子で大丈夫だろうか。

 7時30分になると仲居さんが朝食を持ってきてくれた。テーブルに突っ伏している涼子に驚いて「あらあら。飲みすぎですかね。お水お持ちしますね。」と言って、笑顔で配膳を終え、茶碗にご飯をよそう。大きなお櫃を置いて丁寧にお辞儀をして出て行く。鮭定食。小鉢の牛のしぐれ煮が絶品だった。涼子はお茶を飲みながら気持ち悪そうにしている。少しして、仲居さんが水を持ってきてくれた。

「あ、どうも。」と気力もなく涼子は返事をしている。普段から食べるのが遅いが、この時は遅いなんてものじゃなかった。申し訳ないくらいの量を残していた。ちさが部屋に用意されている旅館の案内で涼子の頭を叩いた。横じゃない。縦だ。

「ちーちゃん。」と弱弱しく呟く涼子に「食べ物を粗末にしたら天罰が下るよ。」と言った。まるでお母さんと娘みたいだ。可笑しくってくすくす笑ってしまった。

 朝食を食べ終えて、涼子も落ち着いてきた。ちさは時刻表や涼子の旅のしおりを見ている。目を通すのも速くて、小さく頷いてしおりを閉じ、テレビをつけてリュックから有名なチョコレート菓子を取り出した。昨日も思ったけど本当によく食べる子だ。涼子は畳んだ布団に突っ伏していた。

「9時にはでないとダメだよ。」

チョコレート菓子を食べながら渋谷ちさが言った。「うん。ちょっと。お風呂。」

あと1時間くらいしかないけど涼子はタオルを持って部屋を出た。

この2人は中学時代からだとするともう10年来の付き合いか。何度目かわからないが、この信頼関係というか、友情と言うか。見せ付けられる度に微笑ましい。

 9時きっかりに、ちさが部屋の鍵をロビーに預ける。涼子はきちんとメイクしていい匂いで、可愛い白いリボンがついた麦わら帽子をかぶっていた。最低限のメイクをした涼子、ちさと私は一緒に宿を出た。バスは1時間に1本だから逃すと大変だ。また一番後ろの座席に3人並んで座る。「舞竹港」で降りた。バスを降りると人はほとんどいなかった。

 閑散とした漁港を3人で歩く。ジロジロと見てくる柄の悪い男達がいる。私達は完全に浮いている不審者だった。商店ははやっているが、聞き込みなんてできるんだろうか。とっくに市場は締まっていて、魚を焼いたり酒を飲んでいる男達ばかりだ。

 舞竹島は昔から漁業が強い島だ。最近は酪農や農業も開拓されているそうだが、まずは昔ながらの所から捜索しようというのが涼子のしおりの意思だった。地元民の冷たい視線を浴びながら、漁協組合に行くと、訝し気におばさんが私達を見た。だいぶ怪訝な顔をしている。

「加藤さんって。加藤大のことけ?」

「いえ、違います。加藤忠夫さんの娘さんの加藤春香さんを探してて。」

おばさんは首を横に振った。

「じゃあ、加藤公子さんの事は?」

おばさんは、また私達をじろっと見て「今日は来てねぇよ。そもそも本土から来た山の人だから。」と言った。それ以上何も話してくれない。私達は黙って去った。田舎ってこんなにも閉鎖的なものか。排他的で内輪で固まる傾向が強い。全ての都会がそうでないと言ったら嘘になるが、田舎は特に内輪で固まりやすい。知らない人間はよそ者だから相手にすらしない。加藤春香もそういう目で見られているのか?私は不安に思った。

 バス停に戻り、道行く漁師風の男達やおばさんに白い目で見られながら、バスを待った。次は公民館の予定だ。お年寄りの溜まり場で聞けば、何か情報が聞けるかもしれないっていう計画。でも、漁港の雰囲気だと嫌な予感がした。ハンドタオルで汗を拭きながら腕時計を見ると、あと40分はバスが来ない。ちさも耐えきれなくなって漁港近くの売店でソフトクリームを食べた。私はシンプルでどこでも食べられるバニラ味。ちさは抹茶で、涼子はチョコ。日陰を探して建物の裏で涼んでいる。人探しなんて、探偵でもないし、この先どうなるか心配になった。

「おめぇらよ。」

突然の男の声に私達は振り向いた。大柄の男がいた。さっきどこかで見た気がする。

「加藤春香を探してんのか?」

ちさと涼子が急に立ち上がった。「知ってるんですか?」「教えてください!」

ものすごい勢いで食いつく。私と同じくらい、男がきょとんとした。

 男はおそらく漁師だ。ゴムのブーツにねじり鉢巻。日焼けで肌が黒い。それに潮の香りが強い。作業儀ではないんだろうが、潮を吹いたTシャツ。それしか判断材料はない。。面食らった男は首を横に振った。

「加藤春香は俺の嫁が友達だったんだ。アイツがいた頃だけどな。最近、島に帰ってきたとか聞いたけど。よくわかんねぇ。どこにいるかも知らね。」

「なんでですか? どうしてですか?」

精悍な男に果敢に向かっていったのは涼子だった。彼女のカトハルに対する熱意は計り知れない。

「しらねぇもんはしらねぇ! 山の奴と喧嘩したとかは聞いたけど、チューさんだって困り果ててんだよ!いなくなって、これ以上海と山で諍いが起きても、あの人の立場も。」

チューさん。そういえば、カトハルの父親の名前は加藤忠夫だ。涼子のしおりに書いてあった。でも、最近帰ってきて、どんな親子喧嘩があったか。それで出て行ったのか? この島にもういないのか? 訳がわからない。

「チューさんって誰ですか? 私達、加藤春香さんに会いたいんです! 中学高校の同級生なんです!」

ちさの言葉に腕を組み、男がじとっと私達を見ている。涼子とちさの顔は見えなかったが、よほど強い表情だったんだろう。男は少しして口を開いた。

「チューさんちは知ってる。ハルカの親父だよ。なんなら連れてってもいい。でもアイツはいねぇよ。大喧嘩してどっかにいっちまったみてぇでさ。とんだ親不孝だ。」

私と涼子は黙った。でも、ちさは冷静だった。

「お願いします。連れてってください。」

ちさは礼儀正しく頭を下げた。

男は少し考えてから「乗れ。」と言って親指で方向を指示した。その先には白い軽トラックがある。座席は2つ。

「えっと、席が。」と涼子が言った。男は「2人後ろに乗れよ。」私と涼子が後ろに乗った。頑丈そうでも所々破れている黒い網がある。涼子は嫌な顔をしているが私は少し楽しかった。こんな経験東京じゃありえない。

「落ちんなよ。」と男が言った。

 ガタゴトと揺れる荷台に乗って、海沿いの夏の空を見上げている。まるで有名なアニメ映画の田舎の道を走るシーンみたいで楽しい。涼子は麦わら帽子をおさえるのに大変そうだった。

 坂道を上り、トトロでも出てきそうな森の中。そしてまた絶景が開けた。大きな入道雲に青い空。木々の匂いと海風が嗅覚を刺激する。

 いきなり車が止まった。私も涼子も運転席との壁に頭をぶつけて何事かと思った。荷台につかまっていたから、衝撃はなんて事はないけど。男が運転席から降りて自販機でジュースを3本買った。無言で私と涼子にキンキンに冷えたジュースを渡す。車内でちさにも渡してまた走り始めた。

 30分くらいすると、段々山の中に入ってきた。そこから数分し、車が停まった。自販機の時もそうだったけど、この男は車の停め方も荒い。

「ついたぞ!」と言って男が降りた。

古民家に向かってズカズカと男が歩く。私達はついて行った。涼子は明らかに不機嫌だ。

「チューさん!! チューさんいる?」

家の前で大声で叫ぶ。普通インターホンとかじゃないのかな。少しするとおばさんが出てきた。カトハルの母親だろうか。

「ショーちゃんそんな大声出さなくても聞こえるって。」

「あぁ。悪い悪い。デェェ声は親父譲りだからさ。」

ケラケラと笑う男。慣れているのかおばさんも笑っている。おばさんは私達3人を認識しているが男と雑談をしている。今日は魚が取れなかったから手ぶらで申し訳ないとか、最近、畑はどうだとか、チューさんは元気だとか。どうも抽出できた情報は、今チューさんは留守でおばさんだけだって事だ。ずいぶん長く立ち話をする。田舎あるあるだ。あの凶暴な娘を産んだ人とは思えない気さくでフレンドリーな人だ。しびれを切らしたのか、渋谷ちさが身を乗り出した。男とおばさんがきょとんとする。

「加藤春香さんの事を聞きたいんですけど。」

男とおばさんが視線を落とす。聞かれたくない事の様だ。でも、ちさは怯まない。

「私、渋谷ちさっていいます。加藤春香さんの友達です。広池中学、会田高校で一緒でした。この人達も同じで、足立澄子さんと安藤涼子さんです。」

ポカンとしたおばさんと男に、私と涼子が頭を下げた。この時の、ちさの強さには驚いた。

おばさんは表情が変わった。伏目がちになって少し困っている様にも見える。

「まぁ、暑いから中に入って。」

ニコニコと笑っておばさんは私達を招きいれてくれた、男も一緒だ。

 普通の古民家で畳のいい匂いがする。おばあちゃんちを思い出した。

居間に通される。勝手知ったる我が家の様に男はどっかりと座る。私達は男の対面でテーブルに1列に座る。少しするとおばさんがニコニコと笑って麦茶とお菓子を振舞ってくれた。おばさんが男と話し始めた。またずいぶんと話が長い。だが、注意して聞いていると有益な情報もあった。

 男はキミさんとおばさんを呼ぶ。男の名前は近藤将太という。やはり漁師だった。おばさんの夫は、サガミヤという中小企業の社の重役らしい社長の弟だそうだ。酪農と農業で急成長している企業で、舞竹島の山を開拓し工場を持っていた。その勢いもあり、舞竹島の漁業とは関係が上手くいっていないらしい。

「あの。」

きょとんとした4人の視線が私に集まる。

「加藤春香さんが親子げんかして家出したのは聞きました。その後は何か?」

ストレートな質問だ。面食らった顔でおばさんが私を見ている。おばさんはうつむいて寂しそうに笑う。麦茶を飲んで、新しく注いだ。近藤将太は気まずそうな顔をしている。

 この2人は何か知っていると直感した。どうやら、長話も地域柄もあるかもしれないが、触れたくない話題から逸らす為のものだった様に感じる。

「広池中の子なのね。あなたが、ダチ子さん?」

ビックリした。私が頷くと、おばさんはにっこり笑った。

「あの子ね。いっつもアナタの事話してたわ。あの子は口は悪いし、態度も全然女の子らしくなくて。男の子とも喧嘩する様な暴れん坊で、心配だったの。滅多に笑わないし。でもね。ダチ子、ダチ子って楽しそうにしゃべってたわ。体の特徴が似てるし、もしかしてって思ってね。あんなに人に興味を持ったのは洋子ちゃん以来かもね。」

私は恥ずかしくなった。近藤将太がぴくっと動き、私を見た。

「ダチ子はどこかつっぱっている面白い子だって。ちさちゃんも、涼子ちゃんも知ってるわよ。」

近藤将太が言う。

「確かに、春香から聞いた事あんな短い間にヨウコと一緒に一晩飲んだくれた時の事だけどよ。春香が中学高校での話はその話しかしねぇんだから。ダチ子さんか。雰囲気は合ってるし美人なのもそうだな。洋子がお好み焼きパーティーやろうって、親父達も入ってすげぇうめぇソース作ってくれた。それと、特盛りのやきそばを作ってくれた。ちさ盛りだって。量には驚いたが、逸れもまた美味かった。親父も気に入ってた。」

ちさはうつむいて顔を上げない手が少し震えている。多分、嬉しかったんだと私は思った。おばさんはニコニコ笑っている。

「キミさん。洋子も心配してるんだ。数ヶ月前帰ってきたかと思ったら、年甲斐もなく家出なんてしやがってよ。まだ連絡ねぇのか?」

おばさんが視線を落とした。親としてこれほど答えづらい質問はないだろう。少しの間沈黙が続く。うつむいたままおばさんがしゃべり始めた。

「ごめんなさい。わかんないの。でも、ダチ子さん達。もしも娘を見つけたら。」

私達は顔を上げた。

「あのバカぶっ飛ばしてくれるかしら?」

おばさんは満面の笑みだ。私達だけじゃなくて近藤将太もきょとんとしている。

「ぷっ。」と私は吹き出した。大笑いしてしまった。おばさんも笑い出して、涼子もちさも笑い出した。近藤将太だけ何が面白いのかわからない様で不思議そうにしている。だって、カトハルのお母さんだもん。こうでなきゃ。私はそう思った。

 おばさんは楽しく笑ってからの事を話してくれた。会田高校を卒業する頃、会社の上司の息子との縁談を破棄した事が原因で大喧嘩したそうだ。それが原因かわからないが、酪農を学びたいといって、島に来てからすぐに、長野県で牧場を営んでいるカトハルの父親の弟らしい。器量もいいし美人だし仕事もできると大絶賛だったという。ずっといてくれても構わないと、誘われたらしい。だが、ある原因があって、20歳になる今年、舞竹島に戻ってきた。改めてサガミヤの重役との子供と婚約があった。だが、婚約を蹴って、父親と2度目の喧嘩してどこかに消えたらしい。それ以降、居場所がわからなくて。おばさんの悩みだそうだ。

「その、長野の牧場の住所教えてくれませんか?」

ちさが切り出した。おばさんはひどく悲しい眼をしてゆっくりと頭を下げた。

「ごめんなさい。それだけはできないの。主人の3兄弟は兄と主人は仲がいいけど、たかさんと反りが合わなくてね。相続でももめたし。勘当だなんだ。そんな家庭の事情でね。行ってもいいけど何も知らないと思うわ。」

顔が見えないくらい頭を下げて、私達は申し訳ない気分になった。「すみません。立ち入った事を聞いてしまって。」とちさが謝る。「警察には?」と私が聞くと「あまり大事にいしたくないので。」とおばさんは俯いた。ゆっくりと顔を上げるおばさんの眼は死んだ様に虚ろだった。

不思議だ。カトハルは、絶縁状態に近い叔父の家に酪農を学びに行った。春香を気に入っていたという事は、それはそれ、これはこれと考える寛容な人なのだろう。たかさんという人は。何かあって長野を去り舞竹に戻る事件。まさかそこでもやらかしたのか。でも、疑念が残る。気になったのはそんな事まで話すおばさんが、まるで自分に対して謝っている様な印象の表情をしている事だった。

私は気持ちを察して、これ以上おばさんに負荷をかけたくなかった。

「キミさん。そういや、洋子が今、子供の名前で困ってんだ。なんか良いのない?」

近藤奨太がぶっきらぼうにおばさんに聞いた。「え?」と驚いていた。多分だけど、近藤将太はどん詰まりの話を逸らしたかったんだろう。ぶっきら棒だがいい奴だと私は思った。近藤奨太はおばさんにうなずき微笑んでいた。おばさんはきょとんとしていたが、やっと笑顔を取り戻した。

「そうかい。でもそういうのは親が決めないとさ。」

2人が話している間。私達は何も話し掛けなかった。

「ま、そうなんだけどよ。春香に同じ事聞いたらおばさんと同じ事言う。キラキラネームは反対だってお袋が言って、春香もそう言ってたなぁ。」

話は長かったが、春香が死んだり怪我してなかった様でよかった。

 話に花が咲くと、いつの間にか日が暮れ始めた。

「あら。ずいぶん長く話しちゃったわね。」とおばさんは、いそいそと器を片付け始めた。「おし。送ってってやるよ。」と近藤将太が立ち上がった。

「アタシが送ってくよ。アンタは洋子ちゃん所に帰りなさい。」

確かにこんな暗い中、軽トラの荷台で送られるのは嫌だ。おばさんの車は4WDの軽ワゴンだ。好意に甘える事に3人とも同意した。車内はエアコンがきいてて快適だった。

宿の名前を言うと「あー。はいはい。途中にスーパーがあるから助かるわ。」と言って楽しそうに車を走らせている。

 車内でおばさんを見たら、機嫌は良さそうだった。でも、私は気になった。

まずは同じ島にいるのに娘の居場所がわからない事の奇怪さだ。いちゃ悪いがこんな小さな島。探そうと思えば探せるだろう。私達なんかより圧倒的にツールやコネクションを持っているんだ。それと、どんな事情があったかわからないが、カトハルが婚約を2回も蹴った事だ。嫌いな男との結婚をしたくないのはよくわかる。でも、見た目や性格だけで親が娘の要望を断らないといけないはめになる理由はなんだ。余程、重要な理由でもあるのだろうか。私には思いつかない。

 最後に、長野のおじさんと言っていた、たかさんの事情は分かったが、どんな事件があれば舞竹島に帰ってくる事になる。 

 おばさんは何を隠しているんだろうか。私達にこれ以上踏み込みさせない様に感じる。「あの子見つけたらぶっ飛ばしてちょうだい。」なんて言葉があった。あれは嘘なのかほんとの心の声なのだろうか。

 考えているといろんな可能性が出てきて、私自身も訳がわからなくなってきた。それに、おばさんにこれ以上聞いても何か教えてくれるとは思えなかった。私はとても奇妙な感覚のまま、私達で他愛のない事をおばさんと話しながらスーパーに到着した。

 スーパーに着くと「折角だからお買い物済まさせて。あなた達も何かあったらね。」と言ってくれた。私達はお言葉に甘えて、スーパーでお酒やお菓子を買い込んだ。私は6本の強めの缶チューハイ。涼子はボトルのウィスキーと氷。ちさは6本セットビール2ケースと氷を買った。お菓子もそれぞれ好きな物を買って千差万別。面白かった。

レジに向かうとおばさんがいた。私は不思議に思った。おばさんの顔はひどく疲れている。

不安で仕方ない様な、暗い表情だった。車中の明るい調子ではない。

 おばさんの車に戻って、宿に着いた。おばさんはにこやかに笑って手を振った。辺りはすっかり暗くなっている。

 フロントで部屋の鍵を受け取って、3人ともどっと疲れて、好きな場所でくつろぐ。私はベランダのベンチ。ちさと涼子はぐったりとして畳に寝転がっている。涼子がテレビをつけて、パチパチとチャンネルを変えている。

 目の前に広がる夜の海を見ながらチューハイを飲んだ。

こっちは心配しているのに、あの狂犬はどこを走っているのか。何か変だ。ベランダから見える夜景は昨日の夜景と同じなのに、今はひどくつまらない景色にみえる。

 まだ6時30分。夕飯まで時間がある。ちさが「少し話さない?」と言って、3人で状況を整理した。私の意見にちさは同意していた。涼子はひどくつまらなそうにしていて「わからない。」とだけ言った。ちさはその態度にムッとしていたが、時間をかけて落ち着いた。

 結局、収穫は、1回婚約破棄して長野に行き、長野を離れた事件はわからないが、また舞竹島に帰ってきて2回目の縁談も蹴った。そして家出。進展はないが情報が手に入っただけ良しとする事に私達はした。明日はどうするか。海の次は山の計画。

 私は涼子の様子が変だと、また思った。私に今回の事を提案しこんな分厚い資料を作ってきたのに、やる気がないというか、ふてくされているというか、時折見せるあの熱意との乖離を感じた。

 夕食の時間になって、あのかんざしを帯びに挿した仲居さんが食事を用意してくれた。今日は大きなお鍋と惣菜だった。昨日食べたあの牛肉のしぐれ煮がまた食べたかったな。

私達の半透明のビニール袋を見て「あら。氷お持ちしますね。」と言ってくれた。水と氷を持って来てくれて、涼子は「ありがとうございます」といい、強めの水割りを飲む。

ちさは余程のビール党なんだろう。他の酒は飲まない。私は何でもいける口だけど安いからチューハイの9%の奴を飲んだ。

 食後、テレビを見ながら3人とも黙っている。何か話そうにも、食事前と同じ話しかできないだろう。涼子がタブレット端末でカトハルの写真を見つめている。例の海を背景に自撮りしている写真だ。ドアがノックされ、仲居さんが優しい声で「失礼いたします。」と言って夕食を下げてくれる。寝転がりながらタブレット端末でカトハルの写真を見ている涼子の後ろに、仲居さんが立った時だった。

「あら。春香ちゃん。」

仲居さんの声に私達は全員ぎょっとした。仲居さんはとても驚いて数歩、後ずさった。

「知ってるんですか!? この人!」

タブレット端末を突き出してすごい勢いで迫る涼子。迫られた仲居さんは怖かっただろう。ちさが後ろから涼子の肩をつかむ「おちつけ」と言う意味だろう。仲居さんは戸惑いながらも、さすがプロなのだろう、優しい笑顔で食器を片付けだした。

「知ってるも何も、私がよく行くお店で働いてたんですよ。可愛くてちょっと無愛想だけど優しい娘よね。」ぽかんとした3人の顔を見ると仲居さんはくすくすと笑って、手際よく片づけを続ける。

「お友達でらっしゃいますか?」

「えぇ! 私達この人を探しているんです! 行方不明なんです!」

タブレット端末を突き破りそうな勢いで涼子が画面をつつく。

「行方不明? この前会いましたよ?」

3人とも驚愕し、凍りついた。

「いつですか!?」

「そうですねぇ。詳しい日付は覚えてないけど、何週間か前ですねぇ。山の方に出かけた時ですね。フェイラムさんっていう知り合いがいまして、たまに野菜を分けてもらうんです。春香ちゃんがいてびっくりしましたけど。一緒に収穫しましたよ。」

「どこですか!」

「えぇ。八代町から少し行った山の中の一軒家ですよ。アメリかだったかな? 沖縄に住んでたっていう5人家族ですよ。外国の方で。」

ちさが急いで紙とペンを仲居さんに差し出した。

「突然で失礼ですが。ちょっと地図をかいてもらえませんか。あと、そのお店の名前も!嫌なら構いませんけども。」

仲居さんはためらった。個人情報だからか? ちさや涼子の圧に不安を持ったのか。島の外から来た知らない人が島民を調べているなら当然か。私は、玉砕覚悟で口を開いた。

「私達中学と高校の時の友達なんです。私は足立澄子って言います。」

きょとんとして仲居さんは左上の宙を見ている。普通に考えたら友達なのに連絡取れない事の方がおかしい。だが、意外な言葉が出た。

「あっ。もしかしてダチ子さんってアナタの事かしら?」

勢いよく頷いた。ケラケラと仲居さんが笑う。やはりカトハルは私の事を話していた。

「じゃあ、もしかして、ちささんと涼子さんですか?」

ちさは何回も頷き、涼子は顔を上げて小さく頷いた。

「そうなんですね。春香ちゃん。お店で働いていた頃、色々話したんですよ。お客様達の事を楽しそうに話してて。ダチ子さんの事は特に。今はお店をやめちゃって、少し寂しいですけどね。フェイラムさんの所で会った時は驚きました。」

ぎりっと妙な音がした。振り向くと涼子だった。涼子はすぐに視線を逸らして唇を噛んでいる。普段は気さくで明るいのに、たまに見せる変な行動はやっぱり不気味だ。

「ちょっとお待ちください。ここからは少し遠いですけど。フェイラムさんちは。」と言って仲居さんはちさから紙とペンを受け取り、丁寧に地図をかいてくれた。

「できればお店の名前も!」仲居は頷いた。

「思い出すわぁ。春香ちゃん、子供の頃、この島小さいから娘も同じ学校だったの。その時はね、動物好きで優しくって、人見知りでいつも動物の面倒を見ていたの。そしたら、久々に会ってみたら目つきが鋭くて驚いたわ。全然イメージが違うんですもの。あと、通っていたお店は”みんちゅ”って沖縄料理屋さんですよ。」

 仲居さんは三島紀子さんという。三島さんの言葉を聞いて3人で顔を見合わせた。信じられない。あのカトハルが気弱? 人見知り? 全然イメージがつかない。確かに明るくて社交的ではない。でも、少なくても私のイメージは一匹狼ときどき狂犬だ。男子生徒を撃退したり、毅然とした態度で先生にも立ち向かうあのカトハルが?

「はい。フェイラムさんちはここですよ。ただ、春香ちゃんはそこに住んでいるわけではないと思います。きっと御実家を探された方が確実と思いますけど。」

「今日、行ってきたんです。でも、行方不明で連絡が取れないって。」

仲居さんの表情が固まった。青ざめている。

「そうなんですか。」

小さな声で呟いた。三島さん差膳を下げるだけでかける声が見つからない。

「会えたら教えてください。縁起でも無い事にはなってないと思いますけど。」

三島さんは表情は曇っているが、少しして優しく笑った。ゆっくりと丁寧にお辞儀をして、静かな物腰で食器を持って「お願いします。」そういって部屋を出た。

 私達は大きなため息をつく。こんな事あるものだろうか。1日いろんな事が起きすぎだ。

ちさは地図を見てスマホで何か調べている。多分バスの時間や地理、”みんちゅ”の店の場所だろう。涼子はじっとタブレット端末の写真を眺めている。

私はベランダにでてお酒を飲んだ。「あのバカ。」つい私もスマホでマップアプリを開いた。舞竹島の八代町。街道沿いの山道を少し離れた所に白い一軒家がある。そばに畑がある。上からしか見えなかったが、あまり日本家屋っぽくなかった。映画で見た事があるアメリカの田舎にある様な雰囲気だ。三島さんが言う様にここにカトハルがいないだろうとわかっていても、何か情報が得られればいい。涼子が作ったしおりの計画が変更になる。

 さっき三島さんと話した時、カトハルの情報に一番食いついたのは涼子だった。でも、公子さんとの話の時は涼子は消極的だった。彼女のカトハルに対する情熱はちさや私よりも圧倒的に強いのに。何故?。部屋を振り返ると、涼子はタブレット端末を悲しげな表情で見つめている。問いただすには、今の段階では早計過ぎる。それに、3人で動いているのに関係を分断させる事は好ましくない。私はこの中で新参者だ。新参者が涼子とちさの間に無暗に切り込んでも、好転できる可能性は薄い。

あまりにも見つめ過ぎていたのか、涼子が顔を上げて私を見た。私はすぐに視線をそらして暗闇の湾を眺めた。考え過ぎだろう。何か理解できない暗闇が胸に残ったまま、私達はお風呂に入って床についた。


 二、フェイラム家訪問


 7月27日の朝。ちさが調べたバスの時間に合わせて起きた。

朝食の時、三島さんが優しい笑顔で配膳してくれた。3人とも無言で食べた。

昨日の朝と雰囲気が違う。数週間前とはいえ目撃情報があったんだ。フロントを出る3人。

「いってらっしゃいませ。」と三島さんは笑顔でお辞儀をしてくれた。

 八代町は海岸沿いで、海を背に急勾配の坂道が山につながる。バスの席でも体が傾くのがわかる。バスを降り、急勾配の山道を歩く。ちさが先頭を歩き、「多分ここ。」と指をさした。左手に細い道がある。矢印と「G.F」と書かれた木の看板があった。「フェイラムのFだよね。」涼子がちさに聞く。ちさは何も答えずに矢印の方向に歩き出す。轍が続く木に囲まれた一本道だ。5分くらい歩くと、開けた敷地にポツンと白い家が見えた。やっぱり。映画で見た様な、アメリカの田舎の一軒家だ。森の中ではあるが開放感がある広い敷地に小さな畑があった。少年がトマトを収穫している。少年は私達に気づいた。

「何か御用かしら。」

いきなり左側から女性の声がした。目の前にいる女性が突然、どこから現れ言った。

 麦わら帽子をかぶっていて、白いワンピース姿。すらっと背が高くて、陶器の様な真っ白な肌。大きなお腹。何ヶ月だろうか。ぱっちりとした青い目は宝石の様に澄んでいる。

でも、冷たい。敵を見る様な目だ。仕方がないか。面識のない3人の不審者が敷地に入ってきたら警戒するのは当然だ。でも、どこかで見た事がある気がする。

「ミッチ!」と言って畑から少年が駆け寄る。女性を守る様に、澄子達の前に立ちはだかった。少年は日本人だ。ハーフかもしれないけれども、女性とは肌の色も顔立ちも似ていない。でも家族なんだろう。すごい眼力で澄子達を睨みつけてくる。

「いきなり押しかけてすみません。私、渋谷ちさっていいます。三島紀子さんから紹介されて伺いました。」

三島さんの名前を出すとミッチと呼ばれた女性の顔の緊張が取れた様に見えた。

「なにしに?」少年は敵意むき出しだ。

「加藤春香さんを探しているんです。こちらに伺っていたと聞いて。私達、学生時代の友達なんです。行方がわからなくて心配で。」

少年の顔から敵意がとれた。女性と視線を合わせて、2人ともきょとんとしている。

「どちら様?」

家から初老の女性が出てきた。おそらく母親だろう。お腹の大きな女性と同じ肌と目の色で顔がよく似ている。ただ、この人はお腹が大きい女性よりも鋭く冷たい目だ。

「ママ。この人達、ノリコの知り合いで、ハルカを探しているんだって。」

初老の女性の表情は変わらない。お腹の大きい女性は小さく頷いた。初老の女性は目をつぶって少し考えている様だ。美しい瞳がひらくと、無表情で言った。

「暑いでしょう。とりあえず入りなさい。ゴードンは学校。亮もお茶にしましょう。」

初老の女性が家に戻る。女性と少年もついていく。澄子達は顔を見合わせた。ちさが先頭きって歩き出す。どうやらゴードンという男の子らしい子もいる様だ。家に入ると、これまた映画で見る様なアメリカの家だ。天井が高い。澄子達はソファーに座らせてもらう。フェイラムさん達3人ともキッチンに行き、紅茶のいい香りがしてきた。甘い香りもする。少年と初老の女性が紅茶とケーキを持ってきてくれた。麦わら帽子を脱いだお腹の大きな女性はゆっくりと歩いている。「どうぞ。」とアールグレイの紅茶と、ケーキを並べる。紅茶味の様だ。明らかに外国人なのにイントネーションにも癖がない。かなり日本慣れしているんだろうと澄子は感じた。「いただきます。」と言って紅茶に口をつける。やっぱり淹れたての紅茶は美味しい。

「ハルカの友達なの?」

初老の女性が聞いてきた。直球だ。

「はい。でも行方がわからないって聞いて心配になって。」とちさが答える。

「それはさっき聞いたわ。」お腹の大きい女性は容赦がない。国民性なのだろうか。

「まずお名前は?」

鋭く冷たい目つきで初老の女性が聞いてくる。澄子達は戸惑いながら自己紹介をした。氷を思い起こす様な澄んだ青い目で突き刺す様に見てくる。

 私達の自己紹介が終わると、3人が自己紹介をする。

 初老の女性はシェリー・フェイラム。お腹が大きな女性はミシェル・フェイラム。少年は亮とだけ名乗った。亮・フェイラムなのかと思ったがどうも違う様だ。少年と2人に血縁はないらしい。それ以上は語らなかった。ミシェルさんの事を、亮くんもシェリーさんもミッチと呼んでいたのは、あだ名みたいなものだという。

「それで、ハルカの事だけど。」

シェリーさんが切り出した。ちょっと苦手だな。この人。

「残念ながらノリコが来た時以来、うちには来てないの。どこにいるかもわからないわ。ミッチも亮も連絡が取れないの。」

結論から端的に一刀両断された。

「ハルカは、ジョージが好きで通っていた沖縄料理屋さんで働いていてね。ジョージと気が合って仲良くなったの。あのお店をやめるまでは、たまにうちに来て畑の手伝いをしていたわ。長野県で酪農と農業を勉強していたんですって。」

ジョージというのはシェリーさんの旦那さんで、元は沖縄の米軍基地の軍人らしい。シェリーさんの厳しい雰囲気はその影響か。色々あって退役して舞竹島に移住したんだという。日本が好きで国籍も移したという。滔々とシェリーさんは静かに話す。

「ハルカは変わってる子で、長野での経験を色々と話してくれたわ。牛のお尻に手を突っ込んで牛の体調を把握したり、畑の蛇を掴んで焼いて食べたとか。レディーとは思えないけど、とても素敵な笑顔で話していたわ。」

ふふふ。と笑って紅茶を飲む。亮くんもミシェルさんもくすくす笑う。なんだか緩急が激しい人達だと思った。

「最初に来たのはいつだったかしらね。ジョージが連れてきて、挨拶に行ったら畑にいたわ。楽しそうに苗を見て土の匂いを嗅いだりして。ジョージは亮を連れて、笑って少し先の海岸にハルカを連れてったわ。お茶を持って行ったらジョージとお酒飲んでたわよね。亮はハルカにべったりで、頭を撫でられて顔を真っ赤にして。」

シェリーさんは意地悪な笑顔で亮くんの顔を覗く。亮くんは困った顔でうつむいている。

「ママ。お酒くらい、いいじゃない。パパの飲み仲間なんだから。」

「まぁ、でも昼間からお酒なんて驚くわよ。」

この一家の独特な世界観というか会話のリズムは掴み所がない。涼子もちさも何をどのタイミングで話せばいいかわからなくて黙っている。でも、第一印象と違って、カトハルの事を楽しそうに、にこやかに話している3人を見て、いつの間にか3人は気分が落ち着いていた。「あら。」と言ってティーポットをゆすった。「ごめんなさい。また淹れてくるわね。」静かな所作で立ち上がる。亮くんは恥ずかしいのか一緒に立ち上がってシェリーさんについていった。ふふふ、と笑ってミシェルさんが紅茶を飲む。

「あの。差し支えなければ、カトハルが働いていたお店について教えてくれませんか?」

「えぇ。”みんちゅ”っていう沖縄料理屋さんでね。結構有名なの。パパがよくいくの。場所は、このあたりかしら。」ミシェルさんは立ち上がって、タブレット端末を持ってきた。初めて会った時の表情とは、うって変わって笑顔で私達の隣に座り、するすると画像を流す。三島さんの言う通りの店で、”みんちゅ”という暖簾と大きな白人と春香が写っていた。心を許してくれたのだろうか。カトハルの話が盛り上がってしゃべりたくなったのだろうか。他の写真もミシェルさんは語りだした。

「これはね。ハルカと私達でそこの海岸でバーベキューした時の写真なの。とっても美味しい焼きそばを作ってくれたわ。」

ちさがびくっと反応した。「ん?」と優しい笑顔でミシェルさんが笑う。ちさは視線を外して画面を見つめる。楽しそうに笑う初老の白人男性とカトハル。多分この人がジョージさんなんだろう。次の写真だと、真ん中にジョージさんとシェリーさん。亮くんより少し大きい少年が亮くんと肩を組んで笑っている。端っこでカトハルが爽やかな笑顔でいる。次の写真はカトハルがいなくてミシェルさんがいる。今度はカトハルに頭を撫でられて顔を真っ赤にしている亮くん。次の写真は亮くんがカメラに向かってきて視界をさえぎっている。楽しさがにじみ出てくる写真ばかりだ。ミシェルさんは幸せそうに笑っている。次の写真に私達3人は驚いた。

 あの写真だ。涼子のタブレット端末にあるあの写真だ。

ミシェルさんは私達の反応を不思議がって「どうしたの?」と問いかけた。澄子達は顔を見合わせた。なんでこの人がこの写真を持っているんだ。

「これはね。1人で崖っぷちに歩いていって、自分でハルカが撮っていたの。危ないと思って駆けつけたら、逆に怒られちゃった。たまには連絡しないと怒られるからって言って何回か撮っていたわ。誰に?って聞いたら、へっ。って笑っていたわ。よっぽど大事な人なのかな。教えてくれなかったけど。」

突然、涼子が口を押さえて泣き始めた。ミシェルさんも澄子も、ちさも突然の事に驚いた。押えた手から漏れる泣き声は大きくなる。ミシェルさんが涼子を静かに抱いて、頭や肩をなでて優しく微笑んでいる。母親の顔だ。涼子はミシェルさんの胸で泣いた。テーブルに置かれたタブレット端末をよく見ると撮影日は涼子に送られた時よりも前だ。

「いいの。いいの。おまじない。おまじない。」と、ミシェルさんは、目をつむり、ゆっくりとした、子供をあやすような口調で、静かにささやいた。本当に優しい人だ。そうか。思い出した。この人は実家で見た情報番組でインタビューを受けていた人だった。しばらくすると、涼子が泣き止んだ。すると、キッチンから声が聞こえた。

「あら、お邪魔だったかしら。」と言ってシェリーさんが紅茶のポットを持って現れた。

「クッキーどう? 作りすぎちゃって。」クッキーがきれいに盛られたお皿が差し出された。シェリーさんが私達のカップに紅茶を注いだ。

「そういえば、思い出したの。ハルカが働いていたお店。みんちゅ、っていうの。ジョージは今でも通ってるわ。私の料理が気に入らないのね。きっと。私はタコライスバーガーなんて知らないもの。」

行ってみたら? という意味なんだろう。お店のカードを渡してくれた。表には店の名前とシーサーの絵。裏面には地図がかいてあった。優しい笑顔でいる。

 ちさがスマホで場所を調べた。見せてもらうと、意外と宿の近くの店だった。歩いて20分くらいかな。宿までの次のバスまでまだ少し時間があった。それをわかっているんだろう。シェリーさんが「次のバスまでゆっくりしていって。」と言った。最初は怖い人だと思ったが、いつの間にか優しくなっている。そして何でも見透かしている。澄子達は甘える事にした。

 涼子は亮くんと楽しく話している。聞こえてくる話題は大体カトハルの事だ。カトハルの中学、高校時代の武勇伝を話すと亮くんは驚く。

「そんな不良みたいな人だったんですか?」

「ほとんど不良みたいかな。でも優しい人だよ。」

亮くんが何回も頷く。亮くんがカトハルの話をすると逆に涼子が驚く。「え! 狸食べたの? たぬきそばじゃなくて?」ケラケラと笑って亮くんが話す。「マタギのおじさんが狸持ってきてくれて。別に春香は捌いてないよ!」と笑う。「兎もたべるよ! 春香!」。「えぇ!」と驚いてケラケラ笑う涼子。お互いカトハルの情報交換で盛り上がっている。 

ちさは、じっとミシェルさんの大きなお腹を見て、不思議そうに質問する。興味津々に聞いている。「お腹大きいと歩きづらくないんですか?」、「ううん。ハイヒールはやめたけど普通に歩けるわ。」、「失礼ですけど、何ヶ月なんですか?」、「もうそろそろかしらね。名前は決めてないんだけど。」ニコニコとちさを眺める。真剣な顔をして、ちさがミシェルさんのお腹を見ている。「痛くないんですか?」と聞かれると優しい笑顔で

「たまに蹴ってくるの。私のお腹を突き破ろうとするくらいの勢いで。」とキメ顔で話す。ちさは、ぷっと吹き出して笑う。ミシェルさんもケラケラ笑う。

 紅茶を口に含んで前を見ると、シェリーさんが4人を見ながら微笑んでいる。私と目があった。同じ笑顔でカップを置いた。

「まるで娘が3人増えたみたい。」

魅力的な笑顔に、澄子はできる限りの笑顔で返した。

シェリーさんの笑顔はちさと話すミシェルさんとそっくりだ。この先私に縁があるかわからないが、私も将来こんな母親になって暖かい幸せな家庭を作りたい。なんだか温かい気持ちになった。

「あら。」とシェリーさんが時計を見る。澄子も腕時計を見るとそろそろ出ないとバスに遅れる時間になっていた。「そろそろ、バスの時間よ。」とシェリーさんが席を立つ。

亮くんが「えぇー!」と不満な声だ。ちさも不満気な顔をしている。

「亮。迷惑かけちゃダメよ。」とシェリーさんが言うと、不満気な亮くんは時計を見てから玄関を出て行った。ミシェルさんは、ふふふ、と笑って玄関に向かった。涼子は大人しく帰りの準備をしていたが、こっちはちさが不満気だ。こんなところが可愛いんだよね。

 玄関で麦わら帽子のミシェルさんが待っていた。バス停まで送ってくれるそうだ。

ちさが、「そんな事しないで。」と言ったが、ミシェルさんは「ハルカを見つけてくれる人達にこのくらい当たり前。妊婦は結構強いのよ。」と、ちさの鼻を指でつついた。

ちさは勇み笑顔で頷いた。すると、すぐに亮くんの声が聞こえた。

「とまと!」

振り向くと、トマトが入ったビニール袋を持って走ってきた。息を切らせて、涼子に袋を突き出す。2人とも「えへへ。」と笑って涼子は袋を受け取った。

澄子達3人はシェリーさんと亮くんに頭を下げて、ミシェルさんについていった。

ちさはミシェルさんの横を歩く。ミシェルさんは「ふふ。」と笑ってちさと手をつないで歩く。下り坂のバス停につく。あと3分くらいだ。なんて絶妙なタイミングだ。

 午後3時を過ぎていた。バスが坂を上ってきた。ふと、ミシェルさんが口を開いた。

「ハルカを見つけたら私達にも連絡してね。」とニコッと笑った。

整理券を取って最後部の座席に座る。ミシェルさんは片手で帽子をおさえながら素敵な笑顔で手を振ってくれた。3人は大きく手を振った。

 無事に宿ついて、部屋に入った。

あとの手掛かりは”みんちゅ”。3ん員でバスがあるかどうか。なければ最悪、タクシーで。でもまだ営業時間外だ。ちさは風呂に向かった。涼子も澄子も冷蔵庫から缶ビールを取り出して、涼子がテレビをつけた。涼子の隣に座った。涼子はテレビを見て楽しそうに笑いながら澄子の肩を叩いた。おばさんの時と三島さん、フェイラム家出の温度差がどうしても引っかかった澄子は調子を合わせながら、CMに入った時、涼子に聞いた。

「ねぇ。何か知ってるんじゃないの?」

涼子は横目で私を見た。その時の眼は、初対面のシェリーさんどころではなく、鋭かった。

おばさんの、あの死んだ様な眼でもある。涼子が缶から口を離し。腕で口を拭った。

 澄子は待った。

涼子は何も言わず、さっきまでの笑顔が嘘の様に冷たい眼でテレビを見ている。澄子は内心、涼子は何か知っていると確信した。どう聞き出そうか考えていた。だが、澄子やちさに情報を隠す理由がどこにある。カトハルの居場所や連絡先を知っているなら、こんな茶番する必要がないだろう。情報と情熱を持っているはずの人間がする事じゃない。

 ふぅ。 とため息をついて、涼子は私をじっと見据えた。

「わかったら苦労しないよ。こんなに。」

涼子は缶をベコッと握り潰して、立ち上がった。

「私もお風呂に行ってくるね!」

いつもの笑顔で手を振って楽しそうに鼻歌を歌いながら部屋を出た。

 増々わからなくなった。あの言葉。何かを知ってる事はわかった。そして現状、関係を悪化させるつもりはない様だ。澄子の中で更なる混沌を生んだ。ちさと協力して涼子を問い詰めても、涼子は何も言わないだろう。おそらくひらひらと躱されて貝の様に閉じこもるだろう。追い詰めてこじ開けるには、もう少し情報があってからの方がいい。涼子は頭が良いから、さっきのやり取りで澄子が勘づいた事を知ったはずだ。これからは、澄子が涼子に警戒されても仕方ない。おそらく涼子は表立って毛嫌いはしないと思うが、内心疑われている事は認識する。そのくらいだろう。カトハルの捜索だけじゃなくて、内輪でも問題発生なんて嫌になる。澄子はビールを飲みながらテレビの画面を見ていた。婚約破棄が絡んでいる様だが、まるで子供の家出。親も触れたくない事情。一体なんだ。


 ちさと涼子がお風呂から戻ってきて、夕食の時間になった。三島さんは何も言わなかった。私達の雰囲気から進展がなかった事を察したのだろう。

 静かな夕食の後、”みんちゅ”の近くに行けるバスまで多少時間がある。私達は畳に転がっていた。3人ともしばらくごろごろしてテレビを見ていた。全国放送のお笑い番組が始まりかけていた。そういえば、私だけまだお風呂に入っていなかった。シャワーだけなら時間的にもと思い立ち上がろうとした時、私のスマホが鳴った。誰かと思ったら近藤奨太だった。

「もしもし。」

荒々しい声が聞こえる。走っているみたいだ。

「さっき春香がきて、逃げ出したんだ! なんか知らねぇか!」

私は驚いて何も口に出せなかった。体だけは反応して柱にもたれかかった。電話口からは「おい! おい!」と荒々しい声が聞こえる。私は何を言ってるんだこの男はと思った。「どうしたの?」とちさが寝転がりながら、スマホ片手に沈黙している澄子を見る。とっさの事でどうすればいいかわからなくて、パニックになった。電話からは問い詰められ、涼子やちさにはなんて言えばいいかわからない。とりあえず落ち着こう。言葉を捻り出した。

「春香が来たんですか? そちらに。」

「あぁ! でもすぐに逃げちまった!」

前を見ると、涼子とちさが驚いた表情で澄子を見ている。

「状況を整理したいんです。涼子と千沙にも聞こえる様にしてもいいですか?」

電話口の息が段々落ち着いてきて近藤将太は「あぁ。いいぜ。」と言った。

「何があったんですか。」ちさが聞く。

澄子はスピーカーモードにしてスマホをテーブルに置いた。涼子もちさも食い入る様にスマホを見ている。

「ああくそ!」と大きな声がした。数秒くらいして「悪い。本当にごめん。」と近藤奨太が謝って、状況を説明してくれた。

「出来れば最初からお話しください。」澄子は言った。


 近藤奨太は家でいつも通りくつろいでいたという。

近藤洋子と近藤奨太の母が夕飯の準備をしている時に呼び鈴が鳴った。普段こんな時間に訪問者なんていないのに、不思議に思ったらしい。近藤奨太の母親がでると「あっ!」と聞いた事のない突拍子もない声が聞こえたという。何かと思って近藤洋子が玄関に向かった。「ハルちゃん!」その言葉に近藤奨太も父親も驚いた。玄関にカトハルがいたという。

「ハルちゃん! 心配したんだよ! おばさんもずっと心配してるんだから!」と近藤洋子がカトハルの腕を掴み、涙声で前後に揺さぶったという。

 カトハルはずっとうつむいて「ごめんね。アタシのせいで。」と繰り返したという。

近藤洋子さんは「え? なんで?」と返し、カトハルが近藤奨太を見たという。カトハルは申し訳なさそうに頭を下げた。

「ハ、ハルちゃん。落ち着いて。ゆっくりしていってよ。」

「そうよ。今お茶淹れるから。」と母親が台所に駆けていったという。近藤洋子はおろおろしてカトハルの腕を掴むのが精一杯だったという。近藤奨太と父親は何もできなくてじっと見ていたという。「とにかく、あがれよ。」と将太が思い切ってカトハルの腕を掴もうとしたが、するりと抜けられた。カトハルは「ごめんなさい!」そう叫んで、近藤洋子の腕を振りほどいて、出て行ったらしい。近藤洋子が追いかけようとしたが、転んだら大変だから、近藤奨太が止めた。

「ここにいろ! 俺が行く!」と言って近藤奨太が追ったという。近藤洋子は何回も「ハルちゃん! ハルちゃん!」と叫んだという。父親に洋子を任せ、奨太は追いかけたが、車も自転車の明かりも音もしなかったという。どこかに走り去ったのか。確かに土地勘はあるにせよこっちだってそうだと将太は走ったという。人間の足でそんなにすぐに消える事はできないはずだと思い、走って探しながら、もしかしたらと思い、澄子に電話をかけてきたらしい。

 電話口からは静かな足音と若い女性の泣き声と別の男性の慰める声が聞こえた。

 ついさっきそんな事があったなんて、衝撃的で、何も言えなかった。

もしかしてと思い、涼子を見た。涼子は祈る様に泣いていた。演技ではない事はわかった。唇を噛みしめて、血が出ていた。

「私達は夕方までフェイラムさんの家にいました。春香の情報を聞き出せるかと思って。でも、残念ながら。」

しばらく沈黙が続いた。通話時間は更新されていく。

「なぁ。本当に何も知らねぇのか?」と奨太が言った。澄子は正直に「知らないです。」と返すと更なる沈黙の後。「そうか。」と言われた。

「むしろ、春香が近藤さんの家に行った事の方が不思議です。」ちさが言った。

「あぁ。」沈黙の先に奨太の考えなり応えを待った。

「少し昔話も混じるんだけどさ。」

 彼の話は長かった。

 要約すると、近藤奨太と洋子さん、カトハルは舞竹島での小学校の同級生。その中でも特に仲が良かったのが洋子さん。そして、洋子さんと近藤慎太は子供の頃から結婚するとよく言っていたらしい。確かに美人だったし。昔から人気者だったという。そんな洋子さんに恋心を寄せていた相模雄太という男が将太に因縁や迷惑をつけ始める様になったという。小学生なのにかなりな嫌がらせだったらしく、ガキ大将みたいな将太に腹を立てて、ありもしない噂を流したり、色々だったという。本土に転校して相模雄太はいなくなって清々したが、大人になり舞竹島に帰ってきてから、洋子さんにカトハルとの婚約が決まると、天狗になって言ったという。気が大きくなって洋子さんの事を「ブス」だの「器量の悪い女」だの言いふらしていたらしい。それに女癖が悪い男らしく、隠し子がいるとかいないとか。男として最低だ。奨太は相当嫌いな様だ。

「でもなんで姉さん。あ、えっと、春香さんのせいなんですか?」

一通り、長い昔話というかいきさつを聞いて、ちさが切り込んだ。また沈黙が続いた。大きなため息がして、オフレコという条件で私達は応じた。

 近藤奨太は傷害事件を起こしていた。つい最近だ。不起訴処分になって済んでいるそうだが、相手は相模雄太だった。小学生の時よりも悪劣さを増した嫌がらせ。

「きっとだけどよ。春香は、自分がすんなり結婚してりゃ相模雄太の怒りを煽る事もなかったそう思ってるのかもな。」

 澄子は、ぶっきらぼうで滅茶苦茶だが、カトハルらしい優しさを感じた。

 大きなため息をついて彼は口を開いた。

「俺だって漁協に声をかけて春香を探してる。でも見つかんねぇんだ。もしも見つかったら、洋子に会わせて、じっくり話をさせてやりたいんだ。お願いします。」

通話が切れた。スマホの画面がふっと黒くなる。落ち着かない様子で、ちさがスマホを取り出し、カトハルのお母さんに電話した。カトハルが実家にいるか聞いていた。

暗い表情で「あぁ。そうですか。いえ。夜分遅くにすみませんでした。」と電話を切った。ちさは首を横に振った。

「私、警察に電話する! 近藤さんちの近くなら!」

ちさが血相を変えて舞竹島の警察の電話番号を調べた。

「きっと無理よ。きっとだけどね。」

涼子の言葉にちさが逆上し、襟元を掴んで柱に叩きつけた。

「あんたさぁ!」

涼子は死んだ様な眼でちさを見ず、遠くを眺めていた。やはり、何か知っているんだ。

「私、もう1回お風呂に入ってくるね。」と言って、涼子がちさの手を振り払って、お風呂セットをもって部屋を出た。ちさは悔しがっていたが、これ以上は暖簾に腕押しになる事は予想できた。澄子はちさに思い切って聞いてみる事にした。涼子と馴染みも深い彼女相手にどこまで聞き出せるかわからないが。

「ねぇ。涼子ってさ。」

ちさがビールを飲みながら振り向いた。

「見てて感情の起伏が激しい様な。昔からそういうところあるの? ちさはこの島に来てから変だって言ってたけど。」

ちさは憮然とした表情でビールを飲みながらテレビに目を向けた。

「たまにはあった。姉さん絡みで。でも本当に、ここに来てから変。何考えてるのかわかんないし。足立さんの方が一緒にやりやすい。」

「涼子だって心配なんだと思うけど。何か知ってるんじゃないかなって思って。」

「なんで?」

ちさは鋭い視線で私を見つめてくる。澄子は今まで感じた違和感と、涼子と話した時の話をした。ちさは黙って考えていた。

「多分だけど。涼子は姉さんの居場所は知らないんじゃないかな。足立さんが言う通り、知ってたら、こんな茶番なんてしないよ。涼子の姉さんへの愛は盲目的なの。私より強いと思う。私や足立さんを呼ぶ事なく、1人で探しに来てたと思っても何の疑問もない。誰かが裏で糸を引いているのかも。なんか、訳わかんなくなってきた。」

ちさはビールを飲んだ。

「でも、その、ごめんなさい。涼子の事は信じて。絶対に、悪い人じゃないの。涼子の事は、信じてあげて。お願い。」

ちさはすごく悲しそうに笑った。澄子はこれ以上ちさに聞く気がなくなった。彼女の親友を疑う様な事を聞いた自分を恥じた。2人の絆は想像以上だった。

「ごめんなさい。」

澄子は状況を搔き乱している自分にも恥じた。今、私がすべき事はカトハルを見つけ出す事。そう自分に言い聞かせて「お風呂に行くね。」と言って部屋を出た。

 階段を下りていると踊り場で女性とぶつかりそうになった。

「あらごめんなさい。」

多分、年上だろうか。きれいな黒い長髪で美人だ。丁寧な物腰で会釈して去る時の香りも素敵だった。左眼の目元の小さな泣きぼくろがとてもチャーミングだった。

 露天の大浴場に着いて扉を開けると、露天風呂に涼子がいるのがわかった。ボケーっと赤ら顔で天を見上げている。澄子は体を洗って涼子の隣に腰を掛けると、じろっと見られた。敵意を感じる。さっきの事で警戒されているんだろう。それも仕方ないか。

「さっきは訳わかんなかったね。」

「別に。」

涼子が右手を月に向かって照らし合わせた。数秒して、ため息をついた。

「ねぇ。こんな話知ってる?」

「なぁに?」

涼子は澄子をじろっと見たが、一瞬で表情は笑顔に変わった。右手を降ろして黙った。

「いや、ごめん。何でもない。」

「なによそれ。」と澄子が笑うと、涼子は黙っていた。

涼子は虚ろな目で月を見ていた。

「そうだよね。そうなんだよね。」

「何が?」

「そうしたいから、そうするんだよね。」

涼子は哲学的な事を考えていたのか。

「怒らせるかもしれないけど。もう1回だけ聞かせてくれる? 知ってたらこんな苦労しないってどういう意味?」

涼子は鋭い視線で私を睨んだ。涼子はすぐに視線をそらして、天を仰いだ。

「さっきも言ったでしょ。知ってたら苦労しないの。こんなに。」

それ以上何も言わず、涼子は2回目のお風呂を上がって脱衣場に向かった。涼子との関係は悪化するばかりな気がする。

 澄子は思った。困ったなぁ。突然の将太の話で、”みんちゅ”に行く機会は失われた。相談次第だが、とにかく近藤家で話を聞こう。その後、”みんちゅ”で聞き込みをするのか。それ以外に情報がない。

「カトハル。今アンタどこで何してんのよ。」


 7月28日

 3人は前の晩に澄子が提案した話に納得した。近藤将太の了承を得て、近藤家に朝から行く事にした。バスを降りて、近藤家に着いて、漁の関係もあって、いたのは洋子さんとお義母さんだった。

澄子がインターフォンを鳴らして「はいはい!」と声が聞こえた。出てきたのは初老の女性。カトハルのお母さんと同年代だろうか。3人を見て言った。

「あぁ捜索隊の人達ね。どうぞ上がって頂戴。」

随分フランクなおばさんだなと澄子は感じたが、捜索隊? 将太は3人の事をそう呼んでいるのだろうか。3人は上がらせてもらい。「お邪魔します。」と居間に通された。

「いらっしゃい。主人が昨日はいきなりごめんなさいね。」

黒髪のショートカットで美人。お腹も大きい。近藤洋子だ。

「待っててね。今お茶淹れてくるから。」台所に向かうおばさんにちさが「いえ、お構いなく。」といったがスッと入って行って、洋子さんは「どうぞ。おかけになって。」と畳にテーブルの田舎の一軒家だ。3人は座った。上品な人だなぁと澄子は思った。

「主人から、事の顛末は聞いてると思うけど。やっぱり居場所はわからないの。想像にしかすぎないけど、車とかバイクじゃない。自転車かも。あの人が追いかけて見つからなかったんだから。」

3人は黙った。現状報告をして、洋子さんは聞いていた。「そんな昔話まで。長くて聞いてられなかったでしょ。」3人は内心笑った。

おばさんが出てきて、おせんベえとお茶を用意してくれた。

「春香姉さんの番号とか知らないんですか?」

洋子はスマホを出して、見せてくれた。3人とも知ってる番号だった。

「いくらかけても繋がらないの。」

「なんでだかねぇ。筆不精ならぬ電話不精ってのかね。洋チャンにも出やしないんだから。将太も旦那も無視だよ。全く。心配してるのに。」

澄子が切り出した。

「昨日の将太さんの話。「ごめん。アタシのせいで」ってなにか心当たりは?」

洋子さんは俯いた。少しして口を開いた。

「昨日、主人が帰ってきてから夜中まで酒飲んでクダまいてたけど、あの人が本土に行く前の小学校時代、確かに好かれてました。でも私は将太の事が好きだった。それが気に喰わない。帰ってきたと思ったらまさかハルちゃんと婚約がどうのこうのって、相模さんらしいといえばらしい嫌がらせを主人はずっと言ってたわ。それで、私の事、散々悪く言いふらしてもっと美人でいい女のハルちゃんと結婚するって。息まいて。それだけが原因じゃないんだけど、主人の、その・・・」

「えぇ。刑事罰、でも不起訴だったとは存じております。」

ちさが言った。洋子さんはため息をついた。

「どうせあのクズ男の事さ。暴力魔のクソ漁師だとか何とか言ってるって漁協で聞いたよ。旦那も漁協の人達も相手にしてないから。将太の事ちゃんと知ってるから。ま、喧嘩っ早いのはやめて欲しいけどね。」

おばさんが緑社を飲んで言った。洋子さんは口を開いた。

「私の感想にすぎませんが、当らずとも遠からず。相模雄太って男はそういう奴なんです。いつまでもネチネチと。自分が1番じゃないと気に喰わない。そういう男です。出来れば無視するか、向こうが接触してこなくなる事が望ましい。ハルちゃん、頭よくて、優しくて、人の事放っておけないから。責任感じちゃったのかqなって思って。私。」

澄子は気づいた。ヨウコさんは首の汗をかいた瞬間、貝殻のネックレスが見えた。見た事がある。思いきって聞いてみた。

「そのネックレス。どこで買われたんですか?」

「あぁ。いえ、小学校か中学校かでハルちゃんと海岸で作ったんです。売り物じゃありません。私、今は産休だけど、普段は工場勤務だから巻き込まれ防止の為に、短くまとめ直したんです。ハルちゃんとの友情の証だって。大切にしてます。」

澄子だけじゃない。涼子もちさも見たら気づいたカトハルが大事にしているブレスレットそっくりだ。

「そうなんですね。大事なお友達なんですね。」

洋子さんは微笑んだ。

「えぇ。あなた達と同じくらいに。」

きょとんとする3人。

「ダチ子さんに、涼子さんにちささんでしょ? たまにメールが繋がった時。長野にいた頃かな。LINEで電話しようって言って長電話してたら、本土での生活聞いたらその話ばっかりだったもの。」

3人はきょとんとした。涼子は俯いて静かにしている。ちさも何も言えずに頷くだけだった。洋子さんはお茶を飲んで3人に言った。

「長野に? 確か、サガミヤの拠点も長野だったと思うけど、そこではあの男の話は出なかったわ。動物が好きで、楽しいって。何んでこの島に変える羽目になったのかわからないけど。さっき言ってくれた話で想像つくわ。田舎って、一見、親近感が沸くけど、裏では排他的な所が多いし。でもハルちゃんはそんなの慣れたもんだったから。」

洋子さんはクスクス笑った。

「じゃあ長野が嫌いなわけじゃなくて、家族事情でって事ですかね?」

ちさがか細い声で聴いた。

「多分だけど。あの男の手回しでしょうね。なんせ、ハルちゃんのお父さんは、サガミヤの重役の部下でその息子に、ねぇ? ハルちゃんそういうの大っ嫌いだから2回も断ったんだろうけど、大正解よ。家出と行方不明は困ったものですけどね。」

生々しく説得力のある話。相模雄太か。

「意見する様ですが、父親のメンツを潰してまで2回も婚約を断る。それが相模雄太の人間性として、だから、親に合わせる顔がないって事での家出の行方不明でしょうか?」

ちさが切り込んだ。その時も澄子は別の視点で涼子を見ていた。積極性がないモードだ。もうその辺も知っているという事か。

「意見だなんてとんでもないわ。でも村社会と同時に、2回もそんな事して、ハルちゃんのお父さんが事無きを得ているのは不思議ね。言われてみれば。酪農が主力のサガミヤで、酪農好きなハルちゃんが断る理由で、精神的にまいってとか言うのも、ハルちゃんのお父さんも上司に言えないでしょうし、何かあるのかもとは思うけどね。開けてみたら、ただ単純に嫌い、好みじゃないとか言い出すかもしれないし。ハルちゃん。」

皆笑ったおばさんも「そりゃそうよね。どんな不細工でもいい人なら歓迎だよ。年齢的にもハルちゃんも適齢期だしねぇ。」と言った。

「まぁ。なんていうかお役に立てないけど、同じくらい妙なのはキミさんかな。」

洋子さんの言葉に涼子が顔を上げた。澄子はそのキーを見逃さなかった。

「妙とは? 公子さんはあくまで母親。会社とは直接関係ないはず。家庭もろとも、なんて、サガミヤがブラック企業ならまだしも。」

涼子が聞いた。澄子の観察眼が発動した。

「そうね。キミさんってハルちゃんの事大好きなの。例の長電話でも聞いたわ。ちゃんと帰ってこないで夜遊びして連絡しないと10回以上電話したりメールの嵐だったって。どれがうって変わって、家出も行方不明も「警察沙汰にしたくないから」っていうのが妙だなって。ただの私の勘ですよ?」

 捜索について進展はなかったが色々カトハルの情報と、何か結びつかなかったものが繋がりかけている様な印象を澄子は持った。そして涼子。

 女同士の話は長い。時間はあっという間に過ぎる。でも”みんちゅ”への聞き込みにバスの時間をちさはチラッと鞄の中を見た。

「で? 捜索隊の皆さんは、みんちゅに行きたいのかい? バスなんて待ってたら蚊に刺されて痒くなっちまうよ。アタシが送ってってあげる。」

おばさんは既に長話の間ビールを一杯ひっかけていた。

「ダメよお義母さん! 飲酒運転は重罪よ!」

「バレなきゃいんだって。それに立った短缶の1本じゃないか。」

澄子は最初のフランクというイメージを通り越してとんでもない人だと思った。

「だってぇ。捜索隊はシラフなんだから捕まんのはアタシ。将太と」

「お義母さん!」

洋子さんは声を荒げた。成年は運転してなければ問題ないが、ちさの場合、未成年飲酒が、今の場合、呼気検査なり血中アルコール濃度を測られたらと焦った。

「大丈夫よ! 焼酎5杯ストレートでもカヨちゃんちに送ったんだから!」

「そういう問題じゃないの!」

澄子は思った。生真面目で凛とした顔立ちの美人。よくもまぁ近藤家に嫁いできたものだと澄子も飲みたくなった。

「まだ開店には早いから一発やりますか!?」

澄子の言葉にきょとんとし、ゲラゲラ笑うおばさん。

「いいねぇ。ヨウちゃんは堅い人だから。ま、アタシもこれ以上は水か�お茶にしとくよ。はっはっは!」

洋子さんは台所に行って島焼酎を部屋に持って行って鍵をかけた。

 酒宴。ちさは警戒してソフトドリンクのみ。帰ってきた将太と親父さんが酒宴に加わり、洋子さんはため息をついた。

「ごめんなさい。私が運転するわ。」

確かに酒好き一家の近藤家。ビール一杯と言いつつも、洋子さんが呆れる程、自分の部屋に隠し持っていた焼酎を持って来て盛り上がった。あーだこーだと洋子さんとちさを除く酒飲みが盛り上がった。

 ”みんちゅ”の開店時間。ちさが時計を確認して、洋子さん位視線を送る。阿吽の呼吸だった。

「お義母さん。アタシが送っていくわ。久しぶりにスグガラス食べたいし。」

「だーかーらー! アタシが」

「捜索隊の人に迷惑かけちゃだめでしょ! お義母さん!」

ビシッと正座して言う洋子さん。皆黙った。

「母ちゃん。洋子の方が安全だって。洋子の言う通りにしなよ。」将太が肩を叩く。

「こんないいキャバクラねぇのに勿体ねぇなあぁ!」

「お義父さん! 失礼よ!」

洋子さんは居間を出て、3人はついて行った。酔っ払いの3人もついて行く。洋子さんがドアを開けて、運転席に座ってキーを回した。澄子も涼子もこの島の焼酎になかなかやられた。ちゃんと重要な情報を聞き出せるだろうか。ちさは心配になって、覚悟を決めた。

「さ、乗って。もう開店してるはずだから。丁度いいと思うわよ。宿は風々亭でしょ? ちゃんと送っていくから。」

車が”みんちゅ”に向かって走り出し、後ろで酔っ払いの近藤3人衆が酒と手を振りながら送った。

 車内で、お茶を飲む澄子と涼子。質問を考えている様にちさには見えた。車内で洋子さんが”みんちゅ”について教えてくれた。ご主人の名前は橘さん。沖縄で修行して魚や肉もも扱う美味しいと評判の店だそうだ。

「ハルちゃんが”みんちゅ”で働いてるって聞いたけど、うちの工場も忙しくて。行けなかったのよね。妊娠中だからお酒も飲めないし。でも、味と酒は抜群だって有名よ。」

「なんで辞めちゃったんでしょうね。フェイラムさんのお父さんもお気に入りだったって聞きますけど。」

ちさの問いに、洋子さんは少し考えた。

「正直言って分かんない。橘さんは竹を割ったような気のいい人だし、ハルちゃんも好きで働いて常連さんもいたとか。日本人だけじゃなくて、ジョージ・フェイラムさんも。」

ちさは驚いた。田舎の連絡スピードと網。東京邪誰もが誰に対しても友人関係や利益もない限り興味がないのに。

 しばらくして停車した。

「着いたわよ。後ろの2人大丈夫?」

「えぇ。理屈と聞きたい事は整理できてます。」澄子の声だった。

「会話ってバランスと状況だからぁ。」

洋子さんもちさも涼子は戦力外通告を内心決めた。

”みんちゅ”はこじんまりとしたきれいな店だった。まだ新しいんだろう。ドアを開けると威勢のいいおじさんが「いぃらっしゃいませぇぇーーい!」と叫ぶ。

「おー! 近藤さんのとこの洋子さん。メシ食いにきたのかい!? 珍しいねぇ! お連れ様はなんめぇで?」

「私含めて4人。あいてる?」「座敷のお好きな席でぇ!」と言って4人は上がった。

瞬間的にすら思える程、手早く橘が来て「おまたせしましたぁ。」と言っておしぼりとお通しを持ってきた。豆腐にメダカの様な稚魚がのっている。とにかく元気のいいご主人だ。「お通しはサービスですから気にしないでください。お飲み物はお決まりですか?」

「とりあえず、生。3杯。アタシは烏龍茶。」

「あいよぉ!。」

伝票をかきながら橘は聞いた。

「お連れさんは? 初めてだよね。」

「えぇ。観光がてら、洋子さんが美味しいっていうから来てみたんです。」

「わざわざ嬉しいねぇ。喰いもん決まったら呼んでくだせぇ。」

圧倒される気合の入った主人。洋子さんは慣れたものだった。

「なんだろこれ。」とじっくりお通しを見ている涼子。澄子もわからなかった。

「スグガラス。島豆腐の上に塩付けの稚魚。お酒好きにはたまらないおつまみだよ。」

ちさは本当に博識で洋子さんも微笑んでいた。澄子も涼子も一口で食べて頷いている。

「ビールじゃもったいない。おっちゃん! 強い焼酎ロックで!」「あいよ!」涼子が上機嫌だった、ある程度冷静になった澄子とちさは、昨晩の話を思い出し、視線が合った。「へいおまち!」と生ビール2杯とウーロン茶、ロックグラスを持ってきた。涼子がなに? これ。」と聞くと「八重泉の古酒でさぁ! 44度だから気ぃつけなよ!」といって厨房に戻っていった。ちさは大好きな生ビールを飲んでお通しを食べて、恍惚とした表情をしている。澄子は近藤家の酒の勢いもあってか直球で聞いた。

「春香ちゃんは!? 友達なんだけど! 会いたくて!」

座敷から厨房に聞こえる声で言った。ちさも洋子さんは直球過ぎて少し驚いた

「えぇ。まぁ。」橘の表情が曇りながら他の客の料理を作ってる。

「俺の甲斐性なしだろうなぁ。いきなり辞めるっつって、理由を聞いたら、アンタに関係ないでしょだとさ。いい看板娘だったし寂しいけど辞めてぇってのを根掘り葉掘り聞くのは野暮の極みってやつだよ。」

あまりに直球にドストレートで返してきて、澄子は閉口した。大胆というか、回りくどいのは好きじゃない澄子の性格。だからと言って、春香が今どこで何しているかわからないのはわかった。知っていたとしても聞き出す情報がこちらにない。ちさはそう思った。

だが、この4人の中で彼女しかできない技を見せる洋子。

「最近、この辺に相模雄太を見ないって、旦那が言ってたよ。2回もふられりゃ顔も出せないもんかねぇ?」

橘は刺身を作りながら、少し黙った。

「あれ以来、雄太も見ねぇよ。山の方でよろしくやってんだろ。きっと。」

橘の声のトーンが低くなった。

澄子の分析だ。この4人の中でクリティカルな事を聞いた回答がカトハルに関与しにくい。そして、はなからやる気満々だった涼子が泥酔と怒りを繰り返す。ちさは冷静だが、情報量が不足して、洋子さん以上のクリティカルな質問が思い浮かばない。

「で、何にすっかい!? イカ墨汁とかシメの小ソバもいろいろあるぜ?。」

全て洋子さんにお任せして、橘は「あいよ!」と言った。

 澄子は考えたが、仮にこの男が知っていたとしても、アルバイトだろうが社員だろうが辞めた人間の個人情報を流すのは居間のご時世やってはいけない事だ。それを盾にされたら、元同級生と幼馴染という情熱だけで落とせる自信はなかった。

 ため息をついて、メニューを見た澄子。メニューにはタコライスバーガーやフライドチキンなど、沖縄料理の定番以外も目立つ。ふと、酒の紡いだ糸か、シェリー・フェイラムの旦那。確かジョージ・フェイラムがこの店の常連だったという。なら、米軍基地のアメリカナイズされた料理があってもおかしくないか。

その時だった。扉が開いて、短髪のブロンドの大男が店に入ってきた。ピッチピチのTシャツとジーンズ。筋骨隆々の白人だった。

「おう、ジョーさん! らっしゃい!」

大男は無言で、当たり前の様にカウンター席に座り「いつもの。」と言って橘は直ぐにテキーラの瓶2本と氷。グラスを出した。澄子は直感した。あの人がジョージ・フェイラム。橘はメニューを眺めるジョージを放っていた。あのシェリーさんの旦那さんと言われれば頷ける。あまり見ていたせいか澄子は視線をメニューに逸らした。洋子さん以外はお酒を飲んだ。澄子は話を聞いてみたいとも思うが、ジョージさんでも、カトハルの居場所は知らないとシェリーさんはいったのは覚えている。

 その次の瞬間、いきなり洋子さんは立って、橘さんの前に立って聞いた。

「あの。昨日とか今日とかは来ませんでしたか? ハルちゃん。」

洋子さんの言葉にジョージがちらりと視線を向けたのを澄子とちさは見た。

「さっきも言ったろう。辞めちまってからきてねぇなぁ。漁協でも市場でも見てねぇってよ。それは奨太の方が詳しいんじゃねぇのか?」

「そうですか。それもそうですよね。すみません。」

振り返った洋子さんを見て、一瞬、ジョージを見た橘。

「あぁ。山の方に行った時それらしい女を見たって聞いたけど、どうだかな。春香は親父さん関連で山側っちゃ山だけどさ。」

「そうですか。そうですよね。」

「おじさんお代わり!」と大声を涼子が出して、澄子もちさも便乗した「あいよ!」

すぐに冷蔵庫からジョッキを取り出して生ビールを注ぎ始めた。

おじさんが凄まじい速度で3人のお替りと、サービスの烏龍茶をもって、テーブルに並べた。澄子は勘でしかなかったが、ちさは確信した。洋子さんはジョージにかまをかけたんだ。その反応を見せ様とあんな行動に。

「春香についちゃ、近藤さんちの方が知ってると思ってたけど、音沙汰なしかい?」

ジョージも含めて好機と思ったのか、橘の抵抗だとちさは思った。

「えぇ。きっと複雑な事情があるのよ。きっとね。」

洋子さんが座敷に戻ってウーロン茶を飲む。

 注文した料理が運ばれてきて、涼子が「おじさんお代わりぃ~。」と言った。

「姉ちゃんも鉄の肝臓みてぇだけどあんまりむりはよくねぇぜ?」

橘は料理を並べて、すぐに厨房に戻り、涼子のお代わりを持ってきた。

酔いが回りケラケラ笑う涼子の話がメインで4人娘の話に花が咲いた。澄子とちさは手を叩いて愉しみながらも、チラ見するジョージの視線を見ていた。視線が合ったのだから、元軍人。この店を出たら殺されてもおかしくない。洋子さんという防御壁がなければ。

「ジョーさん。飲んでばっかだねぇ。多少騒がしいが姦しいってやつさ。喰いもんはいつものでいいかい?」

ジョージは頷いてテキーラをグラスに注いだ。橘は冷蔵庫から取り出したビニール袋の中のトマトを取り出してバジルやモッツァレラチーズと合わせてカプレーゼを作っていた。

「そっか。私達にとってはどこ行っても難しいんだね。ハルちゃんは。」

洋子さんがシメの様に言った。ベロベロの涼子は別として、澄子もちさもその合図を感じ取った。引き際。というよりは、現状報告を言葉巧みに、涼子よりも固く閉じた橘とジョージに聞かせたというのが2人の予測だった。洋子さんは地域柄もあるかもしれないが、恐ろしく計算の立つ、賢い人だと思った2人。実は、もう1人いたのだが。


「タっちゃん! おあいそ!」

「あいよ!」

 小一時間して、充分美味しい沖縄料理を堪能して、もうすでに何言ってるかわからない涼子を除いて澄子とちさは財布を出した。割り勘で、大した額じゃなかった。

「じゃあ宿まで送るわね。」

「そこまで至れり尽くせりじゃいくら何でも。」

ちさが言った。洋子さんはちらっと”みんちゅ”を見て「きー。あ、あったわね。ここにも」と言った。澄子は少し引っかかったがすぐに買いが出る程簡単な問題ではないだろう。何せこの人は恐ろしく賢い策略家にすら見える妊婦。積極的に敵ではない。でも、涼子と同じ性質を感じた。

 車が発進し、洋子さんが風々亭まで送ってくれた。


 「なぁ。」

ジョージ・フェイラムが、元気よく挨拶して、4人の食器を下げて洗い場に並べている時言った。橘も真剣な表情でいた。

「事が終わり次第って、ハルカから話は聞いたが、隠す事でもないような気がするんだけどよ。オマエはどう思う?」

少しの間。橘は洗い物をしていた。他のテーブルや座敷は酒で騒いでいた。

「そうかい? こう見えても律儀が信念でね。ヨウちゃんには困らされたけど、べちゃくちゃしゃべるのは性に合わねぇんだ。」

ジョージはテキーラをグラスに注いで一気飲みした。


後編 三、進藤律夫


 俺は探偵だ。東京の大洗探偵事務所に所属している。デスクの依頼書を読んでいる。

元は新聞社の編集をしていたが、上司ハメられて切られた。あのくずが。それでも生きる為に職はないと。宝くじでも馬でもボートでもチャリでも大穴あたってくれないかといつも思っている。ケチな探偵だと言われても構わない。

 2017年7月3日。

黒木美里という人間から捜索依頼が来た。ただの人探しだ。こんなつまんねぇ依頼は、ちいせぇこんな探偵社じゃ誰構わず来る。まったく。芸能人のスキャンダルとかの方が見栄えがいいってのに。

 面会希望にメールで返信し、予定の時間、事務所の扉がノックされた。対応するババアの目の前にいたのはサングラスをしたスレンダーな女だ。年は20歳くらいだろうか、若く見えた。何かおどおどしている。

「電話した黒木美里です。」

ババアが「進藤さーん」と言って、俺は煙草を擦り消して立った。依頼に好みは無いといえば嘘になるが金は金だ。依頼人の前に行って「すみません。黒木です。」上品に振舞ってるつもりなのかわからんが、演技は下手くそだ。まぁ、話だけでも聞かないとな。

「初めまして。進藤律夫といいます。よろしくお願いします。」

笑顔で名刺交換をし、ソファーに通して、ババアに茶を淹れさせた。「よろしくお願いします。」とお互い頭を下げた。早速、俺はメモ帳を開いてペンを用意する。作り笑顔で目の前の女を見る。サングラスを外すと随分と化粧が濃い。まるで中学生が母親の化粧道具を使って頑張った様な稚拙さを感じる。服装も頑張っているが、名刺は医療事務。高い給料ではないだろうが、どこかガキっぽい。変な女だ。

「疑うわけではないですが、当事務所は本人確認の為に身分証を拝見させていただいております。お持ちになられましたか?」

女はバッグをごそごそと探して、財布から運転免許証を取り出して渡した。少し手が震えている。緊張するにも程があるだろう。写真を見て驚いた。写真の女は随分太っている。女の顔を確認したが随分と激痩せしたものだ。髪形も違う。目の前の女はショートだが、免許証の写真はロングだ。訝しげに見ている俺に気づいたんだろう。

「昔の写真で。」

まぁ、目鼻立ちや口元は似ている。名前も黒木美里。年齢は21歳。生年月日を聞いたら一致している。本人とみていいだろう。

「ありがとうございます。」と笑顔で免許証を返す。まぁ、こういうのは返しの浮気調査とかが多いが、人探しという。変わった女だ。元カレ探しではない。女が対象だ。

「御依頼内容、把握させていただきましたが、確認の為、詳しくお聞かせてください。」

 女の話だと捜索対象は加藤春香。年齢は20歳。友人で、小学校を卒業してから東京に行き、高校を卒業した後、長野の酪農を経験し、今は地元の舞竹島に帰ってきた。2年前。2015年だ。舞竹島に帰って来て何故か詳細はわからないが、家出し行方不明になった。連絡してもでず、実家にもいない。共通の友達も連絡が取れないという。ややこしい話だ。

女には言わなかったが、驚いたのは同じ対象の捜索依頼がこの前あった。依頼主はこれも女だ。加藤春香というのは舞竹島の令嬢か何かか?

「立ち入った質問ですが、お答えできる範囲で構いません。何故加藤さんをお探しに。」

女はうつむいて黙った。また震えている。何なんだこの女は。意味がわからない。

「心配なんです。」

搾り出す様に小さい声で答えた。俺は何も言わず頭を掻いた。これも前の依頼者と同じ理由だ。何なんだ。この前の女と目の前の女。つながりはあるのか。事務所の信頼と守秘義務でもちろん名前は出さない。まぁ、同じ仕事でダブル取れるんなら儲けものか。ある程度、加藤春香の事は調べていたが、とぼけてじっくり女の話を聞く。

 前の依頼者の中学校以降の情報を元に調査をした範囲だと、クソみてぇな小さいお好み焼き屋とか焼肉屋とか回ったり、広池中学をでて、会田高校に通っていた。聞き込みをすると、ただの不良としか思えない。事実、かなりの不良で有名だった。タマを割られた男からも話を聞いた。聞くに堪えない恨み節だった。体格のいい男2人にも話を聞いたが、凶暴な女だと言う。イジメていたという女と別の男数人も突き止めたが話を聞こうとしても何も言わなかった。いわゆる札つきの悪だ。だが、舞竹島という島の小学校を卒業して、本土に来た時は大人しかったらしい。なにか事件があってから、また不良になったという。生徒と殴り合いになったというから、その元生徒達も見つけたが口を割らない。

 黒木美里からの話は小学校の話を補完できた。だが、印象としては、友達の割には情報がかなり薄い。捜索には何の足しにもならない。長野に行った話は面白そうだが、調査するにも、所長からはコスト削減と仰々しく所長室の前に飾られている。

 内心だけだ。客の前では絶対に言わない「めんどくせぇ。」

「そうですか。想到仲がよろしかったんでしょうね?」

「えぇ。小学校の頃はすごく仲良くしてて、友達のお兄さんと結婚する予定もあったのに。急に失踪してしまったんです。」

女が視線を落とした。差し出された写真を見た。何度も見たよ。黒髪で長身の美人だ。

「えっと、黒木美里さんは舞竹島の御出身でよろしいんですよね。」

女はコクリと頷く。舞竹島は調べた事があるが、小さい島だ。地元民なら村社会のネットワークでも見つかるんじゃないかと思った。それでも見つからないって、ドラマの世界かよ。まぁ、コイツの友達が一応婚姻を予定したっていうのはいい情報だ。だが、この女の話し方はイラつく。金ズルはいいが、裏がいるって事だろ。

「えっと、舞竹島ですよね。失礼ですが、そんなに大きい島でないですし。噂で何でもわかりそうな気がするんですが。私の勝手な思い込みですが。」

「えぇ。田舎の島ですから噂はすぐに回ります。でも、わからないんです。友達の兄も心配していて。あんな小さい島で行方不明なんて。」悲しそうな顔でうつむく。

この案件は面倒くさい。反社が絡むなら御免被る。少しカマをかけるか。

「辛いお話かもしれませんが、警察に捜索願は出しておりませんか? 探偵に頼むよりは警察の方が情報量も公的権力も圧倒的。そちらに行くのが筋かと。」

「いえ、春香さんのご両親が警察沙汰にしたくなくて。それに、たまに御両親の家に手紙が投函されるみたいなんです。元気でいるっていうだけで。」

ますます訳がわからない。でも、家の前で1日張ってれば、その奇人を見つけられるか。そうしたら一気に解決。観光がてら島に行って遊んで宿泊料と報告書は適当にすればいい。考え様によっては、楽な案件かもしれない。いずれにしろその家に行くのが必要だな。

「わかりました。とりあえず、初期調査をしますね。1週間は定額、こちらの金額になります。その報告を持って契約を続けるか、断るかは御決断ください。大変失礼ですが、御予算はいか程ですか?」

女はバッグをごそごそとしている。20歳で医療事務をしている社会人なら、もう少しいい物を持っていてもいいのに、女のバッグはスーパーで売っている様な黒い安物だ。

静かにテーブルに封筒を置く。

「20万円。あります。」

正直驚いた。年齢と職業を考えたら、そんなにポンと出せる金額じゃないはずだ。コイツはおどおどして申し訳なさそうに、封筒を出す妙な違和感だ。女は視線を伏せている。

「失礼します。」と言って中身を確認する。確かに万札20枚。毎度。

「では、契約書を書いていただきます。少しお待ちください。」

ケチで用心深い所長の部屋に入る。勝手に契約するのは御法度で契約書は所長室にある。

「おい。あぶねぇヤマか?」と、所長が俺を睨んでくる。

「いや、ただの探し人です。」

「いくらだ。」は「前金は3万にしときました。自己判断弾です。善額は20万です。」所長は手をヒラヒラふって、「がんばれよ。」と上機嫌。

 所長室から契約書を持ってテーブルに向かう。

「契約に際して、重要事項を読ませていただきます。少し長くなりますが契約は制約。守っていただけなければ成り立ちません。よろしいですか?」

 あの女が頷いた。この依頼の正体が反社の訳ありか、その辺を調べてからヤバかったら断る。契約書の第1文は所長の唯一、理解できるところだ。

 一緒に書類を確認する。契約書の体裁はちゃんとしている。電話番号も確認し、追って連絡すると伝えた。暑気調査で釣るのが腕の最初の見せ所。釣れれば後は何とでもなる。自分が得する様に、楽に考えないと、こんな仕事やってられねぇ。

 読み合わせを終えて、契約を終えて、印とサインもして黒木美里は出て行った。まずは1週間。同時に進行している情報御活かせば何とかなるだろう。

 俺は非常階段に出てタバコに火を点けた。

「まったく。おかしな世の中になったもんだ。」

加藤春香っていうのは生きてるのか。もしも死体を上げるなんてのはお断りなんだがな。

一服してから俺はデスクに戻って、前の女の依頼書を見た。長野のどこの農場か知らないっていうから暗礁に乗り上げていたから、舞竹島に変更だ。加藤春香の実家の住所がわかったんだ。そこから長野の住所を聞き出しても構わない。だが、今いないってのはわかってる事。だったら先に舞竹島を調べる方が何とかなるだろう。黒木美里の書類を所長に出して、帰った。

 家に帰って冷蔵庫から缶ビールを開ける。テレビをつけて煙草に火を点けた。くだらない情報番組を変えた。「あぁー。面倒くさい。」とため息をついた。

 依頼書のコピーを見る。何でも疑ってかかる職業柄、変な女だという感じは拭えない。人間なんて生まれながらに悪。悪を重ねて肥えた腹を切り裂くのが俺の仕事。その臭さを我慢しながら臓物を引きずり出して、瓦板にぶちまけ金を得るんだ。

 舞竹島で宿の予約を取った。こじんまりした宿で、学生向けだ。でも、俺にはそのくらいが丁度いい。

 2017年 7月25日

 会社の金でカーフェリーに乗った。

 2時間。到着予定時刻は17時だ。確認済みの報告書の体裁をまず所長に送り、印鑑が押してあるPDFファイルを依頼者に送る。

 やっと島に着いた。自然豊かな退屈で不便な島だ。愛車で船を出る。予約した宿まではだいぶかかる。途中で給油し、レシートをとって大切に保管する。運転中の眺めは田んぼと海と山。まったく。こんなクソ田舎で住んでる奴の気が知れない。

 あたりが暗くなり始めている。今日はもう飯を食って寝るだけだ。

駐車してフロントに行く。愛想がいい仲居とスーツの男が甲斐甲斐しく頭を下げる。ズカズカと歩いて「進藤律夫です。」とにこやかに接する。あんまり目立つと良くない。こんな田舎だと噂はすぐに回る。「206号室です。」とキーを渡された。こじんまりした宿だが部屋は広い。景色も良い。まずは一服してテレビをつける。妙にチャンネル数が少ないな。適当に情報番組にしてカバンから資料を出した。

 黒木美里。情報を整理して計画を立てている。メシを食って1階の自販機で酒を買いに行く。

 ぎょっとした。自販機の前で酒を買っている女の後ろ姿を見た。黒髪で長身の女。顔が見えないが、背格好は加藤春香によく似ている。ガタンと出てきた缶を持って振り返った。これは一発K・Oかと期待したが、世の中そんなに甘くない。3本の缶を抱えた女は別人だった。年頃はほぼ同じで美人だ。だが全然違う。まるで静かな湖の様な澄んだ目をしている。俺の横を通り過ぎて2階に歩いていった。

「まぁ、そんなうまい話ねぇよな。」

ビールを2本買って部屋に戻る。仲居が食器を片づけた後、明日からの計画を見直した。だが、予定なんていくら組んでもその場のハプニングでいくらでも崩れる。この業界は特にだ。一応、朝から加藤家に行き、話を聞く。長野の家を聞けたら幸いだ。もう1つ気になるのは黒木美里だ。どうもきな臭い。身辺調査をしておいた方がいい。テレビを見る。漫才番組だ。テレビの時計は9時を過ぎていた。ベランダの方から女の話し声が聞こえた。何かケラケラ笑っている。まぁ、時期が時期だ。夏休みの旅行だろう。テレビではCMに入って、もう2本ビールを買いに行った。部屋に帰るとCMがあけてラストに差し掛かっている。10時になると番組が終わった。明日もあるしそろそろ寝るか。隣の部屋から

「あぁー!」という女の奇声と床を叩く音がした。流石に腹が立った。ったく、行儀の悪いクソ学生か。文句言いに行きたいが、あまり目立つ行為はできない。舌打ちして布団に入った。冷蔵庫に入れておいた缶ビールを開けてテレビのニュース番組を見ていた。政治家や芸能人の不倫だとかテロだとか。眠くなって。電気とテレビを消して寝た。

 2017年 7月26日。

 朝食を食って身支度をして宿を出た。

黒木美里から知らされていた加藤家の住所に向かう。車を降りて、家を確認した。こじんまりした普通の一軒家だ。都合のいい事に玄関が見える所にコインパーキングがあった。そこに車を停めた。俺は加藤家に向かいインターホンを鳴らした。

玄関から初老の女が出てきた。

「すみません。ちょっとお伺いしたい事がありまして。」

丁寧な言葉で優しく話しかけた。おばはんは眉をひそめて露骨に俺を警戒している。

「あ、私こういう者でして。」と名刺を差し出した。恐る恐る近づくおばはんは名刺を見てさらに眉をひそめた。

「どういったご用件でしょうか。」

正直こういうのはめんどくさいが、仕事柄慣れている。

「御覧の通り、私は探偵で、実は複数の方から春香さんの捜索依頼が出ているんです。ご心中はお察しいたしますが、ぜひ、お伺いできればと思いまして。」

このおばはん。資料によれば加藤公子だ。加藤公子は玄関をしめて、近くの縁側に誘導した。家に入れさせない。まったく信用されていない。困惑の色もある。俺は縁側に座って、加藤公子は家の中に入っていった。警察でも呼ばれたら厄介だ。内心ハラハラしていた。加藤公子が氷入りの麦茶を出してくれた。「ありがとうございます。」と丁寧にお礼をして一口だけ飲んだ。

「春香の事ですか?」

丁寧に、なるべく真に迫った事を聞いた方がいいと判断した。

「えぇ。ご依頼者である黒木美里さんが大変心配しておりまして。どうしても会いたいとと涙も流されていました。」

加藤公子の表情が凍った。いい意味で持ったつもりだがため息をついてうつむいた。

「黒木、美里さんから?」

加藤公子はとても不思議がっていた。もう1人の名前を出してもよかったんだが、その反応を見て、あまり情報を漏出したくなかった。

「はい、黒木さんから、お宅に、お嬢様からの手紙が投函されていると伺いまして。消印とか、お母様で確認できる事はありませんか? ご住所とか所在の分かる手がかりなど。あれば幸いなんですけれども。」

加藤公子がバッと顔を上げた。だが、すぐにまたうつむいた。

「娘が・・・。娘がどこにいるのかわかりません。元気だって事だけだし。」

おぼんを抱いて泣きそうな声でいる。この女何か行動が変だな。下手な役者みてぇだ。

「申し訳ありません。ご心中お察しいたします。私も全力を尽くしたいんです。長野の方に娘さんが行かれていた様ですが、もしよければ、教えていただけませんか?」

また同じ顔だ。今度はむしろ、恐怖を覚えている様にすら見える。黒木といい、なんなんだこの島の人間は。

「知りません! 帰ってください!」

加藤公子は家の中に消えた。これじゃあ取り付くシマもない。俺は諦めて車に戻った。

 娘が失踪して取り乱しているのだろうか。でも、なんか違う印象だ。黒木美里と手紙の話。そして長野の話。全部に対してあんおおばはんから負の感情を感じた。娘を探したくないのか? それも変な話だろう。複雑な事情がありそうだ。とにかく俺はしくじった。仕方がない。勝手に張るしかないな。見えづらい所から手紙の投函者を待つ事にした。それが本当に加藤春香ならそれで終了。

エンジンをかけてドラレコで録画する。あんまり長いとエンストするからHDRもつけておいた。シートを最大限倒してタバコを吸った。もしも一発で決まれば遊んでからゆっくり報告書を作って帰る。ハンドルに加藤春香の写真を張り付けてじっと待った。録画は前後の2画面だ。

 昼頃。軽トラックが見えた。路上駐車して男と3人の女が降りてきた。少し驚いたのは、2人は荷台から降りてきた事だ。そしてもっと驚いた。荷台から降りてきた女は昨日の夜、宿の自販機ですれ違った女だ。他に小さい女と白いリボンがついた麦わら帽子の女が見えた。顔が見えない。家の前のポストを素通りした。ポストの女でもない。なんだアイツらは。一応ログは手帳に残しておいた。

 しばらくすると、同じ4人と加藤公子が出てきた。男が軽トラックに乗り、残りの3人が加藤公子の車に乗った。視界から消える。

 俺は考えた。あの黒髪の女。宿に泊まっているなら、おそらく島民ではないだろう。小さな女や麦わら帽子の女もそうだろうあの男は体格と言い島民、網を乗せた軽トラで漁師と推測できる。じゃあ、当該の人間と思われる女3人をこの家に連れて斬理由は? アの黒髪の女。偶然を装って嘘八百並べて情報収集しようかとも思った。

 夕方になると、高そうなところどころ黒い花柄があしらってある白のワンピースの女が後ろのドラレコに映った。タバコを吸いながら見ていると、麦わら帽子をかぶっていて顔が見えない。華奢な体つきだ。俺はガバッと起き上がった。その女は加藤家のポストに手紙を投函した。俺は女が下り坂で見えなくなる頃、徐行で発進し、ドラレコで顔を確認した。巻き戻してチラチラと後部のドラレコの映像を見た。加藤春香ではなかった。ため息をつく。飲みたくなって、近くのスーパーで画像を確認したら前後のドラレコでもまだガキの体型だ。「あぁークソっ垂れ。」タバコを吸いながら画面を見つめる。スーパーで缶ビールの6本ケースを買って、1本飲んだ。時計を見ると午後6時。どんどん暗くなっていく。これ以上張っていてもダメかもしれない。下調べの加藤春香でも、暗くなってから2度投函する訳がない。投函した少女が探索要因に+1だ。

 俺はエンジンをかけて病院に向かった。体調不良じゃない。もう1つの懸念。黒木美里だ。あの女が黒木美里を騙っているのか? 10分くらい走らせて病院に着いた。20時までやってる大きな病院で、東京の病院には呆れるが、診療時間はぎりぎり間に合った。総合病院で、東京にもありそうなくらい大きくてきれいだ。受付に行くと衝撃を受けた。あの時の運転免許証とそっくりな女がいた。太っていて、目鼻立ちもそっくりだ。女は笑顔で対応する。胸元の名札には黒木美里と書いてあった。

「こんばんわ。どうなされました?」

「すみません。ちょっと風邪っていうか熱っぽくて吐き気っていうか気持ち悪いんです。木島では初診なんです。」

「保険証お持ちですか?」

保険証を渡すと「問診票にご記入の上、おかけになってお待ちください。」愛想がいい。ソファーに腰をかけて考えた。やりやがったなあの女。黒木美里の運転免許証を持ち出せる人間としたら、この病院の職員、特に同じ部署。それか家族か彼氏だ。チラチラと受付や看護師の顔を見るが、あの女はいない。今日が非番なだけかもしれないが、だが、化粧程度で似せられない顔の違いがある。以来をしてきた女がこの病院の職員ではないと断じるには早いが、そうであれば家族か。本物の黒木美里の風貌は20~30くらいだ。失敗しても最低限金は回収できる。薄金だが。

「進藤さーん。進藤律夫さーん。」と呼ばれた。問診票を出して受付に向かう。ここで嘘をつくといろんな問題が起こるので我慢して正直に書いた。

「内科の前でお待ちください。」

「あ、すみません。急用ができて、また今度来ます。」

本当の黒木美里が「そうですか。お大事に。」と言って作りたての診察券を渡した。

病院を出て愛車に戻った。スマホを取って、自称黒木美里の連絡先を眺めた。

 どうするか。

金銭的には初期費用で済ませれば小遣い稼ぎにはなる。断ってもいいんだ。鳥居和えず宿に帰る。途中、コンビニで弁当と酒を買った。部屋に戻りテレビをつけると昨日と同じ報道をしている。収穫がないのは俺と同じか。スマホが鳴っている。所長からだ。

「もしもし。」

「おい! お前もっと安い宿あんだろ! 民宿にしろ民宿!」

所長が怒っている。確かにこの風々亭よりも安値の民宿はあった。ただ、この宿と数百円しか変わらない。

「まいまい、っていう民宿でいいだろ! 自分で調べろ! 自費でそこ引き払って“まいまい”じゃないと経費はださねぇからな!」電話が切れた。「まいまい」を調べると、そこそこ距離がある。築60年超えてそうなボロボロの民家。ケチくせぇ奴だ。俺はロビーに行って、急な予定で帰らなければいけないと伝え、自腹で金を払った。全く嫌になる。

 翌日、まいまいでチェックインして考えた。これからどうするか。このままあの家を張り続けるのも懸念がある。投函するあの少女を問い詰めるのもありだが、直球過ぎるし、依頼人の黒木美里が偽物だとはっきりした今、黒木偽物の黒木美里の信頼度は地に落ちた。お前は誰だ。俺はスマホを取り出し、電話帳の黒木美里という名前をタッチした。

「もしもし。」

「あ、進藤です。ちょっとご報告したい事がありまして。」

「何でしょうか。いまちょっと、その、患者さんが」

相変わらず嘘が下手な暗い声の女だ。だが、エサをまいておかなきゃ獲物はかからない。

「失礼しました、情報はまだ初期費用にも至らぬレベルです。ですが、画像は撮りましたので送ります。」

黒木美里は、わかりました、と言って電話を切る。ドラレコの男1人と女4人の写真と、自転車で投函した女画像を送信した。進藤は酒を飲みながらだいぶ待った。1時間も経つ。

 電話が来た。着信の名前だけは黒木美里だ。

「もしもし。進藤です。」

数秒無言が続いた。俺は「もしもし。」を何回か続けた。やっと声が聞こえた。

「・・・一番最後の、画像。他はちょっとわかりません。」

投函した女だけわかるって事か。それもまた変。

「最後の画像。相模美優さんです。」

加藤家に投函した女か。他の男や女4人に言及はなかった。

「お話できませんか。サガミミユウさん。他の肩は存じ上げないと?」

だいぶ沈黙が続いた。俺は待った。こんな時は相手を煽ると逃げられる。俺みたいな影の人間はしたたかに情報を引き出すのが仕事だ。

「明日夕方。舞竹港のそば屋の舞竹庵で。時間は私から電話します。」

「わかりました。お電話お待ちしています。」

 電話を切る。舞竹庵を調べる。いわゆる普通のそば店だ。気になって、相模美優も調べてみた。SNSとかインスタも調べた。出てくる出てくる。ツイッターにはサガミヤというHPがリンクで出てきたし、インスタでは顔写真も出てきた。まさにこの娘だ。

それなりにサガミヤを調べると相模勇矢という男が工場長が経営するサガミヤの娘だ。SNSの方には家族写真がばっちり写っている。まぁ情報は取れた、進出の令嬢か。第一高校。まぁ、とにかく嘘つき女と断じるに難しい女。それだけでとりあえず十分として、進藤律夫は寝る事にした。

 翌日、7月27日。

今日は偽物の黒木美里との面会、もしかしたら相模美優も出てくるかもしれない。顔がわれてるんだから。「まぁ。どうなるかなねぇ。」汚い民市区を出てキーを回して、進藤律夫は舞茸港に向かった。

 夕方4時に舞竹庵に来てほしいという。メールで進藤は了承した。

運転中、偽物の黒木美里について人物像を想像した。下手くそなメイク。なぜか勤務時間中のはずの午後4時の待ち合わせ。確かに早上がりなんてあるかもしれない。騙している奴にしてはあまりにも手口が稚拙だ。裏があるかただのバカか。

 約束の時間まで、俺は港を調べた。観光案内所に行って名所を聞いたり、風や水の街も聞いた。それは控える従業員だった。人気のYou tuberを紹介され、どうでもいい踊りやパンケーキ、海鮮丼のアピール。最近の流行では、あからさまに目がでかくて、犬や猫の耳がついた人間には見えないプリクラもあった。こんな馬鹿馬鹿しい事をして最近の娘は何が楽しんだか。これで引っかかる男がいるんだからバカだと思った。

 だが、面白い情報も得られた。案内所を出てから、暇潰しに吹かしながらSNSを見ていると相模美優の友人に黒木綾香という名前の女がいる。アップしている情報というか画像はディズニーのキャラクターだったが、ある写真に顔が写らない水着写真があった。こいつが黒木美里を騙った偽者かと思った。エロ親父なりの視線で見るとスレンダーでいい女だった。顔出しNGなだけが残念だった。

 進藤は煙草を点けてエンジンをかけて舞竹港に向かった。煙草を吸いながら過ごしているとスマホが鳴った。黒木美里。偽者のくせに。

「もしもし。進藤です。」

「どうも。これからバスで向かいます。着いたら電話します。」

俺は「わかりました。お待ちしております。」と言って電話を切った。運転免許持ってるのにこんな車社会で車がないなんておかしいだろ。お粗末な嘘にも程がある。あの時のおろおろとした態度を思い出す。裏に何があるかわからないが、何かあるんだろう。 調べた限り、この島には黒木の苗字は複数あり、美里に絞ればあのデブの医療事務の女だ。色々検索したが、同じ家に綾香という妹がいる。

 コインパーキングに愛車を停めて、煙草を吹かしながら進藤に電話が来た。「入っててください。ご注文は好きな物で」「かしこまりました。お待ちしております。」

随分気前のいい医療事務だな。ま、嘘とは知ってても、そばなら疑いもする必要もない値段か。進藤は煙草を捻り潰して、歩いてすぐの舞竹庵に入る。「たぬきソバ。大盛りで。」店主は通して作り始めた。すぐに長身の見た事があるノーメークの女が入ってきた。あの時の圧化粧とは違う。進藤はかまをかけた。

「私はノンアルコールビール。あと、天そば。車移動ですのでね。黒木さんは? ビールですか?」黒木はおどおどして小さい声で「アタシ飲めないんで。」と言ってオレンジジュースを頼んだ。この依頼の肝であり、最終目的を進藤は嬲る様に聞いた。

「何故?加藤春香さんの所在を? 探偵なぞ不必要でしょう」

第一女子高の制服の高校女子が入ってくる。何で進藤にわかるかというと、時間をつぶしている間、商店街を歩いている時、洋服店で同じ制服を見たからだ。舞竹第一高等学校と書いてあった。

 ガタッと音がした。進藤が振り向くと黒木が露骨に怯えた表情をしている。女子高校生と視線が合ったのか、まるで謝る様に頭を下げた。輪をかけておどおどしている。

「加藤春香さん。相変わらずお優しい性格みたいですね。」

はっとして、また目が泳ぐ黒木。もういいよ。黒木綾香。

「で、でも、最近変わったみたいです。ちょっと気が大きくなったっていうか、なんていうか。よくわかんないけど、雰囲気変わってました。探偵さんは、春香さんにお会いになったんですか?」

 バカかこいつは。知るわけないだろ。会ってたらここで依頼の終了を伝えている。

「まだ聞いた話なんですけどね。」と言うと女は視線を落とした。

 沈黙の後、2人が頼んだそばが来る。黒木は食が進まない。ずっと下を向いて、たまに蕎麦をすすっている。

「相模美優さんと加藤さんには親交があったのでしょうか?」

女の目が泳いで、色々と考えてから重い口を開いた。

「え、えぇ。美優さんのお兄さんは加藤春香さんと婚約していたんです。美優さんとは仲がよくて、おねぇさんになって欲しいって言ってました。」

そうか。加藤春香と相模雄太が婚約。でも実際は婚約しておいて逃げた。って事はよっぽど気に入らないか事情があったんだろう。少し突っ込んでみようか。

「そうですか。でも、よくわかりませんね。美優さん、何故、何の手紙を届けているんでしょうね。」

「さぁ。私にはちょっと。探偵さんから見せてもらった写真で初めて知って。」

目の前の女はチラチラ3人の女子高生の方を見ながら、おどおどして回答に困っている。普通、依頼人と話す時、俺は質問攻めに合うが、現状ではまるで逆だ。

「写真で頂いた3人の女性については?」

やっと黒木から質問が来た。

「すみません。まだ名前も調査中ですし、この3人は昨日泊まっていた宿で見かけたと聞きました弊社の潜入工作員から。」真っ赤な嘘だ。銭ゲバ所長がそんな金用立てる訳ない。でも、風々亭で、すれ違った女はあの3人の中で似ていたのも事実。黒木はがばっと顔を上げた。怖いくらい目を見開いている。

「宿の名前は。」

「えっと。風々亭です。」女は急いでメモを取った。

「他の2人の名前は?」

「潜入させた者の報告では、一室で3人。担当は三島紀子。ただ、個人情報に厳しいご時世ですから、宿帳も支配人が管理しているとか。警察とか国家権力でもない限りは。」 

「そうですか。春香の居場所の予測にしてもその3人にしても進捗は?」

「えぇ、結論から申し上げると、先日、近藤家に加藤春香が一瞬ですが現れました。それ以外は”みんちゅ”という料理屋を辞めた事。数週間魔にフェイラムという元沖縄米軍人の家に顔を出す事。そのくらいですね。」

少し時間が経った。進藤は思った。

 確かに加藤春香が近藤家に現れた事。これは漁協で聞き耳を立てて得た情報。”みんちゅ”とフェイラムに関しては進藤も紐づけが出来ない。だからだよ。進藤はそう思った。そっち、相模に落ち度なりなんなりあればそっから調べる。

「もしよかったら、相模美優さんにもお取りつぎできますか?」

黒木の顔が固まった、恐怖の表情にも見える。すごい勢いで振り返る。視線の先に女子高生3人がいた。進藤は感じた。もしも、誰かに、計画的に指示されているなら、相模美優とかいうガキの影が見え隠れし、あのガキどもは監視役だ。黒木綾香はほとんど食が進まずひたすら冷や汗をかいて考えるばかり。今は、俺は黙る事にした。

「えっと。どうだろう。今、美憂ちゃん受験勉強で忙しいし。ちょっと聞くだけなら。」

「そうですか。すみません。是非、お兄様や相模様と加藤春香さんのお話を伺えればと思います。私も引き続き調べますし。言葉は悪いですが、蛇の道は蛇ってね。」

俺は偽りの笑顔でレシートを掴んだ。監視役であろうあの小娘達に見張られて言葉を限定されている黒木綾香がアルマジロの様に守りに入ったなら、ろくな情報は取れないだろう。レジで支払いを済ませて振り返ると、女はチラチラと女3人を振り返りながらうつむいていた。それからは、進藤も気を使って「美里さん」と嘘を言って何でもない話をした。春香さんはご病気をされたりとかなど。来歴はない様だ。女はやっと食べ終わった。

 2人で店を出た。女はバスで帰ると言って去った。交差点でもないのに妙に周りを気にしている。あの3人の女子高校生を気にしているんだろうか。確かにおっさんとデートと噂されたら嫌なのか、もう1つ気になって俺は煙草ついでに張った。視界から黒木綾香は消えた。数分後2本目にZIPPOで火を点けた時、店からあの女子高生たち3人が出てきた。煙草を吹かしながらスマホをいじっているふりで聞き耳を立てた。

「何でもなかったねぇ。また美優の斡旋かと思ったのに。」「うん。まぁ。ただの値段交渉かと思ったらチェックもなかったしねぇ。ここは美優の傲りだし、カラオケでもい開かない?」「いいね!いこいこ!」

進藤はスマホをポケットにしまってほくそ笑んだ。

「悪りぃ奴には、上には上がいるもんだな。」進藤は3人の会話で、経験から想像がついた。斡旋に値段交渉。3人も舎弟を使って、なかなかのド悪党みたいだな。

 まだ午後5時前か。俺は予定変更で“みんちゅ”に向かう。港からだとそこそこ距離があるし、知り合いのふりして土産の酒を途中で買った。運転しながら考えた。少し整理しよう。まず、加藤家の家の前を張っていても、手紙の主が相模美優という以外情報は得られなそうだ。ポストから手紙を抜く事も考え、今から実行しよう。”みんちゅ”開店までそれだけ時間はある。サツにだけ気をつければいい。内容の確認はしておいた方がいい。そして、暗躍する第一高校の相模美優。あの3人は放っておいてもいいだろう。美優の舎弟って事は、力かなにかしらの恥部を握られているという事だ。

俺は車を出して、一服つけた。

 加藤家の玄関が見えるコインパーキングで停めて、何回かインターフォンを押して、誰もいない事を確認して、しれっとポストの中を見ると手紙があった。この前の時間を過ぎていたんだからあるだろうという予想は当たった。胸元に入れ、足早に愛車に戻り、煙草に火を点けた。中身を取り出して読んでみると進藤は大きなため息をついた。PCの文書で「今日も元気だよ。いつも心配かけてごめんね。今は会えないの。」それだけ書いてあった。

 変じゃないか?

直感でしかないが、こんな怪文書じみたものを許容する加藤公子もだが、それをわかってる黒木綾香も変だ。2人が重なって見えた。2人とも何か俺に隠している。本人達が知らぬ存ぜぬじゃ動く事はできても、決定的な証拠がないと、問いただす事はできない。まぁ、とにかく悪性の高いガキから始めるか。なんにしろ外堀から埋めときゃ、加藤公子だって知らなかった、で通すには妙だ。冷静に考えて、俺に娘はいないがこんな、直筆でもない怪文書を毎日の様に投函する。相模美優と黒木綾香は無論だが、あのドラレコに残っている3人の女の内に1人。黒髪の女。その他2人やあの男も調べる価値はあるのかもしれない。この手紙の存在を知っていれば、おかしさに気づくのは容易だ。

一服して、スマホで調べた”みんちゅ”に着いた。土産の酒をもって役作りをする。加藤春香の親父の知り合いだとして、久しぶりに休暇が取れたから会いに来たという設定にしよう。当たり障りは無い。春香の話をそれとなく入れてみればいい。

「へいらっしゃい!」と、みんちゅの主人は威勢がいい。「持ち込みいいかい? 忠夫が好きな酒持ってきたんだ。ここの名産の日本酒。」

「あぁ! チューさんが好きな奴だね! 冷蔵庫で冷にしとくかい? 熱燗でもいいけど」関門だ。俺は話を合わせようと考えた。

「アイツテキトーだから、一応冷増してもらっていいですか? 常温でも癇でも文句は言わないっしょ。」「へへ。確かに!」一応クリアした様で代行も頼んでおいた。開店したばかりだからか店に客はいなく、テレビの音しかしなかった。俺はカウンターに座って質問内容を考えた。だがまずは疑われない事だ。

「とりあえず泡盛。ロックで。俺ものんべぇだから何でもいいっすよ。」

「あいよ。今日はいい魚が入りましたよ。」と泡盛のロックと手書きのメニューを見た。手書きのメニューには鯵の刺身とタタキに赤い丸がついている。とりあえず鯵のタタキとイカ墨汁を頼んだ。

「昨日この島に来たんですけど、いい島ですね。俺絵は忠夫と離れてから長いからこの島にくんのは初めてで。なんだかゆっくりできるって感じでいいっすね。」

「あぁ、本土の人かい。ここはいい島だよ。チューさんとは?」

高校の同級生という設定で、下調べをしておいた情報を流した。

「いやぁ、観光がてら忠夫の所に遊びに来たんですけど、キミちゃんと結婚して別嬪の娘、春香ちゃんだっけ。私の娘と同じ年の頃で。」

「へぇ~。知己って奴だ。」古めかしい変な言葉を使う。日本語ではあるが。

「ま、そんなもんですよ。娘さんがここで働いてたとか。」

「そうなんすよねぇ~。でも急に辞めちまって。看板娘がいなくて募集中でさ。」

春香情報はビンゴ。だが、進藤は妙に感じた。親父の表情が変な曇り方をする。ただ残念というわけじゃない。妙な感情も見え隠れした。職業柄、表情の機微や喋り方で判断する。

「忠夫葉来るにしろ、春香ちゃんにも会いたいな。」主人の顔が曇った。同じ顔だ。

「あんた。チューさんからなにも聞いていないのかい?」

まずい。地雷を踏んだかもしれない。キャラ変だ。

「いやぁ? 特段変な事は聞いてないけど。あいつ病気にでもなったのかい?」

主人が刺身を切りながら「へへ。そうかい。いやねぇ。」

主人の話は長く、相槌を打ちながら泡盛を飲んだ。娘の家出、行方不明。主人も連絡するが出ないという。完全拒否か。2度も婚約破棄したり長野に行ったり。黒木綾香から聞いた情報と合致はする。

「はぁ~・・・そこまでは知りませんでしたよ。忠夫が来るまでお代わり!」

「あいよ!」と言ってすぐに酒を注いでくる。だが、この男からはさっきの妙な表情以外感じ取れなかった。何か知らない情報を持っている可能性はあるかもしれず、俺は芝居を打った。スマホで話している振りして誰とも話さず「あぁ。」「うん。」「まぁそりゃそうだろうけどよ!」少し時間を置いて「わかったわかった。明日にしよう。」と言って進藤は電話をきって泡盛を一気飲みしてお代わりを頼んだ。

「あの野郎!」

スマホを睨みつける俺に主人はカウンター越しに刺身を出して「なんかあったんすかい?」と聞いてきた。

「いやぁ。あの野郎今日は来られなくなったって。上司の絶対命令で断れねぇ残業だってさ。俺を何だと思ってんだ。」真っ赤な嘘だ。

「へへへ。チューさんにも立場があるから仕方ないでしょ。あいよ!タタキね!」

「まぁ、俺もサラリーマンだからわかるけどさ。」と言って、記憶に漏れの無い様にマイクモードにしてスマホを机の上に置いた。

「女程じゃねぇけど。男には男同士話してぇもんがあるってのにねぇ。」

「その通りでさぁ! 大将わかってくれるねぇ。それにしても、さっき聞いて驚いたけどなんであんな気立てのいい春香ちゃんが突然辞めて行方不明だとか聞きたかったのによ。俺の娘の麗華だって夏休みだから会いたいっつてたのに。あのバカ娘今頃ワイハでよ。俺といると話ずらいって。全く年頃の女ってのは」と芝居に芝居を重ねた。麗華はこの前所長に連れてかれたキャバ嬢の名前だ。

「へへ。そればっかりはねぇおまちどう。以下の炭汁ですよ。」

俺は待った。これも戦略のうち。酔っ払いのくだまきだと思われたら真相にはたどり着けない。なだめられておしまいだ。

「まぁね。俺の甲斐性なしってとこかね。ハルちゃんの場合は。気が強い所はあったけど、島の人間は大体あんなもんだし人気者だったよ。美人だし。辞めた本音は聞きたかったけど、俺や客との人間関係とかじゃないと思うんだけどね。セクハラパワハラなんて自分で撃退するから。わかんねぇなぁ。」進藤はケタケタ笑った。

「本当の事言ってくれって言ったんだけど、ごめんとしか言わねぇんだもん。」

何か妙に感じた。人気はあり、筋を通す傑女でありながら、当たり障りのない退職理由。もしかしたら、と無理やり相模美優と繋げようとしたが、どう考えてもそんな傑女がただの暗黒番長に屈するとは思えない。立場はもっと強い兄の婚約を2回も破棄してるんだから。だとすればなんだ? 泡盛を飲んで進藤は考えた。

「おやっさん。お代わり。」「良い飲みっぷりだねぇお客さん。」「なんか飲みてぇ気持ちになってさ。」お代わりはすぐに来て、箸は進めた。同時に考えた。演技の準備をして大きなため息をついた。

「麗華もだけどさ。コロッといく時はいくのに、何でかしらねぇ信念持ってんだよな。なんか春香ちゃんの事考えると、婚約を2回も破棄なんて。普通の女にできる事じゃねぇ。なにか他に理由があんのかな?」

「まぁ。それがあの子の魅力だけど。譲れねぇもんは譲らねぇ。そんな所じゃないのかい? 俺が言うのもなんだけど、ハルちゃんは漢気があるからね。」

進藤は微笑んだ。まぁ、確かに。だけど、 漢気だけで済ませられる程、理屈は通ってない。進藤は聞き出したかったが、アイテムがない。黒木綾香やミサトと偽ってっも来ている可能性は極めて低い。未成年うんぬんより、そもそも高校生がこの店に来るか? 的外れだと思った。

 ガラッと扉が開いた。カウンターの隅で飲んでいた進藤が見るとぴちぴちの白いTシャツにジーンズの巨漢の外国人がいた。レスラーかと思った。主人は威勢よく挨拶し、無言で外人は反対のカウンター席に座った。テキーラとショットグラスを主人が持って外人に出した。お決まりの常連だとわかる。

「いつもの。」「あいよ!」

進藤は感覚で判断した。常連であるから春香の事は知っているに違いない。だが、この男には手を出してはいけない。第六感だ。主人がパテを焼き始め、声眼を整形し始めた。そんな料理はないとメニューを見た進藤は、白人の鋭い目に気づいた。

「ま、チューさんにしろ、俺にしろ、ハルちゃんが辞めちまった理由はわかんない。麗華ちゃんにも伝えておいて。よくわかんないけど、元気ですって趣旨の手紙はほぼ毎日来るんだって。キミさんちに。きっと元気にどっかでやってるさ。」

 有力情報はゼロか。相模美優と無理やりくっつけるにも論理が立たない。もっとも感じたのは、こいつは何かを隠している。アの表情で判断した。そして、俺に本当の事を言うつもりはない。そして、黒木綾香程バカじゃない。ここにいるだけ無駄だ。急にメシがまずくなった。だが、簡単に魚を逃すほど俺はバカじゃない。

「女心と秋の空ってやつですかねぇ。おあいそ! 忠夫と日程がつくまで冷蔵庫の隅にでも、おいといてくれたら嬉しいです。」

「了解!」と言って主人は聞いた。

「お客さん名前は?」進藤は職業柄、平気で嘘をつく「佐藤。フツーの佐藤に隆夫って書きます。」全く別人の名前だが、加藤忠男のアルバムにそんな男がいた。

「じゃー佐藤さん。はい!チューさんと車でしっかり冷やしておきますから!」

「どうも。申し訳ないですね。」

「いえいえ! 飲み屋はこれぐらいしないとこっちが立ちませんよ!」と主人が金を示す指をして、進藤は金を払って外に出る。「またどうぞ! 代行はそろそろですよ。」

「吸って待ちますよ。いくらでもね。」進藤が店を出た。

駐車場で煙草に火を点けて、「これと言った収穫は、相模美優か。」

 扉を閉めて、”みんちゅ”の主人が進藤の皿をかたしながら洗い場に置いた。

「あの男。春香を探ってるのか?」白人の巨漢がテキーラを空けて言った。

「みたいっすね。前職の癖か、経時っぽくはなかったですね。精々、私立探偵か。」

「ふん。元諜報部がそれを見抜けなかったらクビだ。」

白人はテキーラをラッパ飲みした。


 煙草を吸って代行を待つ俺の携帯が鳴った。名前は黒木美里。

「もしもし。進藤さんですか?」

「はい。唐木探偵事務所の進藤です。」

「美優ちゃんに聞いたら、明日の午後3時ならって。」

明日は土曜か。まあいい。闇の親分と話せるなら核心に迫れそうだ。”みんちゅ”じゃアの流暢な主人に躱されるだけだと思ったところだ。

「わかりました。場所はどちらに?」

「えっと。その。サンタナっていう喫茶店なんですけど。」

「えぇ。わかりました。検索して、お時間に伺います。」

「はい。Googleで出てくるくらいの所ですから。ありがとうございます。」

俺も黒木も丁寧に挨拶して電話を切った。サンタナという喫茶店を検索すると、交差点の脇にある、図書館の近くだ。あのクソぼろ民宿からでも車でそんなに時間はかからない。相模美優でホームランを打てたら幸いだ。

 煙草を吸いながら考えを切り替えた進藤は腹立た差を覚えた。加藤春香の捜索を依頼したもう1人の女だ。本土にいる頃の情報はよく持っているが、こっちから連絡しても最近は何も返事をよこさない。契約を切ろうかと思ったが、ゼニゲバの所長は続けろという。車内に戻りその女からの1冊の依頼書を見る。こいつは丸投げだ。まぁ、金さえ払えば俺は同じ報告書を2人に出すだけだ。俺にとっては黙ってくれてる方が助かるよ。

 安藤涼子さんよ。


 7月28日。

「ここか。」

 午後2時だった。黒木綾香の指定したサンタナという喫茶店。こじんまりしていて雰囲気のあるログハウスだ。店に入るとそこそこ広い。時間も時間だからか、客は少なくて、好きな席を選ばせてくれた。俺は射程を引き連れる悪の親玉たる加藤美優から何を聞きだすか考えた。聞き漏らしの無い様、Yシャツにマイクモードのスマホを仕込む。

 余裕をもって30分前に入店し、黒木綾香と加藤美優という連れが来るが、お代は全て払うと言って、咳に通された。なるべく人が少ない席を選んだ。

そんな時、聞き覚えのある声がした。

「あら、進藤君じゃない。」

なんでこの女がここにいるんだ。

 高そうなグレーのスーツを着た長身の女が俺に手を振っている。この女は昔からの知り合いだ。藤田秋音という。俺の大学の同級生だ。


 昔の話をする。

 俺は要領も頭も悪くて、この女と同じ学部でも下から数えた方が速い成績だった。それに対して、この女は頭がよくて学部で首席だった。その上、容姿端麗でスタイルもいい。噂ではDカップのツンとしたいい胸で桃尻らしい。いろんな男があの女に群がった。俺も最初はあの女をものにしたかったが、すぐに面倒くさくなった。理由は簡単だ。この女に手を出すと周りがごちゃごちゃうるさい。俺は何よりも騒々しいのが嫌いだ。そこそこの女とそこそこに付き合っている方が落ち着いた。セックスを覚えてからはあの女に興味はなくなっていた。俺が求めていたセックスへの憧れは、あの女でなくてもいいただの童貞観念で風俗やデリヘル、要は金でで満足できる。

 はじめは藤田秋音と付き合いたくて入ったサークルだったが、興味をなくしてからも惰性で所属は続けていた。バカな他の男は藤田秋音にアプローチをかけていたが、学外に彼氏がいると言っていた。後で知ったが、彼氏の正体は同じサークルの速水という俺の友人だった。白糸という奇人と部長兼先輩を含めていつも4人でつるんでいた。

 ある時、藤田から飲みに誘われた。当時の俺が付き合っていた彼女は藤田の知り合いで、気まずかったが、「いいよ!」とだけその時の彼女は言った。どこまでいいのかわからないが、この女の場合、体を許す事はないだろう。俺は藤田に対して女としての期待をしていないし、友達として飲みに行くだけだ。

 結論から言うと、そんな性欲ではなかった。色々とくだらない愚痴を聞かされ、俺が知っている男に告白されたとか、他のサークルの先輩に告白されたとか、くだらない事ばかり。奴の言うには、速水も肉体関係含め興味がなく、サークルを続けたいんだとか。んな事俺にとってはどうでもいい。適当に話を合わせていると、藤田は察した様で黙った。この頃からだった。好きでも嫌いでもない居心地のいい環境を藤田と感じ始めたのは。俺の異常性か彼女の狂気かわからんが。

 藤田秋音は在学中に司法試験を1発で合格した。俺は2回落ちた。俺は、特に口述試験がだめだ。合格か就職か、浪人か。中の下だった俺は就職を選んだ。新聞社で上司と上手くいかず衝突してこのていたらく。エリート街道ひた走る藤田秋音を見ると自分が情けなくなる。藤田秋音は、柿名法律事務所という大きな事務所に就職してバリバリ働いている。


 現在に話を戻す。

 藤田はいつの間にか俺の前に座って大きなため息をついている。昔から図々しい女だ。

「ねぇ。不思議な話があるのよ。」

ぼーっと、肩肘をついて、つまらなそうに外を眺めている藤田。

「とりあえずなんか頼めよ。おフランスか、おギリスの最高級か?」

「進藤君ってほんとにデリカシーないわよね。だから彼女もいないのよ。」

「オールドミスに言われたくねぇな。一服いいか?」

「店員さんに聞いてちょうだい。」

藤田の注文ついでに煙草を聞いたらO・Kだった。今時珍しい。

 進藤が一服点けて、水を飲んだ。2人とも数秒黙っていた。

「ねぇ。すっごく大きな時計があるの。タイマーがついてて・・・」

「いつまでもならない時計だろ? 聞いたよ。」

「あら。人に興味がない進藤君だから覚えてないと思ってたわ。」

藤田の笑顔が嫌味に見えた。俺は煙草をすりつぶして新しく火をつけた。

 藤田から聞いた事がある。学生時代だ。藤田が好きな小説の話だという。

 ある少女の話だ。とんでもないデカい時計があって、赤い針でタイマーをセットできる。長針と短針があうと、大好きな曲が流れる。ワクワクして長針と赤い針が重なる時を待った。待ちに待った時が来て、長針と赤い針が重なった時、カチッと音がした。耳を澄ませても何も聞こえなかった。秒針が進んでいるだけ。何かの間違えかと思って、変な所がカタカタしてないか開けてみて少しいじって、もう1周待った。でもまた、カチッと音がして、音楽は流れてこない。何周回っても、聞きたい音楽が流れない。そんな時どうすればいい?と聞かれた。俺は鼻で笑って答えた。

「んなもん、時計を変えるか、聞きたい曲を自分で聞けばいいじゃねぇか。」

「あはは。そうなんだよねぇ~。そうかもしれないんだよねぇ~。」

その時の藤田はつまらなそうな表情をしていた。昔の事だが、鮮明に覚えている。

「でもね。その主人公はずっと待ち続けたの。ずーっと。赤いタイマーの針と長針が重なって大好きな音楽が流れる瞬間を。ずっと。」

俺はその時、「ばかばかしい。」とだけ言った。


 今思い出しても、何が言いたいのかわからない問答だった。そして、目の前の女はまた訳が分からない事を言い出した。

「ねぇ。私、読書家でしょ。」

「しらねぇよ。そうだったかもしれねぇけど。」

「最近ね。お気に入りのラノベがあってね。」

「弁護士だったら新聞か六法読んでろよ。」

「つれないわね。ご飯に行くのに懐石料理やフルコースばっかりなんて飽きちゃうじゃない。たまにはジャンクフードやファストフードもないと。」

こいつの話はいつも回りくどい。また、テキトーな例え話をするんだろ。付き合うにも精神力がいるんだよバカが。

「どんな話なんだ?」

「チェスの話なの。」

俺は黙って聞く事にした。精神力は必要になるが同年代の、こいつよりももっとバカな女の自慢話よりはましだ。

「同じクラブで同じくらいの実力の2人がチェスをしたんだって。その時にね、片方がキングじゃなくて、クィーンを使うの。」

「は?」俺はコーヒーを飲んで眉をひそめた。

「片方は普通の配置、キング、クィーン、ビショップ、ナイト、タワー、ポーン。もう片方はクィーン2つでキングはない。他は一緒。赤い色を付けたクィーンを取られたら負けっていうルール。そうしたらどっちが勝つかなっていうゲームだったの。」

斬新なルールだ。将棋でいったら王将の代わりに成った飛車角を据える様なものだろう。

「そんなのクィーン2つが勝つに決まってるだろ。逃げるのも攻めるのも能力が違う。」

「そうよね。私もそう思ったわ。それで戦ったらやっぱりクィーン2つの方が優勢。もうチェックメイトは誰もが目に見えていた。そんな時だった。クィーン2つの方が相手の1手に驚愕した。彼女はチェックメイトされてしまったの。」

「クィーンでか?」

「決め手はポーン。」

どんなハイレベルな攻防があったか想像できないが、漫画でありそうな展開だ。

「全く見逃していたポーンで全部、戦況を覆されたの。2つのクィーンを使って場を操る事しか考えていなかった方が負けたの。ある意味怖い話だと思わない?」

「ただそいつが弱かっただけだろ。力があるのにトンビに揚げかっさわれたんだ。」

「もう。いつも身も蓋もない事しか言わないのね。」

藤田は笑い、頼んだアイスティーを飲んだ。

「いちいち哲学的な考察したり、ああかもしれない、こうかもしれないなんてトロい事してると、ネタを逃す職業柄なんでな。」

「新聞記者の癖? それとも探偵業?」

「同じだよ。弁護士みたいにじっくり考えてディベートするのとは違うんだよ。」

この女の話に乗っかれば、俺にとってはクィーン2つの方がありがたい。それで負けても1回の敗北に一喜一憂してるなんて馬鹿馬鹿しい。次勝てばいいんだ。しかし、2つのクィーンか。今回の依頼を思い出す。どんなボードゲームでも、予想外の一手の形勢逆転は怖くて醍醐味だ。

「ねぇ。進藤君の仕事は? 何しに来たの?」

「・・・人探しだ。くだらねぇ。お前は?」

「今は休暇中よ。最近ヘビーな仕事が多かったから。夜中まで留置場の容疑者と話したり、駅に駆け付けて痴漢冤罪の示談か提訴かとか、離婚調停でくだらない痴話喧嘩を延々聞かされたり。ずっと人に振り回されてるわ。」

「それが仕事だろ。」

「まぁね。でも、私にだってやりたい事があるのよ。」

「ま、金はたまってるだろうしな。速水以降、男はいねぇのか?」

「いないわよ。それどころじゃないの。ある意味、性欲のない進藤君と同じかも。」

久しぶりに会ったが、こいつとの会話はストレスにならない。昔に比べてどこか落ち着いたというか、凛々しくさえある。だが変な感じもした。何か覚悟を決めた様な顔をしている。第六感だ。まぁ、こいつを詮索しても仕事には関係ない。煙草を灰皿に押し付けて時計を見る。まだ時間まで余裕がある。藤田も時計を見る。

「あら、もう行くわ。また会いましょう。」

藤田が小銭を置いて立ち上がり手を振った。

 久しぶりに聞いたな。「また会いましょう。」アイツの口癖だ。別れ際に必ず言う。


 改めて進藤は煙草を吹かしながら想定問答を考え、時計を見る。あと8分程か。まだ余裕がある。1回頭をリセットしてぼーっとした。藤田の事を思い出していた。

 また昔の話をする。

 藤田秋音は父子家庭だった。物心ついた頃には父親しかいなかった。母親はアイツを産んですぐに死んでしまったらしい。アイツも荒れた時期があったらしい。片親の家庭ではよくある話だ。男手1つで育てられて、大学まで行かせてもらった事を感謝していた。司法試験に合格した時も、父親はすごく喜んでいたという。まじめで子煩悩ないい父親だったという。確か明夫とか言う名前だった。

 アイツが大学を卒業した頃、父親が会社から懲戒解雇されたという。業務上横領だったとか。信じられないと言って、会社に食い掛ろうとするのを父親が止めたんだとか。

だが、父親は失業保険で自分の生活費をやりくりしながら、再就職も決まらず。娘の給料で生計を立てていく。父親の態度は荒れて酒浸り。豹変した父親と何もできない自分にえらく辛い思いをしたんだとか。当時、精神的に辛くなっていた藤田も父親も距離をおく事にしたんだとか。一人暮らし。アイツは父親に毎日電話をかける。酔っぱらっていたり、出ない時もあったらしい。そして悲劇が起きた。ある日、警察から電話があった。父親が自殺したそうだ。

霊安室で、ただただ泣いたそうだ。父親と住んでいたアパートを引き払い葬式を済ませた。

 そんな強烈な経験をして、たった1人で生きているアイツの強さには恐れ入る。

そんな事を思い出しながら、ぼーっと宙を眺めていた。


「あの。進藤さん?」

目の前に黒木と小さい女の子がいた。

あぁ。大きい方は黒木綾香だ。この小さい方が相模美優か。ドラレコの映像を思い出した。腕時計を見ると5分前。早めに来たな。俺は立ち上がる。2人ははテーブルを見て不思議そうな顔をした。そうか。アイツの飲みかけのアイスティーが残っていた。

「あぁ、すみません。先程まで知り合いと会っていまして。」

一瞬だったが、相模美優の目じりが動いた。俺は店員を呼んで片付けてもらい、メニューを渡す。2人はオレンジジュースを頼んだ。

さてと、頭を切り替えないとな。

「初めまして。相模美優です。」

やわらかい表情。かわいらしい女の子だ。お気に入りなのか、あの時着ていたワンピースを着ている。お嬢様という言葉がよく似合う印象だ。

「今日はわざわざご足労いただきまして。」

「いえ、美里さんが探偵さんを依頼していたなんて、驚きましたけど、兄の婚約者に関する事ですし、私も春香さんと会いたいんです。是非、春香さんを見つけてください。」

まるで用意していたような回答だな。あの3人の女子高生の舎弟はサンタナに見えなかった。ま、ここで一戦交えようなんて事ではないんだろう。

進藤は胸ポケットから写真を取り出した。美優は驚いた。

「単刀直入に伺いますが、こちらは、あなたの写真で間違いないですよね。」

相模美優が加藤家に手紙を投函している写真。

「そして、失敬した手紙がこちらです。」進藤はまた胸ポケットから手紙を出した。

「えっ。」と言って、美憂はちらちら黒木綾香を見ている。進藤は思った。流石、裏番舎弟の教育はこれモン並みか。

「すみません。でも私も仕事なんです。」

「仕事? 誰かに依頼されているのですか?」

進藤の質問に困っている。届けられたレモンティーなど見ず、美憂は目の前のれっきとした証拠に困っている。毅然としている相模美優が頭を下げた。

「あ、あの。ごめんなさい!」

なんだ? 進藤は思った。コイツ。人並外れて騙し慣れている。

「あの、仕事っていう言い方が悪かったですね。私はただ、私、春香さんの事が心配で。心配で。公子さんに言っても、警察に届けないっていうし、父も春香さんのお父さんもそれなりの立場がある方。安心だけでも助力できればと思いまして。つい。」

相模美優は悲しそうな声でうつむいた。つい。か。

自分の防御は考える様だが、この後の綾香に対するこの小娘のお仕置きが進藤の心に刺さった。だが、進藤は冷血漢だ。

「えっと。PCで印刷したこの紙で公子さんや忠夫さんが納得すると?」

「え、ええっと。実は。私、はい。浅はかでした。」

相模美優は目をつむり、深呼吸をした。沈黙は金よくわかってるじゃねぇか。

「私、できる事なら。でも筆跡もわからないから。幼稚な事してたんですね。」

「いえ。心配なお気持ちはわかりますよ。」

進藤は表情を一変させた。賢い悪だ。目の前の小娘は沈黙という武器を使い始めた。こんな風に閉じてしまった貝をこじ開け様としても徒労だ。進藤は胸元に写真と手紙をしまった。無論、依頼主である黒木にも渡さないのは美優への挑発行動でもあった。

「御存じでしょうが、私は探偵でして。何か春香さんに心当たりとか、ありませんか? 是非、些末な事でもここに連絡いただければ幸いです。無論。個人的な情報は秘匿いたします。それはご信頼を。」進藤は名刺を渡した。

「えっと。そうだなぁ。兄も仕事が終わると色々な人に聞いてる幼稚での惨めな事しか。してないです。探偵さんは、何かわかりましたか?」

心配そうな顔で相模美優は聞いてくる。

「今日も午前中、加藤家の前を張っていたのですが、春香さんは現れませんでした。一昨日はこの3人の女性と男が加藤家を訪ねている。そのくらいです。」

写真を食い入る様に見る見る美優。綾香は目を伏せていた。

「現在はこの3人が何者か。そちらの調査を進めています。春香さんが働いていたお店にも聞き込みをしたのですが、残念ながら有力情報はなく。お金についてはご安心を。契約は守ります。当然のことですから。黒木美里さん?」

敢えて偽名で呼ばれた黒木綾香は冷や汗をかいて、小さく頷いた。また第六感の発動。進藤は、付け加えた。

「そう言えば、美里さんに会った時、蕎麦屋さんでしたが、妙な髪色の目立つ女子高生3人がいて、美優と聞こえたんですが、美憂さんお知り合いですか?」

「え? ま、まぁ。お蕎麦好きの友達はユリちゃんかな。彼女も友達い多いから。」

所詮はガキか。単純い閉じこもるのは得な様だ。振るえば振るう程固くなる。そうするとどうなるか、進藤は内心、悪魔の様なほくそ笑みをした。本当の狙いはこの貝じゃない。

「いずれにしろ、申し訳ありませんが調査中です。黒木さん。ところで、不特定多数のあの大きな病院ですから無理かとは思いますが、なにか見かけませんでしたか? 春香さんは勿論、この3人。男でも構いません。」

黒木綾香が困惑し、鋭い目の美優をチラ見して、すぐに視線を外した。

「い、いえ。事務ですから患者様も時々ですし。少子高齢化が進むこの島で、若い方はあまり受診なさいません。彼もさっきの3人も見た事はありません。」

進藤なりの布告だった。汚ねぇ金積まれたって言いなりにはならねぇぞ。

「そうですか。成程。もしかして3マンセルで動いているから、誰かの指示か、探索能力。つまり、弊社への信頼が薄いのかもと思いまして。」

「そ! そんな事は!」

ボロが出たな。綾香はテーブルを立って、色々考えながら、チラちら相模美優を見る。コイツの舎弟の話を餌にどう出るか見たかった。異常に焦っている。おっさんなめんなよ。阿呆が。

「ありがとうございます。そちらも含めて、引き続き調査を行いますし、わかり次第黒木様には報告させていただきます。」と言って俺は伝票を持って立った。会計を済ませて3人で店を出た。丁寧に挨拶して2人と別れた。俺は車に乗り込んで煙草に火を点けた。

 変な案件だ。今まででも、訳わかんない事やる奴は何回も見てきた。でも、今回の依頼は異常性はないが、とにかく変だ。裏で糸を引いているだろう美優が知っているなら、隠す必要はない。加藤春香をどう料理しようか考えてるのか? いくらガキとは言え、悪の裏番と推測されるヤバイ女のやる事だ。俺としては、犯罪に巻き込まれなければ、何でもいいんだが。


 四、闇を喰らう者


 2017年7月28日 相模美優。

「うぐ!」

黒木綾香が道端にへたり込んだ。人目につかない田んぼ道。さっき進藤律夫とかいう探偵と会ったカフェから歩いて10分くらいだ。怒り心頭の私が黒木綾香の腹を殴った。

「てめぇふざけんな!」

黒木綾香の胸を蹴飛ばす。黒木綾香は舗装されていない土道に転がった。

「てめぇ言ったよな! アタシが春香のふりして手紙届けてる事! あの探偵に!」

ごめんなさい。ごめんなさい。泣きながら黒木綾香がうずくまっている。

「ふざけんじゃねぇ! てめぇみたいなバカのせいで計画は狂わされるわ、あんな金の亡者かもしれねぇクソ探偵に疑われたらどうすんだよ! アタシに火の粉が1つでもかかるなんてありえねぇんだよぉ!」

相模美優が黒木綾香の腹を蹴る、踏む。怒りが収まらず、息を切らせて、泣いている黒木綾香を睨んでいる。ギリギリと歯ぎしりを立てている。「クソが!」と怒鳴って黒木綾香に唾を吐いて立ち去った。

 私はカフェの駐輪場に向かい、「もうアイツは使わねぇ。事が面倒くさくなるだけだ。」そう思った。自転車に乗ってヘルメットをかぶりイライラしている。

 美優は自宅に戻り、イライラをおさめる為に、母親のチューハイをくすねて飲んだ。そして、ある動画を見た。気分転換の為だ。

 この撮影日、クソこと相模雄太は加藤春香を、愛の鐘という小さな鐘がある場所に誘った。山の上の崖に設置されている。その鐘を鳴らすと幸せになれるという観光スポットだ。加藤と父親は婚約を決めていたと聞いた。クソには、女子が喜ぶ人気スポットだと吹き込んでおき、性欲と暴力しか頭にないクソは婚約指輪まで用意して高級車で春香を迎えに行く。家を出る時、爽やかなクソと面倒くさそうな春香。カメラとして黒木綾香には愛の鐘に向かわせてあった。「事前に録っておいて、結婚式でもエンディングで流したいから。」と言っておいた。

 クソつまんなそうに春香がそっぽを向いているが、行列の中、クソは爽やかな笑顔でいた。綾香には舎弟の男1人を相手に後ろにぴったりつかせた。

 肝心な2人の番。

「さぁ」とクソが爽やかに笑って、加藤春香の手を優しく引いて行列に並んだ。その前には、クソブサイクな男と女がはしゃいでルンルンしている。クソは爽やかな笑顔で、春香は面倒臭そうに鐘を鳴らし、拍手が起きる。

「ねぇ。」と跪くクソ。春香は驚いていた。ゆっくりとクソが春香の片手を優しくつかみ、ざわついた様子の周り。クソが見計らったかの様に、綱から手を離し、うつむいた加藤春香に小箱を出して、割れんばかりの歓声。目のカップルも後ろの人間達もざわついた。「きゃー!」という歓声の中、春香は一応手を取られ、抵抗しなかった。

これだ。これだよ。クソはいつも完璧じゃないといけないと思っている。クソは春香の手を取って、小箱を開けた。ダイヤの指輪だ。母親に相談して、受け継いで欲しいと言われて、譲り受けた婚約指輪だ。

「結婚してください。」

場が拍手と歓声に呑まれた。クソは爽やかな笑顔で春香を見上げている。加藤春香はうつむいていて表情が見えない。綾香は角度を変え様とした様に画面がグニグニしたが、中心はぶれなかった。何回見ても思う。さぁどっちだ? 自分の親父の頭に弾丸ぶち込むか、クソの言いなりになるかその2択。

「ムリ。」

春香はそれだけ言って、クソの手は振りほどき、ズカズカと歩き去った。クソは唖然として春香の後姿を見ていた。場は静まり返った。クソの後ろに並んでいたカップルだけじゃなく、音だけでも気まずい雰囲気が創造できる。クソの舎弟もカメラ小僧を用意していた様で、鋭いクソの視線でスマホを降ろした。

「あっはははははは! これが最高におもろいんだよ!」

何回見てもつい大声で笑ってしまう。綾香のビデオでは、ふられたクソは、すっと立ち上がり、無言で去る。クソの舎弟が追いかけた。後に綾香から聞いた話では、クソは舎弟にデジカメのデータを全部消去させたらしい。王子様気取りのクソのこの体たらく。何度見ても笑える。綾香に対する怒りが1%は落ち着いた。

「さぁーて。やっぱ状況はクソに悪く傾いている。アタシはどうしようかな。」

笑い終えたところで、ベッドで寝転がり天井を見上げながら、ウサギちゃんの人形を抱きしめてこれからを考えていた。

 整理すれば、綾香のせいで探偵には手紙の件はバレたし、即興の芝居が何処まで上手く利いたか。とにかく、もうあの行動はやめよう。それはそれで、なんでやめたのかとか重箱の隅を突かれそうだが、「あの後、よく考えて、荒唐無稽な稚拙な行為と思って。おばさんにも悪い事したなって思って。」などいい子ぶる事にしよう。本当は、公子を挑発してご本人登場を画策していたのだが下手は打てないし、全然別日に公子に聞きに行った時「心配はありがたいんだけど。警察沙汰はちょっと。」と言われたのも事実。内心、美憂は、実は、公子は春香の居場所を知っているんじゃないかと探偵まで雇って手を尽くした。PC書きの手紙は揺さぶりのつもりだったが効果がないどころか、綾香のせいもあって探偵を通して裏目に出た。

 スマホが鳴った。綾香じゃない舎弟扱いの女だ。

「もしもし? どうだった? あのおっさんとあやっちと喋ったんでしょ?」

舎弟は舎弟らしく黙ってろ。私のHDDにあるレディース時代の乱交パーティー流したら内申書に響くぞこら。

「別に何んもなかったよ。普通におっさんと話してただけ。」

「あれ援助交際? また新しいビジネス始めたの?」

関係ねぇっつの。首突っ込むんじゃねぇ。

「ううん。この前言った探偵だよ。どう使えるかは、考え中。」

「うーわマジヘビーじゃん。で、あやっちは?」

「とりあえずボコった。アンタの知らないところでへましたから。」

「うわ。怖。」

「まぁ、色々困ったけど、問題なし。ありがとね。お金は明日にでも綾香に払わせるわ。監視代とドーナツ奢るから。」

ドーナツはコイツの大好物だ。

「よっしゃ! ミスドでいくらまで?」

「1000円くらいかな。」

「オッケー。綾香はあのおっさんに売らせたの?」

「ううん。見た目はヤニ臭いしょぼくれたおっさんなのに意外と鋭くて。まぁ、大丈夫よ。2000円でもいいわよ。あのおっさんの所在突き留めたらボーナスで。」

「やりぃ! ミスドで2000円なんて超贅沢じゃん。」

「好きなだけ食べて。あの監視はアタシが行けないからお願いしたんだし。足りなかったら綾香に。あんまりバカ食いしないでね。太るよ。」

「あいよ。毎度。あ、そうそう。監視の時の話で気になる事もあったよ。」

「なに?」

私は、酒を飲んで、母の秘密の棚からくすねた煙草に火を点けた。話はもう知ってる事だった。綾香が、指令通りじゃなくて、探偵に姉の美里を名乗っていた事。計算では綾香のままの方がよかったのに余計な事をと、怒りが再燃した。嘘はバレた時が一番面倒だ。黙った。あのバカよりこのバカの方がまだいいか? いや、蛇足はやめておこう。

「もしもし? もしもし? 美優?」

美優は一服して、酒を飲み、とりあえず話を合わせた。

「そうね。何でだろうね。私もわかんない。」

「まぁ、ヘビーな話だもんね。パワーじゃ負けるけどおつむは弱いもん。綾香。」

 オマエもな。

「ま、ミスド期待してるから。またね! バイバイ。」電話が切れた。

探偵なんて知る限り一番面倒な奴に下手な嘘つきやがって! 再燃させた女にもイラついた。あの探偵の表情。同類の眼だ。繕ってはいるがマジじゃない。今までの感覚と人心掌握術でなんとなくわかる。探偵が私をマークしたなら、要素が増える。イライラする!

 この時に私の頭を2つの事がよぎった。冷静に考えろ。

 1つ。あの探偵の本性だ。依頼人が黒木美里ではなく妹の綾香だとわかっている。そして”みんちゅ”にまで足を運んだ。残るはあの3人と近藤将太が調査対象そう言っていた。口ぶりと公子への質問がなかった事。ならば、継続調査は建前。綾香を泳がせるつもりか? それは私も考えた。舎弟の中の舎弟である綾香がポカをする。誰かと何かつながっているのか、まさかとは思うが綾香が春香の所在を知っている? それはないだろう。だとしたら完全に春香の手の内。そこまでしてクソを追い詰めて処罰したいのか? その為に、イラつくが私の計画委ちゃちゃを入れて困惑させているのか。そんなんだったら、終わったら舎弟全員で百叩きの百輪姦だ。怒りに任せた行為だったがあのあぜ道の行動は変わらぬ本音。探偵に一芝居うった事が裏目に出たんだから。

 2つ。1つ目と被るが、綾香だ。あのバカは私に従順に従う奴隷だったはずだ。美里は家族とはいえ、騙るなんてリスクをなぜ持ち込んだ。確かに「何とか上手くやって」と中途半端には言ったが、ここまでバカだとは。まさかとは思うが、私以上の策士で私をぶちのめそうというのか? そんな事したらその直後から全世界で立派な素人AV女優だ。

「あぁ腹立つ。」

私は自分の部屋が息苦しくなって酒を空けて煙草を消して、香水で誤魔化して、階段を降りた。母が買い物から帰ってきていた。少し酒の臭いがする。

「あら、出かけるの?」

「う、うん。ちょっと散歩。」

「そう。気をつけてね。」

母は秘密の棚から未開封の煙草を出して、千円札をまいて私に投げた。

「行ってらっしゃい。夕飯までには帰ってくるのよ?」

私はその束を受け取り、何も言えず、玄関を出た。自転車にまたがり、ポケットに束を隠して暑い中、ヘルメットを被った。冷や汗をかいた。あの大人しい母。正体をわかって心のどこかで勝ったつもりでいた自分の愚かさに、やっと気づいた。

 なんだか気になって、サンタナのはす向かいの公園に自転車を停めた。駐車場にあの探偵の車がない事を確認した。交差点の周りも確認したがあのダサい車は視界にない。信号を渡り、コンビニでチューハイを2本買って自転車にまたがり、駐輪場に自転車を停めて海に向かう。

 浜辺を散歩する。酒を飲み、煙草を吸いながら潮騒と波の行き来を見て居る。なんだか、全く違う意味での「母は強し」を感じ。綾香の失態や裏の野望は段々薄まってきた。相模家の表の主は父だが、ラスボスは母だ。そして、その顔をアタシにだけ見せた。私は煙草を吸いながら片手を見て、同じ血が流れているのかと思い、なにも違和感なく酒を飲んだ。むしろ、軽蔑していた母に親近感が沸いた。 

 まぁ、一応、何度目か、自分の事を考え直そう。綾香には私に対する忠誠心はなく、あの探偵と裏でつながって情報操作をしているのかもしれない。本物のバカは私だったのか。さっきの母を見てそこまで考える様になった。酒と煙草で変な話だが、冷静になればなる程、綾香が私に持った恨みつらみは桁外れだろう恨みを晴らすために、私を陥れる為に探偵を使っているのか。だが、やはり、同じ解に落ち着いてしまう。偽名を使う事、私を追い詰める行為。絶対の切り札を承知でやっているのはなぜだ。綾香が損する事はあっても世界中に自分のセックスを顔出しで流布されてでも? まさか。そんな私の発想を上回る考えをあの探偵と練り上げたのか? でも黒木美里は関係ない。むしろ被害者になる。あのHDDに貯めた映像。ギャッ句を言えばそれが私の切り札。裏ビデオ会社にばら撒いたり、ネットやSNSにあげたら。しかし、もっと冷静に考えてみろ。美優は砂浜に座って酒を飲み、100円ライターで新しく火を点けた。有名AV嬢だって体で稼いでいる。無名だろうが何だろうが堕ちたものに、誇りもへったくれもない。そう、綾香がブちぎれていたら何のダメージもない。むしろ、私が名誉棄損で訴えられる。強姦だけじゃなく、面白がらせてやらせた万引き、器物損壊、何でもござれだ。そう考えるとゾッとする美優。 

 だが、現状、闇の部分以外全てがあやふやな、私の優位は揺るがない。やられたら倍返し。2倍じゃない3桁はやり返す。私は本土に行って、素敵なキャンパスライフを送るんだ! 私は煙草を吸って、空缶を海に放り投げた。

「ダメですよ。せっかくのきれいな海を汚しちゃ。」

私はヤニを咥えながら振り向いた。グレーのスーツ。長身の美人。目元の泣きぼくろがチャーミングだった。ワンカップを飲んで、きれいな夕焼けの浜を見て、私が捨てた空き缶を渡した。私はいきなりの知らない人間に警戒した。島民ではないと思った。

「ごめんなさい。イライラしてたの。」

「短気は損気。ご一緒しても?」

私が頷いて、グレーの女は少しだけは慣れて座った。ワンカップをおいしそうに飲んだ。私は自棄酒だってのに。母の顔がまた浮かんだ。

「アンタ。島の人じゃないよね。こんな上品な人いないもん。」

私の言葉に、カップ酒を置いて、バックからごそごそと名刺入れを取り出し、丁寧な姿勢で言った。

「いえいえそんな。申し遅れました。私。本土で、唐木法律事務所の藤田秋音と申します。ただの弁護士です。たまたま仕事が少なかったから。観光もかねて。」

へらへら微笑んでカップ酒を飲んで、美優はヤニを吸って大きく吐いた。

「私、名刺とか持ってなくて。すみません。相模美優です。」

「初めまして。相模さん。やっと傷害事件の聴取が終わって、報告書作る前に一休みしたくて。飲みたくなって一息入れてたらつい、あなた様が気になって。異例ですけど。」

「別に。やさぐれてたとこだったんです。鬼が来ようが悪魔が来ようがなんでもござれですよ。」美優は砂に煙草を押し付けて消して、空き缶に放り込んで、2本目を開け、また新しく火を点けた。

「ふふ。そうかも知れませんね。私は職業柄、鬼だの天使だのどうでもいい事ですよ。でも、自分のケジメ。やりたい事。それだけはっきりさせたいだけです。」

美優は飲んだばかりの酒を置いて、吹かして聞いた。

「どういう事ですか?」

藤田秋音は言った。静かにちょっとだけ酒を口につけて。キツめに言った。

「己の利を求める。それは、虫や獣にだってできる事。じゃあ人間とは何か? 何が違うか? 理性に基づき、他人ではなく、己を律し、罪と罰は違えど法にのっとって裁かれる事。私はどんな被疑者にもそれを「ケジメ」と言っています。様々意見がありますけど。」

藤田秋音はカップ酒を飲みきって立って、お尻の砂を払った。美優は不完全燃焼だ。

「ケジメとか言ってるけど、やった事に締め付けろって事かい?」

藤田秋音は冷徹な目で言った。

「ですね。」

そう言って、バックに空の酒瓶をしまって藤田秋音は去った。

藤田秋音の言葉に頭に来て「クソ!!」と言って、美優は砂浜を叩いた。あまりの正論に、何の反論もできなかった。

 砂浜から駐車場に階段を上がる藤田秋音。美優とは違う臭いの煙草の臭いに秋音はため息をついた。

「なぁに? 探偵業って言ってもここまで来たらストーカーよ?」

「そりゃこっちの台詞だ。人の商売の待ち合わせ場所に着たり、監視の邪魔したりなんでこんな頻繁に会うんだ? あのガキからなんか依頼受けたのか?」進藤律夫だった。

「依頼内容は守秘義務上言えないわ。彼女にも関わる事だから、お酒飲んで煙草吸ってたし、口も緩くなるかもってつけてたのよ。進藤君が関わってくるなんて思わなかった偶然よ。偶然。」秋音は微笑んだ。

「進藤君の妨害になったとしても私には私の仕事。進藤君には進藤君の仕事があるんだから、私達に利益相反は無いと思うけど。訴訟起こすならどうぞ? 進藤君のストーキングじゃないんだし、彼女に言われたら、ただ仕事の依頼上、話してみたかったってキッチリ言うわ。」

進藤がワカバに火を点けて微笑んだ。

「俺の第六感がこの女、嫌な予感がするっつってんだよ。

進藤の言葉に秋音はクスクス笑った。

「進藤君の第六感は昔からよく当たるものね。またバッティングしても怒らないでね。」

「口と性格の悪さ直さねぇと行き遅れるぜ?」

「進藤君は一生独身だから関係ないでしょ? また会いましょう。」秋音は去っていった。


 翌日の7月29日、私は昨晩というか、藤田秋音の事を思い出しながら、頭を切り替える事に専念し、メイクして、日焼け止めも万全。第一志望の大学の法学部の赤本とノートをバッグに入れて家を出る。サングラスをかけてバッグを自転車のかごに入れて図書館に向かった。自転車をこぎながら、自分の将来を考えた。有名大学に進学して、いい企業に就職し、できれば金持ちのいい男を捕まえて結婚、キャリアウーマンとして働きたい。子供に興味はないから、産んでも産まなくてもいい。英語はTOEIC600点くらいまでスコアを上げた。一応、順調と言っていい。

 目の前の交差点が赤になる。自転車を止めて周りを見たら視界に見慣れた女がいた。綾香だ。サンタナの窓際の席で誰か女と話している。私はサングラスを外して、サンタナのその女見た。アイドルみたいな印象の若い、ゆるふわ系の髪型。色白で目鼻立ちが整っている可愛い女だ。

気になった。うちの高校にもあのバカの友達にもあんな人はいなかったはず。交差点の右手が公園だ。公園に移動して、私は自販機で水を買いサングラスをしてベンチに座り、赤本を取り出して読んでいるフリをする。距離は大体100mくらいだろう。やはりあの女が気になる。あれだけ美人なら有名になるはずだ。だとすると当該の人間。島から出た事がないはず人間との接触、尚更気になる。SNSが発達した現代ならありえなくもないが。綾香が何のつながりで何の話をしている。にっこり笑って綾香の対面の女が席を立った。店から女が出てくる。私は、赤本に目を落として、ノートにメモ書きするふりをしながら見ていた。女は海の方へ歩いて行った。お前は一体誰なんだ。

 少し間を置いて綾香が出てきた。今すぐとっ捕まえて話を聞きたい。だが、堪えた。神童という探偵にしろ、母の本性の露呈、弁護士の藤田秋音も、また新たな私の支配の外の人間の登場。母は別として、知らない薮を自分でつつくのは危険を孕む。私は自転車にまたがって、図書館に向かう。気持ちは落ち着かない。だが、我が家の暗黒女王の血を引き継いだ気持ちの切り替えで、図書館で赤本の問題を解いた。答え合せすると平均で8割りは取れている。筆記試験はいけそうだ。心が落ち着いた。そして、水を飲んで考えた。これは使える。敢えて時間をおいた結果になったが、そこで第一舎弟の綾香に強めの揺さぶりをかければ、綾香すら他の舎弟を使って監視しているとカマをかけられる。

 家に帰って階段を上がる。自室に入り、エアコンのスイッチを入れてバッグを置いた。ベッドに転がって綾香に電話した。

「もしもし。どうしたの?」相変わらずおどおどした声だ。

無論、変な女弁護士の話はしない。探偵が動いている以上、蛇足は危険だ。

「今日サンタナで女の人と会ってたよね。木島で見ないきれいな人と。あれ誰?」

直球。一番効果的で威圧的な冷たい口調で言った。

綾香が随分黙ってる。タナボタだが、私にとっては予想通りの功を奏した感じがした。探偵の件でボコボコにしたんだから理由は立つ。

だいぶ沈黙が長いな。痺れを切らして口を開こうとした時だった。

「東京の美容師さんで、道を聞かれたんです。すごく気さくで、可愛い人で、暑いし、良かったらお昼一緒にどうって言われて、つい一緒に。」

東京の美容師? やはり島外の観光客か。随分と身綺麗にしていたし、美容師と言われても納得できる。そういえば、綾香が「美容師になりたい。」という話を聞いていた事があった。まぁ、本土の美容師の話を聞きたいと思ってもおかしくないか。

「そう。なんていう人?」

「えっとね。東上紗枝さん。友達と一緒に来たけど、つまらなくて仮病で、今日だけ一人旅だって。結構、気さくで奔放な人なの。」

まぁ、納得がいく理由だ。あんなバカやらかした綾香がすぐに思いつく言い訳じゃない。東上紗枝。まぁ、ただの観光客ならすぐに帰るだろうし警戒しなくてもいいだろう。

「ふーん。本土の人なんだ。よかったね。」

「うん。為になる話とか、いい学校教えてくれたし。」

「あ、そう。頑張ってね。」

 電話を切った。東上紗枝は警戒の対象から外した。最も警戒すべきはあの探偵。そして、一抹の不安ではあるが、綾香自身が性被害を理由に弁護士を雇った可能性も考えられなくもない。だが、売春で雇った金は全て私が管理し、帳簿もつけて抜かりはない。何十万も払える財力があるはずがない。

 父と兄が帰ってきた。夕食の時間だ。リビングに行って、もう一杯やってきたんだろう父と兄から酒と煙草の臭いがする。

「おかえりなさい。揚げたてを用意しますね。」

我が家の暗黒王、母はエプロンをつけてキッチンに向かう。父親はどっかりといつもの席に座り、母は油の温度上げる合間に、曇ったグラスとビンビールを用意した。今日は吸ってないから気づいたが、母と父からでは違うたばこの臭いがする。

「あんだ。こんなくだらない番組。」と言って情報番組に変えた。クソは「今日も暑かったぁ~」と言って、暗黒女王の母がにこやかに言った。

「先にお風呂でもいいわよ。お湯は張ってあるから。」

私は母の手伝いに行くと、恐ろしく冷徹で暗い目で油を見ている。オープンキッチンで中に入らないと見ない位置にチューハイが置いてあった。

「美優もゆっくりしなさい? 勉強で疲れたでしょ。」しれっと私のポケットに煙草を入れて来る。私は「うん。」とだけ言った。暗黒女王の本音は「くんじゃねぇ。」だろう。気を隠すなら森の中。ヤニの臭いを隠すもまた然り。母がペットボトルを飲むと日本酒の臭いがした。透明だからばれない。煙も酒も蚊来るなら森の中か。いつ暗黒女王が覚せいして毒を盛らないか心配にさえなる。私は黙って部屋に戻り、一服つけた。兎のぬいぐるみを抱きしめてベッドに転がる。

 あぁ。困ったなぁ。

暗黒女王に弁護士の話は絶対しない。残る問題は正体不明のあの女3人。風々亭に行ってもいいが、会う口実がない。目立った行動はできない。

 翌日。また図書館に行った。受験勉強のためだ。今日は別の第2志望の大学の赤本で、高得点を取る。でも、純粋に教科書や問題文を読んでいると、いつも目立って気になる教科がある。

 倫理だ。私が非倫理的な人間だからと言われればそれまでだが、数学や物理化学、歴史の様に4択で正解は〇と×しかない教科と違って、考え方や解釈が多様する世界で、絶対的な解を判別する理屈がハッキリ言って分からない。

 中国の思想家の孟子は性善説を、荀子は性悪説をとなえていた。私は性悪説を支持したい。人は生まれながらに悪である。だから”人為”をもって善となるしかない。それこそが尊い。冷徹なまでの現実論で、理に適っている。性善説の方がページ数が多いのは、大人の都合が見え隠れするダンテ、カント、ニーチェ。色々ありそれぞれの意見が矛盾している。それは構わないのだが、結局何を求めているんだ?

 とにかく、受験においては受かる事が目標だ。暗黒女王の芝居力の高さを学んで、〇になりさえすればいい。

 赤本で勉強を終えて図書館を出る時だった。

「あの。」

振り返ると藤田秋音だった。

「先日はどうも。ごめんなさい私は酔っ払いで絡んじゃって。」

「いえ、それはわた

藤田秋音が私の口に手を当てて、し~っという仕草をした。何故ここに来ていたのかとここにいるかが気になった美優。静かに微笑んで見下してくる。どう考えても私の何かを探っている。何か走りたいが、何も知らない普通の女子高生を暗黒女王の真似をして演じよう。探偵に対する態度と同じだ。本来、私は思い通りにならない事が大嫌いだが、致し方ない。

「ごめんなさい。突然。なんか、代理人を怒らせちゃって。本当は私悪くないのにね。細かい事は言えないけど、相手の思い通りいならないせいか、とにかくキレちゃって。」

「へぇ。弁護士さんも大変ですね。犯罪者相手も大変そうですもんね。」

その時の秋音の目はゾッとした。積年の恨み重なる宿敵でも見る様な。先日あっただけなのに。だが、秋音はすぐに微笑んだ。

「またお話ししませんか? 礼の傷害事件とは別件で、依頼に関する方になりますし。お酒も煙草も見なかった事にしますよ。」

とんだ悪徳弁護士だ。だが、弁護士相手に喧嘩売る程、私はバカじゃない。愛想笑いで、自転車を引きながらコンビニでチューハイと煙草を買った。常備している100円ライターを確認し、ほぼ素通りのレジを抜けて、秋音はスマホをいじっていた。酒も煙草の凶はしない。ガチって事か。私は探偵相手よりも警戒した。

 海岸沿いで風通しのいい林の弁日に座り、私は訳を飲み、煙草に火を点けた。

「本当は付き合いたいけど、お仕事が絡みますので。」

「そりゃそうですよね。今藤田さんに通報されたら全力で逃げます。」

秋音はケラケラ笑い「そんな事しませんよ。6歳で煙草や酒を覚えるひとも相手にしてますし。理由になりませんけど。」

 私は内心、話を合わせながら、危険人物度が進藤を超えて藤田秋音になった。

「同意書などはございません。お話しだけ聞きたく。」お

だからそれが何だってんだよ!と思いつつ「わかりました。」と言った。

「口頭ですが、依頼者様は今野和代様です。失礼ですが、美優様のお兄様とだいぶ深い関係にあり、堕胎も指示され、弊所に電話にて伺わせていただき、偶然ですが、この島で短刀もあったので、ついでにという事で。」

私は飲んで、吹かした。あのクソ堕胎まで指示したのか。

「実は、今野様は堕胎したとお兄様に仰られた様ですが、実際はしておりません。」

コイツは困った事になった。探偵と弁護士、もう加藤春香で遊ぶなんて悠長な事を言ってられなくなった。今野和子は妊娠中なのか。

「ご本人の御意志では、シングルマザーでも産みたいという事で、法的に、結婚もしていないので、問題ないけれども悪評が立つと、なんというか。怖いと仰られていました。それで、法律家からすれば、ご本人の意思で婚儀となりますので問題ないのですが。この島独特のネットワークで、こんなが誰の子を産んだんだとなると・・・。それをかなり懸念されておりました。言わなくても大丈夫ですが、産婦人科での父親の詳細の秘匿はそれなりの理由が必要になりかねません。小説の世界ではないのが現実です。ただ、今野様は、できれば一緒に育てたいと。今野様が誰かの子を産んだ。それで済めばいいのですが。」

私は酒をまた飲み、また吸った。あのクソ、どこまでクソなんだ!

「それで、美優様に相談したいのが、今野様と結婚は出来なくても、親権は全権、今野様に移譲させて頂きたく。本来はお兄様に直接言う事なのですが、申し上げにくいのですが、お兄様の性生活もかなり派手と調査済みですので。色々聞いたのですが、今野様と懇意で、お兄様を説得できるのが美優様かと。」

内心焦っていながら美優は怒りの絶頂寸前だった。酒と煙草で一呼吸おいて、頭を切り替えて言った。

「カズちゃんと、兄がそういう関係だっていうのは正直知ってました。妊娠も。堕胎とかそんな乱暴な話は知りませんでした。そもそも、私が兄を説得するよりも、お互いの両親が話し合うべきじゃないですか?」

「いえ。それは済んでおります。結論から言って、平行線です。立ち合いましたが、今野様のご両親は激怒。相模様のご両親は、お父様が考えさせてくれと。お母様は無言でした。決裂した結果、親権は全部和子のものだという主張。しかし、相模様のお父様は、まず、待ってくれ。考えさせてくれという事で終りましたが、今野様のご両親からの連絡ではなしのつぶてらしく。私の勝手な判断で、依頼人である今野様と懇意になさっている美優様にご助力いただけないかと。」

ブちぎれながらも私は酒を飲んで考えた。

「じゃあなに? 和ちゃんと仲いいし、兄も両親も説得するには私しかないっての?」

「大変失礼ながら、ご助力いただければ幸いにございます。」

秋音は頭を下げた。美優は吸って、2本目を開けて飲んだ。とんでもねぇ事になった。あのクソ親父が嫌がる理由はクソのガキだとか会社にバレたら立場が危うい。こんな小さい島邪すぐバレる。暗黒女王はそもそも興味がないんだろう。それでお鉢が回ってきたって寸法か。

「私、法律家を目指してますけど、示談金とかで何とかなりませんか?」

藤田秋音がため息をついた。癇に障る女だ。

「今野様のご両親が絶体に納得しないと。極めて汚い言葉ですが、クズはクズなりに責任を取れ責任! と全く応じず、相模様側も沈黙している状況です。」

私は脱力した。最悪の展開だ。お人形遊びしていたつもりが、こんな大事に。あのクソはどこまでクソなんだ。冷静に深呼吸して、煙草を消して、チューハイを一気飲みした。

「時間をください。父の様にだんまりするつもりはありません。妊娠しているとなると機関もありますもんね。ですが、堕胎をこちらから望む事はできませんか?」

「結論から言うとできません。あくまで突発的な事故でもない、合意の上の性交渉、強姦は強姦でお兄様が重い罪に罰せられます。職も失うでしょう。先程申し上げた通り、突発的な事故や自然災害でない限り、医療行為は両者の同意なしに敢行する事はできません。親権についてであるとか土地柄の換算は私にはわかりかねますが。」

1秒でも早く退散してくれ。こっちとしては自己だよ! 立派な災害だよ! 私はブちぎれて空を見上げて、必死に抑えている。

 秋音はその様子を見てニヤッと微笑んだ。

 私は考え直した。「ん? まてよ? こいつ今「すんなり結婚するか。」といったな。という事は今野和子が本命ではないと両家ともわかっている。

「妊娠がわかったのはいつですか?」

「数週間前と聞いております。」

私は考えた。だったら、会社の他の女か社外の女か誰でも構わないが、今野和子じゃない誰かの子供だとわかれば? ただ、今野和子がクソ並みのビッチという事になり、難癖付けてるんじゃないか。となれば、こっちの問題も解決するし、産まれたからと言ってDNA鑑定する必要なんてない。暗黒女王の血がドクドク脈打つのを感じた。

「ごめんなさい。頭混乱しちゃって。両親も説得できないのに私が説得できるとは思えませんし。」

「そうでしょうね。きっと。」やっとあきらめてくれたのかだが、暗黒女王の血が極悪案を思いつかせた。

「ごめんなさい。考える時間をください。」

「えぇ。っ勿論です。ご両親やお兄様とは難しい論議になるでしょうが。ご検討の程、なにとぞよろしくお願い申し上げます。」

秋音はぺこりと頭を下げた。

「いえ、こちらこそ。お時間取らせ、こんなクソみたいな案件。」

「いえ、私も八方塞がりでしたので。美優様にご助力いただけるとなれば幸甚です。」

藤田秋音が頭を下げた。

 私の悪魔の発想はどんどん計算され、検算し、話は通っている。

「では、失礼いたします。」

「いえ。こちらこそ、家族なのに知らない事ばかりで。」

美麗男頭を下げ、藤田秋音は去った。

 藤田秋音が去ったのを確認して、煙草に火を点け、私はスマホを手に取った。

なかなかでず、イライラしていた。

もうこんなのなの嫌だ。本土に行って、全部リセットしたい。

 一度切って、吸って、煙草を浜辺を歩いた。

イライラしながら、暗黒計画を反芻した。煙草を吸いながら夕日を眺める。新しく煙草に火を点けて、やっと出た。

「もしもし。ごめんなさい。電車の中だったから。」

黒木綾香。相変わらずおどおどした声だ。

「ねぇ。私の最後のお願い。聞いてくれる?」

「また、なの?」

「これが最後。これが終わったらあの柔道部の負け犬とか、みんなに私が責任をもってあなたに手を出させない。約束する。」

人混みが小さく聞こえる。随分長い沈黙だ。私は待った。綾香の気持ちもわかる。地獄の様な売春生活が終わる。それが嬉しいのかもしれない。だが、それをさせ続け、結末は暗黒計画だ。

 さっさと答えろ。

 1分くらいだろうか。やっと声が聞こえた。

「本当に?」

「本当よ。こんな事した私が悪かったわ。アナタだって夢があるのに、極悪非道に振り回して、ある人と話して、自分を恥じたわ。最後のお願いだけ。全額渡すし、もうそれ以上しない。絶対に絶対の約束。」

即答した。心にもない事を言った後、綾香の声を待つ。イラつく。泣き声が聞こえた。

「散々裏切ったんだからこの前以上に渡しをボコボコにして。」

「そんな事しない。」鳴き声だった。

良心的な言葉に聞こえるかもしれないが、実質最後の売春依頼である事に変わりはない。うかつな事は言えない。沈黙は金。最近身に染みる程味わった教訓だ。まぁ、逆らえない様にデータは持っておくが。

「誰と?」

私はその言葉を聞いた時、心の中がスカッとした。闇が遂行される。

「相模雄太。」

また沈黙が続いた。だが、私はたたみみかけた。

「手筈は整えるし、ゴムも厚めのを渡すわ。本当にこれを最後にするわ。」

「お兄さんと?」

「理由は聞かないで。でも、約束は必ず守る。」

沈黙の後、「わかった。」と聞いて、私は電話を切った。

 もうこれでおしまいにしよう。

 赤い古い車。80年代のシティハンターで冴羽亮がのってた愛車。煙草を吸いながら、スマホが鳴って、女が出た。

「そう。かかったわね。私も半分以上嘘ついたけど、立証する証拠は手はずは整えたし、の所在もわかってる。黒木さん。アナタが心配する事は何もないわ。私に協力してくれてありがとう。」

美優の後姿を見ながら女は電話をきって、煙草を吸い、大きく吐いて、キーを回した。

「さて、仕上げにかかろうかしら。ムショの飯がどんなもんか。今のうちに美味しいご飯食べとく事ね。」

藤田秋音が車を走らせた。


  五、闇と影

 2017年 7月29日 渋谷ちさ。

 今日は3人で別行動だ。涼子が、これだけ行き詰った状況で、3人で一緒に動いていても効率が悪いという。涼子の提案に2人とも賛成した。確かにそうだ。ちさはまた近藤家に、不審点、不審者の確認。足立は漁協に聞き込み。涼子は山の方に行くと言った。相模家ではない。サガミヤの工場の近くに聞き込みをすると言っていた。朝ご飯を食べて、同じバスに乗り、3人別々の停留所で降りた。

 ちさは近藤家の住所を、スマホで確認しが、途中で道に迷った。困って近くのコンビニでも探そうかと思ったが、コンビニもない。どうしようか悩んでいた時に声が聞こえた。

「あぁ。近藤さんからはもうお話を聞いています。えぇ。えぇ。わかりました。では失礼いたします。」

グレーのスーツで腰まで伸びるきれいな黒髪の女の人がいた。どこかで見た様な気もする。関係者かわからないがダメもとで近づいて聞いてみた。

「あの。すみません。」

振り返った女性はとてもきれいな人で、左目の目元に泣きぼくろがあった。私よりもずっと背が高くてカッコイイ人だと思った。

「何でしょうか。」と優しく、ちょっと気だるそうというか、低血圧な話し方をする人だ。

「あの。近藤さん。近藤将太さんとか近藤洋子さんの家を探しているんですけど道今世茶って。近藤さんって聞こえて、もしかしてご存知ですか? もちろん! 盗み聞きじゃないんです。私、前来た事あるんですけど車だったから。わかんなくなっちゃって!」

女の人は微笑み、スマホをいじって教えてくれた。

「私が言ったのは確かに近藤さんです。でも、気をつけてください? この辺、近藤さんが2軒ありますから。でも将太さんとか洋子さんならこっちだと思います。」

女性が丁寧に説明してくれた。自分のスマホの雑な地図と見比べ、記憶を頼りに、こっちだろうと確信を持った。

「あ、いえ。ありがとうございました。」と頭を下げると、「いえいえ。」と言って女性は去った。見慣れた道に気づいて近藤家にたどり着いた。

 インターフォンを押すと気の抜けた様な声がした。

「渋谷ちさです。先日お会いした。」

「あぁ。はいはい。捜索隊の人ね。またきたの?」

インターフォンがブツッと切れた。おばさんの順子さんだとわかった。ガラッと玄関が開いてニコニコ笑って寄ってきた。ちさは深々とお辞儀をした。

「先日はどうもありがとうございました。」

「あらあらいいのよ。中に入って。洋子ちゃんもいるから。男どもはどうせ港で飲んだくれてるから気にしないで。」

居間には近藤洋子がいた。近藤洋子は立ち上がって「どうも。」と優しく微笑む。ちさはお辞儀をして対面で正座した。すぐに順子さんがお茶とお菓子を持ってきた。

「何かあったの?」洋子さんが聞いてくる。

「いえ、有益な情報はなくて。でもお尋ねし忘れた事があってまた来たんです。」

洋子さんの表情が曇っている。

「昨日も一昨日も同じよ。ハルちゃんは私に何にも残してくれなかった。」

「違うと思うんです。」

ちさの言葉に洋子は顔を上げた。

「昨日、涼子が言った事って間違ってないんだと思います。もし、婚約者が本当に嫌いで結婚なんて、親の都合があっても断る強さを、姉さんなら持ってる。そう思います。でも、私にとって、姉さんはその裏に確かな優しさを持っている人でした。洋子さんに悪い事したっていう気持ちだけでも十分ですけど、たったそれだけで姉さんは洋子さんに会いに来たりしないと思うんです。自分で解決しちゃう責任感の強さ。その優しさの片鱗を、あなたが持っているんじゃないかって。今でもそう思っています。だから来たんです。涼子が聞けなかったことも含めて。」

洋子も順子も黙った。数秒たっただろうか、洋子が口を開いた。

「本当にハルちゃんの友達なのね。先に言っておくけど、私は本当にハルちゃんの居場所を知らない。でも、でもね、思い当たる節はあるの。」

「洋子。」

「いいのよお義母さん。ここまでハルちゃんの事わかってくれる人だもん。」

洋子が居住まいを正し、順子は伏し目がちにいた。ちさの眼はまっすぐだった。

「私もそう思うの。ハルちゃんって、昔は気が弱くておどおどしてたけど、本来持ってる感情はとても優しい子。私はそんなハルちゃんが大好きだった。私が知ってるハルちゃ

んが、あなた達みたいに真っ直ぐで純粋な子と親友だってわかるの。女の勘っていうのかしら、何か変だとは感じていたのよ。今のあなた達の様にね。」

ちさは洋子さんに素直な感情をぶつけてみた。

「加藤公子さんは、姉さんのお母さんは、少なくとも居場所を知ってますよね? そうじゃなきゃあんな態度とれないですもの!」

順子が目を泳がせて洋子を見た。洋子は動じる事なく、ゆっくり口を開いた。

「知らないって言ってたわ。あの人、元々は本土育ちだからか、あしらわれてるのか、わからないけど嘘は上手いわよ。でも、本当に知らないとは思う。ちささん? アタシってそんな真贋も見極められにくらいバカに見えるかしら?」

ちさは首を振る。

「あなたが言うのと少し違うみたいだけど、アタシもハルちゃんを信じてる。何かを守ろうとする時のハルちゃんは嘘がへたっぴで、自分を曲げない事に注力する。公子さんみたいに器用じゃないの。今回も同じ気がするの。ハルちゃんにとってそんなに大事な人って一体誰なのか。それはわからないけど、悪い人な訳ないって思ってる。」

「心当たりも、ありませんか?」

洋子はため息をついて頭を下げた。「ヨウちゃん!」順子が言うが洋子さんは言った。

「ごめんなさい。探偵さんが朝早くに来たの。あなた達と同じ回答をしたわ。私にもわからないって。全然ね。でも不思議な事を聞いてきたの。」

ちさは身を乗り出した。何か些細なきっかけでもいい。情報が欲しかった。洋子さんは静かに口を開いた。

「2人の弁護士やフェイラムさんから連絡はありましたかって。ちゃんと答えたわ。弁護士の肩はきていません。フェイラムさんは紹介しました。それと、絶対に秘密にするっていう条件で、アナタ達3人の名前を出したわ。広池と会田の同級生だって。それだけ。」

「えぇ。まぁ。その程度は構いません。ですが弁護士?」

ちさは不思議がった。確かに将太は傷害事件を起こしたと聞いたが、洋子さんもなかなか機転の利く人で、もう終わった裁判なのに、概要は男の弁護士が聞いてきたという。ちさは不思議に思った。裁判所に、異議申し立てでもしたのか。本人尋問も済んで、終ったと思ったら、女の弁護士がやたら喰いついてきたという。ちさは聞いた。

「概要については触れなかったわ。ただ、幼少期を過ごした知己として、将太や雄太さんをどう思ったかとか。島に帰ってきて言動は? とか。交友関係も。私も変な所に話を突っ込んで来る弁護士さんだったなって思ったわ。藤田秋音さんだったかしら。男性の方は印象が薄まっちゃって町田さんだったかしら。」

ちさは方角に詳しくないが何十万もかかる大怪我の傷害事件でもないのに2人もつく者だろうか。女弁護士は、男の町田弁護士が仲裁に入る形になるまで、相模雄太の交友関係や評判を詳しく利いたらしい。

「2にも就くなんて。聞いた話じゃ将太さんが怒りに任せて、全治2週間の怪我だったとか。骨や歯に損傷もなく。」

「えぇ。1人は事件の詳細についてそれを聞いたけど、女性の方は人間性を問いただす様な質問が多かったわ。あなた達に、将太や私がした話をして終わったけど。」

「確かに変な弁護委ですね。ドラマでの奇才弁護士なのかもしれませんが。」

「ううん。ただ変な事聞いてくる普通の人だったわ。変な事聞いてくるだけで普通じゃないかもだけど。」

近藤順子は席を立って台所に行った。ちさと洋子さんはクスクス笑った。少しして、洋子さんが口を開いた。

「ハルちゃんは、とても優しい子なの。」

近藤洋子が話し始めた。

「昔から、いきもの係を率先して立候補して、放課後はいつも動物小屋にいた。職員室に捨て犬を連れて行って、先生に学校で飼ってくれる様にお願いしたり、動物の様子が悪いのをすぐに察知して職員室に駆け込んだりしたり、本当に優しい子。体はおっきいのに気が弱くて、見てられなくて。」

洋子さんがお茶を飲んで、ため息をついた。

「ハルちゃんが連れてきた犬が学校で飼われたの。動物小屋の近くに、ホームセンターで売っている犬小屋を買って綱をつけてね。ある時、男の子達がその犬をイジメていたの。綱の届かない遠くから石を投げたりして。普段から吼えられて、その男の子達はあの子を嫌っていたの。すごく吼えて対抗しているあの子を、ハルちゃんは抱きかかえていたわ。私はすぐに将太に助けを求めたんだけど、その間動けなくて、おろおろしてたわ。私。男の子達は笑いながら石を投げて。本当に最低な奴ら。私の無力さ。度胸の無さ。一番自分が嫌いになった時だったわ。将太と友達がきてくれて、その男の子達を追い払ってくれたわ。ハルちゃん笑ってた。石が当たったのか、顔に傷があったけど。優しい笑顔であの子を撫でてたの。」

懐かしく、微笑む洋子さん。

「久しぶりに島に帰ってきて、言葉遣いには驚いたけどね。まるで別人なんだもん。辛い事あったんでしょ? あの時、渋谷ちさって聞いた時に思い出したわ。ハルちゃんが助けてくれたって。ハルちゃんは助けたつもりはないって言ってたけど。」

「じゃあ、なんて?」

クスクスと笑いミシェルさんを思い出す優しい眼で言った。

「聞いてられなかった。見てられなかった。ただそれだけだって。ぶっきらぼうな言葉だけど、ハルちゃんらしいよね。」

私は必死に涙をこらえた。少しでも気が緩むと涙が溢れてしまう。変な顔をしていたのかもしれない。洋子さんティッシュ箱をとって、ちさの目の前に置いた。ちさは顔を1枚とって、拭い、堪えた。

「あら、盛り上がってるみたいね。」と近藤順子が戻ってきた。淹れ直した暖かいお茶をくれた。頭を冷静にする。感情とのバランスは大変だが、深呼吸でなんとかした。

「それで、この前の話と重複しますけど、2度も断った婚約の理由など姉さん何か言ってませんでしたか?」

洋子さんは数秒、何か考えて口を開いた。

「なにも。この前話して感じたからわかると思うけど、肝心な事は言わないのよ。あの子。精々言ったとすれば、長野の経験で獣医を目指したいから。頑張るって。本当に昔のLINEだったけどね。私の予測でしかないけど、会社の圧力とかあって。自分の夢と、会社に隷属するのが気に入らな買ったんじゃないかしら。」

ちさがくすくす笑うと大げさな順子おばさんがゲラゲラ笑った。

「らしいねぇ。ハルちゃんらしい。」

 話を合わせながらちさは考えた。一言で言えば、自分の信念にブレはない。それだけ

「あ、そうだ。」

 西日が強くなってきた頃、ちさはお邪魔する事にした。

近藤順子が宿まで送ってくれるといい、ちさは甘える事にした。車内で近順子がおもむろに口を開く。

「私達も心配してるの。見つかったらぶん殴ってからうちにも呼んでね。」

近藤順子が、春香のお母さんと同じ事を言ってつい笑ってしまった。

宿の前に着いた。丁寧に挨拶をして、近藤順子は宿を去った。

 結局収穫は無かったが、部屋に入って、冷蔵庫からビールを取り出してくつろぐちさ。ベランダに出て、夕暮れの湾を肴にグビグビとビールを飲む。涼子と足立さんがとんでも情報を持ってきてくれるのかなと、淡い期待をしながら湾を眺めていた。


 同日 足立澄子

 涼子とちさと分かれて調査した日の事だ。私は安藤秀作という男を捜していた。三島さんから教わった人間で古くから島にいる漁協の古株で、親分的な存在だとか。とりあえず市場に行って聞き込みをした。気さくに話しかけてくる兄ちゃんに食事を誘われたが、断ったついでと言っちゃなんだが「安藤秀作さんって知りませんか?」と聞いたら、怪訝な顔をされダメ押しで、三島さんの名前を出したらすぐに納得した。この時間はいつも市場の定食屋にいるとか。

 「らっしゃい!」と元気の良いご主人の声。小さい店を見渡すと、ひときわガタイのいい男と相席になった。肉体労働を常とする漁師は皆ガタイが良い。その中でもこの男は、ひときわ大きい、まるでアメリカのプロレスラーの様な体格にピチピチの白いTシャツの白髪の男だ。私は「失礼します。」と言って静かに座った。三島さんから聞いた話だと外見は安藤秀作に合致している。巨漢は何も言わず食べている。やたらと注文をせかす女将さんに戸惑った。目の前の巨漢が食べているアジフライ定食を見て「同じものを。」と頼んだ。巨漢の食べているアジフライ定食はご飯の量もおかずの量も特盛だったから「少な目で。」と女将さんに言った。女将さんはさっさと通して厨房に戻った。随分とスピード感がある対応だ。

 目の前でバカみたいな量のご飯とおかずを食べ続ける巨漢の姿に面食らった。揚げ物、刺身、大盛りのご飯と味噌汁、サラダもすごい勢いで食べる。2杯目の大ジョッキのビールも飲んでいた。小盛のはずのアジフライ定食でも、そこそこ大食いの私でもギリギリだろう。これが漁師町っていうものなのだろうか。私の目の前の巨漢は「おかわり!」といって大ジョッキをもう1杯頼んだ。昼間からどんだけ飲むんだ。豪快な人だ。

「はいよ! シューさん! 今日もとばすねぇ。」

澄子は思った。 ん? シューさん? 三島さんから聞いた話では安藤秀作はシューさんと呼ばれているらしい。こんな偶然があるものだろうか。グビグビと巨漢が飲む。「あぁぁ~~。」と気持ち良さそうに唸る。息が臭い。

 私の分のアジフライを食べると、とてもジューシーで美味しい。肉厚でタルタルソースが最高に合う。ご飯も、もちもちで美味しかった。

「あんた、本土の人かい?」

目の前の巨漢が喋った。あまりに急な質問で驚いて顔を上げた。

「心配すんな。ただの世間話だよ。」

印象は気さくなおじさんだ。酒を勧められた。別に運転はしないし、断ると会話の糸口を失いそうだったから頷いた。巨漢は豪快に笑い、大ジョッキを傾け、私は「生中!」と言った。

「女の一人旅は良くねぇぞ。腰振るしか能が無い奴もいるからよ。」

急に店が静まり返った。よくわからないが、さっきまで威勢が良かった女将さんも黙っている。何か気まずい雰囲気だ。巨漢はバカみたいな勢いで大ジョッキを空にして、もう1杯大ジョッキを頼んだ。どんな肝臓をしているんだ。

「シューさん、アンタもう4杯目だよ。気をつけないと。」

「正一を迎えに来させるから大丈夫だ。」

「そういう事言ってんじゃないの!」

巨漢はゲラゲラ笑った。私達のジョッキが来ると乾杯した。「おめぇ面白いねぇちゃんだな!」と笑った。

「見ねぇ顔だな。観光かい?」

「えぇ。まぁ。」「個々の味はただでも美味ぇけど、らるらるがやるぜ!?」私は一口食べて、親指を立ててぐーぐー!ともぐもぐしてサインした。巨漢は笑ってビールを飲み、「ババア! この姉ちゃんにタタキもつけてくれ!」「シューさんにつけるからね!?」

 名前を聞いたら安藤秀作で間違いなかった。東京から孫が帰ってきていて楽しいらしい。こわもての巨漢だが、中身はデレデレのおじいちゃんだ。お孫さんの話が始まると止まらない。私も名を着イカレ、足立澄子と言ったが、「しらねぇ。」竹を割った様な無礼な漢だ。安藤秀作がいい気分んで飲んでいる。頃には他の客は仕事の為か、店を出た。

「ねぇちゃん。この島のどこに行った? 観光スポットなんてそんなにねぇだろ。」

「いえ。フラフラと歩きまわってて。それに、えっと。」

少し考えた。今、カトハルの事を切り出すタイミングかどうか。下手をすると島の番長の様なこの男に警戒されて、情報を掘りだせないかもしれない。だが、ここまで来て収穫もなく、今更悩む事ではないかもしれない。

「なんだい?」

澄子の大きな口でアジフライを噛みながら、箸に乗る限界くらいの量のご飯を口に入れて咀嚼しながらまっすぐ安藤秀作を見た。私は腹を決めて口を開く。

「昔の友達に会いに来たんです。名前は加藤春香。この島にいるって聞きました。」

ド直球。技も一切聞かせないストレート弾。安藤秀作はきょとんとした。

「へぇ。ねぇちゃんくらいの年頃の娘なら大体知ってるが、最近聞いたなチューのせがれが探してるとか何とか。」

テーブルに箸を強く叩く澄子に安藤秀作がビールを飲む手が止まった。急に視線が鋭くなる。澄子は恐怖を抑え精一杯の眼力をした。精神力が急激に消費する。体力すら削られていく気がした。静かだ。ビールを飲むペースを増やす。

澄子は何か言葉をひねり出さないとと思った。

「日本酒のみてぇな。ねぇちゃんも飲めるかい?」

私が頷くと安藤秀作がビールをあけて席を立った。

「あいそ!」と言って女将さんにお金を渡す。澄子は聞く。

「ここで飲まないんですか?」

「日本酒は海を見ながら飲むのが一番うまいんだよ。」

静かで低い声で淡々と支払いをした。私も支払いを済ませた時、安藤秀作はとっくにいない。逃げられたのか。周りを見渡すと店の前のお土産屋にいた。安藤秀作が。カップ酒を4本持ってレジにいた。私が追いかけて店に入り、酒を選んでいると「野暮は漢の恥だぜ? 欲しいもん並べな。」要は金はいらんという意味なのだろうが、澄子は「いや、アタシ女だし。」と思った。安藤は支払いをしながらおばさんと談笑をしている。

 長話が終わり夕方近く。

 安藤秀作についていくと、誰かに電話していた。すぐに切って「こっちだ。」と言った。市場を抜けて船着場に着いた。ある船の前で立ち止まり「船酔いは?」と聞かれた。首を横に振った。安藤秀作は船に乗った。多分自分の船なんだろう。船は波に揺れて、はっしと力強い剛腕が澄子を握った舟は前後左右に揺らぐ。バランスをとるタイミングが掴めない。安藤秀作は鼻で笑って、大きなゴツゴツした手が私の手を握ってひょいっと船に乗せてくれた。ゴツゴツの手から想像できない優しい手付きで、私はいつの間にか船に乗っていた。安藤秀作は操舵室に行って席の座布団を持ってきた。自分は鉄の床に座り、隣に座布団を引いて「座れ。」とだけ言った。

私はそんなにきれいな格好じゃない。動きやすい青色のスキニージーンズに普通のスニーカー。でも安藤秀作の厚意に甘えた。安藤秀作は黙ってカップ酒を2つ開け、1つを私に渡した。乾杯して1口飲んだ。少し揺れる船の上で海を眺める。

 少しずつ動く景色。青と緑。夕焼けもあって混じった海の色。気持ちのいい潮風。宿から見える湾の景色も好きだが、少し動きが加わると、こんなにも風情が変わる。

「いいだろ。酒を飲む時はこれが最高だ。俺の船で俺の好きな海を眺めて、俺の好きな酒を飲む。仕事とメシの終わりにゃ、最高の気分だ」

安藤秀作を見ると優しい目で海を眺めていた。

一瞬、目的を忘れた。違う出会い方をしていたら、私はこの人に惚れただろう。

寡黙でぶっきらぼうだけど、たくましくて、頼りがいがある、酔っ払うと気のいいおじさん。優しくて女性をエスコートしてくれる。おまけに、こんな特別で素敵な景色を見せてくれて、一緒にお酒を飲んでいる。少し揺れているところも少しドキドキする。吊り橋効果っだっけ、こういうの。この人の奥さんは幸せ者だ。いい意味で、私の男を選ぶハードルが上がってしまった。

 少しの間、沈黙のまま景色とお酒を楽しんだ。カップ酒を空けて、安藤秀作は2本目をあける。1口飲んで、私に聞いた。

「春香ちゃんは?」私は首を横に振った。

「見つかんねぇのか?」と聞かれ「はい。」と答える。「そうか。」と言って酒を飲む。少し黙ってから安藤秀作が話し始めた。

「少しだけ、昔話をしていいか。」私は頷いた。

「春香ちゃんはこの島の出身で、気が弱い女の子でな。動物が好きで優しい、いい子だったよ。洋子ちゃんと仲が良くてな。」

聞いた話だった。カップ酒を1口飲む。その後も知っている情報が続いた。東京本土に出た事。帰ってきた事。長野に行った事。山の噂じゃ2度もあった婚約話をどっちも振ったった事。そしていま行方不明な事。近藤家に突然現れ去った事。やっぱりダメか。早くも暗礁に乗り上げた。だが、耳を疑う発言があった。近藤奨太の話だった。

「恥ずかしい話だが、将太が相模の長男を怪我させた時、俺の息子もいたんだ。正一っていうんだけどな。警察に行って話聞いたら、突っかかってきたのは相模の方で、奨太は悪くねぇって。俺もそう思う。だが手ぇ出した方がわりぃ。俺の若けぇ頃とは違ぇんだ。あのバカは少し感情的な方だが、人を殴る程のバカじゃないよっぽど喧嘩売られたんだと思う。数日ぶち込まれてたが、示談で釈放だとか。その後、将太と話した。弁護士が2人来たそうだ。」

「2人?」

澄子は不思議に思った殴ったかどうかの、しかも重傷じゃない傷害事件。2人も弁護士をつけるなんてやり過ぎか相当過保護か。裕福でもない近藤家が親心で用心の為かもしれないが2人もつけるか?

「あぁ。1人は男で、もう1人は女だったって。女の方は1回だけ来て、全部やってくれたのは男の方だったそうだ。まぁ、同じ法律事務所の人だったらしいが。」

尚の事不可思議司法修習生の実地体験なんてやってるならまだしっもどっちもそれなりのプロだったらしい。担当者が増えれば銭も重なる。どう考えても、事件の大きさと担当者の人数におかしさを感じた。澄子も法律はかじりたての鼠みたいなもんだが、変だ。

「奨太が言うには女の方は変な質問が多くて、男の方が止めたんだとか。相模雄太の話を聞きたがって、肝心の事件の原因や流れ、は全部男の方が聞いたんだとさ。」

「その人の名前、わかりますか。女性の方の。」

安藤秀作がカップ酒を飲み干した。最後の1杯を私に見せる。私は首を横に振る。安藤秀作は黙ってふたを開けた。1口つけて大きなため息をついた。

「藤田? 藤野? そんな様な名前だった気がする。忘れた。将太に聞きゃあいい。」

もっともな答えだ。だが、近藤奨太と関連があるのか? さっぱり、澄子にはわからなかった。いろいろ話を聞いたが、結局、カトハルの居場所を突き止められる情報は、安藤秀作から得られなかった。

 またか。どこに行っても行き詰る。漁協での探索は自分達より将太の方が阿吽の呼吸があるだろうと思った。

 クラクションが鳴った。振り向くと軽自動車から男が手を振っている。安藤秀作は慣れた手つきで船から澄子を降ろす。ビニール袋と安藤秀作をみて、男はため息をついた。

「親父。さすがに飲みすぎだろ。なにナンパしてんだよ。」

「え! そんな! 私の方から聞きたかったんです! 加藤春香さんについて!」

数秒して頭を抱え「またか。」と小声で呟いた。

「この姉ちゃんはハルちゃんの事知りてぇっていうから折角だからいい所で

「それをナンパっていうんだよ。バカ親父! 母ちゃんに言いつけるからな。」安藤秀作が舌打ちして立ち上がり、荷台に胡坐をかいて座り、腕を組んだ。軽トラがぐらぐらした。私が転びそうになるところを男が支えてくれた。秀作さんがいう、息子の正一だろう。精悍な顔立ちの秀作に似た海の男っていう雰囲気だ。私は助手席に座らされ、「行先は?」と聞かれ「風々亭。」と言って、カーナビに入れて、キーを回した。軽トラは後ろに重量が傾いている。不機嫌そうに残りの日本酒を飲んで口を真一文字にして前を見ていた。

「あ、あの。そんな事は無かったんですよ。ただ。」

「わかってるよ。んなこと事する親父じゃねぇ。ただの家族ジョークだよ。ま、親父に勝てるのは母ちゃんだけだけどな。」

安藤正一が発車し風々亭に向かった。

「そういや聞いた事があるな!」

妙に大きな声で安藤秀作が腕を組んで叫んだ。正一は黙っていた。

「おいねぇちゃん、酔っ払いの戯言だ。聞こえねぇだろ!」

いや、充分聞こえる。

「2度目のハルちゃんの婚約破棄の後、この島に妙な連中がうろつくってな。やれ弁護士だの探偵だの。ここ60近く生きてるがな奴等に世話になった事もあった事もねぇ。ちいせぇ島だから噂は疾風電雷だ。一体全体なんだかな!」安藤秀作が酒を飲んで天を仰いだ。

「お回りも約似た茶しねぇ。クソくだらねぇニュースばっかでよぉ!」

「親父! そのお巡りに捕まるぜ。バカでかい声でんな事言ってりゃ。」

安藤秀作が静かになった。澄子はついおかしくなって小さく笑う。

「わりぃな。口は悪ぃし、人様にも自分にも厳しいんだ。あのクズ。」

「聞こえてんぞぉ!」

澄子は微笑んだ。

 風々亭まで送ってもらって、丁寧にお辞儀して、フロントに行くと2人はもう帰っていた。もう夕暮れ。交通の便が悪いんだから、移動に時間がかかって当たり前か。

 部屋に帰るとちさがいた。

「おかえり。」「ただいま。」

荷物を置いて座椅子に座る。ちさの表情は明るくない。私が言えた義理じゃないが、ちょっと酒臭いし、朗報も期待できない。もう飲んでいるみたいだ。

「涼子は?」

「お風呂だって。すっごい酒臭かった。」

多分、進展がない事を察した。

 2人ともしゃべらなかった。決定打になる情報を3人よっても何の知恵にもならない事はわかっても、ミーティングをしようと澄子とちさは言った。

涼子が来てから情報共有する予定だ。2人でぼーっとテレビを見ているが、ちさはつまらなそうに、はなをくんくんさせて、「飲んできたの?」と聞いた。澄子はこの距離で高々ワンカップの酒の臭いを見抜く五感に驚いた。

「えぇ。漁協の親玉。安藤さんって酒好きだったから。将太さんも嗅ぎまわっての上で。」澄子は首を横に振った。

「私もだから責められないけど。」

 しばらくして、涼子が帰ってきた。「おかえり。」「ただいま。」。涼子の表情も暗かった。みんな同じか。

 開放感のある大浴場は快適だ。なんか、澄子は遅くなると途中で寝ちゃうから早めに入る事にした。涼子もちさも誘ったが気分じゃないんだとか。

 脱衣場につくと、棚には衣服が1かごだけあった。服を脱いでお風呂道具を持って浴室に入ろうとした時、サッシが開いた。私は、はっとした。目の前に立っている美女は先日階段ですれ違った人だった。私より少し大きくて、きょとんとしている。胸は大きいしスタイルがよくて、艶やかな腰まで伸びる黒髪。左の眼もとの小さなほくろがとてもチャーミングで、私が憧れる容姿だ。

「あの。」と言われて急に恥ずかしくなった。私はこの人の裸をどれだけ凝視していたんだろう。視線を逸らすと、女性は「あら、ごめんなさい。」と笑顔で道を譲った。私は「ど、どうも。」と言って浴場に入ろうとしたが、つい後姿に数秒見とれてしまった。

澄子はサッシを閉めてお風呂に入った。厳密に言えば、あの人と会うのは2回目か。ただ美人というだけじゃない。妙に印象に残る人だった。

 体を洗って誰もいない露天風呂に移った。「はぁ~~~~。」と大きくため息をついた。

西日が赤く湾を染めて潮風と海鳥の声が心地いい。

「今日も進展ない。ろまんすぐれーのいい親父見つけただけ。」

つながる事はつながる。でも、後の祭りだったり突然だったり。変な奴もいたり。澄子は妙に月を見ながら思った。あの探偵に全部丸投げしようか? でも、アイツすら、上手い事掴めてない。お金もかかる。どうしたものか。わかった事といえば、2度の婚約破棄、家出、行方不明。何にもならん。バシャッとお湯を叩いて澄子はどてらに着替えて部屋に戻った。部屋に戻ると涼子もいて、三島さんが配膳を始めてくれていた。涼子とちさは座椅子に座っている。

「あ、お帰りなさいませ。すぐにできますから。」

「いえそんな。ありがとうございます。」

三島さんは私達に何も聞かなかった。配膳してから「ごゆっくり。」と言って部屋を出た。

 ご飯を食べながら私達は情報交換をした。

 涼子はサガミヤの社員がよく来るというサンタナという喫茶店に行ったという。待ち合わせたわけではないが、持ち前の美貌で作業服の男達と相席し、話をしたそうだが、特にカトハルの情報はなかったという。むしろ相模雄太の女癖の悪さが裏で回っているという。 澄子は秀作の「腰振るしか能が無い奴もいるからよ。」という言葉が頭を思いだした。

 ちさは、昔話程度で先の話はないと先に断じた。澄子も涼子の気になる新情報といえば、近藤将太の傷害事件に於いて、近藤将太に弁護士が2人ついた事だったという。それは澄子も聞いていたけど関係ない情報として処理していた。安藤秀作の話と合致する。はっきり言って、やはり度合いと法曹のあてがい方の分率として過剰な対応だと感じた。一昨日いの行為といい、ちさが不意に人物の名を口にした・

「藤田秋音」

澄子がつい言った。「安藤さんが、藤田とか、藤野っていう女弁護士が将太さんに憑いたって聞いた。片方だけど。」2人を驚かせた。

特に涼子は「そんなのありえないと思う。」といい、私も同意しながら100%の否定はできなかった。

涼子が言う。

「余罪の可能性。証拠があればただの殴った蹴ったの暴行障害で2人もつける必要はないわ。でもあったとしたら、話は変わってくる」流石ほうっ学部の首席。妙にくいついてきた。涼子の分析では男の方のおそらくは担当弁護士。つまりクラスに合った分配。であればもう1人の藤田秋音。妙な存在だ。質問内容も省内に関与していない。情状酌量の予知としての付箋と涼子は読んだらしいが、澄子は、浅知恵でも、深読みしすぎじゃないかと思った。とりあえず、藤田秋音という女弁護士も、枠の中に入った。不思議な事に、ちさもようしは酷似している人と会ったという。3人は考えた。

 3人にとってつまらない展開だが、煮詰まった。わかった事といえば、カトハルの昔のエピソードと、どれだけ愛されていたかという事だ。見つけるという事に関しては、きっかけすらわからない。誰も連絡がつかないんだ。訪れてははずれの連続。テレビでは、好きなバラエティー番組が流れているが、3人とも、くすりともしなかった。閉塞感が気持ちを圧迫する。

 沈黙が続いた。

 三島さんが夕食を片しに来てくれた。「お風呂空いてますよ。」と声をかけてくれたので、澄子は2度目、ちさと涼子は勇んでお風呂セットを持ち、涼子のウィスキー瓶はちさに奪取され放り投げられた。

 階下に下がり、露天風呂に入る。

「あら。よく会うわねぇ。」

低血圧っぽい話し方っていうのか、どこかけだるいしゃべり方。

「友達なの?」

ちさが聞いてきた。「えぇ。本当に。」私は小さく首を横に振った。くすくすと女性が笑う。少し顔が赤い。酔っているのかもしれない。顔が少し赤かった。涼子は内風呂に戻って体を入念に洗う、澄子もちさも不思議に思った。

「そこのお嬢さん。さっきお風呂で会ったのよ。でも不思議なものね。1日に何回も会うなんて。なにか不思議な縁でもあるのか、ただ、

に風呂バカで好きなだけかもだけど。」

ちさが露天風呂に入る前に「あっ。」と声を出した昼間の事を思い出した。昼間に位置を聞いた人だ。

「知り合い?」と、澄子がちさに聞いたら、近藤家に行く前に道を聞いたらしい。奇怪な縁もあるものだ。名前を聞いてみた。顎の先に人差し指を当てて空に向かって考えている。

「藤田秋音って言います。藤の花の”藤”に田んぼの”田”。”秋”に”音”って書いて藤田秋音です。」

妖艶っていうのかな。澄子はお兄ちゃん達だったらすぐに虜になっちゃうだろうと思った。スタイル抜群で美人で、失礼だけどすごくエッチなしゃべり方だと感じた。女の私がそう感じるのはいかがなものかとは思うが。

 これも何かの縁と思って、話しかけてみると気さくな人だった。3人で色々話した。

 東京の弁護士だという。仕事で舞竹島にきたらしい。同じ東京都であるが、都会とは違う空気に触れたくて観光がてら依頼を志願したんだとか。

 不思議な人だと思った。初対面なのになぜか心を許せてしまう。ゆったりとして、落ち着いていて、優しい口調。「でもいい年なのに結婚してないって男友達にバカにされたの。誰か若いツバメを紹介してよ。」と言われた時、私とちさは笑った。恋話とか、東京のオススメのゴハンとか話の幅は広い。

 恋話では、1度だけ合コンに行った事もあるらしいが、どうも男とだけでなく女同士の駆け引きが嫌いだし、面倒くさかったから行きたくないとか。サバサバしてる。その時の合コンも3対3で男全員から連絡先をもらったそうだが、帰りの電車で全消去だとか。悪い高飛車な人じゃない。話せばわかる。気さくで楽しい。でも反りが合わないと思ったら付き合わないというきっぱりした性格の人だった。

 それ以来、合コンの誘いは断っているらしい。そんな赤裸々に話してくれなくてもいいが、彼女のペースに巻き込まれて笑ってしまう。なんとなくだけれども、カトハルに似ている。容姿もだが、雰囲気がサバサバして豪快なところが似ている。

「あなた達は観光?」と聞かれ、私もちさも少し間を置いてから頷いた。

「いいわねぇ。私も仕事完全抜きじゃなかったら、素敵な彼氏とイチャイチャしたかったなぁ。でも他にもあるの色々とね。」

気持ちよさそうにため息をついて、彼女は星がちりばめられた夜空を眺めている。ふと手を上げて、月に向かってゆっくりと右に左に手を動かしている。澄子は思った。この前、涼子がやっている仕草そっくりだと。不思議に思った。

「どうしたんですか?」

藤田さんは答えなかった。少しの間、同じ様に手を月に向かって振っていた。

「あら。ごめんなさい。これ私の癖なの。」

私もちさも夜空を眺めた。

「この島にはいつまでいるんですか?」

ちさが彼女に聞いた。

「もう何日かかな。そうしたら、全部終わるの。」

急に深刻な口調になった。仕事の話になるからだろうか。弁護士の守秘義務は口が堅くないと務まらないんだから。

 私は自分の進路についても考えた。まだは決めてないけど、漠然とイメージした。官僚、検察、企業の法務、弁護士、司法書士や一般事務だってある。法学部を出るまでに私は何を目指すんだろう。

ぼーっと、夜空を見上げていた彼女が言った。

「ごめんなさい。今日は飲みすぎちゃって。」

「いえ。お休みの時くらい。」彼女は優しく笑った。

「あーあ。のぼせちゃう。」

すらっとした見事なプロポーションの彼女が湯船から出て髪をほどいた。

「また会いましょう。」と笑顔で手を振って露天風呂を去った。ファッションショーのランウェイを歩くモデルの様に内湯の方に向かった。サッシのガラスは真っ白で、よく見えなかったが、音からして髪を洗っているようだ。

 私とちさは天を仰ぐ。少しの間だけだけど、気のいい女性と話して楽しい気分だった。

明日の時間制限も当てもない作戦会議をすると思うと気が滅入る。

「明日。どうしよっか。」

ちさはうつむいた。私は「そうだね。考えなきゃね。」とだけ答えた。

 私とちさが露天風呂を堪能していると、涼子が入ってきた。

「遅かったね。そんなに念入りに?」

澄子の問いに、涼子は死んだ様な眼で言った。

「別に。」

そう言って、2人の隣に座り入った。

「エリカ様かよ!」とちさの突っ込みにも涼子は無言だった。

3人ともお風呂を愉しんで、髪を乾かす。戻ると、涼子は放り投げられていたウィスキーのボトルを拾い、ベランダで栓を開けてラッパ飲みした。私とちさは不可解に思ったが何も言わなかった。風呂上がりのビールを楽しむ2人。テレビをつけるとバラエティー番組がやっていた。特段面白くもないが、見ていた。ちらちら澄子は涼子を見るが、ベランダで、ウィスキーを飲んでいた。

どのくらい経ったろうか。ちさが缶を握りつぶして、テーブルに叩きつけた。ずかずかと涼子に向かい、言った。

「このバカ!」涼子は無表情だった。

「どうしたの? ちょっととばしすぎじゃない?」

目が座っている涼子に睨まれたちさ。普段なら一言二言言って去るのにこの時は違った。涼子が視線を外す。手すりに寄りかかりながらウィスキーを飲んだ。

「あのね。私が読んだ小説の話。聞いてくれる?」

だいぶ酔っぱらっているのか、ろれつが回っていない。何を始めたんだ涼子は。

「あのね。あるところに一緒にいた事はない姉妹がいたの。親が原因で。母親の方ね。それが原因でお互いの存在を知らなかったんだって。運命の歯車。お姉さんは妹だけが肉親になってる事を知って、妹の両親は生きてるの。お姉さんの両親はとっくに死んでる。ちーちゃんがその姉だったらどう思う?」

 澄子は思った。なんて辛い話なんだ。それに、姉妹で一緒にいた事がないって。涼子も酔っぱらっているからと言って、天災文豪か、自叙伝でもなければ思いつかない話。

「そうね。アタシが姉だったら、頭下げてでも親戚に頼るわ。」

涼子が鼻で笑った。ちさは激怒し、澄子が仲裁に入った。

「妹さんからって考えないのね。孤独で苛烈な人生を送る姉に、助けを求める。それも解かもしれない。でも、共通のお母さんだとしたら? それでも恢復できるかしら? 名前は忘れたけど「恢復する家族」って、寂しい話あったわよね。」

ちさは怒って襟袖を振りほどいた。

「酔っ払いの戯言なんて聞きたくもないわ!」

ちさはクーラーボックスからビールを取り出して、勢いよく扉を閉めてテレビを見ている。その全てを見ていた澄子は静かにベランダに出て、ちさのクーラーボックスからビールを取り出して開けた。。

「いいの? ちーちゃんに怒られるよ。」「おっぱい見えてるよ。」澄子は涼子の襟を正して、ビールを飲んだ。

 相変わらず座った目で涼子は夜景を見ている。何を見ているか気になった。昔から、和彦お兄ちゃんや良助お兄ちゃんから言われていた「オマエの言ってる事は難しいんじゃなくてわからねぇ。」隅っこは夜空を見てそれを思い出した。

「何が可笑しいの?」冷たい涼子の眼。澄子は言った。

「水金地火木土天海冥。観測される星。一番近いのは月。でも、月は数に数えられてない。」涼子の硬めがぴくっと反応した。「でも人類は火星に興味がありながら、月にすごく興味を抱いている。なんでだろうね。ただ単純にご近所様だから?」

涼子が缶ビールを飲みながら月を眺めている。涼子はウィスキーを飲みながら言った。

「だろうね。科学的な根拠が何処まで正しいかわかんないけど、月が一番近いし、遥か昔から親近感があった。だからじゃないのかね?」

ちさが怒り心頭を押さえて。2人の声が聞こえる位置でビールをちびちび飲んでいた。

「私は月? 火星?」

涼子は黙った。澄子は1番2番だの、それをこの空間に比喩したつもりだった。

「私は月がいいなぁ。セーラームーンのうさぎちゃん! 他もかっこいいけど、やっぱウサギちゃんでしょ!」

楽しげに話す涼子。ちさは流石の神童。ここで出てくるバカじゃない。澄子も振動でなく「マーキュリーだって、ド忘れしちゃったけど火星、ジュピター、ビーナスだって地球をそんな目で見てるのかな? アースが太陽系の自分達を褒めてくれる順位決めるなんて、内心腹立って当たり前じゃないかしら。勿体ない。」

涼子の眼に色が少し変わった。穏やかになったというか、丸い印象を持った。

「ハーデス。」ビールを飲んだ後、涼子の言葉に首を傾げて涼子を見た。

「冥王星。名前の由来は知らないし、ギリシャ神話に出てくるハーデスとは意味や由来も名付けた理由も知らない。でも、アースにとって、ムーンが一番よ。」

「誰がそんなこと決めたのかしら?」

「アタシだったたら、一度決めた理由にのっとっててんなら、多少しか反論しないさ。でも、キマリはキマリ。そんな所以も理屈も説明出来ない奴等の言いなりになりたくないなぁ。欲しかったら掴みとれ。火星が月に嫉妬してるなら、四の五の言わずに戦闘じゃなくて勿論。四の五の言わずに真っ向勝負。それならすっきりするさね。」

 数秒してウィスキーをラッパ飲みしてゲラゲラ笑う涼子。ちさは音を立てずに、テレビの前の椅子に座った。

 「ダチ子さんか。先に謝っておく。」涼子は膝をついて、酒を置いて、頭を下げた。

「畜生たれ。どうなろうと構いやしません。第二2の姉御にしてくだせぇ。」

「ちょ、ちょっと。やくざ映画じゃないんだから。そういうのやめて。」

「私はあなたに惚れました。姐さんとまではいかない失礼の上で。」

「下から数えて2番でいいよ。」

澄子は缶ビールを飲んで、ちさの隣に座った。バラエティー番組を見て、時間になったらいつの間にか3人とも寝ていた。


 7月30日。 足立澄子 別行動の予定だった。


 今日も3人でばらばらで探す事にした。

3人も感じた閉塞感。打開できる人物を想像するだけでも難航する。朝食の時に「姉さんに彼氏とか弟分みたいのがいたら?」と昨日荒れ狂いがちの涼子が言うが、「みんちゅの親父さんとか亮君も知らないんじゃねぇ。望み薄いんじゃない?」ちさも涼子も黙る。澄子の秘策中の秘策。相模家に突入してみようかという案は2人に断固拒否された。所詮旅行者の我々が、かなりこじれた関係に首を突っ込み喧嘩を売るだけだという。もっともだ。ダメ元案はダメに終わった。

 であればどうするか、将太に会いに行く。状況を一番理解し、ツテも広い。バス停の時刻表を確認しているちさに男が寄ってきた。

「あのぉ。ちょっとよろしいですか?」

古い車から出てきた、清潔感の無い男。私達に声をかけた。レーシングゲームで見た事がある。ダットサンとかいう古い車だ。「え!」と涼子が声を上げ麦わら帽子を深くかぶって顔を隠している。知り合いなのか?

 男は冴えない中年だ。年齢は30後半くらいだろうか。数メートルしか離れていないがやたら煙草臭い。ちさは鼻をつまんで不機嫌そうにしている。

「いやぁ、突然すみません。少し伺いたい事があり

「私達観光客なのでこの辺の地理は知りません。」見事なまでのちさの一刀両断。男は「どうもすみません。場所を聞きたいんじゃなくて。怪しい者ではありません。運転免許証も名刺も持っています。探偵です。こういう者です。」

名刺と免許証を渡されたちさ。進藤律夫。確かに名前は会ってるし、唐木探偵事務所というのも間違いない。ちさがスマホで調べ始めた。涼子は名刺をポケットに突っ込んでうつむいて、更に麦わら帽子を深くかぶった。

「安心してください。公的に身元を照会してもいいですよ。事務所に電話してもいいですし。もしもお疑いの様でしたら退散しますし。」

ちさの行動に敏感に反応する。ちさはじろっと男を見ながら、スマホで確認を取った。男は男でニコニコと笑っている。直感だけだが、この男に害意はないだろう。

ちさは憮然とした態度で名刺を男に返した。男はちさからさし戻された免許証を受け取った。気になるのは涼子だ。ずっと不自然にうつむいている。

「ご用件は? バスの時間がありますので。」

ちさが冷徹に言った。こういう時の切込みはさすが攻撃隊長。澄子は思った。

「あぁ。いや。私は加藤春香さんの捜索をしているんです。失礼ながら、先日、加藤家から出てくる皆さんをお見かけしたので。加藤春香さんについて何かお話を伺えないかと思いまして。」

進藤は計算はしていた。パンピーから見たら疑わしきは探偵まで使って誰が依頼したかという疑問だが、守秘義務という盾がある。

「誰からの依頼ですか?」

ちさは聞く。進藤の想定通りだ。

「それは申し訳ないんですが、言えません。守秘義務がありますので。ただ、加藤春香さんがいなくなった事を心配している人とだけしか。」

「誰が探そうと依頼したかもわからずに、こちらから情報提供を要求するのですか?」

進藤は「癪に障る娘だ」と思った。澄子黙って考えていた。カトハルの両親だろうか。サガミヤの婚約者だろうか。警察には届けずに、内々に探偵に依頼した形だとすれば納得できる。進藤は表情は変えず、ある程度身を斬る思いを練り、言った。

「暑いですし、立ち話もなんですから、宿の中かどこかのお店でお話聞かせてもらえませんか。私なりにたどり着いた重要人物があなた達なんです。目的地があればタクシーで送りますよ。」

「知らない男の人について行ってはいけない。子どもの頃よく聞かされました。」

ちさは何度一刀両断するのか。進藤は「めんどくせぇ女だ。」と思い涼子を見た。涼子は麦わら帽子をぎゅっと深かぶりしている。進藤も澄子もやっぱり変だなと思った。

「わかりました。では、宿で。店員様の眼もありますので。」

 3人は宿に戻った。行き詰った状況をこの探偵が打破する材料を持っているかもしれない。何しろプロなんだから。

 宿に入り、ロビーに小さなテーブルがいくつかある。

3人は、ホッとしていたが、進藤は見逃さなかった、額の少し上まで変色する程の汗で、キンキンに冷えた冷房。一度帽子を脱いで、汗をぬぐった涼子。その横顔はちゃんと覚えている。進藤はほくそ笑み、汗を手で拭きながら3対1で座り対応した。細かい情報も欲しかったが、ここにこいつがいるとわかっただけで進藤にとっては収穫だった。

進藤は徐に立ち上がって、自販機でお茶を買った。「どうぞ。」と言って3人にふるまった。「では、遠慮なく。」攻撃隊長のちさはお茶を飲んだ。次に澄子。涼子は口をつけなかった。進藤はまさかこいつがこんな所まで、なぜだ? と考えながら、手帳をめくった。

 攻撃隊長のちさは進藤の戦力分析をする。とにかく謎。だが丁寧で礼儀正しい。そして、ヤニ臭い。くたびれたワイシャツと地味なスーツ。夏だから通用するクールビズのワイシャツのボタンを2、3個外し。ビジネスマンとしては40点くらいの見た目から、お高く留まるタイプではないのに紳士的な振る舞い。変なギャップのある男だ。周りを警戒し、一番気になったのは仲間の涼子。室内なのに帽子を脱いでいない。澄子も疑問に思った。

「えっと、失礼ですが、まずお名前から伺ってよろしでしょうか?」

探偵は作り笑顔でメモを取ろうとしている。

「いえ、もしも私の調査結果と符合しない場合の事を考えまして。御存じならばそちらから。自らを明かさず先をとる。武芸に於いて無礼の極み。」

怖ろしくきれいさっぱり斬り捨てる澄子にちさは拍手さえしたくなった。流石武者。

「失礼いたしました。改めまして、先程の名刺の通り、私。唐木探偵事務所の進藤律夫と申します。ヤニ臭くて申し訳ないですが。その辺はご容赦を頂きたく。

「私達は別に構いませんよ。ここ禁煙ですし。」

「無論。吸いませんよ。」

 3人の自己紹介の後、話し合いが始まった。

3人が探偵の話を聞くと、3人が持っている情報とほとんど同じだ。みんちゅの話、3人と将太が加藤家を訪問した話。だが、1つだけ知らない話があった。加藤家に行った後、ある少女が加藤家に手紙を届けたらしい。相模美優という少女で、カトハルの婚約者の妹であり、複雑な事情があって、心配をかけたくなくてやったとか。名前は相模美優。舞竹第一高校の生徒だとか。妙な話だ。そこまでしてカトハルにこだわる理由。

「皆さんの方で、何かご存じ、お気にかかる点はございますか?」

警戒心まる出しで、ちさは聞いた。進藤は煙草が吸いたくて仕方ない。

「私達が姉さんを探している理由と、この場所はどこで?」

強烈かつ厳しい質問だ。坂本みたいに無能でクビになった奴なら「業務ですので」とかいうのだろうが、「なぜ、この3人が目的を同じにしたか。全てかてれよ。安藤涼子さんよぉ。」という言葉は内心に留めて進藤は嘘もダメージもない回答をした。

「この写真ですが、加藤家を張っていた時に撮ったものです。そして、将太さんから足取りを追って、アナタ達に辿り着きました。将太さんには聞いておりません。ただ、蛇の道は蛇。こちらにもツールがありますから。様々聞きこんで、ここでの目撃情報を得たんです。広池中学、会田高校。そこから調べました。名前を聞いたのは確認の為です。職業柄、一言聞いてはいそうですかというわけではなく、裏鳥が必要ですから。」

3人が食い入る様に写真を見た。確かに将太と澄子、ちさ、麦わら帽子の涼子だ。

「弊社も無論、信頼がモットーですから。アナタ達が困る様な事はしません。」

ちさは舌打ちした。

「なんだか、話がごちゃごちゃしてきましたね。私達も情報は伝えましたので、探偵さんの情報も踏まえて作戦の練り直しがしたいのですが。」澄子が言った。

「わかりました。私の計画はお話ししましょう。どう考えても妙な行動をとった相模美優さん。その調査を主軸にし、先程申し上げた通り、春香さんと関係ないわけではない方ですから。調べる価値はあるかと。」

「わかりました。私達も計画の算段が付き次第、この名刺の連絡先に伝えさせていただきます。」澄子がいい。ちさも頷いた。涼子はひたすら黙っている。

「わかりました社会人の端くれとして、仕事は仕事。当然、全力を尽くします。」

探偵がちらりと涼子を見た。進藤には課をを向けず、俯いていた。

「守秘義務上、勿論、あなた方の行動や名前は秘匿します。加藤春香さんに関する情報があり次第、共有させて頂ければ幸甚でございます。」

「探偵さん。私達は、今日、かなり確度の高い情報の確認に行く予定でしたがバスの時間は逃しました。作戦の練り直しもありますので時刻表との相談になりますが。」

「確度の高い情報とは? 伺わせて頂ければ私が走らせますよ?」

澄子の言葉に、探偵は鋭い視線でいる。涼子やちさは驚いていた。もちろんハッタリだ。だが、かまをかける手段として、荒っぽいが、澄子の女の勘が働いた。妙に怪しい涼子。この探偵と涼子に共通連絡網があるなら、何か涼子が公道ん位出るはず。ハッタリを確度の高い様に見せる為に、澄子はちらちら時計を見ている。

「次のバスまでそんなにゆっくりしていられません。角度が高いのも論理的推測。100%ではありません。」

むしろ探偵と涼子の関係をあぶりだす確度が高いという意味で、すました顔で澄子は言った。プロ相手に微妙な心理戦だった。

探偵が数分してから、手帳とペンを置いた。

「時間もないようですので、できる範囲で結構ですがお聞きしたい事が。」

澄子ををじろっと見て、探偵は一息ついた。

「秘匿とはいえ、言える事は依頼人はこの島の方で、もう1人います。目的は一緒。不可思議な話です。どちらも若い女性です。それ以上は言えませんが、違いがあるのはこちらの島の方の方が若い印象を受けましたね。」

「若い女性。」

澄子は真面目には考えた。加藤公子ではない本土の方にも探している人間がいるという事か。公子さんには悪いが若くはない。そしてもう1人同じ目的の人間がいる。カトハルが暴力団にでも手を出したのか?

 ちさは別の視点で考察した。かなり理屈と「知らないが確度が高い」というハッタリにこの探偵は眉一つ動かさなかった。本職のプライドか。予測はついて喧嘩をふっかけてきたのだろう。

「確度の高い情報源。興味が高いですね。ですが、同一人物に2方向から同じ事を聞かれたら警戒されるでしょう。私は先ほど言った通り、相模美優さんを調べます。」

「わかりました。できる限り協力させてください。」

澄子は立ち、握手を求め、進藤が応えた。

「では。本職が言うべき言葉ではありませんが。吉報をお待ちしております。」

 進藤が頭を下げて去り、澄子は車が出て行くのを確認してから、「あ~。疲れた。」とどっかり座った。

「すごいですね。プロ相手にあんなハッタリかますなんて。姉さんがただ者じゃないって理由わかった気がしました。」

ちさは微笑んで澄子を見た。

「のるかそるかのハッタリよ。冷や汗かいちゃった。とにかく部屋に戻りましょ。どうせ、行く当てもないんだから。正直なところ、どう堂々巡りでまたアンタ? って事になりかねないし。ゆっくり酒飲みたい。」

ちさが立ち、フロントでキーをもらいに行く。涼子も立って、部屋に向かう。澄子はわざと、進藤からもらった飲み物を一気飲みして、ゴミ箱に入れるまで涼子を見ていた。探偵が消えて空、帽子を取って汗を拭いていた。


 愛車の中でワカバに火を点ける進藤。

「クソ小娘どもが。特に安藤涼子。しらばっくれやがって。」

煙草を一息ふかしてから、確度の高い人物とは誰だと考えた。まさか黒木美里じゃあるまい。加藤公子のママ友の会みたいな組織か? そんなところまでは調べなかったが、とりあえず相模美優の身辺調査の継続だ。昼頃。確かこの時間帯は図書館だったな。だが、余程集中して、休憩もなしに勉強しているならまだしも、べったり同じ車で同じ男がいたら気づかれて当然。古い車で目立つから、近くに停車して歩きて、死角から監視するという常套手段しかないだろう。

 図書館の近くのコンビニで停車し、新しく煙草に火を点け、スマホに気づいた。メール。驚いたのは名前だ。安藤涼子。

「今晩会えますか? 先程は失礼しました。」

進藤は驚いたが、夜なら美優は家に帰っているだろうと思い返信した。

「気にしておりません。依頼人の秘匿義務は勿論、私も知らない情報を聞けましたので幸いです。今晩の件ですが、構いません。」

内心、本当は嘘だがな、と思いつつ、一服すると、返信が来た。やたら早えな。

「では、負って、時間と場所をメールにて送らせていただきます。」

 丁度昼も過ぎ始めて、近くの港に併設されているショッピングモールみたいな所に行った。海鮮メインのメシやが並んでいる。

 流石、観光地。海鮮丼で1500円。えらくふんだくってくれるもんだ。食券を買って呼び出し音がする小さな機械を渡され、烏龍茶の空きボトルにウィスキーを入れたものを一口飲んで席についた。

「あら。進藤君。またまた奇遇ね。」

なんでまたこいつがいるんだ。露骨に顔に出たらしい。

「そんな嫌な顔しないでよ。そんなに私の事嫌い?」

「前は上段のつもりだが2度ある事は3度あるってな。俺の事つけてんのか?」

「バカ言わないでよ。私は進藤君がタイプじゃないわ。そんなに大きくない島で観光名所にいれば会う事だってあるでしょう。ここの鯛丼。友達のおすすめなの。」

アイスティーを持った藤田秋音が俺の前に座る。またこの女のよくわからない話が始まるのか。俺は、これから調べる相模美優の舎弟達の名前を書いた手帳をしまって呆れ顔で水を飲んだ。

「仕事の合間とはいえ、いつまで遊んでんだ。仕事しろよ。」

「進藤君にはわからない苦悩があるの。嫌になる事件も。それは示談成立で不起訴だからまだいい方だけど、いい気分はしないわね。」

「ただの傷害罪くらい、本土じゃ日常茶飯事だろけどな。」

「傷害もそうだけど、人を傷つける事は、人によるわ。」

こんな怖い藤田を見たのは久しぶりだ。言葉じゃない。睨んでも侮蔑した表情でもない。死んだ様な眼というか、氷の様に冷たく、深海の様に暗い。

 俺は昔、海で溺れた事がある。どんなに足をばたつかせても、手をかいても、潮の流れに逆らえず、離岸流とか言うのに飲まれ、下を見れば何が住んでいるかわからない暗闇。死を覚悟した、俺はレスキューに助けられたがずっと震えていた。浅瀬でもない限り、沖の海は恐怖だ。そんな事を思い出した。

「この前の裁判はきつかったわ。レイプ事件で、強制性交等罪が適用されたの。大学生が1人の女の子を何人も寄ってたかって。人間として最低よね。5年、6年なんて信じられない。もっと重くしてほしかったわ。」

「まぁ、ンなクズとはいえ、無期懲役や死刑ってわけにはいかねぇだろ。良くも悪くもそれが法律ってもんだろ。弁護士の先生。」

「ここは禁煙よ。」

つい癖で煙草を取り出していた進藤は胸ポケットにしまった。

「性犯罪の方。大事な人がそんな目に合うなんて絶対許せない。何があっても守りたいと思わない? 加害者を自殺にでも追い込んでやりたい。」

「言葉に気をつけろよ。お前には立場があるんだから。」

藤田は「そうね。」と言って落ち着いた。沈黙が続く中、ふと進藤は思いだした。

「そういえば、お前、家族に会えるかもしれないとか何とか言ってた気がするけど。お前の親父以外は長野の親戚だろ? この島にいんのか?」

またこの眼だ。煙草が吸いたくて仕方ねぇ。

「実はね。ついこの間。ある事がきっかけで私に死んだって聞いたはずだった母が生きていたの。びっくりしたわ。父のお葬式にも来なかった母が生きているって。この島で。」

俺は驚いた。どんなきっかけがあれば、そんな事がわかる。俺はそのまま質問をぶつけたかったが、探偵なんて事をしているせいか、好奇心が生まれてもそのままぶつける程短絡的ではない。そうか。だからこいつはこの島で休暇を取ったのか。根掘り葉掘り聞く事は避ける事にした。だが、興味がある衝撃的な話であるから、つい、聞いた。

「この島で、会えたのか?」

藤田は静かに首を横に振る。

加藤春香探しの依頼よりも、こいつから依頼を受けた方がやる気が出そうだ。俺だって、一応、血の通った人間だ。旧知の仲で、かなりキツい人生を送ってきたこいつの力になってやりたい気持ちはある。家族がいれば幸せだとは限らないにしても、1人くらいいるだけでもいいと思う。こいつの孤独を象徴するあの眼、また、あの時、深海を覗いた俺に戻り、口を塞いだ。でも少しくらい救いがあってもいいじゃねぇか。なぁ。速水。

「こんな小さい島だ。しらみつぶしに探せば見つかるだろう。そもそも情報元に聞けば一発だろう。」

「あら、心配してくれてるの?」

笑ってる藤田が煙に巻いて笑顔でいた。工作したペットボトルのウイスキーも香りがしなかった。ただキツイ汁だ。

「色々と探したけどダメだったわ。偶然が重なって、本土で母の旧姓の佐藤。本名は佐藤公子はこの島にいないって。違う人ばっかりヒット。残念な話よ。」

「ふん。仕事と趣味と親探し、随分器用だな。」

「えぇ。進藤君よりはね。」

進藤はムカついてもう1口飲んだ。

「勝手にしろよ。」

藤田秋音がため息をついた。

「ねぇ。私って読書家でしょ?」

進藤がため息をついて、進藤はウィスキーを飲んだ。

「さっきの話につながるんだけど、進藤君だったら、大事な人がひどいめに合う事になるってわかったらどうする? 私の読んでる本だと、女の子がひどいレイプをされて泣き寝入りするの。本当にひどい話。それからも売春の強要も。本来、恐喝も含めて証拠があれば、裁かれるんだけど、その女の子の心の傷ってどうなるんだろうね。メンタルケアとかでさ、うんうん、辛かったねぇ悲しかったねぇ。で終わっちゃうのかな。」

この女はいつも空想の話、いや、自分の不満を「自分の読んでいる話」としてぶつけてくる。こういう時に1番上手くあしらうのが速水だった。昔の話だが。とっとと死にやがって。コイツの相手はやっぱりお前が最適なんだよ。

「さぁな。そんなひでぇ話は聞いた事がねぇし。もしもあったら最低最悪、魑魅魍魎だ。人間じゃねぇな。バケモンだ。」

藤田秋音がきょとんとしていた。

「進藤君でも人間っぽい事言うんだね。」

「テメェぶっ殺すぞ。こんな立派な人間が他にいるか?」

「ふふ。ごめんなさい。」

 ピンポーン「進藤様。シンドウリツオ様! カウンター4番にお越しくださーい。」と館内放送が流れた。俺は番号札をもって席を立った。

「ねぇ。ついでに聞いておきたいの。」

進藤が面倒臭そうに振り向いた。

「そんな化け物、進藤君ならどうする?」

藤田秋音の真剣な眼差しに、進藤は驚き、答えた。

「どうもこうもねぇだろ。警察沙汰にするか殺してやるかだ。」

「物騒な事ばっかり言うのね。もっとスマートな方法はないの?」

「じゃあお前ならどうするんだ。」

藤田秋音が無表情で気だるいため息をついた。

「そうね。地獄より怖い世界がある事を体と心の芯まで教えてあげる。」

「ドS野郎。」

藤田秋音がくすくす笑っている。「また会いましょう。」

進藤は鼻で笑って去った。

 案内されたカウンターで海鮮丼を受取り、元の席に行ったが藤田はいなかった。ちらっと周りを見たら、行列に並んでいた。別に一緒にメシを喰いたいとは進藤は思っていなかったが、あのクセの強さと速水並みの寛大さあれば付き合ってもよかった。だが、進藤自身、現実の俺はあいつに女を感じないどころか、変な話をするか、いきなり暗い話を突っ込んでくる面倒な女。暗い気分で食った海鮮丼だが、味は良かった。

 腹ごしらえをしたわけだ。夜まで業務に戻ろう。また同じコンビニに停めて、死角から美優がいるか確認したが図書館で確認した席にはいなかった。

 夕暮れ時。進藤は相模家の駐輪場に美優の自転車を確認して、こっちは今日も収穫がなさそうだと思った。進藤は煙草に火を点け、メールを確認した。

安藤涼子から来ていた。

「21時以降の”スナックななこ”でお願いします。」

URLでグーグルマップにもヒットした。ストリートビューではこじんまりしたスナックだ。まぁ、パパ活してると思われても、あの蕎麦屋の時みたいに明らかに未成年の監視役は店側としてもお断りだろう。納得した。

「どんなに遅れても、21時10分にはスタンばっておきます。」と返信した。我ながら、最近のガキには通じないだろう言葉が、つい、予測変換で出てしまった。内心笑った。

 21時を目的に運転し、ラジオから妙な情報を得た。

「速報です。先ほど、某カラオケ店で強制性交等罪の疑いで、相模雄太容疑者が現行犯逮捕されました。容疑者は調べに対し、「やっていない。ハメられた。」と供述している様です。次のニュースです。」

 相模雄太。美優の兄のクソ男か本物のバカだな。俺はため息をついて、煙草に火をつけた。もしも強姦しようとした女が加藤春香ならとも思ったが、ここまで雲隠れしている奴が密室で相模雄太の前に現れるだろうか? 何しろ、加藤春香が逃げた理由が相模雄太にある。とすれば、赤信号で進藤は考えた。その原因が取り除かれたのなら、加藤春香はこれから表に出てくるだろうか。何とか光が見えてきた。あの3人娘同様、進藤自身、計画を練らなければと思った。

 21時過ぎ。意外と渋滞していた。ついた頃には21時15分ぐらい。大遅刻ではないだろう。スナックななこの駐車場に進藤は車を停めて店に入る。自分と同等以上のヤニ臭さ。酒臭さ。古臭い曲を親父やババアが歌っている。そんな中、若くてアイドル顔の女が1人でウィスキーをグラスに注いで飲んでいる姿は目立つ。

「いらっしゃい! 待合い?。」とババアが言って来る。

「えぇ。安藤涼子さんと。」

「あぁ! あそこの別嬪ね! どうぞ! 飲みもんは?」

「グラス1つと氷の追加で。」

「ダンディーさんご来店! 氷と水とグラス、別嬪さんに持ってきな!」

ババアは、おっさんの店員に言って席に誘導した。

今度は麦わら帽子もかぶってない。どっから見ても安藤涼子だ。安藤涼子は緊張もなく、まだ7割はあるウィスキーをストレートで飲んで、勝手に進藤に注ぎ、乾杯した。

進藤は酒に口をつけ、若葉に火を点けて無言でじろじろと安藤涼子を見ている。

「ごめんなさい。」

安藤涼子が頭を下げた。よしよし。進藤はそう思った。

「依頼の件。断っていただいても構いません。違約金もお金はしっかり払います。騙す様な事をしてしまって。申し訳ございません。」

ずいぶん素直だな。大体こういう輩は逆ギレして金を払いたがらないのが経験だ。すぐに下手をうった責任を探偵側の責任にして、捨て金を払って恨み節で去っていくものだ。だが、進藤の第六感がまた働いた。この女、デスピサロじゃない。下手したらエスタークだ。

「いえ、私としては、お客様の希望に沿う事が仕事です。ですが、本音を言えば、是非、包み隠さず、ご存知のお話をいただけるとありがたく。足立さんや渋谷さんの前では言えなかった事があっての事と、推測しております。」

安藤涼子が、3人の前で追加しない秘匿情報がある事は容易に想像できる。美優の話を餌に引き出そうかと進藤は考えた。

安藤涼子はウィスキーのグラスを一気飲みして、新しく注いだ。進藤は驚いた。48%だぞ。若い女の酒豪はよく聞くが、第六感を通り越してやみくもかつやさぐれている用意進藤は見えた。赤ら顔で安藤涼子は、グラスに口をつけ、ⅠCレコーダーを出してきた。

「録音。いいですか?」

そういえば、胸元から見えたから断定はできないが、黒木綾香もこんな事をしていた。だが、職業柄、進藤も録音してるから、そんなもんどうでもいい。頷くと、安藤涼子が赤の録音ボタンを押した。

「探偵さんのレコーダーはきってください。ここに出して。」

トントンと指をテーブルにつつく。進藤は、ここで断ればこの機会がなくなると思い、仕方なく、胸元のICレコーダーをテーブルに置き、電源をオフにした。安藤涼子。依頼時とも宿でも別人の様に強気だ。

「これからの話。関係する人に絶対、沈黙してくれる事を誓ってもらえますか?」

正直、進藤は腹が立ったが、頷いた。サラリーマンってのはそんなもんだ。

「私の守秘義務に誓って、義務を遂行します。」

「では、正直にお伺いします。黒木綾香さんはご存じですよね?」

「はい。加藤美憂の性奴隷です。」

安藤涼子ははウィスキーを開けてまた注いだ。

「性奴隷というと、人格にもよりますが、女性に対して極めて侮辱。肉便器なんて言われるんですよ。相模美憂は黒木綾香さん達を商売道具にして売春させて金儲けさせてるんです! 穴兄弟なんていくらでもいますよ。最低最悪の女! 本当にかわいそう。」

進藤は応えに困り、グラスの酒を飲んだ。相当入っているのはわかるが、安藤涼子が突然涙を流した。心身不安定なのか? 進藤は感じた。だが、それは相模美優への怒りであり、加藤春香とは違う。冷静に分析した。依頼人の1人である黒木綾香がそういう思いを持ち、安藤涼子が同調したなら、納得もできる。

「えっと。わかりました。相当ひどい強姦の強要ですね。安藤さんと黒木さんはご親友なんですか? 何か、ご出身も育ちも違うようですが。」

 安藤涼子は妙に鋭い目つきになった。

「ここからが全容です。」


 その後の話に進藤は驚愕した。

安藤涼子の言葉には衝撃的な言葉が多すぎた。

この女は何を言っているのかと思った。自分のの正気を疑うのか、この女の酒の勢いの妄想なのか。進藤はためらった。進藤は何度か「ちょ!ちょっと待ってください。」とメモ帳を取ろうとすると、「やめてください。」と涼子が鋭い眼で見てくる。ろれつはちゃんと回っているし、ヤクザ並みにドスの利いた声だった。

 こいつは何なんだ。燃え盛った深い闇を、この女の眼に感じる。あまりにも衝撃的な話に驚いて、進藤は酒に手がつかなかった。それにこいつの昼間や依頼時とはうって変わった堂々とした、威圧的な態度。こいつの語る背景を聞いたら、この闇の魔女の言葉も納得できなくもないが、大人しかった猫が急に噛みついてきた様な驚きに進藤は内心ひるんでいた。

 おっさんやババアのだみ声の中、最後まで聞き終える進藤。何も言えなかった。あまりの悲劇と巨悪の背景、足立や渋谷じゃない、涼子達が立てた、どこまでも冷徹で残酷な計画。涼子は目の前の酒を一気飲みした。カウンターのババァが「おかわり?」と聞いてきた。進藤は「あぁ。ボトル一本。持ち帰りで。」とだけ言った。

 涼子は、「それじゃあ。」と言ってICレコーダーをもって去ろうとした。進藤は聞いた。涼子は冷酷な目で振り返る。

「アイツから俺に、なんか言ってたか?」

涼子は鼻で笑った。

「別に。何も。」

 涼子が去ってから、進藤は胸元に自分のレコーダーをしまい、グラスを空けた。

「ったく。あのビッチと舎弟どもが。やらかしてくれるぜ。」

今回の2つの依頼、まったく、訳がわからない事ばかりと思っていたら、とんでもない裏があった。奇妙かつ上手く繋がった闇の蛇女達。

 これ以上、加藤春香を探す必要がなくなった上に、指示までされた。腹が立ちながら煙草に火をつけ、新しいボトルを開けてもう一杯一気飲みする。一息つく。まぁ、あの女に言ってやりたい事は腐る程できたが、ダブルどりの小遣い稼ぎとして受け取ろう。今回の1件の全容が見えた今、徒労がなった。代行を頼んで、ババアに「これ買うぜ!」と言って金を支払った。もう1杯飲みながら耳障りなだみ声を聞いていた進藤だった。

 こんな形で終わるとは思わなかったが、黒木綾香に報告する意味すらなくなった。俺はまんまと踊らされていたわけだ。

代行が来るまで、酒を飲みながら思った。今回の計画とその理由を聞いた時、腹が立ったと同時に虚無感を得た。だが、大人として、プロとして、割り切って考えよう。

やっと代行が来た。

「おばちゃん! また来るぜ!」

民宿に戻り、相変わらず汚い部屋で、共同便所が嫌だから駐車場で小便を済ませた。古臭い、狭い部屋で布団を引いて寝転がった。まったく。こんな気持ち悪い、楽な仕事は二度とごめんだ。

 

 六、八代岬へ

 

 昨晩、急遽休みになった3人。涼子は「夜遊びしてくる」と言って、人より車が多いこの地域で、そこまで危険はないだろうと思ったが、ベロベロに酔った涼子が部屋に帰ってきたウィスキーがメインだが、フルーツ系のチューハイの臭いもする。ちさは遠慮なくビンタした。澄子は酒が入りながら、ちさを宥めた。

「夜に1人で! 本土じゃなくたって危ないわよ!」

「ま、まぁ。この閉塞感一杯やりたがるのもわかるし。大目に見ようよ。ね?」

ちさは涼子を放り投げてムスッとして、クーラーボックスの何本目かわからないビールを開けた。布団を敷いて、涼子を寝かせて、澄子は嫌な予感を働かせた。「何か得てきたか、手を回してきたか。」

澄子も冷蔵庫からビールを取って、テレビを見ている。流れてきたニュースが気になった。

「速報です。先程、某カラオケ店で強制性交等罪の疑いで、相模雄太容疑者が現行犯逮捕されました。調べに対し、容疑者は「やっていない。ハメられた。」と供述しているようです。次のニュースです。」

相模雄太が逮捕された。要は強姦。相当に重い罪で執行猶予がつかない場合も多い。被害者が金で示談するなんてあまり聞かない。澄子は飲みながら考えた。探偵の話。関係者の話。全て併せて考えて、このニュースがあっておかしくない。

考えていると、急に涼子が起きて、周りを見た。

「どお? 現実に戻った気分は。水もってくるわね。」

私に対する涼子の眼は冷たかった。煙草と酒の臭い。どっちも嗅いだ覚えがある。澄子は涼子があの探偵と単独で接触していたと勘づいた。

「バーにでも行ってきたの?」

「ううん。スナック。1人飲みだよ。」

涼子は水を飲んで、大きなため息をついた。「ちさに「怒られるかもしれないけど、夜風に当たって酒気を抜かない? 入れながら。」

澄子はもう1本ビールを出して、涼子はクスッと笑った。

ベランダに出た澄子と涼子。ちさは嫌そうな顔をしている。

「どこの乱交パーティーに言ってきたの?」

「そんな楽しい所ないわよ。ただのスナック。なみこってとこ。」

澄子は何も言わなかった。気晴らしには丁度いい。

「ねぇ。聞いてくれる?」

ビールを飲んで、涼子が言った。

「なぁに?」と澄子が返す。

「私はねぇさんの1番になりたいって言ったら、ねぇさんは、アタシをオマエの1番にしてみろよって言ったの。それから私、頑張ったつもりだったの。ねぇさんの笑顔とか、驚く顔が見たくて、思い切って日焼けサロンでギャルの格好したり。ほら。あの時のファミレスの時の。」そんな理由だったのか。

「ねぇさんは笑ってくれた。ペシペシ頭をたたいて、似合わねぇって。ちーちゃんからはバカにされたけど。それでも嬉しかった。でも、あの時、ねぇさんはドリンクバーに飲み物を取りに行って、私達じゃなくてあなたの席に行った。ふと、コンパクトを取って自分の顔を見たのよ。何がいけないんだろう。なんでだろうって思った。なんとなくだけど、ちさがバカだっていうにも一理あり。猪突猛進で1番を勝手に目指して、ただ相手に好かれる事、信頼される事が1番。今思えば、もっと別の次元の話なのか。まだ答えが出ない。どういう事なのかな?」

冷たい眼と冷たい口調で淡々と話す。難しい話だなと、澄子は思った。

「おんなじ事聞いたのだとしたら、ちさはなんて?」

「ううん。そう思ったのは最近。当時のアタシにはバカだってしか言わなかった。あの子口悪いの。」

ちさらしいな。懇切丁寧に説明せずズバッときる。

「澄子はどうしてそんなにねぇさんと仲がいいの?」

涼子はぼーっと湾を眺めている。

「そんなに仲がいいわけじゃないわ。たまに会って、たまに話して。ほら、アイツも口下手でしょ。そんなに盛り上がらないけど、なんとなく、2人でいてもなんとも思わないし、居心地も悪くないって感じかな。悪い言い方だと、いてもいなくても一緒。良い言い方をすると、いないと少し物足りない。そんな感じかな。アイツがどう思っているかは知らないけど。」

涼子が微笑んだ。視線を逸らして言った。

「そっか。そうしたいからそうするだけよっか。残酷な天使。」

涼子はビールをを飲み干してベランダに出た。ちさとまた喧嘩になるんじゃないかと思ってビールをもって追いかけた。想定外の状況。涼子がちさの後ろから抱き着いて、ちさは片手で、涼子の片腕を触り、ビールを飲んでいた。

 出る幕は無い。そう思って、澄子はテレビを見てビールを飲んでいた。

1時間番組だったかエンドテロップが流れ始めた頃、涼子とちさは2人ともフリーハンドでお風呂セットをもって「お先!」と楽しそう。澄子は笑顔で応えた。


 10分くらいたった頃だろうか。いい具合に酒が回ってきた澄子。冷蔵庫からビールを取り出す。開けて座って、パチパチcとチャンネルを変えているとドアが開く音がした。どっちかが帰ってきたんだろうか。それにしてもずいぶん早いな。まだ10分か尾く見積もっても20分くらい。「おかえり。」と振り向いた澄子。

 あまりに衝撃的な光景に澄子は缶ビールを落とした。

「よぉ。ダチ子。」

 これは現実なのか? 酔っぱらって幻覚を見ているのではないのか。

目の前にカトハルがいる。髪は短くなっているし、少し顔の印象も変わっているが、間違いなくカトハルが1人でいる。

「へっ。」と笑っている。なんでだ? なんでなんだ。いきなり現れるなんて。

何が起きているのかわからないまま、私の体が動いた。

バチン! と乾いた音がした。部屋の中でカトハルが左頬に手を当ててきょとんとしていた。澄子の呼吸は荒かった。

「何してんのよ! あんた。」

私の声が怒りに震えている。

「あんたの事! どれだけの人が心配してると思ってるのよ! お母さんもお父さんも、涼子やちさだって、フェイラムさんも三島さん、洋子さん、奨太さん、みんちゅの親父さんやシュウさんも。みんなあんたの事を心配してるってのに何してんのよ!」

カトハルはうつむいて何も言わない。

「なに黙って

バチン! と乾いた音がして、私は右によろめいた。

「アンタにわかんねぇ事だってあんだよ。」

私を見るカトハルの眼は鋭い。昔と変わらない、いや、今のこの眼は昔以上に鋭くどこか洗練されていた様に感じた。

「明日、八代岬に朝11時に来い。それですべて終わるから。」

カトハルは部屋を出ようとした。私はとっさに手を掴んだ。

「待って! 今、涼子とちさを呼んでくるから。2人にも会ってよ。」

カトハルの歯ぎしりが聞こえた。澄子の腹に衝撃が走った。私は腹を抱えて膝をついた。

あまりの衝撃に動けないでいる。カトハルを見上げると、ひどく悲しそうな顔をしていた。

「わりぃ。そこで全部話す。」

そのままカトハルは部屋を出て行った。私は腹を押さえてうずくまっていた。追いかけたい気持ちに体がついていかない。腹部の痛みに立ち上がるのも辛い。

 なんでだ。なんでこんなタイミングでここにアイツ本人が現れた。明日の朝11時、八代岬。そこに行って何があるんだ。ここに来るって事はいつでも私達に会えたはずなのに。

なんで。澄子は苦しみながら考えた。

 しばらくしてドアが開いた。澄子が顔を上げると、ちさがいた。ぎょっとしている。

「どうしたの!?」

ちさが私に駆け寄って助け起こして、布団に寝かせてくれた。

何があったのか、食あたりか?など質問攻めだ。私は本当の事を話した。

「さっき、春香が来たの。」

ちさの表情が固まった。

「うそ。」

「本当。待って、涼子とちさにも会ってくれって頼んだんだけど、みぞおち食らって、動けなくて。いなくなっちゃったわ。本当にごめんなさい。」

「うそばっかり。」

ちさはうつむいていて、寝ている私からも顔が見えない。でも、膝の上の手が小刻みに震えていた。いつも冷静なちさが、理由もなく頑なに私の話を否定する。

 でも、きっとわかっている。いや、わかっていてほしい。もしも私がそんな狂言をしても何の解決にもならないって。私がそんなバカだと思われているなら仕方ない。私のこのおなかの鈍痛を伝える手段はないのだから。あのバカ。確かに男子生徒を撃退するだけの腕力はあるのね。ちさを強姦魔から撃退できたのも頷ける。私に振るわれるとは思わなかったけど。

「本当にねぇさんが来たなら、詳しく教えて。」

段々痛みも引いてきた。私だって落ち着きたい。痛みは残ってるが上半身を上げた。

「涼子が来てから話すわ。二度手間になったら嫌でしょ。」

ちさは不満そうだがとりあえず、待った。

 涼子が帰ってくる頃には澄子のおなかの痛みは治まった。神妙にしている私とちさに驚いた涼子は缶ビールを持っていた。ちさが「バカ。」と怒っていた。

 3人でテーブルを囲み、私が口を開いた。

涼子はちさと同じ様に固まった。私だって整理できないくらい訳の分からないの事態だ。

でも、事実だと分かってほしかった。色々と話して、私の右腹の真新しいアザを見せたら納得してくれた。自分でできる演技ではない。あのバカのパンチの強烈さが浮き出ていた。


 明日の朝、11時に八代岬。そう言うと、2人はスマホを駆使してルート検索した。

何を終わらせるのか、皆目見当もつかなかった。私と同じ疑問をちさが私に問いかけた。私にもわからないと答えた。ちさは悔しそうにしている。涼子はずっとうつむいていた。カトハルの事になるとヒートアップする涼子がこんなに静かにいるなんて。

 とりあえず、明日11時に八代岬に行けばカトハルと会える。3人ともそれだけ納得して寝る事にした。もう夜もふけている。

 閉塞感で暗い気持ちになっていた私達に、カトハルはいきなり現れた。

私は眠れないまま状況を整理したが、いくら考えても解答が見いだせない。最後に目覚まし時計を見たのは深夜の3時頃だった。


 七、闇を喰った者と光へいざなう者


 2017年 7月31日。

 澄子はは朝、ちさに起こされた。涼子は既に起きて、2人より先にお風呂で気合を入れると言ったそうだ。ちさは入念に旅行バッグから、きれいな服を選ぶ。涼子のバッグも開けっ放しで、一番のお気に入りだろう物以外ぐちゃぐちゃだった。2人の気合いの入れ様はすごい。会いたい情熱が臨界点に来たんだ。当然か。澄子は確かに緊張してはいるが、起きて歯を磨いて髪をまとめるルーティーンをした。指定の時刻にはまだ時間がある。私もお風呂に入る事にした。浴場に行くと、2つのかごに衣服が入っていた。湯煙で曇った浴場でふと見ると腹に青あざがあった。内風呂で体と髪を洗っていると2人、露天風呂に2つ人影があった。露天風呂から1人の女性が出てきた。まただ。藤田秋音。

「あら、またまた、奇遇ね。」

それはこっちの台詞だ。よりによって朝風呂で会うなんて。数日でこんなに頻繁に会うものだろうか。変な気分だ。藤田秋音と澄子は内風呂で汗流しやトリートメントをしている。

「ねぇ。気持ち悪いかもしれないけど、何かの縁だと思うの。少し話を聞いてもらってもいいかしら。」

澄子は断る理由が思い浮かばず、頷いた。

「私ね。本が好きなのよ。」

きれいな黒髪をまとめて、なんだか悲しそうに話している。

「ある本でね。すごく辛い思いをした女の子がいて、お母さんと仲がとても悪いの。妹がいてね、その子は家族を大切にしたいんだけど、お姉ちゃんはお母さんを絶対に許せないの。その子は、お母さんとお姉ちゃんと、どっちと対立するか。どうしたと思う?」

 澄子は直感的に思った。何か聞いた事がある様な話だ。いきなりコアな質問を投げかけられて内心戸惑っていた。でも、もしも、私の場合に置き換えて、和彦お兄ちゃんと良助お兄ちゃんが同じ事になったら、私は、その話の様に、兄に家族を大切にしてほしい。私が辛い目にあっても、兄と両親には仲良くあってほしい。

「正解なんて、皆で決める事だと思います。」

 トリートメントを塗っていた彼女の手が止まった。私はいつの間にか微笑んでいた。意識的じゃなかった。藤田秋音女は「ぷっ!」とふき出し、2人で大声で笑った。彼女は目に入ったシャンプーも入ったトリートメントを洗いながら私に言った。

「もう! アナタのせいで目が痛くて仕方ないわよ! 目薬もってきてないのに!」

楽しそうに笑う彼女の笑顔は素敵だ。髪の泡を落としてしっかりと顔を洗って、彼女は「はぁ。」とため息をついて立ち上がった。

「きっと、そんなところなのよね。でも。ね。」

相変わらずけだるい口調で妙に色っぽかった。

彼女はにっこり笑って「また会いましょう。」と言って去った。

 澄子が体を洗い終えて露天風呂に行くと、涼子がいた。

また飲んでいる。カップ酒を片手に空を眺めている。朝からお風呂に入りながら健康上いいわけがない。だけど、私は何も言わず涼子の隣に入った。推測に過ぎない、涼子の闇はわからないけど、これから迎える大一番に備えるのに、景気づけの一杯くらいいいだろう。 

「さっき、変な女の人がいたの。」

涼子が呟いた。

「黒髪の泣きほくろの美人?」澄子はびっくりしながら頷き、涼子は言った。

「私、変な事聞かれて、なんて答えていいかわからなかった。だって、人の幸せなんて、結局、本人じゃないとわからないじゃない。」

やっぱりそうか。同じ事を聞かれたんだと思った。確かにあの人は礼儀正しいけど変な人だ。数かい、偶然会っただけの他人にいきなり変な事を聞いてくるんだもの。

「いくら考えても、正解が出ないものじゃない。人間関係なんて。」

考えさせられる涼子の言葉だ。澄子は正直その通りだと思う。人間関係は上手く作れるものかもしれないが、それは偽善によると思う。中国の思想家、荀子の考え方だ。性悪説。人は産まれながらに悪である。だからこそ、善行を為すには偽善、人為によるしかない。現実論だが、相手を思いやる気持ちがある故。その気持ちこそが尊い。澄子はそれが好きだった。涼子はカトハルに対して、1番でありたいという「人為」があるからこそ、色々な事をしてきた。それは偽善によるものだったのかもしれない。自然に接しても1番になれていないという自覚があるからこそ、自分を曲げてでも、カトハルの1番になれればいいという強い熱意。それは否定できない。

「そうね。ただ、そばにいてくれる人がいたら、嬉しいものじゃない? 人間って。」

涼子はカップ酒を飲みながら、私を見た。無表情だ。涼子はカップ酒を一気に空けた。

「体に悪いわよ。」

「うん。ごめんなさい。」

涼子は風呂を上がった。まだ時間はあるはずだ。私はもう少し湯につかる。

 朝の眩しいお風呂で思った。この摩訶不思議な旅も今日で終るのだろうか。カトハルはすべて終わると言っていた。何が終わるのかわからないけど。


 露天風呂から街道に立ててある時計が見える。9時に近かった。そろそろ出ないといけない。八代岬に11時に着くバスは10時3分。私は急いでお風呂を上がり、髪を乾かしてスポーティーな格好で部屋に戻る。連日暑かったからだ。

 部屋にはちさがいた。ベランダで缶ビール開けて景気づけしている。

「涼子は? もうそろそろ時間だけど。」と澄子が聞くと、ちさは不思議そうに首を振った。

「まだ帰ってこないよ。澄子さんこそ、一緒にお風呂にいたんじゃないの?」

変だな。1時間近く前に涼子は私より先に出ている。荷物もそのままだ。ロビーにもいなかった。澄子は身支度をして、時計を見た。そろそろ出ないといけない。まさかと思い、ちさを見たら流石、天才。既にスマホで撮ったバスの時刻表前のバスは1時間前。9時30分には八代岬につく。

「あのバカ!」とイライラしてちさが涼子に電話をかけた。数分経っても、何回かけても出ないようだ。澄子も察した。私達より1時間前のバスに乗ったんだ。

 そうだ。そういえば、脱衣場に涼子のお気に入りのワンピースがあった。

「もしかしたら。」

ちさに声を掛けたら、私の背後にいた。ちさは歯をかみしめた。

「あっのバカ!」

 十中八九、涼子は先に出たんだ。澄子はちさと一緒に宿を出た。涼子は2人を置いて先に宿を出た。隠している情報があるとしてもこの場で? 一体何を?

とにかく澄子とちさは宿を出て、バス停に向かった。予定の八代岬10時3分着のバスを待つ。ちさは感情を抑えているが、確実に怒っている。何度も電話をかけている。全然でない様で、ちさの表情はずっと怖い。

 バスが来た。

2人掛けの席に座って八代岬の近くのバス停に向かった。春香が言った「すべてが終わる」これと関係していたのか。亮子は。これから何が起きるんだ


 八、オルゴールのねじ回し

  2017年 7月31日。加藤公子。八代岬。

 私は実の娘に八代岬に10時に呼び出された。運転している間、複雑で、暗い気分だった。いつも通りラジオをつけていても、何も入ってこない。ただの音だった。あの子が元気でいてくれればよかった。でも、こんな会い方はしたくなかった。親の勝手な感情かもしれないけれども、できれば感動の再開を望みたかった。でも、こうなったのも私のせいなんだから。

 八代岬についた。呼び出しのとおり、10時に岬に着いた。ここは何もない公園で、ベンチが少しあるくらい。景観がいいっていう理由で、観光客は来るけど、地元民は来ない。

 車を停めて、岬に向かう。木立の中を歩いて、視界が開けた時、グレーのすーちで左目に泣きほくろがある長い髪の女性がいた。間違いない。この前会った時と同じ私の長女だ。

 藤田秋音。間違いなく、私の娘。私が初めて産んだ愛しい娘。成長してから会うのは2回目。立派に成長してくれたと改めて思う。私と違って頭のいい子で、弁護士として活躍しているんだ。人様の役にたつ立派なお仕事だもの。嬉しい。でも、秋音の言葉は相変わらず冷たかった。

「公子さん。おはようございます。」

「その言い方はやめて!」

お母さんなんて呼んでもらえるとは思わなかった。でも、その言葉は胸に痛みが走る。

 

 何週間か前の話になる。

 大人になった秋音に会った時の事を思い出した。

 秋音が家に訪ねてきた。

 玄関を開けた時にすぐに秋音だとわかった。だって、どんなに離れてても、自分の腹を痛めて産んだ愛しい娘なんだもの。私は涙を抑えらえれずに、秋音の暗い沈んだ表情を見ていた。明夫さんから連絡が来なくなってから、何が起きていたか心配で心配でいた。何もできない自分が情けなくもあった。

 そんな矢先、いきなり秋音が現れるなんて思いもよらなかった。

私はただ、秋音を家の中に招き入れた。秋音は何も求めず、私は秋音にお茶だけを出した。秋音は、鞄から封筒を出した。秋音の父である、明夫さんの遺書だった。

「父の遺書です。」

 私は涙をこらえて黄色い紙を受け取った。

 藤田明夫。秋音の父親の名前。

 文面を読んだ。その時、涙を抑える事ができなかった。ボロボロと泣いて、テーブルに肘をついて泣いた。初めて明夫さんの遺書を読んで何が起きていたのかを知った。明夫さんの遺書には、サガミヤでの業務上横領の話や、私との馴れ初め、秋音や、春香の事が書いてあった。

 私はある理由があって明夫さんと秋音と別れた後、サガミヤで事務員として働いていた。私は舞竹島、明夫さんは東京本社だったから、同じ会社にいる事も知らなかった。本社経理部で当時の横領の噂は私は耳にしていた。それがまさか、明夫さんだなんて思いもよらなかった。当時、社内で、緘口令が敷かれていた。所長の相模勇矢が少しずつ経費をちょろまかし競輪い数字の操作をさせていたという。まさか明夫さんがその犠牲に。

 明夫さんはあの男の横領の濡れ衣で懲戒退職。それからは再就職も難しく、アルバイトもなかなか雇ってくれない。自殺にまで追い込まれた。遺書には、私の事も、長野の治夫さんの親戚の家の事情も書いてあった。文字にして渡されると、こんなにも辛いものだろうか。その時、秋音は冷たく言った。

「私の父は、私が23歳の時に自殺しました。首を吊って、警察の話では糞尿が床に広がっていた様です。私はそこにいませんでしたが。後日、警察と一緒に入った時には。」

「やめて!」

明夫さんの遺書を手に、私は大声で叫んだ。

 こんな遺書を読んだら、自分の娘である秋音が、どんな壮絶な人生を送ってきたのか書面から想像するだけで涙が止まらない。

 秋音の話を聞いた。

 明夫さんはサガミヤの汚職に巻き込まれて、再就職もうまくいかず、生活環境は悪くなって、酒浸り。正論で優しい秋音との喧嘩ばかり。別居する事になって、明夫さんは自殺した。そんな壮絶な愛娘の人生を作ってしまったのは、私が勇気をもって証拠を揃えて告発出来ていなければ起きなかった事かもしれない。

 年月が経ち、この島で初めて秋音と再会した時、秋音から相模に対する復讐計画を説明された。

 目的は、相模勇矢を社会的に抹殺する事。でも、直接的に殺人するわけではない。当時の横領の証拠がないし、企業に開示請求ができない。秋音は手段としてひたすらに残酷に考えたという。息子の相模雄太の女癖の悪いところを突いた。強制性交等罪で起訴する事で間接的に相模家を攻撃する。実際に、相模雄太は今野和子をレイプしている。まったく見たくないが、実際の画像もあると言った。

「そんな事やめて。何になるのよ。明夫さんは生き返らないわ。」

秋音はとても冷たい、モノを見る様な目で言った。

「そんな事はどうでもいい。父が生き返るなんて理論的にあり得ません。やりたいからそうするだけ。ただ単純。そうしたいからそうするだけ。極めてわかりやすいでしょう?」

私は秋音の極めて冷血な目を見てゾッとした。情に訴えるなんてどうやったって無理だ。

「次いで、私が伝えたい事は、春香を警察に探させないでほしいという事。あなたも探さない。安心してください。この島で私と一緒にいます。元気です。」

秋音の意志は固かった。その時、私はそっと秋音に遺書を返した。

「どうかしましたか?」と秋音が私の顔を冷酷に見ている。

その時、私は昔の事を思い出していた。


 さらに昔の話、佐藤公子と藤田明夫の話だ。

 私は神奈川県の生まれだ。家はひどい有様だった。父は仕事のストレスを家に持ち込み、大酒を飲んで、食べ物を粗末にして、物を壊して、訳の分からない作り話で母を責めていた。母はいつも泣いていた。私は心の底から父が嫌いだった。

 高校時代。私は荒れていた。母にひどく心配をかけて、警察に補導される事もあった。

その時、父は私を思いっきり殴った。母は止めたが、怒りが収まらない様で、私は何度も殴られた。口の中の血の味を感じる度、父の私を蔑む顔に怒りを覚えた。

 高校を卒業する頃だった。私は遊ぶ金欲しさにアルバイトをしていた。寿司屋だ。

「君、かわいいね。」とナンパされた。軽い男は嫌いだから、いつも断っていた。でも、この人は、明夫さんは他のナンパ男と違った。紳士的だった。いつも破格の安さの下町の寿司屋で、いつも梅のセットを頼んでいた。真面目で地味だが、優しい人だった。明夫さんは体目当ての人間ではないと感じた。いつも1人で来て、夢を語る子供の様な彼に惹かれていった。いつからか、私は明夫さんの事を好きになっていると自覚した。明夫さんは、少しおバカな感じだけど、とても楽しくて、純粋で、私にはぴったりだろうと思った。

 家庭のストレスもあったせいか、私は明夫さんと話している時が幸せになって、依存して、男女の関係になった。その年に私は秋音を身ごもった。学生同士、お金なんかない。どうすればいいかわからなかった。うちの親は学生結婚なんか絶対認めないし、明夫さんは長野から出てきて1人暮らしだった。長野に嫁ぐ事も考えたが、明夫さんの言えも厳しい。私は家を出て、寿司屋で働きながら明夫さんと同棲して、翌年、秋音が産まれた。

 産みの苦しみは大変だったが、こんなに愛らしいものかと思う程、かわいい娘だった。

秋音がいてくれる事が私の生き甲斐になった。「きゃは」って笑う姿を見て癒される。時間が足りなくなるくらい、秋音といたかった。

 非番の日で、子育てに奮闘している私の家のドアが鳴った。インターフォンがあるのにドアを叩いている。何事かと思ってドアを開けると、父がいた。

私は殴られてへたり込んだ。

「おまえぇ!」と怒鳴って私の髪をつかんで振り回した。「やめて!」と叫ぶと秋音が泣いた。父が秋音を見つけた時、私は反射的に秋音を抱えてうずくまった。父は私の尻を蹴飛ばし、背中を踏みつけ、暴言を浴びせてくる。

「俺に無断で勝手に家を出て! 貧乏学生と子供作って! ふざけてんじゃねぇぞ!」

 酒臭い。一言叫ぶごとに蹴られた。私は秋音を守る事しか考えなかった。

ドアがまた叩かれた。

「ちょっと! 何事だい! これ以上騒いだら警察呼ぶからね!」

隣のおばさんの声だ。父は舌打ちをして言った。

「2度と俺の前に顔を出すな。ウチにお前の帰る所はない。」

そう吐き捨てて私の尻を蹴って出て行った。ドアの向こうから「邪魔だどけ!」という父の声がした。おばさんが何か言っている。私は秋音を抱いて泣き止ませる。なかなか泣き止んでくれない。私も泣いていたからだろうか。おばさんは優しくしてくれて、何とか、落ち着いた。

 明夫さんが帰ってきてから、話し合った。私は勘当され、収入もほとんどない。明夫さんも実家の仕送りがなければ、秋音の世話もできない。私は、長野の明夫さんの実家に行く事を考えた。大きな牧場をやっている。秋音の為にも、そんな所でのびのび育ててやりたいと思った。

 電話で、明夫さんが実家に連絡してくれた。口調は重く、雲行きは怪しい。何回かの長電話の後、明夫さんは受話器を置いて、私に言った。

「実家は厳くて、親戚の加藤さんは引き取ってくれるかもしれないってさ。でも、条件があるんだってさ。」辛そうに膝の上の拳を握っている。

 明夫さんは私の愛娘を、泣きながら見つめていた。しばらく、沈黙が続いて、明夫さんが口を開いた。私は絶句した。

「その条件はな。俺が秋音と2人でならって事だ。公子の事を相当嫌っていて、親戚の縁で俺の事は受け入れてくれても、公子は受け入れられねぇって。それだけは譲れないんだって。」

私の頭は真っ白になった。

 当時、今ほど学切痕や未婚の母に寛容な世論ではなかった。特に、明夫さんの生まれた長野の地方は閉鎖的というか、排他的な風土が強く、結婚もしていないで子供を作ったなんて言ったら白い目で見られるという。つまりは、秋音と明夫さんと別れるという事だった。私にとって生きがいを失う。でも、このまま先の見えない未来に期待するのか。明夫さんもまだ就職できていないし、アルバイトだけでは限界がある。小学校だって中学校だってそれよりも、育てるだけですごいお金がかかる。私が寝ずに働いて賄えるだろうか。秋音の事を考えると私から離れた方が幸せなんじゃないか。私の希望は絶対3人で暮らしていく事だが、現実はそうに行きそうにない。辛いが、現実だ。

 秋音はスヤスヤと寝ている。この子の幸せを考えたら、どうなんだろう。私は泣いていた。声を上げずに、でも、止められない勢いで涙が流れる。

「わかったわ。」

明夫さんは「ごめん。」とだけ言った。

私は涙を止められず、止める手段もわからない。明夫さんも泣いていた。

 私達は布団を敷いて寝た。私はスヤスヤ眠る秋音を見ながら、眠れなかった。秋音をずっと眺めた。この子がどんな風に生きていくのか想像した。聖子ちゃんみたいなアイドルでも、歌手でも、お堅い仕事でも、普通のOLでもいい。酪農家に行くんだから、酪農業を継いでもいいし、獣医さんもいいかな。親バカだけど、多分この子はきっと美人だ。左眼の目元のほくろがチャーミングだ。いつまで見てても飽きない。

また涙が流れてきた。私の宝ものを手放すんだ。とにかく、しっかり、強く生きて。元気で生きていてくれたら、私は幸せ。

 翌朝、藤田明夫が目覚まし時計で起きた。時計を止めて、目をこすると秋音が泣いている。藤田明夫は驚愕した。部屋のどこにも佐藤公子の姿がなかった。

 その後、紆余曲折して、私はサガミヤという食品加工の会社に事務職として勤めた。生産拠点として新設された舞竹島の工場で、生産技術部の加藤忠夫さんと知り合って、付き合い、春香を身ごもった事をきっかけに寿退社した。春香が産まれてから、中学校に上がる前に、忠夫さんが東京に行く事になった。優しくて真面目な人で、春香もよくなついていた。そんな幸せな時間の中でも、私は秋音の事を忘れた事はなかった。


 八代岬に話を戻す。

 秋音が「公子さん。」と冷たい眼で私を呼んだ時、私は愛娘の秋音の心中を察した。私を恨んでいるんだろう。本当は抱きしめたかった。きれいな黒髪を撫でたかった。

「秋音って、呼んでいいかしら。」

秋音は冷たい表情で首を横に振った。私の胸は張り裂けそうだ。

「じゃあ、藤田さん。今日は? 私が謝ればいいのかしら。」

「いいえ。」

秋音は振り返って、海を眺めた。

「父の遺書を読んで、正直辛い思いをしました。この前申し上げた通りです。別にあなたのせいだと思ってません。ただ、報告と、聞きたい事がありまして。」

秋音の言葉は何でも受け入れよう。私にはそれしかできない。

「まず、私の復讐計画ですが、無事終了しました。相模雄太は逮捕され、強制性交等罪で起訴されるでしょう。あれだけの証拠がありますから。それに妹の相模美優も警察の聴取を受ける事になるでしょう愚策を取ったようですが科学的論拠には勝てません。所詮子供の考える事。教唆の罪がメインですがそれだけで、父を死に追いやったあの家はおしまいです。相模勇矢の社会的地位は地に堕ちます。」

相模雄太のレイプ事件は昨日ニュースで見た。確かに秋音の言う通りになるだろう。良くて左遷か、降格か。

「もう1つですが、聞きたい事があります。生前、父はあなたの事は死んだと言っていました。私はあなたが生きている事を父の遺書で知った時、会いたいと思いましたが、実際に会った時、不思議と何も感じませんでした。あなたの事を軽蔑しているわけではありません。ただ、父の想いに対して、あなたが何を思っているのか聞きたいんです。公子さんは父を愛してましたか?」

岬に吹く風で秋音の髪が揺れている。黒髪にさえぎられて、きれいだけど冷たい眼が見え隠れする。私は秋音の眼を見て答えた。

「えぇ。愛してたわ。それなのに。ごめんなさい。」

 涙を流しながら答えた。秋音は目をつむって少し考えていた。

秋音はおもむろにバッグから封筒を取り出した。

「成功報酬です。」

お金? 私は怒りに任せて封筒をはじいた。

「秋音! 人の気持ちを何だと!」

私の左頬に衝撃が走った。秋音に平手打ちをされていた。秋音は凍り付いた表情だ。

「あなたこそ。」

「姉さん!」

 振り返ると春香がいた。

私はへたり込んだ。春香は全部知っているんだ。秋音との会話、やり取りも全部見ていた。涙が止まらなかった。春香にこんな自分を見せたくなかったという、都合のいい希望もあったのは事実だ。自分の愚かさが胸を痛めつける。

 春香が私を助け起こしてくれた。封筒を私に差し出していた。

「違うんだよ。母さん。」

春香が封筒を開いて、中身を取り出した。

 お金じゃなかった。

 黄ばんだ古い写真の束だった。何枚も何枚も、明夫さんと赤ちゃんの頃の秋音と私が映っていた。私は号泣して、春香が支えてくれなかったら立っていられなかった。

あの時、私は身勝手に財布が入ったいつものバッグだけ持って部屋を出た。きっと恨まれ、忘れられる都合のいい事を考えていた。でも、明夫さんは思い出を大切に秋音に。

「ちなみに、私には血のつながった姉妹は春香だけです。父は独身を貫きました。」

私は写真を胸に抱えて、泣いた。春香が抱きしめてくれた。娘の胸で泣く母親はなんて無様なんだろう。

「姉さんが言うにはさ。私達、法律的には大丈夫なんだって。相模は関係ないし、母さんの保護育成遺棄だか何だか、それも事情によるし、とっくに事項だってさ!。」

私は、必死に鳴き声を押さえて声を振り絞った。

「秋音。」

「なんですか?」

「私、頭悪いからわからないから教えてほしいの。」

春香がぎゅっと、拳を握った。秋音の表情は変わらない。

「あなた、私を憎んでるの? 自分勝手に手放した時からどんな処罰も。」

秋音の目は冷徹そのものだった。私よりも頭のいいこの子はどう考えているんだろう。私ができる事は春香を全力で守るだけ。でも、秋音は。

「そんなの決まってます。憎むなんて無意味で愚かしい事。父の死はあなたに法的に一切の関与もありません。育児放棄も時効。経済力もなしに行政に頼らなかった父にも責任がありますから。」

秋音は私と春香の隣を通り過ぎて言った。

「ただ生きていくだけよ。」

秋音が歩いていくと、数歩で止まった。その先には相模美優がいた。


 八、オルゴールのねじ回し


 2017年。7月31日、10時45分。相模美優。 

 私は八代岬に呼び出された。

綾香からあの女弁護士に呼び出されて私の話を聞きたいとか。断ったが、和子の事も妙な事が起きたとか詳しく対面で話したいと。あのクソが捕まった矢先、良い回答が思い浮ばない。状況は極めて厳しい。貝の殻を更に閉じ込めるしかない。まぁ、確かに、今野対策で私があのクソを綾香にハメさせたのは事実だが言うわけない。だが、綾香に対しては必殺のデータがある。あのHDDは最強の脅迫材料だ。

 だが、私はこれ以上、波風を立てず島を出たい。身の潔白を再度主張する為に渋々、話に応じた。これは私にとって勝負の時。ここを乗り切ればいい。

 木立の間を進む。何か音がした。振り向くが、誰もいない。兎か狸か。左に曲がると開けた岬につく。その時だった。あの藤田秋音という女弁護士が目の前にいた。その手前に、泣き崩れている加藤公子。1番驚き、目を疑ったのは加藤春香の姿だ。おばさんを支えている。なんでこんな所に。綾香の姿はない。なにか、女弁護士の策略か?

 あまりにも衝撃的だった。だが、冷静さを取り戻した。

 この女弁護士は私に、和子の話を聞きに来たはずだ。加藤の親子は別件。どんな理屈をあの女弁護士が立てようが知らぬ存ぜぬ。あとは芝居だ。いや、既に沸騰してグルグル回っているから自信はないが、それもまた、演出になるか。目の前の女弁護士が私を冷たい眼で見下している。てめぇ、何企んでいやがるんだ。腹が立つ。バカにすんな!

「は!春香さん!」

心を落ち着けて、とにかく優先順位を春香に向けた。目の前の女弁護士になるべく当たり障りのない状況を作る為だ。美優は走って春香と公子に抱き着こうとした。

「寄るな。ゲス女。」

春香が弾いて、美優は春香の言葉に歩を止めた。

「なぜそんな事を言うの?」春かは敵意むき出しだ。腹が立つ。

「相模美優さんですよね。この度はお兄様の件、大変なご不幸ですね。」

「あ、いえ、この度は。」

私も一応頭を下げた。考えた。あの女は藤田秋音。ヤニと煙草も知ってる。そして、そんな立場の人間の前で、これからの奴隷にゲス女と言われた。そういう情報が漏れたのは、あの探偵か? いや変な事は言ってない。まさかとは思うが、今野か綾香か。とにかく、今は知らない振りをしておこう。

「ゲ、ゲス女だなんて。春香さん! 心配したんだか

がさっと音がして、美優が振り向いた。黒木綾香。冷たい目で私を見ている。そしてもう1人。東上紗枝とかいう美容師もいた。「何故だ?」美優には理解が追い付かなかった。

「藤田さんはご無沙汰してますし、あ、綾香ちゃん。それに、東上さんでしたっけ? 綾香ちゃんの相談に

「私の名前は安藤涼子。姉さんに会いに来たただの大学生よ。登場紗枝の方がよかったかしら?」

 美優は戦況分析をした。春香は最悪。蹲ってるババアは戦力外。春香と同レベルに厄介なのが藤田秋音。弱みを握ってる利点があるのが綾香。安藤涼子と名乗り直したこの女は不明だ。私は混乱しながら頭をフル回転させた。バレたとすれば一気にこれまで築いた牙城が崩れた。ある舎弟に10万で売った綾香のレイプされてる画像だ。藤田秋音がスマホで動画を出てきた。

「無修正どころではありません。黒木綾香さんから聞いた内容、経緯、金銭取引。全て重罪です。教唆とはなりますが、それこそ悪意。自分がやって無ければ、法の眼を通過できるとでも? そして、黒木さんへの暴行傷害罪。黒木さんの証言によれば相当重い罪になりますねぇ。」

私は混乱の極みだった。「は? まず、あの女は安藤涼子? まぁ、そんな事はどうでもいい。問題は綾香がレイプの教唆をさせた証拠についてだ。大体は舎弟に撮らせたんだからアタシに足がつく事はないはず。」

またガサッと音がして振り向くと、あの2人の女がいた。確か、探偵の調べじゃ足立澄子と渋谷ちさ。11時近い。異様に時間が短く感じる美優。こいつら何を結託している。まさか、全てアタシをこういう状況に追い込む為の布石だったのか?

「藤田さん。私はこの相模美優さんに強制性交等罪の教唆をされました。」

綾香がスマホを取り出した。私のHDDにある画像を臆面もなく無表情に流している綾香。 は? コイツ、別立件で雄太のレイプじゃなくて自分の事を弁護士に!?

しかもどっから手に入れやがった! 私の頭の中が真っ白になった。

「あ、綾香ちゃん。何言ってるの? そんな事してないじゃない。それ、私初めて見るけど、自撮り?」冷酷な綾香はスマホを操作して同じ、柔道部の落ちこぼれに乱交され、明らかに高笑いしている美優の声がする動画を見せた。

「てめぇ、とんでもねぇクズだな。」公子を支えながら怒り心頭の春香。

ただのバカの性奴隷舎弟だったはずの黒木が、いつこんな証拠や知恵をつけたんだ。私は無言で一歩退いた。

「人を陥れるのは得意でも見る眼はまだお子様ね。実際お子様だけど。誰かの。」

まさかと、美優の勘が働いた。

「まさかあの暗黒女王が?」家庭に興味のないあの母親が破壊を求めても何の違和感もない。綾香はICレコーダーを取り出して、再生ボタンを押した。

「今度で終わりだから。約束する。」少しノイズが入って「相手は相模雄太。厚めのゴム用意するから」つい先日の会話だ。

 私は、肩の力が抜けて、バッグが地面に落ちた。

「テメェが猿だと思ってた田舎もんでも、女ってのはどこまでも怖いんだぜ? 田舎もんの方が賢かったみてぇだな。心情的にはブチ殴りてぇが、母さんも姉さんもいる所で、んな事したくねぇ。お前らクズ兄妹の所に行くなら閻魔様の時に行くよ。カス。」

加藤春香が問う気満々で拳を鳴らした。

 黒木綾香は冷徹に容赦なく、ぷつっとボタンを押して新しい動画を再生した。和子の件も流れ、その後、抵抗する綾香の声と私の高笑いの中、黒木綾香が輪姦されているのを高笑いしている動画も流れ始め。

「てぇめぇぇ!!」

怒鳴り声をあげて綾香に掴みかかり、殴る蹴る。スマホを取り上げようと手を伸ばしたが、澄子が動いて一瞬のうちに私は地面に叩きつけられた。

「てめぇ! こんな事してただで済むと思うなよ! 全部モザイクなしでネットに流してやるからな! 」

綾香は静かに私を見て、「ひひひ」とニヤッと笑った。

「ダチ子。変わるぜ。」加藤春香が私を背後から羽交い絞めにした。すごい抵抗力だが、腕力は春香の方が上と判断し、澄子は任せた。

私がどんなに体を動かしても綾香に近づけない。なんていうバカ力だこの女!

「相模美優さん。今警察を呼んだわ。教唆罪と、暴行罪。多分、少年院行きになるわ。」

女弁護士が冷徹に言った。頭が真っ白になって、動きが止まった。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

私は怒りの大声を上げた。

 

 九、闇か影か

 2017年7月31日 11時過ぎ。高橋大二郎という警官が110番を受けた。

「警察です。どうされましたか?」

「八代岬で、強制性交等罪の教唆の立証と暴行事件の確認が取れました。お願いします。何とか取り押さえていますが、怒り狂って暴れています。危険です。」「わかりました。向かいます。お名前は? 藤田秋音です。弁護士をやっております。」高橋は先輩警官と一緒にパトカーに向かった。

強制性交等罪の教唆に暴行の現行犯か。確かに怒り狂った様に騒ぎ立てる少女の声も聞こえた。「こんな昼間から随分ヘビーな話だな。」「同感です。」

 非常に凶暴な状態だという。100㎏級の柔道で優勝した事もある巨漢の高橋は、偶然とはいえ、こういう時が出番だ。

 パトカーが、警察署から八代岬に着くと。甲高い罵詈雑言が聞こえる、現場に駆け付けると、女に羽交い絞めにされている小さい少女がものすごい声で「綾香! てめぇ絶対ぶっ殺してやる!」とか「どうなるかわかってんだろうなぁ!」など、長身の女性に罵声を浴びせている。初老の女性と、グレーのスーツの女、罵声を浴びせられている長身の女。それと、麦わら帽子の女と、黒髪の長身の女、小さい女。合計で8人か。「高橋。その人と変われ。」先輩警官に言われ、高橋は怒り狂った少女を前から柔術で押し倒し、ひっくり返して地面に押えた。「危険です。離れてください。」高橋に言われ、春香は離れた。高橋に拘束されていても少女は汚い暴言を吐き続けている。先輩が通報者を確認する。スーツ姿の女だった。少女は全力で抵抗しながら「くそが!くそが!くそが!」と叫び続ける。「君。これ以上抵抗するなら公務執行妨害、その発言も続ければ侮辱罪もつくよ。」高橋の声に暴言のボリュームだけ小さくなったが暴言は言っている。先輩が、スーツの女と、長身の女のスマホを見て、事情を聞いている。高橋にもAVの様な喘ぎ声と抵抗する声と罵詈雑言が聞こえる。先輩は高橋を見て頷いた。先輩が寄ってきて少女に言った。「11時34分。相模美優さん。強制性交等の教唆の疑い、7人の目撃者による暴行および傷害罪。名誉棄損の疑いで、逮捕します。高橋。手錠。」高橋は手錠をかけて、少女急に静かになった。

「相模美優さん。立派な証拠がそろっています。署に連行し、取り調べを受けてもらいます。」美優は手錠をかけられてから、脱力し、高橋が立たせた。

その瞬間、少女は絶叫した。「絶対許さねぇ! 絶対許さねぇからな!」と叫んだ。豹変する美優に先輩警官も高橋も驚いた。先輩警官が言った

「さっきも言ったが! 侮辱罪ですよ! 抵抗を続けるなら公務執行妨害もつきますよ! わかりましたか!?」

高橋は思った。こんな異常な状態に何故なる。いきなり独房もあり得るくらいの突発的な暴れ様だ。

 美優は高橋に連行された。

「私、舞茸北署の伊藤と言います。」伊藤は警察手帳を出した。

「辛いでしょうが、黒木綾香さん。ご同行願えますか? あと、藤田さんは、お話しでは黒木さんの代理人でもあるとか。是非お聞かせ願いたいのですが、他の方々は?」

「いえ、少し状況整理をさせてください。足立さんと渋谷さんには事情を説明していないんです。必ず行きますから、少々お待ちを。」

 伊藤は藤田から名刺をもらい。「わかりました。ご協力感謝します!」と敬礼して去って行った。伊藤は木立を抜けて、高橋が相模美優を後部座席に座らせて、シートベルトを締め、逃走防止の為か、手錠を座席のハンドルにもつけていた。伊藤はため息をついた。「えーこちら伊藤。相模美優という容疑者逮捕。証人と別の車でないと危険な人物と判断しますので、応援を一台お願いします。その女性は被害者で、冷静で正常な会話が可能で凶暴性は見られません。場所は八代岬です。」内線からすぐに「了解。」と返事が来た。

車内に入り、一応静かだった美優をバックミラーで見て、キーを回した。

「こんな小さい島の事件としては珍しくデカくなりそうだな。」

「平和が一番ですよ伊藤巡査。」「まぁな。」伊藤は気になった。


  2017年7月31日。八代岬。


 残ったのは藤田秋音、加藤公子、加藤春香、足立澄子、安藤涼子、渋谷ちさ6人だった。最も情報不足だったのは澄子とちさ。

 少しして、公子が茶封筒を胸にギュッとしまって立ち上がり、木立を出て言った。ちさが振り返った瞬間、「やめてくれ。ちさ。お願いだ。」

春香の言葉に、ちさは数秒して頷いた。

 「アタシから話そうか。原因はアタシにあるんだし。わりぃ事、お前らに散々しちまったからな。」春香が言った。そういい終わるかどうかの瞬間だった。ちさが駆けて、春香に抱き着いた。春香は優しく微笑み、ちさの頭を撫でた。

「悪かったよ。ちさ。」

「涙を流してちさが顔を上げる。

「そんな事! 姉さんが無事で、元気で! アタシはそれで十分!」

周囲の3人は、邪魔をしないで、ただ見ていた。しばらくか、ちさは泣き止んでからも春香は頭を撫でていた。 

「そのままでいいわ。でも、いきさつは聞かせてくれないかしら?」

春香が「へっ」と言って、ゆっくり語り始めた。

「あんな薄っぺらいクソ男。洋ちゃんに聞いてぜってぇーあり得ねぇと思った。それに、親の都合の婚約なんてもっと嫌になって断って長野のおじさんのとこに行った。動物は好きだし、酪農にも興味があった。マジで長野に移住しようかと思ったけど、お前らも聞いたんだろ親父と治夫さん、サガミヤの社長の康夫さん。仲わりぃって。アタシは治夫さんみたいにマジで動物を大事にする方が好きだった。ただの喰いもんとしか見ない康夫おじさんも親父も嫌いだった。で、楽しくやってるうちに、壁にぶち当たっちまったのさ。現実っていう、どうしても曲げられねぇ壁に。」

 ちさが泣いて涙を拭いながら、静かに春香から離れて話を聞いていた。

「可愛くて仕方ねぇ、毎日世話して、治夫さんも女将さんもいい人で動物への愛はすごかった。ガキども可愛くて、よく色々遊んでさっき言った通りさ。ある日、ガキどもが寝静まった頃まで治夫さんと話して、酒の勢いもあったんだろうな。アタシは言ったさ。さっきの話をマジで考えて、何なら籍を変えても構わねぇ。治夫さんに飲みながら言った。優しくて気のいいのんべぇでの治夫さんが急に鋭い目になって。アタシはビビった。女将さんは下げ膳して。2人になって、治夫さんは言った。明日。夜でいい。ガキどもが寝静まってから牧場に来い。そう言われた。アタシは不思議だったけど、妙に盛り下がってな。不思議も寝れなかった。」

 翌日。メシ終わりにガキども寝かしつけて、治夫さんに呼ばれた。鎌とナイフを佩いて「来い」って言われた。」

 秋音は聞いた話だから目をつむり、澄子とちさは何んとなくぞ想像がついた。想像はいくつか超えていたが。

「治夫さんについてった。任された軍鶏の小屋だ。アタシが一番好きで可愛かった奴を指さして、治夫さんは「肉にしろ。」って言った。」そんなって、食い下がったけどナイフを出して「やれ。」そう言われた。アタシは心を殺して、首めがけてナイフを振った。非でぇことした。肉は切れてるが骨が出て、ぴくぴくしてんだ。アタシは人間殺した方がマシだとすら思った。」澄子もちさも黙った。

「治夫さんは「次だ。そいつもって、来い。」その後、可愛がってた子豚を殺す様に言われた。「できない」殺したしゃっもを地面に置いて泣き崩れちまった。でも優しくも厳しい治夫さんは「いいからやれ!」と言った。」

「姉さんやめて!」

秋音は知っていた話。澄子も涼子も目を閉じて、ちさの涙腺が噴き出した。だが、春香は言った。

「脈の部分は知っていたから、そこに鎌を当てて思いっきり、脈に対して垂直に斬った。あの叫び声。今でも忘れられねぇ。その後、アタシは声も出さず、殺した軍鶏と子豚に、膝から落ちた。」

ちさが泣き崩れて、皆俯いていた。

「治夫さんは言った。

「俺達兄弟はやってる事は同じだ。やり方と命の尊厳への敬意は違い過ぎて絶縁だけどな。だが、これでおまんまくってる。鏡のオメェを見て、予想通りだった。オメェにこの道は無理だ。」

ちさは涙を拭いて、澄子も秋音もやるせない気持ちになった。スーパーで買ってるのは命。それが上手いだのなんだの。自分達の行動が残酷な人間の思考の上に、平然と立っている事にまざまざと感じさせられた話だ。

「治夫さんは言った。「俺はクズだ。あいつらみてぇに命を物だなんて思えねぇけど、やってる事は同じ。俺は必ず地獄に行く。だけどオメェはちげぇだろ。」

治夫さんはアタシの手を取って、優しく言ったよ。「これもできねぇんじゃここは無理だ。でもオメェの愛は本物だ! 学のねぇ俺でも、見て感じりゃわかる! だったら助ける方に行け! オメェにはまだ腐る程時間があんだからよ! ってさ。」

号泣するちさ。秋音は黙っていたが、澄子は聞いた。

「それが長野から戻ったきっかけ?」

「あぁ。治夫さんも女将さんもすぐに出てけなんて言わなかった。あの夜以降、治夫さんも女将さんもトサツはさせなかった。でも、確かにおっちゃんの言ってる事はまごう事なき事実。そう思ってよ。正直に話せば価値観の違う親父や康夫おじさんと上手くいく訳がねぇ。でも、そんなん盾にして長野に居座って、獣医の勉強してたら一応、血族の親父んお立場も母さんの立場もな。ぶっきら棒に赤本がずらっと置いてあったよ。部屋にね。でも、だったらだったで、自分の道は自分で決める。話しが滅茶苦茶フライングするが、姉さんみたいに、どう思われようとも自分を貫こうって決心した。どうでもいいかもだけど、アタシはそれから飯とみそ汁とつけもん、あとは納豆かな。それしか食えなくなった。マックに言っても、ポテトとアップルパイくらいだ。ガキの頃は平気で肉をうまい上手いって喰ってたのにな。」

澄子もちさも納得し、無表情で興味なさ気げの顔だったが、秋音も涙が出そうだった。

「で、あとは知ってんだろ。あのクズの2度目の求婚を断って雲隠れ。その後は姉さんからの方がいいかもとおも

 いきなりだった。

確かに春香の人情味に溢れる話に感動したかもしれないが、今度は安藤涼子がはるかに抱きついた。春香は戸惑っていた。

「な、なにしてんだよ涼子。このタイミングでお前が

「すごいいい話なんだけど濡れちゃうくらい、姉さんの事また大好きになっちゃた。」涼子が股間に春香の指を当て、驚いて、春香は退いた。指先が濡れている。

「だって。黒木さんも藤田さんもそんな素敵エピソード教えてくれなかったから。決壊しちゃった。てへっ。」

 衝撃的過ぎる展開。涼子は股間に指を当ててなめた。春香は勿論、澄子もちさもゾッとする程の恍惚な笑顔。快楽に埋もれている。冷静なのは秋音だけだった。かわいい笑顔が、言っている内容と行動と乖離している。春香の表情は引きつっていた。

「どういう事なの。涼子。」

「ふふふ。私、藤田さんとホント偶然出会って、藤田さんは勿論、黒木さんの話を聞いてこれは天恵かもって思ったの。」

「天恵?」

 涼子が手をハンカチで拭いてまた、春香はべったりくっつく。

「う~ん。遡る事数ヵ月。くらいかな? ある飲み会のトイレで、ほんと偶然、藤田さんと会ったの。お酒のせいもあったし、そのコンパ詰まんなかったから適当に理由をつけて消えたの。本当は藤田さんと話がしたかっただけ。姉さんの事も知ってるし、弁護士の名刺も見て、天才詐欺師かとも思ったけど。お店を出て、静かなバーで全部聞いたわ。藤田さんの生い立ちも、今回の計画も。」

「今回の計画?」涼子とちさはわからなかったが、藤田は目をつむり、春香は姉の秋音から聞いた話を思い出した。春香の場合は、父の遺書から春香に辿り着いたとは聞いていたが、涼子とは会田高校の共通の友人から調べたと聞いていたのに。

「藤田さんの、とんでもない悲しい過去。狂気に満ちた計画。正直びっくりしたから、断ろうと思った。でも一番の甘い言葉「私に協力すれば、春香と会えるわよ。」。その一言で封印していたはずの感情が一気に爆発して、参加したの。その後、黒木さんとも話がついて、黒木さんは自分の身を削っても相模を潰したいって。もちろん賛成したわ。姉さんにあんなクズ似合うわけない。だからお手伝いしたの。」

「そんな事で! オメェに何の利益もねぇじゃねぇか!」

「だって。姉さんの一番になれるチャンスだと思ったんだもん。」

澄子やちさも何も言えなかった。

「藤田さんに言われた! なんで春香は足立澄子と渋谷ちさも呼んだのかって!

アナタが春香の一番じゃないからじゃないかしらって!

春香が秋音を睨んだ。

「私にとっては他人よ? そんな人にそう言われた。客観的に見ても1番じゃないって、思い知らされた! しかも私は連絡係じゃない! 悔しくて悔しくて! あの時助けてくれた姉さんの力になりたいって思ったのがそんなにいけない事なの? 私は姉さんのなんなのかわかんなくなって!」

 春香は秋音に怒りを感じながらも涼子を抱きしめた。やっとわかった。涼子の闇とその原因が。あの頭のいい涼子にしてはあまりにもバカな行動だ。でも、それの原因がアタシにあるのかと思うと、自分にも涼子にも怒りを感じた。

「私は子供の頃からビリって言われて、バカにされて、イジメられて、助けてくれた姉さんの役に立ちたい! 一番になりたいっていう気持ちがそんなに悪い事なの!?」

「いい加減にしなよ!」

ちさが声を張り上げた。両手を握りしめて怒っている。澄子は驚き秋音は目を開いた。

「何でもかんでも姉さんのせいにして!」

「そんな事してない!」

「してるじゃない! 涼子の不遇が全部、涼子だけの責任だなんて言わないけど、姉さんの1番になったら癒されるなんて、そんな事ないよ! 姉さんが、涼子の1番になってみろよっていう言葉わかってない! 自分勝手すぎだよ!」

ちさが小さい体からすごい声を出した。いつも冷静だが、ちさの本性はこっちだ。

「じゃあどうすればいいのよ。」

悲しそうな表情で、涼子の顔が涙に濡れている。春香自身、心が痛くなる。善意で無計画な自分の行動の積み重ねが涼子をこんなにしてしまった。ちさは、両拳を震わせながら何も言えず、うつむいている。

何を言えば涼子の闇を晴らす事ができるんだろうか。考えても、考えても答えが出ない。

 涼子の闇は特殊だと思った。

 黒木綾香や秋音姉さんの闇はまさに黒い闇だ。2人とも復讐のために黒く塗りつぶされていた。夜の様に暗く深い。涼子の闇は全然違う。渇望が生んだ闇。姉さんや黒木さんの闇を「漆黒の闇」とするなら、涼子の闇は「白い闇」だと思った。直感的な表現だが。

憎しみは無く、自分への怒りだけが堆積し、五里霧中の中、夢を求めて彷徨い、考え、答えは出ず、いつの間にか、白いまま闇の世界に踏み込んだ。封印していたという、自分の激しい欲求と戦い、ひたすら苦しみ続ける。耐えられなくなって、秋音と黒木という本物の闇に飲まれたんだ。悪意のない強烈な意志。耐え続ける事で自分を苦しめ、彷徨い続け、差し出された手は暗い闇の住人だった。春香は、秋音の壮絶な過去を知っているから、涼子を巻き込んだ事は許せなくても、何も言えなかった。だからと言って人の心の闇に付け込んで、こんな事をするのは。

 秋音は言った。「私達が傷ついてはいけない。それは今回の計画で絶対条件。それを侵したなら、ここから身を投げても

「バカ言ってんじゃねぇよ!」

春香の声に秋音は静かに、冷徹に応えた。

「ごめんなさい。」

 春香は、壮絶な過去を差し引いても、自身が協力者であり、涼子の事もわかってあげられなかった自分を恥じたが、秋音を心そこでは許せなかった。汚いやり口、狡猾さ。春香は、業因に涼子を離し、秋音に向かおうとした。その時、両手で右手を掴まれた。涙する涼子だった。

「違うの。藤田さんは悪くないの。アタシも黒木さんと一緒に考えたんだよ。だって、私が姉さんの1番になりたかったんだから。」

春香は収まらない怒りをゆっくりと、歯ぎしりをして収め始めた。

「涼子!」とちさが踏み出した。次の瞬間、バチン!と乾いた音がした。

ちさは立ち止まっている。その場にいた全員が固まっていた。涼子は、何が起きたかわからず、頬を押さえて春香を見つめている。

「この・・・バカ。」

春香は自然と涙が流れた。いくら治夫おじさんの助言とはいえ、島に帰ってなんてこなければよかったんだ。いや、帰ってきても2人は相模兄妹の餌食になっていただろう。

 春香の頭の中でふっと浮かんだ。本音で言えば、自分も姉がいるという事に恋焦がれてした事で、涼子を責めるなんてダメだ。でも、心を鬼にし、自分を恥じながら言った。

「何してんだよ。この、バカ。アタシの1番だの2番だのどうでもいい事だよ。こんな事に関わっちまって、本当は頭いいクセに本当にバカ野郎なんだから。」

アタシは涼子を抱きしめて膝をついた。頬を押さえていた涼子は、膝から崩れ落ちて、大泣きした。背中から誰かが抱きついてきた。ちさだった。ちさはいつも人を支えてくれる。本当に優しい人間だと澄子は思った。

 藤田秋音が、数秒目をつむって、立ち去ろうとした。その時だった。

「待ってください。」

 足立澄子だった。

「多分、涼子やカトハルから聞けば全容はわかると思います。でも、1つだけ、あなたに聞かなければいけない事があると思います。」

秋音姉さんは澄子を見た。

「何かしら。」

ダチ子は毅然としていて、死んだ様な眼をしている秋音に聞いた。

「満足ですか?」

秋音は何も言えずにいた。まるで全てを見透かしたかの様な痛烈な言葉だった。

「そんな話は、何人からも聞いた。例え父親でも復讐なんてやめろとか。そんな事して何になるのかとか。でも、だからって私の心は静まらなかった。父を追い込んだ奴らが、のうのうと人を傷つけながら生きている。そんなの、足立さんなら許せるの?」

あまりにも強い言葉。澄子はじっと秋音を見ている。秋音はちらっと春香たち3人を見た。怒りじゃなく、悲しい顔をしている。

「お父さんが?」

 秋音は思いだした。そうか。計画の指示に於いて、足立澄子と渋谷ちさは、さっき、涼子が言った辛い過去と、秋音の父の死の真相を知らないんだった。澄子やちさにとっては、秋音がこんな周到な計画まで立てて何故、相模の家を潰そうと、疑問を持つのも仕方ないと思った。確かに相模兄妹は悪人だと知っていたとしても、自分に直接関係ない正義感だけの悪人に見えて仕方の無い事だ。

 「そっか。」と秋音姉さんはため息をつき、背景を話した。

春香にとって、秋音姉さんの生い立ち。藤田明夫さんや母の話。春香の事。澄子とちさを呼んだ訳。澄子は、涼子のいう辛い、苛烈な秋音の過去を聞いて固まっている。

 春香は思った。正直、好んで話したい事じゃないだろうし、自分を正当化したいわけでもないだろう。秋音姉さんは言い訳がましい人間じゃない。自分の言葉で言っておきたかったんだろう。春香はそう思った。

「そんな事が。」

「そう。言い訳になるけど、私はこの結果を望んでいた。何人巻き込んでも遂行しようと決めていた。それは事実よ。」

「でも! だからって!」

春香と涼子から離れたちさが詰め寄った。

 少しの間、秋音姉さんは目をつむって黙っていた。ゆっくりと口を開いた。

「そうしたいから。そうしただけ。人間なんてそんなものよ。ごめんなさい。黒木綾香さんの聴取の立ち合いなどあるから。また会いましょう。」

そう言って秋音姉さんは去った。背後から「姉さん!」春香が叫んだ。何も言わず去って行く秋音姉さんを見て、私の頬を涙が流れた。

 秋音姉さんが去ってから、ちさも涼子も、しばらく黙ってダチ子が近づいてきた。春香は、なんて言葉を出せばいいかわからない。ダチ子も無言だった。

 ただ、泣きじゃくる涼子に言わなければいけない事を忘れていた。ただ抱きしめたり、一緒に泣く事で晴れるわけじゃない。

「涼子。お前はとんでもない勘違いをしてる。」

涼子はきょとんとしてアタシを見ている。

「アタシがダチ子とちさを呼んでほしいって、姉さんに言ったのは、涼子が2番3番だからとかそんなクソくだらねぇ理由じゃない。」

首を傾げて春香をを見つめる涼子。

「え? どういう事?」

アタシは優しく微笑んで口を開いた。

「アタシがダチ子とちさを呼んでほしいって言った理由は、まぁ、アタシのわがままだったんだよ。親父さんが死んでから、ずっと孤独闇の住人だった姉さんに知ってほしかったんだ。涼子だけじゃなくて、こんな奴らも仲間にいるって。」

涼子は春香が何を言っているかわからないという顔だ。ダチ子もちさも。

「姉さんはずっと1人だった。長野も離れて、父さんを悲惨な状況で失って、たった1人で頑張り続けた。人との繋がりはあるかもしれないけど精神的にはずっと孤独だった。会って話した時そう感じた。姉さんの顔がひどく悲しそうに見えた。姉さんは、アタシが復讐なんてやめてくれって言った時はキレたさ。さっき姉さんが”何人も”って言った中にアタシも含まれてる。

 でも、姉さんはアタシのたった1人の姉さんなんだよ。この世で、たった1人の。アタシは姉さんと一緒にいたいと思った。同情とか哀れみじゃない。誰かが一緒にいてくれるって事がどんだけ救われるか。だから、姉さんにはアタシや涼子だけじゃなくて、こんな仲間も一緒にいるんだって知ってほしかった。それでダチ子とちさも呼んで欲しいって言ったんだ。」

涼子の表情が変わった。涙は流しているが、無表情に泣いていた顔が、口元が締まり、目じりはたれている。春香が手をすっと上げると、涼子はぎゅっと目をつむった。またアタシに殴られると思ったのだろう。アタシは涼子の頭を撫でた。

「いいじゃねぇか。番付けなんてどうでも。涼子もダチ子もちさも、アタシの仲間なんだからさ。だから、これからも、姉さんと付き合ってくれないか? アタシからのお願いだよ。」

「へっ。」と笑うと涼子の顔はくしゃくしゃに崩れて、また号泣した。春香に抱きついている。涼子が「ごめんなさい! ごめんなさい!」と泣き声を上げている。

涼子が「んなに泣くんじゃねぇよ。」と言いながら何度も涼子の頭を撫でた。

ちさは体を震わせていた。ダチ子がアタシに微笑んでいる。


 2017年 7月31日 藤田秋音。  八代岬後。


 春香達の泣き声を背に、私は木立を過ぎ、駐車場に向かう。何度も頬を拭った。これから黒木綾香の任意聴取の立ち合いと、警察への証拠提出もあるというのに。伊藤という警官には、状況を確認するから少し残るので、それまで聴取は始めない様にと言っておいた。黒木綾香にも念を押しておいた。

 木立を抜けた時だった。妙に嗅ぎ慣れた煙草臭がする。

「散々、人をハメてくれて。弁護士ってのは何様なんだよ。」

進藤君は大きなため息と一緒に煙を吐いた。ダサい車があった。

「ごめんなさいね。色々と事情があったの。」

「安藤涼子から聞いた話には驚いたよ。まぁ、黒木綾香からの依頼も含めて一件でダブル取りだから許してやるが、今度こんな事したら承知しねぇからな。」

「もうないわ。二度と。」

私は進藤君をじろっと睨む。進藤君はじろっと睨み返して、胸ポケットから煙草を1本取り出し100円ライターと一緒に器用に放る。私は受け取って、火を点けた。

「あら、この前より軽くしたのね。」

「健康診断でアウトくらったんだよ。」

進藤君はワカバとか、ショートホープとか、安くて重い煙草が好きだったのに、薦められたのはマイルドセブンの1mg。味わいは空気みたいに軽いのに値段は高い。

「探偵事務所でも健康診断なんてあるのね。」

「バカにしてんのか?」

私は、ふふ。と笑って、煙草をふかした。この時は達成感を感じなかった。自分の気持ちを紛らわしたくて、何回か吸った。

 学生時代、進藤君と速水君と何も言わずに煙草を吸っている時を思い出した。白糸君という奇人で変人は、まだこんなに高くなる前だったけど、ワカバとかホープを吸っていた。

速水君は、同い年なのにもう他界して、白糸君は行方不明。私と進藤君が残された。無口で口の悪い進藤君は、速水君にだけは心を許していた。明るくて優しい速水君と水と油じゃないかと思っていたのに、男の友情は不思議なものだ。当時、私は速水君の彼女として、なんでこの2人はこんなに仲がいいんだろうなんて思って彼らの間に何があったのか聞いた事があったけど、2人とも話してくれなかった。速水君は進藤君の事を「面白い奴だ」って言ってた。私も同意はしたけど、多分、男の子の世界はわからない。

 あまり時間をかけると春香達が来る。

警察にも早く行った方がいいのはわかっているが、ハッキリ言って気が重い。少し進藤君で息抜きをしてもいいかもしれない。煙草を捨てて靴で踏み消し、「もう1本頂戴」と言ったら箱ごと投げてくれた。

「弁護士先生が不法投棄のゴミ捨てか。迷惑行為だなんて世も末だな。」

「現実は理想に追いつかないってとこよね。」

進藤君は「けっ。」と笑い同じ様に煙草を捨てて踏み消し、胸元から新しいのを出した。

「ねぇ。ちょっとだけ時間あるの。これから警察で黒木さんの聴取に立ち会うんだけど、それまでちょっとだけさ。」

「あきれたクズ弁護士だな。依頼人ほったらかしてお茶でもしようっていうのかよ。」

「ちがうわ。状況を整理するためよ。それくらい許されて欲しいわ。」

進藤君は嫌な笑い方をしている。ここから目と鼻の先の警察署を通り越した先に小さな喫茶店がある。そこに一緒に向かった。ひどく憂鬱なドライブ。

 喫茶店の駐車場はガラガラで進藤君のダサい車が隣に停まった。車から出ると、進藤君は小さなウィスキーボトルを飲んでいた。

「飲酒運転は重罪よ。」

「バレなきゃいいんだよ。密告されない限りな。」

店に入り、あまり目立たない席についた。注文して、2人で煙草に火を点けた。進藤君のZIPPOはっ顔良くて、お願いしてみた。

「火を頂戴? できればそれで。」

「嫌だね。」

 やっぱり。

愛煙家の進藤君はお気に入りのZIPPOを持っているが、絶対それは人に使わせない。彼のこだわりだった。私はオレンジ色の100円ライターで火をつけて注文品が来るまで2人とも黙っていた。

 秋音は、吸いながら思った。積年の恨み。計画が成功したら、なにか強い達成感で、2時間ドラマの悪役みたいに高笑いでもあげたくなる気分になるかと思っていた。でも、現実はひどく無味だ。八代岬で足立澄子に言われた「満足ですか。」という言葉が胸に突き刺さる。コーヒーとアイスティーが来た。

「そうしたいから。そうしただけ。人間なんてそんなもの。」

つい言葉に出してしまった。進藤君が眉をひそめて私を見ている。煙草を吸って大きなため息をついて進藤君が聞いた。

「つまんねぇ事は聞かねぇけどよ。」

進藤君がくわえタバコでぼーっと天井を見ながら話しかけてきた。

「お前、これからどうすんだ。」

進藤君は昔からこんなところがある。無口で口が悪く、掴みどころがないのに、実は色々と気が回る人だ。私は自分の心が見透かされている気がした。

「そうね。考えるわ。黒木さんの弁護とか。目の前の事に取り組むしかないじゃない。人間なんて、社会人なんてそんなものでしょ。」

「お前ごときが達観してんじゃねぇよ。」

進藤君にこういうところがなければ、付き合っていたかもしれない。人としては面白い。進藤君烏龍茶のペットボトルに偽装したウィスキーをコーヒーに混ぜた。アイリッシュコーヒー。

「飲酒産んで捕まっても私だけは指名しないでね。」

進藤君は鼻で笑って飲んだ。

「俺ってよぉ。本が好きなんだ。」

また胸元から煙草を取り出した。私も新しく火を点けた。火を点けながら余裕の笑みを進藤君に向けた。私の十八番を奪えるもんなら奪ってみなさいよ。膝に肘をついて笑顔で進藤君を見た。

「変な話があってな。勝手に走り出した女の子を妹が、髪の毛引っ張ってとめるんだよ。すげぇ強気な姉ちゃんで、みんなやめろっていうのに突き進むような。」

「へぇ。それで?」

「結局、その姉ちゃんは誰もいない所にたどり着いた。理想郷があるはずなのに、幸せになれるはずなのに。そう思ったてたのにたどり着いた先には何もなかったんだ。何も。」

私は煙草を吸って、大きく深呼吸した。

「その子は草原で座り込んで現実を知った。ただ、自分が求めていた事が、想像していたものと違うっていう、単純で、絶対的で、つまんねぇ現実だって。そうして、その子はどうしたとおもう。」

アイリッシュコーヒー片手に煙草を吸って進藤君はため息をついた。

「さぁ? わからないわ。」

「夜を過ごして、朝になって、抜ける様な空を見て、歩き出したんだよ。平凡な様で、平凡じゃない。そいつだけの人生を歩く決意を決めたんだってよ。くそくだらねぇ当たり前の人生に気づくのが遅ぇんだよ。その子は。」

進藤君は気恥ずかしい時すぐに悪態をつく。今の話は私からしたら30点。内容じゃなくて私の感情での減点が多い。わかった風な事を言って。イラっとした。

「それのどこが変な話なの?」

「てめぇで考えろ。」

進藤君はアイリッシュコーヒーに口をつけた。ストレスは溜まる一方だ。やり返してやる。

「じゃあ、髪の毛引っ張った妹はどうしたの?」

進藤君はじろっと私を見て、煙草を大きく吸ってため息をついた。なんだか考えている様だ。八代岬の方を見て鼻で笑った。

「その妹はな。勝ち気で無茶苦茶なところがあるけど、友達に恵まれて優しい奴なんだ。平凡な街で再会して、姉ちゃんの髪とか手を引っ張ってふてぶてしく笑ったみたいだぞ。その話はそこで終わってんだが、姉がどうなってどうしたかは知らねぇ。」

進藤君は昔からそうだけど、デリカシーが必要だと思う。こんな時は優しい言葉をかけて、夢のある話をしてくれるのがレディーの扱いじゃないのかと思った。他の男の子はそうしてくれた。今はそうしてほしかった。

 2人ともしばらく黙っていた。

私は色々と考えた。春香や母を傷つけ、この空虚な気持ちが晴れそうにない。

こんな私に父はなんていうだろうか。東京に帰ったらお墓参りに行こう。言葉が返ってこなくても、それだけはしておかないといけない。進藤君がスマホを取り出して電話に出た。会話の内容からすると仕事関係の様だ。その丁寧な言葉遣い1%でも私に使ってくれてもいいのに。私は煙草を吸った。進藤君は電話を切って、「お前程小難しくないが、下劣でつまんねぇ浮気調査だってよ。」

私は時計を見た。アインシュタインの相対性理論。ただの主観と感想をストップウォッチで測ったのか、私には理解不能な数式があるのかわからないが。黙っていた時間がほとんどの時間が1時間近く感じた。実際は15分なのに。

「お仕事大変ね。お互い様だけど。私もそろそろいかないと。」

「そうか。」とだけ返した。

席を立った時、進藤君が言った。

「なぁ。」

「お前の好きな料理ってなんだったっけ。」

「ご馳走してくれるの? デートの誘い?」

進藤君はけらけら笑っている。

「んなもん期待してねぇよ。ただ、たまに会った生き残りだ。根性わりぃ奴程長生きするってのはマジみてぇだな。」

「私の根性の腐り具合が1なら進藤君は10超えてるから100歳以上は生きてそうね。また会いましょう。」

私は後姿で手を振りながら会計を済ませて車に向かった。


 十 昔話

・7月31日 加藤春香


 秋音姉さんが言うところの、すべてが終わった後、アタシは風風亭に泊まる事にした。電話でダチ子を通じて、三島さんにお願いしたら何とか1人分ならという事でお金は折半にした。うだる様な暑さの中、両腕に涼子とちさにしがみつかれて木陰でも汗が止まらない。涼子は目を赤くしてぐずっていた。ちさもダチ子も何も喋らなかった。

 バスが来て一番後ろの席、汗が気化熱でアタシの体温を奪い、寒気すら感じた。

 宿に行く途中で色々思い出した。風々亭には紀子さんがいる。紀子さんもフェイラムさん達も洋ちゃんも奨太も漁協のおっちゃん達にも。ちゃんとけじめつけないとな。これから忙しくなる。

「そういえば、緊急事態とはいえカトハルは何が欲しい? ご飯はどうにかこうにかお願して用意してくれるかもしれないけど、お酒はたぶんないわよ?」

ダチ子がいい。春香は微笑んだ。

「空腹に酒なんて慣れたもんだ。秋音姉さんからのお小遣いで宿のを買うさ。」ダチ子がくすくす笑った。

「いやよ。無断で私のトマトは取られたくないから。」

 懐かしい事を言う。涼子とちさは何の事かわからず、きょとんとしていた。

 バス停を降りて、潮風の中、春香は呟いた。「終ったんだな。一応。」

「何言ってんのよ。これからが始まりじゃない。」

ダチ子が言って、4人で宿に入った。

 宿につくと、アタシ達はフロントで三島さんに会った。

「ハルちゃん!」と駆け寄って、アタシの手を取ってくれた。

「元気? 大丈夫?」まるで母親の様に心配してくれた。アタシは笑って、「アタシは大丈夫だよ。心配しないでよ。三島さん。」と照れ臭そうに笑った。長くなるから、せめて部屋に戻ってから、これまでのいきさつの説明しようと思った。この人は心配性な人だし、プライベートだと有り余るお節介をする。三島さんが「そっか。そうだね。」と安心した顔をすると、ダチ子達に「ありがとうね。」と頭を下げている。3人は「いえいえ。」とかしこまっている。

「ちゃんと一発殴ってくれた?」

「まだこれからです。」ダチ子が両拳を鳴らして言うと三島さんは笑った。なんだ? アタシこれから4人がかりでフルボッコにされんのか?

三島さんとダチ子がクスクス笑っている。アタシは口をついて出た。

「あの。」

三島さんが不思議そうに振り向く。

「藤田秋音さんって今部屋にいますか? 女性の人なんですけど。」

秋音姉さんがまだ宿にいるなら、話をしたかった。

「藤田さん? あぁ。今朝チェックアウトしたよ。フェリーの時間だとか。」

姉さんは抜け目ないな。これも計算づくなのか。今は警察で弁護士業務か。


 3人の部屋に行くと、三島さんは布団は3式しかないというが、気を利かせてくれて、布団を用意してくれるといって部屋を出た。だが、ちさが「4人分じゃ狭すぎるから誰かが一緒に寝よう。」と言った。ダチ子は即座に棄権して、ちさと涼子がジャンケンを始めた。1回目の勝負ではちさが勝った。「3番勝負よ!」と涼子が言うと、「それでも私が勝つけどね。」とちさがいう。こいつらは相変わらず面白い事をやっている。2人がジャンケンしている間、ふと、ダチ子を見たら視線が合って2人で笑った。あいこが続いたり、両手をねじって隙間を覗き込んだり。

「とりあえず酒買って来る。」アタシは部屋を出て自販機で秋音姉さんのお小遣いほとんど使って缶ビールを抱えた。

 部屋に戻ると、勝負の結果、ちさが私と一緒に寝る事になった。

涼子はウィスキーを飲んで憮然としている。

「私は端っこでいいからカトハルの隣で寝なさいな。」ダチ子が気を利かせた。

まだ午後の3時前か。

「そういえばカトハルは着替えとかないけど、今日どうするの? 買いに行こうか?」

「いいよ。んな無駄な事。洗濯機借りて、その間はどてらでいいし。」

「パンツとかブラは?」

「涼子じゃねぇし、そんなの気使ってねぇよ。クソみたいな安物だ。」

ダチ子がくすくす笑って、「合気道の女子部屋みたい。」と言った。

「とりあえず飲まない? なんか疲れちゃった。」

アタシがダチ子が買ってきた酒を冷蔵庫に入れて、4本冷えたビールを取り出した。

「ちさはまだだろ。」

「大丈夫。常習犯だから。」

ちさはビールを受け取るとダチ子を睨みつけていた。まぁ、未成年飲酒なんてよくある話だし。4人で乾杯した。

 なんでもない雑談をしてから、アタシはダチ子達がこの島でどんな動きをしていたか聞いた。秋音姉さんの命令は「とにかく、誰にも、公子さんにも身を掻く様に」だったから、かなり動いていた事に驚き、洋ちゃんに会いに行ったのはしっかりバレていた。確かに秋音姉さんにクギをさされたからなぁと思った。

ダチ子達が行ったのは、母や洋ちゃんち、フェイラム家、みんちゅの親父さんなどほぼ皆と接していたという。私の子どもの頃の話を知られたのは恥ずかしかった。

 1時間くらいした頃だろうか。ダチ子達の探索談も切れて、アタシの話になった。

ちさがベランダのクーラーボックスからキンキンに冷えたビールを2本取り出した。1本はアタシの分らしい。「サンキュ」と言って飲んだ。

「そういえば、カトハルが大事にしてた動物園の話聞き忘れてた。聞かせて。」

「洋ちゃんから聞いてんだろ。どうせ。」

「本人から聞きたいなって思って。」

「てめぇぶっ殺すぞ。」

こっ恥ずかしい。ビールを飲む。大きなげっぷをして一呼吸した。

「カトハルが拾ってきた犬はどうなったの?」

「ナツキは、島を出るまでは元気だったけど、帰ってきたら死んじゃってたよ。そりゃそうだろうな。別の同じ雑種の犬がいたけど、ナツキじゃねぇってすぐわかった。まぁ、犬で考えりゃ当然なんだけど。会いたかったなぁ。お墓があってよかった。」

 ナツキは、アタシが拾ってきた雑種の雄犬だった。拾った時はとても怯えていて気が弱い犬だった。なんとなく共感して、職員室で直談判して飼う事を許された。夏休みに拾ってきて、男の子なんだから、もっと気が強くなって欲しいからナツキにした。漢字にしたら「夏気」になる。所詮小学生がつける名前だから突っ込まれたくはない。

「私、今でも気になってるんだけど、この島にいる時の姉さんと本土に来てからの姉さんが変わるきっかけって何だったの? ストレス?」「あたしも気になる。」

ちさと涼子が不思議そうに除き込んでくる。「私もそれ気になってたの。聞かせてよ。」

ダチ子め。便乗しやがって。

 アタシは自分の事を正確に話すのは苦手だ。でも、3人とも黙ってアタシを見てくる。大きくため息をついて、本土の話をした。


 アタシが小学校を卒業する頃、父の仕事の都合で東京の本土に行く事になった。

船着場の出航前に、洋ちゃんは泣きながらアタシの手を握って上下にブンブン振ってくれた。洋ちゃんがナツキを連れてきてくれて、私は顔をなめられ続けた。寄せ書きの色紙や鶴の折り紙をもらってアタシも泣きながら手を振った。一番嬉しかったのは、洋ちゃんと一緒に遊んだ海岸で拾った貝殻で作ったアクセサリーを友情の証だと言ってくれた事だった。2人で見せ合って微笑んだ。

 そんな素敵な思い出の島からどんどん離れていく。貝殻のネックレスを見ると、海に飛び込んで、島に戻る事もできるんじゃないかと思った。

 東京本土に着くとまるで別世界だった。建物は高く、車の量も多く、アタシは母の手に引かれ、父の車に乗って社宅についた。3人で住むには広くて清潔だ。ひと段落して、肉体労働で疲れた父は酒を飲んで寝始め、母とアタシで、その後、オシャレなお店に母と行ってパンケーキを食べた。世の中にこんな美味しいものがあるのだろうかと思う程、幸せな気分だった。蜂蜜よりも香りがあって、上品な甘さのメープルシロップにふわふわの3段のパンケーキ。間に薄く塗られているクリームとバターやミントがたまらない。

 すっかり東京本土いう別世界を満喫して、アタシと母は家に帰った。家に帰ると、いつも通りの安心する母の手料理がふるまわれ、1週間後の入学式を楽しみにしていた。

 中学校の入学式。母が付き添ってくれた。父は仕事の都合で、来れなかった。

教室に入ると知らない男女がいっぱいいた。40人のクラスで、男女20人ずつ。舞竹島の小学校よりも生徒数が多い。人間臭さというか、いろんな臭いがする。香水や汗もあるし、それぞれの独特な臭いを感じた。アタシは自分の番号の席に座る。周りはみんな話をしている効率だから、小学校からエレベーター方式が普通で、外部から来たのはアタシくらいなものだった。この孤独感で人見知りのアタシはどうすればいいのか。

ある男子生徒3人が私に声をかけてきた。

「君さぁ。そこそこかわいいよね。どこの娘? 俺達知らないんだけど。」

茶髪の男だった。残り2人は黒髪でアタシの胸をじろじろ見ている。気持ち悪い奴等だと思った。だが、問題起こすのもよくない。アタシは伏し目がちに、「ま、舞竹島。」と答えた。3人の男子は顔を見合わせている。1人がぷっと笑った。

「おぉーい! 島の田舎娘が入ってきたんだってさ! まじウケる。」

その後アタシはクラスで笑い者にされた。女子生徒はくすくすと笑い、男子生徒は訳の分からない方言でアタシをバカにしてきた。辛い経験だった。そこは今にして思えば、決めつけられて虐められた涼子に似ていたかもしれない。

 入学式でも、周りの生徒がくすくす笑っている声を聴くと、自分の事を言われているのだと思い腹が立った。でも、我慢した。母と一緒に家に帰っている間、アタシの落ち込み様に母は心配してくれたが、アタシは何も言わなかった。それに、先生からネックレスの事を注意された。校則だから仕方がないと思って、家でブレスレットに作り直した。また注意されても、ヘアゴムだと言い訳するつもりだった。翌日から、袖に隠れて目立たないせいか、何も言われなかった。

 数週間、アタシには友達ができなかった。

話しかけても相手は黙って去ったり、くすくす笑われたり。当時、アタシは気が弱くて、両親に迷惑をかけたくないから、ひたすら自分を大人しくする事を心掛けた。子の半紙をした時、涼子はほろほろと無言で泣いた。

 志願して飼育委員になり、アタシは動物に癒された。孔雀や兎、犬や猫、兎もいた。その時だけは普段のストレスから解放される、幸せな時間だった。結構しっかりした体格の、雑種の犬はダイゴロウという名前だったが、ナツキの事を思い出して頭を撫でた。名前なんて呼ばなくても、笑顔で撫でていると腕を舐めてきたり、愛情表現をしてくれる。とても愛らしくて一緒にいると楽しかった。

 だが事件が起きた。

 ある土曜日の昼。ホームセンターで、自分の小遣いで値段の高いドッグフードやニンジンなどを買ってきた。休みの日くらい贅沢させたいと思った。守衛さんに学生証を見せたら、「おぉ。友達も来てるよ。仲いいんだな。」と言った。

不思議に思いながら動物小屋に行くと、入学式の時に突っかかってきた男子生徒3人がいた。えらく楽しそうに盛り上がっている。「いぇーい!」とハイタッチをして、黒髪の男子生徒がアタシに気づいた。ズボンに手を入れて嫌な笑い方をして近寄ってくる。アタシは視線を外した瞬間、持ち物を落とした。簡単に開けられる犬や猫の籠はあいていて、野球ボール。猫が体や頭から血を流している。犬は口から泡を吹いて全く動かない。

「こいつら。」

アタシの感情が真っ黒に塗りつぶされた。

「おぉ。飼育委員の先生。みんな死んじゃった。責任よろしくぅ~。」

大笑いをしてアタシの服に唾を吐いて去って行こうとした。

アタシは絶叫した。

 その後の正確にはないけれども、気づいたら私は3人の顔面を滅多打ちにして、顔や腹を残酷に蹴り飛ばしていたらしく、奇声と悲鳴にに気付いた守衛さんが駆けつけて、アタシを取り押さえていなかったら、3人を殺していかねなかったと、あとから聞いた。そんな、殺しかねない勢いだったらしい。

 その時の3人は救急車で病院送り。アタシは児童相談所の職員と共に警察で話を聞かされ、母が急いで駆け付けたと聞いた。刑事事件にも発展する事だったが、れっきとした証拠、アタシに3人への殺意がなかった突発的な事も鑑みて、男達の保護者は激怒し、私の両親は何度も謝ったが、学校はその事実を隠した。社会的には、3人の男も本当に悪い事をした事を認め、学校側と保護者間で無かった事にしていた。でも、あの子達の命はどうやったって帰ってこない。職員会議に呼ばれたアタシはある先生の言葉に耳を疑った。

「動物、ペットはモノなんだ。だから、危害を加えても器物損壊なんだ。」

その時、アタシの闇は膨らんだ。なんだそれ。ふざけんじゃねぇ。その場ではアタシは、暴れそうだったが、両親の顔もめぐり、黙った。ただ、絶望した。

 学校が無かった事にしたのは、都合が悪いから。アタシは学校に対しても絶望した。口では「命を大切にしろ。」「教育とは人を大事にする事から始まるんだ。」なんて事言って、結局、自分の立場が一番大事なんだろ?

 だったらアタシはテメェらなクズと真っ向から対立してやる。そう思う様になった。

 アタシは記憶の語り部から、4人の部屋に感覚を戻して、それが始まりだったと言った。

「へっ。中1のガキがな。」

「そんな事ないよ!」「姉さん・・・」涼子は勘を置いて肩を震わせていた。自分の経験とは全然違うが、それを見ていたダチ子もリンクして心酔しておかしくないと思った。

「そこからアタシは変わった。自分でもわかっててやってた事だしな。実際に黙殺されている事実の多さにうんざりした。でも所詮は中1のガキ。狂犬だのレディースの頭だのゾクの女だの言われ始めた頃かな。んなのどうでもいいけど、戦い続けると、疲れる事だってある。言い始めたらきりがねぇ。総じていえば、大人しい女生徒が豹変してくるったってさ。へへっ。好きにほざけと思ったよ。でも、アタシだって弱くなる時や、心が折れる時はある。そんな時は体育館のそばの野球部の倉庫に行った。昼休みや練習が終わった後の放課後だ。舞竹島で正義感が強い洋ちゃんと一緒に、教師からお仕置きで閉じ込められた野球部の倉庫を思い出して妙に懐かしくてな。気持ちが安らいだ。アタシの縄張りだって噂が流れ始めたら誰も来なくなってこっちは助かったけどな。」

ダチ子はクスクス笑った。理由は違うし、今言う事じゃないから言わないけど、屋上に寝転がるのと同じ様なものだ。

「でも、弾には時間をずらして安らぎを求めに行った倉庫で家庭科の教師と数学の教師が半裸でいた時は流石に驚いた。アタシが入ろうとする時、2人は何も言わず立ち去って、噂によると、数学と家庭科の教師はアタシより前から、逢引の場所をそこに決めてた様でアタシにバレてからは、野球部の掃除用具が置いてあるプレハブに変えたんだとか。馬鹿は死んでも治らないっていうのはこの事か。頭より股間か。

 後日、私は職員室に呼ばれ、囲まれたテーブルの真ん中に用意された陪審席に座らされた。ちらっと面子を確認すると、バカ教師が仲良く隣り合ってた。アタシの担任から当該箇所に出入禁止を言われた。

「それはてめぇらの方だろ!」と言い返すと、職員室は沈黙した。

「君! いい加減にしなさい! 教師を何だと思っているんだ!」と言うから、スマホを取り出して音声を流した。家庭科教師と数学の教師のエッチな声だ。2人だけでなく、全職員が顔を伏せた。アタシの担任は頭をかき回した。コピーもあるって言ったらあっさり解放された。」

「アンタ昔からやる事がえげつないのよ。」

ダチ子が笑い、涼子もちさもクスクス笑った。


 アタシは職員室から出て、腹立たしくて、気が収まらないまま、ちょうどトイレに行きたくなった。1階に降りて、近くのトイレに入ろうとしたら声かけられた。

「加藤さん!」

大人の声にアタシは、振り返ってガンつけたら白衣の女。保健の保田先生だった。

「なんですか。」

「そぉピリピリせんといて。話したい事があるの。ここじゃなんだから保健室行かへん?」微笑みの保田先生にアタシはついて行った。お説教と、今後どうなるかとかそんな話でも当たりさ笑い無くするんだろうと思っていた。

保田先生は微笑んだ。

「そんな顔しないで。ベッドでも椅子でも座って。」

「ここでいいです。」アタシは椅子に座った。

「ふふ。心配しないで。お説教とかじゃないの。話がしたいのよ。」

アタシは信じてはいなかったが、一応聞くだけ聞いてみる事にした。

 保田先生が椅子に座り、アタシに対面した。少しの間沈黙した。

「あのね。私、加藤さんの事尊敬してるのよ。」

何を言ってるんだこの人はと思った。

「実はね。今回の倉庫の件は、会議の後2人に厳重注意があって、立ち入り禁止になったわ。あなたに関しては、それ以外にも、動物園で事件起こしたでしょ? あの男子生徒達。あいつらってイジメとかもしていて、本当にひどい、厄介な生徒として、学校も頭を抱えていたの。SNSとかYou tubeもあるから脅したりとかもして。この学校は風通しが悪くて、教師もなるべく問題を伏せたいの。」

「それが大っ嫌いなんです。」

「ウチかてそうやで。でも、間違ってる事に誰が相手でも果敢に向かって行くあなたに魅力を感じたわ。暴れん坊将軍みたい。」

「アタシは正義の味方じゃないです。悪党が気に入らないだけです。」

「だから尊敬してるのよ。人一倍、愛が強くて優しい。腕っぷしが強いのは驚いたけど。でもね。私心配になったの。素晴らしい信念だけど、悪いけどまだ子供。まだまだ色んな道があるあなたが、もし道を外れて狂犬の様に食いつくだけじゃいけないんじゃないかって。1人で悩んでいい事はないのよ。」

アタシは黙った。確かに信頼できる友達はこの学校にはいない。一匹狼、いや、保田先生が言うには一匹の狂犬か。

「私でよければ、あなたに協力するわ。でも1つだけ、お願いを聞いて欲しいの。」

「なに。」

「あなたの事を理解してくれる人は必ずいる。1人でいる事にこだわらないで、そんな人達をしっかり受け入れて。」

優しい口調なのに、力強さも感じた。アタシは返す言葉が見つからなかった。自分の理解者がいた事が素直に嬉しかった。何も言わず、アタシは保健室を出て家に帰った。

 保田先生が予言者なのかと思った。狂犬のアタシに寄ってくる女子生徒がそこそこ出てきた。時間が経つにつれて、アタシの事を好きだと言ってくる女子生徒もいた。女からラブレターをもらった時はさすがに面食らった。アタシには、どうもコアなファンがいる。

 中学2年のある日、担任と一悶着あって、イライラしていた。

放課後、野球部の練習が終わって帰るまで、教室で小説を読んでいた。ある女の子にプレゼントされた本だ。活字は苦手なんだけど、意外と読みやすい。奇抜なストーリー展開で面白く、人物描写が独特でつい読みたくなる。陽も暮れ始め、野球部が片づけをして帰っていくのを見た。アタシは小説をしまい、鞄をもって野球部の倉庫に行った。グランドにも周りにも誰もいない。土と汗のにおいがする倉庫で内側から鍵をかけて寝転がった。

 その後だった。ちさとダチ子に出会ったのは。

 そこまで聞いて、ダチ子も涼子もちさも黙っていた。長く、関係ない話も聞いてくれた。

「そっか。そんな事があったんだ。」

ちさのビールを飲む手も止まっている。ここまで自分の事を話したのは初めてだ。

「保田先生か。懐かしいな。元気にしてるかな。」

涼子がビール缶をゆっくり振りながら微笑んでいた。

「姉さんは連絡とってないんですか?」

「ない。ってか、中学出てからはねぇな。」

 アタシ達は酒を飲み続け、みんな酔っぱらってきた。涼子はウィスキーを飲んでいて一番酔いが早かった。まだ夕飯前だってのに。

「ねぇ。聞きたかった事がまだあるんだけどさぁ。」

ほろ酔いのダチ子が必ず来るだろう質問をした。

「カトハルはこの島でどうしてたの? 藤田さんの計画はざっくりだったけど。」

アタシはどこから話せばいいのかわからず、少し考えた。ちさや涼子も黙ってアタシを見てくる。秋音姉さんの冷徹な計画を全て細かく話したくはないが、こいつらどころか、今までいろんな人達に心配をかけてきたんだ。言わなきゃいけないだろう。

「あの岬では姉さんは言わなかったけど。秋音姉さんも明夫と縁があって、長野にいた事があったんだ。子供の頃。母さんが2人を捨ててからすぐに。偶然にも親戚だったから。だから秋音姉さんも治夫おじさんを知ってた。」

3人は驚いた。奇しくも同じ人物と関わっていたなんて。

「そのつてで、アタシが今舞竹島に帰ってきた事を知って、相模雄太との本格的に、2度目の結婚の話を切り出されて悩んだ時、秋音姉さんは現れた。実家にね。母さんはひどく驚いて泣きだすし親父は会社だからいなかったけど、アタシを連れて「話がしたい」って。さっきの岬での話と同じ話を聞いてショックだった。治夫さんとの事もね。アタシは悩んでた。これ以上両親に心配や迷惑かけたくないからあきらめようと言った。そしたら、秋音姉さんはあの頭の良さと冷酷で冷徹な計画を話した。その中でアタシの役割は謎の失踪。つまり、母さんと示し合わせて、姿を消し続ける事だった。近藤さんやフェイラムさん達、三島さんや橘のおっちゃん、他、海側じゃあ他にも知り合いは多いし。山だと相模に近づく事になる。アンタら、特に姉さんが会ったっていう涼子とも電話もメールももちろん。相模を煽るのが目的だった。アタシはあんな男と結婚なんてしたくねぇし、獣医を目指す事を心に決めていた。だから、勉強する時間に当てる事にした。姉さんが借りてくれた、アタシを知ってる人がほとんどいない海側と反対側のアパートで過ごしてた。」

3人は納得した。どおりで、いくら探しても見つからないし、皆、

妙な顔で口をつむぐんだ。涼子はビールを飲んで話す。

「酔っちまったから、言ったかどうか忘れたが、洋ちゃんにどうしても会いたくなって、姉さんの禁を破った。「ごめん」ってだけ言いたくて。この島で一番会いたかった幼馴染を裏切り続けるのは正直酷だった。逃げ出す時、もしもの為に持たせたGPS機能付きのスマホで調べたんだか、道に出てからどうしようと考えてたアタシに秋音姉さんが「乘って!」と車でピックアップして逃げた。」

これも3人が納得した。藤田秋音がそこまで。将太に見つかるわけがない。むしろ藤田秋音の恐ろしいまでの計画の遂行の執念を感じる。

「アタシは謝り続けたよ。勝手な事してごめんって。姉さんは何も言わなかったけど、アパートに着いたらやっと口を開いたよ。「気持ちはわかるわ。私の方が、春香に謝るべきよ。ごめんなさい。」ってさ。それで、アパートに戻って状況確認と、今日が来るまで絶対にしないって誓って、飯食ってアタシは寝た。」

涼子とちさは俯いて酒を飲んだ。

「でもおかしくない? アタシ達が来る前まで三島さんやフェイラムさんちには行ったんでしょ? 計画は始まってたはずなのに。」ダチ子が言い、アタシはビールを飲んで言った。

「怖ろしいまでに冷徹で残酷な姉さんの計画の一部だったんだよ。三島さんにフェイラムさんちで会ったのは本当に偶然だったけど、フェイラムさんや橘のおっちゃんには敢えて会わせる。無論、姉さんの監督下でね。嘘の証言じゃない。本音で話した。その生々しさを演出し、さらに相模を煽る。ジョーさんもシェリーさんも了解してくれたわ。ジョーさんもシェリーさんも流石軍人上がりのカタパン。任務は必ず遂行する。ミッチも亮も、私と秋音の為ならって、協力してくれた自由な時間だった。おっちゃんもね。」

3人とも思った。春香の言う通り、恐ろしいまでの残酷で冷徹な作戦の遂行。藤田秋音の積年の恨みもその観念と行動に拍車をかけたのだろうが、藤田秋音を敵に回したらと思うとゾッとした。

「シェリーさんもねって? 確かに一見怖い人でも、本当は優しいと思ったけど。」

「ダチ子達が知る訳ねぇ。あの2人職場結婚だよ。沖縄の海兵隊の第何師団か忘れたけど、2人とも元軍人。ミッチにも子供の頃には厳しかったらしいよ。」

3人は更に驚く。あのシェリーさんも軍人だったのか。

「それで、時間を稼ぎ、綾香さんも使って、ドツボにはまって雄太と美優が暴走し、バカな行動で秘密を握り、今日の結果になった。姉さんの策略は全て成功した。」

「じゃあ、アタシは藤田さんに進藤さん指名で雇う様に言われけど、もしかして! 黒木さんから進藤さんへの依頼も!?」

「いや。偶然だって言ってたけど、元々、黒木さんから姉さんに相談があったんだって。その時の黒木さんの話じゃ、アタシを奴隷にしたいとか平気でぬかしやがるし、姉さんの頭の中でアタシの謎の失踪と掛け合わせて、美優をそそのかす様にしたんだって。どんなテクニック使ったかわからないけどね。自然な形になる様に美優との想定問答もレクチャーもしたんだって。」

「進藤律夫も藤田さんのお父さんの死の関係者なの? 藤田さんの復讐計画の。」

「それはしらねぇ。でも大学の時からの知り合いで、腕は確かな探偵の中で一番信頼出来て、人に興味のない変人。所属が、金で動く探偵事務所の所長だって愚痴をこぼしてたから上手く使ってやろうって。そんな事して友達関係終らない?って聞いたら、「進藤君は大丈夫。春香にはいってないけど、元でも今でも恋人でも何でもない。でも信頼できる魔狼みたいなもんだし。アタシに歯向かう程危険な橋を渡らない、面倒な事が嫌いな人だから。彼の事はよく知ってる」って。姉さんマジでこえぇよ。涼子に全てを打ち明けさせるまで、情報を秘匿される側に使ってたんだから。プロの探偵を。姉さんの計算。プロすらわからない難題を相模兄妹に当てる事で、あの兄妹がどう動くか、どう煽られるか。我が姉ながら、恐ろしやおそろしや。」

 春香はビールを飲んで、寂しげな顔をしているが、3人は再度、藤田秋音の恐ろしさに寒気がする。知己とは言えプロの探偵まで使って煽らせ、泳がせて証拠を集める為なら、味方の人を傷つけず、相手の心を操り、気づかれない様にどん底まで突き落とす。

 春香はビールに口をつけて、静かな目で言った。

「昨日。夜中にアパートに来て。姉さんがね。事が終わったら好きに生きて頂戴。皆に会って幸せに暮らして。私の事は忘れて。所詮は闇に堕ちたクズ女よ。アタシは言った。でもアタシは、強引にでも姉さんにも光の当たる世界に戻ってきて欲しいって言ったよ。でも、まずはお父さんのお墓参りしないといけないから。そう言って、アパートを解約したって言って去って、アタシは何も言えなかった。アンタら3人も、皆仲間だって、思って欲しいんだけど。母さんは自分でも、秋音には親失格の最低な事をしたから、縁を戻す事なんて許されないっているけど。」

 春香はビールを持って、新しいベランダに行き、3人はぽかん顔。今回の細かい復讐計画を知り、3人ともこれから離婚だなんだと痴話喧嘩菓子や旦那と訴訟になったら藤田秋音を味方にしないと。敵に回したらとんでもないドン底まで堕とされる。


 春香は夜の海を見ながらビールを開けて。口をつけた。昔を思いだしていた。

 舞竹島に戻ってきた時、示し合わせてお腹も大きくなった洋ちゃんと会って近くの舞竹庵でご飯を食べた。洋ちゃんのネックレスを見るとすごく安心した。

いろいろと話していると最近、相模雄太の暴れっぷりがひどいと聞いた。洋ちゃんはアタシが帰ってきたことを隠匿してくれていた。

 アタシが獣医を目指す事を話したら、洋ちゃんは大賛成してくれた。ご飯を食べて、洋ちゃんに実家まで送ってもらった。自分の母、加藤公子が出てきて3人で色々話した。

 夕方頃に洋ちゃんが帰って、アタシは見送りに出た。坂道を下っていく車に手を振っている。振り向いた時だった。赤いミニクーパーからすらっとした、グレーのスーツの女性が出てきた。島ではあまり見かけない格好だし、アタシの事をじっと見てきた。

何か異様な雰囲気だ。

「加藤春香さんですか?」

冷たい眼で女性が話しかけてきた。せっかく気分がよかったのに。なんだこの女は。

「失礼しました。私、藤田秋音と言います。あなたの異父姉妹になります。」

治夫さんから聞いた名だ。アタシの頭が真っ白になった。おじさん達が言ってた異父姉妹はこの人なのか?

「じゃ、じゃあとりあえず中に。」

「いえ、公子さんとは今、話したくありません。かなり複雑な事情ですので。よろしければ少しお話しできませんか? 大丈夫です。私、こういうものですし、神に誓って必ずあなたに危害を加えることは致しません。在籍確認いただいても結構ですよ。」

丁寧な口調だが威圧的だ。差し出された名刺だと唐木法律事務所の弁護士だ。

弁護士。そうだ。おじさん達の話と一致する。よく見るとどこか母に似ている。とりあえず頷くと、藤田秋音に赤いミニクーパーに促された。

 サンタナという喫茶店で話をした。

藤田秋音は冷静に話した。アタシが改めて藤田秋音の身元、証拠を求めると、何枚も書類を出してきた。戸籍謄本、出生の証明書、住民票。一番強烈だったのは黄ばんだ写真だった。若い頃だが、間違いなく母だ。左目の目元にホクロがある赤ちゃんと知らない男性と写っている。本当にアタシの異父姉妹だと確信した。アタシは納得して全部返した。それに、長野のおじさんの話もしたら全ての問いに合致した。

「それで、母に会いに来たわけでもないのに、何の話を?」

秋音姉さんはすごく冷たい眼で、数秒考え、口を開いた。

 アタシにとっては、秋音姉さんの悲惨で苛烈な経験と、これからの冷酷かつ冷徹な長い話は壮絶すぎて、理解が及ばなかった。それに涼子の名前まで出てきた時には、さらに混乱していた。滔々とキツイ話をする秋音姉さんに私はキレた。涼子を自分の復讐計画に巻き込もうとしていたからだ。

「涼子を巻き込むんじゃねぇよ!」

周囲の客が静まり返った。秋音姉さんは冷たい眼でいた。ものすごく虚ろで悲しそうな顔をしていた。

 目の前にいる初めて会った姉の気持ちを察すると心が痛む。同じ母親から産まれて、両親の愛に恵まれたアタシと、たった1人の肉親すら失って1人で戦ってきた姉。確かに長野のおじさんとのつながりはあるみたいだが、きっとこの人は、1人で闇を抱えて、1人で生きている。アタシはぐっと拳を握った。

「巻き込む気はなかったの。ただ、本当に、偶然、安藤さんと知り合えたから。」

「復讐なんて何にもならない。また復讐を呼ぶだけじゃん。」

「そうね。仕事柄知ってるつもりよ。」

「だったら、」

「でも私は父を自殺に追い込んだ奴らが、のうのうと生きてるなんて許せない。そこだけは譲れないの。」

アタシは今まで気圧された事なんてなかった。でも、秋音姉さんの眼はあまりに鋭く、圧倒的で気圧されて言葉が出ない。

「春香さん、相模雄太って、相当なクズ男でしょ。このままいったらあなたがそんな男と政略結婚させられる。私はそれが許せないの。」

確かにアタシはあんなのと結婚するつもりなんてなかった。でも、断れば、家族を不幸にしてしまう可能性が高い。

「安藤さんは納得してくれたわ。そして、私達の利害は相反していない。」

理屈で攻めてくる秋音姉さん。アタシは色々考えたが、上手くまとまらない。

しばらく考えてから、小さく頷いた。

「ありがとう。絶対に、あなた達が被害を受ける様な事にはしないから。」

そういって秋音姉さんは伝票を持って、また名刺を差し出して立ち上がった。

「待ってよ。」

アタシは秋音姉さんをキッと見据えて言った。

「もうちょっと姉さんの話を聞いてきてから判断したいんだけど。」

「一応聞いておくけど、何のために?」

「アタシ達のために。」秋音姉さんは不思議そうに首を傾げた。

「また会いましょう。それはその時に。」

 

 「失礼いたします。」

 三島さんが3膳の料理を持ってきた。アタシはベランダから戻り、もう1つの膳に釜飯と焼き魚にセットに漬物が来た。アタシは嬉しかった。

「こんなものしかなくてごめんね。」と三島さんが言った。

釜飯は三島さんの得意な手料理だ。本当に申し訳なくて「ありがとうございます。」と深々と頭を下げた。

「良いのよ。気にしないで。お代は、今度みんちゅでタダ酒飲ませてくれれば。」

本当に気さくで優しい人だ。

 4人で夕飯を食べて酒も飲んだ。いい加減、涼子がろれつが回らなくなってきた。ちさが涼子に抱きついている。

 食後、三島さんが片してくれた後、涼子が上機嫌でアタシに抱きついてきた。何かよくわからない事を言いながらアタシの胸を揉んでいる。涼子の頭をひっぱたいて離れさせたら、ちさがもう1度涼子をひっぱたいた。

「ちょっとひどいからお風呂行ってくるね。」

ちさが涼子と一緒に風呂に行った。

「おい、気ぃつけろよ!」

「うん。」ちさが優しい笑顔で涼子を連れて部屋を出た。

 ダチ子がビールを飲み干して、ぷはぁ、と息をついた。ゆっくりと冷蔵庫から2本のビールを持ち出して、「あっちで飲まない?」と誘ってきた。キンキンに冷えた缶ビールを受け取って、ベランダに出た。

「残り少なかったな。」

「大丈夫よ鉄の肝臓のストックがあるから。」とガラガラとアイスボックスを取り出し、中を開けた。最低でも10本は浮いている。

アタシは笑い、ダチ子と何度目かの乾杯をした。


「ねぇ。ずっと気になってたんだけど。」

ダチ子が海を眺めながら声をかけた。

「なんで私まで呼んだの? 最初は涼子からだったけど、ちさやアタシなんて藤田さんの計画に利用価値はあっても不可欠ではない。カトハルは秋音さんに孤独じゃないって思わせたかったて言うけど、不思議に思っちゃうの。」

ダチ子はビールを飲みながらアタシを見てくる。目を合わせると、試されている様な恥ずかしくなる視線だ。

「確かにあの2人程、頻繁に会っていたわけじゃねぇ。でも、ダチはダチだ。」

「かさまし? それとも私なんかした?」

アタシは鼻で笑った。

ダチ子を見ると、なんの心当たりもないっていう顔だ。アタシは「へっ。」と笑って、海に顔を向ける。

「ダチ子は覚えてないかもしれないけど、アンタ、帰り道で男子生徒ひっくり返してたろ。ほら、女子生徒2人が男にからまれてる時にさ。」

「ん? いつのこと?」


「いつだったか。ある日、素直に帰ってたら、気分転換でいつもとは違う道を歩いていた。その時、初めて通った裏路地で同じ制服の女子生徒が男2人にからまれていた。遠目だったけど、やってやろうかと思って、男2人は近くの高校の制服。年上だけどボコる事はできるだろうってズカズカと寄って行った。そうしたら、角からお前が出てきて歩み寄った。アタシは柱の陰に隠れた。距離はそんなに遠くなくて声が聞こえてさ「あんだよ。ただのナンパだろ。それにしても、おめぇの方がいい女だな。」行くべきかと思って一歩踏み出した時。黒髪の女は急に男の手を取ってひっくり返した。呆気に取られてみている。アタシは「てめぇ!」と殴り掛かった男の手を取って足を払い、「えぇい!」と大声で男を地面に叩きつけてよ。2人とも頭を打っているみたいでうめき声を上げながら転がってて。「足立さん! ありがとう!」って聞こえて。「あぁ。ダチ子か。」って思ってな。「いえ。早く逃げましょう。」ってさっさと逃げて行った。かなり上品だけどアタシと同じ様な事もすんのか。って思って親近感が沸いてよ。」

「なんか褒められてるんだか、けなされてるんだか。」

「また会う機会が会ってよ。さみぃ日だった。話しかけようと思ったが友達連れだったから。急な人気者と一匹狼の狂犬にかかわりがあるなんて思われたら、色々まずいだろう。仲間だなんて思われたらめんどくさくなるからよ。無視して通り過ぎようとした。それまでもやってる事は同じだったアタシにアンタが言ったのさ。「待って。」ってな。驚いたよ。」カトハルはビールを飲んだ。

「思いだした。加藤春香さんよね?って呼び止めたのよね。私。」

「あぁ。「それが何だよ。悪党を成敗しに来たか?」っつったら、「そんなの気にしない。それに、私、優しい人は好きだよ。」とか、臆面もなく恥ずかしい事言いやがって。」

「顔赤くして去って行ったわよね。」ダチ子がくすくす笑っている。嫌そうにもう一口点けるカトハル。

 風々亭のベランダで、ダチ子はけらけら笑った。

「そっか。あれ見られてたのも、ちょいちょい声かけられたのもそういう事なんだ。」

「オマエもオマエだぜ。あんな恥ずかしいセリフ人前でよく言えたもんだ。確かに涼子やちと会う前だったからかもしれねぇし、その後もつるんでる時間は少なかったけど、妙に気に言ったというか気になってな。」

「お互い様よ。礼儀作法はしっかりするのが武道の心得。それ以外は似てるのかもね。」

「あぁ。合気道やってるなんて聞いた時はびっくりして納得したぜ。」

楽しそうに笑いながらビールを飲む2人。

「そろそろアタシらも風呂行こうぜ。」

ダチ子も同じ様にしてビールの缶を潰して頷いた。

 2人で部屋に戻ってお風呂セットをもって浴場に向かった。

 内湯で体を洗い、多分露天風呂にいる涼子とちさを2人は見た。ダチ子は微笑んだ。後から聞いた話だが、計画の最終のストレスか、風呂でウィスキーをラッパ飲みしていた涼子をちさが怒ったそうだ。アタシは言えの風呂でも飲みながら入る癖があるから驚く事はなかったけど。涼子はウィスキーを、ちさは日本酒で月見酒をしていた。

ダチ子が「アタシ達もなんか持ってきましょうか。」というから、アタシは「めんどくせぇから分けてもらおうぜ。」と言って、気づいて驚いた2人が酒を隠したが「バレバレよ。」とダチ子が言って「涼子。一口くれよ。」とアタシは隣に入って一口つけた。

ダチ子は、ちさから譲り受けたポン酒に口をつけて同じ様に月見酒をしていた。4人とも

足だけ浸かって、湯船の淵に座って、酒もいい具合に回ってきた。

「4人でおしゃべりしようよ。」

アタシは思った。また臆面もなく恥ずかしい事を。

 月が大きい。明かりが少ないこの島では本土にいた頃よりも星が明るく、多く見える。

気温も湯温も、風の香りもいい。しばらく湯と景色を楽しんでいた。

「いい景色よね。久しぶりにカトハルに会って、こんな所で一緒にお風呂に入るなんて思ってなかった。涼子とちさも含めて、不思議な縁よね。」

 しばらく4人で夜景を楽しんでいた。

「そういや、ちさからコイバナ聞いたことないな。あんまり理屈っぽいとフラれるぞ。」

「あら、カトハルは彼氏いたことあるの?」

「ある訳ねぇだろ。でも洋ちゃんとか言ってたよ。男は扱いやすいのが一番って。シェリーさんも言ってたな。男なんてちょっとおだてればすぐ調子に乗るんだからってさ。」

4人とも笑った。

「でも

ちーちゃん、何か、何とか君の悪口よく言うよね。名前が出てこないけど。悪口っていうか、ただの愚痴?」

「ふ~ん。」とアタシがヒヤッと笑うとちさは顔を赤くした。図星の様だ。

「だから、べつに、そんなんじゃないし。そいつ、女に興味がないっていうか、ストイックな感じだから。」

もじもじしているちさはかわいいものだ。「なになに? そんなところがいいの? もしかしてちーちゃんしか見てないとか?」涼子はケラケラ遊び初めてちさにお湯をかけられた。まぁ、誰とも付き合った事がないアタシが偉そうに出る幕ではないだろうな。

「涼子は!? 結構言い寄られてるんでしょ?」

ちさが何とか反逆の狼煙を上げた。

「え? あぁ。告白はされた事はあるけど、彼氏なんていないよ。」

「ぷっ。」と大声で笑い始めたのはダチ子だった。

「澄子さんひどーい。」

「いや、そんな意味じゃないの。学部のアイドルがホント? っていうのもあるし、ちさのむっとした顔が面白くなっちゃって。ごめん。」

口を押さえてケラケラとダチ子が笑ってる。

「まぁまぁ、ちさ。もしもそいつがクズだったらアタシがぶちのめしてやるから安心しろ。今モテなかったらいつモテんだよ。涼子の方が寂しい人生だ。」

「姉さんひどい! アタシだって結婚なんていつでもできるんだから!」

「式の日程が決まったら呼んでくれ。えり好みしているうちに年くって貰い手がいなくなったりしそうだけどな。」

「姉さんに言われたくないよ!」と涼子がアタシに寄ってきて肩を叩いた。

涼子もちさも笑いながらじゃれてきた。

 久しぶりだな。楽しい風呂ってのも。

恋バナもひと段落して、ダチ子が聞いた。

「そういえば、カトハルは獣医学部受けるんでしょ? どこ?」

「あぁ。帯畜なんてバカみてぇな高望みはしてねぇよ。まぁ、自分の偏差値と考えて勉強中だよ。親に負担はかけるけど、納得してくれたしバイトしながらアタシも稼ぐさ。まぁ、6年かかるしその後、国家試験だから先の長ぇ話さ。」

「いつ受けるの?!」ちさと涼子が聞いてきた

「アタシは今年はみっちり。受験は来年のつもりだ。模試を受けても現在そこそこいけそうな感じがする所もあるし挑戦してもいいんだけど。」

 そう言えば秋音姉さんも部屋で勉強を教えてくれた。理系と文系じゃ全然違うかと思いきや、ちさが涼子に教えた様にコツさえつかめば応用技も教えてくれた。流石、在学中に弁護士試験に合格した天才弁護士の1人。博識で、考え方のコツもその応用も独特。問題が読むのも嫌にならなくなったのはそれからだ。あの時の秋音姉さんとの時間は姉妹らしい幸せな時間だった。

 なんだか涼子が眠そうにしていたから風呂を上がる事にした。

最後にシャワーを浴びて、洗面台で髪を乾かしている。涼子はなんだか危なっかしいからアタシが全裸の涼子を座らせて髪の毛を乾かした。鏡に映る涼子は気持ち悪いくらいにやにや笑っている。

 アタシ達は部屋に戻り、布団を敷いてからまた飲み始めた。よくも酒豪が揃ったものだ。アタシはコインランドリーに服を突っ込んで部屋に戻る。

涼子はウィスキーを2杯飲んで寝始めた。

 1時間くらいしたころだろうか、酒が尽きて全員寝る事にした。アタシはちさと同じ布団で寝た。ちさの癖でオレンジの豆電球だけはつけておいて欲しいと言った。

散々飲んだのになかなか寝付けない。やっぱりアタシは、秋音姉さんの事を考えてしまう。3人が寝付くのを待って、そっと、布団から忍び抜けて、ゆっくりと起き上がった。

 アタシは静かに深夜のベランダに行った。

秋音姉さんにメールを送った。

「今どこにいるの?」とまでうって、手が止まった。

「みんなで会いたい。話がしたい」などうったが消し、送信した。

 大きな月が浮かぶ夜の海に目を向ける。

すぐに返信が来た。「今やっと家についたとこ。私の事は忘れなさいって言ったでしょ? 心配しないで。あえたら、また会いましょう。」と返ってきた。機械は苦手だが一生懸命速く打った。「今度いつ会える?」送信ボタンを押して、そわそわしながら待った。

10分経っても返信が来ない。秋音姉さんはメールも電話もすごく返信が速いのに。多分、来ないんだろう、いつまでたっても。アタシは計画に使われただけなのかな。秋音姉さんの気持ちを考えると、悲しくなった。

あきらめて部屋に戻ろうとした時メールが来た。

「また会いましょう。近いうちに。」

アタシはその文面を見てため息をついた。秋音姉さんが、また闇の中に消えてしまうのか心配で仕方なかった。だが、今考えてもメールを送っても仕方ない。

静かに部屋に入って、ちさの布団に入った。ちさが寝たふりをしながら、アタシを抱きしめて「おかえり」と囁いた。アタシはちさを抱きしめて「ただいま」と返した。


十一くらい 藤田秋音


 私の計画が無事終わって、自宅に帰ったのは夜中だった。シャワーを浴びて、目が覚めて、大きなため息をつき缶ビールを飲んだ。サイドテーブルに缶ビールとスマホを置きスマホには充電機を挿し込んだ。私はベッドに倒れこんだ。


 舞竹島の北警察署で黒木綾香の任意聴取に立ち会い、終わったのは午後4時頃だった。黒木綾香が示し合わせていた想定問答を警察に話している間はたまに「ひひひ。」というくらいで大人しかった。相模美優は錯乱状態で供述にも応じず、ずっと黒木綾香や「暗黒女王!」と恨み節を繰り返すという。「暗黒女王が誰か?」と刑事が聞くと「母親の相模春江よ! アイツ以外データは持ち出せるわけない!」

 熱情のある刑事が私に聞いてくると。「えぇ。確かに、戸籍上相模美優の母です。相模春江さんは。」これも、最後の一手だった。セキュリティを黒木綾香に接せられるほど甘くするバカではないと踏んでいた。ならばと、ある事をちらつかせて生に引き込んだのが相模春江だった。

「被害者と証拠も多数。立件しましょう!」

秋音はため息をついた。綿密な復讐計画の成功という疲れもあったからだ。

「確かにそうかもしれませんが、我々弁護士は捜査令状を出す事もできませんし、捜査方針を決めるなど以ての外! 本人の依頼、了承や行政手続きなしに、何よりも原告の意にそぐわぬ訴えであれば動く事はできません。いくら証拠があると存じていても、黒木さんや他の女性の件、お話を聞くならまだしも依頼があっての事。全ての証拠を出せと言うならまず令状を取り、執行くだされば動けますが、我々に捜査権はありません。」私は怒り気味だった。手柄を挙げたいのかどうか知らないが、今手元にある有益な情報を手放したくないというのなら、薄汚れた根性。協力なんてしたくもない。仕事柄、行政と原告が書面を整え、払うものさえ払うなら動く。それが司法の中でも弁護士としての領域。

その時私がどんな顔をしていたのか知らないが、熱血漢の刑事は気圧されていた。私は深呼吸をして言った。

「見届けさせていただきましたが、相模美優さんは錯乱状態。雄太さんも。そして黒木綾香さんは冷静に対処しております。結果が出なければ、依頼人の守秘義務等、名誉毀損になりかねない事由に、当方としても動けません。」きっぱり言った。熱血漢は下がった。

「では、本土での接見が明日ございます。本日中にはこの島を出なければなりません。失礼致します。」

 警察署を出て、黒木綾香を家まで送ると言ったが、「歩いて帰れる。」と言って鼻歌を歌いながら黒木綾香は去った。カーフェリーの時間を確認すると、ぎりぎり最終便に間に合いそうだった。色々思うところはあるが、とにかく本土の家に帰ってゆっくりしたかった。父への復讐はこれで全てが終わった。フェリーに車を入れて、デッキで一服いれた。進藤君の癖が移ったのかもしれない。夕日に照らされた海を見ながら思った。

「暗黒女王か。自分の母親をそんな風にいうか。ロマンシンッグ・サガのシェラハじゃあるまいし。ま、似てるっちゃ似てるかもね。」相模春江の闇は別の話として考えなければならない。

 長い旅路を終えて、ベッドに横たわって、起き上がり、ビールを半分ぐらい飲んで、どっと疲れた体に冷蔵庫から新しいビールを取り出し、流し込んだ。一杯目の残りを2杯目についで、ベッドに座るとスマホが鳴った。ビールを飲みながらメールチェックすると春香だった。

「今どこにいるの?」とあった。愛らしい妹が私を心配してくれているのは、素直に嬉しかった。秋音は考えた。小難しい事と日程は頭に入ってる。この職業にしては珍しく、嘘をつかなくていい時間だ。

すぐに返信する。「今やっと家についたとこ。私の事は忘れなさいって言ったでしょ? 心配しないで。会えたら、また会いましょう。」と返す。すぐに返信が来た。「今度いつ会える?」考えた。仕事が忙しいのは事実。会いたい気持ちも。

10分くらい経ってうち始め、秋音は送信した。すぐに返す方だが色々考えた後、文面を確認してメールが来た。

「また会いましょう。近いうちに。」


 春香や母、安藤さんやその友達に合わせる顔なんてない。極悪非道の九尾の狐の生まれ変わりかと言われてもおかしくないだろう。スマホをテーブルに置いて、妙に覚醒した頭でも、肉体的な力は誘眠させながら不思議な事に頭だけは働かせる。

 記憶がフラッシュバックした。

 かなり昔の話だ。

 父とは物心ついてから2人。長野の加藤治夫という親戚の家で暮らしていた。ある時、父に業務上横領の疑いという真っ赤な嘘が駆けられ、会社側に都合のいい資料を捏造されたいう。父もすでに弁護士に相談していた。不利な証拠がでっち上げられ、開示請求も拒否されたという事で戦っても難しいと言った。おそらく本物の帳簿はシュレッダーだたろう。当時、私は司法試験に受かったばかりで、司法修習生だった事もあって、かじった法律の知識や、事務所の協力を得て、事務所の先輩や上司に相談して訴えようと言ったが、かなり厳しいだろうと言われ、断念した。

そして、やっと戦える! と思った矢先、父は自殺した。私のせいだ。私がもっと心が強ければこんな事にはならなかった。泣き崩れてしばらく動けなかった。

 遺体の確認など様々な手続きをすませ、自分の無力さに虚ろを覚えた。

 警察署を出た私は涙も枯れ果て、放心状態で歩いていた。胸の中が空っぽになった。

何も考えられない。しばらく歩いて、私は「ア、ソウダ。ジムショニレンラク。」

また歩いているうちに「ア、ソウダオジサンタチ。」、「ソッカ。オソウシキ。」

周囲の人間からしたら放心状態で独り言を言う変人だったろう。交通事故にあわなかったのが不思議なくらいだ。それでも家にたどり着いて、リビングでへたり込んだ。何を見るわけでもなく、しばらく電気もつけないで動かずにいた。辺りが真っ暗になってからやっと電気をつけた。急に明るくなった部屋で私のカバンに父の遺書を見つけた。静かに封を切った。3枚くらいの便せんだった。

 「秋音へ。」

何が書いてあるのか怖くて仕方がなかった。私への恨み節だと思っていた。

 「こんなふがいない父親ですまなかった。こんな弱い父親ですまない。許してくれ。

でも、本当に秋音が産まれてきてくれて幸せだった。ひどい事を何度も言って悲しませた私が本当に恥ずかしい。本当にごめん。

 知っておいて欲しい事があるんだ。

私は、母親は死んだと言ってきたが、実は生きているんだ。旧姓で佐藤公子さんといい、今は加藤公子さん。私達は早くに出会い、結婚もしないまま秋音が産まれた。」

 その時の驚きは衝撃的だった。秋音が産まれてから母は両親から勘当され、父と暮らしていた。その話は詳細に書かれていた。ひどい理由で、母は長野のおじさんの所に行く事が許されず、母は失踪した。長野の家柄はそのくらい厳しい環境だったという。

「公子さんは今、加藤康夫さんの弟の奥さんだ。不思議な話だが、サガミヤで知り合ったらしい。そして、娘がいる。秋音の妹になる。名前は加藤春香ちゃんだ。

事業所が違うから私は会った事がないし、加藤忠夫さんは今は舞竹島に住んでいる。

 秋音、私はひどい父親だが、長野のおじさん達だけじゃない。秋音には公子さんと春香ちゃんがいるんだ。」

「じゃあなんで死ぬのよ。実の父親が。」

枯れたはずの涙がまた溢れ出てきた。

その後の文章には、アパートの解約時期と修繕費、お葬式のお金は貯めた貯金を全部使ってくれとか、細かい性格の父らしい事が書いてあった。

「 最後に。

 秋音。私はお前に散々非道い事をしてしまった。何度でもいうが、私は非道い父親だ。悲しんでくれなくていい。恨んでくれ。

 ただ、何度でも言いたい事もある。私はいつも、いつまでも秋音を愛している。

こんな私に幸せな時間をいっぱいくれた秋音。人を幸せにしてくれる秋音。愛してやまない秋音。どうか、いや、必ず。幸せになってくれ。

                              藤田明夫」

 最後の方の文章は文字がにじんでいた。私は遺書を胸に抱いて泣き続けた。

父は最期まで私を愛してくれていた。こんなに悲しく父の愛を知りたくなかった。

ずっと泣いて、また涙が枯れる。当時、昔の事を考えたりしていて、飲まぬ喰わずで朝になった。

 翌日、父のアパートに行くと、何か業者が入っていた。警察ではない。隣の部屋に住んでいるおばさんがいた。

「秋音ちゃん。」

辛そうに私に近寄って何も言えずに視線を伏せている。

「この度は。」と私は深々と頭を下げた。

隣のおばさんは優しい人で、父が酒に酔って暴れた時も心配して部屋の外から父をたしなめた事もある。

「秋音ちゃん。これ。開けてないから。」

おばさんに手渡された手紙を見る。

それは、捨てないで欲しいもののリストはテーブルにおいてある2つの茶封筒と通帳、ハンコと別のものだった。私は業者に説明して中に入った。3,4人の人達がいろいろなものを袋に詰めたり家電を運び出している。臭いのも辛かったが、この場で父が自殺したと思うと心が暗くなる。おばさんと一緒に外に出て封筒を開けた。

私は口を押えた。

「秋音ちゃん! どうしたの?」とおばさんが追いかけてきた。

黄ばんだ写真の束だった。

かなり若いが間違いなく父だ。きれいな女性が赤ん坊を抱いて一緒に写っている。何枚もめくると、幸せそうな父と女性、私が写っている。この人が加藤公子さんか。2人とも若々しくて、幸せそうで、笑っている父の姿を見ると涙が止まらない。

「秋音ちゃん。」

おばさんが涙声で私の背中をさすってくれた。

 その後はアパート解約やクリーニング代など諸手続きを大家さんと話し、お葬式の準備だ。長野のおじさんは知らなかったみたいで、連絡したらひどく驚いていた。私が喪主を務め、ささやかながら私と、長野のおじさん達の家族だけで済ませた。

火葬場で、私は1人になりたくて控室を出てソファに座っていた。おじさんが来た。

「秋音ちゃん。すまねぇな。」

「いいえ。」私は無表情で気持ちのない声で言った。

「俺があの時、公子さんと一緒に家族で受け入れてたら、こんな事にはならなかったんじゃねぇかって、思ってる。やっぱり心の支えがありゃあ人間違うもんだ。

言い訳だが、あの時、俺は親父に言った。親父は当時、末期癌で痴呆症も進んでて、あの後すぐにおっちんじまったんだが、親父の口癖はな、しきたりと家柄を守れ。分家のわがままなんて聞くなって。俺は弱い人間だな。親父に逆らえなかった。兄貴達もいたしな」

「それは仕方のない事です。」

「秋音ちゃん。俺達ならいつでも頼っていいんだぜ。」

私は考えた。私の中で真っ黒な狼がうなり声をあげている。もちろん対象は相模だ。あのクズがいなければこんな事にはならなかった。深呼吸をしておじさんに言った。

「私は大丈夫ですよ。」

おじさんは「そうかい。あんまり気負うなよ。」と言って控室に戻った。

骨を拾う時、私は心の中で骨に語り掛けた。

「父さん。必ず仇は討つわ。」


 長いフラッシュバックの後、秋音は眠りについた。

 舞竹島から帰った翌日。

元から受けていた本土での、強制性交等の罪や指定暴力団の舎弟の思い傷害罪、法律として決めきれないが証拠は挙がってる看護師による老人の計画的殺人罪。ため息しか出ない。まずは朝から、朝礼を終えて、東京拘置所に向かう。強制性交等の罪。60後半のジジイがよくやると思いつつ。榎本は証拠がしっかりあった上に確実な金額の取り交しの証拠。買春で判明した岩幸金属の工場長の立場を利用したパワハラな上に情状酌量でせめて10年と言ったらなし疲れたが、「工場では偉かったかもしれませんが罪は罪ですので。裁かなければなりません。」

 1件終わり2件目が始まる。反社の関わる傷害か。裏鳥は警察が捜査中という。もうどうでもよくなって、恨み辛みと正当性だのケジメだの言い出して、3員目で、秋音は言った。「ケジメ。それはあなた達のルール。法に則ったルールではない。禁固があるか、構成員でなくても示談は期待しない方がいいわ。懲役は勿論免れない。」

 少し時間が取れたから休憩した。そう言えばお昼も食べていない。

奇妙な性格で昨晩のフラッシュバックを思い出して自分のした事が法に則り正義か? 自問自答した。警察署の中の食堂で独り言を言った。

「そうしたいからそうするだけ。人間なんてそんなもん。フフ。あいつらと何が違うかしら? 私。」唐揚げ定食を食べて、3件目の聴取。2件目の人数が多いし、弁論の余地なしのケースばかりだったから斬り捨てたが、この件は妙だ。

 看護師による計画的な殺人。聞くことは山程あるし、証拠もそろっていた。長くなりそうだが、秋音は眠い中、気合を入れ直した。これが終わったら報告書の山を作んなきゃいけないんだから。

 

 女性刑務官に連れられた白髪の女性は礼儀正しくお辞儀し、椅子に「失礼します」と言って静かに座った。これまでの犯罪者とは雰囲気が違うが、私はまず、「失礼ですがおなまえは

「私が殺しました。」

私の声を遮る静かな声。秋音は、警察の調書から、名前を読みもう一度聞いた。

「半沢恵子さん。間違いないでしょうか?」「はい。」脈の探り方。被害者の抵抗の無い事、注射の角度や劇物のブレが極めて小さい事などから極めて精度の高い証拠と認識していた。私は落ち着いた。少なからず、自分が殺したという人間はいる。だが、彼女の場合不思議なのは、わざわざ弁護士をつけた事だ。

「では、調書にも記載ございますが、改めてお伺いします。あなたが島津玲子さんを殺害したとお認めになるのですね?」

「はい。私が殺しました。殺し方は

延々と続く調書通り。解剖の結果とも一致する死因。彼女の自供を否定する要素が見当たらない。秋音は考えながら聞いていた。

「動機は? 警察の調書では怨恨とありますが、介護して勤めていた時、周辺の証言では、生活音。被害者の島津さんが高齢による難聴の為、テレビの音が大きめではあったが多めに見る程度つまり、よそ様に迷惑をかける程の音ではなかった。あなたも怒声を上げたりなどなかったと。」

「えぇ。ただ。蓄積するものです。低サイクル疲労破壊の様に。」私は経歴をめくった。「アナタは東南大学大学院 化学部でありながら工学部と連携した特殊な研究をしていたスーパーエリート。30歳までは一流企業の開発研究部。突然辞め、なぜ、看護師の道を?」私の言葉に半沢は首を傾げた。

「高学歴では苛立ちを持ってはいけないのですか? 感じない者でしょうか? 弁護士の先生。1日で終ると言っても、毎日になれば耐えきれず、口汚い吐露もします。疲労破壊ですよ。低サイクル疲労破壊。」

藤田秋音は物理に全く知見はないと言っていいが、調べたところ小さな力が繰り返されれば墓に至る現象。ものすごく端的に言えばそういう現象らしい。調書で気になったから調べてみた結果だ。目の前の女は極めて理知的で、要所を確実に突いて来る。

「殺してやりたい。死ぬべきだ。そういう対象に対して衝動を起こすのは不自然ではありません。殺してくれと言われてはいそうですかと、殺すのも立派な殺人。しかし、別に殺したくもないのに勝手に死を待つ。生を長らえる処置の結果死を迎えたとしたら?」

彼女は極めて頭がいい。私はそう感じた。

「いえ、それは寿命や自然死、病死であり殺人では・・・

半沢が微笑んだ。そして、私も理解した。真相を。

「いいえ、立派な殺人ですよ。薬物に汚染された体。国からも世界からも見放された体。私だって知りうる提案をしましたが、彼女には全て効果を為さず、私への怒りではなく、白鳥さんは拒否しました。使うなら後学の為に使って。検体はまだ新鮮な方がいいでしょ? 原因がわかって死んでからでは意味はない。」

私は頭ではわかる。死んだ彼女は被検体を選び、半沢は研究者を選んだ。だが!

何故この人は弁護を雇う。電撃の様に感じ顔を上げると半沢は微笑んだ。

「私が殺したんです。マッドサイエンティストよ。立派な殺人者だわ。刑務官さん。これから私は黙秘しかしません。房に連れて言ってください。」

そう言って半沢が立つと、丁寧にお辞儀して、女性刑務官に連れていかれた。秋音は悔しかった反面、己の愚かさが高潔の「こ」の字もない、感情的で侮蔑されるべきおぞましい愚かさだと思いテーブルを叩いた。自分がどんな愚か者か思い知らされた。

 3つの案件。報告書を出した。所長は眉をひそめた。

「藤田君。半沢の件。獄中死とは? 老衰という年齢でもなかろう。」

私はあの接見後、裏を知る親族に本を渡した。警官立ち合いの元でだ。本当に残念だが、市販品の無臭の劇薬の製造法と本人、一家の死体、遺族が発見された。私も、教唆の事実を知らなかった。目的も知らなかったとはいえ立派な殺人犯だ

「警察にもどういう事ですか! と聞きました。遺体解剖の結果も、アレルギー性の中毒死としか。」

「彼女に食物アレルギーはなかったはずだが?」

「えぇ。しかし、獄中は決して病院と同じ潔癖ではございません。弱った肉体に何かしらの何かしらの病原菌も。刑務部も目下捜索中のそうです。我々が手を出せる分野ではありません。残念ながら。」

「まぁ。確かに。うちの不手際ではないものな。刑務官立ち合いの元、鉄格子の間でやり取りなんてまずあり得ん。無論、君を責めるわけはない。不可思議な事ばかり。休んだばかりだが、無理はいかんよ?」

「結構です。唐木部長。法の番人は司法の一環ですが、民を守るのが我々の使命です。」

「そうか。でも無理はいかんよ。藤田君みたいな優秀な弁護士。失いたくないから。」

「ありがとうございます。所長。お言葉に反する様ですが、次の接見がありますので。」

「うん、老人の世話焼きだが、過重労務は絶対に駄目だからね。よろしく。」


 私は駐車場に行き、キーを回す。次の事件。駅の痴漢、痴漢冤罪の確認と窃盗。

「それにしてもあのおばあさん達の言葉。私を正してくれる光なのか、涼子さんとは違う白い闇なのか。」闇にさい悩まされる女がミニクーパーを発車した。


 終、エピローグ

 エピローグ① 足立澄子


 2019年。私は大学を卒業して市役所に就職していた。

安定志向が強い性格もあったし、特にやりたい事もなかった。別に市役所の仕事を軽んじているわけではないが、言われた事をやって定時に帰れるのは魅力でもある。収入面では全然違うが、客商売というのがどうも苦手で。

 和彦お兄ちゃんは、結婚してついに私もおばさんになってしまった。良助お兄ちゃんと水城さんは結婚して実家を離れた。私も実家が嫌いじゃないんだが、両親からは反対され、でも、勤務時間とか理由をつけて私も実家を出た。よく母からメールが来る。

「子供がいなくなって寂しい。おっきな子供じゃなくて小さい子供ももっと」

「余計なお世話よ!」と返すとまだまだ元気なヤマトの若い頃の「しゃー!!」と怒る画像が送られてくる。和彦お兄ちゃんの子供の千秋ちゃんを猛烈にかわいがって、和彦お兄ちゃんも奥さんも「おばあちゃん優しいから何でも買ってくれるっていうからやめて! やめろ!」と怒られたくらいだ。あの大人しい和彦お兄ちゃんがだ。良助お兄ちゃんと水城さんとの子供を望んでいるらしいが、大きなお世話だろう。

 それに、変化と言えば、あの事件の後からカトハルや涼子、ちさはもちろん、フェイラムさんや公子さん、近藤さんとも、たまに連絡を取る様になった。毎年の夏にはカトハルと涼子とちさで舞竹島に遊びに行くのが恒例になった。フェイラムさんの家族や近藤さん達、三島さん、橘さんの大将も招いてバーベキューをしたり、皆で安藤秀作さんの船で釣りをしたり、楽しい旅だ。

ただ、カトハルが望んだ人はいつもいなかった。

 藤田秋音。カトハルがメールを送ると返してくれるそうだが、当たり障りのない、返信に困るものばかりだという。

 ある日、家について、郵便箱を確認した。

電気代の領収書ハガキと涼子からの手紙があった。

 いつもならスマホに送ってくるのに、わざわざ手紙なんてなんだろうと思った。

 とりあえず、冷蔵庫からビールを取り出してテレビをつけた。チャンネルを変えながらある番組に固定してぼーっと見ていた。CMに入って、涼子からの手紙を手にした。手書きのあて名がまた妙に感じた。まさかと思って、封を開けた。封筒の中身は、手書きの手紙。内容は予想的中だった。安藤涼子が結婚する。妙にお洒落な結婚式の招待状という思いのたけを込めた手紙だった。

 バーベキューで彼氏になるとは思っていなかったがその人だった。結婚まで早いなとは思った。その時以外、個人的に実際に会った事はないが、ハガキの写真を見て、旦那さんはイケメンで背が高い。実際話しても優しそうな人だと感じた。それ以上に涼子が幸せそうに笑っている事に安心した。あの事件の時の涼子とは全然違う。この笑顔と比べたら、あの時はやっと解放された喜びの笑顔。どっちも同じ喜びだが、雰囲気が違う。

 式場は東京で、有名なチャペルだ。涼子に似合うおしゃれな作りの建物で、私はハガキの「ご出席」に◎をつけて、「ご欠席」に線を引いて、家を出た。近くのコンビニに郵便ポストがあるし、祝い酒を買いたくなった。コンビニまでの道で涼子にメールを送った。

「おめでとう! びっくりした! 皆も来るの?」

歩いて5分くらいで、郵便ポストにハガキを投函してコンビニに入った。お酒の棚を覗いているとスマホが鳴った。

「ありがとう! 今すごい幸せ! 皆来るみたいだよ!」

「お祝いはウィスキーかな?」

「やめてよw 2次会でお願いww」

きっとカトハルには長電話でもしてるんだろう。スマホに「秋音さんは来るの?」と入力して、手が止まった。送るべきではないだろうという思いが強い。あの時の、狂気に取りつかれた様な涼子にしてはいけない。

「皆と会えるのすっごい楽しみ!」と送られてきた。

私は入力した文章を消して、返事を考えた。

「私も!」

 何かサプライズがしたいな。カトハルとちさに相談しようか。式までは2か月くらいある。何がいいだろう。私はそういう事に疎い。水城さんに聞いてみようかな。仕事の悩み事なんか吹っ飛んで、友達の結婚式にウキウキしていた。

 家について、つけっぱなしのテレビを見ながら酒を飲んだ。

そういえば、カトハルはどうしているんだろう。

 あの事件から2年くらい経って、カトハルは翌年東京の大学に合格して獣医学部に入った。大根がなんとかよくわからない動画が送られてきたのは覚えている。入学した当時はメールを送っても愚痴が多かったが、最近は難しい話をしてくる。険しい道だろうが、彼女なら何とか生きていくだろう。そんなにヤワな奴じゃない。

「涼子の結婚の話なんだけど。」

LINEを送ると、すぐにカトハルから返信が来た。珍しい。

「あぁ。驚いた。昨日はアイツのせいで寝不足だよ。」

私はくすくす笑った。やっぱり色々話したんだろう。おしゃべりな涼子の長電話は相手をするだけで大変だと思う。「こっちが切りたいのにいつまでも話しているんだもん。」

すると、LINEでカトハルから着信が来た。

「もしもし?」

プシュ! と音が聞こえた。

「よぉ。ダチ子。」

「飲んでるの?」

「どうせお前もだろ。」

私はケラケラと笑ってビールを開けて飲んだ。

「涼子さ。変な男につかまってねぇかな。あのBBQの時。ダチ子の勘は妙あたるから。気になるぜ?」

「ないわよ。どうせ、ちさにも聞いたんでしょ?」

カトハルの舌打ちが聞こえた。

職場では気を使う事ばかりでその「もしかしたら」癖がでた。

「ちさもあれ以外会った事ねぇんだってよ。人見知りだろ? アイツ。涼子と電話したけど、サプライズだって言って、何企んでるか。ったくなんなんだよな。」

「まるでお母さんみたいね。お姉さんっていう方が正しいのかな。」

沈黙が続いた。ぐびぐびお互いの音が聞こえる。

「まぁ、涼子に対してはアタシにも責任の一端があるからな。」

「アタシ!? 紹介すらしてないのに!?」

「ハードル上げた罰だ。気にすんな。」「滅茶苦茶上げたのは元はアンタでしょ? 元はと言えば!」カトハルは黙って飲んだ。

「なぁ。秋音姉さんは来てくれるかな。」

やはり、気にしてるんだ。カトハルは優しくて、強いと思った。

「わからないけど、正直厳しいかも。」

「だよなぁ。」

 私自身、カトハルに酷な事を言ったのに、どこか吹っ切った様にも感じた。電話口だが。口には出さないが、まだ、昔やあの時の事に尾を引いてる気がした。

「どうすりゃいいんだかなぁ。」

いつになく弱気なカトハルに私は言った。

「カトハルが悪い事なんてないよ。涼子が認めた男だよ! 気に入らないなら地獄の拷問でもかけてやんなさいよ。アンタ得意でしょ? そういうの。」

「アタシの事なんだと思ってんだよ! まぁ、アンタが地獄に来たら最高罰でじっくり甚振ってやるぜ。覚悟しとけよ。」

澄子は笑って一杯飲んだ。あんな事件があった後では、どうしても言葉を選んでしまう時は見受けられたが、ケジメは自分でつけるのが彼女の流儀。アタシは思いだした。

「あ、そうだ。」「なに?」

「ミシェルさんが言ってたの。去年の夏のBBQよ。」

「ミッチが?」

「うん。花と花言葉の話だった。私やカトハル、涼子やちさの事も聞いてきたの。秋音さんについても。」

「お前知らねぇだろ。」

「そうね。知らないって素直に答えたわ。でも、ミシェルさんが家の中に入って辞書持ってきた。まず、春の季語は桜とか蓮華草。秋音は不思議な事に秋の華じゃなくてゲンゲだって。」

「ゲンゲ? 何かの毒草かよ。それが何だよ。」「そう思って聞いてみたら、蓮華草の古い名称なんだって。立派に強く仏様が乗っかってなかったっけ?」「知らねぇ。」「春香と秋音。一見違うけど、同じ春の季語で、ゲンゲは菩薩みたいな優しさみたいな意味で桜には美しさ、儚げさがあるとか何とか。」少しの間、2度3度グビッと音がした。

「だとしたら両親は間違えたな。アタシは加藤オニヒトデで姉さんが桜だよ。」

「大体知ってんのか命名の理由。」

話が逸れまくる酔っ払いモードに、こっちもヤケクソで飲むダチ子。

「姉さんは秋に産まれた。あんな理知的で静かで低血圧な話しする姉さんからは想像できないくらいくよく泣く子だから「秋音」にしたんだって。アタシは、春に産まれて桜の香りが印象的だったから、春の香りで「春香」だってよ。」

「ふーん。で? 秋音さんが来る可能性は少ないにしろ、待つんでしょ桜の香りで産まれた春香ちゃん?」

数秒沈黙して「うっせぇーばーか!!」とLINEを切られた。スマホを置いて、澄子はベランダでビールを飲んだ。「回答0点。意味は100点!」


 エピローグ② 加藤春香と黒木綾香

 

 あの事件が全て終わった後だ。

 秋音姉さんは連絡をしても、素っ気ない返事ばかりだ。無論、仕事が忙しんだろう。でも、甘えたいが、やんわり勉強法を教わっても「教えたでしょ。模範解答を暗記するのは猿でもできるわ。そこからどう想像し、考察し、疑念を持ち、答えと合理性があるか! それが的確合理的な勉強法よ。」あの事件での私からもわかるデレデレぶりと打って変わって、LINEで聞いてみたらまるで鬼教官の姉。でも、言われてみればその通りで自分は未熟。春香は勉強にいそしんだ。「何故この出題者はこの質問をする? 読んで見なさい! その重要性は? それが基本と仮定するなら、応用に至るまでに何が必要か不必要か。」姉はそこまで教えてくれた。喧嘩の気合には自信が阿多がこっちは50%あればいい方だ。姉の端的なLINEしごきの後ぐったりした

 でも、模試の成績はどんどん上がり、塾講師の先生に相談しても「こんなとこじゃないもっと上目指しなさいよ!」と励まされて有頂天だった。難問には難問で見透かせない医師がある。それもまた鍛錬。まるで武士だ。

 狙えるのももしかしたら帯畜? なんて夢も抱く愚かな自分。獣医学部や一部の分野においては東大生の並みよりも優秀な頭脳の集まりだ。舞竹島で勉強を続け、飲むと筆が進み、悪循環の中、知恵をつけた。

 疲れれば酒と潮風と星々の輝きに癒される。

 受験費用も、何より交通費がバカにならない。空いている時間は勉強した内容を復唱しながらアルバイトしていた。

 ある日の昼食。

「はい。できたよ。春香の好きなゴマダレも。」

「ありがと! あとこれフェイラムさんがくれたトマトでしょ?」

「よくわかるわね。今年のはいい事があったからいい物ができたんじゃないかってね。」

「そっか。いただきまーす!」

アタシの食いっぷりを見てほくそ笑みながら言葉を聞いて、公子はクスっと笑った。

「勉強で根詰めじゃ頭パンクしちゃうよ。天才の姉さんと同じ血を引いてたって、スタートが遅い分頑張んなきゃ。」

公子が洗い物をしながら言う。

「今日はそのガス抜きにフェイラムさんちに行きたいんだ。ミッチとエマちゃんにも会いに行きたいし。」

アタシはかっくらって洗い物を終えて「行ってきます。」と言って玄関でサンダルをトントンし、母の車に乗った。

 フェイラムさんちに着いたら亮がはしゃいでいる。

「さっきまでへとへとだったのに、春香が来ると急に元気になるんだから。」

「ゴードン。アタシとしてはアンタの方が好みよ?」

母もあわせて3人でくすくす笑っていた。

 春香と公子は驚いていた。ジョージ、シェリー、そして相変わらず愛らしいエマを抱えるミシェルが玄関にいた。

「ミッチ!!」

春香は駆け出してミシェルの目の前まで近寄った。公子が丁寧に後ろからお辞儀して、ジョージやシェリーもそれに倣った。

「エマちゃん相変わらずかわいいねぇ~。スマホで見たのと同じ以上にかわいい!」

あの事件から数年もせず、ミシェルは女の子と出産していた。バカみたいに写メを送ってくるけど、どれもこれもかわいかった。名前はとても考えたという。散々家族会議をして単純でかわいくて神様に恵まれる様な名前を全員で考えたんだとか。

「今何歳?」

「今年で2つかしら。こうやって知らない人が来ると大人しくなるの。普段はぎゃんぎゃん泣くしすぐおしめ変えないといけないし、ゴードンとか亮が勉強中でママとアタシが料理してるとまたぐずりだすのよ? なんでか知らないけどパパが面倒みるともっと泣くの。元軍人の癖が身に染みてるのかもね。」

春香とミシェルでクスっと笑うと「ふん!」と不機嫌そうにジョージが家の中に入っていった。シェリーが笑顔で手招きした。

「クッキーもまだあるし、紅茶も淹れ直すわね。」

「いえ、そんなお構いなく。」

「さっきのおねぇちゃん全然食べないから余ってるんだ。大丈夫だよ。」

亮が楽し気にみんなを引き入れた。エマ・フェイラムはじっと不思議そうに春香を見ていた。春香は笑顔で返すと視線をそむける。

 しれっと亮が春香の隣に座るとゴードンやジョージがくすっと笑った。キッチンで熱源から離れた位置でクッキーを並べるミシェルが「よーしよし。」と優しく縦に体を動かす。シェリーさんはいつもガチだから温度計でポッドの温度まで管理している。

「春香はまだ勉強?」

「あぁ。難しい科目が多くてな。人間相手じゃないけど、そっちの方が難しい場合も往々にしてあるって先生も言ってるよ。」

「人間相手ならドクターは無理だが、レスキューくらいなられ俺やシェリーでもできる。人間の体治せって言われるよりも、動物の方がわかってやるのに苦労するだろうなぁ。痛みとか症状とか。大変だと思うぞ。」

ジョージが缶ビールを飲みながら春香を見ていた。

「うん。種別がたくさんあるし治療法もわかってない動物ばっかりだって。」

「春香、難しい事してるんだね。」

「遊んでばっかりの亮とは違うのよ。」皆くすくす笑った。

 話がはずみ、夕暮れになりゴードンも、亮だって養子とはいえエマを愛し、ミシェルも幸せそうだった。こんな幸せな家庭で育つエマが羨ましい。

「春香?」

ミシェルが私の顔を覗き込んだ。皆、きょとんとしてアタシを見ている。テーブルに何滴かの水が落ちていた。

「ごめんね! なんか悪い事言った? それともどこか痛いの?」

亮が心配顔でアタシを見てくる。

「ううん。大丈夫。全然どこも痛くない。なんだろうね。年取ると痛くもないのに涙が出る事があるんだよ。心配しないで。」

ジョージやシェリー、ミシェルは察しがついて眼を伏せた。

「バカ野郎。俺なんかもっと年寄りだぜ? いまだにLEONで泣く。」

「そうよ。パパが突然泣き出したりしてアルツハイマーとかになったりしたらどうしましょうって。ママと相談するくらいよ。ママはショットガン準備してるから安心してるけど」「物騒なブラックジョークだな。」

アタシが缶ビールを飲んで笑った。

 いい時間になって、加藤の2人は家を出て、全員で木立を抜けて、潮騒と夕日の絶景に立った。ゴードンがカメラを用意して、急いでゴードンがポーズをキメて、皆で写真を撮った。青くさい薫風が心地いい。

 あの事件の後、皆に「ごめんなさい」を言い回り、今は幸せと夢がある。父は汚職に直接かかわって無かったから何の懲戒もなかったが、サガミヤの大事件の後、違う会社に転職した。そうするといつも考えてしまう。秋音姉さんよりも幸せになっていいのか? 自分が姉さんよりも幸せになる権利なんてあるのか。つい、思ってしまう。少し離れて、1人、飲みながら本土の方を見た。

「ハルカ? そこ柵ないの。気をつけてね。」

振り向くとエマを抱いたミシェルがいた。

「せっかくベンチがあるんだから座りましょ。パパがDIYで作ってくれたやつ。」

ミシェルはビニール袋に缶ビール4本と哺乳瓶を入れて座りアタシも隣に座った。心配して来てくれたんだろうけど、何を言えば良いのかわからない。缶ビールを2本空けて、1つを渡してくれたミシェル。アタシはぬるいのを飲みきって、受け取った。

皆、気を利かせて2人、エマも入れて3人きりにしてくれた。

「私もこんな所で飲みたかったの。でも、パパもママもうるさいのよ。エマの前でこんなもの飲んじゃダメだって。人間の嗅覚は一度覚えたら忘れないものだぞって。だから秘密よ?。」2人でくすくす笑っているとエマが「だぁだぁ。」と欲しがる。

「だーめ。エマが飲めるのは後18、9年後。今はこれ。」と言って哺乳瓶を優しく飲ませた。ミシェルはただ優しいだけじゃない。子供の頃厳しき育てられた事もあってか、しっかりしながら優しい魅力的な女性。今は孫にデレデレのおじいちゃんとおばあちゃんになったあの2人が元海兵隊員だなんて、人は見かけによらないものだ。

ミシェルはビールを飲んで、口を開いた。

「あの話。蛇足だったかしら。」

「ううん。秋音姉さんがそこまで思ってくれてるって、知っただけで、泣きそうになった。ミッチは両親譲りの優しさ、勿論ゴードンもね。だから、アの話はありがたかった。」

ミシェルはクスリと笑って、2人で缶ビールに口をつけた。

「みーんなわかってるからよ。ハルカが、頑張り屋で、優しくて、1人でいる人を放っておけない人だって。多分だけど、秋音さんも、洋子さんもお母さんも、足立さんや渋谷さんだって気持ちは同じと思うわ。皆わかってると思うよ。そんなハルカを、皆好きなんだもん。ハルカは秋音さんの事心配しすぎ。だって。あなたのお姉さんなのよ?」

悪戯な笑顔で私は笑い、ミシェルも笑った。

「春香の頑張りはみんなわかってるよ。それ以上頑張ってどうするの? 言い方悪いけど、誰も求めてないよ。ハルカはそのままでいいの。そのままのハルカがみんな大好き。お姉さんだってそうなんじゃないかな。この前、主人と3人で今回の件、話したって、その後、主人も言ってたもん。」

「なんて?」

ミシェルが微笑んで言った。

「あんな藤田先生初めて見たって。いつも理路整然、アリやゴキブリも通さない鉄壁な論理的な論理。恐ろしい程冷徹で冷血。民事で争いたくないくらいだって。でも、感情むき出しにして、芯が通ってる藤田先生を目の前にして、本当に優しい人なんだって。」

エマが泣き始めて、ミシェルがあやしている。春香は黙って、一気飲みして2本目を開けた。ミシェルは静かに目を閉じて、一呼吸置いた。

 実はミシェルと旦那さんで、秋音姉さんと今回の事を話したらしい。無論、責めるわけはないが、「春香に会ってあげたら?」という趣旨だったそうだ。徹通徹尾、秋根根さんは拒否したらしい。少しもめたとか何とか。でも、ミシェルが夫を抑え、秋音姉さんから驚く程の本音と烈情を聞いたという。

「もしもアンタ達が、今回の件もふくめて、これ以上春香を傷つける様な事したら、血の果てまで追いかけて殺してやるから!」

私はその時いたたまれなくなった。ミシェルがじろっとアタシを見てくる。

「血は争えないって日本の言葉にあるじゃない? 心配も烈情も。」

アタシはしばらく黙ってから、「へっ」と笑ってミッチと乾杯し直した。

「秋音さんの幸せは彼女が掴むもの。春香がリードするものじゃない。」

「そうね。流石軍人の娘。達観してるよ。」

「そんなバカな。今でもパパとママは恐怖の対象よ。」

アタシ達はクスクス笑った

 もう日が暮れる。フェイラム家を御暇する事にした加藤の2人。「トマト!」と亮が出してきて、アタシが頭を撫でながら言った。

「涼子にも言ったそうじゃねぇか。浮気もんはバレるぜ? 女の嗅覚なめんなよ?」

皆くすくす笑って、亮は恥ずかしそうにしていた。トマトを受け取って、2人は車に乗って自宅に帰った。

「幸せは自分で掴むもの、か。」

「何それ。ミシェルさんの神のお告げ?」

「神なんか信じないよ。神様に頭下げてる暇があったら目を向かなきゃね。」


 エピローグ③ 藤田秋音

 あの事件から数年後。

 「あの。すみません。」

結婚式場の入り口で受付係をしているスーツ姿の女性スタッフに私は花束を持って声をかけた。私は女性スタッフに大きな花束を渡した。女性スタッフは、花束の中にある招待状とメッセージカードを見つけた。

「まだ式は進行中ですので、ぜひ。」

「いえ、急な仕事で参加できなくなりまして。これから海外に。新婦の涼子さんに渡しておきたかったんです。本当にごめんなさい。」

私が深々と頭を下げると、女性スタッフは困って、「少々お待ちください」と言ってチャペルの中に駆けていった。私は一杯飲むつもりだったから電車で来た。駅に向かう為、式場の入り口に歩いていく。

「いいのか? せっかくあいつらに、かわいい妹にサシで会えるんだろ?」

門の脇で煙草を吸っている男を見た。男は煙草を落として革靴で踏み消した。

「ここは神聖な教会だし、下品よ。早死にしたくないならいい加減やめなさいよ。それと、ストーカー行為は立派な条例違反よ。訴えられたいの?」

「たまたまだよ。たまたま。」

私は進藤君の前を通り過ぎた。

「なぁ、少し付き合えよ。」

私は冷たい眼で進藤君を見て、「どこよ。」と聞いた。

進藤君が親指で指した方向は、式場を一望できるレストランだった。ニヤッと笑う進藤君に私は嫌々ついて行った。大体、進藤君はこういう時、良い事をしない。

 テラス席にエスコートされると、Reservedとカードが置いてあった。

私が座ると進藤君がランチコースを2つ頼んだ。

拍手に気づいて式場に目を向けると、新郎新婦がチャペルから出てきた。足立さんもちさちゃんも、ミシェルさんも、勿論、春香もあの事件に変わった島の人達は全員わかった。

 ハッとした。

涼子さんの手元のブーケにはコスモスとゲンゲ。ゲンゲは一般的には蓮華草と言われる花で、長野にいた頃父が誕生日にプレゼントしてくれた。他も私の好きな花ばかりだ。もっと驚いたのは、春香が、私がさっきスタッフに渡した花束を持っていた事だった。

花嫁より大きな花束もっちゃダメでしょ。非常識なんだから。


 少し前の話をする。

 あの事件の後、相模兄妹を火種にしてサガミヤの急成長の裏側も出てきた。警察は勿論、マスコミもすごいものだ。社長は辞任。役員の相模康夫も辞任。春江は離婚して、再婚した様だ。雄太と美優に対する黒木綾香への接近禁止命令を裁判所浜田審議中。

 私の中の黒い狼が囁いた。

「随分いい結果に成功したな。」

「うるさい。」

「お前は父親の復讐を果たし、かわいい妹を手に入れた。上手くやったじゃないか。黒木綾香に計画を暴露されれば厳しいがその後に何が待ってるかわからせただろ? 口止めと事後処理を無料でやってるじゃねぇか。上手くあの気持ち悪い女を震え上がらせながらな。まさに飴と鞭だ。」

「黙れ。」

「もちろん知ってるぞ。本当の計画の主犯格が自分と気付かれない様に動いたのも天晴だ。殺意に満ちて出てきた美優が、綾香をぶっ殺せば口封じは成功。また相模美優は檻の中。一石二鳥どころか一石三鳥の計画だ。相模の兄妹は仲良く監獄行き。大したもんだよ。」

「うるさい黙れ。」

「いいじゃないか。法律家だからこそできる完全犯罪だ。春香が無事ならいいんだ。立派なお姉さんじゃないか。春香も喜んでるだろうぜぇ?」

「黙れって言ってんだろ!」

 我を取り戻した私は、汗をかいてテーブルを叩いて立っていた。店員がやってきて「お客様?」といったが、「あぁいい。悪い。俺がこいつを怒らせたんだ。出てけってんなら出てくよ。2度としねぇ。誓うよ。」

「か、かしこまりました。」

全員の注目を確認して、私は深呼吸をして座った。


 これも過去の話だ。

 あの事件の後のある日、東京に来ているミシェル・フェイラムが法律相談にきた。私を指名で、何の事かと事務員に聞くと内容は、加奈屋亮君の親権に関する相談だった。だが、それは完結しているはずだった。担当弁護士は垣永という何度か話した事がある敏腕弁護士で、民事で裁判所で対面した事もあった。民事専門の敏腕弁護士として有名だった。ミシェルさんの旦那さんだったと知った時はかなり驚いた。旦那に聞く様に促したが、私の意見も聞きたいという奇怪な内容だった。

 渋々、私はアポを取って、ミシェルさんと垣永に対面した。

仕方なく会ってみた。会ってみると実際は、私の事を知りたいという事だった。私はそんな事に意味がないと思い、「依頼内容と乖離しておりますね。亮君の親権など法的措置は垣永先生が完結させております。特に問題はないかと。」すぐに場を離れようとしたが、ミシェルさんはとても積極的に私から話を聞き出そうとしてきた。最期の言葉に感情があふれ出た。

「ハルカに会ってくれないかしら。」さすがにイライラして、ミシェルさんに聞いた。

「何故です? アナタにも協力を求めたあの件。私も含め春香や関係者に悪性を感じるというのであれば、法的手続きのと証拠の上お願いします。」

ミシェルさんは深呼吸をした。

「ハルカの事。わかってあげられないの? あんなに会いたがってるのに。」

私はキレる寸前だったこの外人は私の一番触れてはいけない、怒りと我慢が織り交ざった琴線に触れ始めたんだ。また深呼吸した。

「そんなに悲しい結末なんて、私は嫌よ。」

私は怒り、立ち上がった。部屋を出て行こうとドアノブに手をかけた。わかった風な口を聞くな。所詮アンタらは他人なんだ。

「藤田先生。」

垣永新次郎が口を開いた。この話し合いはこの男の手引きなのか?

「あなたのご家庭の事は聞いています。妹さんの事も。ただ、ミッチは、あなたを糾弾する為じゃなく、あなたと春香ちゃんの事を想って。」

私は振り向いて言った。深呼吸をして冷徹な表情で言った。

「垣永先生。ミシェルさん。他人風情のあなた達が何をわかっていると?」

我ながら錯乱していた。私に詰め寄ろうとするとする垣永をミシェルさんが制した。ミシェルさんが私にゆっくり近づいてきた。私はギラギラとミシェルさんを睨みつけた。

「他人風情。そうですね。でも、アキネさん。私はハルカの事が大好き。それに、ハルカもあなたの事が大好き。」

「それが? なにか? 何度でも言いましょう。他人風情が首を突っ込む事ではありません。おかえりください。」

「あなたには恥ずかしくて言えなかったのかもしれないけど、ハルカは、あなたが独りぼっちだと思ったから、そんな事ないって伝えたくて、親友の足立さんや渋谷さんも呼んだの。あなたはそれすらわかってないのに、自分の貝に閉じこもるの?」

「黙れ!」

私が怒り心頭で叫ぶ。ミシェルさんが必死に垣永を制止している。

「私の復讐は終わった。この件ではもう春香を関わらせたくない。私はいない方が、春香と関わらない方がいいの! 余計な事をしてあの子を傷つけないで!」

「藤田先生! いい加減にしなさい!」

垣永が怒っている。私は彼を睨みつけた。

「今、春香ちゃんを傷つけているのはあなたでしょう! あなたは春香ちゃんに会うべきだ! 大切な妹の気持ちを踏みにじるな!」

私は心の中で何か線が切れるような音がした気がした。あふれる感情を止める事ができなくなった。

「あんたが春香を気安く呼ぶんじゃねぇ! しかも、そこの白人から聞きかじった程度だろ? 笑わせんな!」

「例えあなたが嫌でも、妹さんが傷つく事になっても、私達は助けたいんだ!」

私の怒りは我慢の限界を超えていた。ズカズカと足音を立てながら垣永の胸ぐらを掴んだ。

「これだけは言っておく。てめぇらでも誰でも、もしも春香の事を傷つける様な事したら、アタシが地の果てまで追いかけて殺してやる!」

 荒く、垣永を突き放して睨みつけた。

 数秒、私は鼻息が荒く、自分の気分を制止するのに時間がかかった。

2人が驚いて私を見ている。垣永は逆上する事もなく、息を荒らした私の剣幕の強さにただ驚いている。2人の固まった表情を見て、私は段々冷静になった。自分がこんな猛々しい感情的な行動をしている事を我ながら驚いた。心の狼は静かにしているのに。

 春香は私にとって特別なんだ。あの後もずっと春香の心配をしている。でも、何度考えても、春香と直接、接触するのは良くない。相模の公判はまだ終わってないんだから。

 深呼吸して、私は我に返って「それじゃあ。」と言って部屋を去ろうとした。

「アキネさん。ちょっとだけ話させて。少しだけよ。」

ミシェルさんの言葉に私は振り返った。ミシェルさんは真っすぐに、私の内面を貫くような強い視線で見つめている。何か怖くて、私は視線をそらした。

「なぜ泣いているの?」

ミシェルさんが悲しそうに私を見つめている。

私が両瞼に手を当てると暖かい液体があった。垣永は視線を逸らし、私に背を向けた。

「ミシェルさんのさっきの意見。覚えておきましょう。もう話す事はありません。おかえりください。」

「最後に。」

私は涙を拭って振り返った。

「何よ。」

大きく深呼吸をして、ミシェルさんは私を見据えて口を開いた。

「私達は、絶対にハルカを傷つけない。それだけは信じて。そして、怒るかもしれないけど、ハルカは、あなたと一緒にいる事も、リョウコ達も仲間としている事も歓迎している。ううん。望んでいるのよ。」

私は、じっとミシェルさんを見つめた。

「守れなかったら私達を殺してくれて構わないわ。でも、涼子やちさ、澄子や公子、奨太や秀作、洋子には手を出さないで。」

ミシェルさんは、まっすぐな眼で私を見てお辞儀した。それが嘘やつくろったものではないと分かる。急に自分が恥ずかしくなって目をそむけた。

 私は部屋を出て行った。

私が犯した今回の最大の罪は、闇のケダモノに従うしかない惨めな人間になった事だ。

その日の内に安藤涼子の結婚式の招待状が届いていた。同じ日に、ミシェルさんからメールが来た。ミシェルさんには悪い事をしたと思い、何度もメールを交した。好きな花だとか何を着ていくかだとか、ガールズトークが長く続いた。


 現在に戻る。

 進藤君と式場を眺めている。

「そうか。あれってそういう意味だったのか。」

黒いドレスで楽しそうに笑う春香を見てつぶやいた。

「なんだよ。いきなり。」

進藤君が煙草を取り出しながら怪訝な表情で聞いてきた。

「何でもないわよ。ちょっと前の事を複数思い出していただけ。」

進藤君はつまらなそうに鼻で笑って、進藤君は火を点けた。私も1本もらった。店員さんが進藤君にバーボンを、私にホットコーヒーを持ってきてくれた。

式場前ではブーケトスが始まろうとしている。人の結婚式は何回か出席したが、春香がいるとなると何か感慨深いものがある。新婦に対して失礼だろうが、私の関心は春香の方が強かった。

「いいのか?」

「なにが?」

「さっき聞いただろ。」

呆れた顔で進藤君はバーボンのロックを飲んでいる。さっき何を言われたか忘れた。

 鐘の音が聞こえて、式場を見ると、ブーケトスが行われた。ブーケはちさちゃんが受け取って、恥ずかしそうにしていた。顔を赤くしてもじもじしているのが可愛くて、つい笑顔になった。ちさちゃんの結婚式には呼ばれるのだろうか。

「残念だったな。」

「こんなとこまで届くわけないじゃない。バカじゃないの。」

「うるせぇ女だな。だから結婚できないんだよ。」

「進藤君は一生独身確定だもんね。」

進藤君が舌打ちをした時に前菜が用意された。

サーモンと水菜の上品なカルパッチョだ。見た目もきれいで高級そうだ。

「こんなの、お金大丈夫なの?」

「うるせぇよ。」

私はため息をついて、進藤君のご馳走になる事にした。

 隣の式場では幸せの鐘が鳴る中、涼子さんも春香も、足立さんも、ちさちゃんも、楽しそうにしている。あの件に関わった人はみんなわかる。見ていて困った妹だと思った。春香の顔は赤く、ケラケラ笑っている。人様のハレの式で、あんなに酔っぱらって。まったく、おバカなんだから。涼子さんが親友とはいえ、羽目を外し過ぎだ。黒いきれいなドレスから胸がはみ出しそうなくらいピョンピョン飛び跳ねているし、もしも、おっぱいが出ちゃったらどうするのよ!

「もう! あんな裸みたいな格好して!」

「くっ! はっはっは!」

進藤君が大げさに笑って、私は恥ずかしくなった。

「なによ。大きな声出さないでよ。」

「いや、お前も年くったんだな。お前の口からそんな言葉が出るとは思わなかったよ。」

ケラケラ笑う進藤君の顔に、まだ熱いコーヒーをかけてやろうかと本気で考えた。

「はっはっは。 あんな裸みたいな格好って。はっはっは。」

「うるさいし。」

できればこんな小さいカップじゃなくて、ポットで熱湯をかけてやりたくなった。進藤君のデリカシーのなさは本当に困ったものだ。友達じゃなかったら絶対に告訴してやる。

 でも、私は大人だし、今は進藤君よりも春香に興味がある。行動が危なっかしいし、春香に群がる男にイラついた。声は聞こえないが、群がる男を笑いながらはたいて、足立さんやちさちゃんと楽しそうにはしゃいでいた。天真爛漫な春香を見ているうちに気分が落ち着いた。今テレパシーみたいな超能力が使えるなら、春香に「あの時はごめんなさい。でも楽しそうにしているあなたの笑顔が私は好きよ。」と伝えたい。

 「ねぇ。私って読書家でしょ?」

私は春香を見つめながら言った。進藤君はバーボン片手に「あぁ。」と言った。

「この間読んだ本なんだけど、少し悲しい話なの。聞いてくれる?」

進藤君はロックグラスを回している。

「ある女の子がね、暗闇の中で歩いているの。誰もいない真っ暗な坑道を歩き続けて、外を目指したくなったの。何回も行き止まって、いっぱい歩いて。地図も作って外に出る方法を一生懸命探したの。ある時ね。その子は出口を見つけたの。一生懸命、カギを壊して、外に出たら、明るくてきれいな森だったの。女の子は、あまりに嬉しくて、夢中で森を駆け抜けたの。抜けるような空と見た事がない青い海。白い砂浜に出て、1日中笑い転げていたの。それだけ嬉しかったんだろうね。」

進藤君は水を汲みに来た店員さんに対してロックグラスを振った。店員はお辞儀をした。

「それでね。女の子は海も山も楽しんで、はしゃいでいたの。

でも、ある日、彼女は動かなくなったの。死んだんじゃなくて、何も変わっていない自分に気づいてしまったの。明るく抜けた空の下で、海や山にいても、潮騒が気持ちいい夜の浜辺にいても、彼女はたった1人きり。孤独を感じてしまったの。動く事に意味を感じなくなってしまったの。」

進藤君のおかわりのバーボンが届く。進藤君は一気に飲み干してもう1杯頼んだ。私も飲みたくなって、同じものを頼んだ。店員は私達に怪訝な顔をして「お車は?」

進藤君が手を振ると、「かしこまりました。」と言って去った。

「その子、どうなったと思う?」

進藤君は呆れた顔で額に手を当てている。

 私は式場を見た。まだ新郎新婦のお披露目が終わっていなかった。まだ赤ら顔の春香が足立さんやちさちゃんとはしゃいでいる。

 暗闇を歩いてきた私だが、一応、社会人としては成功した方なのかもしれない。でも、まだ苦学している妹の方が輝いている様に見える。人生の意味について考えさせられる。母とはいろいろあったけど、春香は、私のたった1人のかわいい妹。ずっと輝いていて欲しい。

「さぁな。」

気づくとバーボンがテーブルに置いてあった。進藤君はバーボンを飲みながら、つまらなそうにしている。何か考え事をする時、進藤君は食べ物に手を付けない。

そういえば、私も食べ物に手を付けていなかった。半分くらい残している前菜を食べきって、私はバーボンに口をつけた。

 式場の新婦を見て、果たして、何が幸せの形なのか考えさせられる。神様はイジワルだ。

 私が進藤君の答えをずっと待った後、進藤君は微笑んだ。

「その女の子はさ、適当な男と出会って、普通の結婚をして、普通に子供を産んで、普通に育てて、普通に死んでいくんじゃねぇか? 人間なんてそんなもんだろ。まぁ、少なくても俺みてぇなひねくれもんじゃなぇと思うけどな。」

私はロックグラスを進藤君に向けて上げて、口をつけた。

「そんなの当り前じゃない。なに? プロポーズ?」

進藤君がグラスに口をつけて、じろっと私を見た。私は若い頃に学習した小悪魔顔を作り、進藤君に向けた。進藤君にそんな気持ちがない事はわかっているけども、さっきの仕返しに少し遊んでやろうと思った。

「お前がそんな顔をする時は、大体、面白くない事が起きる。」

私は「へへっ。」と笑ってバーボンを空けた。店員さんにおかわりを頼んだ。

休日とはいえ、こんな昼間から中年男女がバーボンのロックを何杯も開けていたら変な光景だろうとは思うが、そんなのどうでもいい。

 しばらく沈黙が続いた。

 私は春香を見ている。足立さんに言い寄る男もいたが、まだ春香に言い寄る男が腹立たしい。もしも彼らの誰かと付き合う事になるとしたら、みっちり面談が必要だ。いや、その後、結婚なんて言い出したら、男が胃潰瘍になるまで時間をかけて面談が必要だ。相模勇矢や相模雄太みたいなクズ男だとわかったら、何があっても阻止する。例え春香がどんなに愛していようと、私は絶対に許さない。

 あの子はきっと幸せな人生を送る。少なくとも私よりも。そうあってほしい。一生私の事が嫌いでも、春香は、春香だけは幸せであって欲しい。足立さん、ちさちゃん、涼子さん。春香をよろしくね。

「おい。なに泣いてんだ。」

進藤君が不安そうに私を見ている。また、私の頬に何か温かいものが流れている。ポケットからハンカチを取り出して涙をぬぐった。どうも春香の事を考えると涙腺が脆くなる。

 進藤君も前菜を食べ終えて、次のお皿が来た。

イカ墨パスタだった。進藤君はやっぱりデリカシーがない。お歯黒になったらどうするのよ。私は今日歯ブラシを持ってきてないのに。でも、お呼ばれの食事だし、文句は言えないし、本当はこの後なんの予定もないからいいけど。私は、何も言わず、大人しくパスタをフォークに絡めた。

「なぁ。」

「なに?」

ずるずると音を立てながら進藤君がパスタを食べている。進藤君が食べている間、私は口元を拭いてバーボンを飲んでお代わりした。なかなか言い出さないから2口目のパスタを巻き始めた。

「さっきの、女の子の話だけどさ。」

私の手が止まった。

「その子。光を見つけたのに、なんで悩んでるんだろうな。俺にはわからねぇ。」

私はきょとんとして、フォークを皿に置いた。

「あんなキラッキラした黒真珠。俺の妹だったら宝石みてぇにかわいがわりたくて仕方ないけどな。」

 進藤君は式場を見つめる。私も見つめると、みんなで写真を撮っている。

 黒真珠か。そもそも私にとって春香に黒のイメージは合わない。私は、春香には、春の意味をつけて、下品なピンクじゃない桜色とか赤い方が似合うんじゃないかと思った。紫もいいかな。でも、人様の結婚式で新婦より目立つのは御法度なんだから、控えめな方がいいか。見れば見るほど春香自身がかわいくなって、何も言えなくなってしまう。親バカならぬ姉バカ。とにかく私はバカなんだ。進藤君は、昔から、変なところで、丁度いいところを見極める勘の鋭さを発する。普段は口も態度も悪いのに。本当に憎たらしい親友だ。

「進藤君って妹いたっけ?」

「いねぇよ。」

進藤君は私を鼻で笑ってパスタを食べた。私は食べ終わって、トイレで化粧を直しているとやっぱり歯が黒い。ほら。家まで、進藤君以外とは誰とも会えないな。デザートも食べ終わった頃、式場は落ち着いていた。これから2次会か。進藤君と私がバーボンを乾杯し、進藤君が伝票をもってレジに向かった。2人とも帰る方向が違う。

「じゃあ、ご馳走様。」

私は深々と頭を下げて立ち去ろうとした。顔を上げると進藤君が笑っていた。

「今日は言わねぇんだな。」

「え? 何が?」

「また会いましょう、ってさ。」

私は少し黙って彼に言った。

「へっ。」

私の笑顔を見て、進藤君は嬉しそうに笑って去った。

 私自身もなんだかすっきりして、家に向かう気分が軽やかだった。

今日は1日、せっかくの休みだし、家でお酒を飲んでゆっくりしよう。


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ゲンゲと桜 アナベル・礼奈 @shoukikoko

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