痒み

 初日のアンケートは散々だった。といっても酷評されていたわけではない。むしろその逆だった。

『県警のトップと記者が鼻を掻く様子が面白かったです』

『全員が一斉に鼻の頭を掻くシーンは思わず笑ってしまいました。なにかの符丁かな、と勘ぐってしまいましたが考えすぎですかね 汗』

『警察の記者会見という硬い題材が笑いで緩和されていてよかったです。おかげで力を抜いて観られました』


「なんだよこりゃ」

 脚本・演出を担当している主宰の三枝木さえきが呆れたように呟いた。

「お前ら勝手にアドリブ入れたのか?」

「そんなんやるわけないじゃないですか」と記者A役の上岡うえおかがアンケートから顔を上げる。

「セリフとちらないようにするだけで精一杯ですよ」

 ねえ、と上岡が視線を向けると、他の役者二人も頷いた。

「じゃあなんなんだよこれ」

 三枝木はアンケートを机に広げると、憤然と楽屋備え付けのパイプ椅子に座る。

「俺はコメディなんて書いた覚えはないんだよ」

「でもおかげでリラックスして観られたってありますよ」

「謝罪会見をリラックスしながら観てどうすんだ」

 劇団準急列車の新作は、警察内部に連続殺人犯がいた、という前代未聞の不祥事を正面から描いたものだった。

 社会の情勢を絡めた作品を真面目に上演する。それが劇団の信念だったが、役者の仕草で全てが台無しになっていた。

「何で鼻なんて掻くかな」

 それも全員、と三枝木は役者達をにらんだ。

「だって痒かったんですもん」

「それぐらい我慢しろよ。客に余計な勘繰りさせてんじゃねえか」

 我慢しようとしましたよ、と上岡は不満そうに呟いた。

「でも蚊がいたんです」

「蚊?」

「刺されたらどうしようもないでしょ。それも何回も」と上岡は自身の鼻を指差した。しかし、刺された痕などは特に見つけられない。

「本当に刺されたのか?」

 上岡は思いきり顔をゆがめた。

「三枝木さん、そういうところ本当によくないと思います」

「だって普通に考えて蚊がいるわけないだろ。今冬だぞ?」

「それでもいたんですってば」

 上岡の非難がましい視線を無視して三枝木は立ち上がった。

「とにかく明日からは何がなんでも我慢すること」

 コメディにされちゃたまらないからな、と三枝木はアンケートの束をにらんだ。


 痒みを我慢することは思ってる以上に難しい。意識的にか無意識的にか、役者達は今日も舞台上で鼻を掻いていた。

「もうアンケート見たくねえな」

「仮にも主宰がそんなこと言わないでくださいよ」

 三日目が終わった時点で、既に役者とスタッフの疲労は限界を迎えていた。

「言いたくもなるよ。だってお前らめちゃくちゃ掻いてたもん」

 どうして我慢できないかなあ、と三枝木はぐったりとパイプ椅子にもたれた。

「あの痒みを我慢するのは三枝木さんでも無理だと思いますよ」

 上岡の言葉に、ふと三枝木は何かに気付いたように口を開いた。

「そういえば俺は刺されなかったな」と机の上のアンケートに視線を向ける。

「客もそうだ。蚊に刺されて演劇に集中できなかった、なんてクレームは一個もない」

「役者だけ刺されるってことですか?」

「あるいは役者の気のせい」

 まだ信じてないんですか、と呆れたように上岡は言った。

「だってこの季節に何で蚊がそんなにいるんだよ。しかもあんな場所に」

 当たり前だが劇場には窓がない。常に扉が開いているわけでもない空間に、虫が入り込むとは思えなかった。

「知りませんよ。支配人に『おたくの劇場はどうなってるんですか』って聞いてみますか?」

「……とてもじゃないが無理だな」

 劇場を運営する支配人の顔を思い出したらしい。三枝木は思いっきり顔をしかめたのち、背もたれから身を起こした。

「分かった、蚊はいることにしよう。じゃあさ、『この痒みは気のせい』と思いながら演技してみるのはどうだ」

「……一応聞きますがどういうことですか?」

「痒くない演技をするんだよ」と三枝木は県警部長役の方を向いた。

「いいか? まず県警のトップが蚊に刺されるんだ。でも頭を下げているから鼻を掻くことを我慢する演技」

 言い終えると上岡を見る。

「次に、記者Aが鼻の頭を刺される。でも舌鋒鋭く質問を浴びせているから痒さは感じないという演技をする」

 と言うと、記者B役の役者に視線を向けた。

「最後に、記者Bが蚊に刺される。でも形式的な謝罪をする県警部長に対する怒りで痒みどころじゃないという演技をするんだ」

 三枝木は一旦言葉を切ると、改めて役者達の方を見た。

「どうだ、これで乗り切れないか?」

 役者達はしばらく呆気に取られていた。「それは演出の指示ですか?」と上岡が聞くと、三枝木は重々しく頷く。

「そう思ってくれていい」

 じゃあ従うしかないですね、と上岡は立ち上がった。

「どこ行くんだ」

「台本取ってくるんですよ」

 指示を書き込まなきゃいけないでしょ、と楽屋を出ていく役者達。明日の上演までに間に合うだろうか。


 千秋楽を迎える頃には、役者たちの演技は板に付いたようだった。アンケートに例の文言が書かれることもない。

 カーテンコールを終え、役者達が舞台袖に捌けてくる。お疲れ、という三枝木の労いの言葉に、上岡はげんなりとした顔で応えた。

「俺、もうこの劇場嫌です」

「でも我慢の仕方は覚えただろ?」

 まあ、と上岡は渋々頷いた。「だったらここを使わない理由はないよ」という三枝木の言葉に顔を上げる。

「何たって使用料が破格だからな」と三枝木は歯を見せて笑った。劇団準急列車の次回公演は半年後だ。

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