第十一話 動物画家はやっとこさ絵を描く

『クリス、そろそろ寝ないの?』


 折り畳み式のイーゼルに立てかけた真っ白なキャンパスをじーっと見つめているクリスに僕は声をかけた。予想どおり返事はない。


 ここは獣騎士団の隊舎にある一室。クリスと僕の今夜のねぐらだ。

 隊舎の他の部屋には獣騎士団の団員さんと、その相棒であるフェンリルやニャンリルが暮らしている。それを聞いたクリスがハァハァと変態吐息をもらしながら変態型になるのを見て、団長さんは淡々とした口調で副団長さんに命じた。


「明日の朝食までこのど変態の部屋のドアにカギをかけておけ」


 変態型クリスが開かないドアに嘆き悲しみ、爪を立て、引っかいていたのは三十分ほどのこと。そのうちにハァハァと変態吐息をもらし始め、キャンパスに向かい始めた。

 三十分のあいだにクリスの中で何があったのか。生まれたてベビーな頃からの付き合いである僕には手に取るようにわかる。


「おすわりしてるフェナたん、ハァハァ……枝の上で寝てるリーネたん、ハァハァ……猫じゃらしを追いかけるリーネたん、ハァハァ……フリスビーを追いかけるフェナたん、ハァハァ……」


 フェンリルやニャンリルに会いに行けないことに絶望し、現実から妄想の世界へ、思い出の世界へと逃避してハァハァし始めたのだ。

 今日、見たフェナとリーネの姿を脳内再生しまくってるだろうクリスに僕はため息をついた。直接、フェナやリーネがなでな、もみもみ、ぺろぺろされるわけじゃないだけマシなんだけど……なんだかごめんなさいしたい気持ちになってくる。

 団長さんの怖い顔と胃をキリキリさせてる副団長さんの顔もちらついて、やっぱりごめんなさいしたくなってくる。


 でも――。


「あのときのフェナたんもよかったなぁ……あのときのリーネたんも魅力的だったなぁ……でも、やっぱり……」


 顔をあげたクリスの表情を見て僕は微笑んだ。

 ごめんなさいはもちろんするけど、それでも……ど変態に付き合った甲斐はあったって思えるくらいの絵がきっと描きあがる。


「……これ、かな」


 そうつぶやいたかと思うとクリスは下書きもなしで絵の具をつけた絵筆を真っ白なキャンパスに走らせ始めた。


 〝てんせい〟前のクリスは十三年の人生のほとんどをベッドで過ごすくらい体の弱い少年だった。

 今日はベッドに腰かけて絵を描けるくらい元気だけど、明日はどうなっているかわからない。寝て起きたら体調が悪くなっていて、何日も、何週間も……もしかしたら二度と絵を描けないかもしれない。

 ずっとそんな生活だったからか。

 〝てんせい〟してすっかり元気な体になった今も〝てんせい〟前に感じた不安とかもどかしい気持ちとかがきっと残っているのだ。


 心の中で下描きを終えて実際のキャンパスにはいきなり絵の具を置くのも、描くのがものすごーーーく早いのも、描き終わるまで寝ないのも、その〝てんせい〟前の記憶がきっと関係している。


 油絵の具の独特のにおいが部屋に広がる。ざっと下塗りしたあと、どんどんと色を重ねていく。キャンパスの色がどんどんと変わっていく。


『もー。長旅で疲れてるのに……寝ないの? 徹夜するつもり?』


 ふんすふんすと僕が鼻を鳴らしてもクリスはまったく反応なし。一度、絵筆をにぎると誰の声も、物音も聞こえなくなってしまうのだ。


『……がんばってね、クリス』


 返事はないとわかっていて、それでも僕はクリスにささやいた。

 

 フェンリルやニャンリルたちも使っているのだろう、人間用のベッドよりもちょっとだけ低くくて、ものすごーーーく広いベッドに丸くなって僕は耳をピンと立てる。

 だってちょっとやそっとの物音どころか、すぐ隣で大爆発が起こったって絵を描いてるときのクリスは気が付かないんだもの。

 僕がいち早く物音に気が付いてクリスを連れて逃げなくちゃ。


『だって……僕はクリスの保護者で、相棒で、親友なんだも……の……』


 うにゃうにゃとつぶやきながらまぶたの重さに抵抗できずに目を閉じる。

 眠りに落ちる直前。僕が最後に見たのは真剣な表情でキャンパスに向かうクリスの横顔。その青い目はキラキラと輝いていた。


 そして翌朝――。


「これを一晩で描きあげたのか」


「……すごい」


 朝食の時間になったのだろう。ドアのカギを開けに来た団長さんと副団長さんはクリスが描きあげた絵を見て目をキラキラと輝かせたのだった。

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