第36話 頼朝
太陽が昇る。静の住まいからも騎馬武者の背負った旗指物が北へ向かうのが見えた。それが延々と続いている。軍団が国見峠に向かって前進しているのだ。
太陽が西に傾いたころ、騎馬武者の旗指物は途絶えたが、頼朝からの連絡はなかった。手紙は届かなかったのかもしれないし、届いたとしても破り捨てられたのかもしれない。だめだったか……、夏草が風に吹かれるのを見つめて肩を落とした。
その時だ。騎馬武者が数騎、雉女の家に続く細道を向かってくる。
「こんな東夷の国にも、美しい女子がいるのだな」
雉女の前に馬を止めた武者がそう言って降りた。頼朝だった。その後ろに屈強な護衛が7名並んだ。
「陣中、遊んでいてよろしいのですか?」
雉女は会釈する。かつては恨んだ相手だが、今、その感情はなかった。
「策は整っている。城も厚樫山の防塁も、すでに落ちたと同じだ。……それに、家では妻が
彼の態度には、まるで旅を楽しんでいるような余裕があった。
「北条政子さまは優しいお方です。鎌倉を発つ際、ねぎらいの文を頂きました。餞別まで……」
「その時の文がこれか」
頼朝が鎧の胴をたたいた。そこに雉女が送った手紙があるのだろう。それに政子から送られた手紙を添えておいた。それを見れば、妻に頭の上がらない頼朝が人をよこすのではないか、と計算してのことだ。本人がやって来たのは予想外の成果だった。
「立ち話もなりません。中にお入りください。
雉女は先になって歩いた。その後に頼朝が続き、護衛は建物の周囲に立った。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
ぬるめの白湯を出し、改めて礼を言った。
「
兜を取った頼朝が狭い室内をぐるりと見回す。寝ている龍之介に一瞬眼を止めたが、素知らぬ顔で雉女の顔に視線を戻した。
「願い事があるそうだな」
永俊に渡した手紙には、願い事があるとしか書かなかった。願いは会って伝えたほうが強く伝わるし、状況によっては、願い事自体が変わるかもしれないからだ。
「はい」
両手を床に置き、頼朝を見あげる。彼の顔は、
雉女が同じ姿勢でいると、頼朝が先に口を開いた。
「ワシにも頼みがある」
「はい。どんな頼みでございましょう?」
「静の願いを聞く代わりに、抱かせろ」
「昔はそういう名でありました。今は傀儡女の雉女と申します」
「傀儡子は一族郎党で旅するもの。お前はこの家にひとりではないか。これでは河原の遊女と同じだ」
「なるほど、おっしゃる通りです。私も初めて気づきました」
オホホと無理やり笑うと気持ちが落ち着く。
「それで静……。いや、雉女。お前の望みは何だ?」
雉女は永俊に頼んだのと同じように、農民と家、田畑の保護を願った。
「ほう。己のことではないのか?」
「いえ、私のことなのです。傀儡女になって虫けらのような生き方をしておりますが、それはそれで自由気まま。けっこう幸せでございます。ですが、人が嘆き悲しむのを見たくはありません。私の満足のために、お願いしております」
頼朝が初めて仮面のような顔を崩した。
「面白い。よかろう」
雉女の手を取り、強く引き寄せると彼女の膝を割った。鹿の皮と金属でできた小手が肌に触れてヒリヒリ痛んだ。
「小手が……」
彼が手を止めた。
「そうか、そうだった。ワシとしたことが、美しい女を目の前にすると慌てすぎる」
頼朝は土間に下り、外に半身を乗り出して全軍に布令を出すよう命じた。百姓を殺すな、女を犯すな、家を燃やすな、田畑を荒らすな、と。同時に、大鳥城と厚樫山の防塁への攻撃開始も命じた。
「八幡宮でひと目見た時から、ずっと抱きたいと思っていたのだ」
部屋に戻った頼朝は、鎧を取って雉女にむしゃぶりついた。
翌早朝、雉女が龍之介の世話をしていると背後で声がした。
「まさかとは思うが、その赤ん坊は義経のものか?」
床の中、
「義経さまとは昔に切れております。おまけに、このように多くの男と関わる身。子供の種が誰かなどわかりません。来年には頼朝さまの子を産んでいるのかもしれないのです」
そう言葉にして、心に重くのしかかるものを振り払った。
「義経に未練があって奥州に住んでいるのだと思っていたが……」
雉女はくるりと向きを変えて見返した。
「傀儡子の力蔵は、大鳥城や防塁の絵図を作って頼朝さまにお送りしたのではありませんか? 佐竹さまとの仲も取り持ったはず。もしかすると……」
雉女の顔が曇り、言葉が途切れる。
「もしかすると、なんだ?」
「平泉に義経さまが隠れていること。通報したのも力蔵ではありませんか?……協力者を、そこまで疑いますか?」
だから有能な将軍義経を死なせる羽目になったのだ、と言いたいところをぐっとこらえた。
「いや、ワシが悪かった」
時の権力者は、意外にも素直に謝った。
「私は、どちらの味方でも敵でもありません。ひとりの女として子供らを育てるために、この地に根を下ろしただけのこと。ご案じくださいますな」
「なるほど……」
頼朝はじっと雉女の瞳を見つめた後、床を離れた。文机の前に座ると筆を取り、
「生憎、傀儡女にやる銭の持ち合わせがない。もし、我が子を産んだら連れてまいれ」
おそらく頼朝は、永俊から自分のことを詳しく聞いたのだろう。銭がないとわざわざ言うのでそう思った。
「私は傀儡女。このようなものはおそれおおく……」
雉女が手紙と笏を押し返そうとするのを無視して頼朝が立った。彼の顔は木偶人形のような無表情に戻っている。
「帰る。手伝え」
命じられ、頼朝が鎧兜を身に着けるのを手伝った。立ち上がってから外に出るまで、彼は一言も口を利かなかった。
外に出た頼朝は、集まった護衛の武者に「待たせた」と短く言って馬上の人となった。
「まいるぞ」
「ハッ!」
家臣が応えるのと、頼朝の馬が歩き出すのが同時だった。
「腹が減ったぞ」
北へ遠ざかる騎馬武者の一団から、風に乗って笑い声が届いた。
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