第16話 田舎者

 陸奥国に続く道は阿賀野川あがのがわに沿っていたが、山岳地帯に入ると流れと別れた。積雪はたちまち増えてを必要とした。集落を見つけては民家の隅を借りて休んだが、集落と集落の間では雪濠で過ごすのは信州の山越えと同じだった。


 沼や池では白鳥や鴨を射て、野原では兎や狐を射て食料とした。そうやって国境の峠に着いたのは、弥彦神社を出てからひと月も過ぎたころだった。光典から贈られた食料や炭などは、すっかりなくなっていた。


「国が変わっても雪が深いのは変わらないなぁ」


 伊之介は足を止めたが、勝蔵は黙々と雪をかき分けた。


 下野沢しものざわの集落にたどり着き、一夜の宿を借りるつもりで一軒の家に向かった。すると、いきなり板戸が開いた。


「この、ろくでなし!」


 女の怒声と共に水干姿の男が転がり出て、雪道にうつ伏せに倒れた。女は姿を見せず、板戸がピシャッと締まった。


 雉女たちは顔と顔を見合わせる。そうしてから再び倒れた男に眼をやった。彼はピクリとも動かない。


「死んでいるのかい?」


 白女が訊いた。


「さぁ?」


 近づいてみると酒臭い。スースーと寝息がした。


「酔って寝ているようです」


 白女に教えて男の身体をゆする。


「あのう、もし……。こんな所で寝ていたら、死んでしまいますよ」


 ピクリと男が動いた。


「さ、酒をもて……」赤い顔を持ち上げ、髭で覆われた口から酒臭い息をはく。


「こちらの御主人か?」


 勝蔵が腰をかがめて訊いた。


「違うなぁー」


「では、御主人は在宅でしょうか?」


にしゃおまえは誰だ?」


 彼はもぞもぞと上体を起こし、雪道に胡坐を組んで勝蔵を見上げた。それから雉女に不躾な視線を投げて目尻を下げた。


「旅の傀儡子で勝蔵と申します。一夜の宿を貸していただきたく尋ねました」


「ほう。こんな路上でいいのか?」


 勝蔵が苦笑すると、「冗談だ」と男が言った。


「傀儡子といったな?」


「はい」


「ならばワシの家に泊めてやろう。噂には聞いていたが、傀儡子に会うのは初めてだ」


 男が立つのに勝蔵が手を貸した。雉女と体格の変わらない小柄な男だった。


「ウシ……、着いてこい」


 男がふらふらと歩き出す。雉女は驚いた。彼が集落とは別の方角に歩き始めたからだ。酩酊めいていしているのかもしれないと疑ったが、彼の後を歩く勝蔵を信じて続いた。


 男は雪をかき分けてどんどん山の中に入っていく。陽がとっぷりと暮れてもその足は止まらなかった。もしや、物の怪や山賊の類ではないか?……脳裏を嫌な予感が過る。


 突然、開けた場所に出た。そこに古い鳥居があり、思いのほか大きな社があった。


「ここは?」


 勝蔵が鳥居を見上げた。


天沼あまぬま神社だ。欽明きんめい天皇の昔、我らの先祖がこの辺りの東夷あずまえびすを征伐すると、ふもとにあった沼の水が龍に姿を変えて天に上り、沼の跡は豊かな田畑に変わった……、らしい。それを祝って日本武尊やまとたけるのみこと勧請かんじょうしたものだ。本殿は山頂だがな」


「ほう、古い社なのですなぁ」


 勝蔵が素直に感心していると、男は背中を向けて歩き出した。


「古すぎて村の者も忘れておる。朝廷さえもなぁ。器は残ったが魂がない。寄進もなぁ。今時の都人みやこびとは自分が遊び楽しむだけで、庶民の事など考えておらぬのだろう。まして我らのような田舎の社の事など、使い古した藁草履わらぞうり程度にしか考えていないに違いない」


 男の背中は寄進がないことを哀しむように丸まっていた。彼が境内の端にある小さな家の板戸を開けると女の罵声ばせいがした。


「あんたぁ。いつまで、うろついているんだい!」


「五月蠅い、五月蠅い。客人がいるのだ。酒を出せ」


「何を寝ぼけたことを……。酒なんかないよ」


神酒みきがあるだろう」


「罰が当たるよ」


「かまわん。神罰ならワシが受ける」


 男は振り返ると、不愉快そうな表情を笑みに変えて雉女たちを招き入れた。


「あら……、本当にお客さんだったんだね」


 家の中にいたのは、勝蔵と背丈の変わらない大きな女だった。彼女がぺこりと頭を下げた。


「こちらの宮司だったのだね」


 白女が言うと、「そうよ」と男はうなずいて藁沓を脱いだ。


「火にあたれ」


 彼はそう言って自分も囲炉裏の前に腰を下ろした。


「ここには何もない。地位も名誉も金も酒も……。およし、酒はまだか!」


 言いながら棒で囲炉裏の火をかき回す姿は、自分の運命を呪っているように見えた。


 宮司は藤原歳比呂ふじわらとしひろといった。お芳は彼の妻だ。


「しかし、やっと傀儡子が来た。……喜ばしいことだ。いろいろと教えてくれ。ここは何分田舎で情報が乏しい。平氏から源氏に代わった世は、どう変わった?」


 そこにお芳が酒と岩魚いわな燻製くんせい、漬物などを載せた膳を運んでくる。


「何分田舎ゆえ、美味い物などありませんが……」


「言い訳などするな。ここが田舎なことぐらい、傀儡子殿はよく知っている。それよりも権介ごんすけ次郎じろうを呼んでくれ」


 歳比呂は、ここには何もないと自分がねたのを棚に上げて女房を叱った。


「ハイハイ……」お芳がぺこりと頭を下げ、使用人を呼びに行く。


「さて、どうだ。新しい源氏の政治は我々田舎の者にも幸せをもたらすか?」


 それまでと違って彼の瞳が輝いていた。


「俺たちには、政治向きの事は分かりません」


 面倒なことに係りたくないとでもいうように勝蔵が首を振った。


 歳比呂は「そうかぁ」と気落ちした様子で囲炉裏の灰をかきまわした。


「しかし、あの平家がよく倒れたものよ」


 彼は感慨深げだった。雉女は囲炉裏の灰と語らう宮司に同情を覚えた。


「それは、源義経さまの功績でしょう」


「ほう。そんな武将がおるのか?」


 彼の目が輝いた。


「詳しいことは、その者から……」と、話を伊之介に振った。


 勝蔵と違って伊之介は気楽に応じた。姿を見せた権介という老人と次郎という若者に挨拶すると、改めて源氏と平氏の物語を始めた。弥彦神社の光典に語ったものと同じものだ。


 話しを聞いた歳比呂たちはひどく感心した。


「偉い武将がおったものだなぁ」


「その義経さまも、今は鎌倉さまから追われる身となりました」


 雉女が教えると、彼らが首を傾げる。


「鎌倉さまとは誰の事だ?」


 雉女は、公家風の衣装を身にまとい澄ましていた頼朝の顔を思いだした。それは我が子の敵だ。義経の事は忘れても、自分が産んだ子の泣き声を忘れることは出来なかった。


「今は源氏の棟梁、源頼朝さまです」


「なるほど。しかし、なぜ源氏の棟梁が、功績のある義経殿を殺すのだ?」


 歳比呂には政治向きのことがピンとこないようだった。いや、彼に限らず、多くの者が理解できないでいた。


「義経殿が、鎌倉殿の了解を得ずに朝廷の官位を受諾したからだと聞いています。鎌倉殿は武家の新しい秩序を重んじるのだとか」


 勝蔵が教えると、「なぜ悪い?」と歳比呂は高い声を上げた。


「功を上げた者が褒められ、官位や褒美を得るのは当然ではないか。弟が褒められたなら、兄は喜ぶのが当たり前ではないか!」


「嫉妬ではないでしょうか? 自分より人望のある弟に対する嫉妬」


 雉女は、歳比呂に向かって素直な思いを話した。人は他人の身分や才能に嫉妬するものだ。歳比呂がここには何もないと嘆くのも、全てがある都への嫉妬に違いない。頼朝にしても同じだろう。実際、雉女が京にいた頃は、もっぱらそんな評判だった。


「ほう。……そう思うのか? 気があうのう……」


 雉女の真意に気づかない歳比呂が、ギラギラ輝く瞳を勝蔵に向けた。


「……それでだ。傀儡子殿、興業を開いてくれ。そうなれば、ここを忘れた村人たちも喜び勇んでやってこよう」


 勝蔵は首を横に振った。


「我々は、興業とは別の用件で通りかかったので、木偶でくなどの道具を持参していないのです」


「なんと……」歳比呂の顔が失望で曇った。「……ならば神楽はどうだ。傀儡子は神楽も舞うのだろう。それだけでも演じてくれ。それに傀儡女は……」


 その場に大きな女房の影があることに気づいた歳比呂は、春を売るのだろう、という言葉をのみこんだ。


「急ぐ旅なのです。ですが、明日一日であれば、雉女に奉納舞を演じさせましょう」


 勝蔵が応じると、歳比呂は喜んだ。


「ようし。決まった。頼む」


 ぴょんと立ち上がって使用人たちを見下ろす。


「にしゃら……。今から集落へ降りて、明日、ここの絶世の美女による奉納神楽があると告げて回れ。奉納品を持参しろと言うのも忘れるなよ」


「今からですかい?」


 権介と次郎は顔を見合わせたが、それで歳比呂の気持ちが変わることはなかった。


「早く行け!」


「へえ!」


 使用人たちは闇夜の中に飛び出していった。


 情報に飢えていた歳比呂は、あれやこれやと夜遅くまで質問を重ねた。それに対して勝蔵と伊之介がひとつひとつ丁寧に応えていたが、やがて白女がうつらうつらと舟をこぎ出し、次にお芳が座ったまま寝てしまった。


 雉女も龍蔵に乳を与えながら舟をこいだ。するとドタンと大きな音がして目が覚めた。見れば、お芳が倒れている。彼女自身もそれで目覚めた。


「……お前さん。夜も更けた。……休んでいただきましょう」


 寝ぼけ眼のお芳が、まだ話し足りなそうにしている夫を制した。


「止むを得んな……」歳比呂は渋々応じ、少し恥ずかしそうに続けた。「……夜具はあるのだが部屋はない。ここで寝てもらえるか?」


「囲炉裏の火と夜具があるだけでも有難いことです」


 勝蔵が礼を言うと、歳比呂は奥の部屋に隠れた。お芳が囲炉裏を囲むように夜具を敷いてくれ、雉女たちは横になるや否や泥のように眠りに落ちた。


 真夜中のことだ。雉女は、佐潟の小屋で義経に抱かれる夢を見た。その激しい行為に息苦しさを覚えて目覚めた。


「えっ……」驚いたのは、歳比呂の頭が目の前にあったからだ。しかも、自分の足を彼が抱えている。その不自然な姿勢が息苦しさの原因だった。


「何をなさいます……」


 抗議する唇を彼の手が抑えた。


「シッ……」


 歳比呂が耳元に顔を寄せる。雉女の体内で異物が動いた。


「わかるだろう。すでにワシはお前の中にいる。傀儡女は春を売るはず。ワシが買おうというのだ。文句はあるまい」


 その言葉だけで抵抗する力を奪われた。傀儡女になるということがどういうことか、改めて思い知らされた。男との交わりは愛でも本能でもない。生きる手段であり打算なのだ。


 歳比呂が動きだす。傀儡女であることを心底受け入れると、記憶の表面に影を落としていた3人の猟師も、義経の幻も雲散霧消した。肉体の芯がホツホツと熱を帯びた。

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