第11話 狼

 空から白い物が落ちてくる。秋が終わったのだ。旅は過酷さを増した。手に入る食料は減り、雪が積もると道が消えた。雉女たちは細心の注意を払い、稀に出会う百姓や猟師に尋ねて慎重に道を選んだ。そんなある日のこと、家に入れてくれた百姓の弥助やすけが、頼みたいことがあると切り出した。


「三日後に村総出の狩りがあるのだ。男衆、弓矢を使えるなら、手を貸してくれないか?」


「北陸道へ急ぐ旅をしている。すまないが……」


 勝蔵が断ると、弥助が肩を落とした。


 ――ドンドンドン……、戸板を激しく叩く者がいた。家人の返事を待たず、ガラリとそれを開けて百姓男が飛び込んでくる。


「弥助どん! 大変だ。寅男の所のタカがさらわれた……」


「なんだと! どこでやられた?」


 弥助が顔色を変えた。


「東のさいの神の辺りらしい」


 賽の神は道祖神と同じで、村の内側と外側の境を示したものだ。


「くそっ。あと三日待てば狩人が来るのに……」


 弥助が立ち上がる。食事の準備をしていた妻のスミや子供たちが、「とうちゃん」と不安げな声を上げた。


「いったい何があったのだ。さっきの狩りの話と関係があるのか?」


 ただならない様子に勝蔵が訊いた。


「狼だ」


「狼とは物騒だ。人里に下りてきたのか?」


「半月前からだ。最初は犬や鶏が襲われた。それが全滅したら人間だ。子供や年寄りが4人さらわれた。いや、タカを入れたら5人だ。それで狩人を呼んだのだが、彼らが来るのは三日後ということなのだ」


 弥助が話しながら壁に掛けていたみのを着込んで大鎌を手に取った。


「はぐれ狼が居ついたのなら、これからも被害が出る。勝蔵、伊之介。手伝っておやりよ」


 白女が言うより早く、勝蔵は狼狩りの準備を始めていた。伊之介も動いた。


「客人、無理をしないでくれ」


「ああ、三日後では無理だが、今日なら……」


 勝蔵は薬壺を取り出し、鏃にトリカブトの毒を塗り込める。


「それは、毒ですかい?」


 弥助が訊くと勝蔵が小さくうなずいた。


 毒矢を矢筒に納め、狼狩り時に使う小手とすね当てをつける。


「それは?」


 弥助が脛当てを指した。それを見るのは雉女も初めてだった。


「狼は素早いし、群れで襲ってくる。射逃したら嚙みついて来るからな。用心のためだ」


 伊之介が説明して立った。勝蔵も土間を蹴るようにして装着具合を確かめた。


「では、行ってきます。……弥助さん、案内してくれ」


「へい!」


 勝蔵と伊之介に勇気を得たのだろう。弥助の声も奮い立っていた。


「あんたぁ。気をつけてなぁ」


 スミが板戸の前に立ち、薄暮の中を山に向かう男たちを見送った。


 家が女だけになると、スミは囲炉裏の薪を増やした。火を赤々とすることで気弱になる自分を鼓舞しようとしているようだった。


「無事に戻るといいですね」


 雉女はさらわれた子供のことを言った。


「へえ、でも大丈夫。うちの人は、運がいいから」


 スミは弥助のことを言った。


「狼なんかに負けねえよぅ」


 子供たちが薪を刀のように振って騒ぐ。


「バカを言うな。狼は山の神の使いだ。なめてかかったらひどい目に合うんだよ」


 スミが子供たちを叱り、薪を取り上げる。それから「疫病神やくびょうがみめ……」と、つぶやいて囲炉裏に放り込んだ。それがスミの本音だろうと思いながら、雉女はぐずる龍蔵に乳を含ませる。この子が狼にさらわれたら……。想像するだけでぞっとした。


 ――吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき――


 雉女は心の中で謡う。その時に思い浮かんだのは義経の顔ではなかった。勝蔵と伊之介の顔だ。


「大丈夫だよなぁ」スミが言う。


「大丈夫ですとも」


 雉女が応えると――ウォォォー……と、狼の遠吠えがした。


§  §  §


 賽の神は人の背丈ほどもある自然石だった。勝蔵たちがそこに着いたとき、すでに10人を超える百姓たちが松明たいまつを灯し、鋤や鎌といった道具を持って集まっていた。中にはどこで拾ったのか刀や槍を持った者もいる。彼らは地面の雪に描かれた模様と男を取り囲み、ただ黙りこくっていた。


 雪上に黒々とある模様がさらわれたタカの血で、その前で泣いているのが父親の寅男とらおだった。


「これだけ男がいて、何故、捜しに行かない?」


 伊之介が不思議がる。


「みんな狼が怖いのだ。当然だ」


 勝蔵が応えて百姓たちの輪の中に入った。見慣れない人物に驚いた百姓たちが数歩下がって輪を広げた。


「うちの客人だ。弓矢がある。頼りになるだろう」


 弥助が紹介すると、百姓たちは弓矢に眼をやり、黙ったまま頭を下げた。


 山は薄らと雪に覆われていたが、草木がないため道はわかった。賽の神の前から獣道にも等しい細い道が2本……。ひとつは山の上に向かい、もうひとつは谷に向かっていて、タカの血痕は、3頭の狼の足跡と共に山を登る道を点々と続いている。


 勝蔵は、出血の量から、もう子供は生きていないだろうと推測した。中の1頭は相当な大きさの狼だが、3頭だけなら、なんとかなる数だ、とも。


「相当の出血だ」


 寅男に覚悟させるつもりで言うと、雪の上に続く血痕を追った。


「ついて来い」


 寡黙かもくな勝蔵に代わって伊之介が指示する。


「へぇ……」


 百姓たちがぞろぞろと2人の後に続いた。


「子供を引きずった跡がないところを見ると、よほど大きな奴だ。油断するなよ」


 勝蔵は、百姓を怯えさせないように伊之介にだけ教えた。


「オウ。怖いものか」


 言いながら、早速、矢を取って弦につがえる。怖いから、そうするのだ。……勝蔵は伊之介を横目で見やって足を速めた。


 百姓たちは大声こそ出さなかったが、ぼそぼそと話して恐怖を克服しようとしていた。


「止まれ」


 勝蔵は後方に向かって手を上げた。林が切れて開けたところで追っていた血痕が消えている。同様に、規則正しく続いていた狼の足跡もない。弓矢を手にして周囲に目を凝らした。狐などは後ろ歩きをして行方を攪乱かくらんすることがある。対峙する狼が、そうした知恵を持っていないとも限らなかった。


「足跡が無いな」


 伊之介が口にすると、後方の百姓たちがざわついた。


「敵も馬鹿ではないようだ」


「待ち伏せか……」


「まさか、人間ではあるまいし」


 百姓たちは恐怖と戦いながら周囲に眼を配る。


「松明を貸してくれ」


 勝蔵は松明を借りて道から外れた斜面の下側を照らした。すると、そこから始まる沢山の足跡があった。それは山の上部に向かって線を引いている。


「仲間の所に横っ飛びに飛んだのだ。大きいのは子供を殺した一頭だけだな」


 伊之介が足跡を数えた。


「6頭だ」


「賢いやつだ。おまけに力もある」


 子供をくわえたまま跳躍する狼を想像すると、勝蔵の背筋も凍った。気をつけろ、すぐ近くだ……。勝蔵の中で野性の本能が警告する。松明を返し、狼の足跡を追って歩き始めた。


「シッ……」


 百メートルほど坂を上ったところで、勝蔵は再び足を止めた。


「弥助、こい」


 弥助を呼び、ずっと先に黒々と映る影を指した。


「あの辺りは岩場か?」


「へぇ、獣の住みそうな穴がいくつかあります」


「足跡はあそこに続いているが、こっちが風上だ。このまま行ったら逃げられる。風下にまわりたいが、道はあるか?」


「逃げられてもタカが助かれば……」


「さらわれてから、どれだけ経ったと思っている。手遅れだろう」


 運ばれている途中から血痕は完全に途絶えている。タカは、すでに失血死しているに違いなかった。


「たとえ死んでいても、子供がそこにいるとわかっているのに、狼狩りを優先するのは気の毒だ……」


 弥助が、泣きはらした寅男の顔に眼をやる。


 勝蔵は弥助の肩を握って自分に向かせた。


「もし逃げられたら、次に餌食になるのは弥助さんの子供かもしれないのだぞ。子供がいなくなれば、今度は女がやられるだろう。村の被害を抑えるためには、確実に仕留める必要がある。万が一、逃げられたとしても、ここが危険な場所だと狼が学べば、村は安全になるのだ。よく考えろ」


 押し殺した声で脅かし、理を解く。弥助は少し考えてから、向こう側へ続く別の道を案内すると応じた。


 勝蔵の提案で、その場にとどまって狼を待ち伏せる者と、勝蔵と共に岩場の向こう側に回り込む者の二手に分かれることにした。賢い狼を確実に仕留めるためだ。


「伊之介はここに残れ」


 命じると、伊之介は面白くないと口を尖らせた。


「来るか来ないかもわからない得物を待って、雪の中にいるなんてまっぴらごめんだ。俺も連れて行ってくれ」


「留まる者たちを安心させるために、伊之介がここにいる必要がある。俺が向こう側に回るまでの間、万が一にも狼が現れ、連中が背中を向けて逃げ出しては意味がないからな」


 勝蔵が顎で指した百姓たちは、みな怯えた顔をしていた。


「仕方がないな。残ればいいんだろ」


「弓を使え。お前の腕なら、狼が向かってきたところで、途中、数頭は倒せる」


 伊之介を褒めて自信を持たせ、弥助の他五名を連れて道を引き返した。


 賽の神まで引き返した勝蔵は、弥助の案内で分かれ道を下った。その道は岩場に続く道より広かったが、周囲の樹木は高く暗かった。松明が照らした小石や倒木は、まるで生きているように影を揺らした。


 どれだけ歩いただろう。星が大きく動いたように感じた。雪に埋まった小川に沿って歩いていると弥助が足を止めた。


「ここです」と、左側の雑木林を指す。


 確かに木々の間が僅かに広く、獣道のようなものが上に向かって続いていた。


「タカはこの辺りで枯枝を拾ったはずです」


 勝蔵は弥助の言葉を聞き流し、「木々に燃えうつるかもしれない。松明を消せ」と命じて林の中に分け入った。


 雑木林の中は暗く、雪道を手探るようにして坂を上った。雪に隠れた枝や低木に邪魔されて、林の出口が遠く感じる。そうしてたどり着いた林の外れには、星明かりを映す銀世界が広がっていた。左手上方が明るいのは、伊之介たちの松明が揺らめいているからだ。


「この先が、岩場の反対側だ」


 弥助がささやいた。


 勝蔵はうなずき、再び登った。


 さて、何頭か……。想像したのは、つがいの狼とその年の春に生まれた子供の狼が5頭か6頭の小さな群れだ。気になるのは、追跡した足跡の中に親の物が一つしかなかったことだ。母狼が1頭で子供を育てる。そんなことがあるだろうか?


 岩場に近づき、その手前で足を止めた。


「おそらく親が2頭。俺はそれを先にやる。お前たちは、親でも子でもいい。間近のものをたたけ」


 勝蔵は百姓たちにささやくと剣を抜いた。親が2頭と話したのは、戦いが始まってから敵が予想より多いと分かってもパニックに陥らない用意だ。


 勝蔵は向かい風に眼を細め、ジリジリと足音を忍ばせて岩場に近づいた。あと10数メートルで岩場に脚がかかろうという時だ。


 ――ウォォォー……、岩場で狼が吼えた。


 足音が聞こえたのか、あるいは臭いを嗅ぎつけたのか、人間に気づいた狼が威嚇した。


 勝蔵は慎重に足場を選んで進んだ。


 ――ガァル!――


 勝蔵が岩場に立つより早く、1頭の狼が飛び出してきた。熊にも似た巨体の雄狼だ。


「ウァァァー」


 狼の大きさに驚いた百姓たちが逃げ散る。勝蔵はただ狼に集中し、牙をむいたその額に刃を振り下ろした。


 ――ギャイン――


 頭の砕けた獣が、勝蔵の足元に崩れ落ちる。


 ヨシ……。想像が当っていれば、親狼の1頭を仕留めたはずだ。心に余裕が生まれて視線を上げた時、別の狼が大地の裂け目から突出した。仕留めた狼に比べれば、2回りほど小さい。


 まだ子供なのだ。そう考えたが許す気持ちはない。刀を握り直して身構えた。1、2と数え、そこで慌てた。子供の狼たちが伊之介たちのいる方角に向ったからだ。雄狼は、自ら囮になって向かってきたものと悟った。


「チッ……」


 刀を足元に突き立て、数歩前に出て弓矢を構えた。ヒョイと放った矢は向かい風の中を線を引くように飛んだ。それは3番めを走る狼の背中に突き立ったが、獣は止まらなかった。それでも状況は変わった。


 ――ウォン――


 4番目の狼が吼え、5番目に現れた狼と共に勝蔵に向かってきた。


 勝蔵は背中の矢筒から矢を2本取ると、一緒につがえて同時に射た。1本の矢は4番目の狼の額に命中し、もう1本は5番目の狼の腹をかすめて地面に落ちた。


 額に矢を受けた狼はその場で倒れたが、別の1頭は牙をむき、矢を避けるように左右に飛びながら向かってくる。


「チッ……」


 子供とはいえ狼は素早い。勝蔵は新しい矢を構えたものの狙いが定まらず、射るのを諦めた。


 ――ガァルル――


 狼は本能のまま、剣を取ろうとする勝蔵の喉笛めがけて跳躍していた。光る牙は目の前だ。


 剣の柄を握る間が無かった。反射的に獣の鼻をめがけて右拳をふるった。


 ――キャン――


 殴った狼が勝蔵の視界から消える。その時、その背後に別の狼の頭があった。母狼の巨体だ。牙と目をむいた顔は鬼のようだった。


 勝蔵は迫る牙に恐怖を感じた。それで動きが鈍ったのかもしれない。咄嗟とっさに身体をひねってかわそうとしたが間に合わなかった。何とか牙は避けたものの、身体をぶつけられてバランスを崩した。


「クッ……」


 勝蔵は仰向けに倒れた。雌狼が勝蔵にし掛かる。


 ――ガァウ……、次の攻撃は腕で避けた。首を狙う大きな口の奥に、思いっきり右拳を突っ込んだのだ。牙の威力は半減したが、それでも狼の顎は鉄製の小手を変形させた。腕に痛みが走った。


 自由な左腕で狼のこめかみ辺りを殴ってみたが、咬みついた狼は離れない。マズイ……、短い言葉が脳裏を走った。その時だ。


 ――ギャン――


 母狼が悲鳴を上げて転がり落ちた。


「大丈夫かァ」


 返り血で顔をひきつらせた弥助が勝蔵を見下ろしている。


「オ、オウ……」


 身体を起こすと、横になって痙攣けいれんしている母狼の腹に大鎌が深々と突き刺さっていた。


「ワ、ワシがやったんだな……」


 狼と距離を置いた弥助が唇の端をひきつらせていた。


「そうだ……」礼を言おうとした時、先に殴り飛ばした子狼の姿が目に留まった。それは母狼の敵を狙うように弥助に向かっていた。


「後ろだ、逃げろ!」


 教えたが、弥助は振り返っただけで石のように動かない。


 勝蔵は地面の刀を抜いた。が、間に合いそうになかった。


「ヒッ……」


 恐怖に弥助の喉が詰まる。


 狼が大地を蹴った。瞬間、それはよろめいた。ズンと倒れると四肢を痙攣させる。腹のかすり傷から僅かな血が流れていた。


「やっと毒が効いたか……」


 ホッとしたのも束の間、眼の隅に、必死で立ち上がろうとする母狼の姿が映った。


「まだ、終わってはいないぞ」


 勝蔵は自分を叱るように言って、2頭の狼にとどめを刺した。


「向こうが心配だ」


 刀を鞘に戻し、弓を拾って伊之介たちがいる場所を目指して走った。ごつごつした岩場をましらのように跳ね越える。


 松明が煌々と照らす場所に着いたとき、全ては決着していた。勝蔵が射た狼は途中で息絶えていて、もう1頭も伊之介が射殺していた。残りの1頭は頭が粉々に砕け、口と腹の傷から内臓が飛び出していた。怒りと恐怖に我を忘れた村の男たちに、寄ってたかってなぶり殺しにされたのだ。思わず「ひどいな……」と勝蔵がつぶやいたほどだ。


「ひどいのはこいつらだ」


 1人の男が狼の死骸を蹴飛ばした。


「もういいだろう。死んだら狼も人間も同じ。ただのむくろだ」


「クソッ……」


 男たちはタカの父親を先頭にして岩場に走った。


 勝蔵と行動しながら、一度は逃げ散ったていた若者たちも岩場に集まっていた。そこの穴のひとつに、タカの遺体と以前にさらわれた村人の骨があった。


「タカー!」


 変わり果てた娘の前で、再び寅男が泣いた。

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