2章 岐路 ――狼たち――
第9話 峰々
〝雉女〟は雅いていない。〝静〟に比べたら、どれほど田舎者じみた名前だろう。……すまし顔の雉女だったが、新しい名前に納得できず、胸の中は憤りが渦巻いていた。
生き方を変える時、それにふさわしい名前に変えるのも、武士に名前を問われた勝蔵が、咄嗟に噓の名前を告げたのも理解できる。その時は雉の鳴き声がして、そんな名前を思いついたのだろう。しかし、思いつきの名前をそのまま使わなくても、と思うのだ。そうした不満を言葉に出来ない自分の弱さにも腹が立ってどうしようもない。
「いくぞ」
勝蔵が立った。弓と笈と麻袋を背負い、腰に毛皮をまいて遠出する猟師のような風体に姿を変えていた。伊之介も同じだった。彼らは長者に会釈すると姿川の流れに足を入れた。驚くほど簡単な別離の挨拶だった。
「さあ……」
白女に肩を押され、雉女は勝蔵の後を追った。白女を真似、着物の
対岸に上がった4人は深い藪の中を進み、更にふたつの川を渡った。その度に着物の裾をまくるのだが、「いい眺めだ」と伊之介が笑うので雉女は恥ずかしかった。
「勝蔵さま、道を間違ってはいませんか?」
「黙ってついて来い」
雉女の
「この道を九郎殿も歩いたのかもしれないな」
雉女の不安を察したのか、伊之介が大きな声をあげた。九郎とは義経のことだ。その名を聞いただけで、雉女の胸はキュンと痛んだ。
「俺と長者でこの先の足利庄、
勝蔵が言った。
そういうことだったのか……。月神社に滞在中、力蔵親子が馬でどこかへ消えていた謎が解けた。それが義経を探すためだったと知り、雉女は嬉しかった。
「これから下ってくるのなら、ばったり出会うかもしれないね」
白女が言った。
出会えるかもしれない……。雉女は義経の名前を胸の内で繰り返し呼び、希望を膨らませた。
「それはそうだが、九郎殿は追われる身。白昼堂々、官道を歩くことはないだろう」
勝蔵の声に、それはそうだ、と希望が
「人目を避けるなら北陸道を選ぶ方が賢いというものか……。同じ官道でも鎌倉からは遠い。関東の者の眼が届かないということだな」
伊之介の話に、雉女は首を傾げる。北陸道を行くとしても目的地は奥州平泉に違いない。勝蔵は、何故、京へ続く道を歩くのか?……その疑問が解けたのは、
「なんて山の高く美しいこと……」思わず、感動の声がもれた。
「この道を歩いたことがない。
足を止めた勝蔵が、道の先にそびえる山々を見やって全員に命じた。
「どの里や社に立ち寄らなければならないというわけでもない。大河に沿って上り、
伊之介が笑った。
「理屈ではそうだが、無駄な遠回りは避けたい」
勝蔵が歩きだす。
雉女はうなずいた。一日でも早く奥州に入り、義経さまに逢いたい。
道は進むほどに険しくなった。山は本性を現し、旅人を危険な谷間や出口のない森に誘う。足跡が残る小道と道祖神だけが頼れる道案内だった。
山岳地帯で集落が減ると、道はおぼろげになり道祖神も減った。とはいえ、鹿や猪、山鳥、
その日は峠を越えたところで日が陰り、鹿や猪の気配がないのを勝蔵が怪しんだ。
「狼が近くにいるのかもしれない。早めに休む準備をしよう」
彼が道から少し山際に入った岩棚を露営地に選んだ。岩の上から小屋に使う布を垂らして風の入らない空間を作り、薪にする枯れ木を集めた。岩棚の下で火を焚き、
――ウォォォー――
夜が更けると獣の遠吠えがした。
「あれは狼ですね?」
雉女は、自分の声が震えているのがわかった。
「雉女を食いに来たのだ」
「怖い」
伊之介の腕に
「狼は慎重な生き物だ。めったなことで人を襲ったりはしない。獲物を追っているんだろう。遠いから心配するな」
伊之介が余裕を見せてキザに笑ってみせる。ところが勝蔵は黙したまま腰に刀を帯びて弓矢を手にした。布をまくり上げて外に出ていく。
「勝蔵、大丈夫かい?」
白女が声をかけても返事はなかった。彼女は動こうとしない伊之介に眼を向けた。
伊之介が重い腰をあげて弓矢を取った。刹那、――グォォォー……と猛る獣の太い声がした。
「熊だ。近い……」
口にしただけで伊之介は動かなかった。雉女が伊之介の腕を握りしめていたからだ。彼の身体は震えていた。
「ふぉぎゃー……」
雉女の不安が伝播したのか、懐の中で龍蔵が泣いた。
「伊之介、行きなさい」
白女に命じられ、伊之介は「オゥ」と応じて動いた。
雉女は、伊之介が出て行った場所を見つめていた。手のひらには、彼の震えた腕の感触が残っている。
「
恐怖に耐えながら2人の無事を祈った。
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