第2話 義経の子

 力蔵が広本を訪ねる三カ月ほど前のことだ。16歳の静は、安達あだち清常きよつねという頼朝の雑色ぞうしきの家で義経の子を出産した。雑色は雑用係のような配下のことだ。もし、産まれた赤子が女子だったら生かされただろう。しかし、赤ん坊は男子だった。


「静殿、鎌倉殿の命である。その子を、それがしにお渡しくだされ」


 静の前に清常が姿を見せたのは、出産の七日後のことだった。


和子わこを殺そうというのでしょう? お断りいたします」


 まだ幼さの残る唇で、静は凜と拒絶した。


「静殿、どうか聞きわけてくれ」


「頼朝さまも義経さまも、平家の敵であった義朝よしともさまの子。それでも平清盛たいらのきよもりさまは、2人が幼いからと、命を救ったではありませんか……。頼朝さまがこの幼い命を救うのは人として当然の事でありましょう」


 静は、すやすやと眠る赤ん坊を抱きしめた。


「だからこそだ。清盛公が2人を生かした結果、平家は滅んだ。10年後、20年後、成長したその子が、鎌倉殿の血筋を断たないと言えようか……。鎌倉殿は、禍根かこんを断つお考えなのだ」


 清常は顔を強張らせて本音を吐露とろした。


 教えられるまでもなく、頼朝の意図など静にもわかっていた。それを無垢な赤子には罪がないという建前で押し切ろうとしたのだが、本音をぶつけられては言い返す言葉がなかった。


 2人のやり取りを見ていた磯禅師が口を開いた。


「安達さま。今更どうして、そのようなむごいことをおっしゃる。取り上げるのならば、死産とでも言って子を抱かせなければよかったではありませんか」


「それがしも迷った。すぐに取り上げるべきかどうか……。静殿が腹の子をあまりにも愛おし気にするゆえ、せめて七日、母親の真似ごとをして、悔いの無い今生こんじょうの別れとしてほしかったのだ。その子にしてもしかり。わずかの間であれ、母の愛を一身に浴び、生を受けた喜びを感じてほしかった」


 清常が同情を覚えるほど、静は神々しいまでに清らかで美しい乙女だった。


「安達さまにそれほどの情があるのなら、どうか、この子の命はお助け下さい。頼朝さまへは急死したとでも告げていただき……」


 可愛い子を渡せるものか……。赤ん坊を抱く腕に思わず力が入った。するとその子は目覚め、ホギャーと泣いて痛みを訴えた。母親の、愛ゆえの痛みだとも知らずに。


「それそれ、それよ。そうして元気に泣く子を、どうして死んだなどと報告できよう。鎌倉殿をだますなど、それがしにも、そなたにもできないことだ。鎌倉殿は源氏の御大将。ここ鎌倉に居ながら瀬戸内の平家を滅ぼした。鬼神のごとく、何事も見通すゆえなぁ。さあ、和子を御引き渡しくだされ」


 両手をのばした清常が、赤ん坊をよこせと膝でにじり寄る。


「嫌です」


 静は清らかな顔を鬼に変えて清常をにらんだ。その腕の中で赤ん坊が泣いている。


「困りましたなぁ。……ならば、あと一両日、親子の別れの時といたしましょう。それで諦めていただけなければ、それがしにも覚悟がある。……親子ともども、あの世へ御渡りいただきますぞ。そこのところを禅師殿も了解くだされ」


 立ち去る際、彼が磯禅師に目くばせした。赤ん坊に気を取られていた静は、それに気づかなかった。


「母さま、どうしたらよいでしょう? 私は義経さまのために、この子を守りたい」


 静は応えを求めたが、眼を閉じた磯禅師は黙して語らなかった。


 不安と哀しみと共に時がすぎる。どうしようもないとわかっているから尚更、我が子が不憫で愛おしさが増した。「義経さま……」静は助けを求めて泣いた。我が子を助けたいと心がもがくほど、絶望は深くなる。その夜、暗い瞳で燈明とうみょうを見つめる静に、死神が微笑んだ。


「いっそ死んでしまえば……」


「静、何をするのです」


 磯禅師が静の右手を押さえた。その手が舞に使う細身の剣を握っていたからだ。


「……母さま」


 我に返った静は、母親の胸に頰を当てて衣を濡らした。


「若い……。若いねぇ。早まった真似をしてはいけません。何か手があるかもしれないのだから」


「手段があるなら、教えてください」


「方策は、時と場所によって変わるものです。今はなくとも、明日には生じるかもしれない。何もない時は、じっと待つのです」


 磯禅師にきつく抱きしめられても、静の不安が消えることはなかった。


 翌朝、蝉の声が戦場のときの声のように屋敷を取り囲んでいた。静はその声で目覚めた。寝不足のぼんやりした意識の中で、また暑い日がやって来るのだと思った。同時に、清常への返事をどうすべきか考えた。いや、返事は決まっている。子供を手放さないということは、自明なのだ。その子は義経との愛の証だからだ。


 それにしても……、と静は思った。毎夜、乳を求めてぐずる赤ん坊が今日に限って大人しい。


 上半身を起こして赤ん坊の寝床に眼をやった。


「……いない?」


 空っぽの寝床に目を凝らす。夢を見ているのかと思った。それから、磯禅師が抱いて散歩でもしているのだろうと考えた。


 捜しに行こう。……身支度を整えて内廊下に続く扉を開けると、そこに蒼い顔をした磯禅師がいた。


「母さま……」


 声をかけると、磯禅師が横をすり抜けて室内に入り、よろよろと腰を落とした。その姿に不吉な予感が走る。


「いかがされました? 顔色が悪い。あの子は、どこです?」


「和子さまは……」


 磯野禅師は床を見据えたまま力なく首を左右に振った。


「……ました」


 か細い声は聞き取れなかった。聞きたくなかったのかもしれない。静は母親の正面に座り、彼女の肩に手を置いた。


 覚悟を決めたのだろう。磯禅師が顔をあげた。


「和子さまは、安達殿に預けてきました」


「えっ、どうして……」


「こうしなければ、あなたも殺される」


「私は殺されても……」


 静は子供を取り返しに行こうと立ち上がった。その腕を磯禅師が握った。


「義経さまを見つけ出せば、また子供はもうけられる。だから、今は生きて鎌倉を出ることだけを考えるのです」


 母親の物言いに、静の呼吸が一瞬止まった。


「……な、なんという、恐ろしいことを」


「義経さまが愛しいのでしょ? ならば今は、和子のことはお忘れなさい。それともいっそ義経さまも……」そこで磯禅師が口を閉じた。


「忘れてしまえというのですか……。いや、いや……」


 静は子供のように頭を振った。


「静、義経さまが恋しくはないのかい?」


「もちろん恋しい。でも、あの子も愛しい我が子なのです」


「自分の身も守れず、子供の身が守れますかっ」


 磯禅師が声を荒げた。


「ならば、一緒に死にます」


「いけません!」


「何故!」


「あなたは私の娘なのです。私が死なせない」


 磯禅師が夜叉の顔で泣いていた。普段、所作に厳しい母親が取り乱す姿を目の当たりにして、静の身体から力が抜けた。


「どうして……」女の身の無力さを呪った。


 その後も磯禅師と同じ屋根の下に暮らしたが、言葉を交わすことも、眼をあわせることも少なくなった。草木の色や虫の音に心を向けるでもなく、今様いまようの題材としてきた伊勢物語をひもとくこともない。滲み出す乳をふいては、短い人生を終えた我が子を思って泣いてばかりいた。

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