第8話『紫蛇②』

(なんだ……こいつの魔力は……‼︎)


 大木の枝でしゃがみ込むアルティスは目を見開き、全身を脂汗で覆っていた。体は細かく震え、恐怖で意識が今にでも飛びそうだ。


(魔力感知ができないはずのこの森でもこいつだけ……こいつの魔力だけは感じられる……‼︎ この魔力量……並の人間数百人分なんてもんじゃないぞ……‼︎)


 緊張で呼吸が浅くなり、時間と共に息が荒くなっていく。


 そして紫蛇が姿を現してから数秒後。


 アルティスの足元を、巨大な蛇が通過した。


 頭上の人間など意に介さない。あんな奴ら単なる虫ケラだ。とでも言うように、なんの挙動も示さなかった。


 ただ、通り過ぎただけ。


 だというのに。冒険者として日々戦っていれば、背後から不意打ちをくらうことだってあるというのに。


 それは2人の戦士が、人生で最も死を覚悟した瞬間であった。


 巨大な蛇が通り過ぎてから数分、アルティスはおろかボートですらも、体を動かすことができないでいた。今動いたら、あの怪物がまたやってくるのではないか。ボートですら、そんな考えがよぎってしまった。


「……アルティスくん……」


 やっとの思いでか細い声を発したボート。震える体に鞭を打ち、アルティスがいる大木へと跳躍する。


 2人は荒い息を頑張って沈めながら、鋭い視線を交わす。


「……アルティスくん、体は大丈夫か? 動けるか?」

「……はい……なんとか……。……あいつは……あいつは何者なんですか……?」

「……S級だ。生物の頂点、絶対なる捕食者、生ける災害……そんな呼び名がつくほどの化け物だよ」


 ボートはようやく体の調子を取り戻したのか、話しながら拳を開閉し、紫蛇が去っていった道を眺めていた。


 しかしアルティスは未だに蹲っていた。息も整っていない。まだあの魔力が記憶にこびりつき、恐怖が離れないのだろう。


 それを鑑みたボートはアルティスの背中を摩り、隣に腰を下ろす。


 しばらくは心身を休めなければならないが、S級が現れるという異常事態だ。街への被害や出現の理由の考察、ギルドへの報告などやらなければならないことがある。


「……なんでS級がこんな所に……」

「さあな……俺らを気にしてなかったから空腹ってわけじゃなさそうだが……陣地を広げに来たか、単なる好奇心か……」


 思考が読めない分、人間より余計にタチが悪い。さらにふとした拍子に合理性の無い、ただ本能に従った動きをされると対応が難しい。


 だからこそ、事前の準備が大切だ。


「ともかく、計画変更だ。ギルドに紫蛇出現を報告。周辺地域に注意喚起と場合によっては避難命令。本格的な捜索、討伐隊の編成。S級が出たなら何よりそっちが優先だ。すぐにギルドへ行くぞ」

「はい……!」


 2人は立ち上がり、移動を開始した。


 通ってきた地面の道ではなく、両脇の大木の枝を飛び移って移動する。そこに何か論理的な考えがあるわけではないが、無意識下に紫蛇への恐怖が浸透しているのかもしれない。


「……確かこの森をさらに進むと、S級モンスターが住んでるって噂の地帯が広がってる……でしたよね」

「ああ。だがその噂ってのはギルドが予測してるとかそういうんじゃねえ。ほんとにただ民間人が面白半分で言ってる都市伝説……のはずだったんだがな」

「……ボートさん……」

「なんだ?」

「……あのS級モンスターが……このままエーミール学院まで行くことって……ありえると思いますか」


 紫蛇が南東に向かっていったと理解した瞬間、アルティスの脳内を支配していた思考。いくらA級冒険者が常駐しているといっても、S級モンスターに襲われれば甚大な被害が出る。


 その懸念に対しボートは一瞬口を引き締めた。少し思考を回して結論を出す。


「……相当可能性は低いだろうな。いくらS級と言えども生物だ。戦えば痛いと知っているし、死を拒絶するし、未知の土地には恐怖を抱く。ここからエーミール学院への約30キロを一気に移動するとは考えにくい」

「……でも近年魔物の被害が大きくなってきてるらしいですし……紫蛇もその例に漏れず凶暴化してるなら……?」


 僅かな沈黙。


 風で葉が揺れる音。枝を飛び移る際の軋む音。靴と枝が擦れる音。


 数秒後、ボートは言葉を発した。


「……もしS級モンスターが凶暴化した場合、その行動範囲の半径は……最低でも50キロは下らないだろう」


 瞬間。ボートの視界からアルティスが消えた。同時に前方の枝が大きくたわみ、ミシミシと音を立てる。


 何が起きたのか。ボートがそれを理解したのは、数十メートル先で、細長い炎の揺らめきを視認した時だった。


 アルティスが枝を蹴り、炎の鞭を駆使し、移動速度を一気に上げたのだ。


「……な⁉︎」


 アルティスは100メートルにまで迫るのでは思わせるほどの炎の鞭を伸ばし、遠くの木に突き刺す。それを再び体に吸収して進むと同時に枝を蹴り、加速する。


 その表情は鬼気迫るものだった。眉根を寄せ、眼光を鋭く輝かせ、歯を食い縛り、その目は30キロほども離れたエーミール学院をただ見つめていた。


「速すぎんだろ……‼︎」


 ボートはアルティスの行動を理解すると、自身も魔力で体を強化した。


 大木から飛び降り地面を蹴るが、アルティスとの差は縮まらない。それどころか少しずつ離されていっている。


 ボートはA級内でもそこそこの順位だ。上から数えていった方が早く名前が見つかる程度には。


 アルティスは今、そんなボートと同程度の移動速度を誇り、あまつさえ徐々に引き離しているのだ。


(なんつう魔力出力だ……‼︎ 多分感情が振れた一時的なもんだろうが……俺含めてそこらのA級すら凌いでいる……‼︎)


 ボートの前方数十メートルで、アルティスもまた大木から飛び降りた。


 なんのダメージも無く地面に着地し、今度はほぼ真上に2本の炎の鞭を伸ばす。その先端は大木の先端付近に刺さり、アルティスは地面を蹴りながら両の手の平から炎を吸収していく。


 アルティスの体は真上にグングンと登っていき……やがてその高さは周囲の大木をも超え、緑の海が広がる上空へと到達する。


 上昇の際、アルティスは体を回転させていた。少しずつ体が後ろに倒れていき、頭が地面に向けられ、やがて空中でうつ伏せの状態になる。


 瞬間、手足の先に1つずつ火球が出現した。さらに次の瞬間、それらは起爆される。アルティスの体が爆発で押し出されると同時に再び4つの火球が出現。それらもまた次の瞬間には爆発し、アルティスの体を加速させていく。


 ボートの目には、突如上空に飛び上がり、空中を突き進むアルティスの姿が映っていた。


「はあ⁉︎」


 その速度は先程までの比ではない。空気以外のあらゆる障害物が存在しない空中を、紫蛇すら凌ぐだろう速度で突き進む。


 唖然と目を見開くことしかできないボート。アルティスの爆発力に驚愕しか覚えない。


(あいつまさか紫蛇と戦う気じゃ……いや、アルティスはそこまで馬鹿じゃねえ……はず。先にエーミール学院に言って避難させるぐらいに押さえる……はず。……確かに紫蛇の行動範囲内にエーミール学院が含まれてるなら避難誘導が最優先だが……任せていいのか……?)









 全く暇なものだ。


 男は読んでいる本のページをめくりながらそう思った。


 男は細身だが引き締まった体を持つ初老の剣士だった。左手で本を持ち、右手で立派な顎髭をいじっている。日差しの差し込む部屋のソファに腰を下ろし、刀と剣が1振りずつ脇に置いてあった。


 そこはエーミール学院の警備員控室だ。比較的狭いがそれでも不自由しない程度の広さの部屋。テーブル、ソファ、本棚、コーヒーセットなど一通り揃っており、何不自由なく生活できてしまう。とはいえ警備員として雇われているので、見回り程度は行わなければならない。でないと追い出されてしまうかもしれない。


 名残惜しいが仕方ない、といった様子で男は立ち上がる。剣を背中、刀を腰に差し、見回りに向かうため扉を出る。


 生徒達が授業を受けている様子を眺めながら廊下を歩く。


 ふと外の方を見れば、輝かしい8月の太陽が、校庭と森の木々を照らしていた。嫌な暑さに包まれはするものの、こうして外を見てみれば他に無い景色を見ることができる。


 が、男は同時に嫌なものを感じ取っていた。


 魔力だ。どこか遠くの方から、魔力が接近してきている。


(む、魔力……! ……だがなんだ? 遠いような近いような、多いような少ないような……妙な感覚だ……)


 男は廊下の窓を開けると、躊躇なくそこから飛び降りた。3階から校庭に降り立ち、森の方へと走る。


 魔力はどんどんとエーミール学院に向かって進んでくる。


(速いな。それも真っ直ぐにこちらに向かってきている……ここは注意を引いて森の中で戦おう……)


 その時。男はゆっくりと目を見開いた。


 理解したのだ。接近してくる魔力がどれほどのものなのか。その移動速度がどれほどのものなのか。


「エーミール学院の全員に告ぐ‼︎ 今すぐここから離れろ‼︎ 私でも勝てない強大な魔物が接近している‼︎」


 男は無意識のうちに叫んでいた。


 その声はエーミール学院全体に響いていた。第一学年から第八学年、特別教室まで、その瞬間に校内にいた者全員が男の言葉を聞いたのだ。


 しかし瞬時にその意味を理解したのはほんの数人であった。


 少しして低学年の教室には混乱が訪れていた。


「え……魔物が来てるって……」

「や、やだ……! 先生! 魔物がって!」

「はやく逃げなきゃ!」


 目に涙を浮かべ、口々に不安を吐露する第一学年の生徒達。まだ純粋で怖がりな年齢だ。その不安は計り知れないだろう。


「大丈夫、落ち着いて。魔物は警備のおじさんが倒してくれるから」

「で、でもさっき勝てないって……」

「そんなことないよ。あのおじさんはとっても強いから。先生はおじさんと話してくるから、皆はここで待っててね」


 眼鏡をかけた若い女教師は生徒達を宥めると、教室から出て校庭に向かった。


 その間も、男の「離れろ」という叫びは常に響き渡っていた。


「ちょっとすみません!」


 校庭にて、女教師は男に声をかけた。


 男は振り返り、驚愕と怒りを露わにする。


「突然大声を上げないでください。生徒達が不安になっ」

「貴様何をしている‼︎ 子供達はどうした⁉︎ 全員最低でもトゥエフまでは避難しろ‼︎」

「……生徒達は教室で待機させています。それより、その怒号をなんとかし」

「ふざけるな‼︎ 日頃の避難訓練で確認しているだろう‼︎ 警備員が合図を出したら教師と子供達全員で避難すると‼︎ 私達大人が子供の見本にならずにどうする‼︎ 低学年の子達なんて、まだ自分で考えて動ける年齢ではないのだぞ‼︎」


 男は激昂していた。


 今、これ以上無いほどの強大な敵が、厄災が、自分達を殺しに来ているというのに。1秒でも早く、一歩でも遠くへ逃げなければならないのに。もう既に、手遅れなのかもしれないのに。


 男がもう少し冷静ならばあるいは、眼前の教師を口八丁で言いくるめ、行動を支配できたかもしれない。


 だが男も恐怖していたのだ。迫り来る災害に。恐怖と焦りと怒りが、判断力を奪っているのだ。


「チッ! エーミール学院の生徒は全員教室から出てトゥエフに走れ‼︎ 下級生は上級生の指示を聞き、上級生は下級生を先導しろ‼︎ 教師の命令は無視しろ‼︎ 一歩でもここから離れるんだ‼︎」

「な、何を勝手なことを……‼︎」


 女教師は男の左腕を掴んだ。怒りを隠さない鋭い目つきで男を睨む。


 女教師の顔を見た男の目もまた鋭かった。内包した怒りも表れてはいるが……最も色濃く表れていたのは呆れと軽蔑だ。


「……もういい。貴様のような真の阿呆は言語も扱えんらしい。……死ぬなら勝手にしろ」


 そう言うと、男は女教師の手を振り解き、森の方へと走っていった。


 エーミール学院の森は大きい。さすがに魔力が濃い土地のそれとは比べ物にならないが、子供が登って遊ぶことはできないだろう高さの木々が並んでいる。


 当然視界も悪いわけだが、男は物怖じせず森の中を突き進む。森には当然魔物が住み着いているのだが、男はまるで意に介さなかった。目の前に魔物がいても無視し、その魔物すら足蹴にする。


 そうして走っていれば、迫り来る巨大な魔力との距離はドンドンと縮まっていく。やがて木が次々折れるような破壊音が聞こえて来る。


 魔力との接触まで残り5秒。


 男の全身に力が入った。


 残り4秒。


 男の額を汗が伝った。


 残り3秒。


 男は荒い息で、大きく空気を吸い込んだ。


 残り2秒。


 残り1秒……


 眼前の木の両脇に1つずつ、大きな眼が見えた。


 瞬間、男は真上に跳躍した。男の足を食いちぎろうとせんばかりに巨大な口が、男の数センチ下を通り過ぎる。薙ぎ倒された木々が地面を転がり、“そいつ”が通った跡が作られていく。


 男は空中で歯を食い縛り、紫色のその魔物を睨みつけた。


(紫蛇……‼︎ こいつがS級……‼︎)


 紫蛇は森など元から存在しないかのように、根を張った木を根元から折りながら進んでいた。


 驚くべきはその速度。体高3メートルを超える怪物が、並の冒険者すら凌ぐ速度で突き進んでいる。その先にあるのはエーミール学院。それ以外眼中に無いと言わんばかりだ。


(こいつ、私にまるで興味を示さない……! 繁殖期か飢餓か天敵の出現か……人間の数が多い場所に引き寄せられているのか……⁉︎)


 男は空中で背中の剣を引き抜いた。それを真下、紫蛇の背中に向け、先端に魔力を集中させる。


「エル・ファイア‼︎」


 剣の先端に、直径10メートルほどの火球が出現した。次の瞬間、火球は突然半分ほどの大きさに収縮。さらに次の瞬間にはまた半分に、そのまた次にも半分に、段階を踏んで火球は小さくなっていく。


 少しして、火球は約30センチほどにまで縮小。男は火球を射出した。


 ……体長数十メートルの巨大な蛇だ。A級冒険者ともなればまず外すことはない。


 だが男は今回ばかりは自分の腕を恨んだ。頼むから外れていてくれと、そう願った。


 火球は紫蛇に命中した。巨大な爆発が起こり、熱、衝撃、音が振りまかれ、森には円形の穴が空く。


 だが激流の如く唸る紫色の怪物は、その進撃を止めることはない。


 火球は命中した。命中したのだ。


 だが、紫蛇は全くの無傷なのである。


(圧縮したエル段階魔法でも……‼︎)


 男は紫蛇が通った後の獣道に着地。すぐさま揺れる紫蛇の尻尾を追いかけた。


(だめだ、私の魔法じゃ気を逸らすこともできない……‼︎ ……今私にできるのは……‼︎)


 男は跳躍し、森の木の枝に着地した。そこから前方の枝へ飛び乗りながら進み、やがて紫蛇の頭部が見える場所まで辿り着く。


 一度大きな跳躍をし、男は紫蛇の頭を正面の上空から見下ろした。


 紫蛇の視線と男の視線がぶつかり、逃れられない恐怖が身を包む。


(……今私にできるのは、自分の命を捨てて数秒時間を稼ぐこと……‼︎)


 男は強張る体に鞭を打ち、さらに前方へ向かっていった。


 紫蛇との距離が200メートルほどまで離れた段階で停止し、振り返る。離れているはずの紫蛇の顔が、嫌に鮮明に映る。


 右手の剣を振りかぶり、紫蛇に向かって男は地面を蹴った。その一蹴りで、男の体は10メートル以上移動する。少しして足が地面につき、再び地面を蹴る。


 男の体は加速していき、数秒で紫蛇の速度を上回った。互いにかなりの速度で接近しているのだから、相対的な速度もまた凄まじい。ものの数秒で、両者の200メートルという距離は消え失せる。


 男は剣を繰り出した。


 狙うは顎。紫蛇を正面から見て左、そこにある紫蛇の顎の付け根だ。


 男の中で渦巻く恐怖とは反して、剣の軌道は全くブレていなかった。ただ真っ直ぐに空を進み、まるで吸い込まれるようにして紫蛇の顎部に接近する。


 一瞬後、剣が肉に接触した。その刃は筋繊維を断ちながら尚も進み、血液を付着させる。その一閃には剣のポテンシャルにA級冒険者の膂力も加わり、並の生物ならば両断されるほどの切断力があった。


 しかしさらに一瞬後。男の剣はほんの数センチだけ紫蛇の肉を断ち切り、停止した。


 男の体が紫蛇に引っ張られ地面を滑る。どれだけ足を踏ん張ろうが、剣をさらに押し込もうとしようが、男はされるがままに紫蛇に引き摺られていってしまう。


(硬すぎる……‼︎)


 男は剣を引き抜き、紫蛇が向かう先の上空へと投擲した。


 それからすぐさま跳躍し、男は紫蛇の背中に着地した。少しよろめいて右手を突くが、すぐに体勢を立て直し頭部へと走る。


 走りながら腰の刀を抜き、左手で持つ。紫蛇の体表は粘性のある液体で覆われているが、男はそれをものともせずにひた走る。


 少しして、男は体を回転させながらさらに跳躍。その落下地点は紫蛇の頭部。左腕を引き絞り、右手を空に掲げる。


 すると、男が掲げた右手に向かって1本の剣が落下してきた。先程空に向かって投げた剣だ。


(せめて両目は潰す……‼︎ 多少暴れられても、援軍の討伐確率を少しでも上げる‼︎)


 男は空中で指を動かし、剣を掴もうとした。両腕に剣と刀を持ち、両目に突き刺そうという考えだ。


 しかし、その算段はたった1つの小さなミスで破綻する。


 男は剣を取り落としたのだ。剣の柄が手の平に当たり、そのまま回転しながら剣は地面へと落下する。紫蛇の体が剣の上に乗り上げ、轟音の中金属が砕ける音が男の耳に届く。


 紫蛇の頭部に着地し、男は自分の右手を見つめた。その右手は、男の他の部位とは違い、全く震えていなかった。


 焦り、困惑し、呆然とする頭を必死に回転させる。0.1秒にも満たない時の狭間で、男の思考は回転する。


(……毒か‼︎ 今さっきよろめいて右手を突いて……ほんの1、2秒で手首から先の感覚が無くなった……‼︎ 経皮だぞ……⁉︎ ……このままだとあと2、3秒で右腕が動かなくなる……‼︎)


 眉根を寄せ、歯を食い縛り、必死に考えを巡らせる男。


 だが。


「……フン。こうなれば策などあるわけないか」


 呆れたような、諦めたような呟きであった。


 直後。男は左手に持っていた刀を紫蛇の眼球に突き刺した。


「キシャアアアアアアアア‼︎」


 突然の激痛と半分の視界の消失。生誕以来大きな痛みを感じたことのないS級モンスターは、初めての苦痛に叫びを上げる。


 しかし男の動きは止まらない。突き刺した刀をすぐさま引き抜き、後方に投擲。


(誰かが使ってくれるかもっ……な!)


 刀がまっすぐ飛んでいくのを確認すると、男は両脚に力を込め、頭を振り回そうとする紫蛇よりも一瞬早く跳躍した。


 男の体は数十センチ上方に浮き、数メートル紫蛇の進行方向に動いた。少しして体は重力に引かれ、浮いた数十センチを下りさらに落ちていく。


 その時男の体があったのは、紫蛇の文字通り目と鼻の先であった。


 冷や汗をかきながらも、男の顔には両端が吊り上がった口が張り付いていた。


「……目がダメならここもだろう?」


 一瞬の後。


 紫蛇は激痛の元凶である眼前の人間に向けて、巨大な口を開いた。そしてその勢いのまま突き進み……人間を口内に入れ、口を閉じた。


 直後。


 莫大な熱と衝撃が、紫蛇の“体内”を襲った。喉の辺りだ。まるで飲み込んだ爆弾が爆発したような感覚。喰ったのはただの哺乳類のはずなのに。


 否。彼はただの哺乳類ではない。彼は冒険者である。


 男は自身が確実に捕食されたと判断した瞬間、自爆したのだ。


 男は紫蛇にダメージを与える最も効果的な場所を体内と判断。だが攻撃しても自分を意に介さない紫蛇の体内を攻撃するのは困難だ。そこで男は紫蛇が激昂するのを顧みず眼球を攻撃。紫蛇が唯一体内を晒す瞬間……つまり捕食を誘発し、自身を喰わせて自爆することで体内を攻撃したのだ。


 紫蛇はこれまた初めての、火傷という苦痛に見舞われ、とうとうその進撃を停止させた。


 己を襲う苦痛に耐えようと、紫蛇は身悶えした。体を捩り、叫び声を上げ、周囲の木々を薙ぎ倒す。


 ……そして男が自爆してから約5秒後。


 紫蛇は再び進撃を開始した。









「慌てないで、落ち着いて避難して! 後ろは気にしないで、振り返らないで真っ直ぐ走りなさい!」


 エーミール学院の校門から少し離れた場所。そこに学校のほぼ全ての生徒が集まっていた。


 500人強の生徒を指揮するのは、ミディアムカットの金髪を揺らすクリス・レートだ。彼女は集団の最後尾を走り、声を張り上げ生徒達に指示を飛ばしている。


「……クリス、いいの?」


 そう聞くのは、艶のある黒髪を背中まで垂らした、いかにもお嬢様然とした女子生徒、マフィ・マカロフである。


「……ここの腐敗した教師達より、あの冒険者さんの方がよっぽど信用できるわ。『魔物はあの冒険者が倒してくれる』、だなんて……その冒険者さんが逃げろって言ってるのに……。……私は知ってる。魔物の恐怖も、魔物と戦う人がどれだけ凄いのかも。……アルティスより強い人を、信用しない方がおかしいわよ」

「……うん、その、ツンデレのデレを発動させてるところ悪いんだけどね。私が『いいの?』って言ったのは先生の言葉を無視したことじゃなくて……」

「え?」

「その先生達を拘束してることの方よ」


 そう言ってマフィが振り返ると、そこには両手を岩によって拘束され、口の周りに水が纏わりついているエーミール学院の教師達がいた。彼らは必死に避難する生徒に声をかけようとするが、口に纏わりついた水がゴポゴポと音を立てるだけでその声は全く響かない。


 クリスが生徒達を避難させようとした際に止められたので、魔法で拘束したのだ。


「別にいいでしょう? 足はそのままだから走れてるし」

「え、えぇ……? ていうかいつの間にあんな魔法を……」


 と、マフィが教師達の腕を被う岩を見た……瞬間。


 北西の方から、爆発音が聞こえてきた。場所は森のどこかだろうか。次いで鋭い、何者かの叫び声。


 それがどういうものなのか、分からない者はいなかった。


 下級生達が動揺し、その胸中の不安と恐怖が大きくなる。その気持ちの揺らぎは伝播していき、上級生もまた目尻を落とす。


 クリスはそんな生徒達を見て、口を引き結んだ。


 もう自分は最高学年なんだ、と言い聞かせるように、不安を浮かべる面々の表情をしかと見る。


 アルティスに助けられて誓った。もう逃げない。今度は自分が守る番だと。


「皆、振り返らないで! いざという時は、私が戦うから安心して!」


 と、クリスが声を上げた直後。


 真っ赤な髪を肩でパツンと切った、勝ち気そうな顔つきの女子生徒がクリスの隣に入ってきた。


 彼女はビージャ・ゼリ。数ヶ月前の魔法祭でクリスと戦った生徒だ。


 クリスがビージャの方を向くと、彼女は後ろを向き、顔中に汗を浮かべていた。目は見開かれ、口の端は吊り上がり、呼吸はどこか荒い。


 クリスがその様子に疑問を浮かべるより先に、ビージャは声を発した。


「……クリス……来るぞ」

「……来る……って……」


 ビージャの目線の先にあるのはエーミール学院。


 その言葉は、災害がすぐ目の前まで迫ってきていることを意味していた。


「ッ‼︎ ……私がやる‼︎」


 言いながらクリスは足を止め、振り返った。


 同時にビージャもまた体の向きを変える。


「待てクリス! ……私も加勢するぞ!」

「ビ、ビージャ……⁉︎ でも……!」

「こんな局面で、私が出ないわけないだろ! 私はこの魔物との勝負にも勝ってみせる!」


 そう言って、無理矢理笑みを浮かべるビージャ。


 普段ならば腹立たしいその笑みも、味方になれば頼もしいものだ。


 焦りや恐怖が浮かんでいたクリスの顔にも、その笑みが移っていた。


「……2人なら、ある程度は時間稼ぎできるかもね」

「ああ! ……この勝負、私がやられても皆が逃げ切れれば私の勝ちだ!」


 2人は覚悟を決めていた。ここで最悪は自分を犠牲にするのだと。共に戦う仲間ができたこともあり、僅かだが恐怖も薄れている。


(……絶対に……皆を守る‼︎)


 クリスが改めて決意した直後。


 エーミール学院の校舎が、突然破壊された。


 靴入れの少し横の壁に、3メートルほどの穴が空いた。その穴から顔を覗かせるのは巨大な紫色の蛇。


 轟音と敵の出現により、クリスの体は一瞬硬直した。その間に、突き破られた校舎の瓦礫が宙を舞う。


 紫蛇は校舎の壁を破壊しても勢いを衰えさせることなく突き進む。


 その速度は、クリスの体の硬直が解ける1秒にも満たない時間で、クリスとビージャがいる地点まで辿り着くほどのものだった。


 体が硬直している間、クリスは紫蛇の頭を視線で追うことしかできなかった。


 紫蛇が真っ直ぐに、クリス達の元へ走ってくる。


 1秒も経たないうちに、紫蛇はクリスのすぐ目の前にまで迫っていた。だが僅かに軌道がズレている。


 真に紫蛇を正面から見つめていたのはビージャだった。


 クリスの目線が動き、自身の右隣、ビージャへと向けられる。


 紫蛇の表情は至極穏やかだった。右目から血を垂らしてこそいるが、まるで街の通りをただ歩いているだけのような、これといった感情の無い表情。


 紫蛇はさもそれが当然、いつも通りだという様子で……ビージャの体を押しつぶした。


 ビージャの体が紫蛇の体に押され、後ろに倒れていく。同時に足の先から順に紫蛇に乗り上げられ、その重量で潰れていく。さらに膝、腿、腰、胸と次々と押しつぶされていき、やがてビージャの肉体は紫蛇に完全に覆われた。


「……ぇ……?」


 震える声で発された、クリスのか細い声。意識が集中しているのか混乱しているのか、ビージャがいたはずの場所から目が離せず、音が聞こえない。


 しかしクリスの意識は次の瞬間、強制的に呼び戻された。


 子供達の悲鳴が響き渡ったのだ。


 それは命の危機を本気で感じ取った本気の絶叫。聞く者にすら恐怖を感じさせる、地獄のような叫び。


 クリスの意識が呼び戻されたとほぼ同時に、紫蛇の尻尾がクリスの横を完全に通り過ぎた。


 そこにあったのは、死体とも呼べぬ血と肉と骨だった。


 体が急速に冷えていくような感覚を、クリスは感じ取った。


 しかしすぐ、その意識は子供達の悲鳴に向けられる。


 振り向けば、エーミール学院の生徒達が次々と紫蛇に喰われていっていた。3メートル以上もあるその巨大な口に、子供達が吸い込まれるように入っていく。その奥には肉体を崩壊させる酸と暗闇が広がっており、飲み込まれた者がどういった苦痛と結末を迎えるかは想像に難くない。


「……ぁ……ぃ、や……」


 クリスの口からは依然震える声しか出ない。


 S級という圧倒的な上位存在に対して、勇気や努力など無意味である。対抗できるのは同程度の才能だけ。その才能すらも開花させなければ意味が無い。


 死を覚悟し、仲間と共に立ち向かっても、大切なものは一切守ることができなかった。


 その残酷な事実は、齢13の少女の心を折るには十分すぎるものだった。


 響き渡る悲鳴。泣き叫ぶ子供達。錯乱する少年少女。恐怖に飲まれる人間達。


 クリスは下級生達が次々に喰われていく様を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。


 その視線の先では、つい先程まで共に勉強していた友人達が殺されようとしていた。


 魔法祭で共に戦ったスネーク・ケーキは、紫蛇から一目散に逃げていた。


 混乱に飲まれるその場から、我先にと街へ走る。


「嫌だ……‼︎ なんでなんでなんでこんなッ、俺がァ‼︎」


 直後。スネークの脳天を、巨大な牙が貫いた。


 巨大な口から生える巨大な牙。返しのついているそれを、紫蛇はスネークに突き刺したのだ。


 紫蛇が器用に牙から死体を外している最中、紫蛇の巨大な体を殴り、蹴っている者がいた。


 クリスに想いを寄せる男子生徒、ウィルリー・アフティーである。


「ふざっけんなよ……‼︎ いきなり出てきやがって‼︎ ただでさえクリスは俺のせいで怖い思いしたってのに……‼︎ これ以上クリスを怖がらせんなよ‼︎ 襲うなら……襲うなら俺……にし……ろ……‼︎」


 ある時、ウィルリーの体がバタリと倒れた。まるで意識がだんだんと消えていくように、少しずつ体から力が抜け、ついには体が横倒しになる。


(何……? 体に力が……息も……)


 直後。紫蛇の体がうねり、ウィルリーの頭に乗り上げた。そのまま紫蛇は走り出し、ウィルリーの頭は回転する。やがて首の骨が折れ、肉が捩じ切られ、ウィルリーの頭はすり潰され頭の無い死体だけが残った。


 と、そこで紫蛇の動きが止まる。


 紫蛇の周りには、もう既に餌は居なくなっていた。その場に居た者は喰い尽くし、逃げ出した者は四方八方に散らばっている。


 わざわざ全部喰うのも面倒だ、という様子で、紫蛇は辺りを見渡した。


 そして視界に入った者の中で最も近くに居た者……腰を抜かし、口を手で覆い涙を浮かべている女子生徒を標的とする。


 その女子生徒は、長い黒髪を持った者……マフィ・マカロフである。


 紫蛇が、マフィにゆっくりと近づいてくる。それと比例するように、マフィの呼吸が荒くなり、涙が溢れてくる。


「……ハア……ハア……ハア、ハア、ハア、ハア……‼︎」


 マフィの目の前にある巨大な口が開かれた。死を呼ぶ液体に満ちたその空間が、ゆっくりと、焦らすようにゆっくりと、近づいてくる。


 マフィにはもう、指一本動かす余裕すら無かった。ただ呆然と、死を待つのみ。


 紫蛇の口の先とマフィとの距離が、1メートルを切ろうとしていた時。


 マフィの体が、横に押された。


 左からの衝撃で、マフィは体を横に倒す。見れば小柄な金髪の少女、クリスがマフィに覆いかぶさっていた。


 クリスがマフィを突き飛ばしたのだ。


「ク、クリス……! なんで……‼︎」


 マフィはさらに涙を溢れさせながらクリスを見た。


 だが、マフィはすぐに目を見開いた。


 クリスはただ呆然と、光の無い目で地面を見つめている。全身に力が入っておらず、その様子はただ絶望だけを表していた。


「……私は……」


 クリスはうわ言のように、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。


「……私は……苦しんでいる人を……見たくない……」

「……だからって……あなたは逃げられたかもしれないのに……‼︎」


 その悲痛な叫びも、2人の体を大きな影が覆ったことで遮られた。


 見上げれば、紫蛇がどこか不快そうな表情を浮かべて口を開く所だった。再びマフィの視界は怪物の口内で埋め尽くされる。


 その瞬間、マフィの視線は紫蛇の口内……そのさらに上、雲が浮かぶ空へと釘付けになっていた。


 その場の数十メートル上空には、1人の人間がいた。


 体を逆さにして、紫蛇を睨みつけている。天に掲げられた足には炎が宿り、煙が北西の方面へ伸びていた。右の拳を振りかぶり、黒髪が風圧で揺れている。


 上空にいたその男……アルティス・ガパオは次の瞬間、両足の裏で爆発を起こした。


 爆発の勢いと重力で、豪速という言葉すら生ぬるい速度でアルティスは急降下。


 そのまま拳を繰り出し……紫蛇の鼻先を殴り抜けた。


 紫蛇の口が閉じられ、牙が下顎を突き抜ける。凄まじい衝撃と音が轟き、クリスとマフィの髪を揺らす。


 アルティスはクリスとマフィの目の前に着地すると、目を見開き、拳を握り締め、叫んだ。


「……なんて……ことを‼︎ お前‼︎」


 アルティスの中で、魔力が渦巻いた。

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