第5話『楽しき学校生活の終わり』

 学生時代。環境、友人、そして自分自身も目まぐるしく変化する、一瞬一瞬が大切な時間。


 友との絆を深め、時には別れ、時には恋仲にまで発展する。教師や勉強についての愚痴を共有したり、一緒になって遊んだり、一つの目標に向かって手を取り合ったり。


 そんな日々を過ごしていれば、時が経つのはあっという間。笑ったり、怒ったり、泣いたり、喜んだり。終わってみればあっという間に感じるのが学校というものだ。


 森の側にひっそりと立つとある大きな学校も、それは例外ではない。


 2月10日、エーミール学院第七学年第二クラス。


 気温が下がり、冷たい空気が肌を包む時期。アルティス・ガパオがエーミール学院に転入してから八ヶ月が経過しようとしていた。


「アルティス君〜、四時限目の数学教えてくれない?」

「ん? ああいいよ。ノート見せて」


 その日の昼休み。一人の女子生徒が、アルティスの元に筆記用具とノートを持ってやってきた。


 最初こそアルティスを邪険に扱っていた学院の生徒達だが、半年以上も経てばほとんどの者が打ち解け合っていた。貴族の子息息女も、長い時間を共にしていれば相手を分かり合おうとするものだ。


 積極的に行動はしないものの、徐々にアルティスの根の優しさや学力の高さが知れ渡っていったのだ。親や教師のどんな教育も、実際に会った時の印象には敵わない。


 だがそれでも、全員と仲良しこよしというわけにはいかない。


 女子生徒に数学を教え終わった後、アルティスは読書にふけっていた。本の題名は「勇者と魔王」。


 アトアミナは千年以上昔、支配欲に溺れた王による絶対王政が続いていたのだが、たった一人の少年が王を殺し、城を壊し、民に自由をもたらした、という歴史がある。


 「勇者と魔王」は少年を勇者、王を魔王とし、歴史を元に執筆されたファンタジー小説だ。


 7月にクリス達と劇団を見に行ったことをきっかけに、アルティスは小説を読むことが多くなってきていた。


 今日も今日とて本を読んでいたのだが……


 突然、アルティスの襟が後ろに引っ張られた。そして隙間に何かチクチクするものが投入され、首筋と背中に不快な感覚が走る。


「うぁ……?」


 ひっかかっていたものを手に取って見てみれば、丸く茶色い葉っぱのようなものだった。ひっつき虫などと呼ばれる植物の種子である。


 後ろを振り向けば、教室のすぐ外でこちらを覗き見る三人の男子がいた。


「キヒヒヒっ! あ、こっち見た!」


 三人は下品な笑い声を上げながら廊下を駆けていく。周りの生徒達は呆れたような同情するような表情を浮かべ、アルティスや廊下を見ている。


 アルティスはため息を吐きながら立ち上がり、廊下に出た。走り去る三人の内の一人に狙いを定め、右手を伸ばす。


 直後、右手から細長い、陽炎のような歪み……風の鞭が生成された。それは狙いを定めた男子生徒の元へ進んでいき、左足に絡みつく。男子生徒は勢いそのまま転んでしまった。


「あでっ! あ、ちょい! 置いてくなあ! ああああああああ!」


 そのまま風の鞭を右手に戻していけば、男子生徒はなす術もなく引きずられていく。必死に風の鞭を解こうとしても、アルティスの魔法出力には敵わない。


 アルティスは男子生徒を近くに寄せるとその場にしゃがみ込み……持っていたひっつき虫を男子生徒の鼻に突っ込んだ。


「ぎゃあああああああああああ‼︎」

「精々鼻毛に絡まらないようにすることだね」


 アルティスが魔法を解除すれば、男子生徒は涙目で鼻を弄り始める。


 割と奥まで突っ込まれたのか中々取れない。


 鼻を擤む要領で取ろうとする男子生徒を見下ろし、アルティスが鼻で笑ったその時。


「全く懲りないわね。何度も反撃されて……ちょっと可哀想になってくるわ……」


 顔を引き攣らせたクリスがひょっこり現れた。


「あ、クリス」

「アルティス、あなたたまに凄いことするわよね……」

「そう?」


 さらに数秒頑張った男子生徒は、ひとまず自分の怒りの感情を処理しようと振り返り、アルティスをキッと睨みつけた。


 その直後。アルティスの横に立つクリスに気がつき、男子生徒は目を見開き顔が赤くなっていく。


 次いでドタドタと立ち上がり、鼻に詰まったひっつき虫を手で隠しながら


「覚えてろよアルティスーー!」


 と叫びどこかへと走り去ってしまった。


「……また古臭い捨て台詞を……」

「なんでアルティスにばかりあんなイタズラするのかしらね」

「さあ? 僕がクリスみたいに良いリアクションしてるなら分かるんだけど」


 と言うや否や、アルティスはまだ手に持っていたひっつき虫を、クリスのうなじに押しつけた。


「ひゃああ! ちょっと!」


 ……などと、二人が仲睦まじく戯れている一方……


 アルティスにひっつき虫を鼻に詰められた男子生徒は、周りに怪訝な目をされながら廊下を駆けていた。


 やがて昇降口まで辿り着き、あたふたと靴に履き替え外に出る。そのまま校舎に沿って走っていけば、よくつるんでいる二人の男子生徒が壁に寄りかかっていた。


「あ、来た」

「うわっ、ガッツリ詰まってんじゃん。笑えるな」

「やっかましい!」


 男子生徒は校舎の陰に蹲り、鼻に詰まったひっつき虫を取ろうと孤軍奮闘した。


 鼻で息を吐いたり指で取ろうとしたり、込み上げる羞恥に耐えながら頑張ること約二分。よもや自分では取れないのでは思い始めた頃合いで、鼻水が絡まった汚らしいひっつき虫は地面に転がった。


「うわきったねえ!」

「クソォ……! やばいくしゃみ出る……ぶえっくしょい‼︎」

「……にしても、また随分とクリスに恥ずかしいとこ見られたな」


 連れにそう言われると、男子生徒は顔を赤くして目つきを鋭くした。


「もう諦めろよ。なんでか知らないけどあの二人下手な夫婦より距離近いぜ。喧嘩した分仲直りした後いつも以上にいちゃついてる、みたいな関係がデフォルトになってる」

「なんだその絶妙な例えは……ああっクソ! ……クソォ……」

「情けねえなあ」


 クリスへの恋心を隠せていないその男子生徒の名はウィルリー・アフティー。黒髪、中肉中背とこれといった特徴が無い一般生徒。しいて言うなら目つきが悪い。アルティスに対するイタズラの数々から察せられるように問題児だ。


「もういっそ告白しちまえよ。いっそフラれた方が諦めもついて気が楽になるかもよ」

「嫌だ! ……何か無いのか、あの二人を引き剥がす方法……!」


 連れ二人は呆れた顔を浮かべながら、唸るウィルリーを眺めていた。


 正直な話、連れ二人は何故ウィルリーがそこまでクリスに想いを馳せているのか分からない。


 七年間同級生として接してきたものの、口うるさいし、厳しいし、高飛車な性格が近寄り難い雰囲気をもたらしている。レート家は確かに相当な家ではあり、それ目当てなら分かるのだが、どうやらウィルリーは本気でクリスに恋愛感情を抱いているようなのだ。それも何年も前から。


「……まあ、最近のクリスならまだその気持ち分かるけどなあ」

「確かに。前までお堅い感じだったのに魔法祭辺りから変わったよな。笑ってるとこ見るのが多くなった気がする」

「ちくしょう……! 垢抜けする前から好きだったのにポッと出の男に取られるなんて……! 下手な寝取られものより胸糞悪いぜ……‼︎」


 顔を隠しながら悶絶するウィルリーに、二人がさらに顔を引き攣らせた……その時。


 ウィルリーはパッと顔を上げた。


「やっぱり俺も何かイベントに遭遇した方がいい!」

「は? いきなり何言ってんだ」

「あの二人はな、アルティスが転校した日の案内役がクリスだったり、一緒にトラブルに巻き込まれたり、魔法祭のチームが一緒だったり、とにかくイベントが多い!」

「はあ」

「だから俺も、そういうイベントに遭遇しないとダメなんだよ!」

「……いやまあ、言いたいことは分かるけど……ウィル別に顔がいいわけでもないしな」

「ピンチを助けに来たのが白馬の王子様じゃなくて小太りなおっさんなら幻滅しかないだろ」

「テメェらホントに友達か⁉︎」


 別にウィルリーは太っているわけではないのだが……身の程というものがあるだろうと、連れは呆れ顔をさらに深める。


 そんな二人にぐぬぬという顔を浮かべつつ、ウィルリーは更に頭を回し、ひたすらにクリスと近づく策を練った。


 そして、先程さらりと流した一つの言葉を思い出す。


「……『ピンチを助けに』……ベタだが案外いいんじゃないか?」

「えー? ……まあなんかやるなら止めねえけどよ。俺は手伝わねえぞ?」

「たりめーだろ。高感度上げるのは俺一人でいい」

「……女子ってそういうデカい出来事じゃなくて、日頃の積み重ねでどう思うか決まるんじゃないの……?」


 などという連れの言葉は、ウィルリーの耳に入っていないようだった。









 2月17日の放課後。その日は空を雲が覆い尽くしていた。一番暖かい時間が過ぎ、夜が近づくにつれ気温が下がってくるような時間帯。生徒のほとんどは既に帰路につき、静かな学校にはどこか哀愁が漂っている。


 ウィルリーは広い校庭の一角に立っていた。ぼーっとして散歩をする……ふりをして、学校を囲む塀のある地点を目指す。


 その地点とは、旧裏門だ。八ヶ月程前、アルティスが転入して来て間もなく、門が破壊され魔物が侵入したという事件。これを機に元からほとんど使われなかった門を撤去し、現在は見る影もない。


 その丁度裏門があった位置の塀に手を伸ばし、ウィルリーはその感触を確かめる。


(……よし、ちゃんと中の鉄板は抜けたままだな……)


 次いで塀の上に手を伸ばし、跳躍して塀の淵に手を掛ける。力一杯自分の体を持ち上げてよじ登り、学校と隣り合う森を見る。


 すると、学校から少し離れた場所に、一匹の狼がいた。体は黒っぽい赤の体毛で覆われ、突き出た口で一本の木の根元を盛りに突いている。


(よしよし……ちゃんと来てるなぁ? あとはタイミングを合わせて……)


 ウィルリーは左手に持っていた、紅い液体が入ったガラス容器を見た。


(こいつを出すだけ……)


 容器をズボンのポケットへと滑り込ませ、ウィルリーが立ち上がったその時。


「あ、ウィルリー!」


 という女子の声が校舎の方面から聞こえてきた。


 振り返れば、綺麗な金髪をミディアムカットにした少女、クリス・レートが、鞄を手にパタパタと駆けて来ていた。


「ごめん、ちょっと先生に用事頼まれちゃって」

「いや〜平気平気。こっちが頼む側だし」

「それで、手伝ってほしい仕事って?」

「この塀さ、出来てから割と経つでしょ? だからそろそろ点検の予定だったんだけど、担当のボートさんが今日居なくて。先生に頼まれたけど一人じゃ大変だしクリスに手伝って欲しかったんだ」

「へー……この塀って点検があったのね……学校の方針には詳しいつもりだけど知らなかったわ。けど言われてみれば点検なんて当たり前よね」


 クリスの言葉に、ウィルリーの心臓が跳ねた。


 当然、ウィルリーの言葉はほとんど嘘である。


 真実なのは「塀には点検があること」と「ボート・アルフォートが不在であること」の二点のみ。


 点検の日が今日であること、先生に頼まれたこと、ボートが担当であることは全くのデタラメだ。


 それらの嘘は全て、「クリスに良い格好を見せたい」というウィルリーの自己顕示欲……否、恋心を満たすためのもの。


 ウィルリーとクリスは端から少しずつ縁を伝い、塀の点検を行っていった。


 アルティス転入時の魔物侵入事件より、大きな事件、事故も無く、塀に大きな損傷は無い。精々校舎側が日焼けしているぐらいだ。


 しかしただ一点、決して無視できない損傷が存在する。


 それはかつて裏門があった地点。ウィルリー自らが内部の金属板を抜き、大きめの穴を開けた場所だ。


(……何もあいつを倒さなくてもいいんだ……ここで体を張ってクリスを助けて、俺のことを印象付けるだけでいい。きっかけさえ作れば後はいくらでも好感度なんざ上げられる……!)


 先程塀を隔てた森にいた狼。塀に空いた穴とそこに忍ばせた紅い液体の入った容器。作戦立案から一週間でウィルリーが揃えたキーアイテム。


 あの狼は赤狼せきろうという魔物の一種だ。階級はD級に属している。魔物とは体内に魔力を含んだ動物という定義であり、魔力は魔法を撃ったり身体能力を強化したりできる。


 とりわけ狼種は嗅覚の強化が凄まじく、離れた場所からでも血の臭いを嗅ぎつけ、他の動物が攻撃した獲物を横取りすることもあるという。さらに同種しか匂いを感じない物質が血中に含まれているのか、仲間の窮地にも駆けつけるらしい。


 それを知っていたウィルリーは、動物の解剖と称して小さなネズミの血液を採取しており、学校近くの木に垂らしていた。狼種の習性により見事赤狼が引き寄せられたというわけだ。


 そしてまだ持っている血液を解放し、赤狼を塀に誘き寄せる。後はできる男を演じ、自己犠牲のふりをしてクリスを逃す。


 というのが、ウィルリーの考えた作戦である。


 だが所詮十三歳の少年が考えた作戦。不自然な点は多く存在する。


 魔物から学校を守るための施設の点検を生徒に任せるはずがない点。破損を内部の金属板が紛失するという不自然なものにした点。板部分の穴が明らかに人為的なものである点。


 しかし、ウィルリー・アフティー犯した最大の失態は……魔物という脅威を過小評価したことだ。


(さて、ちゃんとまだいるよな……?)


 ウィルリーは点検のふりを始めてから少しして、件の地点へと辿り着いた。


 後は容器に入れた血を地面に垂らせば、あの狼が塀に近づき、視界に入った自分達を襲うだろう。その後は体を張ってクリスを逃す。


 いよいよ目前に迫った決行の時に、ウィルリーの心臓は鼓動を早めていた。


 ウィルリーはクリスがまだ少し離れていることを横目で確認した。そして最後の確認として、屈んで塀に空いた穴を覗き込んだ……瞬間。


 塀を隔てたほんの数センチ隣には、殺意を漲らせた鋭く荒々しい、凶悪な眼が存在した。瞳孔は溢れんばかりの敵意をウィルリーに注ぎ、殺意を抑えられないと言わんばかりに細かく震えている。


 反対側にいた赤狼も、塀の穴を除いていたのだ。


 ウィルリーの心臓が大きく跳ねるより早く、驚愕に叫び声を上げようと動く喉の筋肉より速く……赤狼はその怪力を誇る前足で、金属板の抜かれた塀を破壊した。


 木が砕ける音、赤狼の唸り声、ウィルリーの叫び声。


 クリスは目を見開き、視線を向けた。


「あっ……あああああああ‼︎」

「え……⁉︎」


 腰が抜けたのか、腰を下ろした状態で手足を動かすウィルリー。塀の一部が粉砕され、紅い毛皮を持つ前足が獲物を求めて地面を掻く。体が筋肉に包まれた赤狼の膂力により、塀はさらにカケラを振り撒いて破壊されていく。


 ウィルリーの目の先には、自分を殺そうとしてくる一体の魔物。赤狼は唸り声を上げながら塀を壊し、少しずつウィルリーへと近づいてくる。


 その瞬間、ウィルリーは理解した。魔物という生物は、自分が思っていたよりも強大で、圧倒的な力を持っていることに。


 ウィルリーの中に生まれた恐怖は刹那にして大きく、巨きく肥大化し……彼の全身が、眼前の脅威からの逃走のみを求めた。しかし体は動かない。動くことが死に繋がると容易に察することができたからだ。


 涙を浮かべ、体を震わせ、恐怖に苛まれたウィルリー。


 彼の脳内から今日の作戦も、クリスのことすらも消え失せたと同時に……赤狼は完全に塀を破壊し、エーミール学院の敷地内に侵入した。


 瞬間、ウィルリーに向かって走り、鋭い牙が並ぶ口を開く。


「あっああああ‼︎ やっ……‼︎」


 ウィルリーの口からか細い悲鳴が漏れる。見せびらかすような赤狼の口が恐ろしく、咄嗟に目を瞑る。せめて頭だけはと無意識に腕を顔の前に掲げる。


 恐怖に支配された数秒間。その後に来るのは更なる恐怖と激痛、そして生との別れ。一人の少年は生きたまま食われ、悲惨な叫び声を上げる……はずだった。


 しかし。


「グッ……ああああああっ‼︎」


 その場に響いたのは、小さな少女の悲鳴だった。


 クリスの腕が、赤狼に噛みつかれている。鋭い牙が左上腕部の滑らかな肌を突き破り、生暖かい血液に塗れていく。さらには怪力と疾走の勢いにより、クリスの上体を押し地面に倒す。逃げられないように胸部を前足で押さえ、攻撃を邪魔された怒りを瞬時に殺意へと変え、獲物を変更。


 赤狼の鋭い瞳孔が、クリスを睨みつけた。


 クリスに、背筋を冷たい鉄の棒で貫かれたかのような感覚が走る。


 来るはずだった恐怖と痛みの代わりに訪れたいクリスの悲鳴。ウィルリーは目を開き、今まさに食われんとしているクリスを目撃した。


「あっ……あっ、あああっ……!」


 喜び、安堵、心配、恐怖、混乱……様々な感情が入り混じり、ウィルリーの口からは意味を成さない音だけが漏れ出る。


 だが一方クリスは、左腕に走る痛みに涙を浮かべながらも、行動を起こしていた。


 自身の体内にある魔力を操作し、右手に小さな炎の球を生成し、赤狼の顎部に繰り出す。


 火球は小さな爆発を起こし、予想外の熱と衝撃にクリスを押さえつけていた脚前足を離し、赤狼は思わず後ろに下がった


 クリスは急いで立ち上がり、背後にいるウィルリーを庇うように立つ。右手に再び火球を生成し、赤狼に照準を向ける。噛みつかれた左腕は力が入らず、ただぶら下がっているだけだ。


「ウィルリー‼︎ 逃げて‼︎」

「……え……?」


 目線は赤狼に向けたまま、クリスが声を荒げる。


「ボートさんがいなくても、きっと校内には非常用の武器がある! 早く先生達に知らせないと!」


 それが意味するのは、クリスを見捨てて逃げるということ。たとえ自分が戦ったところでどうにもならなくても、想いを寄せる相手を置いて逃げるということ。


 男として、人として、合理的かは別としてどうしても逡巡してしまう決断。


 だが……本物の死を幻視してしまったウィルリーに、迷いなど生まれるはずがなかった。


 クリスの言葉を理解して瞬間、ウィルリーは手足を震わせながら立ち上がり、振り返った。次いで一目散に校舎に走り出す。


 クリスが攻撃された時の悲鳴。きっと先生達も事態に気づいているはず。なら自分が職員室までたどり着くより早く助けに行ってくれる。早くしないとクリスが死ぬ。自分のせいで。自分のエゴで。


 いや、より、早くあの場所から離れたい。


 ウィルリーの理性が恐怖に塗りつぶされていくのと同時に、クリスは動いていた。


 赤狼が脚に力を込め、走り出すのではと感じた瞬間、右手に生成していた火球を放つ。赤狼は横に跳ぼうとするが、腰の辺りに火球は命中。


 しかしほとんどダメージはない。骨や筋肉を破壊するどころか火傷すらもしていないだろう。


 クリスの攻撃は、ただ赤狼の闘争本能に火をつけただけだった。


 火球で攻撃された直後、赤狼は真っ直ぐにクリスへと跳躍した。その速度、瞬発力は人間のそれを遥かに上回り、クリスはただ咄嗟に右腕を体の前に持ってくることしか出来なかった。


 赤狼の牙が、再びクリスの肉体を穿つ。今度は右肘に噛みつかれ、先程とは比較にならない咬合力で肉体を破壊していく。牙は一瞬にして骨にまで到達しただろう。


「ああああああッ‼︎」


 悲痛なクリスの悲鳴が響く。


 だが、クリスの目には光が溜まっていた。赤狼を睨みつけ、脚を踏ん張り、決して引かないという意志が漲ってくる。


(絶対に行かせない……‼︎ たとえ私がボロボロになっても……‼︎ まだ校舎にいる人達だけは……‼︎)


 クリスの抵抗に、赤狼は苛立ちを覚え顎にかける力を強めた。


 しかし牙は進まない。噛み付いた瞬間とは比較にならないほど、クリスの肉体が強化になっている。


 赤狼は驚愕し、目を見開いた。


(アルティスが言ってた……人間の体にある魔力は、魔法を使うだけじゃなくて体を強くするのにも使えるって……‼︎ なら今ここで……っ‼︎ ここでできるようになれ‼︎ それで人を助けられるのなら‼︎ レート家として……いや、私という一人の人として‼︎ こいつを進ませるわけにはいかない‼︎)


 その時、クリスの肉体に宿る魔力は、クリスの無意識の操作により右肘に集中していた。そこに集まった魔力が、右肘の強化にのみ使用される。


 結果、その瞬間のクリスの肉体は、魔物の牙をも拒む硬度を誇っていた。


 ……だが、魔物というのは狡猾な生き物である。


 己の牙が噛み付いた場所を噛みきれないと判断した赤狼は、瞬間地面を蹴り、前方へ跳躍した。


 赤狼は頭突きの形でクリスに激突。筋肉に包まれた全身で繰り出される体当たりの威力は途方もない。


 クリスは肺の空気を押し出されながら吹き飛ばされ、地面に転がった。


「がッ‼︎」


 背中で地面を滑り、腕に力が入らず首だけで頭を持ち上げる。


 その時クリスが見たのは、殺意を漲らせながら己を殺さんとする獣の姿だった。


 心に宿す決意が、恐怖に飲み込まれようとした……瞬間。


 その場に、ビチャァッという、液体が飛び散る音が響いた。


 瞬間、クリスがいた地点から数メートル離れた場所に、短い銀髪を揺らした大男が剣を振り切った体勢で立っていた。無精髭を生やし、濃い青色の服に身を包んだその男……ボート・アルフォートは、身の丈ほどもある大剣を片手で持っており、その大剣には血がこびりついている。


 さらにボートの近くには、何かを大事そうに抱える少年がいた。黒髪を靡かせ、少しやつれた少年……アルティスガパオ。彼の両腕の中には、両腕から血を流しているクリスの姿がある。


 赤狼は首から上が完全に切断され、頭は転がり体は無気力に地面に落下した。


 赤狼がクリスに襲いかかった瞬間、ボートが赤狼の首を斬り、アルティスがクリスを救出したのである。


「……妙な魔力の爆ぜと悲鳴で来てみれば……一体全体これはどういうことなんだ」


 剣に付いた血を払い、ボートは破壊された塀と地面に座り込むウィルリー、そしてアルティスに抱き抱えられるクリスを見た。


 クリスはただ呆然と、何が起こったか分からないといった様子でアルティスの顔を見つめていた。


「……少し待ってね。すぐに腕を治すから」

「……アルティス……? なんで……」

「……こっちの方で、悲鳴が聞こえたんだ。離れてたからかなり小さかったけど、万が一って思って来てみたら……」


 アルティスはクリスを地面に寝かせ、傷口に手を掲げた。まず魔法で異物……細かい砂や細菌を除去し、次いで回復魔法で治療する。


 痛々しい歯型の傷は、ほんの数秒で見る影も無くなった。痛みも全く無く、服を除けばクリスは何事もなかったかのような姿となった。


 クリスが体を起こし、体の調子を調べている間、アルティスは現場を見渡した。


 近くには心底怯えた様子のウィルリーがおり、とうやら彼も襲われたようだ。


 目を伏せ、苦しい気持ちを抱いたアルティスは、その時ウィルリーの側に何かが落ちていることに気がついた。


 近づき、拾ってみれば、それは紅い液体が入ったガラス容器だった。


 栓を抜き、匂いを嗅いでみれば鉄のような刺激臭がする。それは動物の血液だった。


 明らかに準備された血液。嗅覚の鋭い狼種。脅威が死亡したのにも関わらず不自然な怯え方をするウィルリー。


 アルティスの思考はその事実に辿りついた。


 瞬間、アルティスの目から光が消える、

そして静かで、なのに溢れんばかりの感情が載った冷ややかな声を発する。


「……お前がやったんだな」


 直後、地面に腰を下ろしていたウィルリーが突然吹き飛んだ。その場所には膝を突き出したアルティスが立っている。


「ガハッ‼︎」

「は? お、おいアルティス! 何を……⁉︎」


 呆然とするボートを無視し、アルティスは顔を押さえて苦しむウィルリーに歩み寄った。そして髪を無造作に掴み、赤狼の死体向けて引きずっていく。


 切断された赤狼の頭を見て目を見開くウィルリーの頭を、力強く踏みつける。


「アガアッ‼︎」

「お前……自分が何をしたか分かってるのか……?」


 脚を振り上げ、振り下ろす。また振り上げ、振り下ろす。


 何度もウィルリーの頭を踏みつけ、その度にくぐもった声が漏れる。


 その時。


「おい! アルティス・ガパオ! 何をやっている! 今すぐそこから離れろ‼︎」


 という声が、校舎の方から聞こえて来た。


 見れば複数人の教師が校庭に出て来ていた。皆一様に憤怒の表情を“アルティスに”向けている。


 それを確認したアルティスは、まるで関心が無いというようにまたウィルリーに向き直り、頭を踏みつけ始めた。


「離れろと言っているのが聞こえないのか‼︎」


 そんな中、一人の男性教師がズカズカと接近し、アルティスの肩に手をかけた。


 瞬間、アルティスは振り向き、同時に右の拳を繰り出した。拳は教師の顎部に直撃。同時に右手で胸ぐらを掴み、左手で圧縮した火球を生成。そのまま教師の顔に叩きつける。


 通常の火球とは比較にならないほどの熱と衝撃。教師の顔のは火傷に覆われ、意識は一瞬にして消し飛ばされた。


 アルティスが右手を離せば、教師はバタリと地面に倒れる。


 教師達には興味が無いというように、またウィルリーを攻撃しようと、アルティスが脚を振り上げた……瞬間。


 クリスがアルティスに抱きついてきた。


「アルティス! もうやめて!」

「……ごめんクリス……今だけ少し離れてて……僕はクリスが感じた以上の苦痛をこいつに味わわせないといけない」

「大丈夫! 私はもうなんともないから! アルティスのおかげで私は治ったから! ……アルティスがまた救ってくれたから!」

「……関係ないよ。こいつは僕にとって大切で特別なクリスを死の淵に立たせた。こいつも死にかけないと不釣り合いだ」

「駄目‼︎」


 クリスは両手で必死にアルティスを抑えながら、アルティスの目を見据えた。そして涙を流しながら声を荒げる。


「アルティスは私を三回も救ってくれた……‼︎ アルティスが転入してきた時、魔法祭の時、そして今も! あなたは人を救うことができる人なの! だから……だから……‼︎」


 そこでクリスは、アルティスの胸に顔を埋めた。濁流のように押し寄せる感情と涙に、次いで発される言葉は酷く震えていた。


「アルティスは人を傷つけちゃだめだよ……!」


 荒波のように激しかったアルティスの魔力が、少し凪いだ。


 アルティスの眉根が寄り、口が震える。


 自分はクリスが傷付けられた分、こいつを痛めつけたいと考えている。だが当のクリスは自分を止めようとしてくる。だがそれは自分のためを想ってだと十分に理解できて……


 アルティスの心が揺れた時、クリスは涙に濡れた顔を上げた。そして儚い笑顔を浮かべ、小さな声を発する。


「……ずっと、アルティスに言いたかったことがあるの……今……言うのも変だけど……今言わなきゃって思う……。……アルティス……私を救ってくれて、ありがとう」


 その瞬間、アルティスの心の中に、熱い何かが溢れた。


『……いや……‼︎ こないで‼︎ 化け物‼︎』


 幼少期に植え付けられた恐怖。


『……たとえどんなに苦しんでいても、たった一言で救われる人っていると思うの。ただその一言は人によって違っていて……でもアルティスは、私に必要だった「楽しんで」って一言を言ってくれた。……だから、今度は私がアルティスに必要な一言を言ってあげたい』


 “必要な一言”。


『……ありがとう』


 その言葉は、アルティスにとって……


 ……彼の心の嵐は、既に収まっていた。









 2月17日17時頃に発生した一連の事件は、昨年の6月26日の件とは異なり、明確に生徒が招いた事件として処理された。


 また、過去数十年発生しなかった魔物の敷地内侵入が一年以内に二度も起こったことにより、元から出されていたエーミール学院本校の移動の意見が力一杯を増した。


 実行犯であるウィルリー・アフティーに下された処罰は塀の修繕費の支払い、レート剣への謝罪と慰謝料の支払い、そして進学までの約一ヶ月の停学処分だった。


 この極めて軽い処罰は、事後アルティス・ガパオによる過度な暴力行為によるものが大きい。


 当時の教師達の視点では、あたかもアルティスがウィルリーを一方的に攻撃していたように見えていた。後にクリスから事情を聞いても、当時の光景から受けた印象が変わることは無かった。


 結果、学校は生徒、教師への過度で悪質な暴力行為という名目で、アルティス・ガパオにエーミール学院の退学処分を下した。


 これは元よりアルティス・ガパオに憎悪を抱いていた教師達が、暴力行為という口実を得た結果と言えよう。


 3月2日。トゥエフを囲む塀を背に、アルティスとクリスはただ景色を眺めていた。


「……アルティス」

「ん?」

「……ごめんね……私のせいで……」

「いや、クリスのせいじゃない……って、このやり取り何回目だよ」

「だって……」

「……この際はっきり言うけどね、あの時僕はただあいつを半殺しにしたかっただけだから。自分の感情を解放してただけ。なのにクリスが自分のせいだっていうのはお門違いだよ」

「……そう、かな……」

「そうだよそうだよ」


 しばらくの沈黙が流れる。


 あの日以降、なんとも微妙な距離感になってしまった二人。互いに互いを気遣いすぎて、結果謎の距離が生まれてしまっている。


 だがすぐに、アルティスがクリスに向き直り、真剣な表情で話し始める。


「……どうしたの?」

「……クリスさ、魔法祭の後、どんなに苦しんでいても、たった一言で救われる人っていると思う、けどその一言は人によって違う……って言ってたよね」

「……あぁ、確かに言ったわね……ち、ちょっと恥ずかしいな……」

「……僕にとってその一言は、感謝の言葉だった。あの時、クリスがありがとうって僕に言ってくれて……僕は救われた。だから今度は僕が言うよ。……クリス……僕を救ってくれて、ありがとう」


 純粋な眼差しで、クリスの目を見つめるアルティス。


 クリスは一瞬驚いたが、すぐに優しい笑みが浮かんでくる。


「……そっか……言えたんだね、私。アルティスを救える言葉……」

「うん。……僕の過去さ」

「え?」

「……今のクリスになら話してもいいかなって思うんだ。……聞いてくれる?」

「……うん。聞かせて、アルティスのこと」

「……僕は生まれつき魔力が多かったんだ。だからこんな細い体でも大人より力が強かった。……昔……五歳とか六歳とか、そのぐらいの時期だったかな……魔物に襲われてる友達を助けたんだ。その時はただ魔物に対する怒りに身を任せて、魔物をただ攻撃して、血をいっぱい出させて殺した。当然その友達は助かったんだけど……当時の年齢からしたら、魔物より血だらけの僕の方が怖かったみたいでね。化け物って言われて拒絶された。……それから人と関わるのが怖くて、性格もどんどん内気になって……でもクリスと出会って、クリスが僕を拒絶しないでくれたおかげで……クリスがありがとうって言ってくれたおかげで……僕は……また人と関わってもいいって思えるようになったんだ」


 クリスはアルティスの話を静かに聞いていた。ただアルティスが過去を話してくれるだけで嬉しくて、心の中に暖かいものが満ちていく。


「……アルティスは、これからどうするの?」

「……これからかぁ……」

「うちに住む?」

「え? い、いやいや……! 僕の心臓止めようとしないでよ……!」

「私は別にいいんだけどな〜」

「……ていうか今アフティー家とゴタゴタしてるんじゃないの?」

「うぅ……それは本当に辛いわ……慰謝料がどうなの心的被害がどうなの……胃がキリキリするわ……。でもアルティスの家も大丈夫なの?」

「ああ、うちは大丈夫。噂によるとうちに文句言おうとした親をあいつが全力で止めてるらしい」

「は、はは……アルティスがトラウマになってるわね……」


 ウィルリーはあの一件以来、壁や穴に対して恐怖を覚えるようになったらしい。床のレンガの割れ目や街を囲む塀を避けるようになったとか。


「……僕は冒険者になろうと思う」

「冒険者……って、魔物を倒す仕事よね……?」

「うん。……クリスのおかげで、自分の力を人のために使えるようになったから。それに、僕は人を救うことができる人って言われたからね」

「うぅ……! 恥ずかしいってば……!」

「まあ十五歳にならないと職にはつけないから、それまでは個人事業みたいな感じになるけど。……でも1年後……正式に冒険者になった時……会いに行ってもいいかな……?」


 一転、目を逸らして頬を赤らめるアルティス。それを見て、クリスもまた頬を染める。


「うん……また会おうね。約束だよ」

「分かった」


 二人は微笑み合いながら、優しく、しかし力強く握手を交わした。

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