第4話『クリス・レート』

 7月15日20時3分。


 レート家の大きな扉が開いた。屋敷に入ってくるのは金髪を短めに切り揃え、厳かな顔つきの男性だ。夜遅いというのに皺のほとんどない正装を纏うのは、レート家現当主リーベ・レートである。


 リーベは屋敷へ入り扉を閉めると、疲れを含んだ息を吐き出した。


 と、そこで玄関ロビーに一人のメイドが通りかかった。メイドはエーミール学院の制服を手に、パタパタと急いでいるようだった。


「おかえりなさいませ、リーベ様」

「ああ、ただいま。その服は?」

「クリス様が学校行事で傷つけてしまったようで……」

「……魔法祭か……クリスに怪我は?」

「どうやらお友達に治癒してもらったようで、擦り傷一つありませんでした」

「ならよかった……あぁ、疲れた……まずは風呂に入ろう……」


 貴族ばかりが住まう街トゥエフ。その中でもトップツーの家系がエーアトヌス家とレート家である。


 エーアトヌス家はトゥエフの南端に屋敷を構える、世界的にも有名な大富豪だ。1000年以上前から続く商会の会長を代々務めている家系で、この国及びその周辺の飲食店、武器屋等はほぼ全てエーアトヌス商会から商品を取り寄せている。


 レート家の屋敷はトゥエフの北端に位置していおり、主にこの国の不動産を取り仕切っている。利益より顧客を優先していることや歴史が浅いこと、小さな村の物件まで取り扱っており調査に時間がかかることなどを理由に、エーアトヌス家に次ぐ二番手に留まっているが、いずれは彼の家を凌ぐ富豪になると言われている。


 レート家……レート不動産は貴族からも庶民からも信用されており、従業員をどれだけ雇っても仕事が尽きない。長であるリーベの仕事量はそれはもう大変で、家族との時間が短くなってしまっている。


 一日の疲れをできる限り風呂で洗い流し、どこか物悲しい気持ちになりながら、リーベは風呂から上がった。


 メイドに食事のお願いをし、食堂へ向かう道すがら。


 廊下でクリスと出会った。


「あ、お父様。おかえりなさい」

「ただいま、クリス。……魔法祭、服がかなり汚れたそうだが、怪我はないか?」


 そう問うと、クリスは僅かに目線を伏せた。


「……うん。友達に治してもらったから」

「……そうか、よかった。……で、結果はどうだった?」


 クリスはまたも顔を伏せた。しかしすぐに顔を上げる。そこには、何かを諦めたような、悟ったような表情が浮かんでいた。


「……失格だったわ。それも一回戦で」

「……失格……?」

「『過度な校舎の破壊は失格とみなす』ってちゃんと定められてたわ。……やったのは私じゃないけど……さすがに岩で廊下塞いだり、窓とか壁とか沢山壊したりするのはダメだったみたい」

「……」


 困惑、驚愕、心配、様々な感情が入り乱れる表情を浮かべるリーベ。


 が、クリスが僅かに口の端を持ち上げるのを目にする。意外性にリーベが目を見開くと同時に、クリスは小さく、しかし本心と分かる声で呟いた。


「……けど……楽しかった」


 思い出を噛み締め、心の底から幸せだと思っている様子だった。


 リーベは不思議な感覚に囚われる。まるで人の心に深く入り込んだような、大切なものを分け与えられたような、何とも言えない温かな感覚。


 それが何故なのか、リーベには分からなかった。しかしそれがクリスの言葉によるものだというのは疑いようがない。


 リーベは少し間を置き、振り返った。


「……そうか……よかったな」


 そして、確かな声色でそう告げた。


 クリスは驚いた様子で顔を上げ、次いで抑えられない笑みが溢れていく。


「……うん……!」









 足元に転がる猛獣の死体。手、足、腹、胸、体の前面が血に塗れている。右手にはまだ奴を殴った時の感触がこびりつき、耳からは死に瀕した生き物の悍ましい悲鳴が離れない。


 しかし、不思議と恐怖や嫌悪は無い。


 何故ならば、一人の人間の命を救うことができたから。


 猛獣の死体から視線を上げれば、一人の少女が目に入る。左の足首には何かに噛みつかれたような後があり、顔には恐怖の表情が張り付いている。


「……もう大丈夫。安心して」


 そう少女に声をかける。


 そして彼女の元へと一歩踏み出した、その瞬間。


「……いや……‼︎ こないで‼︎ 化け物‼︎」


 そう叫び、涙を溢れさせる少女の……自らを拒絶する目を見てしまった。


 その瞬間、眼前の景色は明度を落としていく。視覚が不明瞭になり、体には不思議な感覚が満ちていく。


 やがて視界は暗闇に染まり、自分の周りに熱を感じ始め……アルティス・ガパオは夢から覚めた。


「……ハア……ハア……ハア……‼︎」


 目覚めたばかりだというのに息が荒い。額には不気味な脂汗が浮かび、体が熱い。


「……最近は思い出さなかったのに……クソッ……」


 それは遠くない過去の記憶。彼が人と関わることに嫌悪……否、恐怖するようになった原因。


 それと同時に、クリスを特別視するようになったきっかけでもある。


 それが良いことなのか、悪いことなのかは分からないが……今の彼にとって、あの記憶は忌まわしきものであることは事実だろう。


 最悪の目覚めに気分を悪くしながら、アルティスは学校へと向かった。


 7月18日。魔法祭の振り返り休日兼傷ついた校舎の修繕のため、全学年の魔法祭が終了した翌日の17日の学校は休み。さらに一夜明けたその日は、アルティスの沈んだ心情とは裏腹に雲一つ無い快晴であった。


 エーミール学院の校門は今日も希望ある若人を通し、未来を育んでいく。まだ筋肉痛の癒えきっていない上級生……そして俯いたアルティスの横を、下級生が元気に駆けていく。


 下級生のよく通る声すら遠くでぼんやりと響くにすぎないほど、意識が判然としないアルティス。


 苦しそうな表情でアルティスが校門を抜けた……その時。


「おはよう、アルティス・ガパオ」


 という、比較的聞き慣れた女子の声が聞こえてきた。


 顔を上げ横を見れば、艶のある黒髪を背中まで垂らした女子生徒、マフィ・マカロフが横を歩いていた。


 アルティスより背が高く、必然的に見下ろす体勢になり、その顔に浮かぶ笑みがなんとも癪に触る……と、普段のアルティスなら思っているだろう。


 しかし、今のアルティスはそんな感情を抱くこともできず、ただ口から力無い声を漏らすことしかできなかった。


「……あぁ……うん、おはよう……」

「あら、元気無いわね。この間の身のこなしはどうしたのかしら?」

「……いや……少し、嫌なことを思い出した……ずっと忘れてた分、反動が大きくて……。……それより、なんで僕に挨拶を?」

「あら失礼ね。人と会ったらまず挨拶でしょう。……ま、少し言いたいことがあるのよ。……魔法祭であなたに諭されてから、クリスがよく笑うようになったの。前までなら観戦してる時も、ずっと分析とかをしてたと思うわ。けどあの日は、笑顔で他のチームを応援してた。あなたのおかげで、クリスは変われたのよ。……まあだから、一言言わせてもらうわ」


 そこでマフィの笑顔は、どこかニヤリとしたものに変化した。


「……中々やるじゃない」

「……そりゃありがとう」


 アルティスはその言葉が、マフィにとっての最大級の賛辞であるとすぐに理解した。そしてそのどこか物腰柔らかくなったようなマフィの言葉に、小さく息を吐く。


 やはりどれだけプライドが高くても、平民より優れた教育を受けた貴族の出だ。意固地に他人を認めないような頑固者ではないようだ。


 しかし人との距離が近づけば近づくほど、それを失った際の悲しみは増大する。ましてや友情を感じていた相手がこちらを恐怖し、嫌悪し、否定し、拒絶するようなことがあれば……


 “あの時”のようなことが再び起こったら……


 アルティスの思考が今朝と同様、恐怖に埋め尽くされようとしていた……瞬間。


「……二人ってそんなに仲良かったかしら……?」


 背後からまたもや女子の声が聞こえてきた。振り返ればジト目をアルティスとマフィに向けるクリスがいた。


「あら、おはようツンデレお嬢」

「だ、だからツンデレじゃない!」


 マフィの言葉を顔を赤くしながら否定するクリス。その様子を見て、アルティスに儚げな笑みが浮かぶ。


「じゃ、私は先に行くわね〜。お二人は仲良く喋ってて〜」

「あ、待ってマフィ! ちょうど用があったのよ」

「用?」


 クリスは鞄から、4枚の厚紙を取り出した。それには姫や王子のような服装の二人組、ドラゴン、仲睦まじい夫婦などの絵が描かれており、「劇団リヴンデーベ」と大きく書かれていた。


「今度リヴンデーベがトゥエフで公演をするの。魔法祭の四人でと思ったんだけど……どうかしら?」

「あら、本当? ちなみに演目は?」

「勇者と魔王、力の排斥、廻る運命、絆と次元の四つよ」

「いいわね、廻る運命は元の小説しか読んで無いから、演劇も見てみたいわ」

「待って二人が何言ってるか全く分からないんだけど」


 突然自分達しか分からない話を展開したクリスとマフィに、アルティスは顔を引き攣らせた。


 クリスとマフィは苦笑を浮かべ、アルティスに厚紙を一枚渡しながら説明を始める。


「リヴンデーベは何十年も続く大きな劇団よ。北の村から始まった劇団なんだけど、音楽や演技がどれも素晴らしくて今じゃ貴族も好む大組織よ」

「ふ〜ん。これはその劇団のチケットか」

「そ。よかったら皆で行かない?」

「……う〜ん……」


 少し前までのアルティスなら、興味が無いと一蹴していただろう。しかしクリスとの出会いや過ごした時間が、アルティスに心の余裕を生み出していた。それは転じて何かに挑戦しようという気概も作り出す。


 しかしそれでも脳裏に駆ける拭えない過去。


「……いや、僕はいい。行かない」

「え……? どうして……?」

「……」


 疑問顔を浮かべるクリスの顔を、アルティスは見れないでいた。口を結んで俯き、手を握り締める。


 だがクリスは身を屈め、アルティスの顔を覗き込んできた。凛々しく、輝かしい目を携えて。


「……どうしたの? アルティス。随分と暗い顔してるけど」

「え、そ、そうかな-……」

「そうよ。まるで転校したての頃の根暗で卑屈で他人に無関心の捻くれ者みたいな感じよ」

「そんなに言う?」


 苦笑を浮かべるアルティスだが、やはり奥底の暗い雰囲気は取れないままだ。口角は上がっているのに目には力が入っておらず、目線は常に下を向いている。


 そんなアルティスを見て、クリスは口を引き締めた。まるで何か大きなことに挑戦するかのように。


「……マフィ、スネークにチケット一枚渡しておいてくれない?」

「いいわよ。……ふふっ、じゃあ私は先に行くわね〜」


 ヒラヒラと手を振り、マフィは校舎へと向かっていく。その場にはアルティスとクリスの二人だけが残り、校舎へと向かっていく生徒達の背中が奥へ奥へと流れていく。


 クリスは疑問顔を浮かべているアルティスの手を取った。そして笑顔を浮かべながら、学校の外へ向かって引っ張っていく。


「えっ、ちょっとクリス……?」

「……今日、二人で学校サボりましょ!」

「はあ……?」


 アルティス達が暮らす国は地球上で最も大きな大陸であるダイロ大陸に存在している。


 国の名はアトアミナ。直径数キロに及ぶ大きな街が円形に六十個存在し、最も東に位置する街から反時計回りに順番を示す単語を元に名前がつけられている。トゥエフは二十五番目の街だ。


 これら六十個の街は旧都街きゅうとまちと呼ばれ、中心には旧王都が存在する。旧都街が作り出す円の直径は六百キロにも及び、その面積のほとんどを草原が占める。


 故に街の門から外を眺めれば、一面に広がる草花を見ることができる。春や秋といった心地良い気温の時期には、穏やかな風に身を任せるピクニックが盛んに行われる。


 クリスがアルティスを連れてやってきたのはそんな原っぱの片隅だった。クリス等エーミール学院に通う生徒のほとんどが住まうトゥエフの外周だ。


 トゥエフを取り囲む塀に背中を預け、風に触れる草をぼーっと眺める。奥には草を食む動物や、森に併設されたエーミール学院が見える。穏やかな笑みを浮かべるクリスに対し、アルティスはただただ困惑の表情を浮かべていた。


「……あの……」

「ん?」

「……どうしてここに……? 学校をサボってまで……」


 アルティスの問いに、クリスは遠くのエーミール学院に視線を向けた。


「……少し前までの私なら、絶対にこんなことしなかったでしょうね。けどあの時……魔法祭でアルティスに諭されて……多分、心の余裕ができたんだと思う」


 そこで笑みを消し、真剣な表情へと変わったクリス。アルティスの目を見つめ、まるで自分の気持ちを確かめるかのように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「……ずっと一人で苦しんでた私を、アルティスは救ってくれた。……たとえどんなに苦しんでいても、たった一言で救われる人っていると思うの。ただその一言は人によって違っていて……でもアルティスは、私に必要だった『楽しんで』って一言を言ってくれた。……だから、今度は私がアルティスに必要な一言を言ってあげたい」

「……必要な……一言……」

「……私ね、昔からお婿さん候補の人と沢山会ってきたの。色んな人を見てきたから、目の前の人がどんな気持ちなのか分かるようになってきて……今朝のアルティスは、凄く辛そうな顔をしてた。けどそれは多分、私の知らない事情があることもなんとなく分かった……。……ねえアルティス。私に話してくれない? あなたの辛いこと……過去のこと……私は私を救ってくれたアルティスの助けになりたい」


 真っ直ぐアルティスの目を射抜くクリスの視線はとても鋭かった。しかし、そこにアルティスを攻めたり、蔑んだりする様子は微塵も無い。ただ純粋に、真剣に、アルティスを救いたいという想いが強く伝わってくる。


 故に、クリスに背中を預けたくなる。嫌な気持ちを吐露したくなる。


 だが、同時に脳裏に浮かぶ情景は……


「……僕は……でも……っ!」


 アルティスの声は、酷く震えていた。


 それを見ると、クリスは何かを察し再び笑みを浮かべた。塀に背中を預け、空を見上げる。


「……言うのが辛いなら、無理にとは言わないわ。……それに、アルティスだけ過去を話すなんて不公平よね。……私の話、聞いてくれる?」

「……クリスの話……?」

「うん。自分語りになっちゃうけどね。……私の一番古い記憶は、食事のマナーが悪いって、お父様に怒られてる場面。当時……多分四歳とか、五歳とかかな。そこまでキツく言われたわけじゃないけど、声色がしっかりしてて、それが怖くて泣いちゃって……それからは少しお父様が怖くなっちゃったの。けど学校に入ってしばらくした時、職場体験でお父様のレート不動産を見に行って、初めてお父様の働いているところを見て……かっこいいって思った。お客さんに優しく寄り添って、色んな人から頼られて、ずっと誰かと話し合ったり作業してたりして。書類のミスとかも自分で修正しちゃうから、ほとんど休みが無い。だけどお客さんの笑顔を見た時、凄く幸せそうな顔をしてた。そこで私、お父様みたいになりたいって思ったの。……その憧れがいつか、自分を追い詰める使命感に変わってて……多分アルティスに出会ってなかったら、いつか壊れてたかもしれない」


 優しい笑みを浮かべ、言葉を紡ぐクリスの顔を、アルティスは静かに見つめていた。


 その視線にクリスが気づくと、恥ずかしそうに視線を逸らしたが、意を結したようにアルティスの瞳を見つめ返す。


「……じ、自分のことを話すのってなんだか恥ずかしいわね……えっとだからその……ちゃんとお礼が言えてなかったと思うから……」

「……いや、大丈夫だよ」

「え?」


 そこでアルティスは立ち上がった。遠くに鎮座するエーミール学院……否、さらに遠くを、どこか寂しさを感じる瞳で見つめる。


「……僕も、クリスには感謝してるんだ。……クリスはあの時……僕を拒絶しなかったから」

「え……拒絶って……」

「まあ最初はツンケンしてたけどね」

「うぅ……それはごめん……」

「いいんだよ。あの時は僕も……まだ人と関わるのが本当に怖かったから」


 アルティスは目を細め、次いで改めて自分の過去と向かい合うように、瞑目した。


 今でもハッキリと目と耳に残る少女の目と声。自分を拒絶してくるそれらに怯え、ずっと人と仲良くなるのが怖かった。友情を壊されるのが、辛くてたまらないから。


「……昔、仲の良かった子に拒絶されたことがあったんだ。その時の僕を拒絶する目と声が辛くて、トラウマになって……またそれを向けられるんじゃないかって思って、人と関わるのが怖かった。……ごめん、これ以上はやっぱり……話せない……クリスが人を拒絶するわけがないのは分かってるけど……まだ、怖い……もしもクリスがって思うだけで心が苦しくなる……」


 アルティスは振り返り、地面に座っているクリスに手を伸ばした。


 その顔には先程までの苦しそうな、辛そうな表情は無く、ただ真っ直ぐにクリスを見つめる瞳があった。


「……でもクリスには、きっといつか話してもいいって思える気がするよ」


 クリスは少しアルティスの顔を見つめ、やがて静かに頷いた。


「……うん……待ってる」


 クリスは差し出されたアルティスの手を、優しく掴んだ。

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