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「まあ、私は失敗しないんだけどねぇ」
DX大学病院の女性医院長、ミチ・ビッグゲートの口癖である。この女性医院長が、外科医として赴任してきた時からずっと言っていた言葉であった。最初は皆、「なんちゅービックマウスだ!だからビッグゲートって言うんだ!」と意味不明に度肝を抜かれた。当然だが、ビッグマウスとファミリーネームは何の因果もない。が、実際に手術を失敗しないことに、更に度肝を抜かれた。普通、医院長になるには、政治的手腕による根回し、金等々、実力だけではなかなかなれないのだが、この女性医院長はそういったことを嫌い、排除してしまい、完全に実力のみで医院長まで上り詰めた、希代の女性医院長なのであった。もう60になる齢(よわい)ではあるが、今だ美しくも威圧的な大きな目をしており、その目にエバは睨まれていた。ショートヘアーの良く似合う女性であり、立てば女性としては長身ではあるが、今は医院長室の医院長専用の机の向こうで椅子に座っており、エバを上目遣いに睨んでいる格好となる。
「はあ・・・」
エバ・ゲリオは曖昧に返事をした。先ほどの医院長の言葉は、エバがDX大学病院に赴任してきた時から聞かされた言葉であった。もういい加減聞き飽きた、エバは思っていた。手術前だけならともかく、カップラーメンを作る時や、コーヒーを作る時まで言うのだからたまらない。エバがこの医院長と接触する機会はそうないのだが、面談の時などは、開口一番にこの言葉を吐くのであるから、多分誰でもそう思う。しかし、実力は相当に優れているので、誰も彼女に口出しできない。仕事が出来るとは、ある種の権力のようなものである。仕事が出来る人に肩書を与えたら、それはもうその人がその職場の王と言っても過言ではないだろう。彼女はこの病院の女王であった。エバは医院長室で、ミチ・ビッグゲートと対峙していた。
この女王に睨まれると、大抵の人は気後れするのだが、エバはそういう感情が欠けているため、それほど気後れするということはなかった。目の前にいる女王が小者なら、気後れするまで嫌がらせをする等、しょうもないことをエバにしかけただろう。だが、この女王は流石と言うべきで、そんなエバを見ても、ああ、この男はこういうタイプか、と思うだけで、他に特に何かパワハラめいた嫌がらせをするといったことはなかった。度量の広い女王である。
「勤務医の失敗は病院の失敗になるわけ。わかる?」
「ええ、まあ」
その度量の広い女王でも、このエバという勤務医には手を焼いていた。エバがダメ医者だったのではない。むしろエバは医者として優れていた。いや、優れていたというより、異常であった。何しろ、原因不明の難病、という病気まで治してしまうのだから。難しい手術を失敗しないのと、治らないという患者を治してしまうというのは別格である。彼は不治の病まで治してしまうのであった。が、そのことが災いした。
「俺がミスをしたわけではないでしょう・・・」
「ミスみたいなものじゃない、あなたのその性格」
エバは不治の病を治せるが、寿命の人間までは治せない。病気でないものは彼にも治せない。彼には寿命で死ぬ人間のことがわかるので、その人に、
「あなた、もう寿命ですよ。老衰では治りませんよ」
とハッキリと言ってしまう性格なのであった。
「そんな性格だから不定愁訴外来なんかに行かされるのよ・・・」
「ええ、まあ・・・」
不定愁訴外来とは、なんとなく気が重い、よく眠れない等の主観的な自覚症状があるものの、検査をしても原因が特定できないといった状態を見る外来である。軽度の精神科と言えなくもない。主観的な症状であるため見極めが難しいが、ただの仮病である場合もあり、要するに話を聞いてあげる外来という見方もある。手術をする外科医が、話をする外来に回されるとは、要するに左遷のようなものであった。彼の能力と彼の性格が災いし、遺族から数件の苦情が寄せられ、医院長もかばいきれずに、そのようなことになったのである。ところで、彼の性格はともかく、彼の不治の病を治してしまうという能力はどういうことなのか。
「それとあなた、うすうす気づいているのでしょうけど、病院中の噂よ?」
「何がでしょうか?」
「あなた、とぼけてるわねえ・・・」
医院長は溜息をついた。医院長はエバを最初高く買っていた。当然である。失敗しない部下を大層頼もしく思っていたのである。が、エバには出世欲や向上心といったものがなく、どうにもやる気のようなものが見られないため、医院長はエバを腹心の部下にすることをあきらめた。だが不治の病を治せるというのは病院の評判の向上のためには必要不可欠な能力であるため、医院長はエバを野放しに働かせることにした。しかし、不治の病とは、治せないから不治の病なのだが、その不治の病を治せるということに、DX大学病院中の人間から気味悪がられた。そして、いつしか噂が立ったのだ。
「あなた、医者の
「さあ、どうでしょう。自分ではわかりかねますが・・・」
「その能力、もっとうまくやれば、人の役に立つはずなんだけどねえ・・・」
「はあ・・・」
「あたしもね、もう経営者としての顔もあるわけよ。わかる?」
「ええ、まあ」
「私の気持ち、察してくれる?」
「はあ・・・」
この女性医院長が直接的にズバッと言わないとは、よほどのことである。エバはそこまで馬鹿ではないので、医院長が何を言わんとしているかを察していた。アサヒの労働法によれば、よほどの理由がない限り、従業員、病院としては勤務医だが、それなりに功績のある勤務医をそう簡単にクビにすることが出来ない。つまり・・・
「私だって心苦しいのよ?でもね、あなた、ここまでこの病院の評判を貶めているわけよ。責任とれる?私はね、他の勤務医や看護師、その他の人たちの生活も守らなければならないわけよ、わかる?」
エバは溜息を一つついた。嘘のつけない性格は、損をするのだな、と今更ながらに思った。が、仕方がない。実際にそうであることを、知らないフリをして通すことなど、とても出来そうになかった。エバにとって、嘘をついて患者の心を救うより、嘘をついて患者を騙すようなことをすることの方が良心の呵責に耐えられないのであった。ここで働くことに、正直、気詰まりを感じていたのも事実だ。病院と自分、お互いのために、ここですっきりさせよう、そう決意した。
「わかりました。明日、辞表を提出します」
「あら、そう。それは残念だわね。話は終わり。行っていい」
医院長はそれだけ言って、椅子を回転させ後ろを向いた。引き留めるようなことをいっさいやりもせずに、残念ね、などと言えるその肝の太さが、彼女をこの病院の女王たらしめているのかもしれない。出世など俺にできるわけがないな、エバは思うのであった。そもそも出世に興味がないのだが。それにしても、クビならクビと言ってくれればいいものを、そう思いながらエバは再び溜息をつき、医院長室を出るのであった。
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