優しい男
誘拐
「どこにもいませんね……。どうしよう、事故にでもあってたら」
雨の降りしきる中、七瀬を探し歩いていた晶は、不安げにぽつりと呟いた。
「あんまり心配しすぎないほうがいい。もしそうならとっくに電話が掛かってきてるだろう。だからきっと大丈夫だ」
と黒崎は晶を慰めるが、彼女の表情は不安そうに曇ったまま晴れる気配はない。だがそれも仕方のないことだろう。真夜中に素足で傘も刺さずに消えてしまったのだ、不安に思わないほうがおかしい。そして当然それは黒崎も同じで、晶をなんとか安心させようと声をかけたものの、内心は焦りと不安で一杯だった。
とその時、スマホの着信音が鳴り、確認してみると京介からだった。
「もしもし、阿賀波か。どうした?……七瀬の父親が? いや、そんな話は聞いてないが。ああ、わかった、確認してみる。あー、あと。お前達はもう家に帰れ。後は私達だけでなんとかするから。約束だぞ、絶対だからな。ん、じゃあな」
そうして電話を切ると、すぐに、都筑に電話をかけた。
「あー、すいません都筑先生。実は阿賀波から電話がありまして、父親らしき人が七瀬を車に乗せていたらしいのですが……そんな話は聞いてますかね。……なるほど、わかりました。じゃあ、七瀬のお父さんではないんですね。はい、わかりました……いえ。場所は志紀町の河川敷だそうです。はい、あの橋の所です。はい、はい、わかりました。よろしくお願いします」
「あ、あの。七瀬君になにか……」
電話を切ると、晶が震える声で訊ねてきた。
「ああ。どうも知らない男の車に乗ってどこかに行ってしまったらしい。阿賀波は父親かと思ったらしいが、都筑先生に確認したら父親は今一緒にいるらしい。警察には都筑先生の方から連絡してくれるそうだ」
「そ、そんな。どうしよう……どうしよう……」
晶は青ざめ、今にも泣き出しそうな表情で、小刻みに震え始める。
「どうしよう。私がもっとしっかり話を聞いてあげていれば……」
「ほら、落ち着け」
黒崎は晶の頬にそっと触れ、親指で涙を拭う。
「だ、だって」
「気持ちはわかるが、私達がしっかりしないでどうする。警察にも知らせたし、きっと大丈夫だ」
「……はい……」
彼女も、今自分がここで泣いても仕方がないと、焦っている場合ではないと思ったのだろう。
まだ目に涙を浮かべてはいるが、泣きそうになるのをぐっと堪え、真っ直ぐに黒崎の目を見つめた。
彼女か落ち着いてくれたことに安心しほっとする黒崎。だが、その胸中はやはり不安でいっぱいで、それでも自分が弱音を吐くわけにはいかないと、平静を装ってみせたのだ。
「……とりあえず、都筑先生と合流しよう」
「はい、わかりました」
晶は強い眼差しで、しっかりと黒崎の目を見つめ、力強く頷いた。
その頃、七瀬は車の後部座席からぼーっと窓の外を眺めていた。住宅街に並ぶ家々に明かりはなく、自分達以外もう誰も起きていない事を実感させられた。今、自分は、真夜中の外にいるのだ。そう思うだけで、なんだか悪い事をしているようでドキドキしたし、少しだけ大人になったようにも思えた。
「寒くないかい?」
「あ、はい。大丈夫です」
「もうすぐつくからね。あんまり広い家じゃないから期待しないでね」
日藤は笑う。
釣られて七瀬も笑った。
この頃になるともう、七瀬の中に警戒心は全く無かった。日藤は優しい声でずっと、様々な話をしてくれた。自分も子供の頃は親とよく喧嘩したという話、高校生で海外ひとり旅をしたという話、そこで出会った人々との交流、巡った国々で見た美しい景色………それらの話に七瀬は好奇心を刺激された。
「特に印象に残っているのは……そうだね、ベトナムのハロン湾かな。大小二千もの奇岩が海面から伸びていてね、そこをクルーズ船で巡ったんだ。そのうち大きな岩の影から巨大な龍がぬっと姿を表すんじゃないかって、ついそんな事を考えてしまうくらい幻想的で迫力のある場所だったよ。特に夕日が素晴らしくてね、真っ赤な夕日が海面を黄金色に染め上げ、昼間はしっかりとその姿を見せていた岩山達が真っ黒なシルエットとなって静かに夜を待つんだ。あの美しさはテレビやネットの画像だけでは伝えきれないよ。七瀬君、君もいつか、大人になったら行ってみるといい」
「はい、是非! 俺、今まで目の前のことばっかりで世界を旅するなんて考えたこともなかったです。大人になったら、俺もこの目で世界を見てみたいです……」
七瀬はどこかうっとりとした眼差しでそう言った。
「ああ、そうだね。世界は私達が思うよりも広くて、この世の中には君の知らない事が山のようにある。世界を、世間を知るのは少し怖くて、でも、とても楽しいことなんだ。時には薄暗い森を抜けて、時には洞窟をさまよい、そして寄り道をした先で思いもよらない景色に出会うこともある。だから人生は楽しいんだよ」
「そっか……でも、俺は寄り道できるほどの冒険なんてできないと思います。家庭の事情で進路も自由に選べないですし」
「家庭の事情?」
「ええ。妹の世話しなくちゃいけなくて、だから、大学も家から通える距離じゃなきゃだめだって言われまして」
「そうか……それは辛いね。まあでも、冒険はいつでもできるからね。何年後かに、妹さんのお世話が終わってからでも遅くはないよ」
「そう、ですね……」
そう返事をして、ぼんやりと、自分の未来を想像する。妹達が成長して大学に進学する頃、自分は何をしているだろうか?
妹達は自分の夢を叶えるための選択をするだろうし、両親はきっとそれを許すのだろう。そして自分はそんな二人を羨みながら、実家から仕事に向かうのだろう。その頃の自分は何を思い生きているのだろう、まだ夢や希望を持っているのだろうか。
「もうすぐ到着するよ」
「あ、はい」
我に返り、何気なく外を確認してみると、そこが高級住宅街だということに気がついた。さっきまでの庶民的な建物とは違い、普段はあまり見ないような大きな家が、大型犬が走り回れそうなほど広い庭の向こうに鎮座している。そんな家々が続いたかと思うと、今度は、木々に挟まれた小さな林のような道に入っていった。もう該当もなく、車のヘッドライトだけが暗闇を照らし出していた。
一体どこへ行くのだろう?
僅かに不安を感じたその時、再び日藤が口を開いた。
「ごめんね、不安になった? 僕は静かな場所で過ごすのが好きでね、なるべく人気のない場所を選んで家を建てたんだ。お陰で休日はのんびりと過ごすことができているよ。車の音も人の話し声も聞こえない、とても過ごしやすい場所だから、きっと七瀬君も気に入ると思うよ」
「へえ、いいですね。うちなんかずっと妹が騒いでて全然落ち着かないですよ。勉強も邪魔されるし、趣味の絵を描いてたって邪魔されるし……」
「はは、まあ、子供なんてそんなものだよね」
「まあ、そうですけど……」
藍と舞は今どうしているだろうか、ちゃんと眠れているだろうか。
ふと、そんな心配をした。
「さあ、もう時期到着するよ」
そう言われ、七瀬が前方を確認すると、どっしりとした重厚感のある巨大な鉄の門が近づいてくるのが見えた。左右の門柱に取り付けられた豪華な門灯が周囲をぼんやりと照らし出し、まるで自分達の帰りを待っているかのように思えた。
そしてその門の向こうには広い庭が広がり、庭の奥……いや、もしかすると中心かもしれないが、そこに、三角屋根の大きな洋館が佇んでおり、その屋根から伸びた煙突が、レンガ造りの暖炉のあるリビングを想像させてくれる。
豪邸とまではいかない、でも一人で住むには充分な広さの家だ。きっと、もっと広い家を建てることもできただろうが、一人で
「広くないって、真っ赤な嘘じゃないですか」
「ははは。私なんてまだまだだよ、世の中にはもっともっと広い家に住んでいる人もいるんだよ」
「いや、それはそうですけど……充分広いですよ」
「はは、でももう結構古くてね。五年に一回は点検と駆除に来てもらってるんだけど、それでももう結構やられちゃってるみたいなんだよねえ。だからそろそろ建て直そうかなって思ってるんだ」
「へえ。そんなに古いんですか」
「そうだね。もう二十年くらいになるかな。恥ずかしい話だけど、家の中も結構ガタが来ちゃってるんだよね」
日藤はそう言って笑うが、きっとそれは謙遜なのだろうと七瀬は思った。
リモコンで門を開き、ようやく車は敷地に侵入し、どんどん館に近づいて行く。薄暗くてよくわからないが、彼が言うような古さは感じられない。
それから車をガレージに止めると、雨が降り続いているので、ガレージの扉から館に入った。薄暗くて少し埃っぽかったが、不気味さはない。
「お風呂に入ってきなさい。着替えを用意しておくよ」
と日藤は廊下のスイッチを入れる。
ほんのりオレンジがかった光が、まっすぐに長い廊下を照らし出す。少し進んだ場所、左側の壁に、木製の扉が見える。更にその先に行くと右手に正面玄関があり、手前で廊下が左に曲がっているのが見えた。
「や、そこまでは……」
「そのままでは風邪をひいてしまうよ。それに、君だって濡れたままじゃ気持ち悪いだろう。さ、お風呂に案内するよ」
にこっと優しく微笑みながら七瀬の背中に手を回し、お風呂に行くように促す。
七瀬はなんとなく申し訳なかったが、親切心を断るのも気が引けたので、好意に甘えることにした。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「ははは、素直でよろしい」
そうして、日藤に促されるままに風呂へとやってきた七瀬は、雨に濡れて肌に張り付くシャツを引っぺがす用にして脱ぎ捨て、脱衣かごに放り込んだ。そしてズボンを脱ごうとし、ポケットのスマホを思い出して取り出し、そこでようやく、京介や黒崎から着信やメッセージが大量に届いていることに気がついた。
そこでようやく、自分が人に心配と迷惑をかけていることに気が付き、なんだか申し訳ない気持になるのだった。けれど、今まで妹のために様々なことを我慢してきたこと、母親に妹のために夢を諦めろと言われたこと、初恋の相手である晶と黒崎のこと、その他、様々な不満が溢れ出し、まだ素直に連絡する気にはなれなかった。
けれど、シャワーを浴び、しんと静まり返ったお風呂場で膝を抱えてじっとしていると、徐々に、冷静さを取り戻していった。
黒崎への嫉妬、自分が晶にとってはただの一生徒でありただの子供でしかなかったという現実への苛立ち。家族に対する不満や怒り、それをどこかにぶつける術もなく、周りに迷惑をかけまくる形で爆発させてしまった。
冷静になればなるほど自分の子供っぽさが恥ずかしくて、自分のことが嫌になる。
(藍と舞、ちゃんと寝れてるかな……。みんな心配してるのかな。母さん、怒ってるかな。父さん、心配してるかな……。黒崎先生も晶先生も心配してるのかな……。俺、何やってんだろ……)
一言くらい、連絡を入れるべきかもしれない。
やっとそう思い、湯船から出た。すると、
「七瀬君、着替え置いておくね」
扉の向こうから日藤の優しい声が聞こえた。
「あ、はい。ありがとうございます」
風呂場から出ると、バスタオルと、少し大きめの白いパジャマだけが置かれていた。何故かズボンはなかった。
「日藤さん、ズボン忘れたのかな……」
七瀬は特に疑問に思うことはなかった。バスタオルで髪を拭き、ふと、スマホに目を向けると、ちょうどまた誰かからメッセージが届いた所だった。
一応ちゃんと返事した方がいいかもしれない。
風呂に入り少し冷静になった七瀬は、やっと、そう思ったのだった。
メッセージの相手は京介だった。
『七瀬君、今どこにいるの? 誰といるの? みんな心配してるよ? 大丈夫? もしお家に帰り辛いなら僕のうちに来てもいいからね。返事待ってるね』
『心配かけてごめん。ちょっと家で色々あって、なんか全部もうどうでもよくなっちゃって』
『よかった、返事くれて少し安心したよ。しんどい時って誰にでもあるし、みんな怒ってないから心配しないで大丈夫だよ。七瀬君今どこにいるのかな。先生達に会い辛いなら僕が迎えに行くよ』
『ありがとう。でも大丈夫だよ。親切な人が家に連れてってくれたんだ』
『家って、七瀬くんの家?』
『いや。その人の家。なんか、日藤さんっていう、金持ちの男の人。優しそうな人だし、安心していいよ。風呂も貸してくれたんだ』
『実は僕、七瀬君がその人の車に乗る所を見かけたんだ。ねえ、大丈夫? 何もされてない?』
『何もされてないから大丈夫だって。先生達にも伝えといて』
『でも、その人が本当にいい人かどうかなんてわからないよ。お薬飲まされて変なことされる可能性だってあるのに』
『心配し過ぎだよ。とにかく、本当に俺は大丈夫だから。みんなにもそう伝えといて』
そう返すと、七瀬はスマホ画面を閉じて小さくため息をついた。だがすぐにまたメッセージが届き、それが少し鬱陶しく感じた七瀬は無視してスマホをシャツのポケットに突っ込んだ。
そして彼は髪を拭きながら居間へと向かった。広い家だが、事前に場所は教えてもらっていたのですぐに辿り着くことができた。
扉を開けると、赤い革張りのアンティークな安楽椅子に座った日藤がにこりと微笑んで迎えてくれた。床には細かな模様の描かれた美しい絨毯が敷かれ、そこに高級感のある猫足の木製テーブルと安楽椅子が二脚、置かれている。他にもどっしりと重厚感のある木製のキャビネットやシャンデリア、壁に飾られた、恐らく有名な画家のものだろう絵が、七瀬を驚かせた。その部屋はまるで映画のセットのようで、美しくもあったがどこか現実でないようにも思えた。
七瀬の日常にはない、その現実離れした部屋に、彼はただ驚くばかりであった。
日藤に促されて椅子に座ると、非日常的な部屋に少し居心地の悪さを感じ、辺りをキョロキョロ見回してみた。
「そんなに珍しいかい?」
「あ、はい。こういう場所、来たことなくて。日藤さんて本当にお金持ちなんですね」
「別に、そんな大したものじゃないよ。この家は祖父から受け継いだものだし、家具も全部古いものだしね」
「でも社長さんなんでしょう? 凄いですよ」
「そんなたいしたものでもないのだけどね。七瀬君のお父さんは何をしている人なんだい?」
「父は医者です。隣町の総合病院で外科医をしてます」
「なんだ、充分すごいじゃないか。七瀬君も将来は医者になるつもりなのかい?」
「いえ。俺は……俺は……何でしょう。絵を描くのが好きで、将来はそっちで食べていきたいなって思ってます。ただ、具体的に、どういう職業に就きたいかとか、そんなのは全然決まってなくて。美大に進んで絵の勉強をしたいなとは思ってるんですが、なんかこう、漠然としてるんですよ……」
「へえ、いいじゃないか。漠然としていても、今やりたいことが見えているのは素晴らしいことだよ。君はまだ若いんだから、大学で勉強しながら道を探してもいいと思うよ」
「そ、そうですかね」
「ああ、そうだよ。もし全く違う仕事に就いたって、きっと君の経験は無駄にはならないよ。若いうちにやりたいことは何でも経験するべきだと思うね」
「ありがとうございます。へへ……日藤さんみたいな人が親だったらよかったのにな」
「そうかい?」
「うちの母さん、俺が妹の世話するのが当然だと思ってるみたいで。全部妹中心で、俺の話なんて全然聞いてくれないんです」
「なるほどね。それは寂しいね」
「はい……」
「……じゃあ、今夜はお家のことなんて忘れて、私と楽しもうじゃないか」
日藤はにっこりと笑う。
「そうですね。たまには家のこと忘れてもいいですよね……?」
「ああ、そうだとも。何もかも、忘れて構わないんだよ」
日藤の視線が、ゆっくりと七瀬の脚へと移動する。
七瀬はそれに気づき、落ち着かない様子で脚をもじもじさせた。
「……ですよね。ありがとうございます」
と七瀬はジュースを一口飲もうとして、手を止めた。
「どうしたんだい? 遠慮しなくていいんだよ」
「あ、いえ。トイレに行きたくなっちゃって……」
「ああ、そういうことか。いいよ、案内しよう」
「ありがとうございます」
「そうだ。後で私の部屋に来ないかい? 面白いものを見せてあげるよ」
「なんですか?」
「それは後のお楽しみだよ」
「あ、でも俺、もう眠くて」
「……大丈夫だよ、すぐに終わることだから。それじゃ、行こうか」
「は、はい」
そうして七瀬は日藤に案内されてトイレに向かった。
笑顔でお礼を言うと、パタンと扉を閉め、そして、扉に背中を預けてズルズルとしゃがみこんで膝を抱えるのだった。
(もしかして俺、今、とんでもないことしてないか……? ズボン用意されてないし、あの飲み物だってもしかしたら何か薬が……いや、日藤さんに限ってそれはないだろ……けど……)
薬を飲まされて変なことされる可能性もあるよ
京介のメッセージが頭を過る。
日藤はきっと優しい男だ。だが、自分は彼の何を知っている? なぜ、優しい男だと断言できる?
日藤は笑顔で話をしていた。だが、彼のその目が、晶や京介達の笑顔とはどこか異なることに彼は気がついていた。彼の視線はどこかねっとりと足に絡みつき、ただ見られているだけなのに、その場から逃げ出したくなるような気味の悪さを感じた……けれど、七瀬はそれを気のせいだと言い聞かせた。だが、京介の言葉が頭の片隅から離れず、恐怖と不安が少しずつ大きく広がっていったのだった。
(いや、気のせいだろ……気のせいに決まってる……)
必死に自分に言い聞かせるが、不安が消えることはない。すると、突然扉がノックされ、七瀬は驚いてビクッと肩を震わせた。
「大丈夫かい、七瀬君?」
「あ、は、はい! すいません、もう出ます!」
七瀬は慌ててトイレを流すと、一度深く深呼吸してから、ゆっくりと扉を開けた。と、すぐに、日藤に腕を掴まれた。
「え……」
「さあ、私の部屋に行こうか」
「あ、あの。俺やっぱり家に帰り……」
「だめだよ、夜も遅いし危険だ。それに雨も降っているよ」
「あ、じゃあせめて電話を……」
「……そうだね。じゃあ、僕から電話するからスマホを貸してくれるかい?」
「あ、いや、やっぱりいいです!」
もしスマホが日藤の手に渡ってしまえば、本当に何かあった時に助けを呼べなくなる。そう思った七瀬は咄嗟に胸ポケットのスマホを押さえた。
「そうかい? それじゃあ、こっちにいらっしゃい」
「……」
(大丈夫、だよな? 日藤さんはそんな人じゃないよな……?)
逃げる勇気がなく従うしかなかった七瀬は、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせた。本当は不安でいっぱいだったが、逃げることもできない今、自分を安心させるためにそうするしかなかったのだ。
そうして薄暗い階段をのぼり、長い廊下の突き当りにたる日藤の部屋へと案内された。そこは先程の居間とは違い、十畳程の狭い部屋だった。もちろん普通のひとり暮らしならさほど狭くはないし、むしろ充分な広さがあるのかもしれない。だがこの広い家の中に存在するにはあまりに不自然で、これを寝室とするにも違和感があった。
「さあ、こっちへ」
腰に手を回され、簡素な木製ベッドに促される。しかし、恐怖と不安に無意識に体が拒否反応を示し、抵抗してその場から動こうとしなかった。が、中は強引に背中を押され、仕方なく、ベッドに腰掛けることになった。
不安げに部屋を見回し、そこで、彼はいくつかの違和感に気づく。
部屋には小さな窓が一つだけ。しかもそこには何故か、鉄の格子がはめ込まれており、窓から外に出られなくなっている。そして彼が今座っているベッドは、金持ちが使うとは思えない、寝心地などまるで気にしていないように固く、スプリングもなにもない木材の上に薄い布団を置いただけのような簡素なものだった。恐らくそれはベッドの体をとっただけの、寝ること以外を目的とした何かなのかもしれない。そして彼が最も気になったのは、ベッドの横に置かれたチェストだ。それも飾り気のないシンプルな木製の物なのだが、その側面に引っかき傷のようなものがついている。それだけではなく、わずかに、何か液体を拭き取ったような染みが付着しており、ここで誰かが激しく暴れたことを示唆しているようだった。
そしてゆっくりと視線を横にずらせば、枕元の壁にも凹みと何かがぶつかったような傷跡が見える。
ここは、日藤の寝室なんかではない。
明らかに、別の目的で作られた部屋だ。
「あ、あの……この部屋、なんか殺風景ですね?」
「んー? そうかい? ……まあ、ここは、私の遊び場だからね」
そう言いながら、日藤はチェストの引き出しを開ける。
「遊び場、ですか?」
「そう。君のお陰で今日は久しぶりに楽しい夜になりそうだよ」
まるでハンカチでも取り出すような簡単な仕草で、鈍く光る手錠を取り出した。それは随分と使い込まれているようで、細かな傷や欠けが目立ち、何人もの人間がソイツに囚われてきたのだろうことがわかる。
「君、あのジュース飲まなかったよね。せっかく準備してあげたのに。……まあ、でも、たまにはこういうのも悪くないか」
日藤は変わらぬ笑顔で当たり前のように七瀬の腕を掴んだ。思わず腕を引く七瀬だったが、あっさりと引き戻され、右手に手錠をかけられてしまう。
「っ……やめっ……」
「ははは、さすが若いね。元気があってよろしい」
日藤は笑顔を貼り付けたまま、まるで他愛もない会話をするように続ける。七瀬はそれがたまらなく恐ろしく、逃げ出したい気持ちはあるのに体が硬直して動かなかった。と、そんな彼を、日藤は強引に押し倒し、そして、もう片方の手にも手錠をかけてしまう。
「や、やめろっ……何するつもりだ!」
なんとか抵抗しようと、必死に叫ぶ。
だがそんな彼を黙らせようとするように、日藤が彼の顔の真横に激しく手をついた。その勢いと、そして、笑顔を貼り付けたままの日藤が眼前に迫り、彼は再び恐怖に声も出せなくなるのだった。
「安心して。いつもはきちんと対価を払っているんだよ。対価を払った上で、遊びに付き合ってもらってるんだ。けど、時々、無性に、一方的に、君みたいな可愛い少年を甚振りたくなる時があるんだよ」
「あ、あのジュース……やっぱり……」
「君は賢い子だね。そうだよ、あれは睡眠薬入りのオレンジジュースさ」
「す、睡眠薬っ……」
「惜しかったなあ。あともう少しだったのに。まさか警戒されるとはねえ」
そう言いながら、日藤は七瀬の太ももを愛おしそうに撫で回す。
「や、やめてください! もし変なことしたら警察に言いますよ!」
「僕が無策でこんなことをすると思うかい?」
「え……」
「どうして今まで僕の遊びがバレなかったと思う? それはね、一部始終、ぜーんぶ記録しているからだよ。もし、誰かに話しでもしてご覧? 君の痴態は一瞬でネットの海に晒されて、僕のお仲間が【餌】を求めて群がってくるよ」
七瀬は慌てて部屋を見回す。だが、カメラらしきものは見当たらない。しかし日藤が嘘をついているようにも思えず、七瀬は震えながら部屋中に視線を巡らせた。
「あはは、無駄だよ、そんな簡単に見つかるようなものじゃないからね」
子供のイタズラを窘めるように困った顔を見せながら、優しくぽんぽんと頭を撫でる日藤。
まるで自分のしていることが何でもないことだとも言うような彼の態度に、七瀬はゾッとした。
「安心しなさい。君がいい子にしていれば、僕は君の人生を壊そうとなんてしないから」
出会った時と同じ優しい日藤の微笑みが、今はただただ悪魔のように恐ろしい。
逃げなければ。
でも、どうやって?
考えている間に日藤が首時に顔を埋め、強く痕をつけてくる。まるで、自分の所有物に印をつけようとするような強引なその行為に腹が立ち、七瀬は「やめろ!」と足をバタつかせて暴れた。だがあっさりと脚を押さえつけられ、ならばと上半身をよじって逃れようと試みる。だが手を拘束された状態では上手く抵抗できず、そうしているうちに手を頭上でベッドに押し付けられ、シャツのボタンを外され、ねっとりとした動きで肌を舐めまわされる。
(きっ……持ち悪いっ……! 俺、このままコイツに……)
好きなことから目を逸らして、妹の世話をして、好きなことも夢も否定されて、自業自得とはいえ挙げ句の果てにこんな男に人生を潰される……
なんで、自分がこんな目に合わなければならないのか。自分の人生は一体何なのか。
ふつふつと、怒りと悔しさが込み上げて来る。
日藤は七瀬の若く未熟な体を愛おしむように口づけを落としながら、右手で強引に脚を開かせる。
気持ち悪いくらいしつこく肌に吸い付く口付けに絶望しながらも、七瀬の中で怒りと悔しさがどんどんと膨らんでいった。
(ふざけんな……こんなやつに俺の人生潰されんのかよっ……)
諦めかけたその時。七瀬の脳裏に、藍と舞の姿が蘇った。そして、京介達、黒崎、そして晶───
「っ……黒崎先生っ…………!」
(嫌だ。俺は、俺はっ……俺はまだ、自分の人生を諦めたくなんかない……!)
「……っざけんな! 俺は、お前なんかに人生潰されたくないんだよ!」
七瀬は叫び、両手が使えないので腹筋の力だけで起き上がり、そして、きつく両手の指を組み、渾身の力でそれを日藤の脳天に叩き込む――――日藤は苦しげに叫び、やっと七瀬から体を離した。その一瞬の隙に彼の顔面を蹴り飛ばし、怯んだ隙にベッドを飛び降りた。
焦りながらドアノブを何度も回し、鍵がかかっていることに気が付き、震える指で何とか鍵を回すと両手でドアノブを回し、なんとか少しだけ扉の隙間が開くと一気に足で開き、廊下に飛び出した。
幸いなことに廊下は灯りがついたままになっていた。
七瀬は階段を駆け下り、最後の五段程を飛び降り、何度も躓きながら玄関を目指した。
だが。ようやく辿り着いたものの、ドアノブを回しても扉は開かない。彼が冷静であれば、鍵がかかっているのだと気づけただろう。だが今の彼に、それをすぐに判断できるだけの余裕はなかったのだ。
鍵が掛かっていると気づいたのは、何度も乱暴にドアノブを回してからのことだった。ほ
やっと鍵が閉まっていることに思い至り、鍵を回そうとする。だがそこには、通常ならばあるはずの内鍵がなく、代わりに鍵穴があった。
「な、中からも鍵かけてんのかよっ……」
ならば窓から、と窓に駆け寄るが、そこははめ込み窓になっており開けることは不可能だった。開かないなら割るしかない、と手錠の掛けられた両手で力任せに叩くが、びくともしない。どうやら防犯ガラスがはめ込まれているらしい。
なんとか逃げ出さなければ。
逃げ道を探して辺りを見回していると、階段の上から、ギシギシと床のきしむ音が聞こえてきた。その音は、一歩一歩確実にこちらに向かって近づいてきている……
七瀬は咄嗟に逃げ出し、がむしゃらに廊下を走った。
一階は灯りが消されており殆ど前が見えず、いつ何にぶつかるかもわからなかったが、それでも彼の中に立ち止まるという選択肢はなかった。一瞬でも足を止めれば追いつかれてしまうんじゃないかと、そんな恐怖だけが彼を動かしていた。
そしてとうとう壁に激突し、廊下に倒れ込む。
痛みよりも、バン、という大きな音を立ててしまった事に焦り、壁に見を預けてなんとか立ち上がると、そのまま右側に向かって壁伝いに歩きだす。すると、胸ポケットに入れていたスマホがピコンという通知音と共に灯り、慌てて手で押さえて光を塞いだ。息を殺し、耳を澄ませ、相手の足音がまだ遠くにあるのを確認すると、そっと手を離してスマホを取り出した。薄ぼんやりと廊下が照らされ、5mほど先に地下へと続く階段が見えた。
他に道はないか?
辺りを見回すもそこにはもう窓もなく、部屋の扉もなく、壁だけが続いていた。
左へ曲がる道もなく、引き返せば確実に捕まる。
もはや残された選択肢は一つしかなかった。
七瀬は足音を忍ばせながら、震える足で地下へ続く階段へと向かうのだった。
彼女は甘やかしたい~トップアイドルとひとつ屋根の下で暮らすことになったけど二人の関係は秘密です~ 大海原ララバイ @darumesio
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