雨の中で

出会い


 大雨の中、裸足で家を飛び出して、どこへ行くというわけでもなくひたすらに走り続けてみた。それは大人へのちょっとした反抗のつもりだった。

 何もかも嫌になって、どうでもよくなって、八つ当たりするように、大人に反抗してみせて。それからどうするかなんて、一つも考えていない。

 いや、どうにもならなくていいのかもしれない。

 このまま消えてしまったって、死んでしまったって、別に構わない気がした。むしろその方が楽なんじゃないだろうか?

 そんなことを考えているうちに、気がつくと河川敷に立っていた。川べりに立ち、ごうごうと激しく唸りを上げて流れる増水した川を覗き込んだ。

 これからどうしよう?

 川べりに釣っ立ったまま、七瀬はようやく、これから先のことを考えた。


 とりあえず雨宿りをしよう、と高架下に移動し、コンクリートに背中を預けて座り込んだ。


 ぼんやりと思い出すのは黒崎と過ごした時間。黒崎は、空いた時間を使い、美術部に入れない七瀬の絵を見てくれて、指導をしてくれた。

 他愛もない話をしながら絵を描く、そんな時間が何より楽しかった。家にいたって妹の世話ばかりで、何かあれば妹のことで母親に小言を言われ、自由に絵を描くこともできず、きっともうこの先絵を描くことなんてできないと思っていた七瀬には夢のような時間だった。

 晶との関係が気になりはしたが、どこかで、ただの気のせいだと思うようにしていた。自分に言い聞かせて、この楽しい時間が失われてしまわないようにしていた。

 でも、結局、二人の特別な関係を目の当たりにすることになった。特別な関係ではないと言っていたのに、膝枕をしたり指を絡めたり、誰がどう見ても、ただの友達や同僚なんかではない。

 そんなことをもやもやと考えていると、


「君、大丈夫かい?」


 ふいに、声をかけられた。

 こんな時間に誰かに声を掛けられるとは思っていなかった七瀬は飛び上がりそうな程驚いて肩を震わせた。だが特に警戒することもなく声の方に顔を向けるのだった。

 そこには40代後半くらいの、細身で長身の優しそうな男が立っていた。整った顔をしたその男は皺ひとつない高級そうなスーツに身を包んでおり、その見た目と落ち着いた佇まいからは清潔感と気品さが漂っていた。そこに怪しさは一切なく、逆に、不思議と安心感を覚え、一切の警戒心を抱くことはなかった。


「あ、いや…………えっと」

「ああ、すまない。驚かせてしまったね。私の名前は日藤優弥。ただの会社員だよ」


 そう言って日藤は七瀬の前にしゃがむと、胸ポケットから名刺を取り出して彼に差し出した。  

 七瀬は差し出された名刺を受け取ると、なんとなく、日藤の肩書を確認した。


「って、サンライトコーポレーション社長っ? しゃ、社長さんなんですかっ?」

「あはは。社長と言ってもそんな立派な会社じゃあないよ。世間ではあまり知られてないだろうからね」

「や、でも……」


 七瀬はチラリと、堤防上の道路に止められた、いかにも高級そうな黒い車に目を向ける。その車には七瀬でも見たことのある高級車のエムブレムが輝いており、彼の言葉が謙遜であることを示していた。

       

「ところでこんな時間にどうしたのかな? 親御さんと喧嘩でもしたかな?」

「あ……えっと、まあ、そんな感じです……」

「あはは、なるほど。僕も昔、親と喧嘩して着の身着のまま飛び出したことがあるよ。懐かしいね。よかったら、うちに来るかい? そんなずぶ濡れだと風邪をひいてしまうよ」

「あ、いえ、大丈夫です。ご迷惑をおかけするわけにはいきませんし」

「遠慮しなくても大丈夫だよ。それに、こんな状態の子供をこのまま置いていけはしないよ。とりあえず一旦うちに来なさい」

「でも……」

「あはは。私は若い頃から仕事ばかりしていてね、恋愛もあまりしてこなかったんだ。だから今も独り身なのさ。だから何も遠慮はいらないし気を使う必要もないんだよ。あそこに車を止めてあるから、さあ、行こう」


 そう言うと日藤はそっと優しく七瀬の肩に触れた。

 一瞬、七瀬は躊躇った。悪い人ではなさそうだが、でも、知らない人にホイホイついていくものではないだろうと。だが彼は、ふと、黒崎の昔話を思い出したのだ。


 夜中に家を抜け出して、そこで知り合った美術教師のお陰で夢を見つけたという話を。だから、七瀬は思った。もしかしたら、この人も、その美術教師と同じように親切な人なのかもしれないと。もしかしたら、自分に何かを与えてくれる存在なのかもしれないと。そんな期待をした。


「ほ、本当にいいんですか? 俺、だいぶ濡れてますけど」

「そんなこと気にしなくても大丈夫だよ。それに僕の車はもうだいぶ古くてね、そろそろ買い換えようかと思ってたところなんだ」


 たぶんそれは七瀬に気を使わせないための作り話なのだろう。暗くてよく見えないが、そんなに古い車のようには見えない。むしろ高級感の漂う美しい車のように見える。

 この人はきっと、とても優しい人なのだろう。喋り方や言葉の端々からそれが伝わってくる。


「さあ、行こう」

「……わかりました。ありがとうございます」


 七瀬は少しだけ安心したような笑みを浮かべた。そして日藤に手を引かれて車に乗り込んだ。


 だが、その時、それを、少し離れた場所で京介と時生が見ていた。


「あれ、七瀬君だよね? 今の人、お父さんかな」


 京介は少し安堵したような表情を見せる。

 

「もしかしたら迎えに来てくれたのかな」

「そっか。そうだよね、ああよかった」

「でももしお父さんじゃなかったらどうしよう。もしかして誘拐、とか」

「いやまさか。七瀬君を誘拐なんかするはず……」

 

 言いかけたが、京介は、少し不安になった。もしかして先程の男が父親ではなかったら?身代金目当ての誘拐だったら? いや、もしかしたら、少年を狙った性犯罪者の可能性もあるかもしれない……


 二人は不安になり!顔を見合わせた。

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