逃亡



 黒崎に促され、七瀬は席に着いた。

 七瀬の隣に黒崎、黒崎の前に晶という並びだ。


「遠慮なくたくさん食べてね。おかわりもあるからね」


 食卓の上には美味しそうなデミグラスハンバーグ、付け合せとしてレタスの上にポテトサラダ、そしてトマトが添えられている。


「……いただきます……」


 七瀬はきちんと手を合わせた。

 そして、まず、ポテトサラダを一口食べてみた。

 

「んっ……美味しいっ……」

「わあ、嬉しい。ありがとう。黒崎先生も大好きなんだよー、そのポテトサラダ」

「だから別に……普通だ」


 黒崎は眉間にシワを寄せる。

 どうやら照れているようだ。


「そうなんですか……」

「七瀬君は何か好きな食べ物ある?」

「え……俺ですか。そうですね」


 と七瀬は少し考えてから、


「そういえば俺。誰かの作った料理を食べるの、めちゃくちゃ久しぶりです。もう何年も自分で料理作ってたので」

「そっかあ。じゃあ、今日はお腹いっぱいになるまで食べちゃおっか! おかわりもあるし、デザートにみかんゼリーもあるよ?」

「あ、ありがとうございます」

「ねえ、七瀬君。もしお家に帰りづらかったら、落ち着くまで家にいていいからね」

「えっ……」

「黒崎先生、いいですか?」

「ああ、私は構わんよ。というかここは晶の家だからな、私が反対する権利なんてないよ」

「だって。よかったね、七瀬君」

「や、でも迷惑じゃ」

「ううん、全然迷惑なんかじゃないよ」

「晶は落ちてる人間を拾う癖があるんだ。だから気にしなくていいぞ」

「ひ、人聞きの悪いこと言わないでくださいよう!」

「私のことを拾っただろう。危うく浜沼先生のことも拾うところだったじゃないか」

「浜沼先生のことは絶対に拾わないので大丈夫ですよっ」

「冗談だ。ああ、そうだ七瀬。お前のことは都筑先生に報告して親御さんに連絡してもらったから、安心していいぞ」

「……」


 七瀬は箸を咥えたまま、俯いて黙り込んでしまった。


「どうした?」

「や……母さん、別に心配なんてしてないんだろうなって。妹の世話ほっぽりだして家飛び出したこと怒ってる気がする……」


 落ち込む七瀬を見て、二人は心配そうに顔を見合わせる。


「都筑先生が言ってたが、お母さん、だいぶ心配してたらしいぞ。安心して少し泣いてたらしい」

「そうなんですか……?」

「ああ。だから心配しなくていいと思うぞ」

「そうだよ、七瀬君。だから今は、おうちのこと忘れてゆっくり休んじゃお? あ、そうだ。七瀬君、後でゲームしない?」


 晶が提案する。

   

「ゲーム、ですか?」

「うん。この間ね、面白いゲーム買ったんだよ。みんなで協力しながら雲の王国を冒険するの。アクションゲームだよ」

「へえ、アクションゲーム好きなんですね」

「えへへ、下手の横好きってやつだけどね。黒崎先生はね、すっごく上手なんだよ?」

「晶が下手過ぎるんだろう」

「酷いですう! そんなことありませんっ」

「よし、じゃあ後で七瀬に判断してもらおう」

「七瀬君! 私、下手じゃないからねっ?」

「さっき下手の横好きって言ってませんでしたっけ」

「気のせい!」

「七瀬。気をつけるんだぞ」

「気をつけるって、何にです?」 


 黒先の言っている意味がわからず、七瀬はキョトンとした。だが彼は、すぐに、その答えの意味を知ることとなるのだった。



 食事を終えると、三人は早速ゲームを始めた。ソファには七瀬と晶が座り、黒崎はアキラに近い方の床に座っている。

 ゲームは雲の王国で行方不明になった親友を助けるため、主人公が仲間と共に冒険するというストーリーで、メルヘンチックな世界観と可愛らしいキャラクターが人気だ。ソロでもプレイできるが、どちらかというとマルチプレイ向きの作品らしい。


「よーし! 見ててね七瀬君、私、そんなに下手じゃないからね」


 しっかりとコントローラーを握った晶が、自信満々に言う。しかし何故か黒崎は彼女から少し距離を取り、彼女を見ようともしない。

 

「は、はい……」


 何か不穏な空気を感じ取った七瀬は、晶から離れたほうがいいかもしれないと思った。しかし……晶の隣から離れるのが惜しいとも感じていた。

 大きめのTシャツの裾からスラリと伸びる脚、そして、柔らかそうで触り心地の良さそうな太腿、ほのかに香る晶の甘い香り……そういう目で見るのは失礼だと思ったが、しかし、そこは思春期の男子である。学校では見れない彼女の無防備な姿に、目眩すら感じてしまうのだった。


(こんな無防備な晶先生二度と見れないかも知れないよな。不安だけど我慢しよう……)


 だが、それが、間違いだった。

 突然、七瀬の顔面に衝撃が走る――――晶の肘鉄が炸裂したのである。

 思わぬ事態に、そして衝撃と激痛に七瀬は仰け反った。


「とう! とりゃ! ふぬううううう!」


 晶はコントローラーを振り回し、下手くそなダンスを披露するかのように暴れ回る。コントローラーを握った状態で腕を上下左右に振り回し、更に立ち上がったかと思うと「とう!」と叫んで後方に弓なりに仰け反り、更には頭を振り回しながら腕をピンと前に突き出して左に半回転・七瀬はそれらの攻撃を必死に交わしながらなんとかソファから逃れて床に座り込み、唖然とした表情を見せる。


「な? だから言っただろう、気をつけろと」

「いや、いやいやいや! 下手どころの話じゃないですよっ? 毎回こうなんですかっ?」

「ああ。だから晶の隣でゲームをする時は死を覚悟しないといけないんだ」

「怖すぎます!」


 と七瀬が悲鳴をあげると、


「ごめんね、七瀬君。私本当下手だよね」


 激しい運動で上気した顔、そして乱れた呼吸、汗ばんだ項に絡みつく長い髪……それらが、異様に艶かしく感じられ、七瀬は思わず息を呑んだ。そして、意志とは裏腹に、どんどん自分の顔が熱くなっていくのがわかった。


「あ、いや、あの、えっと……」

「あれっ? 七瀬君、顔赤いよっ? もしかして熱出ちゃった?」


 晶がパッと近づいて、七瀬の頬におでこを当てる。

 想い人の顔が至近距離にあり、吐息まで感じられてしまい、七瀬はもう、気を失いそうだった。


「あっ……あの、あのっ……」

「晶。前も言っただろう、その熱の測り方はやめろと。余計に顔が熱くなるんだよ」

「えっ! あ、すいませんっ」


 晶は慌てて七瀬から離れた。


「七瀬、大丈夫か?」

「ふぁい……」

「どうしよう。もうゲームやめて寝よっか?」

「い、いえっ! 大丈夫です、遊びたいです!」

「そう? 無理しないでね?」

「はい、大丈夫です!」


 勢い良く叫ぶように返事をし、ソファには戻らず床に座ることにした。床と言ってもフローリングではなく、毛足の長いラグマットが敷いてあるので、座っても足が痛くならなさそうだ。


 そうして三人は、2時間ほどゲームに興じ、気がつけば時刻は23時を周っていた。

 普段この時間でもそんなに眠くならない七瀬も、さすがに今日は色々あったせいか眠気を感じ始め、晶がソファで暴れているのも構わずうとうとし始めた。

 そしてとうとう、気がつくと、彼は夢の中へと誘われるのだった。


「ん? なんだ、寝てしまったのか」


 七瀬が眠っていることに気が付き、黒崎はコントローラーを置いて立ち上がった。


「ふぇっ? あ、本当だ」

「ベットに寝かせてくる」


 黒崎はそう言うと、座ったままの七瀬を起こしなんとかて立ち上がらせ、ほぼ眠った状態の彼を横抱きにした。すると、七瀬はふと目を覚まし、ぼんやりと、黒崎を見る。


「……お父さん……?」


 そう言って、黒崎の首に腕を絡めてぎゅっと抱きつくのだった。


「へへ、お父さん……よかった……」


 そうして彼は再び眠ってしまう。

 

「ふふ。七瀬君子供みたいですね」

「そうだな」


 黒崎も、ふっと口元に優しい笑みを浮かべた。 

 そして今度こそ七瀬を事実に運び、ベッドに寝かせて布団を掛けた。


「おやすみ」


 そう囁いて、心地よさそうな寝息を立てる七瀬の頭を撫でるのだった。


 その夜、夢を見た。

 子供の頃、まだ、実の父親が傍にいてくれた頃の夢だ。まだ小学校に入りたての幼い七瀬が前方に立っている父を見つけて大はしゃぎして走り出し、それに気づいた父親がしゃがんで両腕を広げて彼を迎え入れてくれる、という夢だった。


「おとーさん、おとーさん。えへへ」

「ははは、圭は甘えん坊だなあ」

「えへへ、だって僕、おとーさんのこと大好きなんだもん。ねえねえ、高い高いして」

「よーし。ほら、たかいたかーい」


 父親に頭上高く持ち上げられ、幼い七瀬は大はしゃぎしていた。

 こんなふうに、ずっと、ずっと、大好きな父と一緒にいられると思っていた。でも、それは、違った。楽しかった日々はある日突然、終わりを告げた。


「ってことだから、ここにサインよろしくな。いやー、相手の子がさあ、どうしても俺じゃなきゃだめだって言うもんだからよお。だから俺も考えたわけよ、本当の愛ってなんだ? 本当の幸せってなんだ? って。でさあ、気づいたんだよね。あー、俺、この子と一緒になる運命だったんだなあって! いやもちろん朱美のことも圭のことも大事だよ? けど人生一度きりだろ? やっぱ、自分の気持ちのままに生きた方が幸せなんだろうなって。だから、さ。朱美もこれからは好きに生きたほうがいいよ。まだ若いんだしさ、いい男見つけて圭のこと幸せにしてやんな?」


 小学四年の夏の事である。

 夏休み、父親は突然離婚届を差し出しながら、悪びれる様子もなく一から十まで自分勝手な言い分をぺらぺらと口にしていた。

 いわく職場の後輩の女の子に告白され、真実の愛に目覚めて不倫関係を一年程続けていて、相手の女が結婚してほしい貴方なしじゃいられないと言うので自分が彼女を守らねばと思い離婚することにした、ということらしかった。

 母朱美はそれを能面のような表情で聞いており、全て聞き終わったあと、双方に慰謝料の支払いを求めること養育費の支払いを毎月きちんとすることを条件に離婚した。


 ある日突然当たり前にあった日常が終わりを告げてしまった。当たり前に繋がっていた物が、なんの前触れもなく壊れて消えてしまった。


 泣いて引き止めても、その男は、またすぐ帰ってくると言うように笑いながら頭を撫で、さっさと出て行ってしまった。


 大好きな父が母と自分を捨てて出ていった事実が受け入れられず、幼い七瀬は玄関先で大泣きし、そんな彼を母朱美はぎゅっと強く抱きしめてくれた。


「っだああ!」


 七瀬は悪夢を振り払うように覚醒し、手足を振り乱して飛び起きた。どうやら相当魘されていたらしく、全身汗だくでシャツは肌に張り付き、呼吸も荒い。

 額に張り付いた髪を鬱陶しそうに横に分けながら、七瀬は大きなため息をつく。


「なんっっで今更あのクソ親父の夢なんか……胸糞悪いな」


 そう文句を言ってから、ふと、ここはどこだろうと部屋を見回した。部屋は薄暗く、何も見えない。だがすぐに、自分が黒崎と晶の家に泊めて貰っていることを思い出した。

 ベッドから降り、部屋の明かりをつけようと、扉はどこかと辺りを見回す。

 部屋は暗かったが、リビングから明かりが漏れていたのですぐに扉の場所はわかった。なので、足元に気をつけながら歩き出す……と、二人の話し声が聞こえてきた。


 何を話しているんだろう。

 気になって、足音を忍ばせながら扉に近づいた。


「七瀬君、ご両親と仲直りできるといいですね」

「どうだろうなあ。別に家族だからって仲良くしなきゃならないわけじゃないからな。血が繋がってたって無理なものは無理、仲良くできないなら折り合いの付け方を見つけて大人になるまでやり過ごすしかないだろうな」

「ええー。なんだか寂しいですね」

「前の学校でそういう生徒を何人も見てきたんだよ。七瀬の人生は七瀬のものだ。家族に縛られたまま不自由な人生を送ってほしくない。だからもし七瀬が家族と上手く関係を築けないというのなら、私は無理に関係を修復させたりはしない。どうすれば七瀬が自分らしく生きていけるかを一緒に考えていくつもりだよ」


 七瀬は、きちんと苦しみを理解して向き合おうとしてくれる黒崎の気持ちが嬉しくて、扉に背を向けて膝を抱えてじっと話を聞いていた。

 

「人間って難しいんですね」

「そうだな。人間は綺麗事だけでどうにかなるほど単純じゃないからな。みんな色んな事情を抱えて生きてるもんだよ。きっと晶もこれから嫌というほど知ることになるだろうな」

「そうですね……。人間関係に悩んで保健室に来る子、結構いるんですけど、自分なりに声をかけたりはしてるんですけど上手く行かないことも多くて。未熟な自分に落ち込んじゃいます」

「そうだな。教師だって人間だし、最初から上手く生徒と関われなくてもしょうがないだろう。私だって未だに関わり方に悩んでるよ。きっと都筑先生もそうだろうな。相手も人間、心があるんだから、マニュアル通りになんて行くはずもないしな。難しいよ」

「そうですね」

「悩んだら、私と一緒に考えたらいい。私だけじゃない、都筑先生だって朝木先生だって高橋先生だっている。難しい問題はみんなで解決したらいいんだよ」

「ありがとうございます。なんだか心強いです」

「んー、ところでそろそろ寝るか」

「えー、もうちょっといいじゃないですかあ」

「いや、そろそろ眠いんだよ。このまま眠ってしまいそうだ」

「えへへー、私は全然構いませんよ」

「私が構うんだよ」


 そんな会話か聞こえてきた。

 七瀬はなんとなく二人の様子が気になり、そっと扉を開けてみた。だが彼は、すぐに、それを後悔した。

 ただ居候しているだけだと言われて、無理矢理に自分を納得させようとしていた。でも、やっぱり、二人の関係はただの同居人にしては距離が近い気がした。

 晶が、黒崎に膝枕をしている。しかも優しく頭を撫でながら、今まで見たことのない幸せそうな顔を見せている。

 

「ほら、もう寝るぞ」


 頭を撫でる晶の手をどかそうと彼女の手に触れると、晶は「えへへー」といたずらっぽく笑いながら、黒崎の指に指を絡めた。


「こら」

「もう少しだけこうしていたいです」

「まるで甘ったれの子供みたいだな」


 そう言って、晶の行為を受け入れて、ゆるゆると彼女の指に指を絡める。


「……なあ。明日、七瀬とどこか出かけないか?」

「いいですね。三人でどこかに遊びに行きましょう。きっと七瀬君も気分転換できると思います」

「だな。美術館にでも行くか」

「はい! きっと喜びますよ。そういえば前に保健室に遊びに来たときに話してたんですが、中学の頃は一人でよく美術館に行ってたらしいですよ」

「へえ。初耳だな。よく色んな話をしてくれるが、私にはあんまり家や自分のことを話してくれないんだよな。心配かけないよう気を使ってくれてるのかもしれんが」

「そうだったんですね。私には自分のことも妹さんのこともたくさんお話してくれますよ。こんなふうに思っちゃだめなのかもしれないですけど、なんだか弟ができたみたいでちょっと嬉しいんですよね」

「そうか。七瀬も晶のことを姉のように慕っているのかもな」

「えへへ。なんだかちょっと照れますね。でも、嬉しいです」

「私から見たら晶は妹みたいなもんだがな」

「むー! 妹じゃないです、いつかちゃんと彼女になってみせますっ」

「はいはい、いつかな」


 と、黒崎が起き上がる。


「むう。絶対いつか振り向いてもらうんですからね」


 晶は頬をぷうっと膨らませ、黒崎の腕にぎゅっとしがみつく。


「もういいから、部屋戻って寝ろ。明日は晴れて暑くなるんだからしっかり寝ないと熱中症になるぞ」

「じゃあ、一緒に寝ませんか? ソファだと体痛くなっちゃいますし」


 頬を赤らめ、もじもじしながら提案する晶。

 その様子が可愛かったのだろう、黒崎は照れたようにぷいと顔をそらしてみせた。

 

「……寝るわけ無いだろうが」


 そう言いながら晶の頭をぐいと押し退ける黒崎。晶は少し不服そうな顔を見せたが、あまりしつこくするのもどうかと思ったのだろう、素直に引き下がって腕を放した。


「じゃあ、寂しくなったらちゃんと私のところに来てくださいね?」

「そんな日は来ない」

「じゃあ。私が寂しくなったら来ます」


 少し照れ臭そうにえへへと笑う晶。


「子供じゃないんだから一人で寝ろ。ほら、もう部屋に戻れ」

「はあい」


 晶は渋々といった様子で、立ち上がる。

 七瀬はそっと扉を閉めると、扉に背を向けてむすっと見線にシワを寄せて膝を抱えた。


「……なんだよ……」


 堪らえようと思うのに、涙がじわりと溢れだす。それを乱暴に拭い、よろよろと立ち上がってベッドに向かって歩き出した。


 いつも晶が自分に向けてくれた笑顔も、二人で楽しく話をした沢山の時間も、彼女にとっては、特別な意味なんてなかったのだ。そんなこと当然で、きちんと理解していたつもりでも、もしかすると彼女も自分のことを、なんて淡い期待をしていた。

 だけど彼女は自分のことを弟のようにしか思っておらず、しかも、最悪なことに黒崎に想いを寄せていた。一番慕っていて尊敬もしている黒崎が晶の想い人……

 あの二人は大人で、自分は子供なのだ。と、嫌でも思い知らされてしまい、悔しさと惨めさに涙が溢れだす。


「……なんだよ、俺……ガキじゃん……」


 でも、本当は、薄々気づいていた。それを、七瀬は見ないふりをしていた。

 うさぴょ丸のぬいぐるみを黒崎に取ってもらったと嬉しそうに話していたり、保健だよりの挿絵を黒崎に描いてもらうと嬉しそうに話していたり、会話の中で彼の名前が出るたびに、彼女の表情は花が咲くように明るくなった。でも、それを、彼は見ないようにしていた。


(わかってた。ずっと、わかってた。気がついてたんだよ……だけど、見たくなかった……)


 布団をすっぽり頭までかぶり、七瀬は声を殺して泣いた。


 晶の笑顔。

 昼休み、黒崎と過ごした大切な時間。

 再婚する前の、自分を一番に想ってくれた、母親の優しい笑顔。

 妹達の無邪気な笑顔。

 新しい父親の、優しい笑顔。

 クローゼットに仕舞い込んだ絵の具やスケッチブック。

 妹に奪われたぬいぐるみ。

 落書きされた描きかけの絵。

 遊園地の帰り、ばったり出会った京介達。


 無邪気な妹達の笑顔

 放課後の美術室、楽しそうに絵を描く美術部員達

 妹の世話のために断たれた進路


 もう、何もかもが、嫌だった

 もう、何もかも捨てて消えてしまいたかった


 掛け布団を投げ捨てて、裸足で、雨の中を走り出したかった。もう、全部、全部、何もかも嫌だった。

 全部、捨ててしまいたいと、心が悲鳴を上げていた。


 どれだけ泣いていただろうか。

 涙も枯れ果て、七瀬の中に残ったものは、全てを捨てて逃げ出したいという想いだけだった。


 のそりと起き上がり、ぼうっと窓の外を眺める。

 まだ、雨が降っている。

 止む気配はない。

 真っ暗な部屋の中、聞こえてくるのは激しい雨音だけだ。七瀬は座り込んだまましばらくぼうっと雨音を聞いていた。そうして数分が過ぎた頃、彼は、ベッドを降り、明かりもつけずに扉に辿り着くと、ほんの少しだけ扉を開けて、リビングの様子を窺った。そして、ソファで眠る黒崎を通り過ぎて、廊下に出た。


 玄関扉の向こうで、雨が咆えている。

 こちらに来てはいけない、危険だと、まるでそう言うかのように。だが七瀬は、上等だと、ドアノブに手をかけた。理不尽を感じたまま安全な部屋の中で畏まっていたくはなかった――――心の中でぐちゃぐちゃに散らかった物を全部、全部、どこかに捨ててしまいたいと思ったのだ。


 ゆっくりと扉を開けると、激しい雨がまるで壁のように目の前の景色を遮っていた。

 雨はマンションの廊下も濡らしていた。

 七瀬は靴を残して、裸足のまま、一歩、外に踏み出した。濡れた廊下がひんやりと冷たくて、なんだか少し、心地よくも感じた。

 そっと扉を閉めると、七瀬は小さく深呼吸をした。

 激しい雨に隔たれた、自分と世界。民家の明かりは消えている。だが外灯は往生際悪く街を照らし、暗闇に抗おうとしていた。

 七瀬はそんな街に向かって歩き出した。

 一歩、また一歩。階段を降り、マンションを出て、雨に濡れた夜道を歩いた。

 一歩、また一歩。やがて彼は歩く速度を早め、そして、とうとう走り出す。



 無邪気な妹達の笑顔

 クローゼットに仕舞い込んだ宝物

 落書きされた、描きかけの絵

 大好きな晶の笑顔

 黒崎と過ごした大切な時間

 妹達のために断たれた進路



 理不尽を感じながらもいい子でいる必要なんてあるのだろうか。誰かを傷つけないために自分の心を殺すことは本当に正しいことなのだろうか。

 馬鹿馬鹿しい。

 心の中で吐き捨てると、七瀬は、大きく息を吸い込んだ。


「ああああああああああ!」


 何もかも嫌だと、纏わり付く現実を振りほどこうとするように、彼は大声で叫んだ。

 



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