放課後の彼女


 五時間目の授業が終わり、黒崎は少し疲れたように背中を丸めて頭を掻きながら職員室へと向かっていた。廊下には授業から開放された生徒達が楽しげに会話をしながら歩いている。聞こえてくるのは子供らしい他愛もないもので、昨日の番組がどうとか、SNSでバズっていた話題だとか、とても平和的なものばかりだ。


「あ。黒崎先生ー」


 元気な時生の声が背中にぶつかってきた。

 すると周りにいた生徒達がそれまでの会話をやめ、彼女に視線を向けて、なにやら少し興奮気味に、けれどその気持ちを必死に抑えながら、口々に、ざわざわと、可愛いだの烏丸時生だのと言い始める。彼女が入学してきてからもう三ヶ月にもなろうというのに、生徒達の反応はいつも新鮮である。

 

「んあ? ああ、お前たちか。さっきは悪かったな、助かったよありがとう」


 時生の方を向くと、京介、正木、緋夏という顔ぶれが揃っていた。


「いえいえ、お気になさらず。また明日お手伝いしますよ。明日は七瀬という友人も一緒に行きます。彼、今日は用事で早退してしまったんですよ」

「そうか。悪いな。しかし……沼田先生の作品達はどうしたらいいんだろうな。捨てるのも申し訳ない気がするし……」

「ああ、それなら、今度お見舞いに行った時に聞いておきますよ」


 京介達は時々、沼田の様子を見に彼の入院している精神病院に顔を出している。

 沼田は今はすっかり落ち着き表情も穏やかになり、描く絵からも柔らかさと暖かさを感じられるようになり、京介達はそれをとても嬉しく思っている。


「そうか。すまんな」

「先生は沼田先生のことは聞いておられるんですか?」

「ああ、なんとなくは。初日に簡単にだが説明は受けた。今は入院してだいぶ落ち着いてる、ともな」


 そんな話をしながら、一同は廊下を歩いた。

 そして角を曲がると、時生が「あ!」と足を止めた。


「あら。神滝先生ね」


 緋夏も足を止め、廊下の窓際で二人の女子生徒と楽しげに何か話す晶を見る。三人はスマホを覗き込みながら、友達のように、笑顔でキャッキャとはしゃいでいる。

 そんな彼女の様子を、周りにいる男子生徒達がチラチラと伺い、頬をほんのり赤く染めている。更に遠くから歩いてくる少し若い男性教諭も、なんだかそわそわして落ち着かない様子で彼女にチラッと視線を向けている。


「歩く誘蛾と」

「だから、そこは普通によくモテる人でいいでしょ」


 思わず誘蛾灯呼びしそうになった黒崎の言葉を遮り、注意する緋夏。


 と、晶が三人に……いや、黒崎に気づき、ぱあっと花咲いたように明るい表情を見せた。


「黒崎先生ー!」


 えへへー、とぶんぶん右手を振りながら、黒崎に駆け寄ってくる。

 しかし、ギョッとする彼の様子にも気づかずに、晶は彼の腕にしがみつくのだった。


「ちょっ、お前っ……!」

「えへへ、ちょっとこっち来てください! ほら、こっちこっち」


 晶は強引に黒崎の腕を引っ張って、女子生徒二人のところへ連れてゆく。そんな二人を京介達は呆然と見ている。


「な、なんなんだ一体……」


 黒崎が学校に赴任してきてまだ二週間。相手の女子生徒も彼のことをよく知らないし、彼もまた、目の前の生徒が何年生の何組なのかを把握していない。

 にも関わらず楽しい会話に強引に参加させられ、黒崎はもちろん相手の生徒も戸惑いを隠せない様子である。


「ほら、これですこれ! 見てください」


 と晶は女子生徒のスマホを指差す。

 なんなんだ、と黒崎は少し疲れたように画面を覗く。そこには、お姫様が使いそうな、ピンクと白のきらびやかな家具で統一された部屋があった。


「お前、好きだなこういうの。で、なんだこれは」

「プ……プリンセスドリームっていうブランドのプチプラ家具……です……。最近話題になってて……」


 ポニーテールの女子生徒が少し困惑気味に答えた。もう一人のショートボブの生徒も少し緊張気味だ。それを察し、黒崎は、自分はここにいるべきではないと考えた。

 

「邪魔したな。私はもう職員室に戻る……」

「ね。これ、なんだかこの間のラブホテルみたいで可愛いですよね!」


 腕にしがみついたまま、無邪気な笑顔で黒崎を殺しに来た。


「…………………………!」


 その瞬間、黒崎は、全てが終わったと思った。彼はこの二週間、たとえ生徒に嫌われようとも職場の人間関係だけは良好でいようと思って気をつけていたし、居候のことがバレたらその努力が全て水の泡だということも承知していたから、口が裂けても言うつもりはなかった。もちろん居候の件は他言無用だと晶にも言ってあるし、彼女も了承していた。だから学校ではなるべく今まで通りの関係を装うつもりだった。

 なのに、まさか、こんな角度から、無邪気に撃ち殺されるとは思わなかった。


「いや、あの、神滝先生何を……」


 そう言いかけた時、女子生徒二人が満月のように目をまんまるにして顔を真っ赤にし、固まっていることに気がついた。


「ちょ、ちょっと待て誤解だ……」


 なんとか冷静に誤解を解こうと試みる。だが、今度は、晶をチラチラと見ていたあの若い教師がショックのあまり真っ白になって固まっていて、更に少し離れた場所では、衝撃を受け過ぎて劇画のような顔をした浜沼がカッと目を見開いて黒崎を凝視していた。

 そんな様子を見て京介と時生はおろおろし、一方の正木は腹を抱えてヒーヒー笑っていた。そして緋夏は、そんな彼に、軽蔑した眼差しを送るのだった。

 そうしてすぐに、マッハで駆けつけた浜沼に捕獲された黒崎は、有無を言わさず職員室に連行され、瞬く間に学校中に広まった噂を聞きつけた男性教師達に詰め寄られるのだった。職員室の自分の席に男性教師人が集まり、嫉妬と憎しみと怒りの目を向けられ、黒崎は早く家に帰りたいと強く思うのだった。


「で、どういうことなんですかね! まさか無理矢理連れ込んだんですか!」


 朝木が目を血走らせながら、叫ぶように問い詰める。


「ですから、誤解ですってば!」


 しかし弁解しようとするも男性教師達は聞く耳も持たず、怒りを顕に口々に何事か叫ぶのだった。

 もちろん全員が全員晶に興味があるわけではない。一部の教師はこの事件をどうでも良く思っていて、騒ぎを気にもせず黙々と仕事をしている。

 だがその他の教師は、まるでこの件が歴史を揺るがす重大事件かのように目を血走らせて黒崎を取り囲んでいる。


「誤解だぁあっ? アンタ、私ははっきりこの耳で聞いたんですからねえ! この間ラブホテルとっても楽しかったですねまた行きましょうねと言っているのをねえ!」


 浜沼が唾を撒き散らしながら喚く。


「言ってないでしょうが! 事実を捻じ曲げんてください!」

「ぬあああああああああ! 羨ましい羨ましい! 憎たらしい憎たらしい! あのむっちむちでピッチピチなボデーとたゆんたゆんのお乳をあんなふうにこんなふうに弄んだというのかね! 一晩中! 好き放題! ああああああああああああああ!」

「弄んでねえええええ! そもそも何もしてないんですってば! てかアレだけの台詞でよくそこまで妄想できますねっ?」

「じゃあ男女がらららラブホテルで他に何をするというのだねえ! おぉんっ? 男と女がホテルですることと言えば一つしかないだろう! うぅんっ?」

「だから言ってない! あれはあき……神滝先生の友達が写真を送ってきて、それを、一昨日たまたま会った時に見せてくれたんですよ! さっきのはその話です!」



 黒崎は必死に言い訳をするが、朝木は納得せず、ズイッと顔を近づけて疑いの眼差しを向けてきた。

 

「だとしてもです。今日のお二人は少し距離が近いように思いますがねえ。お二人が喋っているところを何度かお見かけしましたし」

「ただの世間話ですって……」

「まさかお昼のお弁当、あれ、神滝先生の手作りじゃ」


 指摘され、ギクッと体を震わせる。


「ま、まさかそんなわけないでしょう! だいたい、今朝も言ったように、私と彼女とじゃ歳が離れすぎてます!」


 しかし浜沼は唾を飛ばしながら、


「愛に年齢は関係ありませんよ! 私と神滝先生は二五歳差ですが気になどしませんしね!」

「アンタは気にしてくださいよ!」


 朝木が思わず怒る。

 すると高橋が、正面の席で仕事をしながら、一同に目を向けることもなく言う。


「二人がどんな関係でも別に良くないですか? だいたい、独身の朝木先生や浜沼先生が焦るのはわかりますけど、先生方の中には既婚者の方もおられるんでしょ。結婚して子供もいるような男が独身の若い女性に鼻の下伸ばして挙句に他の男との関係に顔真っ赤にして怒るって、気持ち悪いですよ」


 高橋の言葉に、既婚者男性達はうっと押し黙る。


「それにもし仮にお二人が皆さんの想像する関係だったとして、それを反対したり責める権利は誰にもないでしょう。しかも歳の差を心配するならまだしも、先生方のはただの嫉妬じゃないですか。みっともないですよ、そういうの。それに神滝先生も可哀想ですよ。好きな男との仲を無関係のおっさん連中に口出しされて。そんなの誰が喜ぶんですかね。独身ならまだしも既婚者は絶対に手に入れられないんですから、せめて嫌われないようにだけはした方がいいんじゃないですか」


 既婚者男性達はぐうの音も出ないといった様子で押し黙ったまま、とうとう、ぶつくさと文句を言いながらだが、立ち去り始めるのだった。


「ありがとうございます、高橋先生……」

「いーえー、どういたしまして」


 高橋はどうでもよさそうに返事をした。

 すると黒崎の隣の席でやり取りを見ていた都筑が、


「けど、二人は本当に何でもないと思うぜ?」

「なぜそう思うのです?」


 朝木は少し不機嫌そうに尋ねた。


「んー……晶の親父さんはなあ、過保護通り越して超過干渉でね。学生時代もバイト禁止、ジャンクフード禁止、テレビ禁止、当然寄り道禁止で門限六時。お陰で恋人どころか友達もいなかったんですよ。可哀想でしたけど、晶はそれで納得してたみたいでしてね。未だにコンビニもジャンクフードもスナック菓子も禁止で、ひとり暮らししてる今も門限は八時って決められてて、家に帰ったら親父さんに連絡入れないといけないんですよ。そうしないと心配して大量の連絡が入ってくるんですって。ほんのニ、三分連絡が遅れただけでね」

「嘘でしょ……」


 朝木は呆然としている。


「ほんとほんと。アイツ、親父さん悲しませたくないからって未だに約束守り続けてるんですよ。だから、そんなアイツが出会って二週間の相手と付き合っておまけにホテルなんか行くわけ無いんですよね」

「つまり……それは……」


 ごくり、と浜沼が喉を鳴らす。


「つまり……?」


 ごくり、と朝木も喉を鳴らす。

 そして、浜沼はグッと拳を握りしめ、興奮で顔を真っ赤にして鼻をふんすふんすと鳴らし目を血走らせながら叫ぶ。


「つまり! 神滝先生は処女ということですな! 処女! 素晴らしい! あのたわわに実ったやわらかな果実も、彼女の秘部も、あんな場所もこんな場所もまだ未使用というわけですな! ふおおおおおおおお!」


 浜沼の絶叫が静まると、この世からすべての音が消え去ったように部屋は静まり返っていた。しかし本人は自分以外の人間がドン引きしていることに気づかず、興奮と感動に打ち震えるのだった。


(一歩間違えば晶がコイツを拾ってた世界線もあり得たのか)


 改めてそう思うと、黒崎は恐ろしさのあまりゾッとして鳥肌が立つのだった。

 

「とにかく……そんなわけで私達は本当に何もないんですよ。それに十五も歳下なんて、恋愛対象になりませんよ。私から見たら子供に毛が生えた程度ですからね」

「違いない。アイツまだまだ子供みたいなとこありますからね、黒崎先生の年齢じゃ良くて妹まででしょう」


 都筑は笑い、うんと伸びをする。


「そう、そうですよ、まさにそのとおりですよ」


 黒崎は何度も頷く。


 そうしてようやく朝木と浜沼は納得したように黒崎から離れた。そして黒崎はほっと胸をなでおろす。


「お二人の関係が特別でないことはわかりました。でも、ですよ」


 朝木と浜沼はズイッと黒崎に顔を近づけ、ギロリと睨む。


「抜け駆けは、許しませんからね」


 朝木と浜沼は声を揃えて釘を差した。


「わかっていますよ」


 そう返事をすると、もういい加減開放されたくて、パソコンを開いて仕事に集中するのだった。

 朝木も仕事に戻り、浜沼はぶつくさ文句を言いながら自分の席に戻っていく。そんな彼の背中をチラリと見、つい、浜沼にいやらしく抱きつかれて強引に体中を触りまくられる晶の姿を想像してしまうのだった。



「ふおおおおおおお!」


 怖すぎて、気持ち悪すぎて、思わず叫んで頭を抱えた。


「おわっ? なんなんですかっ!」

「あ……いや、なんでもありません……」

(後で浜沼先生と二人きりになるなと忠告しておかねば……)


 どっと疲れてしまい、はあっと大きなため息をついた。



    ★


 放課後、妹がぐっすり眠っているのを確認した七瀬は、大急ぎで学校に戻ってきた。

 すでに授業は終わり、人気のない廊下にはブラスバンド部の陽気な演奏と運動場からは運動部の威勢のいい声が聞こえている。

 七瀬は荷物の入ったエコバッグを胸に抱え、夕陽に染まる廊下を息を切らせながら走っていた。

 保健室に到着すると、扉の窓から部屋の様子を伺い、そして晶が一人なのを確認すると、緊張気味にノックをした。「はーい」と明るい声が聞こえると、七瀬はドキッとし、ますます緊張してしまうのだった。

 胸に抱えたエコバッグをぎゅっときつく抱きしめ、勇気を出して扉を開く。


「あれ。七瀬君、こんばんは。今日は早退したって聞いてたけど、どうしたのかな?」


「えっと、 あの……えとっ」

「うん。いいよ、こっち来て」


 と晶は丸椅子を自分の近くに移動させた。


「は、はい……」


 この時の七瀬は、普段晶と話すときよりも緊張していた。何故なら、今日はいつものように楽しく話をするためではなく、胸に抱えた大事な物を彼女に贈るために来たのだから。

 七瀬は胸に抱えたエコバッグを更にぎゅっと抱きしめながら、丸椅子に腰を落とした。


「妹さんは大丈夫?」

「あ、は、はい。だいぶ熱も下がって今はぐっすり眠っています。それに母さんも今日は早く帰ってきてくれましたし」

「そっかそっかー、それなら安心だね!」

「は、はい。えと、それでですね……えっと」


 七瀬はエコバッグをギュッと胸に抱きしめる。と、その時、机の上に手のひらサイズのうさぴょ丸が……それも限定のプライズ商品であるウエディングうさぴょ丸が飾られていることに気がついた。


「うさぴょ丸……」

「あ、これ? えへへ、これね、黒崎先生が取ってくれたんだ」


 晶はとろけるような笑顔を見せた。それは、今まで七瀬が一度も見たことのない、心の底からの幸せそうな表情だった。

 うさぴょ丸が手に入ったことが嬉しいのか、それとも、黒崎が取ってくれたことが嬉しいのか、七瀬にはどちらなのかわからなかった。ただ、彼は、彼女のその表情を見て、悔しさや嫉妬のような感情を抱いていた。

  

「……えっと、新しい美術の先生ですよね?」

「あ! 違うの! 取ってくれたっていうか、えっと、先生がゲームセンターで取ったやつを、いらないからって私にくれたの!」

「……そうなんですか」

「うん! そう、そう! 別に一緒に行ったわけじゃないからねっ?」

「わ、わかりました」

「うん! それで、今日はどうしたのかな? いいよ、なんでもお話してね」


 いつもと同じ彼女らしい笑顔が向けられる。みんなが大好きな、神滝晶の温かで優しい陽だまりのような笑顔だ。でも、彼が欲しかったのは、それではない。もっと特別な、自分だけが彼女に向けてもらえらはずだった笑顔だ。


「あーいや、すいません、やっぱり何でもないです!」


 七瀬は反射的にエコバッグを後ろ手に隠し、何でもないように、ごまかし笑いを浮かべた。

 晶は不思議そうに小首を傾げている。


「今日は忘れ物を取りに来ただけなんです。で、ついでに、晶先生まだいるかなーって覗きに来ただけなんです」


 笑いながらぎゅっと握りしめたエコバッグ。その中で、晶の目に触れることのなかったウエディングうさぴょ丸二匹が、少し苦しそうに身を寄せ合っていた。


「ていうか先生っていつもこんな時間まで仕事してるんですね。大変ですねー」

「そうなの。こう見えて結構仕事多いんだよね。あ、今ね、来月の保健だより作ってるんだけど、楽しみにしててね。実は実はなんとなんと」


 七瀬の気持ちなど知らない晶は、無邪気な笑みを浮かべながら彼にズイッと顔を近づける。

 突然近づいてきた彼女の顔に戸惑い、心臓の音も聞こえそうなほどに早鳴り、顔が真っ赤になっていることがハッキリわかるほど耳まで熱くなる。


「実は実は、なんとなんとー」

「な、なんと……?」

「保健だよりの挿絵を黒崎先生に描いてもらうことになりました! えへへー、先生すっごく絵がお上手なんだよ? って、美術の先生なんだから当たり前か。えへへ」


 また、初めて見る表情をしている。

 甘いケーキでも食べているような、幸福感に満ちた少しだらしないその表情。

 誰かに仕事を手伝ってもらえる事が嬉しいのではない。彼に、黒崎に、描いてもらえることが嬉しいのだ。

 自分の頬が赤らんでいることにも、彼を想い瞳が潤んでいる事にも、彼女は気づいていないのだろう。


「すいません。俺、用事があるんでもう行きます」


 そんな彼女を見ていたくない。

 はっきりと彼女の気持ちを知ったわけではないし、自分の勘違いかもしれないし、答えはわからないままだが、彼女のその表情がどういう感情からのものなのか、考えたくなかった。

 勘違いかもしれない。

 そうであってほしい。

 でもそれを探ろうとすれば、望まない答えに辿り着いてしまいそうで怖かった。だから七瀬は俯いて彼女の顔も見ず、逃げるようにその場を立ち去った。


 そんな彼を、晶は少し心配そうに見送るのだった。



    ★



 きっと勘違いだ。

 彼女は何度も朝木にデートに誘われているが、それをずっと断り続けている。

 彼は若くて美しく、女子生徒にも人気があり、晶と彼が廊下で会話をしているだけで、お似合いだね、なんてコソコソ話す声が聞こえたりもする。

 そんな朝木の誘いを断り続けている彼女が、まだ会って間もない、しかも歳の離れた男に恋なんてするはずがないのだ。

 黒崎は若くもない、美しくもない、どちらかといえば人相が悪くて近寄り難い雰囲気があるのに。


 そんな事を考えているうちに、気がついたら美術室の近くまで来ていた。

 黒崎とはどういう男なのだろう?

 美術部員達の楽しけな笑い声が聞こえる美術室を、扉の窓からこっそりと覗き見る。

 10名ほどの部員が楽しそうにキャンバスに向かって思い思いの絵を描き、それを黒崎が後ろから確認しつつ何事かアドバイスをしている。部員達は皆、楽しそうだ。

 そんな美術部の様子を覗き見た七瀬は、彼らを少し羨ましく感じ、つい、自分かそこに存在していたら……と、あり得ない事を考えてしまうのだった。

 黒崎という男を覗き見るために来てみたのに、それよりも、楽しげな美術部の雰囲気に胸がぎゅっと苦しくなる。もし、自分も美術部に入れたら? そこで、楽しく、また絵を描くことができたなら……

 気がつけば、黒崎の事など忘れて、楽しげに絵を描く彼らの姿に見入ってしまっていた。

 どくんどくんと心臓が煩く叫ぶ。

 心の奥底に隠して蓋を閉めていた感情が、にやにやといやらしい笑みをうかべながら這い出して来るのを感じ、急に怖くなった。

 だめだ。

 その感情は、見てはいけないものなのだ。

 向き合った所で、どうしようもないものなのだから。

 と、そんなことをしていると、黒崎が七瀬に気づき、近づいてきた。

 別に見つかった所で叱られるわけもないのだが、声をかけられても覗き見していた理由を話せるわけもなく、どうしたものかと少しパニックになり、結果、七瀬は慌ててその場を逃げ出した。後方で、美術室の扉が開く音が聞こえた。

 バタバタと慌ただしく足音を響かせながら走り去る七瀬。そんな彼の後姿を、美術室から出てきた黒崎が、不思議そうに見つめている。


「あれは……一年の七瀬か?」

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