私の心は誰のもの


「ふーんふふーん。今日はクリームシチュー♪美味しくなあれ、美味しくなあれ〜♪」


 晶はご機嫌に鼻歌を歌いながら、ゆっくりとクリームシチューを掻き混ぜていた。

 晶はいつも自分のためだけに料理を作っていたが、最近は誰かのために料理をすること、そしてそれを食べてもらうことを幸せと感じるようになっていた。


「えへへ。黒崎先生喜んでくれるかなあ」


 小皿にクリームシチューを注ぎ、一口、味見をしてみる。そして満足気な笑顔を見せる。が、すぐに、晶は何かを思い出したように、哀しげに目を伏せるのだった。


(こんなことしてるの、やっぱり悪いことなのかな。お父さん、ショック受けちゃうかな)


  浮かない顔をしながらゆるゆるとクリームシチューを掻き混ぜる。


(黒崎先生に……ううん、誰かに恋してるのも、本当は悪いことなのかもしれないよね……)


 そんなことを考えているうちに、無意識に手を止めてしまう。

 どうして、何かを欲しいだとか好きだとか思う度に、父ならどう思うかを考えなければならないのだろう。どうして、誰かを好きだと思うだけで、父に対して罪悪感を感じなければならないのだろう。

 この時晶は、生まれて初めて父親に対してささやかな怒りを感じていた。

 父のことは嫌いではない。けれども、黒崎を好きと思う感情にまで入り込んでくる彼をほんの少しだけ鬱陶しいと思ってしまい、しかし、そんな感情を抱く自分に自己嫌悪してしまうのだった。


 どうして自分の『好き』を彼を基準にして選ばなければならないのか。私の心は誰のものなのだろうか。どうして、ただ誰かを、何かを好きと思うだけでこんなにも父に対して申し訳無く思わなければならないのか。


 怒りと悔しさ、そしてそんな感情を抱くことへの罪悪感で心の中がぐちゃぐちゃになっていた。

 大粒の涙がポロポロとこぼれ出し、慌てて手の甲で拭うも涙が止まることはなかった。


  ★


 すっかり日が落ちて空にはぽっかりと満月が浮かんでいる。黒崎は晶宅マンションの階段を疲れきった体を引きずるようにして登っていた。


「でーすーかーら、基礎デッサンを怠っているのに美大なんて無理だと何度も言っているじゃないですか。嫉妬ではなくてですね、これは美術教師としてのアドバイスなんですよ。申し訳ないですが佐藤さんのデッサン力ではまず受験合格なんて無理なんです。まず人物デッサンですが体のバランスがチグハグで立体感もない。けれど佐藤さんはそれを個性だと言い張り……いえ、ですから、それではだめなんですと……いや基礎を身に着けて個性が消えるなんてことはまずなくて……むしろ基礎ができてからようやく個性を身に着け……ですから、嫉妬ではなくて……いや、ですから…………はい、はい、いえ、ですから、他の生徒への指導は私がやりますので……ですから……あの、この話はまた明日でいいですかね。はい、はい、それでは……」


 相手はまだ何か喚いているが、玄関の前に到着したので半ば強引に話を終わらせ電話を切った。堰き止めていたものが溢れだすようにドッと疲れが襲ってきて、体が鉛のように重く感じられた。

 

 早く飯を食って寝てしまいたい。

 そんなことを考えながら、玄関の扉を開く。


「帰ったぞーただいまー……」


 気だるげに挨拶をすると、扉の向こうからとたとたと可愛らしい足音が聞こえてきた。と思うと勢い良く扉が開き、エプロン姿の晶が満面の笑みで駆け寄ってくる。


「おかえりなさい、黒崎先生」


 体が触れ合いそうなほどの距離で、黒崎を見上げて笑顔を見せる晶。


 こんなふうに誰かに「おかえり」と言って迎えてもらったのは何年ぶりだろうか。なんでもないことのはすなのに、ただそれだけのことがとても嬉しかった。


「お、おお……」


 なんだか照れくさくて、つい、ぶっきらぼうな返事をしてしまう。


(家に帰ってこんな可愛い子に笑顔でおかえりなんて言ってもらえて、しかも晩ごはんまで用意されていて……正直、私には贅沢すぎる。とっとと部屋を探して出ていかなければ……)

「ん……?」


 黒崎は晶の目尻に微かについた涙のあとに気が付き、ぎょっとした。


「お前っ……泣いてたのか?」


 慌てて右手で晶の頬に触れ、涙の跡を親指で拭う。


「ぴゃあ!」


 突然頬に触れられた晶は一瞬で顔を真っ赤にし、謎の悲鳴を上げた。

 黒崎は心配そうに晶を見つめ、親指ですりすりと目元を撫でる。もちろん彼にやましい気持ちなどない。が、一方の晶は、見つめられながら頬に触れられるという行為に恥ずかしさと喜びと興奮を感じて心臓をドキドキさせていた。今にも頭が沸騰して気を失ってしまいそうになりながら、晶はなんとか正気を保ちつつ、言い訳を探した。


「あっ……いえ、これはそのっ……玉ねぎ! そう、玉ねぎです!」

「……本当か?」


 彼女が嘘をついていることくらい黒崎には見通しだ。真剣な眼差しでじっと彼女を見つめると、晶は顔を真っ赤にしたまま困惑したように目を逸らす。


「お前は私に悩みがあるなら何でも相談してほしいと言って抱きしめてくれただろう。それは私も同じだ。できる限りお前の力になってやりたい」

「先生……」


 と晶は黒崎に視線を戻す。

 すると堰き止めていたものがあふれ出したように突然ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。


「先生っ……私っ……」

「大丈夫だ、ゆっくりでいい」

「どうして、どうして、何かを好きだと思う度に、何かをしたいと思う度に、父に申し訳ないとか罪悪感を感じなければならないのでしょう」


 晶は必死に手の甲で涙を拭う。だが涙は止まることなくボロボロとこぼれ続ける。そして、最初は冷静に話をしようとしていた彼女は、そのあふれ出す感情を抑えきれずに叫ぶように話し始めるのだった。


「先生にお料理を作っているだけなのに、先生の帰りを待っているだけなのに、それだけなのに、なぜ、罪悪感を感じなければならないのでしょうか! スナック菓子美味しかったです、ハンバーガーも美味しかったです、ゲームセンターも楽しかったです! それなのに、ずっと、父がつきまとうんです! やっぱり父との約束を破ることは悪いことなのでしょうか? コンビニに行くこともジャンクフードを食べることも、悪いことなのでしょうか? でも、みんな、当たり前のようにやっていることですし、それが悪いことだとは思えません! だけど父はきっと悲しむでしょうし、父の言いつけを守ることが正しいとも思います。でも、でも、何かがおかしいと思ってしまうんです」

「なるほどな」


 黒崎は晶の頬を両手で包み込んだまま、親指で涙を拭う。


「晶。お前の心はお前のものだ。だからお前が何を好きでいようと、何を美味いと思おうと、誰にもそれを咎める権利などないんだ。もちろん誰かを傷つけるようなことはしてはならない。だがそうでないならば、お前が何をしても、誰を好きでいようと、全く問題はないんだ」

「いいんでしょうか……好きなものを好きだと言っても」

「当然だ。子供は親の所有物じゃない。子供には子供の人生がある。うちの生徒達だってそうだろう。個人個人考え方や趣味趣向は異なるが、だが、それは皆に心があるからだ」

「心……」

「うちの美術部員なんか個性のぶつかり合いのような連中ばかりだぞ。真っ白なキャンバスに自分の『好き』をぶつけて、長い時間をかけて一つの作品を、自分の世界を作り上げていくんだ。みんな、とても楽しそうだぞ」


 ぽんぽんと晶の頭を撫で、優しく口元を綻ばせる。


「まあ……中には自分を天才だと勘違いして基礎すっ飛ばして個性だけ主張した挙句に周りを見下して本気で美大に進むつもりの困った奴もいるがな……。挙句に他の生徒に上から目線でダメ出ししまくって部の雰囲気を悪くして、それを、天才である自分への嫉妬だと思っていて、反省も何もしないんだ……」


 黒崎は佐藤親子のことを思い出して辛そうに胃を押さえた。


「あああ! 大丈夫ですか先生!」

「ああ、大丈夫だ……すまん」


 と小さく息を吐いて気を取り直し、


「とにかく、だ。お前の心が何かを好きだと思うなら、それを全力で楽しめばいい。……とはいえ、今すぐに父親から解放されるのは難しいだろうからな。私にできることがあるなら、居候の礼も兼ねて協力させてくれ」

「い、いいんですか?」

「ああ、当然だろう。何かしてみたいことはあるか? もしあるなら、一緒にやってみるか」

「や、やってみたいこと……ですか」


 晶は頬を赤らめ、チラっと上目遣いで黒崎を見る。


「ああ。なんでもいいぞ。まあ、そう言われても今すぐには何も思いつかんか……」


 と言いかけた時。

 晶がちょっと背伸びをし、黒崎の首の後ろに腕を回して抱きついてきた。黒崎は身長183cm、対する晶は、たぶん160cm前後くらいだろうか。自分に抱きつくために背伸びをする彼女に、つい、キュンとしてしまうのだった。が、それも、一瞬のこと。すぐに黒崎は額に人差し指を押し当てて虚空を仰ぎ、難しい顔をして考え出した。


「いや……いやいや。何をしている?」

「えへへ。先生に、おかえりなさいってぎゅうってしてみたかったんです」


 頬を赤らめながら、ちょっと照れ臭そうに晶は言う。

  

「そ、そうか。なるほどな。だが、こういうことは恋人にすることであって赤の他人のおっさんにすることではないな」


 そっと晶を引き離す黒崎。

 だが晶は、

「でも、先生、今日も私にしがみついてたじゃないですか」

「んーんん……!」


 確かに。

 朝っぱらから抱きしめられ、甘い誘惑に負けて仕事をサボりかけた。そして昼は昼でクレームで削られてゆくHPを抱きしめられることで回復していた。今更真面目ぶって正論を吐いた所で説得力は皆無である。


「……でもやっぱり、父の顔が浮かんできてしまいます」


 晶は悲しげに目を伏せる。


「まあ、急には無理だろう。安心しろ、お前がちゃんと自分の心に従って選択できる日が来るように私も協力する」

「先生……」

「そうだ。あとで一緒やりたいことをノートに書き出してみるか。それを一つずつ一緒にやってみるのはどうだ」

「は、はい! ふふ、なんだか楽しそうですね」

「そうだな」


 とそう言った時、黒崎の腹が空腹を訴えて盛大に鳴くのだった。


「あ! ごめんなさい、すぐに準備しますね!」

「すまん……私も何か手伝う」

「いいんですよ。先生はソファでくつろいでてください」

「いや、しかし……」

「えへへ。ほら、行きましょう」


 晶は黒崎の腕にぎゅっとしがみつき、半ば強引に引っ張って歩き出す。


「居候の分際で何もしないわけにはいかんだろう」

「だめです。だって先生、だいぶお疲れの顔してらっしゃいますよ?」

「疲れてるのはお前だって一緒だろう」

「私は、先生にゆっくりしてもらいたいのです」

「しかしな。居候の方は気を使うもんだぞ」

「そうなんですか? 私は別に気にしませんよ? むしろ全部私がやってさしあげたいくらいなのですが……」

「お前……ダメ男製造機だな」

 

 晶がさらっととんでもない事を言うので、黒崎は思わず心配になるのだった。


「なんですかそれっ?」

「彼氏は慎重に選ぶんだぞ」


 とリビングダイニングの扉を開ける。

 クリームシチューのほんのり甘い香りに空腹を刺激され、再び盛大に腹が鳴る。 


「か、彼氏なんて……私は別にいらないですよ?」


 晶は腕にしがみつく手にちょっとだけ力を込めて、上目遣いでチラっと黒崎を見る。

 

「今はそうでもそのうち出会いがあるかもしれんだろ」

「そう……ですかね……」


 晶はちょっと拗ねたように口先を尖らせた。


(出会いならもう目の前にあるのになあ……)


 


 


  ★



 その頃七瀬は自室の勉強机に飾った二匹のうさぴょ丸をぼんやり眺めていた。その彼の手元にはスケッチブックがあり、そこで描きかけの晶が優しく微笑んでいる。よく特徴が捉えられていて、今にも髪が風で靡きそうな程、リアルに質感が再現されており、彼の画力の高さが覗える。


「今月の小遣い殆ど使っちゃったんだけどな……」


 ため息をつき、つんつんと人差し指で花嫁うさぴょ丸をつつく。


「ま、これはこれでお揃いってことでいっか……」


 晶に渡しそびれたのは残念だったが、彼女とお揃いだと思えば少しだけ嬉しかった。そう思うと、この目つきの悪いうさぎもなんだか可愛く思えてきて、思わずふっと優しい笑みが溢れるのだった。


「さ。続き描くかー」


 と鉛筆を取ろうとしたその時。

 どたどたと慌ただしい足音が近づいてきて、突然、ノックもなしに扉が開かれた。


「にーた! にーた! あそぼー!」


 部屋に飛び込んできたのは、まだ五歳の七瀬の義妹・藍だった。ふわふわの栗色の髪と大きな目が愛らしい女の子だ。


「藍、寝てなきゃだめだろ? まだ熱あるのに」

「もうお熱ないないだから大丈夫だもん!」

「だめだって。ほら、部屋に戻るぞ」


 と藍の背中を押して部屋の外へと促す。


「やーだー! やーだー! 遊ぶの! ねんねつまんないの!」

「ちゃんと熱が下がったらまた遊んでやるから、な?」

「やーだー!」

「困ったなあ」


 一度言い出したら聞かない妹に困り果て、どうしたものかと頭を掻く七瀬。とそこへ、


「あー! 藍、寝てなきゃだめじゃん!」


 今年小学生になったばかりの義妹・舞が飛び込んできた。お風呂あがりらしく、肩口まである髪はまだしっとりと濡れている。


「もー大丈夫だもん。にーたと遊ぶの!」

「だめ! お兄ちゃんは今から舞と宿題やるの!」

「やーだー! やーだー! あいとあそぶのー!」

「だめったらだめなの!」

「やーだーやーだー!」


 藍はとうとう地団駄を踏んで泣き叫び、舞は耳を塞いで「うーるーさーいー!」と叫ぶ……七瀬はため息をつき、二人を宥めるために一旦藍を膝に抱いた。


「藍。ちゃんとお熱下がって元気になったら一緒に遊ぼうな? 約束しよう」

「やーだー! 今日遊ぶのー!」

「藍わがまますぎ! お兄ちゃん困ってるでしょー!」

「やーだーやーだー!」


 藍は膝の上でぎゃあぎゃあと泣きわめく。

 七瀬は困ったように笑いながら藍の頭をなで、


「藍。もしまた藍がお熱出しちゃったら兄ちゃん心配しちゃうなあ」

「しんぱい……?」

「うん。兄ちゃんだけじゃなくて舞も母さんも義父さんも、心配しちゃうと思うよ?」

「んー……」


 藍は人差し指を咥えてしょんぼり俯いて少し考える。そして、諦めたように、ぽつりと返事をするのだった。


「わかった……」

「ん。よし、偉いぞ」


 優しく笑い、藍の頭を撫でる。

 と、その時。藍が何かに気が付き、キラキラと瞳を輝かせた。


「ん? どうした藍」

「うさぴょまりゅ! うさぴょまりゅ! あいこれ欲しい! ちょーだいちょーだい!」


 と藍は興奮気味にうさぴょ丸に両手を伸ばす。


「ちょっ……待ってごめん、それはだめっ……!」

「ほんとだうさぴょ丸だ! 舞も欲しい! 兄ちゃん、それちょうだい!」


 と舞も駆け寄ってきて、ぴょんぴょん飛び跳ねる。

  

「いや、だから、ごめんこれは無理っ……」

「やだやだあいこれ欲しいの!」

「舞もうさぴょ丸欲しいー!」

「ごめん、これはあげられないんだよ」


 なんとか諦めてもらおうと優しく声をかけるが二人は納得してくれず、やだやだと喚き続けるのだった。


 そして七瀬が困り果てていると、


「ちょっと圭、何やってるの! こんな時間に騒がせちゃだめでしょ!」


 七瀬の母親、七瀬の朱美が現れた。

 歳は今年で40歳細身で色の白い、ショートヘアのよく似合う、意志の強そうな目が印象的な女性である。彼女も風呂上がりのようでパジャマ姿で首にタオルをかけている。


「ごめん母さん。藍と舞が俺のぬいぐるみを欲しがっちゃって……でもこれは」

「はあ? じゃああげりゃいいでしょ、そんなぬいぐるみくらい」

「だ、だめだって。これ大事なもんなんだよ。いくら藍と舞の頼みでもこればっかりは」

「やーだー! あいこれほしいのー!」

「ほらもー。アンタお兄ちゃんでしょ、意地悪しないであげなさい」


 朱美はそう言いながらズカズカと部屋に入ってきて、有無を言わさずぬいぐるみ二体を掴んで藍と舞に手渡してしまうのだった。


「ちょ、ちょっと……!」

「やったー! ありがとにーた!」

「えへへー、ありがとお兄ちゃん!」


 藍と舞は無邪気に笑顔を見せる。

 そんな二人の喜ぶ姿を見ると、もう、返してとも言えなくなる。


「……ん。じゃあ、大事にしてくれよ?」


 内心残念な気持ちでいっぱいだったが、それを必死に隠し、優しく微笑みながら妹二人の頭を撫でる。


「ところで圭。アンタまた落描きなんかしてんの? ちゃんと勉強しなさいよ? 大学行けなかったらどうするのよ」


 朱美は呆れ顔で描きかけの絵を覗き込んでくる。


「わかってるよ。大丈夫勉強はちゃんとしてるから」

「にーた、あいもお絵描きするー!」


 と藍はいつの間にかペン立てから赤い油性のマジックを引っこ抜いていて、七瀬が気づいた時には藍は楽しそうにぐちゃぐちゃと花のような絵を描き始めていたのだった。描きかけの晶の絵はあっという間に藍の落書きで埋め尽くされてしまい、もう、修正のしようもなくなってしまった。


「なにするんだよっ?」


 七瀬は思わず悲鳴のような声を上げていた。

 すると、怒られるとは思っていなかったようで、藍は呆気に取られた顔をし、そして、目に大粒の涙を浮かべて今にも泣き出しそうに顔面をぐしゃぐしゃにするのだった。その顔を見て、七瀬はハッと我に返った。


「あっ……ごめん藍っ……!」


 謝るが、藍は、爆発したようにぎゃあぎゃあと号泣し始めてしまった。そしてそれに釣られて舞も喚くように泣き出すのだった。

  

「圭! なんでそんな意地悪するの! 藍が可哀想でしょ!」

「ご、ごめん。いや、だってせっかく描いた絵に落描きされたからつい」


 すると朱美は呆れ果てたようにはあーっと深いため息を吐き出して右手で頭をガシガシ掻いた。この仕草をする時の彼女は、だいぶイライラしている。七瀬はそれを知っているから、もう、口答えをするのをやめるのだった。


「アンタねえ、前から言ってるけど、そんな落描きして遊んでる暇あったらちゃんと藍と舞の世話してよね? お母さん仕事で忙しいんだから」

「ごめん……」

「ああ、そうだ。今度の土曜日藍と舞遊園地連れてってね」


 と舞をひょいと抱き上げ、背中をぽんぽん優しく叩きながらあやす。


「へ? 土曜日……えっと、ごめん。実は今月の小遣い殆ど使っちゃったんだよ」

「はあ? 藍と舞の世話があるのわかってるでしょ、なんで使っちゃうのよっ?」

「そんなの。俺にだって欲しいものくらいあるんだからしょうがないじゃん……」


 ごにょごにょと反論するも、朱美が再び右手で髪をぐしゃぐしゃと掻きながら盛大なため息をついたので、もう口を開くのを止めておいた。


「欲しいものって。何買ったか知らないけど、物より妹の方が大事でしょ。まったく本当アンタって子は……」

「だって……」

「ほら、舞も行くよ」


 と朱美が声をかけたので、七瀬は藍をそっと床に降ろした。藍はまだ顔をぐしゃぐしゃにして涙と鼻水を垂らしながらしゃくり上げている。


「にーた、おこってる?」

「さっきは急に大声出してびっくりしたよな? ごめんな藍。兄ちゃん怒ってなんかないから大丈夫だよ」

「ほんと?」

「ああ、ほんとほんと。だからいつもの藍みたいに笑ってほしいな」

「ん……」


 と藍はごしごしと涙を拭いて、えへへ、と無邪気に笑うのだった。その表情を見て七瀬はほっと胸を撫で下ろし、そして優しく頭を無でるのだった。


「じゃあ、圭。遊んでないでちゃんと勉強するのよ」

「はーい」


 そうして三人が部屋を出ていくと、七瀬は小さくため息を吐き、そして引き出しからノートパソコンを出して立ち上げた。

 頬杖を付きながら、イラスト投稿サイト『ピクシィズ』を眺め、お気に入りの絵師の更新を確認する。


「んー……今日も更新してないな魔蟲クモハチ先生」


 残念そうに呟き、過去の画像を眺める。そこには『365スウィーツチャレンジ』のタグのついた、動物とスウィーツを題材にした様々な可愛らしいイラストが並んでいる。

 魔蟲クモハチの描くイラストは、苺をモチーフにした部屋の中でケーキを頬張る兎や、シュークリームのベッドで眠るネズミなど、絵本に出てきそうな可愛らしいものが多く、七瀬はそんな魔蟲クモハチの世界観が大好きなのだ。


「インスカの方も止まってるしツミッターの方も更新されてないし……」


 と再びため息を吐き、ノートパソコンをぱたんと閉じる。


「忙しいのかな。なんか転職したって書いてたし……」


 と頬杖を付き、チラリと机の上の写真たてに目を向ける。そこには、中学時代の七瀬と母親の朱美が仲睦まじげに満面の笑みで肩を組みながら写る姿があった。七瀬はしばらくそれを寂しそうに見つめてから、そっと、机に伏せ置いた。


「……寝よ……」


 

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