初めての味
しかしとんでもないことになったな、と、黒崎はソファの肘置きに頬杖をついてテレビの番組表を適当に確認しつつ、今日のことを改めて思い返す。
仕事が終わり疲れた心と体を引きずりながら歩いていると管理会社からアパートが火事になっていると電話があり、急いで駆けつけると既に自宅は火の海だった。
描き溜めた絵も思い出も全て炎に飲まれて途方に暮れ、行き場を失っていた所を晶に拾われた。
黒崎の部屋は、彼自身掃除はあまり得意な方ではなかったので部屋のそこかしこに読みかけの本や画集が積み上げられれ、クリアしないまま放置されたゲームがテレビボードに乱雑に突っ込まれていた。一応洗濯物は溜め込まないようにしていたが、あまり掃除機もかけなかったし、コンビニ弁当の容器は洗いもせずごみ箱に突っ込んでいた。お世辞にも綺麗とは言い難い部屋だったが、ゴミ屋敷というわけではなく、ただ少し掃除が苦手なアラフォー独身男の部屋という感じだった。彼はそんな部屋が快適で気に入っていた。
そして今、そんな彼がいるのは、きれいに片付いた、ゴミ一つない部屋である。ふかふかのソファに尻を埋め、毛足の長いふかふかのカーペットが足を甘やかす。
(私みたいなおっさんがいていい場所じゃないだろ……)
早めに部屋を探して出で行こう。
黒崎がそんな事を考えていると、カウンターキッチンの横の扉が開き、晶が出てきた。
「おまたせしましたー」
「ああ。じゃあ早速用意するか」
と黒崎は晶を見る。
白い大きめのTシャツを着た晶が濡れた髪をタオルで拭きながら歩いてくる。 シャツの裾から若々しく張りのある、それでいて柔らかそうな太腿が無防備な姿をさらけ出している。ただ、それだけだったらまだいいのだが、見た所、下半身に何も穿いていない……いや、服が大きいから隠れてしまっているだけで、さすがに穿いてないということはないだろう。
(どっちだ……⁉ いやさすがに穿いてないことはないだろう……穿いてなかったら本気でヤバイぞコイツ。いやまあ私相手にそんな気にする必要もないのだろうが……いやいや私も男だぞ、もう少し危機感を持つべきでは?)
「どうかしましたか?」
「あ、ああいや……随分大きいな、と」
「へっ? あ、はい、えと……お、お恥ずかしいのですが……あ、iカップありますので……」
と晶は顔を赤らめ、恥ずかしそうに左腕で胸を隠して右腕をぎゅっと掴んだ。
「ばっ……! 違う! 服だ! 服の話だ!」
「あ、お、お洋服の話でしたか! はい、楽なので部屋着は大きめのものを着てるんです。あ、大丈夫ですよ、下はちゃんと穿いてますから!」
晶は得意げににっこり笑い、躊躇いもなく両手でTシャツを捲くり上げてヘソの上まで顕にした。確かに穿いている。確かに、タオル地のレモンイエローのショートパンツを穿いてはいるが。それを、男に向けて躊躇いなく見せつけられる神経が怖かった。いくら相手のことを男として見ていないとしても、それでも、目の前にいる人間は紛うことない男である。普通なら恥じらうくらいするだろう。
(温室どころか無菌室で育てられたせいで男を知らなさすぎて逆に警戒心が一切ない……のか……?)
「神滝先生……もう少し警戒心を持ったほうがいいぞ?」
「警戒心、ですか?」
「その、なんだ、私も一応男なのだからな」
しかし晶はその意味が全くわかっていないようで、きょとんとして首を傾げている。
「そんなことよりお菓子用意しましょう! 頑張って食べてみます!」
晶は小さくガッツポーズをする。
「頑張るようなものでもないが……」
そうしてテーブルの上には買ってきたスナック菓子が山盛り置かれ、ガラスのコップにコーラがたっぷり注がれた。その注がれた黒い液体を、黒崎の隣に座った晶が珍しそうに眺めている。
「面白そうな番組あんまりやっとらんな」
テレビ画面の番組表を確認しながら、つまらなさそうに呟く。と晶が「あ!」と身を乗り出した。
「あの! あれ! 怪奇・身の毛もよだつ世界の戦慄映像100連発! こういうの見てみたかったんです!」
「こういうの見たことあるのか? 夜中トイレ行けなくなっても知らないぞ」
「もー! 子供じゃないんですから大丈夫ですよ!!」
「盛大なフラグだな」
黒崎はさっそくバーベキュー味のポテチを開ける。
「神滝先生も好きなの開けていいぞ」
「えーとえーと……じゃあこの黄色いやつを。コンソメ味……楽しみです」
晶は袋を開けて中から一枚取り出し、ごくりと喉を鳴らして真剣な目でそれを凝視する。
「美味いぞ」
黒崎は自分のポテチをボリボリむしゃむしゃむさぼる。
だが晶は目の前のそれを口にする勇気がないらしく、じっと睨みつけたまま動かない。
と黒崎は彼女の手からコンソメ味のポテチをひょいと取り上げて、
「ほれ、口開けてみろ」
「は、はいっ……!」
晶はぎゅっと目を瞑り、口を開く。
まるで餌を待つ雛鳥みたいだな、そう思いながら、ポテチをピンッと弾いて口に放り込んでやる。
「んぐっ……!」
「ちゃんと口閉じろ」
「ふううっ……!」
晶はぎゅっと目を閉じたままゆっくり口を閉じ、恐る恐る咀嚼する。
「ふっ……お、美味しいです!」
「ほれ、飲んでみろ」
とコーラの入ったコップを晶に差し出す。
晶はそれを受け取ると、犬のようにクンクンと匂いを嗅いでから恐る恐るソレを舌先で舐める。
「お前は現代文明に初めて触れた原始人か何かなのか……?」
現代を生きる人間とは思えない反応に驚愕し、思わず眉をひそめる。
「んっ……」
ぎゅっと目を瞑り、やっとコーラを口に含み、少ししてから、こくっと小さく喉を鳴らす。
「……どうだ?」
「おっ……美味しい、ですっ……!」
ダイヤモンドのように瞳を輝かせ、感動と興奮に頬を赤く染め上げる晶。今時コーラでこんな反応を見せる人間なんていないだろう。製造会社の人に見せたら大喜びするのではないだろうか。
「皆さんこんな美味しいものを食べて飲んで生活していたのですか⁉ ズルいです!」
「別にズルくはないだろう。自分がに食べなかっただけなんだからな。……けどまあ、そうだよな。周りから見たら何で反抗しないのか、そんなの勝手に食べればいいのにって思うのだろうが、本人の中でその小さな一つ一つに親が紐付けられていてどうにも逃れられないんだろうな」
「先生にもそのようなご経験が?」
「いや。ウチは言いたいことは何でも言い合ってきた。前に教師をしていた時にそういう生徒を何人かみたことがあるんだよ」
黒崎はコーラをゴクゴクと喉に流し込む。
「神滝先生には嫌な言い方になるだろうが、まあ、一種の洗脳だな。親を悲しませないために、怒らせないために、と過剰な期待に応えて無理をしたり親の顔色を窺って自分の意見を口に出せなくなってしまう。いつしか本当の自分がわからなくなり、自分が何を好きかもわからなくなってしまうんだ」
「私と少し似ているかも……です。でも父は私に厳しいわけではなく、むしろ、逆に私を過剰に心配するんですよね。私も父を悲しませたくないあまり、確かに、色々と我慢してきました」
とポテチを一つ摘み、悲しそうに見つめる。
「さっきこれを食べた瞬間、父の顔が浮かびました。なんだか悪いことをしている気がして……」
「きっと、そのうち気にならんくなるだろう」
黒崎はボリボリとポテチを食べる。
「そういえば黒崎先生はどうして前の学校をお辞めになったんですか?」
「んー……まあ。十年教師を続けて、結果、体調を崩して倒れてな。一年妹の家で世話になった後、約四年間、害虫駆除業者で働いていた」
「害虫駆除⁉ なんでまた」
「まあ、体調も回復していつまでも妹の世話になってるわけにも行かなかったので適当に目についた求人に応募したんだ。まあ虫は苦手ではなかったのでな。……で、今年の四月に社長が会社の金持って愛人とトンズラしたんだ。で、職安に行ってみたがなかなか納得行く求人がなくてな。妹に相談したら、うちの学校の求人を見つけてくれたんだ。躊躇いはあったが、まあ……この仕事が嫌いなわけではなかったから、またチャレンジしてみようかと思ったんだ。しかも運良く専任教諭の募集だったしな。ちなみに、当然、給料は支払われないままだし社長は未だに行方不明だ」
黒崎は怒りを顕に顔をしかめ、ガツガツとポテチを貪り食う。
「えええええ!」
「バイトから初めて必死に勉強して資格取って社員になって、このままずっとこの仕事を続けていくんだろうな、なんて当たり前のように思っていたんだがな」
ポテチの袋を持ったまま両腕をだらりと膝に垂らし、肩を落として項垂れる。
「ああああっ……元気出してくださいっ……」
晶はおろおろしながら黒崎の腕にそっと触れてくる。
「あー……すまん。思い出して腹が立ってきてしまってな……」
「えっと、えっとっ……あ! 番組始まりますよ! 気分転換に一緒に見ましょう! 夜道を徘徊する呪い人形ですってっ」
「呪いたい……」
「先生っ……!」
★
心霊番組は百位から順番に全世界から集めた恐怖映像を紹介しつつ、スタジオのタレントの反応を映すと言ったよくある構成だった。しかし百位付近の映像はいかにもフェイクと言った感じで、特殊メイクを施した役者が追いかけてきたり突然上から降ってきたりと、B級映画のようなノリが満載だった。
(海外の幽霊は自己主張が激しいな。しかしこんなので怖がる奴いるのか?)
黒崎はコーラを一口飲んだ。
(ん……?)
ふっ、と左腕に何かが触れた。見ると、真っ青な顔をした晶が黒崎の腕に両手を添えていた。
「大丈夫か? やっぱりやめといた方がいいんじゃ」
「そ、そんなことないです! 怖いけど見たいですっ……怖いけどワクワクしますっ……!」
「本気でトイレ行けなくなっても知らんぞ」
呆れつつそう言って、テレビに視線を戻す。
すると。
明らかにフェイク映像と判るほどハッキリと映り込んだ耳まで口の裂けた老婆がボロボロの赤ちゃん人形を抱えながらダッシュで走ってくる映像が流れた。ハッキリと正面から捉えられたその映像、撮影者は余程冷静な人間なのだろうと思わせられる。
(これならホラーゲームの方がよっぽど怖いな)
などと考えていると、晶がガッツリ腕に腕を絡めてしがみついてきた。余程怖いのだろう、涙目になって小刻みに震えている。だが、そんなことよりも、彼女がぎゅっと腕にしがみつくことによって押し当てられた胸の感触のほうが問題だった。
(ちょっと待てっ……! コイツ何考えてるんだ! いやそんなことよりこの感触……もしかして……いや確実に下に何もつけとらんだろっ……! 柔らかい……デカい…………あーそういやもう何年そういう事してなかったっけな……教員時代にフラレたのが最後だからもう六、七年か……って待て、ど阿呆! 落ち着け黒崎清史郎! 無心だ、無心になれ! あー! 煩悩を打ち消せ! えーと、煩悩を打ち消す方法っ……!)
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏………」
「きゃー! 黒崎先生が取り憑かれました!」
「あーいや、大丈夫だ……すまん。ところで、その……暑くないか? だから、少し離れてくれないか」
「そうですか? 私はそこまで暑くないですけど」
晶がようやく腕から離れ、黒崎はほっと胸をなで下ろす。
だかまたすぐに、ぎゅっと腕にしがみつかれた。
「おい。だから……」
「だめ……ですか?」
ちょっと涙を浮かべ、ちらりと上目遣いで見てくる晶。
そんな彼女を見、黒崎は不覚にもきゅんと……いや、胸がギュンとした。
(なんだコイツっ……クソ可愛いんだが!)
と黒崎が衝撃を受けていると、
「番組が終わるまでの間で構いませんので……」
晶が更にきゅっと腕にしがみついて来た。
「終わるまで……だぞ……」
恐らく本人は無自覚なのだろうが、そんなふうに可愛くお願いされたら断ることもできない。なんだか恥ずかしくなり、顔が熱くなったが、それを悟られないように左手で顔を押さえた。
「えへへ、よかったです」
「……寝る前にちゃんとトイレ行っとくんだぞ」
「先生、お父さんみたいですね」
えへへ、と晶は笑う。
「まあ、年齢的にギリそうかもな」
黒崎はポテチを口に放り込む。
「えーと、お幾つでしたっけ?」
「今年で38だ」
「あはは、じゃあ全然お父さんなんかじゃないですよ」
「神滝先生は確か22歳じゃなかったか?」
「いえ。23歳ですよ」
「15も違えば親子みたいなもんだろう」
「うーん。ギリ兄妹くらいじゃないですかね?」
「兄妹だったら離れ過ぎだろう」
「でも親子だと歳が近すぎる気もするんですよねえ」
腕にしがみついたまま、うーんと首を傾げる晶。
とその時、廃墟探索に来た少年達の撮影した映像が流れた。彼らが楽しげにお喋りしながら恐る恐る扉を開くと……髪の長い女の顔がぬうっと現れ、少年達は悲鳴を上げて逃げ出し、そこで映像は終わった。
「お、お化け! 髪の長い! お化けですよ先生!」
「神滝先生。こういうのは殆ど作り物だと思うぞ?」
「そ、そうなんですかね? でも凄くリアルです……」
「そう、なのか?」
「あの。黒崎先生」
「なんだ?」
「私のことは晶でいいですよ」
えへへ、と晶が笑う。
「流石にそれは馴れ馴れしすぎないか」
「構いませんよ。どうせ暫く一緒に暮らすんですし」
彼女の想定する暫くとはどのくらいなのだろう?
黒崎は長くて一週間を想定しているのだが、もしかしたら彼女の中では一ヶ月くらいなのかもしれない。だがもしそうだとしても、そんなに世話になるわけには行かないし、何より色々と辛すぎる。
こんな無防備な上に可愛くてしかもたわわな胸を実らせた女性とひとつ屋根の下なんて、狼の目の前に極上の肉をぶら下げて待てをさせているようなものである。もちろん黒崎は彼女に指一本触れるつもりはない。だから、今のこの状況は彼にとってある意味拷問なのだった。
「ところで、全然食ってないがもういいのか?」
「は! テレビに夢中で忘れてました! ではいただきます!」
晶はテレビを見ながら、黒崎のポテチの袋に手を伸ばした。それから二人はポテチを食べつつ心霊番組を楽しんだ。
番組が終わったのは23時だったが、恐怖のあまりか晶は全然眠たそうな様子を見せず、むしろ逆にギンギンに目が冴えてしまったようだった。
一方の黒崎は仕事や火事、突然の環境の変化などストレスが重なったのか普段よりも強い眠気に襲われており、テレビが終わる頃には半分夢の中だった。
「怖かったですね、先生」
番組が終了すると、晶はほっと胸をなで下ろし、腕にしがみついたまま黒崎を見た。が、黒崎はもう半分眠りこけており、ぐったりと晶にもたれかかってきた。
「……黒崎先生……あのっ……」
(顔、近い……)
晶はちょっとだけドキドキして、頬を赤らめた。そしてじぃっと彼の顔を観察してみた。
(結構、整ったお顔してる……。髪、長いなあ……。そういえば腕、引き締まってるな……。お腹も締まってるのかな……)
黒崎が眠っているのを確認し、ドキドキしながらそっとお腹に手を伸ばす。
触れてみると、彼のお腹は想像以上に硬く引き締まっていた。初めて触る男性の体に少し興味が湧いたのと彼の体の締り具合に驚き、思わずさすさすと腹を撫でてしまった。
(服の下、どうなってるんだろう。って、勝手に見るのは失礼だよね⁉ けど、見てみたい……。ちょっとだけ、ちょっとだけなら大丈夫……だよね? どうしよう、なんかドキドキしてきた……)
緊張と興奮で顔を真っ赤にしながら、生まれて初めて見る異性の肉体への興味を抑えきれずに、罪悪感を感じつつゆっくりとTシャツを捲り上げる。
バキバキに腹筋が割れているわけではないが、程よく引き締まっていて、年齢的にありそうなたるみが一切ない。学校の中年教師達は都筑以外は服の上からでも判るほどだらしなくお腹がたるんでいるのに、彼にはそれが一切ない──晶は初めて見る男性の引き締まった肉体に、謎の興奮を覚えていた。
(す、凄いです! たるみが! たるみがない! な、なんだろう、すごくドキドキする……! これ、これがエロいっ……というやつなのかな! どうしよう、お腹だけじゃなくてもっと上の方も見たいっ! けど、流石にそれはだめだよね⁉ あああどうしようこれじゃ私、変態みたいだよっ?)
しかし、晶はシャツを下ろそうとはしなかった。
ドキドキしながら、ゆっくりと、シャツを捲りあげ……
「……おい。何をしている」
「ぴゃーーーーーーーー!」
突然声をかけられてパニックになり、奇声を上げながら一気にシャツを下ろす。
「あ、あぁあごめんなさい! その、あの、体引き締まってるなとっ……ああぁああぁあごめんなさい!!!」
「害虫駆除の仕事は体力がなきゃ勤まらんからな。一生続けていくつもりだったので普段から鍛えていたんだ」
「そそそそうでしたか失礼しました!」
「大丈夫か、顔真っ赤だぞ」
「ひあああああ! すすすすみません男の人の体を見るのは初めてなもので!」
晶は赤面を指摘されて余計に恥ずかしくなってしまい、慌てて両手で顔を覆った。
「ああ、なるほど」
「すすすすみません勝手に見てしまって!」
「構わん、減るもんじゃなし」
「あの、お詫びに私のお腹も見せしたほうがよろしいでしょうか!」
「いらん! 落ち着け!」
晶が自分のシャツをぎゅっと握ったのを見て、慌ててその手を押さえた。
「本っ当に気をつけろよアンタなっ……」
「す、すみません……」
「まったく……。そんなことよりもう寝るぞ。明日は一緒に出かけるんだろう」
頭を押さえ、はあっと深いため息を吐く。
「そうですね。もうこんな時間ですし。ポテチとコーラ、とっても美味しかったです。えへへ、明日の分もありますねえ」
「まあたっぷり買ったからな。予約してるゲーム機を取りに行く予定だし、明日はお菓子を食べながら徹夜でゲームだな」
「はうう、物凄く駄目なことなのに、なぜだかワクワクしますっ……!」
「んじゃあ、もう寝るか」
黒崎は手で隠しもせず大きなあくびをした。
「はい!」
晶はにっこり笑った。
★
「ん……?」
ぐっすり眠っていた黒崎は、何かの気配を感じてふと目を覚した。
生気のない目をした女性がベッドの横に立ち、じいっと黒崎を見下ろしている。
「おわああああああああああああああ⁉」
絶叫し、黒崎は布団を跳ね上げて飛び起きた。
「ぴゃーーーーーー⁉」
黒崎の悲鳴に女も悲鳴を上げて後退りする。
「って、なんだ晶か……何をしてるんだお前は」
「あう……ごめんなさい、実は」
晶はそっと近づいてくると、躊躇いもなくベッドに乗ってきた。
「待て待て待て! なにしてんだお前!」
「すいません。実は、その、お化けが出てきそうな気がして怖くて眠れなくて」
枕をぎゅっと胸に抱え、上目遣いで訴えてくる。
「だから言っただろう」
呆れ、自分の髪をクシャッとかき上げてため息を吐く。
「あの。一緒に寝てもよろしいでしょうか?」
「いいわけあるか! あのな、アンタは十五も歳の離れた小娘に手を出す男なんているわけないと思ってるんだろうがな、いい歳したおっさんが未成年に手を出す事件だって毎日のように起こっててだな! だから38歳のおっさんが23歳の小娘に手を出す事だってあり得るんだぞ!」
「先生、何かするんですか?」
「するわけないだろ! 私は何もせん!」
「じゃあ問題ないですよ」
晶は疑うこともなくにっこり笑うと、安心したように隣にころんと寝そべった。
「おいこら!」
「えへへ、早く寝ましょう?」
「……まったく……」
これは言っても聞かなさそうだ、と、仕方なく、黒崎も横になった。
別に何かするつもりもないし、年齢差を考えれば意識するのも変な話だ。と黒崎は思い、気にせず眠ることにした。
(しかし……虫を寄せ付けんように育てた結果がこれとは皮肉なもんだな。虫の怖さも知らずに育ったせいで逆に自分からヘラヘラ虫に近づいていくんだからな……)
目の前の晶は黒崎を一切警戒することもなく、もう可愛らしい寝息を立てている。
(よく今まで無事でいられたもんだな)
変な男に引っかからなければいいが。
黒崎は目の前の娘の将来が少し不安になり、幼い頃の妹にしたように彼女の頭を撫でるのだった。が、すぐに我にかえり、バッと手を引くのだった。
(……今のはセクハラだな……)
反省し、自己嫌悪し、顔を押さえた。
翌朝、スマホのアラームに起こされ目を覚ました黒崎は、何か違和感を感じて己の腕の中を確認した。すると何故か、晶が腕の中でべったり胸にくっついて眠っていた。
(嘘だろ……何を考えてるんだコイツは……いや、待て。もしかしたら私かもしれん。私から晶を抱き寄せたのかもしれんぞ。どっちだ……! どっちなんだっ……! いや、そんなことより先ず起こすべきか……!)
「お、おい。朝だぞ起きろ」
左手で晶の体を揺すってみると、彼女は少し顔をしかめ、眠そうに薄っすらと目を開けた。そして目をこすりながらぼんやり黒崎を見、少しの間ぼーっと何かを考えた後、へらっと笑うのだった。
「えへへ、おはようございます」
「えーと、すまん。この状況はどういうことだ」
「すいません、お化けに追いかけられる夢を見まして……」
申し訳なさそうに謝りつつ、きゅっと胸にしがみつく晶。
「なるほどな。で、よく眠れたか?」
「あ、はい。お陰様でぐっすり眠れました」
「そうか。それは良かったな」
(あーーー! よかった! 無意識にセクハラしたかと思ったぞ! あっぶねえええ!)
「先生? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だ。ほら、もう起きるぞ」
黒崎はのそのそと起き上がる。
「えへへ。朝ごはん作りますね」
晶も起き上がり、にこにこご機嫌な笑顔を見せる。
期間限定とはいえ、朝起きたらこんな可愛い女性が隣で寝ているとか、贅沢な話かもしれない。そのうちバチが当たるのではないか、黒崎はそんなことを思うのだった。
「どうかしましたか? 先生」
「いや……なんか、贅沢だなと」
「贅沢、ですか?」
「なんでもない……」
晶は不思議そうに首を傾げた。
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