初めての、コンビニ
選択、そらは即ち幸福との出逢いである。
近所のコンビニ【モーソン】まで徒歩五分だった。
普通なら仕事帰りにちょっと寄ってアイスやスイーツを一つ二つ買って帰りもするのだろうが、晶にとってはこの場所はただの風景に過ぎなかったに違いない。今、この瞬間までは。
「はうっ……! こ、これがコンビニというやつなのですね……!」
コンビニに入るや否や晶は瞳を輝かせ、興奮して左手でぎゆっと、黒崎のTシャツの袖を掴んだ。右手は繋いだままで、黒崎は正直暑いので離したかったのだが、晶の方がぎゅっと掴んでいて離すことができなかった
「よし。今回は私の奢りだ。好きなものを好きなだけカゴに入れていいぞ」
「ええっ? それは流石に申し訳ないですよっ」
「何を言っている。こっちは居候させてもらっているんだからこのくらい安いもんだ」
「でも……」
「よし。まずはスナック菓子を攻めるぞ」
黒崎はさっそくスナック菓子コーナーに向かった。
「ああ、待ってください黒崎先生ぇ!」
手を繋いだままの晶は、強制的にスナック菓子コーナーに連行されてしまった。
スナック菓子コーナーは黒崎には見慣れた光景だが、隣の晶は感動して瞳を輝かせながら商品棚を眺めている。まるで珍しい宝石でも見ているかのように呆けた顔をする彼女を見、黒崎はちょっとだけ笑ってしまった。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。スーパーにもスナック菓子コーナーはあるだろう。行かないのか?」
「はい、もちろん通ったりはします。けど、コンビニのお菓子コーナーは初めてなので、なんだかワクワクします!」
「そういうもんなのか。好きなのを選んでいいぞ」
「へっ? えーとえーと……ど、どれがいいのでしょう?」
「自分で選ぶといい。コンビニ限定の新商品もあるな」
「そもそもスナック菓子を食べたことがないので味の想像ができません……」
「まあ、そうか。よし、じゃあ定番の塩とのり塩とコンソメ、あとは新商品も全部買っとくか」
と黒崎は躊躇いなくスナック菓子をカゴにぶち込んでゆく。
「え、えええ⁉ そんなに買うんですかっ?」
「選択肢は多い方がいいだろう。あとは飲み物とスイーツコーナーだな」
「カゴ一つじゃ足りませんねえ」
「そうだな。じゃあ取りに行ってくるからカゴ頼む」
と晶にかごを手渡す。
「えっ……手、放しちゃうんですか?」
「もう怖くないだろう」
「ちょっと不安ですけど、慣れなくちゃですよね……」
晶は不安げに、そっと手を離した。
「そんな何時間も離れるわけじゃないんだから大丈夫だろう。安心しろ、すぐ戻る」
黒崎はそう言って晶から離れて、入り口にカゴを取りに向かった。そして彼がカゴを取りに行くと同時に、大学生風の二人組の男が入店してきた。
そしてすぐに、
「あっれ〜? お姉さん一人? えーそれ家で一人で食べるの? よかったら俺らが付き合ってあげよっか?」
「ねえねえアドレス交換しん? え、大学生? どこ? 家近所なん?」
「えー、よかったらこれから一緒に飲みに行かね?」
「いーねー! 俺らいい店知ってるんだけどー」
「え、えええ⁉ あの、困ります、あのっ……黒崎先生えー!」
黒崎はマラソン選手もビックリの美しいフォームでダッシュし、腕を捕まれ半泣きで困惑する晶の背後から男の腕を掴んだ。
相手の男達より明らかに歳上で、目つきも悪く、しかも身長が183cmと高身長──自分達よりデカくて目つきの悪いおっさんに凄まれて、男二人はヒッと小さく悲鳴を上げるとすごすごと退散した。
「あの、ありがとうございます」
「やっぱり夜間の外出は禁止で」
「えええ⁉ なんでですか⁉」
「まさか離れた瞬間に虫にたかられるとは思わんかったからな」
「たまたまだと思いますよ?」
「まあいい。それよりジュースを買おう」
黒崎は後ろのドリンクコーナーに移動した。
「さすがにジュースは飲んだことあるだろう?」
「えっ……と。100パーセントのやつなら……」
「嘘だろ……」
「体に悪いから、と……。もちろん飲み過ぎなければ全然問題ないことはわかっているのですが……」
「よし。コカ・コーラの味を教えてやる」
「はう! 骨が溶けると噂の!」
「こんなもんで溶けるか! 昭和の都市伝説だぞそんなもん」
「はい。さすがにそれは信じていません。ただ父が頑なに信じて疑わないので、私も、飲むのはやめていたんです」
「なるほどな」
コカ・コーラの2Lペットボトルと他の炭酸飲料も数本かごに放り込む。と、晶を見ると、彼女は隣のお酒コーナーで物ほしそうな顔でチューハイを見ていた。
「それは酒だぞ? 飲んだことないんじゃないのか?」
「んー、興味はありますねえ」
「子供にはまだ早いぞ」
「んもー! 子供じゃありませんてばあ!」
晶は頬を膨らませ、子供みたいにぷんすか怒る。
「どう見ても子供だがな……」
「先生はお酒飲むんですか?」
「ああ、まあ結構好きだな。けど、居候している間は飲まんよ」
「別に私のことは気にしなくても構いませんよ?」
「こっちは気にするんだよ。ほれ、スイーツコーナー見に行くぞ」
「た、食べ切れますかね」
「まあ、スナック菓子は日持ちするしな」
「あの。私、スイーツ系も見たいんですが、お店の中をもっとじっくり見たいです」
晶は瞳を輝かせながらキョロキョロ辺りを見回す。
「別に構わんが……後は本とか日用品とか冷凍品……とホットスナックくらいか?」
「えへへ、楽しそうです」
晶は嬉しそうに笑う。
黒崎にとってはただのコンビニだが、彼女にとっては長年密かに憧れていた場所なのだ。もしかすると観光地にでも来たテンションなのではないだろうか。いや、流石にそれはないか──などと考えていると、いつの間にか晶は雑誌コーナーに移動していた。
「なんか面白そうな雑誌でもあったか?」
「見てください、黒崎先生! この人めちゃくちゃおっぱい大きくないですか⁉」
晶は瞳をキラッキラ輝かせながら、グラビアアイドルが表紙の雑誌を見せつけてきた。
「か、買うのか? 男性向けの週刊誌だぞ」
「グラビアアイドルという職業があるのは知ってましたが、見るのは初めてです。私も他の人よりちょっと大きいですけど、他の方の大きい胸を見るのは初めてなので新鮮です」
「こういうのも初めてなのか。普通の本屋でも売ってると思うが」
「週刊誌コーナーも禁止されているんです」
「涙が出そうだ……ん?」
ふと視線を感じて見ると近くで雑誌を探している……ふりをしながら、五十代くらいの小太りのおっさんが横目で晶の乳を覗き見ながら鼻の下を伸ばしていた。
「……なにか?」
声をかけると、男はギクッとして足早に去っていった。
「? どうかしましたか?」
「いや。なんでもない。あんまり私から離れないようにな」
晶は不思議そうに小首を傾げつつ雑誌を黒崎のカゴに放り込む。
「って、これ買うのか」
「えっちな雑誌ではないはずですので、ちょっと見てみたいなーなんて。えへへ……。だ、だめ、ですかね……」
「まあ、別に構わんが」
「あ! ポケットティッシュも売ってますよ! この猫ちゃんの可愛いですね、こういうの好きです」
雑誌コーナーの後ろにある日用品コーナーでポケットティッシュを見つけ、また瞳を輝かせる晶。ただのコンビニでここまではしゃげる人間なんて世界に一人なんじゃないか? 黒崎はそう思わずにおれなかった。
「じゃあ、それも買うか」
「えへへ、本当になんでも売ってますね。楽しくて一日中でもいれちゃいます」
猫の柄のポケットティッシュを見せながら、にこにこ笑う晶。ただのコンビニでここまではしゃげる人間は、やっぱり世界で彼女ただ一人だろう──黒崎は改めて確信するのだった。同時に、そんな彼女が悲しくも思えた。世間一般の人が当たり前に触れる物事から遠ざけられ、半ば洗脳とも思える歪んだ常識を教え込まれ、この歳になるまでその父の教えを信じて生きてきた……もっと早くに誰かが彼女を連れ出すべきだったのだ。なぜ、誰も彼女を連れ出せなかったのだろうか。
「あの、他の所も見ていいですか⁉」
「ああ、構わんが……」
「えへへー、コンビニって楽しいですねえ」
晶ははしゃぎながらインスタント麺コーナーに入ってゆく。そこでも彼女はもの珍しげに商品を眺めていた。だから黒崎は定番のカップ麺全四種類をかごに放り込んだ。
「は、早死するから駄目だと父に禁止されていたカップ麺をあっさりとかごに入れました……!」
「うちのばーさん週7で食ってるが90歳で畑仕事して韓流アイドルの追っかけして年に五回は韓国まで行ってるぞ」
「むしろ元気の源⁉」
そうして冷凍品やお弁当コーナー、ホットスナック、アイス、と店内を1周りして、晶が満足したところで店を出た。
行くまでは不安がっていた晶は、帰りは満足そうににこにこ笑っており、もう手を繋がなくても大丈夫そうだった。
飲み物の入った重い方の袋を黒崎が持ち、スナック菓子の入った軽い方を晶が持ち、二人は並んでアイスを食べながら帰路についた。
「楽しかったか?」
「はい。最初は不安でしたけど、なんだかワクワクしちゃいました。でもやっぱりちょっと、お父さんに申し訳ないなって思っちゃいます……」
「まあ、それはしょうがない。今までずっと言いつけを守ってきたんだからな。でもそのうち慣れるだろう」
「しかもこんな、アイスの食べ歩きなんて……美味しいですけど!」
「このモーソン限定のシャインマスカットバニラ食べてみたくてな」
「美味しそうですね。私の果肉入りザクザクイチゴ味も美味しいですよ」
「それも美味そうだな。今度はそっちを買ってみるか」
「一口食べますか? よかったらどうぞ」
「はっ? あのな、そういうのは友達とか恋人とやるもんだろうが。よく知りもしないおっさんとするもんじゃないぞ」
「もうよく知らない人じゃないですよ」
「だいたいソレは間接キスになるぞ」
「キッ……!」
間接キス──
そう言われてやっと気づいたのか、晶は真っ赤になって固まってしまった。
「もっと言えばおっさんとの唾液交換になるぞ」
「やめてください、なんて嫌な言い方するんですかもー!」
「事実だからな。わかったら軽々しく他人にそういうことをするんじゃない」
「わかりましたよもー……」
ぷうっと頬を膨らませ、ちょっとだけ怒る晶。
確かに嫌な言い方だったかも知れないが、あまりに世間知らずな彼女には丁度いいだろう。と、黒崎はそう思った。
「神滝先生、学生時代相当モテただろう」
「ふえ? いえ。私は中高一貫の女子校に通って、大学も女子大だったので男の人と接する機会は全くなかったです。だから彼氏もいたことありませんし、よく考えたら男の人とこんなふうに一緒に何かするのも初めてです」
「ま……マジか……」
「は! そうです! 先生が私の初めての男ですね!」
「言い方やめろ! いや待て、まさか進路も全て親父さんが?」
「はいそうですね。本当は地元の中学に通いたかったのですが、年頃の男は性欲の塊だ! 危険すぎる! と言う理由で自宅から一時間も離れた学校に通うことになったんです」
「それはそれで痴漢が心配なんだが」
「ああ、それなら大丈夫です。ちょうどよく父の通勤途中に学校があったので毎日送ってもらってましたので」
「ぬかりないなあ。だが、やりたい事とかなかったのか?」
「そうですねえ。習い事も暇の潰し方も全て父が決めていましたので。……よく考えたら、自分が何が好きかもよくわかりませんね。自分で決めたことってあまりないかもしれません」
晶はあはは、と笑うが、その顔は少し悲しそうだ。
「そうか……」
黒崎は最後の一口を咥えて棒から引っこ抜く。
「……明日、着替えを買いに行きたい。悪いが付き合ってもらえるか?」
「え? あ、はい、もちろんですっ」
「昼はハンバーガーを食うか。その後は、そうだな、ゲームセンターにでも行ってみるか」
「ハンバーガー……ゲームセンター……!」
「晩はコンビニ弁当を食ってみるか」
「コンビニ弁当……!」
「ああそうだ。ちょうど明日発売のゲーム機を予約していたんだ。夜は眠くなるまでゲーム三昧もいいな」
「ゲーム……! な、なんだか不良の休日って感じですけど大丈夫なんでしょうか⁉」
「安心しろ、不良要素は皆無だ」
「だって、全部、全部、禁止されていることですし……罪悪感が凄いです……!」
「コンビニは楽しかったか?」
「あ、はい! 噂通り何でも売っててびっくりしました。お弁当も美味しそうで……早く食べてみたいですね」
晶はえへへと頬を緩ませる。
「そうか。明日はきっともっと楽しいぞ」
「も、もっと……⁉」
「ああ、そうか。これはアレか」
「どれです?」
「私は共犯者だな」
と、黒崎は、小さくニヤリと笑った。
彼の言葉に、表情に、晶は驚いたように目をまん丸くした。
「共犯者……えへへ、なんだか本当に悪いことをしてるみたいですね」
と、晶は悪戯っ子のように笑う。
その顔はとても嬉しそうである。不安や罪悪感がないわけではないだろう。それでも彼女は世間を知ることを望み、変わらなければと思っている。そんな彼女の手助けができればと、黒崎はそう思うのだった。
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