第二話 神滝晶、おっさんを拾う

初めての、夜


 彼女を始めてみたのは入学式の後、人気のない渡り廊下を歩いていた時の事だった。長い金色の髪を風になびかせながら、穏やかな眼差しで中庭の桜の木を眺めていた。

 その時もう既に七瀬の心は彼女に奪われていたのだろう。その瞬間の彼女の姿が、一日経っても二日経っても頭から離れなかった。気がつくと彼女の姿を自然と目で追うようになり、特に用もないのに保健室に顔を出すようになっていた。

 彼女は……神滝晶は誰にでも優しかった。

 いつだって生徒の話を真剣に聞いてくれて、優しい言葉を掛けてくれた。そんな彼女の事が大好きだったが、反面、彼女の優しさを、笑顔を、自分だけに向けてほしいと思ってしまう。そんなことは無理な話だと分かっているし、彼女が自分だけのものになる日が来るなんて有り得ないとも分かっていた。それでも、それでも、貪欲にもそれを望んでしまう。

 高校一年生、初めて恋というものを知った瞬間だった。



「そっかー、妹さん元気だねえ。やっぱり子供は体力有り余ってるんだね」


 保健室、今は怪我人も病人もおらず、晶と七瀬は二人きりだ。幼稚園でも散々遊んだのに家でも元気すぎて困る、そんな七瀬の他愛もない話に晶はクスクス笑う。


「そーなんすよ。お陰で勉強も趣味の時間も殆どないんですから。幼稚園で遊び疲れてくれりゃいーんすけど、やっぱ子供の体力は化物ですよ」


 うんざりしたような、でも嬉しそうな顔をして、七瀬は話す。話すことは学校のことや、妹達の話がほとんどだ。悩みを口にすることはないが、たまに、ほんの少しだけ妹達や親の事を愚痴ったりもする。そんな時でも彼女はうんうんと優しく相槌を打って話を聞いてくれる。

 彼女と過ごす時間が彼にとって癒やしだった。

 昼休みの僅かな時間、その時が永遠に続けばいいのにと、何度願ったことだろうか。今日も、その願いは同じだった。けれど時計は残酷に時を刻み続ける。

 もっともっと彼女と二人きりの時間を過ごしたい。

 学校だけじゃない、できるならプライベートでも彼女と二人きりで過ごしてみたい。そんなの、自分達が生徒と教師である以上無理な話であることはわかっている。それでも、それを、強く望んでしまう。 

 少しくらいなら許されるんじゃないだろうか?

 特別な関係じゃなくてもいい。ただほんの少しだけ、彼女の時間を自分に与えてほしい。ほんの少しなら、もしかしたら、許されるんじゃないだろうか?

 そう、ほんの少しなら───


「と、ところでさ。晶先生って今度の日曜日──」


 暇ですか?

 良かったら一緒に遊びに行きませんか?


 恥ずかしさにその言葉をためらった、その、ほんの数秒後。突然保健室の扉が開いて、京介達が現れた。


「晶先生ぇー、お薬ください! 京介君が胃痛で動けなくなっちゃいました!」


 半泣きの時生が晶に抱きつかんばかりの勢いで両腕を伸ばして走ってきた。

 京介は真っ青な顔をして正木におぶられ、その後ろで緋夏が呆れ顔を見せている。


「ええっ? どうしたの何があったの⁉」

「時生が悪いのよ。教室でいきなり阿賀波君に抱きつくから、男子達の嫉妬の眼差しが一斉に阿賀波君に向いちゃったのよ」

「うう……だってぇ……今度ウエディングうさぴょ丸のぬいぐるみ取ってくれるって言うから嬉しくてつい……」

「烏丸さんもうさぴょ丸好きなの⁉ あれかわいいよね、私も好きだよ。アミューズメントの景品で出たやつだよね? 私もほしいんだーアレ。でもゲームセンター行ったことがないから諦めてて……」

「そうそう! そのアミューズメントの景品のやつです! これこれ!」


 と時生は元気にスマホの画面を掲げる。

 そこには目つきの悪い、お世辞にも可愛いとは言えない不細工な兎のぬいぐるみの画像があった。結婚式がコンセプトらしく、白い方はウエディングケープを被ってブーケを持ち、もう一方の灰色の方はタキシード姿で片手にリングケースを持っている。


「えーと、ブサカワってやつですかね?」


 その可愛さが一切わからない七瀬は純粋な疑問を口にした。


「えへへ、そうだよー。可愛いでしょ、うさぴょ丸ちゃん。いーなー、私も勇気出してゲームセンター行ってみようかなあ」

「それより胃薬を貰えませんでしょうか。あとベッド借りていいですか? さすがに重いです……」

 

 正木は苦しげな顔で言う。

 痩せ型とはいえ、身長190cmで体重65キロ、重いわデカいわで、教室からここまで来るのも大変だっただろう。


「ごめんよ正木君……僕なんて石の裏ですり潰されたクソ虫さ……」

「重いデカいの上にウザさまで加えてくるな投げ飛ばすぞ」


 正木は苛立った表情を見せた。


「あわわわわっ! ごめんね、すぐお薬持ってくるから待ってて! ベッドも使っていいよー!」

「いえ。人の目がなくなったらだいぶ落ち着いてきたので、お薬もらったらすぐ帰ります」

「本当に大丈夫なのか京介? 無理すんなよ?」


 京介はすぐに人に気を使うので、彼の大丈夫は信用できない。七瀬は疑うような眼差しでじっと京介を見る。


「ほ、本当に大丈夫だよ。僕、人に見られるの苦手だから視線が集中すると緊張してすぐ胃が痛くなっちゃうんだよね」

「ごめんね京介君、私のせいで……」

「ううん。時生さんのせいじゃないよ。全ては便所の片隅で朽ちた名もしれぬ虫のような僕のせいだよ……」

「それ以上言うならバリカンで頭髪全剃りするぞ貴様」


 正木は更に苛立った様子を見せた。


「はい、お水と薬だよ。大丈夫? 飲めるかな」

「あ、はい。ありがとうございます」


 正木の背中から降り、京介は胃薬を飲む。

 しばらく保健室で休ませてもらい、胃の痛みも治まった所で一同は教室へと向かった。


「あ、あの七瀬君ごめんね。なんか邪魔しちゃって」

「は、はあ? なんの話だよ。保健室は体調が悪い奴が来るとこなんだから別に邪魔とかじゃねえだろ」

「そ、そっか。そうだよね」


 京介はそう返事をしたが、しかし、京介は、いや、彼らにはわかっていた。七瀬が、晶との時間を潰されたことを残念に思っていることを。もちろん彼の言ったことは真実で、京介を心配していたことも事実である。だが、晶との時間が潰れたことを残念に思っていることも、また、事実なのである。そんなことは彼の表情を見ていれば一目瞭然である。

 なので、彼らは思うのだった。『本っっ当わかりやすいなあ』と。


 と京介達が廊下をあるいていると、廊下の角から一人の男が歩いてくるのが見えた。

 京介程ではないが背が高く、痩せ型ではあるが引き締まった体をした、目つきが悪くて無愛想な表情の男──確か今年で38歳と言っていただろうか。目つきの悪さと肩口まで伸びた黒い髪が印象的な男である。服装はしわの寄った黒いTシャツにジーンズで、服装に気を使っている様子はない。髪を伸ばしているのも、ファッションではなく、ただ伸びただけなのかもしれない。悪い顔ではないが、何も知らない人間が見ればその筋の人間と思うかもしれない。


 京介達が軽く会釈をすると、男も「もうすぐ授業始まるぞ。急げ」と無愛想にだが返してくれた。

 男が通り過ぎると一同は立ち止まり、彼の方を振り向いた。


「沼田先生と言い、美術室の先生って、みんなあんななのか?」


 七瀬が肩をすくめる。


「んー、たまたまじゃないかなあ。そういえばあの新任の先生、美術準備室で頭抱えて途方に暮れてたってクラスの子がいってたよ。まだ片付いてないのかなあ」

「あー、沼田先生相当散らかしてたもんね……。しかも復帰する事なくそのまま入院して辞めちゃったし」


 京介はとっ散らかった美術準備室の事を思い出し、新任美術教師の苦労を想いまた少し胃が痛くなるのだった。


「よし! じゃあ、月曜日、みんなで手伝いに行こう!」


 時生は気合十分にグッと拳を握る。


「なんで私達まで」

「そうだぞ烏丸。俺はもう美術教師に関わりたくないんだ」

「そんなこと言って、一緒に沼田先生のお見舞いに行ったじゃん」


 時生がぷうっと頬をふくらませる。


「あー、あれは、疑った詫びも込めてだな……」

「でも沼田先生の私物もあるかもしれないよね。僕、月曜日に手伝いがてら探して見るよ。見つけたら今度お見舞いの時に持っていくね」

「全く、本当お人好しなんだから……」


 緋夏がはあっとため息を吐く。


「いいわ、じゃあ、みんなで行きましょう。ただし、拒まれたら、素直に退散すること。わかったわね?」

「やったあ! よかったね京介君!」

「う、うん。ありがとうみんな」

「しゃーね、んじゃ俺も手伝うわ」

「全く……お前らといるとすぐに面倒事に巻き込まれるな」


 正木もやれやれとため息を吐く。

 こうして京介達は新任美術教師の知らぬ所で勝手に手伝いに行くことを決定するのだった。




  ★



 その日の放課後、午後7時──

 新任美術教師・黒崎清史郎は、燃え盛る自宅アパートを目の前にして立ち尽くしていた。夕闇迫る空にを背に真っ赤な激しく揺らめき、黒鉛が黒龍の如く空へと昇ってゆく。

 消防隊が必死に消火活動をする中、野次馬達が当然のようにスマホで現場撮影をし、それらの上空を報道ヘリが旋回する。


 ぽつ、ぽつ、と雨が降りだした。

 消防隊員にとっては恵みの雨だっただろう。

 だが黒崎清史郎にとっては絶望の雨としか思えなかった。


 描き溜めた絵も家具も大事な物も、全部、灰燼に帰してしまったし、行く宛もないので、とりあえず、近所の公園のベンチに寝転がってみた。

 冷静に考えれば一旦喫茶店なり漫画喫茶なりに行くという手もあるのだろうが、この時の黒先にそんな思考の余裕はなかった。


「寝煙草て! いや、隣人の寝煙草て! そんな事で全部燃えたのか! 私の絵も、やりかけのゲームも! 思い出も!」


 顔を両手で覆い、絶叫する。

 六月、汗ばむ体に湿気がべっとりと纏わりつき、更に追い打ちをかけるように雨足が強くなる。


「あーくそ、とりあえず今晩寝るとこを探さねば……」


 片手で顔を抑えたまま、地面に置いたリュックを手探りする。仕事用のパソコンはいつも持ち歩いているので無事だった。それだけが、不幸中の幸いだと言えるかもしれない。と一瞬思ったが、どう考えても失った物の方が多すぎるので、そんなことでは前向きになれなかった。


「あの……黒崎先生? ですよね?」


 聞き覚えのある可愛らしい声が降ってきた。

 誰だ? と顔を押えていた手を退け、声の主を確認してみると、見覚えのある女性が顔をのぞき込んでいた。空はもう闇に飲まれ掛けていたが、公園の街灯が、その女性をハッキリと照らし出していた。星空をデザインしたような半透明の青いビニール傘が街灯の光を受けて水滴を本物の星空のようにキラキラと輝かせている。


「ああ……アンタ、神滝先生か。もう暗くなるから早く帰ったほうがいいですよ」

「あの、こんなところでどうなさいましたか? 風邪引いちゃいますよ?」

「どうもこうもない。隣人の寝煙草が原因でアパートが全焼したんですよ」


 黒崎は再び両手で顔を覆った。


「ええっ? あの、もしかしてそこの牛丼屋さんの近くのですかっ? 今さっき前を通ったんですけど……見事に全焼してましたね」

「ええ。幸い怪我人も人死も出なかったみたいですが……でも、今まで描き溜めた絵も思い出もやりかけのゲームも何もかも消えましたよ」

「えっと、どこか泊まる場所はあるんですか?」

「あー、とりあえずしばらくネカフェかホテルに寝泊まりして部屋探します」


 と黒崎は、顔に雨がかかっていない事に気がついて手を退けた。見ると、心配そうな顔をした晶が黒先に傘を差し出していた。そのせいで彼女の体が濡れてしまっていた。


「アンタ何やってんですか、風邪引きますよ!」


 黒崎は飛び起き、晶の腕を掴んで傘を押し戻した。 

 だが彼女は強引に傘を彼に差し出し、


「あ、あの! よかったらウチに来ませんか?」

「はあっ?」

「あ、大丈夫ですよ! 私、ひとり暮らしなので!」

「余計悪いわ!」


 黒崎は再び晶に傘を突き返す。


「でも、ネットカフェやホテルだとお金かかりますでしょう? 全焼したってことは家具とかお洋服とか家電とか諸々一から買い揃えないといけないでしょうし……それに焦ってお部屋探すと事故物件つかまされる可能性もありますよ?」

「うっ……いや、しかしな」

「それに、こんなびしょ濡れの人を放ってなんておけませんよ」

 

 わざとらしくちょっと怒った顔をしてみせながら、再び傘を差し出す。


「いや、だがな、いくら行く宛がないからと言って赤の他人の男が独身女性の家に転がり込むのはな」

「それじゃ行きますよ」


 と晶は黒崎のリュックをひょいと手に取り、歩き出す。


「あ、おいこら!」


 黒崎は慌てて彼女を追いかけた。 

 すると晶はくるっと彼の方を向いて、


「それに今夜はカレーの予定なんですよ。カレーって一人だと余らせちゃいますし、しばらく続いちゃうんですよね。だから一緒に食べてくれると有り難いです」


 にっこりと微笑んだ。

 彼女はとても可愛く、職員室でも一部の男性教諭が度々彼女の話を話をしているのを耳にする。話の内容は彼女の容姿についてが主で、顔の可愛らしさや性格のこと、更には乳のデカさが堪らないだとか太ももや尻に触りたくなるだのといった耳を塞ぎたくなるようなものまで様々だ。

 彼女に憧れる男子生徒も多い、という話も聞いたことがある。黒崎は彼女について、顔の可愛い保健室の先生としか認識していなかった。だが今、その認識が、ほんの少し変わった。


(コイツ、危機感皆無のお人好しでめちゃくちゃ危なっかしい人間なのでは……⁉)


 いくら困っているからと言って、そこまで親しくもない、なんならまだ顔と名前くらいしか知らないような間柄の男をひとり暮らしの自宅に連れて行くだろうか? しかも彼女の口ぶりだと、一日どころか部屋が見つかるまで数日家に泊める気満々だ。相手がヤることしか頭にないような脳みそピンクな男だったら、確実に、今晩ペロッと食われていたかもしれない。黒崎は思わず想像し、ゾッとした。



  ★


 晶のマンションは黒崎の住んでいたボロアパートとは正反対の、築浅そうな小奇麗な建物だった。さすがに収入的にオートロックではなかったが、それでも5階建てマンション最上階の角部屋で、しかも2LDKという好物件だ。

 タオルを貸してもらって部屋に上がり短い廊下を進んだ先にある扉を開けると広いダイニングキッチンが現れた。左手にカウンターキッチンがあり、奥へ進むと2部屋分の扉が見えた。


 なぜ、ひとり暮らしで2部屋?


 一瞬考えて、すぐに、理解した。

 晶も若い女性だ。彼氏と別れ、同棲解消したのだろう──それからどれだけ月日が経ったのだろう、もう心の傷は癒えたのか?


(もしかすると同棲解消直後で心の傷が癒えず、寂しさを埋めるために私を拾った……?)


「あ。あそこの左の部屋使ってください。父が一時帰国した時に使ってるんですが、まだしばらく予定ないみたいなので」

「あ、ああわかりました……て、父親?」

「はい、そうですよ?」

「彼氏と同棲解消したんじゃないんですか?」


 思わず聞いてしまってから、無神経なことを口走ったと気付き慌てて両手で口を塞いだ。


「か、彼氏⁉ あの! 私彼氏なんていたことありませんよ⁉ うちの父凄く過保護で、大学時代にひとり暮らしするってなった時も自分が泊まれるようにって2LDKの、それもセキュリティ万全のマンションを選んだ程なんです。このマンションは、社会人なんだから自分で家賃払うって父を説得してなんとか認めてもらえた場所なんです」

「そ、そうなんですか。いや、無神経なことを聞いてしまって申し訳ない」

「別に無神経なことじゃないですよ。これからしばらく一緒に暮らすんですから、疑問に思ったことはどんどん聞いてくださいね」


 晶はクスクス笑う。


(この人、本当に私のことをしばらく家に住まわせるつもりか……あまりに危機感がなさ過ぎるだろう……)

「あーいや、明日にでも部屋を見つけて出ていきますからご心配なく」

「でも部屋はじっくり探した方がいいって父も言ってましたよ? ですから、気にせずのんびり探してください。あ、お風呂入ってください。風邪引いちゃいますよ」

「いや、それなら神滝先生も濡れてるでしょう。先に入ってきてください、私はあとでも構いませんから」

「私はそこまで濡れてませんよ。私は晩ごはん作っときますから。あ、着替えなら父のものがありますのでそれを使ってください」

「いや、しかし……」

「困った時はお互い様ですよ。しんどい時は、素直に甘えちゃっていいと思います」


 晶は優しく微笑んで、黒崎の鼻先をちょんとつつく。

 これは天然なのか計算なのか。他の教師や生徒にもこんなことをしているのだろうか。だとしたら、とんだ小悪魔だ。


「そ、そうですか。じゃあ遠慮なく……」


 なんとなく、何を言っても無駄なような気がした。

 彼女は純粋に相手のことを思って善意で手を差し伸べているだけで、だから、相手が自分に悪意を向ける可能性があるなんて微塵も考えていないのだろう。


(まあ、こっちも十五も年下の女性に何かしようとも思わんし、そんな気にもならんがな)

「あ! しまった今何時ですか!」


 突然晶は慌てふためきながらショルダーバッグからスマホを取り出した。



「うわーん八時過ぎてる!」

「何か用事でも?」

「いえ。八時過ぎて家に帰ってないと父が心配するんです」

「は? 一人暮らしなんじゃ」

「はい。そうなんですけど、八時以降は外出禁止なんです。毎日八時に父から確認の連絡が来るので返さないと心配しちゃうんですよ」

「は……いや、親父さん海外で暮らしてるんでしょう?」

「はい。そうですけど、これは約束ですから」


 と晶は大急ぎで父親に返信をする。


「いやいや……」

「返信終わりました。じゃあ晩ごはん作りますので、お風呂入っちゃってください。あ、急がなくても大丈夫ですからね?」


 えへへ、と晶が笑う。

 まあ、もう大人なのだから、適当に嘘をついて八時以降に外出するくらいはしているだろう。普通なら、そうするだろう。黒崎はその事についてはあまり気に留めなかった。

 促されて風呂に入り、一日の疲れと梅雨時の不快な汗とベタつきを一気に洗い流す。シャンプーを出して頭につけようとして、自分では使わないような甘く爽やかな香りに少し驚いた。


(しかし、全部燃えたなあ……)


 改めて火災の光景を思い出し、そして、全て失ってしまったことをじわじわと実感し始める。


(美大時代の物も含めると結構あったはずだが……デジタルのイラストはログインすれば見れるが……だが描きかけのやつもあったんだがな……。本当に、全部、消えてしまったのだな……)


 黒崎は早々にシャンプーを洗い流し、乱暴に顔を拭った。




  ★


 風呂から出ると、少し腰回りのゆったりしたスウェットパンツと、白いTシャツ、それから未開封のボクサーパンツが用意されていた。パッケージに貼られたままの『¥10000』の値札に目玉が飛び出しそうになった。


 一体どこの異世界に行けばこんな高級パンツが買えるんだ? 


履くのを躊躇ったが、ノーパンでいるわけにも行かなかったので仕方なくそれを履いてみた。正直、普段の1000円のものと履き心地は変わらないように思えた。

 Tシャツとスウェットパンツも、どこぞのブランド品なのだろうか? 

 心の中でまだ見ぬ晶の父親に深々頭を下げながら、気持ち丁寧にそれらを身に着けて行った。


 ダイニングキッチンに戻ると、もう美味しそうなカレーの匂いが漂っていた。見ると、Tシャツにショートパンツ姿で、髪をポニーテールに結ったエプロン姿の晶が鼻歌を歌いながらご機嫌にカレーを混ぜていた。


「あー、えっと。何か手伝う事は……」

「あ、大丈夫ですよ。もうできますので、ソファに座ってくつろいでいてください」

「えーと、皿を用意するくらいは」

「本当に大丈夫ですよ、先生は何も気にせずのんびりしててください」

「そ、そうですか……?」


 なんだか落ち着かないなあ、と思いながら、ソファに座る。可愛らしいパステルカラーの水色のソファに、床には白いふわふわのラグマット。机も白く、ホコリ一つなく綺麗に磨かれている。何もかもが自分の住んでいた家とは違いすぎて、落ち着かない。


(あの雑多な家が恋しい……)


 早く新しい部屋を見つけて出ていこう。

 黒崎は心に強く誓うのだった。



「ん……」


 カレーの匂いに誘われるように目を覚まし、眠い目を擦りながら辺りを確認する。しばらくぼんやりしてから、自分が晶の家に居候を始めたことを思い出した。、


「あ、起きましたか?」


 真横から晶の声がした。


 驚いてそちらを見ると、隣に、晶が座っていた。


「おわあ!」

「ひゃ! ど、どうしました⁉」

「あーいやすまん……びっくりしてな」

「あはは、ごめんなさい。先生があまりに気持ちよさそうに寝ていたものだからつい」

「あーもたれかかったりは……」

 

 恐る恐る聞いてみると、


「私は別に構わなかったのですが、先生、ずっと俯いて寝てました」

「構え!」

「へっ? あ、はい! えと、こうでいいのですか?」


 晶は戸惑いながら、そっと、黒崎の頭を撫でた。


「違う! そういう意味ではない!」


 思わず頭を抱えて項垂れる黒崎。


「ご、ごめんなさいっ。えっと、どういった意味だったのでしょう?」 

「気にしろと言ってるんですよ! アンタね、若い女がこんな赤の他人のおっさん家に連れ込んだだけでも危ないってのに、ちょっと危機感なさすぎやしませんかねっ」

「黒崎先生は怖いのですか……?」

「いや私は何もしませんよ。だからそういうことじゃなくて」

「私はよく生徒と話をしますが、黒崎先生のことを悪く言ってる人を見たことがありませんよ? むしろ、授業の内容が面白いとか、顔は怖いけど悪い人じゃなさそうとか言ってます」

「そ、そうなんですか? 授業面白いですかね……て私まだ赴任して来て二週間ですよ。そんなんで信用しないでください」


 黒崎は深いため息を吐いて再び項垂れた。

 と、空気を読めない腹の虫が盛大に鳴き、それを聞いた晶がクスクスと笑った。


「ご飯、すぐに用意しますね」

「あ、ああ……申し訳ない……」


 そうしてすぐに、机の上にカレーとサラダが用意された。

 黒崎がソファー側に座り、晶が向かい合って座っている。


「どうです?」

「ん。美味い……」

「よかったです」


 晶は嬉しそうに笑顔を見せる。


「そういえば、もう何年も手料理なんて食ってなかったな……自分でも作ることは滅多にないですし、なんだか新鮮ですよ」

「そうなんですか? いつも晩ごはんはどうされてるんですか?」

「まあ普通にコンビニ弁当だったり適当にどこかで食べたりしてますよ」

「こ、コンビニ!」

「そんなに驚きますか」

「あ、いえ……私コンビニって行ったことがないので……コンビニのお弁当ってちょっと憧れてまして」


 左手を頬に添えうっとりする晶。


「は……? いや、コンビニですよ、コンビニ。そこら辺にあるじゃないですか」

「はい。ですが父に禁止されていまして……あそこには体に悪い物しか売ってないし、人生に悪影響を与える物で溢れかえっているから駄目だと……」

「嘘でしょう……」

「あ。そうだ黒崎先生。私は年下なんですから、プライベートの時はタメ口でいいですよ?」

「いや、さすがにタメ口は」

「遠慮しないでください。私もその方がいいので」

「……じゃあ……神滝先生、ハンバーガーは食べたことあるのか?」

「実はそれも禁止されていて……お友達には父の言いつけなんか破って食べちゃえって言われたりもしたんですが、でも、母が亡くなってから父は男手一つで私を育ててくれましたし……言いつけを破って悲しませたくないなと思うんですよね」


 スプーンを咥えてしょんぼりする晶。


「……スナック菓子は」

「食べたことありません」

「テレビゲームは」

「人生に悪影響を与えると禁止されてました……」

「テレビ番組は」

「父の選んだものなら見てました。主に教育番組ですが」

「今は何を見てる?」

「一応テレビはありますがあまり見ませんねえ。本当は父に禁止されてるんですが、お友達の瑠依ちゃんが引越し祝いにくれたんです」

「居酒屋は……行ったことないよな当然」

「はい。大学時代は門限七時、社会人になっても八時以降は外に出ないように言われていますので」

「……インスタントラーメンは」

「ないです……」

「……これ食ったら、行ってみるかコンビニ」

「えええ! もう八時過ぎてますよ! しかもコンビニなんて! 不良になっちゃいますよっ?」

「不良どころか普通だ!」


 思わずツッコミを入れてしまってから、呆れたようにため息をつく。


「あのな、アンタ養護教諭だろう?」

「はい、そうですが」

「私も四年のブランクがあるとはいえ、十年教師をしてきたからわかる。私達の仕事は機械じゃなく人間が相手なんだ。現場にいたら大学で習った教育論なんか役に立ちゃしないって嫌でも思い知らされる。特に養護教諭は子供の居場所になって悩みを聞いて寄り添わなきゃならんはずだ。そんな人間がいつまでも父親の言いつけを守ってコンビニひとつ行けなくてどうするんだ。今時小学生だって一人でコンビニくらい行けるぞ。子供の心に寄り添うためにはまず自分がちゃんと父親から独立して……」


 そこまで言って、黒崎はハッとスプーンを口に運ぶ手を止めた。


「いや、すまん、言い過ぎた」

(世話になっといて偉そうに説教なんて最悪だ……)

「いえ……先生の言うとおりだと思います。というか、本当は自分でもわかってるんですよね。このままじゃだめだって。いつまでも父の言うことを聞いてちゃだめだって、好きなこともやりたい事も自分で決めた方がいいって。でも、父は私をとても大切に育ててくれたから、裏切りたくないという気持ちもありまして……」

「父親と喧嘩したことは?」

「えーと……そういえばありませんね」

「私はしょっちゅう母親と喧嘩してたぞ」

「ふ、不良だったのですか⁉」

「違うわ! 自分のやりたいこと、思ってること、気に入らないこと、割と素直に親にぶつけてたからな。親も親でそれを受け止めてきちんと自分の意見を返してくれた。夢や進路を応援してくれたが、同時に、ぶつかる事も多かったな。だが、私はそれでよかったと思ってるぞ。まあ迷惑をかけたことの方が多かったが……自分の気持ちや夢や今やりたいことをきちんと口にしたからこそ、あまり後悔もなく生きてこれたのだ」


 カレーを食べ終えスプーンを置くと、ご馳走様、と無言で手を合わせる。


「それにな。人に従ってばかりだと美味いもんに有りつけずに損するだけだぞ」

「美味いもの、ですか?」

「それ食ったらコンビニ行くぞ」

「えええ! もう八時過ぎて……ああ、そろそろ九時ですよ⁉ しかもコンビニって、ふ、不良ですっ」

「うちの生徒だってこの時間帯ならコンビニ行ってる奴はいるだろう。そいつらを不良だと言うのか?」

「ううー……」

「だいたいな、そんな父親の言いつけを気にするんならなんで私を拾ったんだ。コンビニ行くよりヤバいことしてるぞ」

「だ、だってそれは……困ってる人がいたら助けなさいってお父さんが……」

「だがこの状況を見たら親父さんはどう思うだろうな」

「で、でも、困ってる人がいたら助けなさいって……でも確かによく考えたら男の人を家にあげる事をお父さんはよく思わないかもで……けど困ってる人は助けなさいって……それに黒崎先生は悪い人じゃないですし……でも、確かにこの状況を父が見たら……あれ……? えっと……あれ……?」

「ほらな。矛盾するだろ」

「こ、混乱してきました……!」

「答えは簡単だ」

「は、はい!」


 黒崎に答えを求め、ずいと身を乗り出す晶。

 すると黒崎もずいと身を乗り出して、


「どうしたいか、自分で決めればいいだけの話だ」

「い、意地悪ですう!」

「私を追い出すか、私と一緒にコンビニに行くかの二択だ」

「追い出したくはありませんよ……」

「じゃあ、コンビニに行くか?」

「な、なんでその二択なんですかあっ」

「本当は行ってみたいのだろう? 美味いものが山程置いてあるぞ」

「や、山程……」


 晶はごくりと喉を鳴らした。


「自分で選べるって、楽しいぞ?」

「ちょっと、勇気が入りますねえ……」

「私は生徒が空を何色に塗ろうがそれを咎めたりはしない。自分で好きだと思った色を好きなように塗れば、やがて自分だけの世界ができるんだ」


 と黒崎は皿を持って立ち上がる。


「食器は私に洗わせてくれ」

「は、はいわかりました……」


 皿をタライにつけ置きし、早速、二人はコンビニに向かう──が、やっぱりまだ躊躇いがあるようで、玄関まで来て晶はもじもじし始めた。黒崎にとってはたかがコンビニだが、彼女にとっては長年禁じられていた夜の世界に出て、人生に悪影響を与えるとまで言われた場所に向かうのだ。恐怖心や不安は相当なものだろう。


「……どうする? やっぱりやめておくか?」

「い、いえ! 大丈夫です! 私、本当は、ずっと行ってみたかったんです。コンビニもハンバーガー屋さんもゲームセンターも映画館も……。私、高校の時も大学の時もお友達と同じことできなくて、だから……みんな、離れて行っちゃったんです……残ってくれたの、瑠依ちゃんだけなんです」


 晶はえへへ、と冗談ぽく笑うが、その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。

 本当は友達と同じように気軽にコンビニに行ってみたりジャンクフードを食べてみたり、禁止されていることを全部やってみたかったのだろう。でも父親の言いつけを破る勇気がなくて、でもそうすることで周りから孤立してしまい、気がついたら独りぼっちになっていたのだろう。

 男手一つで自分を育ててくれた父を悲しませたくない。

 その想いが呪縛となり彼女を縛り付け、この部屋に閉じ込めてしまっている。そう思った瞬間、黒崎は彼女の腕を掴んで半ば強引に玄関の外に連れ出していた。


「行くぞ」


 晶は驚いた顔をしていた。

 さすがに夜に外に出るのが初めてというわけではないだろう。だが、彼女が父親の言いつけを破ったのは、きっとこれが初めてだ。

 父親に嘘をついて、内緒で、八時以降に外に出た。

 たったそれだけのことなのに晶は瞳を潤ませ、呆然と目の前の景色を……なんてことはない極普通の住宅街を見つめていた。

 彼女にとってそれは日常の風景ではなくて、初めて父親に逆らって目にした景色なのだ。


「大丈夫か?」

「えへへ……初めてお父さんの言いつけ破っちゃいました。悪い子、ですね」


 まだ少し不安げだが、でも、彼女の表情は心なしか嬉しそうである。


「私なんか中二で夜中の2時に家を飛び出したことあるぞ」

「大不良ですね⁉」

「なんだ大不良て……まあ、ただの反抗期だよ。特にこれといった理由もなく親に反抗したい時期だったからな。親の寝静まった頃を見計らってこっそり家を出たんだ」


 と黒崎は歩き出す。

 晶はそんな彼の服の裾を引っ張った。


「どうした?」

「いえ。やっぱりちょっと不安なので、手を繋いでいただけないかなと……」

「いや……」

「あ、だ、だめですよね、すいませんっ」


 晶は手を離し、恥ずかしそうに俯いた。


「……行くぞ」

 

 黒崎はパッと彼女の手を取り、歩き出した。


「え、あ、ありがとうございます!」

「まるで子供みたいだな」

「なっ……こ、子供じゃありませんようっ」

「私からすれば十五も下の人間など子供みたいなもんだ」

 


「むうー……」


 晶は子供みたいにぷうっと頬を膨らませる。

 

 階段を降りてマンションの外に出ると、黒崎は足を止めた。


「どうかしましたか? 黒崎先生」

「見ろ。今日は満月だ」


 黒崎は夜空を指差す。

 そこには、夜空にぽっかり浮かぶまんまるなお月様が居た。雨はすっかり止んで、雲もまばらに空を漂っているだけだ。


「うわあ! 綺麗ですね!」

「ああ。よかったな」


 よかったな

 彼の言葉にきょとんとする晶だったが、すぐにその意味を理解して、嬉しそうに微笑むのだった。


「……はい」


 今日、言いつけを破って外に出なければ、この満月を見ることはできなかったのだ。自分で選んで、その先に、こんな美しい光景が待っていた。それはただのお月様、でも、晶にとっては勝ち取った物のように嬉しいものだった。



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