青空だね、京介くん


 あれから一週間が経ち、京介達は沼田の入院している隣町の病院へと向かっていた。

 初夏の日差しにじんわりと汗を掻きながら緑が生い茂る小道を歩き、時折木陰で立ち止まって体を冷やした。

 腕に抱えたお見舞いの花束も少し鬱陶しく感じるくらい湿度が高く、嫌でも梅雨の訪れを感じさせられてしまう。時生と緋夏は日傘をさしているが、それでも、あまり効果はないのか、ハンカチで汗を拭きながら歩いている。

 そうしてしばらく歩いていると、ようやく、大きな病院が姿を現した。


 京介が受付で沼田の見舞いに来た旨を伝えると、すぐに、看護師が沼田の場所に案内してくれた。


「沼田さん、お庭にいることが多いのよ。うちの病院、お庭が凄く綺麗だから、気に入ったのかもね」


 看護師はそんな話をしながら、庭に続く赤と白のレンガの道を歩いて京介達を案内してくれた。庭に続く道もハーブらしき植物や色とりどりの花が咲き乱れ、まるで絵画のような風景だ。


「先生、美術の先生なんです。だから綺麗な場所が好きなのかもしれませんね」


 庭に続く道を眺めながら、京介が言う。


「ふふ。なるほど、そういうことか」


 護師はくすくす笑う。


「先生、どんな感じですか? 夜うなされてたりしてません?」


 日傘をくるくる回転させながら時生が聞くと、看護師は人差し指を顎に当ててうーんと考えた。そして、


「まあ、元気っちゃ元気ね……」


 今度は人差し指を額に当てて困ったように顔をしかめた。それが何を意味するのか全くわからない京介達は、不思議そうに顔を見合わせた。


「あ! ねえねえ、あれ、沼田先生だよ!」


 時生がぱっと表情を明るくして指をさす。

 見ると、庭の隅にある木製のベンチに、沼田が腰掛けていた。以前のような冷たい表情はないが、とこか無気力で、その目にはあまり光が感じられない。心配しつつ彼の側まで行ってみるが、やはり、京介達に気づくことなくぼんやりとしている。

 庭には先ほどと同様色とりどりの花が咲き乱れ、それらが乱雑にならないようきっちり手入れされており、そこに初夏の日差しが降り注いでとても美しい光景となっている。それを、沼田は、感情の読み取れないぼんやりとした表情で見つめている。


「おはようございます、沼田先生。お加減はどうですか?」


 京介が沼田に挨拶をすると、彼は一秒程遅れてゆっくりと京介を見た。


「ああ、なんだ、お前達か」

「なんだはないでしょうよ。せっかく来てあげたってのに」


 七瀬は大げさに不機嫌な顔をして見せた。


「いや。正直、来てくれるとは思わなかったのでな。なんだ、文句でも言いに来たか?」

「い、いえ、まさか! お見舞いに来ただけですよ。あ、これ、お見舞いのお花です。後でお部屋に飾っておきますね」

「本当にお前達は変わっているな。私は烏丸さんを危険な目に合わせたのだぞ」

「大丈夫ですよ、私は気にしていませんから。それに、私を傷つけたくなくて苦しんでいたことだってちゃんとわかってますから。先生は悪い人じゃありません、だから、私はぜーんぜん怒ってませんよ」

  

 時生が笑顔で答える。

 沼田が時生に美海の幻覚を見ていたこと、そして彼女と共に死のうとしていたこと、時生はそれらをすべて受け止めて、彼の行動を許したのだ。いや、許したのではなく、最初から彼に対する怒りなどなかったのだろう。


「先生が生きててくれて嬉しいです」

「本当に、変わった奴らだな」


 呆れ気味にそう呟くと、沼田はふと空を見上げた。

 雲一つなく青く澄み渡った空は眺めているだけでも心地よく、京介も空を見上げてほんの少しだけぼんやりしてしまった。


「……今日は暑いだろう。もうすぐ夏が始まる」

「夏はお嫌いですか?」

「そうだな。暑いばかりで楽しいこともないしな」


 沼田がそう言うと、正木がチャっと眼鏡を押し上げながら、


「夏はいいですよ。女の子が薄着になって街を練り歩きますから。そして何より海、プール。水着姿の女の子を、無条件に拝めるのですから、こんなに素晴らしい季節はありませんよ」

「本当、そういうところ直したほうがいいわよ」


 緋夏が嫌悪感を隠すことなく吐き捨てるように言った。


「ま、正木君。たぶん沼田先生はそういう夏の楽しみ方はしないかと……」

「そうだよ! きっと、クーラーのガンガンに効いた部屋の中でアイス食べたり、新商品のアイスを食べ比べてみたり、いろんなお店のかき氷を食べ比べてみたり、暑いお外から帰って来て腰に手を当てながら麦茶をきゅーって飲んだり、きっとそういう楽しみ方をすると思うよ?」

「や、沼田先生はそういう事は多分しないと思うよ?」

 

 と京介が言うと、看護師が、盛大なため息を吐いた。何か不味いことでも言っただろうかと京介は肩をすぼめて少し不安そうに彼女を見た。


「楽しいことが何もないなんてよく言いますね。午前中も何人かお見舞いに来てましたよね。昨日も、その前も」


 何の話をしているんだろう? 

 京介達は不思議そうに沼田と看護師を交互に見た。


「ああ。そう言えばそうだったな」

「へえ。先生って意外とお友達多いんですね?」


 都筑の話だと、山本という人物だけが沼田の唯一の友人で、しかし今は疎遠になってしまったらしいとの話も聞いている。だがその話は間違いだったのか、どうやら友人がよく見舞いに来てくれているようだ。


「いや、別に友達というわけではないが」 


 ぼんやり空を見上げたまま、独り言のように答える。

 友達ではないのなら知り合いだろうか?

 と京介が考えていると、


「ゆーちゃーん!」

「やっほー! 元気ぃ?」

「ゆーちゃーん! お見舞いにカステラ持ってきたから後で一緒に食べよ〜?」

「もー、ゆーちゃんに会えなくて寂しいよお!」

「ゆーちゃん、会いたかったよー!」



 若い女性が五人、小走りでやってきた。どの女性もとても美しく、近くにいるとほんのり甘い香りが漂ってくる。 


「ああ、お前達か。わざわざ来てくれたのか」

「来るに決まってるじゃない、心配したんだからね!」


 ゆるくウエーブのかかったロングヘアーのお姉様が、背後から沼田に抱きつく。そしてショートボブの幼顔の女性が彼の隣に座って子供が甘えるように彼の体に抱きついた。


「いきなり入院するとか言うからびっくりしたんだよ? しんどい時はちゃーんと私にお話してよね?」

「そうよ、どうせまた一人で抱え込んでたんでしょう。そういうの駄目だって何回も言ってるじゃない」


 とショートヘアーの女性が沼田の膝に座り、不満げな顔をしながら猫にするように顎を撫でる。


 一体この光景はなんなんだ?

 この女性達はなんなんだ?


 京介達は意味がわからなさすぎて暫し硬直した。

 そして看護師は額を抑えて盛大なため息をつく。


「おモテになるのは結構なんですが、大所帯でお見舞いに来られると他の患者さんのご迷惑になるので控えていただけませんかね」

「あの……この方達はどなたで……?」

 

 京介がぎこちなく女性達を指差し、疑問を口にする。


「ああ……美海の事が辛く苦しく、一人でいては狂ってしまいそうだったのでな。つい、夜な夜な街で女性を引っ掛けては、その、なんだ、そういうことをしていたんだ」

「つまり、この女性達は」


 事件の真相を解き明かした探偵のような面持ちで、眼鏡をクイと押し上げる正木。


「まあ、要するに、セフレみたいなものだ」

「みたいなもの、じゃなくて、完全にそうでしょう」


 緋夏が冷ややかな眼差しを向ける。


「五人もそういうお相手がいたんですね……」

「五人どころじゃないわよ。入院してから毎日代わる代わる何人もの女の子がお見舞いに来てるのよ。それも、みんな別の人」

「い、一体何人いるんだよ……」

「さあな。正直無意識にやらかして朝起きたら知らん女が横に寝ていることもしょっちゅうだからな。なんか気がついたらスマホのアドレス帳に大量の知らん連絡先が保存されてるし毎日知らん女から着信が入ってるし、正直、なんとかしたい」


 と沼田は女の子の名前がずらりと並ぶスマホのアドレス帳を京介達に見せる。

 そんな彼を遠い眼差しで見つめ、京介は思わずぼそっと呟く。


「あの時、死んで美海さんの所に行った方がよかったのかな……」

「京介君っ?」

「わああ! ごめん、僕はなんてことを!」


 無意識とはいえ死んだ方がよかったなどと一瞬でも考えた自分に自己嫌悪し、京介は落ち込んでがっくりと項垂れる。そんな彼を慰めるため、時生は一生懸命背伸びをし、よしよしと頭を撫でた。


「天国で美海さんが泣いてそうだわ……」


 緋夏が呆れと嫌悪の混じったような表情で沼田を見る。


「しかし、よくそんな毎日取っ替え引っ替えできますね」


 七瀬が聞くと、


「顔立ちの整ったどこか影のある壮年の芸術家、という所に惹かれるんじゃないのか。たぶん。よくわからんが」


 正木が適当に答えた。


「いや、でも、うん……よかったよ、先生がひとりぼっちじゃなくて」


 親しい友人もおらず孤独や後悔、そして恐怖を一人で抱え続けていたと思っていた京介は、素直に安心した。しかし緋夏は、少し悲しげな眼差しを沼田に向ける。 


「どうかしら?」

「え?」

「まあ、私にはよくわからないけど……何人もの人と繋がっていても、そこに心を寄せられる人がいなければ結局はひとりぼっちなんじゃないかしら」


 緋夏は沼田を見つめながら、冷静にそう言った。

 京介は彼女の視線の先にいる沼田を見、女性に囲まれながらも彼が少しも笑っていないことに気がついた。彼は、その場その場で苦しみから逃れるためだけに毎晩女性と関係を持っていたのだろう。ただそれだけならば、確かにそれは、ある意味で孤独なのかもしれない。


「そっか……」

 

 京介はなんだか胸が苦しくなった。

 女性達は皆笑顔で話をしているのに、沼田の目は少しも笑っておらず、それどころか、どこか哀しげにも見える。


「もう行きましょう」


 緋夏はそう言うと、くるっと踵を返した。


「あ、うん。そうだね。あの、これ、お見舞の花です」 


 と、京介は看護師に見舞いの花束を手渡した。


「ありがとう。後でお部屋に飾っておくわね」

「はい。ありがとうございます」


 と軽く頭を下げると、京介は、先を歩く友人達を小走りで追いかけた。

 

 一方の沼田は、名前も顔もあやふやな女性達にじゃれ付かれながら、ぼんやりと、去ってゆく京介達を眺めていた。


 すると、時生がふと立ち止まり、くるりと沼田を振り返った。日傘を差しながらこちらに顔を向けたその少女。それが、沼田の目には、美海の姿と重なって見えた。


「……美海……!」


 思わず、遠く離れた彼女に腕を伸ばす。だが、すぐに、それが幻だということに彼は気がついた。もう、美海はいないのだ。あの子は美海ではないのだ。そう自分に言い聞かせ、伸ばした腕をゆっくりとおろした。


 あの子は美海ではない。

 あの子は、烏丸時生なのだ。

 

 沼田は悲しげに目を伏せ、俯いた。


 と、時生が沼田の方を振り向き、無邪気な笑顔でぶんぶんと手を振った。そして京介も少し照れくさそうに小さく手を振り、緋夏と正木と七瀬も立ち止まった二人に気がついて沼田を振り返った。すると七瀬は沼田の方を向き、


「じゃーねー! また来ますからー! 今度はなんか美味いもん持ってきますねー!」


 ぶんぶん腕を振りながら、そんな事を言うのだった。


 そうして四人は今度こそ、去っていってしまうのだった。


「いい子達ですね」


 看護師は去ってゆく京介達を優しい眼差しで見つめながらそう言った。


「ええ、本当に」


 あの子は美海ではない。

 美海はもう、この世にはいないのだ。帰ってくることもない。美海は、あの男に傷つけられ、そして、自ら命を絶ってしまったのだ。

 そんな現実をに、また、むくむくと怒りや悔しさが湧き上がるのを感じた。だが、その瞬間、屋上で抱きしめてくれた時生の温もりを思い出した。


 大丈夫だよと、辛かったねと、美海のふりをして抱きしめてくれて、これからは笑顔で生きてほしいと言ってくれた時生の優しさが、湧き上がる負の感情をそっと静めてくれた。

 もしかしたら、この先もずっと、彼女の優しさが怒りや憎しみを静めてくれるのかもしれない。


(怒りや憎しみは一生消えないだろう。それでも、烏丸さんの優しさを思い出せば抑えていけるのかもしれない。いや、烏丸さんだけではない。阿賀波達の優しさも、私の心を落ちつかせる要因になるかも知れない)


「……ありがとう、烏丸さん。みんな」


 そう呟いた沼田の表情は穏やかで、微かにだが、優しい笑みが浮かんでいた。


「ねーねー、ゆーちゃん。いつ退院するのぉ?」

「退院したらお祝いにいーっぱいいいことしてあげるからね?」

「あー、なにそれズルい! ゆーちゃん、退院したら私といいことしようね?」

「だめよ、ゆーちゃん私がいいんだって」

「ちょっと、誰もそんなこと言ってないでしょ!」

「なによ!」

「なんなの!」


 女性達はひと目もはばからずぎゃあぎゃあと喧しく揉めはじめた。そんな彼女達に沼田は少しうんざりしたような表情を見せ、看護師は腕を組んで人差し指を苛立たしげにトントンさせ始めた。

 しかしそんなことには気づかない女性達は喧しく喚き続ける。


「あのね、貴方達! ここは病院なの! 他の患者さんもいらっしゃるんだから、静かにしてちょうだい! っていうか、申し訳ないけど、騒ぐんだったら帰ってもらっていいかしら」

「えー、何この人ー。こわーい」


一向に収まる気配がなく、さすがにしびれを切らした看護師が一喝すると、女性達はあからさまに不機嫌な顔を見せてぶつくさ文句を言いながらやっと沼田から離れるのだった。


「じゃーね、ゆーちゃん。また来るからね」

「退院祝い楽しみにしててねー。たっぷり楽しませてあげるから」


 沼田は手を振りながら去ってゆく女性達をぼんやりと眺めていた。彼女達の名前も顔もあやふやで、昨日来た女性達と同じなのか違うのかさえもわからない。彼にとって彼女達は、心の隙間を埋めるためや苦しみから逃れるための手段でしかなく、彼女達もまた、そんな関係で納得していた。彼女達とは、そんな関係でしかない。だから心が満たされたこともないし、顔だって覚えてはいない。

 だから、彼女達がお見舞いに来てくれても、嬉しいという気持ちは一切なかった。


 なんだか少し疲れたな、と沼田は俯いて目を閉じた。


「先生」


 ふと。懐かしい、可愛らしい声が優しく頭を撫で、驚いた沼田がハッと目を見開くと、雪のように白く細い足が視界に入った。けれど、不思議とそこにいつものような恐怖を感じることはなく、むしろ、穏やかな気持ちだった。


 その白い足の主を確かめるべくゆっくりと顔を上げると、その人物は、大きくてくりくりとした可愛らしい瞳でじっと沼田を見つめていた。そこには彼女の優しさと穏やかさがしっかりと感じられた。もう、ぽっかりと穴の空いたような暗い目ではない。そこにはハッキリと光が宿っていた。

 それは、あの頃、彼女が彼に向けていた優しい眼差しそのものだった。


 それは何年も何年も会いたかった、あの頃の美海だった。 


  その目の前の光景が信じられず、沼田は思わず息を呑んだ。目の前の少女は幻なのだろう。けれど、それでも、自分の中で無意識に封印していたあの頃の美海が目の前に現れたことが嬉しかった。

 と沼田が懐かしい彼女の姿に魅入っていると、彼女は、無邪気ににっこりと笑顔を見せた。


「美海……!」


 沼田は思わず手を伸ばした。

 だが、彼女に触れた瞬間、彼女は光の粒となって消え失せてしまうのだった。しかし、沼田はそれを寂しいだとか悲しいとは思わなかった。なぜなら、自分が再び彼女の笑顔を思い出せたこと、それが、何よりも嬉しかったから。


「沼田さん、大丈夫ですか? 少し疲れちゃったかな。お部屋、戻りましょうか」


 隣に座った看護師が背中を擦りながら声をかけてくれる。そして沼田は促されるように立ち上がり、歩き出した。


「ところで岩泉さん」

「はあい?」

「私が退院したら、お祝いに一緒に食事でもどうでしょうか」

「行きません。心配して損したわ?」


 冗談ぽく怒った顔をする看護師を見て、沼田は、楽しげにふっと小さく笑うのだった。



  ★


「ねえ、沼田先生の好きなものってなにかなあ」


 学校の廊下を軽い足取りで歩きながら、時生が言う。ようやく午前中の授業が終わり昼休みになり、彼女の心は幸せに満ちているのだろう。


「うーん、なんだろう? 甘い物が好きか塩っぱいものが好きかもわかんないや」


 京介は首をひねる。


「そういう時は無難にエロい本でも持っていけばいいと思うぞ。男なら誰も嫌な顔しないだろう」

「普通に困ると思うけどっ? 正木君、さすがに冗談だよねっ?」

「はっはっは。冗談だ」

「ああ、よかった……」

「冗談にしたってもう少し他にあるでしょう。貴方のは冗談じゃなくてただのセクハラよ」


 緋夏がキッとキツく正木を睨む。


「それに、女の人なら間に合ってるだろ」

「そうだね、たぶん今日もいーっぱい女の人がお見舞い来てくれてるはずだしねえ」


 時生は人差し指をあごに当て、うーんと考える。


「しかし、まさか沼田の先生があんなヤリチン先生だったとは思わなかったな」

「変なあだ名つけないでよ……」


 緋夏がちょっと嫌そうな顔をする。

 とそこへ、


「みんな、今からお昼?」


 養護教諭の神滝晶がやって来た。

 瞬間、七瀬はあたふたして、恥ずかしそうにパッパと前髪を整えた。


「えへへ、はい。やー、お腹ぺこぺこです」


 頬を赤らめ、わかりやすいくらい嬉しそうな顔をして、照れ臭そうに後頭部を掻きながら、七瀬が答える。


「神滝先生もこれからお昼ですか?」


 京介が聞くと、晶は笑顔で「そうだよー」と答え、そして、何故か少し胸を張ってみせた。 


「ねえ。ところでみんな。私のこと、晶先生って呼んでもらっていいかな」

「別にいいけど……急にどうしたんですか?」


 緋夏が怪訝そうな顔をする。  


「うん。あのね、私ね、みんなに頼りになる先生になりたくて。だからまずは、みんなに親しみを込めて名前で呼んでもらおうかなって」

「形から入るタイプなんですね。まあ、別にいいですけど。じゃあ……晶先生」

「うん、なんだか頼られてる感じがする」


 晶は嬉しそうに笑う。

 

「落ち着いてください、名前を読んだだけで僕達別にまだ晶先生のこと頼りにはしてませんよっ?」

「ぴゃあ……」


 晶は酷くがっかりした様子で項垂れた。 


「貴方ね、もう少し言い方ってものがあるでしょう」

「ああああ! すすすすすみません! 違うんです、あの、ちゃんと頼りにしてます! ね、七瀬君っ?」

「え、あ、おお……そ、そうですよ、俺達ちゃんとあき……あ、あ…晶先生のこと頼りにしてますよ」

「本当っ?」


 今度は一瞬で機嫌を直し、ぱあっと明るい表情を見せる。まるで子供みたいだな、と、京介はそんなことを思うのだった。


「ありがとう、七瀬君! 嬉しい!」


 と、晶は絵顔で七瀬の両手をしっかりと握りしめた。瞬間、七瀬は顔を真っ赤にし、固まってしまった。


「ところでさっき、沼田先生のお話してた?」

「ええ。沼田先生がとんだヤリチ」

「沼田先生のお好きな食べ物をご存じないでしょうか」


 緋夏がら余計なことを言いかけた正木の口を、もぎ取るくらいの勢いで塞ぐ。正木は痛みに素っ頓狂な声を上げていたが、緋夏は無視して更に足を踏みつけておいた。


「おいこら、痛いだろうが!」 

「正木君の事は無視してください。何かご存じないでしょうか」

「うーん、そうだなあ。あ、そう言えば前に職員室で羊羹食べながらお仕事してたよ。甘いものがお好きなのかも。お見舞いに持っていくの?」

「はい。色々とお元気そうだったので、今度は食べ物を差し入れしようかなと」

「色々と?」


 晶が首を傾げる。


「ああ、いえ、なんでもありません!」


 京介は慌ててバタバタと手を振って誤魔化したが、晶は気になる様子で不思議そうな顔を見せている。


「じゃあ、今度行く時は羊羹持っていきますね。ありがとうございました」

「うん。きっと喜ぶよ」


 と、晶は笑顔で答えた。

 その時だった。晶がふと、視線を京介達の後ろへと向けた。一体どうしたのだろう、と一同が視線の先を振り返ると。黒いスーツを着た背の高い見知らぬ男が気だるげに欠伸をしながら横を通り過ぎていった。髪を後ろで小さく一つにまとめていて、解いたら肩甲骨くらいまでありそうだ。


「あの人、誰だろう?」


 時生は不思議そうに誰へともなく訪ねた。


「あ、このハンカチあの人のかな」


 京介は近くにハンカチが落ちているのに気がつき、それを拾って追いかけようとした。


「あ、私が届けるよ」


 と晶が手を差し出してきたので、京介は申し出に甘えてハンカチを手渡した。


「すいませーん、ハンカチ落としましたよー」


 晶は元気よくハンカチを振りながら男に向かって走っていった。そして無事それを届けると、少し何事か会話をした。だが晶は笑顔だが、相手の男は人相の問題なのか、社交辞令的な笑みも浮かべない。


「あー、もしかしたら新しい美術の先生とか?」  


 七瀬が少し嫌そうな顔をした。


「あ、そうか。沼田先生辞めちゃったもんね」

 

 なるほど、と時生がぽんと手を打つ。


「なーんか怖そうな面してるよなあ。大丈夫かな」 

「き、きっと大丈夫だよ。ほら、人を見た目で判断するのはよくないし……」 


 慌てて京介がフォローを入れる。


「まあ、そうなんだけどさ」


 七瀬は再び男に視線を移した。

 男は晶に軽く会釈してから去ってゆき、そして彼女はくるっと七瀬を振り向くと、可愛らしい笑顔を見せるのだった。

 そんな彼女の笑顔に、七瀬はどきっとし、頬を赤く染め上げた。


 

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