その手を


「美海を変わらず想い続ければ長村への憎しみに飲まれて壊れてしまいそうだったんだ……美海との約束を守るためには、美海を拒絶するしかなかったんだ……」


 沼田は両手で顔を覆い、力なく歩の場に崩れ落ちた。


「本当はまだ愛しているのに。あの頃の気持ちを思い出したいのに。あの穏やかで幸せだった日々を思い出したいのに。それなのに、無意識に、自分自身がそれを拒んでいたんだ」


 沼田はゆっくりと左脇腹を押さえ、自重気味に笑い、天を仰いだ。


「何度彼女の絵を描いても、彼女の顔を思い出せなかった。でもそれは、私自身が彼女を封印していたからだったんだ。そう……恐ろしい幻覚も、自分自身が、彼女との約束を守るために作り出したんだ……ああ、そうだ、そうだった……」


 沼田はまるで答え合わせをするこのようにぶつぶつと独り言を口にする。

 その様子は、彼が必死に自分を抑えつけようとしているようにも見える。

 自分がなぜ、美海の絵を描く事ができなかったのか、なぜ、愛する者の恐ろしい幻覚を見続けたのか。それを知ることで正気を保とうとしているかもしれない───京介は、そう思った。


「私は彼女を愛していたよ。ずっとずっと、こんな日が続けばと思っていたんだ。それなのに長村は、美海の父親は、それを壊したんだ。長村……アイツは美海を、美海を……」


 どんどんと、沼田の表情が憎しみに歪んてゆく。

 けれど彼は溢れだす感情を堪えようとするように必死に頭を抱える。きっと彼は今までずっと、長村への憎しみに呑まれないように、一人で戦い続けてきたのだろう。

 美海のために、彼女との約束のために。そして自分自身のために。


「私は恐ろしい美海の幻覚を見続けた。そうして彼女への想いを忘れようといたんだろう。けれど、ある日、烏丸さんが目の前に現れた。初めて君をテレビで見かけた時、美海が戻ってきたのだと思ったよ。だけど、それは違うと必死に自分に言い聞かせた。なのに、君は、目の前に現れた」


 沼田はよろよろと立ち上がると、数歩後退りし、力なく背中をフェンスに預けた。


「ああ、やっぱり、戻ってきてくれたのだ。私はそう思ったが、しかし、あの子は美海ではないと、必死に自分に言い聞かせた。烏丸さんは美海じゃない、だから、近づいてはいけないと。……そんな想いと同時に、美海の幻影に怯え苦しみる自分も存在した。私は美海に怯えながら、それと同時に、あの頃の彼女が戻ってきてくれたことに喜び、けれど、それは美海ではないと必死に言い聞かせた」


 沼田はフェンスに体を預けたまま極ゆっくりと京介達に背中を向けた。そして、金網に手をつき、遠い目で天を仰いだ。

 それを見た瞬間、京介は、反射的に走り出していた。


「だめだよ! 先生!」


 一瞬、その場にいる誰もがなぜ彼がそう叫んだのか理解できなかった。だがすぐに、彼らはその意味を知ることとなった。

 沼田が三メートル程の金網を素早くよじ登り、そして、そのまま空中に身を投げたのだ。


 まずい、と誰もが思い、彼は死んでしまうのだと確信し、絶望した。だが、すぐに、その考えは覆された。

 沼田が飛び降りると同時に、京介が彼の腕を掴んだのだ。


「京介君!」


 時生が悲鳴のような叫びを上げた。


「だっ……だめだよ、先生! ちゃんと生きてくれないと!」


 ほぼフェンスから身を乗り出す形で沼田の腕を掴んだ京介は、そのまま体がずり落ちそうになるのを片腕でフェンスを掴むことで何とか耐えていた。


「放せ! 落ちるぞ!」

「嫌です! 絶対に放しません! だって、先生、このまま死んじゃったら美海さんとの約束を破ることになるじゃないですか!」 

「このまま生きていたら私はいつか本当に烏丸さんを傷つけることになる! 美海がそんなことを望むと思うのか!」

「だったら僕が守ります! 時生さんも、沼田先生のことも!」

「お前に何ができると言うのだ! 守るなんて軽々しく口にするな! 人を守るということは、そんなに簡単なことじゃないんだ。どれだけ心に誓っても、手を延ばしても、守れないものだってあるんだ。お前は本気で守れると思っているのだろう。だがな、そんなものはただの驕りだ! 人間は無力だ、どんなに足掻いても叫んでも、何一つ守れはしないんだ!」

「それでも僕は、最後まで足掻き続けます!最初から諦めたりはしません!」


 そう言った次の瞬間、京介はフェンスを掴んでいた手を滑らせ、沼田を掴んだまま落下──時生は息を呑み、両手で口を抑えた。

 京介も、このまま落ちることを覚悟したが、しかし、すぐに両足を誰かに掴まれ落下を免れた。驚いて振り返ると、そこには、右手を怪我しているにも拘わらず両手でしっかりと京介の足を掴む正木の姿があった。  


「ふぬおおおおお! 落ちる! 落ちる!」

「うわああああ! 正木君ごめん!」 

 

 反射的に謝る京介。と、よく見ると、落ちそうになっている正木の足に七瀬がしがみついていることに気がついた。


「死んでも耐えろ正木!」

「死んだら耐えられん!」 

「ちょっ……お前ら、ちょっと待ってろすぐ消防呼ぶからっ……!」


 と都筑がスマホを取り出す。


「ほ、ほらね! 僕一人じゃ死ぬところでしたけど、みんなが助けてくれました! 僕一人じゃ無力かもしれません。でも、みんながいるから、僕は、無力じゃないんです」

「なんでお前は私にそこまで……」

「なんで……と言われても、よくわかんないです。でも先生は悪い人じゃないし、一途にずっと一人の人を愛し続けられる素敵な人です。それに、僕が先生の家で眠っちゃった日、先生、僕の家に電話を掛けてくださったじゃないですか。あれ、なんだか、大人の対応って感じでかっこいいなって思いました」

「お前が子供だからそう見えただけだ。あれは普通の大人なら当たり前のことだ」

「はい。その当たり前を当たり前にしてくださった先生が、なんだかかっこよくて。つまり、僕は、先生が……好き……なんだと……」


 とうとく重みに耐えきれなくなってきて、それでも、絶対に放すものかと歯を食いしばって耐えた。だが、沼田は、その彼の手の甲に、思い切り爪を突き立てる。


「い、痛いよ、痛いよ先生っ?」

「いいから放せ。このままだとお前も落ちるぞ」

「嫌だ! 絶対に嫌です!」

「お前だけじゃなく正木と七瀬も巻き添えを食らうぞ!」


 沼田がそう叫んだ瞬間、京介が何かを考える間もなく正木が叫ぶ。


「うるさい! アンタを死なせたら京介が一生引きずるだろうが! こっちだって巻き添え食らって京介に後悔させるつもりはない! 黙ってぶらさがっておけ!」

「そうですよ先生、ここまでしてんのに死なれたら後味悪すぎるんですよ!」


 全力で正木の足にしがみつきながら、七瀬が叫ぶ。


「絶対に放すんじゃないぞ京介!」


 正木が叫ぶ。

 その声は力強く、必ず沼田を助けるという強い意志が感じられた。


「言われなくても、絶対に、放さないからっ……」

 

 絶対に放したくない、何があっても助ける。しかし、その思いとは裏腹に、重みに耐えきれずどんどん手から力が抜けてゆく。


「頼む、もう、死なせてくれ! このまま生きていれば一生長村への憎しみに囚われたまま苦しみ続けなければならないんだ! しんどいんだよ、もう、何もかも! もう、生きていたくないんだ!」

「いやだ、絶対に、放したくないっ……」


 が、とうとう、彼の腕がずるりと手から抜け落ちそうになり、京介は慌てて彼の腕をつかむ手に力を込め、なんとかそれを食い止めるのだった。が、既に、京介の腕は限界寸前だった。もうこれ以上は無理かもしれないことは京介にもよくわかっていた。それでも、助けが来るまでは絶対に放すまいと、強く歯を食いしばった。

 と、その時だった。

 突然、正木とは別の誰かに足を強く捕まれ、そうかと思うとまるで軽い玩具にでもなったかのようにぽいっと空中に放り投げられてしまった。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 空中に放り投げられ、夜空が目の前に広がり、そして、背中から落下して硬いコンクリートの床に背中を打ちつけた。そして背中の痛みを堪えつつ起き上がり、沼田を探すと、彼は少し離れた場所で、同じく背中を打ち付けて苦悶の表情を浮かべていた。


「よう、京介。よく頑張ったなあ」


 と、フェンスの天辺に腰掛けた康介が、なんだか誇らしげに笑っていた。その下では、正木と七瀬が疲れきった表情でフェンスを降りてきていた。


「と、父さんっ?」

「さすが俺の息子だ、かっこよかったぜ?」

「そっか、父さんが引っ張り上げてくれたんだね。ありがとう、助かったよ!」


 と京介は父に感謝を述べるが、


「いや化物かよ……」


 七瀬はぼそっと呟くのだった。


「京介君!」


 と、時生の声が聞こえ、京介はそちらを向く。すると、その瞬間、時生ががばっと抱きついてきた。


「うわ! と、時生さんっ?」

「よかったあ! 死んじゃうかと思ったよ! やだよ、やだよ、死んじゃ嫌だよ!」

「ごめん。でも大丈夫だよ、僕は絶対に死なないから。約束したじゃない。何があっても絶対に時生さんの前から消えたりしないって」

「うん。でも怖かったんだからね」


 時生はぐすぐすと鼻を啜りながら、ぎゅうっとしがみついてくる。京介はそんな彼女の頭を優しくなでながら、自分がちゃんとここにいることを示すように片腕で彼女を強く抱きしめるのだった。


「それより沼田先生、大丈夫ですか?」


 と京介が沼田を見ると、彼は座り込んだ状態で眉間にシワを寄せ、どこか辛そうな表情を見せていた。


「何故、助けた。ふざけるな! 憎い! 憎い! あの男が憎い! アイツが美海を傷つけ、心も体も壊したんだ! あの男さえいなければ美海は傷つかずにすんだんだ! 手を汚すこともなかった! 美海の父親もだ! アイツらがいなければ美海は、美海はっ……!」


 沼田の叫びは、地獄の底から聞こえてくるような、苦しみや悲しみを内包した断末魔のような叫びだった。

 その時京介は思った。

 自分の選択は本当に正しかったのだろうかと。

 生きることだけが人の幸せなのだろうかと。

 もしかすると、自分はとんでもない過ちを犯したのではないだろうか? 負の感情に飲み込まれ壊れゆく沼田を目の前にして、京介は、そんなことを考えてしまった。



「頼む、もう、死なせてくれ。私は美海の所に行きたい。彼女との約束を破ることになっても」


 立ち上がる力もなく、沼田はコンクリートの床を這いながらフェンスの方に向かってゆく。


「こんな人生になんの意味もない。生まれてからずっと、永遠の地獄が続いているだけだ。そしてそれはこれからも変わらないんだ。そう、幸せなんて、私には訪れはしないんだ! この先も一生、私は、苦しみ続ける! あの男は既にこの世にはいない。なのに、晴らすことのできない恨みを一生抱え続けていかなければならないんだ! あの男が、美海を奪ったんだ! 傷つけたんだ! せめて地獄でアイツを刺殺してやる!」


 泣き叫び、気力を振り絞ってふらふらと立ち上がると、体を引きずるようにして歩き出す。そんな彼の姿を見て、京介は胸が苦しくなった。

  

「先生、僕、僕は……」


 京介が言葉を口に仕掛けたその時、時生がパッと京介から離れ、そして、引き留めようとするように背中から勢い良く沼田に抱きついた。

 その勢いで二人はその場に倒れ込み、しかし時生は彼から離れることなく、力なく起き上がった彼を正面から優しく抱きしめてやるのだった。


「大丈夫。大丈夫だよ、先生。私はずっと幸せだったもん。大好きな先生に好きって言ってもらえて、それだけで私は幸せだったんだよ。私、先生のことが大好きだから。だから、これからは、笑顔で生きてほしいな」

「美海……?」

「よしよし。いいこいいこ。辛かったよね。苦しかったよね。ずっと一緒にいたかったよね」


 時生は沼田を抱きしめながら、子供にするように優しく頭を撫でる。


「私も一緒。先生とずっと一緒にいたかった。でも、残念だけどそれは叶わなかった。だからね、せめて、先生にはこれからの人生を笑顔で生きて欲しいんだ。美海のお願い、聞いてくれるかな」

「美海……美海……」


 もう放したくない、ずっと一緒にいたい、そう言うように、縋り付くようにして沼田は時生を強く抱きしめた。彼はぼろぼろと涙を零し、時生にしがみつき、言葉もなく泣き続けた。そんな彼を、彼の辛さも悲しみも何もかも受け入れようとするように、時生はただただ優しく抱きしめる。


 そうして、気がつくと、泣き疲れたのか沼田は気を失ってしまっていた。


 そんな彼を優しく撫でながら、時生は囁く。


「お疲れ様。もう、大丈夫だからね」


 沼田を受け入れ優しく頭を撫でる時生。その彼女の姿を見ながら、京介は、自分の選択は何も間違っていなかったのだと思った。

 すると、突然、誰かに頭を乱暴に撫でくられ、勢いで俯いてしまった。


「おわっ?」

「人を救うことが間違いなことなんてあるもんか。とりあえず生きるんだよ。選択はそれからでもおそくないからな」


 康介がニカッと力強い笑みを見せ、白い歯を光らせる。


「父さん……な、なんで」

「お前の考えることなんてお見通しなんだよ。何年父ちゃんやってると思ってんだ」

「そうだぞ京介。そもそもお前、あの時手を放せたのか?」

 

 ぬ、と正木が二人の間に顔を出す。


「えと、や……それは」

「普通の人間には無理だろう。他人のために一生物の傷を背負うなんてな」

「それに、生きてりゃとりあえず何かしら選択肢はあるはずだ。今はまだ見えてなくてもな。だから京介、お前はなーんにも間違っちゃいないんだよ」


 と、康介はまた乱暴にぐしゃぐしゃと京介の頭を撫でる。

 

「死ぬことが正しいなんて、そんな哀しい正しさがあっていいわけないだろ?」

「うん、そうだね。それに僕は先生に生きていてほしい。生きて、笑ってほしい」


 京介は時生の腕の中で眠る沼田に目を向ける。

 いつか、彼にも、今が楽しいと思える日が来るだろう。今はまだその姿が見えなくても。



 

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