その場所に居た者
その少女は、とても美しかった。
白い肌に艷やかな黒い髪が美しく映え、どこか寂しげな瞳は黒曜石の様に美しく、見る者を惹き付けた。薄桃色の形の良いふっくらとした唇から紡がれる声は心地よく、その声で名前を呼ばれる度に心が温かくなるのを感じていた。
沼田はしかし、自分が教師であることを忘れなかった。生徒である彼女に心を寄せる事などあってはならないと、この気持ちは気の迷いだと、自分に言い聞かせた。けれど、彼は彼女から寄せられる密かな想いに気づいていた。
お互いに同じ想いである事が嬉しくて、でも、彼女のためにも踏み止まらなければならないと考えていた。それなのに、彼女への想いはどんどんと募るばかりだった。
それでもお互いに気持ちを口にすることはせず、学校にいる間の、二人きりで過ごすほんの僅かな時間を大切に過ごしていた。
穏やかで優しいそんな日々が続けばよかった。
でも、そんな日もいつかは終わるとわかっていた。それでも二人はそんないつかの日から目を逸らし、ほんの僅かな甘い時間に身を委ね続けていた。
『ねえ先生。私もいつか先生みたいに誰かに絵を描く喜びを伝えたいわ』
クロード・モネの画集を眺めながら、美海は陽だまりのような声でそう言った。
放課後、二人きりの美術室。生徒の声は遠く運動場に聞こえるだけだ。穏やかで優しいそんな時間を楽しむように、二人の距離は自然と近くなっていた。
『ああ、君ならきっと素敵な教師になれるよ』
窓辺で木製の椅子に腰掛ける美海、その彼女の後ろに立ち、沼田も一緒に画集を眺めていた。
『それじゃあ、私を連れ去ってくれますか?』
冗談めいた口調でそう言うが、沼田を見上げた彼女の瞳には確かな悲しみが宿っていた。このまま何もしなければ彼女は進学することも叶わず親の決めた許嫁の長村光一と結婚しなければならないのだ。
このまま彼女の手を引いて、遠くに逃げてしまいたい。でも、果たしてそれは本当に正しいことなのだろうか?
わからない。
けれど、彼女を他の男に、しかも下心しかないようなただの中年男性に奪われるくらいなら、自分の人生を捨ててでも彼女を連れて逃げてしまいたい。
そんな想いがあったからなのだろう、無意識に、沼田は彼女を背中から抱きしめていた。
『先生……?』
『逃げてしまおうか。君が卒業したら、どこか遠くへ』
口にしてはいけない。
そう思っているのに、言葉が口からこぼれ落ちた。美海は驚いた顔を見せていたが、すぐに、目に涙を浮かべ幸せそうな表情を見せた。
『嬉しい。そう言ってもらえるだけでも私は幸せです』
そう言うと、美海は膝の上に置かれたクロード・モネの画集の『日傘をさす女』をそっと指で撫でた。優しい陽射しを浴びながら、こちらを振り返る女性と、その向こうに小さな男の子が描かれている。
『いつか先生と二人で、陽の当たる場所でのんびりと散歩をしてみたい』
『ああ、そうだな。いつか……』
美海は楽しそうにくすくすと笑い、
『この人は私。この後ろの男の子は、先生と私の子供……なんて』
美海の頬が、雪に落ちた紅葉のように赤く染まっている。
そんな未来はあり得ない。
でも、もしかしたら、あり得るかもしれない。
彼女の手を放しさえしなければ。全てを捨てて彼女との未来を選択すれば。そうすればきっと、彼女の望む未来を手に入れられるはずなのだ。
『……美海』
『ねえ、先生。約束して?』
『約束?』
『私に何があったとしても、先生はずっと教師でいてください』
『どういう意味だ? 家で何かあったのか?』
『冗談ですよ』
美海はくすくすと笑う。
そして立ち上がり、画集を椅子に置くと、
『……それじゃあ、私は帰りますね』
そう言って美海はぱっと歩き出す。
行ってほしくない。いや、このまま帰してはいけない。そんな気がして、沼田は反射的にカノジョの腕を掴んで引き止め、そして、あれこれと考える間もなく彼女を抱き寄せるのだった。
抱きしめてどうするつもりなのか、そんなことは考えていなかった。ただ、今、彼女を帰したくないと、このまま連れ去ってしまいたいと、そんなことばかりが彼の頭の中にはあった。
『先生。私、もう帰らなくちゃ……』
美海はそう言うが、けして、彼を拒もうとはしない。むしろ、彼のその温もりに、愛情に、身を委ねているかのようだった。
本当は家に帰りたくないのだろう。
ずっとずっとこうして、二人だけの時間を過ごしていたいのだろう。それは、沼田も同じであった。しかし、彼女を家に帰さないわけには行かなかった。けれど、帰してしまえば彼女はまた辛い思いをするのだろう。
一体私は彼女に何をしてあげられるのだろう?
答えが見つからぬまま、このまま時が止まればいいのにと、子供じみたことを考えた。
『美海。何かあったら絶対に私に相談しなさい』
『はい』
美海は小さくそう返事をすると、名残惜しそうに、そっと彼から離れた。
そうして美海は軽く会釈をすると、とうとう部屋から出ていってしまった。
『逃げてしまおうかだなんて、私は一体何を考えているんだ』
己の浅はかで軽率な言動に呆れ、小さくため息をついた。そしてふと、画集に目を向けた。
日傘をさす女の絵はモネが妻カミーユと息子のジャンを描いた作品だ。
例えお金がなくても、愛する者と仲良く穏やかな日々が過ごせれば、彼女にとってはそれが一番幸せなのかもしれない。
沼田は、彼女の家庭の事情に口を挟むのなら即時クビだと理事長から言われている。そうなればもう二度と彼女と会うことはできなくなるだろう。だったら、いっそ本当に、彼女を連れて逃げてしまおうか……
沼田は画集の中のカミーユに美海を重ね、そして、いつか訪れるかもしれない未来を想像し、拳を固く握り締めるのだった。
いつか、二人だけの穏やかな時間が訪れればいいのにと、そう思っていた。幸い金なら親の遺産だけで一生暮らせる程あったし、彼女の父親から逃れて海外へ行く選択肢だってあった。
だから、沼田は、彼女が卒業したら、二人でどこか遠くへ逃げてしまおうかと本気で考えていた。
教師としての正しさ、人としての正しさ、そんなものはもうどうだってよかった。
『ね。先生、お願い。こっちに来て』
大人の真似をして真っ赤な口紅を塗った美海が、放課後の、誰もいなくなったベッドの上で制服をはだけさせて沼田に手を伸ばす。
『やめなさい、美海……こんな事許されることではないんだよ』
『たとえ神様が許してくれなかったとしても。それでも私は後悔しないわ』
『美海……』
だめだ、と頭ではわかっているのに、その手を拒むことができなかった。
彼女の細い指に指を絡め、そうすることが自然であるかのように二人は唇を重ね合わせた。
美海が欲しい。
言葉もなくそんな想いをぶつけるように激しく美海の唇を貪り、彼女もまた彼を求めるように両の腕で彼の体を強く強く抱きしめた。
許されることではない。
頭ではわかっていても、もう、止められなかった。もう、どうでもよかった。
美海が欲しい。他の誰かに傷つけられてしまうなら、他の誰かのものになってしまうなら、例え許されない事だとしても、全てを奪ってしまいたい。
美海の首筋に、肩に、腕に、背中に、そして胸に、太ももに、まるで自分の物だと印を付けるように口づけを落としながら、静かな部屋に二人の交わる音を響かせた。
彼女の恥じらうような表情も、苦しげな表情も、腰を動かす度に漏れる嬌声も、体温も、汗ばむ肌に絡みつく黒い髪も、その髪の隙間から覗く首筋の黒子も、そこに在る彼女の全てが欲情を掻き立てた。
支配欲、独占欲、獣のような衝動、自分の中に存在したそんな汚い感情に驚き、嫌悪し、しかし抗うこともできず、何度も何度も体を重ね合わせた。
『美海……卒業したら、一緒にどこか遠くへ行こう。誰の手も届かない、遠い、遠い場所へ……』
全てが終わり、沼田は乱れた呼吸を繰り返す美海の頬に触れ、瞳から零れ落ちる涙を親指ですくう。
けれど、彼の瞳からこぼれる涙がまた彼女の頬を濡らす。すると彼女は彼の頬を両手で包み込み、その瞳から溢れる涙を親指で拭いながら幸福に満ちた表情を見せるのだった。
『嬉しい。先生のその気持ち、すごく嬉しい』
『……約束しよう。必ず、必ず、私が君を幸せにすると』
彼女への想いと欲望を抑えきれなかったことへの罪悪感と自己嫌悪がない混ぜになり、表情では笑っているのに瞳から溢れる涙は止まらなかった。そんな彼の気持ちを察してくれていたのだろう、美海は何も言わず、優しく彼を胸に抱き寄せるのだった。
そして子供をあやすように頭を撫で、耳元で囁いた。
『泣かないで、先生。私は先生に愛されてとても幸せなんですから』
沼田はその言葉に甘えるように彼女の体をぎゅっと抱きしめた。
彼女の柔らかな二つの膨らみは彼に安らぎを与え、まるで子供に返ったような心地にしてくれた。
『ね。この間私が言ったこと、覚えてますか? この先何があっても、ずっと、教師でいてくださいって。せっかく夢を叶えたんですもの。この先もずっと、沢山の人に芸術の楽しさを、創造することの喜びを伝えていって欲しいんです。だから、ね、お願いです』
『ああ、約束しよう。命尽きるまで、私は美術教師であり続けると』
『よかった。安心した……』
美海はそう呟くと、沼田を優しくぎゅっと抱きしめた。
彼はその彼女の温もりが愛しくて、この優しい時間が愛しくて、ずっとずっとこうしていたいと思った。けれど、無情にも二人の時間は終わりを告げてしまうのだった。
沼田は惜しむようにゆっくりと体を起こし、そして、改めて、ベッドの上で着衣を見出して上気した顔で艶かしくも優しい眼差しでこちらを見る美海の姿を目の当たりにし、徐々に冷静になってゆくのだった。
(私はとんでもないことをしたんだな……)
けれど、後悔はなかった。
本来なら許されないことだろう。でももう、彼の中では、覚悟が決まっていた。
彼女が卒業したら、二人で誰の手も届かない遠い場所に逃げてしまおう。
世界中を敵に回しても君を守りたい、なんてクサいセリフも今の彼なら本気で口にできそうだった。
(……この事は山本先生にだけは話しておこうか。彼は教師としての私を信頼してくれている。だが私はそれを裏切ったのだから……)
着衣を整えながら、沼田はそんな事を考えた。
今まで生きてきて友人と呼べる人間のいなかった沼田にとって、山本は唯一友人と呼べる人間だった。彼は山本を人としても教師としても尊敬していて、そして生まれて初めて心を開いた人間でもあった。
『せんせ』
可愛らしい声に誘われて、ふと、美海の方を見る。と、ちいさな手が頬に触れ、かと思うと、美海の唇が沼田の唇に触れた。それは先程までの貪るような口づけとはまるで違う、啄むような小さなキスだった。
『それじゃあ、またね』
美海はそう言うとひょいっとベッドを降り、スカートを翻して弾むような足取りで走りで去っていった。
『美海っ……!』
呼び止めるが、彼女は振り返ることもなく、部屋を出ていってしまった。
少し寂しさもあったが、恥ずかしさもあって逃げてしまったのだろうと思い、伸ばしかけて行き場を失った手をゆっくりと引っ込めた。
『ああ、私もそろそろ行かねばな……』
保健室の時計を確認し、山本との約束の時間が迫っていることに気が付き、ぽつりと呟いた。
★
美海との未来を選択し覚悟を決めたはずだった。だが、居酒屋に到着し、個室の戸を開け、そこでいつもの様に明るく笑顔で迎えてくれる山本を……唯一の友人を目の前にした瞬間、罪悪感がどっと押し寄せてきた。
軽蔑されるかもしれない。
嫌われてしまうかもしれない。
罪悪感と共にそんな不安が沸き上がり、友人に罪を告白することを躊躇ってしまった。
それでも彼は、意を決して、罪を告白することにした。
友人と向かい合って座り、どう切り出せばいいのかと迷っていると、沼田の様子がおかしいことに気がついた山本が、何があったのかを尋ねてきた。
それをきっかけに、沼田は全てを彼に告白した。
全てを話し終え、恐る恐る顔を上げると、山本は困惑したような、聞きたくなかったと言うような、複雑な表情で俯いていた。
どれだけの沈黙が流れただろうか。
隣の部屋から漏れ聞こえる陽気な笑い声だけが異様に大きく部屋に響いていた。
やがて、ゆっくりと、山本が口を開いた。
『……それを、私に話してどうするおつもりなんですか』
『それは……』
『私がもしこの事を理事長に報告したら貴方は』
そこまで言って、山本は言葉を止めた。
ぎゅっ、と膝の上で拳を握りしめ、小さく首を振る。
『卑怯だ。私がそんなことをしないと分かっているのでしょう。私は貴方にも遥さんにも幸せでいて欲しい。そのためには二人を引き離してはいけない……それを分かっていて貴方は、私にも罪を背負わせた』
その言葉に沼田は何も言い返せなかった。
友人だから報告しなければならない、その方がいい。そんなのは建前だと彼はわかっていた。
(私は卑怯だ。美海との未来を考えながら己の行為に罪の意識を感じ、友人にその罪を背負わせようとした。あまりにも失礼じゃないか。美海にも、山本先生にも……)
失望されただろうか、軽蔑されただろうか。
そんな事を一瞬考えたが、すぐに、心の中で首を振った。
(失望されても、軽蔑されても、それでも私は全てを失う覚悟で美海との未来を選んだのだから、後悔はない)
沼田はグッと歯を食いしばった。
すると、
『……私は、この事を誰にも言うつもりはありません』
その言葉に、沼田はハッとして顔を上げた。
『だから、約束してください。必ず、何があっても、遥さんを幸せにすると。それが貴方の義務であり責任でもあります』
『必ず、何があっても、彼女の未来を、人生を、幸せなものにしてみせます』
両手の拳を膝の上できつく握りしめ、深々と頭を下げた。
彼女を守りたい。彼女の人生を幸せで満たしたい。心からの言葉を口にし、友人に誓いを立てた。
いつか、必ず、美海を幸せにする。
そのいつかはきっと近い将来の話だろう。彼女の未来は、人生は、きっと、いや必ず、幸せに満ち溢れている。
沼田はそう信じていた。
もちろん、自分の選択が正しいのか、他にやれることはなかったのか、そんなことを考えないわけではなかった。でも、そこに答えなどなかった。
彼は正しさで選択したわけではなかったからだ。結局は、どれだけ綺麗事を並べようと、己の欲で彼女の人生に手を伸ばしてしまっただけなのだから。
でも、だからこそ、覚悟を持って彼女の人生と向き合おうと思った。何があっても彼女を幸せにしよう。けして彼女を一人にはしない。一生、彼女と共に生きよう。
彼は、そう思っていた。
でも彼女はそうではなかった。
彼女は何もかも知っていたのだ。自分がこれからどうなってしまうのかも、沼田との幸せな未来なんてあり得ないことも。
返り血で真っ赤に染まった美海が、廃墟の庭園で微笑んでいた。
しかし、いつもは温かい眼差しを沼田に送っている彼女のその目には一筋の光もなく、暗い水の底のように冷たく澱んでいた。
『先生。私は幸せよ。だって、私の初めてを先生に貰ってもらえたんだもの』
右手に握りしめたナイフが哀しげに月明かりに反射し、まるで涙のように切っ先からぽたぽたと血を滴らせる。
『美海……なんてことを……』
『あの人、私の初めてを貰うつもりだったみたい。でも、貰えなくて怒っちゃったの』
彼女の口元には血が滲んでいる。恐らく、殴られたのだろう。頬も腫れ、半袖から伸びる腕にも、スカートから覗く細い足にも殴られたような痕が見られた。月明かりに照らされただけの薄暗い場所だがら、それでも、はっきりと、それが分かった。きっと、おそらく彼女の服の下にはもっと、痛々しい傷痕があるに違いない。
『先生と同じことしたって、どれだけ私を痛めつけたって、結果は同じなのにね。気がついたらもう夜よ。バカみたい』
『美海……』
『ごめんなさい、手、汚しちゃいました。だって、アイツの気が済むならって我慢してたのに、先生のこと探し出して復讐するとか言うんですもの。……でもよかった、ちゃんとカバンにナイフを入れておいて』
そして、美海は一筋の涙を零した。
『こんな奴のせいで先生が不幸になるなんて許せない。だから、殺してやったの。躊躇いなんかなかったわ。コイツさえいなければ、私も先生も幸せになれたはずなのにって。頭の中にはそれしかなかったわ』
と美海はナイフを己の腹に突きつけた。
『君、馬鹿な真似はやめなさい。ほら、ナイフを置いてこっちに来るんだ』
沼田の隣にいた警察官が、美海を刺激しないように落ち着いた声で説得を試み、一歩近づく。しかし美海は静かに首を振る。
『それ以上近づくなら死にます』
彼女の声は本気だった。
だが、言葉とは真逆に彼女の顔には相変わらず冷たい微笑みが浮かんでいる。
『お願い。最後に私、沼田先生に抱きしめてもらいたいの』
これはチャンスかもしれない。
沼田は隣の山本と目配せし、小さく頷いた。
そして沼田は一歩ずつ、美海に近づいて行く。だがその足はけして力強い一歩ではなかった。
彼の体は後悔と絶望と哀しみに今にも崩れ落ちそうになり、足は震え、目には涙が溢れていた。
しかし彼は、その崩れ落ちそうになる体を必死に両足で支え、震えながらも一歩ずつゆっくりと彼女の元へと向かった。
そして美海の前に立つと、彼はゆっくりと彼女の細い体に両腕を回し、昨日、保健室でしてあげたように、優しく抱きしめるのだった。
『美海。すまない。守ってやれなくてすまない。何があってもお前を守ると誓ったはずなのに……。すまない、すまない、本当にすまない……』
『ね。先生。私、先生に、愛してるって言って欲しい。あの時みたいに、優しく、愛を囁いてほしいわ』
美海は、笑みを浮かべていた。だがそこに温もりを感じることはなく、まるで、魂のない人形のように冷たい笑みを貼り付けているだけだった。
だがそんな彼女の瞳に、ほんの少しだけ、光が戻ったように見えた。
彼女はもう、壊れてしまっているのだ。それでも、彼女は、沼田を愛する心だけは失わなかったのだろう。
彼女は長村によって与られる地獄のような苦しみの中で、自身とって何よりも大切なその感情を守り続けたのだ。
『ああ……ああ、そうだな。愛しているよ、ずっとずっと、この先も、死ぬまで……いや、死んでも、何度生まれ変わっても、私は永遠にお前を愛するよ。約束しよう』
『嬉しい……生まれ変わっても、先生と一緒にいられる……』
彼女のその声には、心からの喜びが感じられた。だから、沼田はその声を聞き、彼女が正気に戻ってくれたのだと思った。
『でも、私は先生にずっと教師を続けて欲しいの。先生にはずっと幸せでいて欲しいから』
と、美海はゆっくりと沼田から離れると、少し背伸びをして彼の唇に口づけをした。
次の瞬間。
沼田は左脇腹に痛みを感じた。硬い刃物がほ皮膚を、肉を裂きながらゆっくりと深く身体に侵入してくる。激しい痛みと熱を感じ、視界がぐらりと揺らぐ。
気が就くと彼は地面に座り込んでいた。患部を手で押さえ、状況を理解できないまま恐る恐る美海を見上げる。
『せんせ。私は先に行くわ。でも、私のこと、忘れないでね』
美海が馬乗りになり、ナイフを振り上げる。
後ろから警察官が何事が叫びながら駆け寄ってくる足音が聞こえた。でも、その足音が彼の元に近づくよりも早く、美海は彼の左脇腹にナイスを突き立てた。そして、ゆっくりと、肉を切り裂いた。
目を見開き、口を真横に割いたようなその笑顔はおよそ人間の見せるような表情ではなかった。もう、ほんの僅かも彼女の心は残っていなかったのだろう。壊れて、砕けて、消えてしまったのだ。ただ、それでも、彼に忘れてほしくないという思いだけは強く彼女の中にあり、正常な判断もできないまま彼に傷跡を残そうとしたのだ。
『美海……やめっ……』
『忘れないでね。ずっと、私のこと』
そして南はゆっくりと天を仰ぎ、ナイフを喉に突きつけた。
やめろ。生きてくれ。
沼田は、叫びたかった。けれど、激痛と、喉に込み上げる血の匂いと、そして途切れそうになる意識が彼にそれをさせなかった。
そして彼女はとうとう、天を仰ぎ、彼の目の前で喉に刃物を突き立てた。そして、恍惚とした表情で喉を縦に切り裂き、白い肌から鮮血を溢れださせながら静かに沼田の上に倒れ込むのだった。
ああ、これは悪い夢なのだ。
そうに違いない。
そうであってほしい。
そうであるべきなのだ。
美術室で過ごした二人の穏やかな日々を、そして、訪れるはずだった二人の優しい未来を想いながら、消えゆく彼女の温もりに身を委ねた。
遠くで山本の悲鳴にも似た叫びが聞こえた気がした。遠のく意識の中、怒号、悲鳴、叫び、それらがずっと煩く耳に流れ込んでいた。
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