記憶
薄暗い廊下に慌ただしく走る京介達の足音が響く。昼間は当然なにも感じることはないが、夜の校舎はどうにも薄気味悪く、これが終わったらもう二度と来ることはないだろうと京介ははっきりとそう思うのだった。
その道中、都筑が沼田の過去について話をしてくれたが、そのあまりに悲しく残酷な沼田と美海の過去に、京介は胸が締め付けられた。そしてそれはその場にいる誰もが同じなのだろう。皆の表情は暗く曇り、空気はしんと静まり返ってしまう。
だからと言って彼のしている事が許されるわけではないが、しかし、ただ無責任に彼を責めることもできず、京介達は複雑な気持ちになるのだった。
「じゃあ、沼田先生はその美海って人の笑顔を思い出そうとしてあんな絵を描き続けてたんですか」
静寂を押しのけるように、少し勇気を振り絞るように、緋夏が質問をした。
「ああ、そうだろうな。そして美海とそっくりな烏丸が目の前に現れて、どんどん現実と虚構の区別がつかなくなっていったんだろう」
緋夏の質問に、都筑が答えた。
「なんだか悲しいですね」
「そういえば」
ふと、京介が、何かを思い出して口を開く。
「もしあちら側の私が彼女を傷つけようとしたなら、その時は私を殺せ……と先生はおっしゃっていました」
「あちら側の私って、もしかして正気を保っていられなくなったらってことか」
「……沼田先生は、本当は誰も傷つけたくないのかもしれません。でも虚構に飲み込まれて現実を見失った自分が美海さんと時生さんを混同してしまうの事がわかっていたから、僕にあんなことを言ったんだと思います」
「まあ、悪い先生じゃあなかったからな。もしかしたら無断欠勤したのも烏丸を傷つけないためだったんかな」
「……疑って申し訳なかったな」
正木は申し訳なさそうに呟き、左手でチャっと眼鏡を押し上げた。すると七瀬が、
「まあ悪い先生じゃないのはわかったけどよ、安心はできないだろ。今の沼田先生は、烏丸さんと一緒に死のうとしてるんだからな。今は沼田先生の言うあっち側なんだろうよ」
そう言って頭をガシガシと掻きむしった。
「うん、わかってるよ。だから……できるなら僕は助けたいんだ。時生さんも、沼田先生も」
本来の沼田はきっと、皆が言うような怪しい人間ではないのだろう。彼の部屋で眠ってしまったあの日、彼は至極真っ当な大人の対応をしてくれた。その姿はけして不気味でもなければ悪い大人でもなく、彼に不安を感じることは一切なかった。
美海のこと、家庭のこと、重いものを一人で抱え続けた結果、心が耐えきれずに悲鳴を上げているのだろう。
「僕に何ができるのかわかりませんけど……」
助けたいという気持ちはあれど、彼の過去や心の傷を、まだまだ人生経験の薄い自分なんかが救えるとは京介も思っていない。
彼の心を救うためには何をしてあげたらいいのだろう?
考えてみても、今の京介にはわからなかった。
一方その頃時生は、 しっかりと、痛みさえ感じる程に強く沼田に手を掴まれ、半ば強引に引っ張られながら廊下を歩かせられていた。
美術準備室を出てから沼田は一度も振り向くことなく、一言も発することなく屋上へと急いでいる。恐らく、京介達が到着したことで焦りを感じているのだろう。
「あ、あの、先生……」
勇気を出して声を掛けてみるが返事はなく、まるで聞こえていないかのように無言で歩みを進めている。そんな彼の背中をじっと見つめながら、時生は不安げな表情を浮かべるのだった。
(だめだ。私の声、聞こえてないみたいだ……)
なんとか止めなければ。
でもどうやって?
そんな事を考えているうちにとうとう屋上の扉まで辿り着いてしまい、焦っている間にも沼田は焦りを隠せない様子の乱暴な手付きで扉を押し開け、時生を屋上に引っ張りだした。
「さあ、着いたよ美海。これでもう誰にも邪魔はさせないよ」
そう言って時生を見つめる沼田の瞳は優しくも悲しい色をしている。
彼は確かに自分と一緒に死のうとしている、でもそれは悪意ではない。彼は今度こそ美海と共に死に、そして、彼女から解放されようとしているのかもしれない。
だがそれはあくまで時生がそう思うだけであり、真意はわからない。
「あ……あの」
「どうした、美海?」
「どうして先生は私と死のうと思うのですか?」
「何を言っているんだ。君がそれを望んだんじゃないか」
「違う、私は……」
「美海。大丈夫だよ。私はけして君を一人にはしない。私は今でも君を愛しているんだよ。会いたかったんだ。ずっとずっと君に。そしてあの頃と同じように、慈愛に満ちた微笑みを私に向けて欲しかったんだ。何度キャンバスに君の姿を写そうと、しかしそこに私の望む君の姿は現れなかった。私はずっとずっと、君の表情を思い出せずにいたんだ。君が狂気に満ちた表情で私に牙を向けたあの日からね。でもやっと、また君に出会うことができた。私はとても嬉しいよ……」
「先生……」
「私は、ナイフを突き立てたあの瞬間の君の顔を忘れることができなかった。恐怖に囚われ、私が君を愛しさえしなければ君を不幸にすることはなかったと後悔し、ずっと苦しみ続けていた。でも君と再会することができた。やっと私は……いや、私達は、幸福を手に入れることができるんだ」
そう言いながら、沼田は屋上の扉を閉めた。
ガチャリ、と鍵の閉まる音がやけに大きく聞こえたのは、もう逃れることができないときう確信めいた恐怖を感じたからなのだろう。時生はごくりと喉を鳴らし、一歩、後ずさりした。しかしすぐに腕を掴まれ、抱き寄せられてしまう。
細く骨ばった彼の体が、切なく時生の胸を締め付けた。
当然、彼に対する恐怖はある。
彼の過去を知らなければ今この時がてはだただ恐怖でしかなかったかもしれない。だが彼女はイヤホン越しの都筑の話で彼の過去を知ってしまった。だから今、彼女は、彼に対して恐怖と同時に哀れみや哀しみのようなものを感じてしまっているのだった。
(先生は、私のこと本気で美海さんだと思ってるんだ。どうしよう。私が美海さんじゃないってわかれば諦めてくれるかな……)
と、そう考えた時、時生ははっと気がついた。
(そっか。私、今美海さんなんだ。それなら上手くやれば先生を説得できるかも)
時生はそう思い、ぎゅっと沼田を抱きしめた。
彼の体は布越しにでもわかるほど細く骨ばっていて、まるで硬い板を抱きしめているようだった。きっと美海を失ってから今まで、まともな食生活をしてこなかったのだろう。
生きる気力もなく、美海という人間に囚われ続け、けれどそれを誰に相談することもなく一人きりで抱えて生きてきた。それが、彼のこの痩せ細った体から嫌というほど感じ取ることができた。
「ねえ、先生。私ね、先生に死んでほしくないんだよ? 先生にはこの先もずっとずっと健康で長生きしてもらいたいんだ。それが私の願いだから。だから、ねえ、死ぬなんて言わないで」
「美海。それは無理な話だよ」
沼田の枯れ枝のような細い指が切なそうに時生の頬を撫でる。
「きっと、私はもう疲れてしまったんだよ。君が見せたあの最期の瞬間の表情、愛した人の壊れてしまったあの表情、それがずっと私の心を苦しめていてね。私がお前を愛しさえしなければ……いや、せめて、あの時お前を抱きさえしなければ、お前を壊してしまわずに済んだんじゃないか。そんな後悔がずっと胸を締め付け続けているんだ。だけど……それ以上に私を苦しめるのが、私の腹にナイフを突き立てたあの時のお前の表情だ。あんなにも愛した人間を、あの時、私はただただ恐怖の対象としてしか見れなかったんだ。そしてそんな自分に自己嫌悪し、けれども未だにあの時のお前の表情が何度も夢に出てきては私を苦しめ続けるんだ」
細い細い沼田の指が小刻みに震えている。
そして哀しげな瞳には大粒の涙が浮かび、そしてそれはとうとう零れ落ちて頬を伝うのだった。
「今でもお前を愛しているのに。それなのに、お前が怖いんだ。大好きだったお前の笑顔を思い出したい。せめて、楽しかったあの頃の気持ちだけでも思い出したい。あんな辛い記憶は仕舞い込んで、楽しかった記憶だけを胸にしまっておきたい。そう思うのに、思い出せないんだ。楽しかった日々は恐怖と哀しみと絶望に飲み込まれ、どんな穏やかな日々の記憶を辿っても、お前の最期の瞬間と後悔の念、そして……お前を傷つけたあの男への憎しみが溢れかえってしまうんだ」
「先生、私っ……」
何を言えばいい?
烏丸時生としてではなく、遥美海として、彼に何と声をかけてやればいい? どうすれば彼は救われる? 自分に、いったい何ができるのだろうか?
考えても答えが出ず、ただじっと彼を強く抱きしめることしかできない。自分が遥美海なら……そう思えども、彼女のことを何一つ知らない時生には彼女の気持ちを代弁することも沼田が納得するような言葉を掛けてやることもできないのだった。
そんな自分が歯がゆくて、彼女は奥歯をぐっと噛み締めた。
と、その時だった。
扉からカチャカチャと音が聞こえ、そうかと思うと、すぐに、鍵のかかっていたはずの扉が開かれるのだった。
時生も沼田も驚いたようにそちらを見る。
するとヘアピンを持った正木がちょっと得意げに、
「親父の秘蔵AVを拝借するために磨いた鍵開けの技術がこんな所で役に立つとはな」
そんな事を言うのだった。
「今回限りはアンタの変態ぶりに感謝するわ」
と緋夏が正木を押しのけてズカズカと屋上に出てきて、沼田と時生を引き離した。
「沼田先生。事情は都筑先生から伺いました。ですが、これはれっきとした誘拐と監禁です。犯罪ですよ」
「待って緋夏ちゃん! 」
時生は慌てて緋夏と沼田の間に立ち塞がり、彼を庇うようにバッと手を広げた。
「私、何もされてないから! 怪我とかしてないから! 沼田先生は私を美海さんと間違えちゃってるだけなんだよ!」
「時生、貴方ねえ……」
この状況で何を言っているのか、緋夏は明らかにそう言いたげな呆れ顔を見せた。
するとそこへ、
「と、時生さあんっ……」
息を切らし、顔面蒼白になった京介が、今にも倒れそうな程よろよろと走りながら現れた。
「京介君っ? なになにどうしたのっ?」
「大丈夫だよ、体力なさ過ぎて疲れてるだけだから」
七瀬が呆れたようにそう言った。
「時生さん……大丈夫……?」
「うん、私は大丈夫だよ。ありがとう京介君」
「そ、そっか……よかった……」
京介は膝に手をつき苦しそうに肩で息をしている。苦しくても、それでも必死にここまで走ってきてくれた……時生はそれがとても嬉しかった。
「時生さん、こっちに」
と京介が時生に手を伸ばす。
だがその手が彼女に触れる寸前、突然グイと腕を引かれ、時生の体が京介から離れてしまうのだった。 そして、次の瞬間、沼田が走り出し、時生は半ば引きずられるようにしてフェンスの方まで連れて行かれてしまうのだった。
「時生さん!」
「京介君!」
京介の元へ戻ろうと体を動かすが、しかし沼田にグイと腕を引っ張られ、更に左腕でしっかりと体を固定され、身動きが取れなくなってしまった。
「沼田先生! その子は遥美海じゃありません! 目を覚ましてください!」
都筑が叫ぶ。
と、沼田は更に強く時生の体を抱き寄せ、震える声で叫ぶのだった。
「違う! この子は美海だ! 美海なんだっ……美海は私と死ぬために戻ってきてくれたんだ……! 今度こそ一緒に死ぬんだ。そうすれば私も美海もきっとまた幸せになれるんだ……。そうすれば私はやっと、美海の事を、あの幸せだった日々を思い出せるはずなんだ」
沼田の骨ばった細い体が小刻みに震えているのを感じ、時生は胸が締め付けられるように苦しくなった。
「さあ美海、行こう! ああ、どうして最初からこうしなかったんだろう。お前を追いかけて死ねばよかったんだ。そうすれば私はあの世で幸せにしてやれたはずなのに」
沼田が時生の両肩を強く掴む。
その時の彼の目は、確かに視線を時生の方に向けているはずなのに、ここではないどこか別の場所を見ていた。
彼の瞳に映るのは、烏丸時生ではない。遥美海の幻なのだ。時生はそれが哀しくてしょうがなかった。
「違う……違うよ先生。先生は生きなきゃだめなんだよ。美海さんはもういないんだから。先生が死んじゃったら、誰が美海さんのことを思い出してあげられるんですか?」
「何を言ってるんだ。美海、お前は今目の前に」
「私は美海さんじゃないよ。烏丸時生だよ」
時生は真っ直ぐに沼田の目を見てそう言った。
「烏丸……時生……」
沼田がよろめきながら時生から離れる。
そして苦しげに顔を抑え、ゆっくりと首を振る。
「違う……違う……お前は、美海だ……」
「沼田先生」
都筑の声に沼田がハッと顔を上げる。
「死のうと思えばいつでも死ねましたよね。でも貴方はそれをしなかった。その理由を貴方自身が一番良くわかってるんじゃないですか?」
どういうことだろう、と京介達は不思議そうに都筑を見る。彼の沼田を見る眼差しはどこか苦しそうで、なぜ彼がそんな眼差しを沼田に向けるのか、京介達には理解できなかった。
「死ななかった理由だと……そんなもの……そう、私は死んではいけなかったのだ。一生この腹の傷を抱え、一生美海を思い出して苦しみ続けることこそが私の贖罪だったのだ」
沼田は腹をぎゅっと強く押さえ、引き攣った顔で時生を見る。
「だが、美海は戻ってきてくれた。今度こそ、一緒に死ぬために」
「いいや、違う」
と、都筑が躊躇うことなくずんずんと沼田に近づいてゆく。そしてとうとう彼の目の前で立ち止まり、真っ直ぐに彼を見る。
「貴方は、あの庭師のように、誰かに絵を描く喜びを伝えたかったんですよ。だから美術教師になり、そして、美海の死後も彼女の幻影に悩まされながらも美術教師であり続けたんです。貴方の人生を彩った人間は美海さんだけじゃない、あの庭師だって貴方の人生の一部でしょう。美海さんを想い続けながらも貴方の心の中には美術教師であり続けたいという想いがあった。違いますか」
「違う……私は……私は……」
沼田は震える手で顔を抑え、そして、よろよろと後退りする。
その時、彼は思い出していた。
あの優しい庭師と出逢い、絵を描く事を教わり、初めて夢というものができた時の事を。彼と過ごした温かで穏やかな日々を。そして彼が目の前から消え、初めて家族に憎しみと怒りを覚えた日を。
そして目の前で旅館が、あれだけ憎かった家族を飲み込んだまま炎に焼かれてゆく様を。そして皮肉にもそうしてようやく自由か訪れたこと、夢を追う事ができたこと……タガが外れたように毎日毎日絵を書き続けたこと、そして教師になり美海に出逢ったこと……
だけど、彼女の笑顔を思い出せない。
暗い靄がかかり、彼女の表情も、そして彼女に対するあの熱い感情すらも、もう何もかも思い出せない。
私はどうして生きたのだろう?
どうして彼女の後を追うことをしなかったのどろう? 彼女がそれを望んだからか? この腹の傷を見る度に、美海を思い出してほしいと、彼女が望んだからか?
「違う……違う……私が生きたのは、自分が美術教師であり続けるためだ……そう、そのために、私は……私は……」
美海の顔を覆う暗く冷たい靄が揺らぐ。
そして、ずっとずっと思い出したかった彼女の笑顔が、ようやく、記憶の中に戻ってきてくれた。だが、その瞬間、沼田は、心の底に蓋をしていたどす黒い感情が溢れ出すのを感じていた。それはまるで封印が解かれて凶悪な魔物が目を覚ますように、はっきりと、沼田の心を侵してゆく。
「美術教師でありたかった? ああ、そうだ。そうだ……そうだ、私は、美術教師でありたかった……だからこそ私は」
沼田は何かを堪えるようにしっかりと口を押さえ、目を見開いてガタガタと震え始めた。
「……私は……美海のことを忘れようとしていたんだ」
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