美海


「はい、はい、ええ。先程阿賀波からも連絡がありました。とにかく無事で良かったですよ。あーはいはい、沼田先生の件はまた帰ってから報告します。はいはい、それじゃ失礼しますー」


 岡田からの連絡に事務的な返事を返し、通話が終わるとほっと息を吐き窓の外に目を向ける。岡山駅を出発して30分、流れゆく街並みに飽きて眠気が襲ってきた頃、岡田の電話に起こされて少し不機嫌になってしまった。

 時刻はもう朝の8時だ。

 昨日は京介が行方不明になり電話も繋がらず、朝まで一睡もできなかった。いっそ新幹線に飛び乗って東京まで帰ろうかと思ったが、連絡を受けたのが夜の10時過ぎだったため帰る手段もなく、不安な一夜を過ごすこととなってしまった。


 ぼんやりと窓の外を眺めながら、昨日の山本校長の話を思い出す。



『遥美海の笑顔を、ですか?』


 都筑は訝しげに眉をひそめた。


 沼田の描いた絵を見た山本は、彼がかつて愛した遥美海の笑顔を探しているのだろう、と確信めいたように、けれども悲しげにそう言った。


『……沼田先生とは歳も近いこともあり、よく一緒に飲みに行ってたんですよ。他愛もない話や仕事の愚痴、相談事、彼とは色んな話をしました』


 山本はスマホを都筑に返し、ゆっくりと、沼田との思い出話を始めた。


『私も彼には色んな話をしました。愚痴を溢しても仕事以外の相談をしても、彼は嫌な顔一つせず聞いてくれました。そんな彼と酒を飲み交わすことが私の唯一の楽しみでした』


 山本は懐かしさに表情をほころばせながら話した。彼の表情から、当時の沼田が彼にとって大切な友人であり、そして二人で過ごしたその日々がかけがえのないものであるというのがよくわかった。


『でも、そんなある日のことでした』


 ふいに、山本の表情が陰った。

 何があったんだろう。都筑は山本の話に意識を集中させた。


『その日も私は二人で楽しく酒を飲み交わすつもりでおりました。ですがその時の彼の様子は明らかにいつもと違いました。まるで大きな罪でも犯してしまったかのように押し黙り、震えながらずっと下を向いていたんです。正直、彼に何が起きたのか聞くのが怖かったです。それほど彼の様子は普通ではなかったのです。ですが彼のそんな姿を見るのが初めてだった私は思わず何があったのか尋ねてしまいました。……正直、聞かなければよかったと、はっきりとそう思いました』

『何があったんですか?』

『……その日、珍しく遥美海が美術室に姿を見せなかったそうなんです。そんな日もあるだろう、普通ならそう思い気にも止めないような事ですが、沼田先生は彼女が自分の前に姿を現さないことに寂しさ感じていたと仰っていました。気がつけば一日中彼女の姿を探していて、生徒の群れの中に彼女を見つけると思わず追いかけて引き止めたい衝動に駆られたそうです』

『おいおい……』

『そんなふうに一日が過ぎ、放課後美術準備室の片付けをしようと部屋に戻ると、一枚のメモが置かれていたそうで。体調を崩して保健室で寝ているから来てほしい、という遥美海からの手紙だったそうです』


 山本の眉間に深い皺が刻み込まれた。

 それから暫く沈黙が流れ、振り子時計が時を刻む音だけが静寂を繋ぎ止めていた。

 余程辛い話なのか、山本は口を開いて何事か喋ろうとしたが溜息を漏らしてまた沈黙してしまった。それでも都筑は彼の言葉を待つしかなかった。ここまで来て、何も収穫せずに帰るわけには行かないからだ。何せ有給を消化して自費でここまで来ているのだから。


『……保健室に行くと、大人ぶった真赤な口紅で唇を染めた彼女が彼を誘うようにセーラー服を乱してベッドの上に横たわっていたと、罪を懺悔するように震えながら話してくれました』

『おいおいおいおい……』

『もちろん彼も教師であり彼女よりも──確か、八 つ程離れていましたか……まあ、良識ある大人として彼女の誘いなど断る以外の選択肢はなかったはずなんです』


 嫌な言い方をするな、と、先を聞く不安を感じつつ、都筑は黙って話を待った。


『彼は激しく動揺し、彼女を諭そうとしました。けれど彼の頬に触れた彼女の手の温もり、はだけた衣服から覗く彼女の膨らみ、そして幼さの残る彼女には不釣り合いな真赤に彩られた唇……それらは彼に劣情を抱かせるには十分すぎたのです』

『それってつまり……そういうことですよね』

『彼は自分の気持ちを上手く誤魔化しながら彼女と接してきたつもりだったのでしょうが、正直、私の目から見ても彼らのお互いに対する愛情は特別なものでした。心のどこかで互いを求め合い、触れ合いたいとさえ思っていたのでしょう。それでも彼は教師であり、一人の良識ある大人です。私は彼を信用していました』

『いくら好きでも生徒に手ぇ出すのはマズいでしょう』

『……ごく普通の家庭に生まれ、孤独や傷を知ることもなく生きていれば、そんな理屈一つで理性を保つことができたのかもしれませんね』

『と、言いますと……?』

『……少し、沼田先生と遥美海の過去についてお話しましょう』 


 と山本は落ち着いた声でそう言った。


『沼田先生のお父様は倉敷駅近くの老舗高級旅館の一人息子だったそうなんですが、大学在学中にお客さんとして遊びに来ていた奥様に一目惚れして駆け落ち同然で家を飛び出してしまったそうなんです。その時既にお腹の中には沼田先生がいたそうなんですが、彼が物心ついた時には既にお父様は他の女性と恋に落ちていて、奥さんと幼い彼を残して家を出ていってしまったそうなんです。で、残された母親はというと、酒浸りになって育児放棄し、おまけにろくでもない男に借金を背負わされ、挙げ句の果てに薬に手を出して警察に捕まってしまったのです』

『急にクズしかいねえんだが……』

『その後彼は父方の祖父母に引き取られ養子となりました。ですがお二人は旅館を守るため、彼に旅館を継いでもらおうと、それはそれは厳しく躾をしたそうなんです。旅館経営のノウハウは勿論、その他にも、友人や趣味、服装にまで口を出し、殆ど自由はなかったと仰っておりました』

『……』

『学校での成績も常に一番を求められ、百点以外は認められなかったとも話していましたね。……そんな彼ですが、唯一、二人に逆らってでもやりたいことがありました』

『ほう』

『彼の旅館には大きな庭園があり、四季折々の美しい風景を楽しむことができました。それを目当てに訪れるお客さんも多かったそうですよ。家庭環境は良くなく、旅館そのものを憎しみもしていた彼ですが、唯一その庭だけは彼の心を癒やしてくれたと言います。ある年、彼が高校に入学した直後、庭師の男が体調を崩して退職し、その後に新しく若い男が庭師としてやってきました。その青年は庭仕事の傍ら庭園の絵を描き、その画才に惚れ込んだ女将さんが彼の絵や絵葉書を売店で売ったりしていたそうです』

『へえ、よっぽど才能のある人だったんですね』

『元々画家を目指していたようなんですが、旅館の庭園に惚れ込んで住み込みで働くようになったそうです。で、まあ、沼田先生もまた彼の絵に惚れ込み、やがて、彼に絵を教えてもらうようになったそうなんです。ただまあ、当然、そのことを女将さんも主人も快く思わず、彼が道を外れてしまうことを恐れたのでしょう、突然庭師の青年を家から追い出してしまったんです』

『ひでえ……』

『沼田先生はそれを酷く悲しみ彼を旅館に戻すよう頼んだそうなのですが、当然聞き入れてもらえるわけもなく、あんな奴のことは忘れろと言わんばかりに旅館に飾られた彼の絵を撤去し、全て燃やしてしまったのです。そして沼田先生の私物の画材も、彼の描いた絵も、全て、炎の中に放り込まれてしまいました』 

『殴りてえ……』

『絶望し、一度は絵を描くことを諦めた彼だったのですが、ある日の夜、厨房の火の不始末が原因で火災が発生し、旅館は全焼してしまいました。宿泊客と従業員数名、そして沼田先生だけが助かったそうです』


 それだけの大火災なら都筑もニュースで見たことがあるはずだ。記憶を探り、ぼんやりと、子供の頃に、そのような事件があったことを思い出した。


『ああー、えっと……確か天影荘……でしたっけ』

『ええ、そうです。ご存知でしたか』

『子供の頃テレビで見た記憶があります』

『まあ、明治時代から続く由緒ある旅館でしたからね。全国のニュースでも取り上げられ、地元でも大きな話題となりました。沼田先生にその話を聞いた時はそりゃあ驚きましたよ。あの天影荘のってね。……と、話が逸れてしまいましたね』


 と山本はひと呼吸置くと、


『多額の保険金と祖父母の遺産を手に入れた彼はその後高校に通いながら一人で生活するようになり、そこでようやく自由に絵を描く事ができるようになったそうなんです。厳しく躾けられたとはいえ血の繋がった家族です。やはり悲しみはあったそうですが、同時に、彼は自由を手に入れた喜びを感じ、毎日のように絵を描き続けたそうです』

『皮肉なもんですなあ』

『高校卒業後は美大に通い、庭師の男のように自分も人に絵を描く喜びを伝えたいと教師の道を選んだんだそうです』

『なるほど』

『ですがまあ、彼の手に入れたお金は、数百万なんてレベルではなかったそうでしてね。卑しい親戚達がその金を目当てに次々家を訪れ、金をよこせだの本来貰う権利はこちらにあるだの、果ては裁判まで起こされて、心身共に疲れ果ててしまったそうなんです』

『なんでろくな奴がいねえんだよ……』

『まあ裁判は沼田先生の全面勝利だったそうですが。そんな感じですっかり人間不信になってしまったそうなんです。ただ、嬉しいことに、唯一私にだけは心を開いてくれましてね。恐らく、同僚の中で本来の彼を知っているのは私だけだったかもしれませんね。とはいえ生徒には優しく、とても人気がある方でした。子供は大人程汚い人間ではないと信じていたのでしょうね』


 終業のチャイムが鳴り響き、振り子時計を確認すると針は昼の十二時を指し示していた。

 

『一方の遥美海はここらでは有名な大手建設会社の娘さんでしてね。彼女のことは沼田先生から聞いたことくらいしかわかりませんが、彼女の方は沼田先生とは真逆で両親には放ったらかしにされて育ったそうですよ。父親は仕事ばかりで、一方の母親は毎日遊び歩き、夜も殆ど帰ってこなかったそうです。ろくに食事も与えてもらえず晩ごはん代も貰えない事が多かったそうで、家にあるレトルト食品や食パンを食べて空腹を凌いでいたそうです。そんな彼女ですが、世間体を気にしてか、成績は常にトップを求められ、清楚な見た目でいることを求められたそうなんです。実際、眉目秀麗成績優秀、地味な子ではありましたが、教師の間でも評判でしたよ』

『なるほど。親からの愛情を一切与えられず、孤独を感じていたのですね。たしかにその点は沼田先生と似ているかもしれません。しかし世間体気にするならきちんと愛情を与えてやれよと思いますがね』

『しかも、彼女には許嫁がいたのです。それも親が勝手に決めた相手で、彼女が高校に入ると同時に彼女にその事実が知らされたらしいのです』

『相手はどんな人だったんです?』

『長村光一という、地元では有名な大地主の一人息子です。ただ、その相手の年齢は当時既にもう42歳で、遥美海とは実に25歳も離れておりました』

『に、25って。もう親子じゃねえか』

『彼女の父親は実の娘を金と仕事のために差し出したのです。恐らく、実の娘を差し出すことになんの躊躇いもなかったのでしょうね』

『ひでえ話だ……』

『沼田先生はその話を前々から聞いて知っていたそうです。あまりにも彼女が可愛そうだとご両親と話し合いをしようとしましたが、何せ相手は地主の一人息子です。まあ、恐らく金でも積まれたんでしょうね、校長に呼び出され、これ以上何かするつもりならお前をクビにすると言われたそうです。公立高校ならば校長にそんな権限はありませんが、なにせうちは私立高校ですし……まあ、長村からも遥美海の父親からも多額の寄付金を貰っていたようですしね。それで、クビになったとしても彼女を自由にしてやりたいと思いはしたそうですが、学校を離れてしまえば彼女との接点もなくなり、会うことが難しくなるだろうと考えて諦めたそうなんです』

『まあ、学校にいる方が彼女を救うチャンスはありますよね』

『ええ。それで、まあ、二人はお互いの気持ちを知りつつ口には出さないまま、日々を過ごしていました。そんなある日、先程お話した保健室での出来事があったのです』


 山本の表情がますます曇り、今度は深いため息を吐き出した。


『例の保健室での出来事があった翌日、遥美海は学校を無断欠席しました。何かあったのではと自宅に連絡しましたが、風邪を引いただけだと言われ、すぐに電話を切られてしまいました。一旦は彼の言葉を信じたものの、しかしその晩、沼田先生のご自宅に彼女から助けを求める電話が入ったのです』

『助け……』

『彼女の電話を受けた沼田先生は私や他の先生、そして警察にも連絡をして、隣町の廃墟へと向かいました』


 山本がグッと拳を固く握りしめる。


『そこは山の麓にある小さなペンションでした。放置されてどのくらいの年月が経ったのでしょう、建物はもう半分崩れた状態でした。隣接する温室はガラスの破損こそなかったもののほぼ植物に飲み込まれた状態で、足元のレンガの道が辛うじて見える程度でした。一見すると薄気味悪いそんな場所も、月明かりに照らされると不思議と神秘的に見えるものでしてね。不謹慎にも私は美しいと思ってしまったんですよ』

『はあ……』

『月明かりに照らされた廃墟の温室と、そして、ナイフを片手に佇む遥美海。まるで一枚の絵画を見ているような気持ちでした』


 山本はその当時のことを鮮明に思い出そうとするようにゆっくりと目を閉じた。


『そんなに美しかったんですか……』


 しかし山本は首を振る。


『そんなふうに思うべきではなかったのですよ。なぜなら遥美海の全身は返り血で染まっていたのですから』

『は、え? 返り血? それは誰のです……?』

『許嫁の長村光一の、です』


 遥美海が長村に何をしたのか、聞かずともわかった。17の少女が、全身に返り血を浴びるほど、一人の人間を滅多刺しにしたということだろう。


『あの保健室での出来事があった日の夜、彼女は長村と二人きりで合う約束をしていたのです。理由は、彼女が二十歳になる前に、彼女の処女を貰うためだったとかで』

『うわ……』

『ですが彼女の体には既に別の男の印が幾つもついており、それを見た長村は激怒し彼女をペンションに監禁して一日中……』

『ちょ、ちょっと待ってください。すいませんちょっと頭が痛くなってきました……いや、俺……私も遥美海と同年代の子供達を相手に仕事してますんでちょっと……想像するだけでもキツいっすね……』

『すいません。休憩を挟みましょうか』

『あーいや、大丈夫です』


 都筑はお茶をぐいっと喉に流し込み、深く深呼吸をした。


『すいません、続けてください』

『わかりました。……彼女に何があったかは、想像の通りだと思います。ええ、彼女は一日中長村に陵辱され、全身傷だらけになっていました』

『傷だらけに……』

『余程、酷い目にあったのでしょうね……恐らく私達には想像もつかない程のことをされたのでしょう』


 一体何をされたのだろう。

 一瞬そんなことを考えたが、想像もするのも恐ろしすぎて都筑はすぐに残りのお茶を流し込むことで思考を遮った。


『彼女は薄っすらと微笑みながら我々にそんな話を聞かせてくれました。自分が一日中長村に乱暴され続けたことや、それで彼の気が収まるならばと我慢したにも関わらず、長村は相手の男を探し出して復讐すると言い出したことを。実際に何をしようとしたのかまでは聞かなかったそうなのですが、まあ、相手が教師ならば長村も遥美海の父親も簡単に彼を社会的に抹殺することができるでしょう。後、これはあくまで私の想像でしかないのですが、各企業に根回しして彼が二度とどこへも就職できないようにすることも彼らには容易いことでしたでしょう』


 と山本はお茶を一口飲み、ふう、と息を吐いた。


『彼女は最初から長村を殺すつもりだったのでしょう。自宅からナイフを持ち出し、カバンの中に隠していたそうなんです。そして、隙を見て、彼を滅多刺しに……』


 再び、沈黙が流れた。

 それはほんの数秒だったかもしれない。

 けれど、時が止まったような静けさの中を漂う空気は張り詰め、異様な冷たさを感じさせていた。


『……こんな奴のせいで沼田先生が不幸になるなんて許せない。遥美海は確かにはっきりとそう言いました。彼女は沼田先生を深く愛していたのでしょう。彼のためならその手を血に染めることをも厭わず、感情のままに長村を刺し続けたそうです。……後に発見された長村の亡骸からもそれがはっきりとわかったそうです』


 山本は再びお茶を口に運び、そして、続けた。


『彼女はナイフを己の腹に突きつけ、それ以上近づくなら死ぬと言いました。警察が説得しようとしましたが彼女は聞く耳を持たず首を振り、そして、最後に沼田先生に抱きしめてもらいたいと言いました。これはチャンスかも知れない、その場にいる誰もがそう思ったでしょう。……沼田先生は彼女を抱きしめて、彼女を守ってやれなかったことを悔い、何度も彼女に謝りました』


 山本はゆっくりと俯く。


『自分が醜い感情に負けて彼女を抱きさえしなければ彼女は過ちを犯すことはなかったかもしれない。彼はそう思ったに違いありません。でも彼は、そのことを口にはしませんでした。あの一時の幸福すら彼女から奪ってしまいたくなかったのでしょうね。あの時、彼らは間違いなく幸福だったはずです。でもそれを、その選択は間違いだったと否定することは、あまりにも残酷だと私は思うのです』

『それで、どうなったんです?』

『愛してると言ってほしい、遥美海はそう言いました。沼田先生はそれに応え、彼女に囁きました。その声は小さく私達には届きませんでしたが、きっと、彼女の望む言葉を与えたのでしょう。その証拠に遥美海は嬉しそうに微笑み、沼田先生に口づけをしました』

『きっと沼田先生の彼女への気持ちは本物だったんでしょうね』

『ええ。だから遥美海も彼の言葉が嬉しくて口づけを交わしたのだと、そう思ったんです』

『……と、言いますと』

『沼田先生はゆっくりと彼女から離れ、そして左脇腹を押さえながらよろめき、そして、とうとう倒れ込んでしまったのです』

『まさか……』

『遥美海は彼を刺し、そして何とか起き上がろうとする彼に馬乗りになりナイフを振り上げたのです。……その時、彼女は笑っていました。目を見開き、口を真横に割いたようなその笑顔はおよそ人間の見せるような表情ではありませんでした。恐らくその時彼女の心はもう壊れてしまっていたのでしょうね』


 と山本はお茶を喉に流し込む。


『不味いことになったと、警察官数人が走り出しました。でも、もう、遅かったのです。走り出した時にはもう彼は左脇腹にナイフを突き立てられ、そして……彼女はそのまま彼の体をナイフで引き裂いたのです』


 都筑は相槌すら忘れて唖然としていた。


『そして警察官が彼女達の元へ駆け付ける前に、彼女は大きく天を仰ぎ、そして、躊躇いもなく喉にナイフを突き刺したのです。彼女は喉を大きく縦に引き裂き、即死でした。沼田先生はまだ息があったものの、痛みよりも眼前の光景にショックを受けて発狂していたように思います。その後、沼田先生はすぐに病院に運ばれ、なんとか一命を取り留めましたが、二ヶ月の入院の後に退院し学校に戻ってきた彼はすっかり人が変わっていました』

『精神的ショックは凄まじいものだったでしょうしね……』

『笑うこともなくなり、以前よりもますます他人と関わることを避けるようになり、私のことも避けるようになりました。何度か飲みに誘ってみたのですが、睨みつけられて無視されるだけでした。まるで二人で過ごした日々などなかったかのように感じてしまい、とても寂しかったのを覚えています。でも、なんとか彼の心を救ってあげたい……私はそう思いました。でも掛ける言葉も見つからず、心を閉した彼にどう接していいのかもわかりませんでした』


 そう話す山本の目はとても悲しそうだ。


『そうこうしているうちに一月が経ち、沼田先生は学校を去りました。最後の最後まで私は彼に何もしてあげることができませんでした。最後の日、いつも通り校舎を出ていく彼をただ廊下の窓から見送るしかできませんでした。せめて、何か一言声を掛ければよかったと、酷く後悔したものです』

『や。でも私が同じ立場でも掛ける言葉なんて見つからなかったと思いますよ』

『はは、ありがとうございます』


 と山本はお茶を飲もうとしたが、それが既に空っぽであることに気がついて手を引っ込めた。


『ですが、沼田先生がまだ教師を続けているとは思いませんでしたよ』

『確かに……そんな事があったら教師なんて辞めてしまいそうですがね』

『もしかしたら、彼は教師という仕事を愛しているのかもしれませんね。かつて庭師にしてもらったように、自分もまた芸術に触れる喜びを誰かに伝えたい、その想いは今でも彼の心にあるのかも知れません』


 山本は悲しげな笑みを口元に浮かべた。

 彼は、心に深い傷を負い笑うことすらなくなり、それでもかつての想いを忘れられず教壇に立ち続ける沼田をどこか切なく感じているのかもしれない。


 沼田という男は薄気味悪く、生徒からも恐れられ、真偽不明な噂まで立てられているような男である。でも本来の彼は、子供達に芸術に触れる喜びを知ってほしいと願う、一人の教師だった。

 孤独を知り、人を愛し、傷つき、最後には愛した女性に刃を突き立てられて。彼の人生の中で唯一の幸福が遥美海と過ごす日々だったとしたら。彼はそれすら奪われ壊され、絶望し……当時の彼の気持ちを想うと、胸が締め付けられるどころではなかった。


『……以上が、彼の過去です。恐らく彼は遥美海と過ごした楽しかった日々に囚われ、今も彼女を忘れられずにいるのでしょう。けれどかつて愛した彼女に会いたいと願っても、彼女が最期に見せた表情が彼の心に焼き付いてしまっているのかもしれません。彼の人生の中で唯一幸福だったであろう遥美海と過ごした日々、でもそれはあの瞬間、全て崩れて失われたのかもしれません』


 山本は目を閉じて、ぎゅっと唇を噛んだ。


『最期の瞬間、彼女は幸福ではなかった。絶望と狂気に支配され、愛する者を手に掛けたのです。彼女の最期が幸せなものだったなら、あの頃へ想いを馳せることができたのかもしれません。でも……確かに彼女と過ごした日々は幸せだったはずなのに、あの頃に戻りたいと願うのに、彼女の絶望と狂気が彼の胸を支配してしまった。それでも、あの楽しかった日々に還りたい……だから彼は今も彼女を描き続けているのかもしれません』

『沼田先生は遥美海の笑顔を探している……』

『ええ。恐らく、そうでしょう。写真の中の彼女は確かに彼と過ごす日々に喜びを感じ微笑んでいる。でも彼は、写真の中の彼女ではなく、自分の心の中にいる彼女を探し続けているのかもしれません。会いたいのでしょう。あの楽しかった日々の中にいる彼女に。いや、もしかすると、自分達に……』


 山本は悲しげな目を都筑に向ける。


『もし、ご迷惑でないのなら……一度、彼と話をしてあげてくれませんかね。私の方からも連絡をしてみます』

『ええ、わかりました。私も沼田先生程ではないですが家庭が複雑でしてね。少しは話を聞いてあげられるかもしれません』

『そうですか。ありがとうございます』


 ようやく、山本が、優しげに微笑んだ。



 ★


 肉感的なぷっくりとした唇と、穴が空いたように真っ黒に塗り潰された目。沼田の描く遥美海はとても不気味だ。でもそれは彼が未だ遥美海を探しているからなのだろう。

 いつかまた彼が遥美海を見つけることができたなら、彼女はキャンバスの中でこちらを見て微笑んでくれるのだろうか。

 彼の愛した遥美海という少女。彼が彼女と過ごしたかけがいのない幸福な日々。一体それはどんなものだったのだろうか。いつかまた彼がそれを思い出せる日が来るといいのだが……車窓の風景を眺めながら、都筑はぼんやりとそんなことを願っていた。



 ★


 逃げなければ

 できるだけ遠くへ。

 この街を離れて、遠くへと──

 人混みを掻き分けて、人波に揉まれて倒れそうになりながら、それでも必死に前へと進む。行く宛もない、居場所もない、帰りを待つ者もいない、それでも歩くしかなかった。自分がまだこちら側にいる間に、この街から、あの娘から、離れてしまわなければならないから。

 五月の終わり、六月に差し掛かった東京は既に蒸し暑く、人混みの中で息もできずに死んでしまいそうだった。

 時刻は朝か、昼か、そんな感覚もない。

 周りを歩くサラリーマンやOL、行く宛もなく彷徨う若者達、誰もが気だるげな表情で歩を進め、体がぶつかっても意に介さない。


 遠くへ

 遠くへ

 あの子のいない場所へ

 できるだけ遠くへ……


「みんなおっはよー! 今日も朝からファイトファイト、ファイトだよ!」


 どこからか元気な時生の声が聞こえてくる。

 驚きと恐怖に思わず足を止め、顔を上げる。

 立ち並ぶビルに掲げられた幾つもの看板の中で、烏丸時生が笑顔を弾けさせて、ビルに嵌め込まれた大型テレビの中でも彼女は微笑み歌を歌っている。

 どこを見ても、彼女がいる。

 周りの若者達は口々に烏丸時生の話をし、耳を塞いでも、視界の中に彼女の姿が映り込む。

 ビルの広告、街頭テレビ、店頭のポスター、トラック広告……至る所に彼女がいる。


「先生」


 ひんやりとした声が、耳を撫でた。


 ひっ、と小さな悲鳴を上げ、恐る恐る振り向くと、そこには、遥美海が立っていた。ざわざわと薄闇が地面を這い、人も、間昼間の光も飲み込んでゆく。耳障りだった喧騒も消え失せ、もはや、風の音すら聞こえない。

 しんと静まり返った薄闇の空間に、色を失ったように白い遥美海だけが不自然にはっきりと浮かび上がっていた。彼女は滴り落ちた一点の血のような紅い唇に小さな笑みを浮かべ、抉りとられたようにぽっかりと穴の空いた空洞の目を、怯える沼田へと向けている。


「先生。私のこと、忘れないでね」

「美海……」

「約束、したよね」


 足音もなくひたひたと近づいてくる美海。

 目の前でぴたりと止まると、細い細い指で沼田の左脇腹に触れる。


「ずっと、忘れないでね」


 すっと体を密着させ、耳元で囁く。あの頃と変わらぬ可愛らしいその声は、けれども真冬の朝を思わす程に冷たく、ぞわぞわと心に侵食してくる。

 季節はもう六月になろうとしている。それなのにもう、肌に纏わり付く不快な蒸し暑さはなかった。真冬のような冷えた空気が汗ばんだ肌に張り付き、呼吸をする度に鼻の奥から喉へと冷気が流れ込んでゆく。


 これは現実か、虚構なのか?


 現実が揺らぐ

 美海の細い指が鋭利な刃物の如く簡単にずぶずぶと腹に潜り込み、古傷をなぞる様にゆっくりと引き裂いてゆく。


 彼女は誰だ

 彼女は美海なのだろうか

 いや、違う。

 会いたい。

 会いたい。

 かつて愛した遥美海という少女に。


「や……めろっ……」

「私のこと、忘れないで。先生は、約束通り生きてくれたんだから」


 美海の唇が、ゆっくりと近づいてくる。


「それとも、今度こそ殺してほしい?」

 

 美海はクスクスと笑う

 柔らかな唇が触れ合い、まるで現実のような温もりがじんわりと伝わってくる。


「じゃあ、今度こそ一緒に死のうよ」


 美海の声が、はっきりと、耳元で聞こえた。

 突然意識が覚醒するようにハッとする。いつの間にか美海は姿を消していて、そこには薄闇に染まった無機質な街だけが横たわっていた。

 じわじわと人の声や足音が溶け出るように蘇り、無音の世界をこじ開けてクラクションや車のエンジン音が耳に届き始める。


「ああ……そうだな。今度こそ、一緒に死のうか」


 自嘲気味に笑い、ふらふらと歩き出す。

 体は鉛のように重く、足を動かすのもやっとだった。それでも彼は歩いた。今度は、逃げるためではなく、彼女と共に死ぬために。



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