約束だよ、京介君


 自宅前に辿り着いたものの、なんとなく、家に入る勇気がなかった。怒られるかも、というより、心配や迷惑をかけたことが申し訳なさすぎて、気まずいのだ。

 けど、入らないわけには行かない。

 遅くなったらまた心配させてしまう。

 などとぐるぐる考えていると、散歩中の犬に吠ビクッとしてしまった。


「わんちゃんは朝から元気だなあ……」


 京介は深呼吸すると、勇気を出して、そっと玄関を開けた。


「ただいまぁ〜……」


 玄関を開けると、すぐに、美月が飛んできた。


「京介君! よかったあ、心配したのよ?」

「あ、あの、本当にごめんなさい。今度から気をつけます」

「うん、そうね。でも今回のことはもう気にしなくていいから。朝ごはんまだよね? 用意してあるから食べてね」

「あ、は、はい。ありがとうございます」


 とその時、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。

 見ると、時生が物凄い勢いで階段を駆け下りて来ていた。


「時生さん、ただい───」

「んもー! 京介君のばかあ!」


 時生がどすん!と衝撃が走るほどの勢いで京介に抱きついてきた。


「ちょ、時生さんあのっ……」 

「ばかばかばかあ! 心配したんだからねえ!」


 京介の胸に抱きつき、わんわん泣き出す時生。


「あらあらまあまあ。そうねえ、時生ちゃん一睡もせずにずっと待ってたものねえ。物音がするたびに何度も玄関を見に行ったりもしてたのよ」

「そうだったんだ……ごめん、本当にごめん時生さん。僕、今度から気をつけるから」

「うん。約束。絶対だよ?」

 

 涙を浮かべながらチラッと京介を見上げる時生。

 その顔があまりにも可愛くて、思わずドキッとしてしまう。本来ならそんな感情抱いてる場合ではないのだろうが……頬を紅潮させ、潤んだ瞳でこちらを上目遣いで見つめる時生にときめかない男などこの世に存在しないのではないか? 

 京介はどんどん頬が熱くなるのを感じていた。


「京介君、大丈夫?」

「へぇあ⁉ だだだ大丈夫だよ!」

「そっか。じゃあ、朝ごはん食べよっか」

「う、うん……て、そういえば時生さん学校は」

「休んだよ。行っても授業に身が入らないよ」

「なんかごめん僕のせいで」

「もー! そんなに謝らなくていいからっ! それより朝ご飯食べてお部屋行こ!」

「あ、う、うん」


 と、その時。

 トイレの方でガタンガタンと忙しない音が聞こえてきて、何事かと思えば勢い良く扉が開き、ズボンを上げる間も惜しいと言った様子で半分パンツが見えた状態でそれがそれ以上ズレないように両手でキープしながら康介が飛び出してきた。


「京介、無事だったか!」

「あ、父さん。うん僕は無事」


 言い終わらぬうちに、時生がいるのもお構いなしにそのたくましい腕で息子をひしと抱きしめた。


「よかった、本当に良かった! お前、めちゃくちゃ心配したんだぞ!」

「ご、ごめんなさい父さん」

「あーもういいから、今日はゆっくり休め。けどお前、偉かったな。先生を助けるなんて」

「いや、あれ、だって放っておけないっていうか……て、それより父さん!時生さんが! 圧死しちゃう!」

「時生ちゃん?」


 ようやくひょいと体を離す康介。

 時生が、京介と康介の間で目を回していた。


「あちゃー、全然気づかなかったわ」


 康介は豪快に笑う。


「時生さん、大丈夫……?」

「ホットサンドの気分だよぉ……」



   ★


 朝食を食べ終え、一息ついて部屋に戻る。

 何故か時生も一緒についてきて、今、一緒にベッドに腰掛けている。


「ねえ京介君。今度からちゃんと気をつけてね?」

「う、うんわかった」

「もう絶対に一人でどっか行っちゃだめなんだからね?」

「う、うん……」

「絶対の絶対の絶対なんだからね?」

「うん、あの、わかった……わかったよ。だから、あの……そろそろ離れてもらっていいかな」


 時生が、ずっと腕にしがみついている。

 それもがっつりと腕を回し、体を密着させて。

 彼女のふくよかで柔らかな胸の感触が、がっつり腕に伝わってくる。


「もう、どこにも行っちゃわない?」

「う、うん? うん、大丈夫だよ。それより時生さん、寝てないんでしょ? 1回寝たほうがいいよ」

「どこにも行かない?」

「えと、どうしちゃったの時生さん?」

「なんでもない」

「僕はもうどこにも行かないから。ね、とりあえず1回寝よう?」

「うん、わかった……」


 時生は渋々と言った様子で返事をすると、のそのそと京介のベッドに上がってころんと横になってしまった。


「あ、僕の部屋で寝るんだ……」 


 時生はすぐに可愛らしい寝息を立て始めた。

 勉強でもしようかと立ち上がったが、自分のベッドの上でショートパンツから生脚を放り出して眠る彼女の姿についつい見入ってしまう。

 が、すぐに我に返り、己の両頬を両手でベチベチ叩く。


「だめだよ僕、そんなジロジロ見ちゃ失礼じゃないか!」


 必死に顔を逸し、彼女を視界に入れないように努める。が、どうしても、気になってしまう。


「刺激が強いよ時生さん……」

 

 京介は部屋を出て、リビングへと向かった。

 リビングでは美月が部屋の掃除をしており、掃除機の音に混じってご機嫌な鼻歌が聞こえてきた。


「あの、お風呂入ります。昨日入ってないから頭気持ち悪くて」

「あらそう? わかったわ」


 美月はそう返すと、またすぐに掃除に戻った。 

 

  ★

 

 昨日は五月半ばの蒸し暑さに加えて雨も降っていたし、正直、京介の体は不快感に悲鳴を上げており、一刻も早く頭からシャワーをかぶりたい気持ちでいっぱいだった。


(時生さん、僕のことよっぽど心配だったんだなあ。今度からちゃんと気をつけよう……) 


 シャンプーを洗い流し、水に濡れたポリッシュ・ローランド・シープドッグのようになった京介は、体を洗おうとタオルを手に取った。

 するとその時、


「なにしてるの! 時生ちゃん!」


 脱衣所から美月の怒った声が聞こえてきた。

 何があったんだろう、とタオルを腰に巻き、そっと扉を開けて見た。


 するとそこには、何故か下着姿で涙目になり身を縮みこませる時生がいた。


「ご、ごめんなさああい……」

「な、ななな何してるの時生さん⁉」

「この子ったら京介君とお風呂入ろうとしてたのよ」


 美月が呆れたような怒ったような顔を見せている。当たり前だ。恋人関係でもない、それも思春期真っ只中の男女が一緒に風呂に入るなんて大問題だ。特に親の立場からしたら、到底許される行為ではない。


「は⁉ ど、どういうこと⁉」

「だってえ。また京介君いなくなっちゃうかもしれないし」

「ええ⁉ いや、お風呂入ってるだけだよ⁉」

「どうしちゃったのよ時生ちゃん?」


 どうも様子のおかしい時生に美月も違和感を感じたようで、眉をひそめた。


「だって、また……お父さんみたいに消えちゃうかもしれないし」


 溢れだそうとする涙を慌てて拭う時生。

 京介と美月は顔を見合わせる。

 そういえば、と京介は思い出す。確か、彼女の父親は仕事の帰りに車にはねられて亡くなったと美月から聞いたことがある。彼女が異様なほど京介を心配するのは父親との突然の別れが彼女の心に深い傷を負わせているからなのだろう。

 彼女はいつも笑っていて、弱音を一切吐かず、京介の心を支えようとさえしてくれているのに。彼女の笑顔は、心の傷を隠すための嘘だったのだろうか?


「大丈夫だよ時生さん。僕は絶対に時生さんの前から消えたりしないから」


 京介がそう言うと、時生は潤んだ瞳で不安げにじっと京介を見つめてきた。

 すると、時生は突然、恥ずかしがることもなく京介に抱きついてきた。

 京介はタオルを腰に巻いただけの無防備な状態で、時生は下着姿。こんな状態で密着されたらダイレクトに彼女の柔らかさが伝わってきてしまってかなりヤバい。


「おわああああ⁉ とととと時生さん⁉」

「ちょ、ちょっと時生ちゃん!」

「絶対。絶対に、約束だよ?」


 不安げに上目遣いで潤んだ瞳を京介に向けてくる。突然父親を失った彼女の心の傷は、当たり前だが相当に深いものだったのだろう。普段は明るく振る舞っている彼女だが、心のどこかで常に不安や寂しさをを抱えているのかもしれない。


「……うん。大丈夫だよ。僕は絶対に、何があっても時生さんの前から消えたりしないから」


 京介は優しく彼女を抱きしめた。


「うん……」


 時生がすりすりと体に頬ずりをしてくる。

 と、美月が、わざとらしく大きな咳払いをする。


「時生ちゃん、もういいでしょう?」


 美月はぐいっと時生を引き離し、洗濯機の上に置かれた彼女のシャツを手渡す。


「あ、ご、ごめんなさい僕っ」

「いいのよ京介君は気にしなくて。それより、時生ちゃんと話をしてくるわね」


 と美月が京介を見る。

 すると、


「あら。あらあらまあまあ」

「え?」


 美月の視線を追って、己の下半身に目をやる──すると、股間は空気を読まず、こんもりとした山を作っていた。


「おわあ!」


 京介は慌てて股間を押さえて背を向けた。


「ご、ごごごごめんなさい僕!」

「うふふ。いいのよ、男の子だものしょうがないわよ」


 美月は頬に手を添え、ちょこんと首を傾ける。


「じゃ、時生ちゃん行きましょうか」

「うん……」


 そうして二人が脱衣所を出ていくと、京介は顔を真っ赤にして涙目で呻くのだった。


「うう……僕は最低だ……」


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