大変だよ、京介君


「──で、そのまま持って帰っちまったと」


 正木から事情を聞いた都筑は、呆れ顔で写真を受け取った。

 朝の職員室は授業の準備や保護者からの電話対応で皆忙しなく動いており、既にもう疲れ切ったような顔でコーヒーを啜る教師がチラホラと見受けられる。それは都筑も例外ではなく、朝から受け持ちの生徒が問題を起こしていると地域住民からクレームが入っていたらしく、教頭からの伝言を受けて胃を痛めていた所だった。

 そこに加えてまた厄介な問題が運ばれてきて、もう、溜息しか出なかった。


「ええ。つい、慌てていて」

「あんなあ。確かに沼田先生は見た目こそ不気味だけど、あれで結構きちんと生徒のこと考えてるんだぜ? まあ妙な噂も絶えないし、疑う気持ちもわからなくはないけどよ。でもだからってロクな証拠もなしに疑って探るのは失礼過ぎんだろ。小指の傷なんざ普通に生活してりゃつくことだってあらぁな」

「それはそうなんですが、犯人の小指に傷をつけたのを覚えていてそれが偶然沼田先生の傷と一致していたのでつい……」

「クラスメイトが目の前で襲われたんだ、焦る気持ちもわかるさ。けどな、警察にも説明してんだから、悔しいだろうけどお前は何もせず黙って事件の解決を待っときな」

「……はい」

「ん。じゃあこれは俺から先生に返しとくな。安心しな、うまく誤魔化しとくから心配しなくていーぞ」


 都筑は写真を胸ポケットに仕舞う。


「それより、怪我の調子はどうよ」

「ええ。お陰様で傷の治りも早いようで、順調に行けば来月には包帯が取れるそうです」

「そっか。その手じゃ店の手伝いも大変だろうけど、あんま無理すんなよ」

「お気遣いありがとうございます。まあ飾り付けやレジなら左手でもこなせますので」

「はは。んじゃあ、傷が治ったら完治祝にケーキ買いに行くわ。じゃ、もう行っていいぞ」

「はい。失礼します」


 正木は一礼し、去ってゆく。


 その背中を見送ると、都筑は胸ポケットから写真を取り出した。


 歳は二十代前半だろうか?

 まだ若い沼田が、今の彼からは想像もできない優しい顔でこちらを見ている。

 その隣の少女は誰だろう。

 と、なんとなく写真を裏返してみた。


「美海? 沼田先生の教え子かね」


 などと独りごちていると、


「なぁに見てるんですかね都筑先生ぇ」


 ぬう、と、同僚の岡田の顔が肩越しに覗き込んできた。

 岡田一郎、世界史担当の48歳だ。最近頭髪が後退していっておデコがだいぶ広くなってきている。本人は気にしていない素振りを見せているが、都筑は、彼がトイレで鏡とにらめっこしながらおデコを擦っている姿を見たことがある。


「うっわ! いきなり話しかけないでくださいよ」

「うん? それは誰だね」

「あー、若い頃の沼田先生っすね。色々あってうちの生徒が先生の引き出しから勝手に持ち出しちゃったんすよ」

「ほお。若い頃はさぞおモテになったんでしょおなあ。……と、そうそう、その沼田先生だがね、あの美術室の絵が不気味だと保護者からクレームが来てるんだよ」


 嫌な予感がする。

 都筑は苦虫を噛み潰したような顔で顔を逸らした。


「どうも生徒が告げ口したみたいでねえ。教頭先生も注意してるんだが聞いてくれないみたいでね」


 ぽん、と、岡田の手が都筑の肩に置かれる。


「悪いが、君から注意してくれないかね」

「あー、いや、別にそれは俺じゃなくても」

「校長先生と教頭先生が二人で話し合って決めたようだよ。岡田先生の件は君に任せようと」

「だから何でなんすか⁉ っつーか、誰が言っても聞かないんだから俺が言っても聞きゃしないでしょうがよ」

「それを何とかするのが君の役目だろうが」

「了承した覚えはないっすけどねえ」

「だがな、そろそろ本気で何とかせにゃならんのだよ。あの絵もそうだが美術室の私物化も問題になっとるしな」


 と岡田は写真を取り上げる。


「どうせ返しに行くんだろう、これも何かの縁と思って諦めろ」

「何の縁だよ……」

「ところでこの少女、烏丸時生に似てないかね」

「あぁん? そうっすかね」


 写真を奪い返し、改めて少女を確認する。

 確かに顔立ちや雰囲気が似ているような気もしないでもない。まあ他人の空にというやつだろうが。


「まあ確かに……そう言われたらそうですかね。つか、この写真何なんすかね」

「ははは、沼田先生、意外と生徒と禁断の恋を経験してたりしてねえ」

「あーまあ、この見た目じゃそういう事もあったんじゃないすかね。知らねっすけど」

「随分な変わりようだけど何かあったのかねえ」

「さあねえ」

「まあ、とにかく、沼田先生の件は君の担当だからな。よろしく頼むよ」

「はあっ? 了承した覚えないですけどねえ!」

「アンタ独身だろう。家帰ってもどうせ毎日暇を持て余して酒飲んでるだけなんだったら、少しは学校のためにその時間を裂こうと思わないのかね」

「家帰っても仕事してるんですけどねえ!」

「とーにーかーく。頼んだよ」


 都筑の意思など完全無視で、勝手に沼田先生担当が決定してしまった。


 なんで俺が。

 都筑は写真の中の沼田を恨みがましそうに睨みつけるのだった。



    ★



 昼休み、都筑は嫌々美術準備室にやって来て、嫌々扉をノックした。

 だが、返事はない。職員室に鍵が無かったのを確認したので、てっきりここにいると思っていたのだが見当違いだったようだ。


「しゃーね、写真だけ戻しとくか」


 渋々扉を開けて、中に1歩踏み込んだ。瞬間、足元に散らばった紙を踏みつけ、ぎょっとして足を引っ込めた。

 床に散らばった無数の水彩画用紙。そこに描かれた烏丸時生の絵──半開きになった窓から突風が吹き込み、画用紙を舞い上がらせた。

 視界いっぱいに舞い上がる、未完成の時生を描いた画用紙達。その向こうで、眼球を真っ黒に塗り潰された少女が不気味に微笑みながらこちらを見ている。

 1つめは窓辺に立つ少女。

 2つめは椅子に座ってじっとこちらを見る少女。

 そして3つめ。キャンバスに被せられた布が風で舞い上がり、半裸の状態で乳房を顕にして口元に笑みを浮かべている少女が姿を現した。

 無理やり脱がされたわけではなさそうだが、だからと言って、こんな絵を、学校で描いていいわけがない。しかも描いているのが教師というのがまた、なんとも気味が悪い。

 沼田が生徒に手を出したという噂もあるが、そりゃあ、そんな噂も出るだろうと納得してしまう。

 

「おいおい……」


 正木にはロクな証拠もなしに疑うのは失礼だと言ったが、こんなものを見てしまったら、嫌でも疑ってしまう。

 

 都筑は胸ポケットから写真を取り出すと、キャンバスに描かれた少女と写真の中の少女を見比べた。  


「……俺に探偵ごっこの趣味はないはずなんだけどねえ」




『そうかそうか! 沼田先生の件、引き受けてくれるのか! いやあありがたいねえ! OKわかった、沼田先生の勤めてた高校だね。すぐに調べるから待っててくれたまえ』


 私立晴嵐高校の校長・香山優作(58歳)は身長185cm体重120キロ、鍛え上げられた筋骨隆々とした巨体を揺らしながら、パソコンをカタカタ鳴らした。


『うん! 岡山だな! 岡山の私立校だな! 倉敷はいいぞお!』



 都筑はうんざりした顔で倉敷駅の駅看板を見上げつつ、昨日の校長とのやり取りを思い出して後悔していた。


「なんで俺、有給使ってまでしてこんなとこ来てんだよ……」


 沼田という男とあの少女に興味を持ってしまったせいで、都筑は岡山まで来る羽目になってしまった。


「っつーか岡山の私立校で働いてて何でまたわざわざ東京の私立校に転職してんだよ」


 沼田に八つ当たりしつつ、乱暴に1歩を踏み出す。


 駅を出ると、観光する間もなくすぐにタクシーに乗り込み、目的地へと向かう。しばらくすると窓の外に倉敷美観地区が見えた。趣のある和風建築がずらりと並んでいるのが見える。


「観光ですか? 美観地区へは行かないのですか? 私のおすすめは豆柴カフェですよ。癒されますよぉ〜」

「あー……いえ、遊びに来たわけではないので……」

「あらあー残念! 大原美術館へは?」

「いえ、だから」


 倉敷まで来たなら観光をするべきだろう。それが有給の正しい使い方のはずだ。


(なのになんで俺は有給使って沼田先生のこと調べてんだろうな……)


流れる景色を眺めながら、虚しさを感じて遠い目をする。


 と、スマホの通知音に呼ばれ、ようやく街並みから目をそらすことができた。


「あん? 晶か。なんかあったんかな」


『廣榮堂の元祖吉備団子! お土産よろしくお願いします! あと! 梶谷食品のシガーフライも! あと、調布もお願いします!』


 人の気も知らずに土産を強請り、不細工な猫が踊り狂う浮かれポンチなスタンプを送りつけてきた。


「旅行じゃねえっつの……」


 都筑は忌々しげに表情を歪めた。


 ため息をつき、ポケットから写真を取り出した。


 生徒と教師の恋愛。教師が若ければそういう間違いも起きてしまうのかも知れない。いや、本来なら起きるべきではないし、発覚した時点で未成年略取で逮捕もやむ無しだ。それに、本当にこの写真の少女が沼田にとって大切な存在だったのだとしたら、彼女の気持ちに答えたりはしないのではないだろうか。十代の少女にとって若い男性教師というのは憧れの的になりやすい。だが、それがただの憧れであり本気の恋心ではないことは、大人なら誰でもわかることだろう。

 まともな大人ならそんな子供の勘違いを利用して手を出したりしないはずだ。

 そう、まともな大人ならば。

 


「教師と生徒の恋愛、ねえ」


 都筑は天を仰ぎ、右手で顔を覆った。



 私立桜川女子高等学校の銘板の前に立ち、スマホにメモした学校名を確認する。見上げると、都筑の勤務する晴嵐高校よりも立派で大きな校舎が青空を背にして誇らしげに鎮座していた。

 チャイムを鳴らして、11時に校長と会う約束をしている旨を伝え、迎えを待つ。程なくして一人の若い教員が迎えに来てくれて、嫌な顔一つせず校長室まで案内してくれた。

 まだ授業中なので校舎はしんとしているが、時折どこかの教室から楽しげな笑い声が漏れ聞こえて来た。


「すぐに呼んでまいりますのでこちらでお待ちください」


 応接室に案内され、やれやれとソファに腰を下ろす。革製なのに尻が沈みこむほど柔らかなソファに驚き立ち上がりそうになったが、扉をノックする音が聞こえて慌てて座り直した。

 さっきとは別の教員がお茶を運んできてくれた。


「ど、どうも……」


 教員が部屋を出ると、都筑はゆっくりと部屋を見回した。これと言って珍しいものもない、晴嵐高校と同じような簡素な部屋である。年代物の振り子時計が部屋の隅っこに飾られているが、部屋が簡素すぎて逆に目立って見える。


「なんか落ち着かねえなあ」


 ため息をつきつつボリボリ頭を掻く。

 と、再び扉がノックされ、校長らしき男性が姿を現した。歳は60過ぎか痩せ型で白髪混じりの髪とシワ1つないスーツが印象的である。


「……どうも始めまして。晴嵐高校で教員をしております都筑春樹です」


 都筑は立ち上がり、深々と頭を下げた。


「始めまして。校長の山本和昭です」


 校長・山本和昭も深々と頭を下げた。


     ★


「……沼田先生ですか。ええ、よく覚えていますよ。ここに勤めていらしたのはもう25年……いや、27年前にもなりますか。とても顔立ちの整った方でしたので生徒からそれはそれは人気がありましてねぇ」

「ほお」

(だめだ全然想像つかねえ)

「少し人見知りする所もあって同僚とも深く関わろうとせずよく美術室に篭って一人で絵を描いておられましたね。それが十代の少女達にはミステリアスに映ったんでしょうね。彼に本気で想いを寄せる生徒も結構いたみたいですよ」


 山本は懐かしそうに口元を綻ばせた。 


「な、なんか今と全然違いますね。今は逆に気味悪がられて誰も近づこうとしませんが」

「ああ……あの事件があってから彼はすっかり人が変わってしまいましたからね。それまでは生徒想いのいい先生だったのですが」

「あの事件、とは?」

「沼田先生を慕う生徒は多かったのですが、その中でも遥美海という生徒は、彼女の家庭の事情が複雑ということもあったのでしょうが、沼田先生に愛慕を寄せていましてね」

「あーその遥美海ってこの人ですかね」


 都筑は胸ポケットから写真を取り出し、スッと差し出した。


「ええ、ええ、この方ですよ。遥美海……写真からも沼田先生への気持ちが滲み出ていますね。でもどうしてこんな写真を?」

「沼田先生が机の引き出しにしまっていたのを生徒が勝手に持ち出しましてね。で、その沼田先生なんですが、ずっとこのような絵を描かれてまして」


 都筑はスマホを差し出し、画面に収められた眼球を黒く塗りつぶされた少女の絵を見せた。


「な、なんですかこれは。これは遥美海、ですか?」

「恐らくそうだと思います。校長が注意しても描くのを止めず、美術室を私物化した挙句にこの絵をずっと飾ってるんですよ。それで、まあ、その写真と絵のことが気になりまして、根本的に止めるためには過去を探った方がいいのかなと。

ああ、まだあと二枚あるので見て大丈夫ですよ」

「……恐らく沼田先生は探しているのではないでしょうか」

「探す、て何をですか?」


 都筑が尋ねると、山本は哀しそうに目を細め、そうして静かにこう言った。


「かつて愛した遥美海という少女の笑顔を、です」



 ★


『絶対に、その沼田という男に近づいてはなりませんよ』


 放課後、送迎の車の中でマネージャーの鈴木が厳しい口調でそう言った。


『んーでも正木君の話だと私の絵を描いてただけっぽいですし』

『貴方にそっくりな不気味な少女の絵と、床を埋め尽くす程の貴方の絵。それに変質者と同じ小指の 傷。充分過ぎる程怪しいでしょうが。その正木というお友達も貴方を心配して忠告してくれたのでしょう。忠告を無視してもし何かあったらどうするんです』

『むう……』

『とにかく。危険な場所には近づかない方が身のためですよ。世の中は貴方が思う以上に危険な場所なのですから。それに人間なんて皆、何かしら闇を抱えて生きているものなんです。その闇は時に人を傷つけ人生をも奪うことがある。貴方が思うほど人は優しい生き物ではないのですよ』

『でも実害があったわけじゃないしなあ』

『実害が出てからでは遅いのですよ』


 赤信号で車が止まる。

 雨がぽつりぽつりと降り出し窓ガラスを濡らし始めた。


『優しさなんて面倒事の種でしかありませんよ』


 そんなことを言う鈴木の声はどこか冷たい。

 なんでそんなことを言うんだろう。でも時生はバックミラーに映る彼の目に一欠片の温もりも感じることができず、その質問を飲み込んだ。

 彼はけして冷酷な人間ではない。

 でも時々、こんなふうに冷たく優しさを否定する事がある。その理由を時生は知らないし、知ることを許されてはいないような気がした。


『……とにかく。その沼田という教師のことは警戒しておいた方がいいですよ』



「──って鈴木さんは言うんだけど、どう思う?」

 

 突然、時生がそんなことを聞いてきた。

 今週は時生と二人で渡り廊下の掃除当番に当たってしまったので、放課後、帰宅部が下校するのを横目に二人で掃除していた。


「どうって……僕も、そう思う……かな。あ、いや、別に沼田先生を疑ってるわけじゃないんどけど……でも、やっぱり、可能性がある限りは警戒した方がいいのかなって……」

「うーん。でも何かされたわけじゃないしなあ」

「まあ、僕も何かされたわけじゃないけど……」


 と掃除を再開すると、


「あ! 噂をすれば、だよ京介君!」

「え?」


 時生の指差す方を見ると、ちょうど、沼田が歩いてくる所だった。

 少し俯き加減に歩いていた沼田は二人に気が付き、顔を上げた。


「あ、えと、どうも……」


 京介はちょっと不安げに挨拶をした。


「先生、今日は大雨で憂鬱ですねえ。お日様が恋しいですぅ」

 時生は警戒する素振りも見せず、不満そうに口先を尖らせザカザカと力任せに廊下を掃きながら京介の前へ出る。

 と、沼田は、少し危なげな足取りでふらふらと時生に近付いてくる。


「大丈夫ですか?」

 

 時生は心配そうに沼田の顔を覗き込む。


「ちょ、時生さ──」


 時生を沼田から引き離そうと京介は彼女の腕に手を伸ばす。だがそれより先に沼田が勢い良く彼女の腕を掴んだ。


「ぬ、沼田先生……?」

「君は……誰だ……?」

「えと、私は烏丸とき」

「美海」


 時生の言葉を遮り、誰かの名を呼んだ。


「み、美海……?」

「美海……ここにいたのか」


 時生の腕を掴む手に、ぎゅっと力が込められる。


「ち、違います、あの、私は烏丸時生です」

「烏丸……時生……」

 

 何故か沼田は驚いたような顔をし、そして、ハッとして手を放した。

 

「そ、そうか、そうだな……」


 苦しそうに歪めた顔を抑え、よろよろと後退りする。


「あ、あの、大丈夫ですか?」


 京介が声をかけるが、


「気にするな大丈夫だ」


 よろめきながら踵を返し、心配になるほどよたよたと去ってゆく。


「あの、保健室……僕、一緒に行きます」


 放っておけず、京介は沼田の腕を掴んだ。

 

「構うな! こんなもの、放っておけばすぐに治る」


 乱暴に腕を振りほどかれ、ビクッと腕を引っ込めてしまった。沼田のことは心配であったが、それ以上何もできず、去ってゆく沼田の背中を見送ることしかできなかった。

 京介と時生は心配そうに顔を見合わせた。


       ★


「本当ごめんなさいねえ京介君。まさかお醤油切らしてるとは思わなくて」


 美月は頬に手を当てて首を傾けつつ、申し訳なさそうな顔を見せた。


「いえ。気にしないでください。欲しい本があったのでちょうどよかったです」


 京介は傘を片手に玄関に立ち、気にしないでください、と右手をパタパタと振った。


 雨と言ってもまだ本降りではない。

 ニュースでは19時頃から雨脚が強くなると言っていた。でもまだ18時前だ。長居せずにすぐ帰ってくれば問題ないだろう。


「それじゃ、行ってきますね」

「ええ、行ってらっしゃい」


 美月に見送られ、京介は家を出た。



    ★


 15分程歩くと、家を出た時よりも雨足は強まっていた。これは早く行って帰った方がいいぞ、と京介は本屋に寄るのを諦めて早足で歩き出した。 


「あれ……」


 さまざまな店舗の立ち並ぶ大通りを歩いていて、京介はふと、ビルとビルの間に座り込む一人の男に気がついて立ち止まった。

 そこそこ人通りの多い道で突然立ち止まったので、京介の後ろを歩いていた人の傘が傘にぶつかり、彼を避けようとする人の傘もぶつかり、何だか申し訳ない気持ちになって慌てて傘を閉じた。


「あ、あの、大丈夫ですか?」


 男に近づき声をかける。

 いつからこうしていたのだろう、その男は全身ずぶ濡れで、髪なんかバケツを引っ被ったように濡れて雫を滴り落としている。


「あ、あれ、沼田先生?」

「……阿賀波か」

「はい。あの、えと、大丈夫ですか?」

「気にするな、大丈夫だ」


 と沼田は壁に背中を預けながらよろよろと立ち上がり、左脇腹を押さえながら右手を壁につき、路地裏の奥へ向かって歩き出した。


「あ、あの、僕家まで送りますよ!」

「構うな。こんな事は慣れている」


 そう言う沼田の声は苦しげだ。

 眉間にも深くシワが寄り、雨なのか汗なのかわからないものが額からだらだらと流れて頬を伝っている。

 

 大丈夫だ、と沼田は言うが、すぐに、立つこともできなくなって倒れてしまった。


「あわわわわ、救急車呼んだほうがいいですかねっ」


 京介は沼田に駆け寄り、おろおろしながらスマホを取り出した。だが沼田はそれを奪い取り、


「余計なことをするな。放っておけ」

「けど……こんな状態の人を放っておくことなんてできませんよ。しかもこれからもっと雨が強まるのに……」

「いい……本当に……私なら大丈夫……だ」 


 息も絶え絶えにそう言いながら、なんとか立ち上がろうと壁に手をつく。だが少し腰を上げただけで崩れてしまう。素人の目にもこれはダメなやつだとわかった。


「あ、あの、じゃあタクシー呼びますので。心配なので家まで送らせてください」


 京介のその申し出を断る気力もないのか、沼田はもう何も言わなかった。



 タクシーで30分程走った所に沼田のアパートはあった。

 ノスタルジーを感じさせる昭和感のある木造2階建てのそのアパートは、雨に濡れ、薄暗さもあってか不気味な雰囲気を醸し出している。

 京介はタクシーを降りると沼田を肩に担ぎ、アパートの階段を上った。


「大丈夫ですか? 階段、上れますか?」


 しかし返事は帰ってこなかった。だが、覚束ないながらも着実に1歩ずつ、階段を上っている。

 勝手にすみません、と心の中で謝りつつ沼田のジャケットの懐を探り鍵を取り出す。

 扉を開けて中に入ると、左手にすぐシンクが見えた。洗い物は得意ではないのか、食器がたまっている。手探りで電気のスイッチを探して明かりをつけてみると、居室へと続く短い廊下は彼の描いた物だろう絵がまるでゴミのように適当に捨て置かれているのが見えた。

 そこに描かれているのはどこかの風景で、水彩で描かれたもののように思う。だが部屋には石油の独特の匂いが漂っており、それは恐らく油絵からのものだろうと京介は推測した。


「すいません、一旦おろしますね」


 沼田を肩から下ろし、廊下の壁にもたれかけさせる。


「あ、あの、僕タオルと着替え取ってきます。えと、勝手に入っちゃいますね」

「いい。もうこれ以上は何もせんでいい」


 沼田は両手で髪をくしゃくしゃにしながら頭を抱えこんだ。


「でも」

「阿賀波。お前は確か……烏丸時生と暮らしているんだったな」

「へ? あ、はい、そうですが」

「だったら……しっかり守ってやれ。例え私と刺し違えてもな」

「は? え? さ、刺し違えても⁉ なんの話ですか⁉ なんで急にそんな物騒な話をっ」


 と京介が若干パニックになっていると、沼田が、京介の頬に右手で触れてきた。


「先生……?」

「私はもう、こちら側にはいれないかもしれない。もしあちら側の私が彼女を傷つけようとしたなら、その時は」


 沼田の言葉が途切れた。

 数秒の沈黙が流れ、ゆっくりと、再び口が開かれる。


「その時は……私を殺せ」


 苦しそうに顔を歪め、上目遣いで京介を睨みつける。


「は⁉ え⁉ こ、殺っ……⁉ な、なんの話をしてるんですか⁉」

「すまん……なんでもない。悪かったな、もう帰れ」


 と沼田は懐から財布を取り出し、中から一万円札を取り出して京介に差し出した。


「タクシー代だ」

「い、いいですよそんなの! あの、僕、バス乗って帰りますからっ」

「子供が遠慮するな」


 沼田は一万円札を乱暴に京介の胸に押し付けると、覚束ない足取りで壁に背中を預けながら立ち上がり、居室へと向かっていった。

 彼は大丈夫なのだろうか?

 心配ではあったが、これ以上自分にしてやれるこなはないかもしれない、そう思い、帰ることにした。そして玄関の扉を開ける──


 バケツをひっくり返したような雨、とは正にこのことを言うのだろう。アパート正面の建物も見えない程の激しい雨が地上に降り注いでいた。


 台風でも来たかな?


 京介は呆然と立ち尽くし、そして、扉をそっと閉じた。


「うん。無理だよ……」


 京介は哀しげに呟くと、そっと玄関に腰掛けた。



   ★


 あの子は誰だ。

 あの子は美海じゃない。

 ならば美海はどこにいる。

 あの子は美海じゃない。

 あの子は、私の教え子だ。


 違う。

 違うのだ。

 そうだ、違うのだ。


「違う! 違う! 違う!」


 沼田は悲鳴のような叫びを上げながら、部屋中に貼られた時生のポスターを乱暴に引っぺがす。それはもう、爪で壁を抉るような勢いで次々に、次々に。ポスターが破れてもシワになってもお構いなしだ。


「違う! 違う! 違うのだ!」


 自分に言い聞かせるように叫び続け、剥したポスターを掻き集めてゴミ箱に突っ込んだ。そしてふらふらと棚に体を預け、頭を抱えて蹲る。


 だが、その時だった。


「先生」


 声が聞こえた。

 聞き覚えのある、狂おしい程に愛おしい、彼女の声だ。

 大好きだった。

 愛していた。

 でもそんな言葉を伝えていいはずもなく。 

 だけど彼女は 


「大好きだよ」


 恐る恐る顔を上げると、少女は……美海はナイフを片手に沼田の前に立ち、笑っていた。でもそれは彼の愛した彼女の微笑みではなくて。彼女は目を見開き、口の両端を無理やり釣り上げた、狂気に満ちた笑顔を浮かべていた。


 美海はナイフを両手で握り、ゆっくりと、振りかぶった。


「ま、待て美海……待て……待ってくれ……」

「今度こそ、一緒に幸せになりましょう」


 躊躇いもなく、ナイフが振り下ろされる。

 ナイフは沼田の腹に突き刺さり、一度大きく下へ引き裂いた後、再び振りかぶられた。

 そうして何度も何度も、執拗に彼の腹を刺す。


「う、うわあああああああああ!」


 助けてくれ。

 美海から、いや、この恐怖から逃れようと、左脇腹を押さえながら床を這いつくばり、そして引き戸にすがりつく。


すると、


「ど、どうしました先生!」


 京介が扉を開け放った。

 と沼田は京介を押しのけ、転がるようにして廊下に飛び出すとそのままシンクにぶつかり、そこに散らばった薬を余裕もなく両手で引っ掴み、震えながら何とか包装シートから薬を取り出し口に放り込んだ。まるで今その薬を飲まねば死んでしまうかのような必死さに、京介は唖然とした。

 沼田は力任せに蛇口をひねると、勢い良く飛び出した水をコップに受けることなく片手で受け止めガブガブと飲み始めた。

 はあはあと肩で息をしながらその場にへたり込み、そして、彼はそのままパタリと気を失って倒れ込んでしまう。


「ああああ! 先生!」


 京介はパニックになりながら沼田を抱き起こした。


「ど、どうしよう。とりあえず部屋につれてったほうがいいよね。ああでもその前に着替えさせないとっ!」


 もうどうしたらいいのかわからず、でも、服は脱がした方がいい気がしたので「し、失礼します!」と謝ってから服を脱がせ始めた。

 ネクタイを外し、体を持ち上げてジャケットを脱がし、そしてワイシャツのボタンを外し始める。 


「だ、大丈夫かな。先生風邪ひいちゃわないかな」


 とシャツのボタンを外して前を開けてみると、沼田の左脇腹に大きな傷がある事に気がついた。施術痕ではない。まるで乱暴に引き裂かれたような、生々しい傷跡だ。


「えええっ……こ、これって見ちゃだめなやつだよね⁉ どどどどうしようそうだ見なかったことにしよう!」


 見てしまったものはどうしようもないが、一旦服を閉じ、見なかったことにした。それからすぐに部屋からタオルとパジャマを探し出し、なぜか「ごめんなさいごめんなさい」と謝りながら服を着替えさせた。相手が女性ならわかるが、五十過ぎのおっさん相手に申し訳なく思う必要もないだろう、と京介自身もそう思っていたが、勝手に服を着替えさせるという行為に背徳感を感じてしまっていた。


 なんとか服を着替えさせた京介は彼をベッドに移動させるため両脇を抱えて引き摺ってみたがうまく行かず、仕方なく、根性で横抱きにして部屋まで運んだ。

 6畳程の部屋にはそこかしこに積み上げられた本やキャンバスが転がっていて、薄暗い部屋の中それらに躓かないように気を使いながら歩いた。

 奥の部屋に続く襖が半開きになっており、それを足で開けて中へ入った。朝起きた状態でぐちゃぐちゃになったベッドに沼田を寝かせ、ほっと息をつく。布団をかぶせ、乱れた前髪をそっと整える。


「沼田先生って意外と整った顔してるんだなあ……って、だめだよ僕! 人の顔そんなにジロジロ見ちゃ! ご、ごめんなさい先生っ!」


 京介は慌てて沼田から離れ、ひと呼吸置いてからまた彼の顔を覗き込んだ。

 あまり、穏やかな寝顔ではない。眉間に深く皺を刻み、どこか苦しげな表情を浮かべている。


「だ、大丈夫なのかな……」


 心配ではあったが、今は静かに寝かせてあげようと思い、そっとその場を離れ、隣の部屋に移動した。


手探りで照明のスイッチを探し、明かりをつける。

壁には引っ掻いたような傷跡がいくつもつけられていて、床には目を黒く塗りつぶしたあの少女の絵が転がっている。


「ひいぃ⁉」


 京介は小さく悲鳴を上げ、反射的に肩をすぼめて両腕を胸の前に持ってきた。


「あぁあ、こ、こういうのは人の趣味だからあんまり見ないほうがいいよね」


 京介は再び部屋の照明を落とした。



 

 部屋のカーテンを開けてみると、雨はまだまだ激しく降り続いており、勢いが衰える様子はない。


「うーん……もう少しだけ待ってみようかな。あ、そうだ」


 と京介は廊下に移動し、雨の勢いがマシになるまでの暇つぶしとして溢れ返った食器を洗うことにした。シンクの横のゴミ箱は冷凍食品の袋とコンビニ弁当の容器で溢れかえっている所を見ると、沼田は普段から料理を全くしないようだ。



「いや、でも……お節介すぎるかな……。でもだいぶ溜まっちゃってるしなあ。いいや、洗わせてもらおう……」

 

 と京介は蛇口を捻ろうとして、ふと、手を止めた。そしてシンクの上に散らばる薬と薬の袋へとちらりと視線を向ける──


「って、だめだめ! 流石にプライベートなことだから見ちゃだめだってば!」


 京介は自分を叱り、薬のことを忘れようと食器洗いに集中した。


(相田精神医療センターって書いてたような……)

「っあーだめだめ! だめだよ僕! 人に知られたくないことって人にはたくさんあるんだから! もー!」

 

 気にしてはいけない、そう思い、気を逸らすためにドバドバと勢い良く洗剤をスポンジに注ぎ込み、シンクを泡だらけにしながら食器を洗い始めた。


「あああ! マズい! 入道雲みたいになっちゃったよ!」


 大量の泡と食器と格闘しながら、なんとか食器を洗い終えた。ついでに余りまくった泡でシンクの中もピカピカにした。


「ふう……なんとか綺麗になったぞ……」


 ひと仕事終えてほっとし、外の様子を伺いにまた居室へと戻った。 


 カーテンを開けてみると、雨は少だけし勢いを落としていた。もうあと少し待ってみようか。


「あ、そうだ。お義母さんに連絡入れなくちゃっ!」


 京介はズボンのポケットからスマホを取り出し、美月にメッセージを送った。


『連絡が遅くなってすいません。雨が激しいので、もう少し雨宿りしてから帰ります。お醤油すみません』

『OK♪ お醤油のことは気にしなくて大丈夫よ。焦らなくて大丈夫だからね。ゆっくり帰ってきてね』

『はい。ありがとうございます』


「これでよし、と。ふう、なんだか疲れたな……」


 と京介は座椅子を机の下から引き出すと、窓の方向を向いてちょこんと三角座りをした。


「雨、やまないなあ……」


 京介は大きなあくびをし、ゆるゆると流れてくる眠気に抗うために目をこすった。


「ん……今寝たら帰るの遅くなっちゃうからだめだよ……」


 京介は呟いて、もう一度目をこすった。



    ★


 雨は激しく降り注ぐ。

 時刻は18時を過ぎ、空はすっかり暗闇に包まれた。雨雲に阻まれた空は一筋の明かりも見せず、ただ不気味に流れてゆくだけだ。


「京介君遅いなあ」


 時生は心配そうに、窓から空を眺めていた。


「そうねえ。雨宿りして帰るとは言ってたけど……」


 カウンターキッチンの向こうでカレーをかき混ぜながら、美月も心配そうな表情を見せる。

 

「既読もつかないんだよ」

「少し電話してみるわ」


 美月はカレーをかき混ぜながら、京介に電話をかける。

 時生は不安げに、既読のつかないメッセージ画面を見つめた。


『速報です。警視庁は先程、連続通り魔事件の容疑で港区在住の28歳男性を傷害致死の容疑で逮捕したことを発表しました。犯人は『女の子の恐怖に歪む表情を見ると興奮した』などと供述しており……』


 テレビから速報が流れ、一瞬はそちらに気を取られたものの、またすぐに、スマホの画面に意識が戻る。


 もう19時を過ぎたというのに一向に帰ってこず、それだけならまだしも電話をしてもメッセを送っても反応がない。未読のメッセージだけがどんどん積み重なってゆく。


「時生ちゃん、サラダ盛り付けてもらっていいかしら。きっとすぐに帰ってくるわよ」

「うん、わかった……」


 そう返事をしつつも、時生の心から不安が消えることはなかった。



   ★


「ん……もう朝か……」

 

 京介はカーテンの隙間から差し込む光に起こされて、眠い目をこすりながら大きなあくびをする。寝ぼけた頭でよっこらしょと立ち上がり、カーテンを少しだけ開けてみる。


「やあ。爽やかな朝だなあ」


 なんて言いながら、ぼーっと目の前の景色を眺める。


 見知らぬ民家が立ち並んでいる。

 

「え……………」


 ここ、どこだ?

 京介はゆっくりと、部屋を見回した。

 背の低い机の上にデスクトップパソコンが置かれていて、そこら中に美術や教育に関する本が積み上げられていて、脱ぎ散らかされた服やレシートのゴミが散乱している。この部屋の主はあまり掃除が得意ではないようだ。

 それらを確認し、ようやく、自分がまだ沼田の部屋にいることに気がつくのだった。


「嘘……え、まって! 今何時っ……!」


 スマホを取り出し時間を確認してみると、なんと、もう、時刻は朝の七時半だった。


「うわあああああああああああああああ!」


 京介は思わず叫んだ。

 ロック画面に表示された通知を確認すると、メッセージや電話が何百件と来ているのがわかった。


「ああああああああああああああ!」


 あたふたとロック画面を解除し電話の履歴を確認する。ほぼ毎分ごとに色んな人から電話が来ていた。時生、美月、康介、都筑、晶、そして見知らぬ番号4つ……

 更にメッセを開いてみると、時生から毎分ごとに連絡が入っていた。


 

京介君、今どこにいるの?

ねえお願いだよ返事をして?

ねえ

ねえ

ねえ

ねえ

お願い返事をして?

ねえ、京介君、今どこにいるの?

お願いだから電話して?

声が聞きたいよ

ねえ、お願いだよ京介君……

京介君

京介君

京介君

京介君

ねえ

ねえ

ねえ

ねえ!

ねえ!

ねえ!!!


「な、なんかヤンデレ彼女みたいになってるよ時生さん⁉ いや、僕のせいなんだけどさっ?」


 などとパニックになって騒いでいると、ガラッと襖が開き、沼田が現れた。


「あ……」


 京介は顔からサーッと血の気が引いていくのが分かった。


「なんでお前まだここにいるんだ……」

「ち、ちちち違うんですあの、えと、小雨になるのを待ってたら眠っちゃったみたいで、あのっ」

「親御さんに連絡は」

「ま、まだ……です。めちゃくちゃ連絡来てました……」

「貸せ。親御さんには私の方から連絡する」


 沼田は呆れたようにため息をつき、手を差し出してきた。


「あ、は、はいっ」


 京介は大急ぎで美月に電話を掛け、沼田にスマホを渡した。


 今まで夜に外出したことなんてなかった。もちろん、無断外泊なんてしたことはない。そんな息子が一晩も帰らないなんて、父・康介はどれほど心配していることだろうか。

 京介は申し訳無さで胸が一杯になった。


「ああ、どうも始めまして。晴嵐高校で美術教師をしております沼田と申します。実は京介君の事なんですが、彼、今うちにおりまして。……ええ、はい……いえ、実は昨日体調不良で道端に蹲っているところを彼に助けてもらい、家に送ってもらいましてね。私が眠った後で、どうも小雨になるのを待っている間に彼も眠ってしまったようでして」


 淡々と説明する沼田の姿は、京介の目には皆が噂するような怪しく不気味な人間には映らず、きちんと一人の大人として、教師としての姿を見せてくれているように思えた。


「……これは私の責任でもあります。ご心配おかけして大変申し訳ありませんでした。いえ、いえ、とんでもないです。はい、はい……ええ、では一旦京介君に代わります」


 と沼田はスマホを放り投げた。


 京介はあわあわとそれを受け取り、半ばパニックになりながら電話に出た。


「あ、あの、お義母さん、ごめんなさい僕っ……!」

『京介君! よかった、心配したのよ!』

「ご、ごめんなさい僕あの、寝ちゃって」

『うん、大丈夫よ、先生からお話は伺っているから。それより早く帰ってきて時生ちゃんに顔を見せてあげてちょうだい? あの子、心配してずっと起きてたのよ』

「え、ええええ!」

『とにかく、京介君が無事で本当に安心したわ。今回のことはもう気にしなくていいから、早く帰って時生ちゃんと康介さんを安心させてあげてね?』

「あ、は、はい! すぐ帰ります!」

『うん。でも焦らなくていいからね? それで怪我しちゃったらまたみんな心配しちゃうから』

「は、はい、ありがとうございます……」

『うん。それじゃあね。先生にもきちんとご挨拶して帰ってくるのよ?』

「はい。わかりました」

『うん。それじゃあ、また後でね』

「はい」


 連絡も入れて一安心だ。

 電話を切り、ふう、と息を吐く。


「記憶が曖昧なんだが、昨日、確かタクシー代を渡したよな」

「あ、そうでした! これ、お返しします!」

 

 京介は丁寧に折りたたんだ一万円札をズボンのポケットから取り出した。


「違う。それを使って帰れと言ってるんだ」

「や、でもさすがに」

「子供が遠慮するな。とっとと帰って親を安心させてやれ」


 ぶっきらぼうにそう言いながら、廊下に続く引き戸を開く。


「……わかりました。えと、じゃあ、ありがたくお借りいたします」

「いちいち気にせんでいいからとっとと帰れ。まったく……」


 と沼田は廊下に出ると、すぐに、シンクがピカピカになっていることに気がついた。


「おい、お前これ」

「ああああごめんなさい余計なお世話でしたよね!」

「……ああ、そういえば服も着替えさせてくれたのか」


 ようやく気づき、シャツの裾を引っ張って確認する。


「あ、ごごごめんなさい僕は何も見ませんでした!」


 傷を見たことがバレたと思い、バタバタと忙しなく手を振り顔を思いっきり逸らす京介。


「……色々すまなかったな」


 沼田はボリボリ頭を掻きながら、呆れ気味に小さくため息を吐く。それは京介に対してというよりも、自分自身へ向けたもののようだ。

 生徒に介抱してもらった上に服まで着替えさせてもらい、片付けまでしてもらい、大人として教師として少し恥ずかしく思ったのかもしれない。

 そんな彼の様子を、京介は意外そうに見ていた。


    ★


「寄り道せずに帰るんだぞ」


 玄関扉を半分開けた状態で、廊下で深々頭を下げる京介に注意する沼田。


「はい。今日はすみませんでした」

「もういい、気にするな。ほらもうとっとと帰れ」


 そう言うと、沼田はそっと扉を閉めた。


 京介を見送った沼田は疲れたように深くため息を吐き出し、ボリボリと頭を掻きながら居室へ戻ろうとした。が、段差に躓き、豪快に転倒してしまった。


すると、


「だ、大丈夫ですかっ?」


 また京介が戻ってきて扉の隙間から顔を覗かせた。


「転けただけだ! いいからとっとと帰れ!」

「あああああすみません!」


 京介は慌ただしく扉を閉める。バタバタと忙しない足音が遠ざかってゆくのが聞こえた。


 深いため息を吐き出し、ぐっすり寝たはずなのに消えない疲労を抱えながら部屋へと戻る。

 座椅子をもとに戻して重々しく腰を下ろすと、再びため息を吐いて頭を抱えて項垂れた。


「もう、潮時か……」


 そう呟いた次の瞬間。脳が揺れるような激しいめまいに襲われ、世界がぐにゃりと歪んだ。

 まるで内側から自分ではない何者かが正気の心を引き裂いてぬるりと姿を現すような、そんな感覚が襲ってきた。

 食われる。

 心が恐怖に悲鳴を上げた。


 正気を保つために爪を立てて頭を押さえ、這いつくばりながら床を移動する。呻き、喚き、来るなやめろと怒号を撒き散らし、のたうち回る。


「あの子は、違うんだ! あの子は、美海じゃない!」


 黒く生ぬるい影がざわざわと這い上がってきて、朝日に照らされた部屋を薄闇へと塗り替えてゆく。


 留まらなければ


 もう、あちら側へ行ってしまっては駄目だ


「美海は! もう、死んだのだ!」



 自分に言い聞かせるように叫び、天を仰ぐ。


 いや、彼女はまだ生きている。

 それを、お前は知っているはずだ。

 だから、探しているのだろう。

 お前が愛した彼女の微笑みを


「ねえ。先生」


 新雪のように真っ白な足が、目の前に在った。

 

 薄闇に飲まれた部屋の中、彼女の白い肌だけが異様にはっきりと認識できた。


 見上げると、彼女は笑っていた。

 大人の真似をして真っ赤な口紅を塗って見せて、それがまだあどけなさを残す彼女には不釣り合いで。それなのに、それは、在りし日の彼に劣情を抱かせるには充分過ぎた。

 

 彼女に、また会いたい


 強く強くそう願う。

 それなのに。

 彼女の目が、見えない。まるで眼球を失ったようにぽっかりと穴を開け、闇を湛えている。


 彼女はどんなふうに笑ったのだろう。

 彼女は、どんなふうに私に愛を囁いてくれたのだろう。

 彼女は、どんな表情で私と時を過ごしたのだろう。


 思い出せない

 どうしても、彼女の笑顔を思い出すことができない。

 

「は、ははっ……美海……待っていろ、必ず、必ず、私はお前を見つけ出してやる……」


 今、自分はにいるのだろうか


 いや、もう、どちら側でもいいではないか


 何が現実で何が虚構なのか、そんなことはもうどうでもいいのだ。


 そう、どうでもいいのだ


「はは……私は今、どちら側にいる? いや、どちら側が正しいのだ……どちらが正解なのだ……?」


 自分は正気なのか?

 それとも狂っているのか?


 これは現実か?

 それとも虚構なのか


 もう、それすらもわからない


 よろよろと立ち上がり、壁に立てかけてある海辺に佇む美海の絵に近付く。

 足元のゴミ箱に気が付かず倒してしまい、はたと足を止める。床に、ポスター類が散乱している。烏丸時生の、ポスターが。


 彼女は誰だ

 彼女は、美海だろうか

 いや、違う

 彼女は


「違う。彼女は美海ではない。彼女は」


 だめだ。

 あちら側に行ってしまっては駄目だ


「違う! 彼女は美海ではない! 彼女は私の生徒なのだ!」


 崩れるように膝をつき、悲鳴を上げる。


「だめだ! だめだ! だめだ! 私は、私は……私は、教師なのだ!」


 叫び、散乱したポスターを視界から消そうとするように乱暴に両手で跳ね除けた。


「は……はは……もう、だめだ」


 ふらふらと立ち上がり、両手をだらりと下げ、半ば上半身を折り曲げるようにして、隣の部屋へと入ってゆく。


 私はまだ、にいる

 だから、逃げてしまおう

 どこか遠くへ、逃げてしまおう


 服を脱ぎ捨て、床に脱ぎ捨てられたスーツとワイシャツを拾い集めて、いつも通りに身につけてゆく。きゅっとネクタイを締めて、着替えを完了し、出勤に使っている黒いリュックを引っ掴む。昨日の雨のせいでまだしっとりしている。


「美海。私はまた、お前に会えるだろうか」


 

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