大丈夫だよ、京介君!
人家のない校舎は不気味なほど静寂に包まれていた。夕陽に染まる廊下に窓の影が落ち、足音を忍ばせているつもりでも異様なほどに廊下に響いて聞こえる。
部活動も終わり、残っているのは仕事に追われた数名の教師だけ。
誰の声も聞こえず、己の足音だけしか聞こえない。そんな放課後の廊下を歩き、正木は美術準備室へとやってきた。
誰もいないと分かっていても、つい、音を立てないように最深の注意を払いながら鍵を開ける。息を殺しながらゆっくりと扉を開けると、私物化されて足のふみ場もなくなった部屋が姿を現した。イーゼルも石膏像も置き場が定まらず部屋の入り口付近で乱雑に放置され、スチールラックには書類が無造作に突っ込まれている。
そして部屋の奥の窓辺に、事務机が一つ。
床には描き殴られた少女の絵が散らばっている。どれもこれもラフ画の状態で完成には至っていない。
その少女の絵には見覚えがあった。
「烏丸……?」
顔を上げると、いくつかのキャンバスが置いてあることに気がついた。それぞれ布が掛けられているが、それがまた、不気味さを助長させている。
沼田という男は妙な噂が絶えない人物だ。やれ女子生徒に手を出しただの、やれ過去に生徒を自殺に追い込んだのと、信憑性には欠けるが納得できるものばかりだ。
もちろん見た目で判断しているわけではない。美術準備室に保管されている彼の作品達が、そうさせるのだ。
布をまくってみると、眼球を真っ黒に塗り潰された少女が、キャンバスの中で妙に肉感的な赤い唇に微笑みを湛えていた。セーラー服を着たその少女は唇こそ笑んでいるものの、全体的な表情は曖昧だ。
喜んでいるのか悲しんでいるのか絶望しているのか、見ようによってはどうとでも受け取れるが、沼田の真意はわからない。
「相変わらず悪趣味だな……」
布を降ろし、もう1つのキャンバスを確認する。
そこにも同じ少女が描かれていた。
その少女も眼球を真っ黒に塗り潰された状態で口元に微笑みを湛えている。
少女は美術室らしき場所の窓辺に佇み、じっとこちらを見ている。いや、目は黒く塗り潰されていて視線がどこを向いているのかはわからないのだが、それでも、こちらに向けられた真っ黒な眼は、不思議と悲しみを滲ませながら何かを訴えているかのようだ。
正木は足元に散らばった用紙を1枚拾い上げた。絵についてはまるで知識がないが、画用紙よりは分厚くて丈夫そうな紙だ。水彩画用の紙だろうか? それと同じ紙が複数枚散らばっている。が、どれも完成形には至らず、ラフ画の状態で捨て置かれている。正木の目には十分な出来に映ったが、沼田的には駄作扱いなのだろうか。
しかし足元に落ちているその用紙に描かれているのが全て時生という点が気になり、正木は顔を顰めた。
「似ている……か」
キャンバスの中の少女と時生は別人だと思われるが、二人はどことなく、似ているような気がした。雰囲気も違えばキャンバスの中の少女は眼が黒く塗りつぶされている上に表情もよくわからないのだが、それでも、どこか顔の造形が似ているような気がする。
部屋を見回し、事務机へと歩を進める。
机の上には授業で使うプリントの束と、その横には美術史や西洋絵画の本が積み上げられている。そして、どこか体が悪いのか、透明のピルケースが置かれており、中に3種類ほどの薬が確認できた。
事務机の引き出しに手を掛けて少し引いてみると、簡単に隙間が開いた。
物音に気をつけながら引き出してみると、中は部屋の状態と打って変わってきちんと整理整頓されていて、授業で使うらしきプリントや箱に入ったまま削られていない鉛筆、使いさしの練り消し等がきちんと収納されている。そこに、不自然に1枚の古びた写真が仕舞われていた。
今より三十年は若い沼田と、セーラー服姿の一人の少女だ。白い肌と整った顔、そして、くっきりとした二重まぶたの大きな瞳が印象的だ。気のせいか少女はほんの僅か頬を紅潮させ、潤んだ瞳でこちらを見ている。心なしか二人の距離も近い気がする。
一方の沼田は今と正反対に優しく穏やかな眼差しを向けており、口元にも笑みを浮かべている。加えて、若い頃の沼田は、目鼻立ちがはっきりとした、とこか西洋風の面立ちをしている。面影がないとは言い切れないが、別人だと言われれば信じてしまいそうだ。それでもそれが彼だと確信できたのは、やはり、そこに彼の面影を見たからだろう。
正木はその時、その少女が、キャンバスに描かれたあの少女なのではないかと気がついた。写真を手に取り少女の絵を確認してみる……確かに、そこに描かれた少女は写真の中の少女であった。しかし眼は真っ黒に塗り潰され、そこに生気を感じることはできない。
「この少女は一体……」
正木は何気なく写真の裏面を確認してみた。
鉛筆で、1995年6月24日、沼田優吾、そして──その横に、名字は掠れてしまっているが、
「沼田の教え子か……?」
アゴに手を当て、思わず考え込む。
昨日の変質者が沼田である証拠、あるいは手掛かりを見つけられればと思っていたのだが、思わぬところで沼田の描く少女の謎に触れてしまった。これは事件と関係あるのだろうか、正木は眉をひそめながらもう一度少女の絵を見た。
あるとしても、まともな頭で理解できる理由ではなさそうだ。
「……いや、これ以上はやめておくか……」
(沼田が犯人である証拠なんてあの小指の傷くらいだ。そんなもの、沼田が言ったように、紙で切っただけだろう。小指の傷くらいで他人を疑うのもな……)
少し自己嫌悪に陥り、写真を戻そうと机に向き直る。するとそこへ、
「おい、何をしている」
突然扉が開き、沼田が現れた。
正木は咄嗟に引き出しを閉め、仕舞いそこねた写真をズボンの尻ポケットに突っ込んだ。
「いえ……すいません。探し物をしていまして」
「探し物? こんな所に何を忘れたというのだ。お前の物なんかあるはずがないだろう」
「いえ、どこを探しても見つからなかったのでもしかして、と思いまして。……ところで先生。準備室は美術部も使うでしょうし、このような絵を置いておくのはいかがなものかと」
「美術部の顧問は私だ。私が何を描き何を飾ろうと私の自由だ。そもそもそんな事はお前に関係ないだろう」
「そうですね……申し訳ありませんでした」
「お前、何か企んでないか?」
沼田は足元に散らばる水彩画用紙のことなど気にもせず、それらを踏みつけながらずんずん正木に近づいてくる。
「誤解ですよ。私は別に」
「じゃあ何故、わざわざ追いかけてきてまでこんな小指の傷のことを聞きに来た? こんなもの気にする必要もないものだろう」
沼田は絆創膏の貼られた小指を立てて、ズイっと正木の目の前に突き出した。
「単に気になったから聞いただけです」
平静を装いつつも尻ポケットの写真が気になる。もしバレたら、叱られるだけでは済まないのではないか? 不安と恐怖が背中に冷や汗を伝わせた。
「ふん。まあいい。今日のところは見逃してやる」
沼田はそう言うと手を下ろし、足元の水彩画用紙を回収し始めた。
正木はほっと胸を撫で下ろし、尻ポケットを押さえたままそっと沼田の横を通り過ぎる。
「おい」
急に呼び止められ、正木はビクッと足を止めた。
「何でしょう」
「もうすぐ日が暮れる。寄り道せずに気をつけて帰るんだぞ」
「ご忠告どうもありがとうございます」
そもそも沼田を疑ってしまったのは、小指の傷のこともあるが、その見た目の不気味さと生徒間で囁かれる噂のせいもある。見た目で人を判断するのはよくないな、と正木は自省し、沼田に一礼して部屋を出た。
これ以上詮索するのはやめておこう。
そう思いはしたが、沼田の描くあの少女が気になる。とは言え、それを知ったところで、自分に何の得があるわけでもない。好奇心は猫をも殺すというし、深入りはしない方がいいだろう。
正木はこの件は忘れることにし、足早に帰路についた。
「って……写真、持ってきてしまったがどうすべきか……」
この件は忘れることにしよう、と思ったが、尻ポケットの写真が彼を引き止める。
改めて写真を見返し、そして、ため息を吐く。バレずに返すことは可能だろうか? いや不可能に近いかもしれない。もしかしたら既にバレていて、今まさに自分を追いかけてきているかも知れない──不安を覚えつつ振り向いてみるが、沼田が追いかけてくる様子はない。
「……都筑先生に正直に話して預かってもらうか……」
★
「……僕って最低だよなあ」
京介は自室のベッドに仰向けになり、一人大反省会を繰り広げていた。
反省会の内容は、自分の大切にしているものに触れられたくないあまり時生や他のみんなにキツく当たってしまったことだ。
もう少し落ち着いてやんわりと断ればよかったのではないか? どうしてあんなキツく拒んでしまったのだろうか。
時生は傷ついただろう。いや、もしかしたら、怒っているかもしれない。いや、もしかしたら、こんな自分に呆れて愛想を尽かしてしまったかもしれない。面倒な男だな、と、もう二度と関わろうとしてくれないかもしれない。いや、もしかしたら、今後一生蔑みの眼差しを向けられることになるかもしれない。
『鬱陶しいよ、京介君……』
蔑み、汚い物を見るように顔を顰める時生が脳裏に浮かぶ。
「ああああ! ごごごごごめんなさい! ごめんなさい時生さん!」
京介はうつ伏せになり、何度も枕に頭を打ち付けながら足をジタバタさせ、更に頭を抱えて何度もエビ反りになり、上半身と下半身をベッドにビタンビタンと叩きつける、という摩訶不思議な動きを繰り返した。
「僕なんて道端の枯れ草以下だ!」
「京介君、呼んだ?」
ひょこ、と時生が扉から顔を覗かせた。
「うわあ! とととと時生さん!」
「私の名前が聞こえた気がしたんだけど?」
「あっ……ご、ごめん何でもないんだ!」
時生の部屋は隣だ。大声を出せば聞こえてしまうのは当然だ。また心配させてきまったなあ、と京介は自己嫌悪に陥り、だんだんと気持ちも沈み表情も暗くなる。
「うん……ごめんね、僕なんて道端の枯れ草以下だよね。踏み潰して燃やしてくれても大丈夫だから」
「なに、なに、何があったの⁉」
時生が心配してすぐに京介の隣に駆けつけてくれる。京介はのそっと体を起こすと、膝を立てて枕を腹に抱え込んだ。
「うん。今日、僕、時生さんやみんなに酷いことしたなって。ごめんね」
「へ? 何かされたっけ」
「したよ! せっかく時生さんが僕の写真をみんなに見せてあげようとしたのに。なのに僕は……僕は」
「ううん、違うよ! あれは私の方が悪いよ……無神経すぎたなって、反省してる。本当にごめんね京介君」
「僕は、僕は虫けら以下なんだ。僕なんか生きる価値もなければ息をする資格もない……僕が生きてるなんて生意気なのかもしれないよ」
「ちょ、ちょっと待って落ち着こう京介君⁉」
「ご、ごめん……悪い癖が出ちゃったよ」
「ねえ京介君。京介君はどうしてそんなに自分に自信がないのかな?」
と時生は京介の頬にそっと手を触れる。
だがすぐにハッとして、
「ごめん、私また無神経なこと聞いちゃったよね」
時生は慌てて手を離し、しゅんとしてしまう。
でも、京介は彼女の気持ちを無神経だとは思わなかった。彼女は彼女なりに自分のことを心配し、そっと心に触れてくれようとしているのだ。そしてそれは七瀬も同じだ。あまりグイグイ来られるのは苦手だが、彼なりに気にかけてくれているのはわかっている。
それでも、京介は、心を開くことができないでいる。傷つくことが怖いから。大切なものを奪い取られ、笑いものにされて、踏み躙られる恐怖を知っているから。
けれど──
時生が、そんなことをするだろうか?
七瀬や正木、それに委員長も、そんなことをするような人間なのだろうか?
彼らはあの子達とは違う気がする。
時生なら、大丈夫かもしれない。
時生なら、ちゃんと話を聞いてくれるかもしれない。時生なら、何を話しても、もしかしたら、受け入れてくれるかもしれない。
「あ、あの。時生さんは……その、僕の趣味とか……将来の夢とか……そんな話、聞きたい?」
「うん! 聞きたいよ! すっごく聞きたいよ!」
時生が目を輝かせてズイと身を乗り出してくる。
例えば京介が宇宙飛行士になって火星に行きたいとか、世界一のダンサーになりたいとか、ハリウッドスターになりたいとか、そんな荒唐無稽な夢の話をしたって、彼女は受け入れてくれる気がする。
彼女なら、大丈夫かもしれない。
確信はないけれど……
「あ、あのね。時生さんに見せたいものがあるんだ」
京介はベッドを降りると、勉強机に向かった。
引き出しを開け、古びたデジカメを取り出し、細かな傷の入ったボディを愛おしそうに撫でた。
「デジカメ……?」
「うん。これね、小学校の入学祝いに母さんが買ってくれたんだ」
京介はデジカメを持ってベッドに戻り、それを時生に手渡した。
「おば様の形見……」
「叔父さん……母さんの弟さんなんだけど、その人、カメラとか天体観測とか旅行とか、割とアクティブな趣味が多い人でね。僕も子供の頃はよく連れて行ってもらってたんだ。最近は仕事が忙しくてなかなか時間が取れないみたいで全然一緒にどこにも行けてないんだけどね」
京介はベッドに腰掛けると、スマホを手に取り撮り溜めた写真を眺め始めた。
「僕、叔父さんに連れられて、奈良に彼岸花を見に行ったことがあるんだ。時間は掛かったし小学一年生の自分には少ししんどい道のりだったけど、辿り着いた時、その美しさに息を呑んだよ。それで、その時、叔父さんが僕に一眼レフを貸してくれてね。
ファインダーを覗き込みながら叔父さんと一緒にシャッターを押したんだ。撮影した写真を確認してみたらね、僕が目の前で見たあの美しい景色が、風に揺れる彼岸花が、流れる雲が、夕陽に染まる空が、そこに収められていたんだよ。写真は動かないはずなのに、まるで生きて動いているような力強さと美しさを感じてね」
と、京介は照れ臭そうに頬を掻き、
「それで、僕、家に帰ってダンボールをカメラの形に切取って『パシャ、パシャ』なんて言いながら家中の物を撮影する真似して遊んでたんだ」
「京介君、可愛いね」
時生はふふっと笑う。
「それで、小学校の入学祝いに母さんがそのデジカメを買ってくれたんだ。家に帰ったらキレイにラッピングされた箱があってね、ワクワクしながら開けたのをよく覚えてるよ。それで、開けてみたら、デジカメの箱が出てきて。僕、嬉しすぎて泣いちゃったんだ。で、小1にして僕の趣味はカメラになったんだ。で、僕、また叔父さんと一緒に奈良に行ってね、今度は自分のカメラで彼岸花を撮影したんだよ。あの時の感動は今でも忘れられないよ」
「素敵なお話だね!」
「うん……でもね」
京介は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「何かあったの?」
「いや。大した話じゃないんだ」
京介はそう前置きしてから、おもむろに話し出す。
「10歳の時に母さんが病気で死んじゃってね、だけど僕は父さんを心配させないようにって、いつも頑張って笑ってたんだ。僕は強い人間だから落ち込んだりしないよ、母さんがいなくても大丈夫だよって。そう、自分に言い聞かせてたんだ。でも、僕は、弱い人間だったんだ……」
過去の記憶を辿りながら話すというのは、同時に、当時の痛みまで蘇らせてしまう。ただ話すだけのつもりなのに、京介の胸は酷く痛み、締め付けられるような苦しさまで感じていた。
それを察したのだろう、時生が隣に座ってくれて、膝の上で固く握られた京介の手にそっと手を添えてくれた。
「ある日、授業で学級新聞を作ることになってね。それで、班の子達と集まって、町内にネタを探しに行こうってなったんだ」
「うん……」
「だから僕はそのデジカメを持っていったんだけど……」
京介の拳がますます固く握られる。
「ほんと、大した話じゃないんだけどさ……なんか、みんなが僕を笑ったんだ。デジカメなんか似合わない、カメラが趣味とかかっこつけ過ぎだ、そんなキャラじゃないじゃんって。それでデジカメを取り上げられて、みんながそれを次々投げ渡しながら僕のことをからかったんだ」
過去の記憶が今現在のことのように蘇り、傷口が酷く痛んだ。そして堪らえようとしているのに、大粒の涙がぽたぽたと零れ落ちた。慌ててそれを袖で拭い、京介は続ける。
「それでね、僕、思わず泣いちゃってさ。泣きながら、それは母さんの形見だから返してほしいって言ったんだけど、そしたら『泣き虫きょうちゃん! ママがいないと何もできないんだろ、情けないの』とか『ママー、ママー、あはははは』とか……」
京介はぐいっと涙を拭い、
「情けないよね。小学校の時のそんな些細な出来事を未だに引きずってさ。でも僕、自分の大切な物をあんなふうに笑われるなんて思ってなくてさ。かっこつけるつもりなんてなくて、ただ純粋に写真を撮るのが好きなだけだったのに。なのに、僕には似合わなくて、そんなキャラじゃないなんて……そんなふうに思ったことなかったから凄くショックだったんだ。しかも母さんとの思い出まで奪い取られて、笑われて。しかも途中で一人受け取り損ねてさ、カメラ落っこちちゃって……コンクリートの上だったから、傷ついちゃって……」
笑わなくちゃ、と、京介は必死に口角を吊り上げてみせた。けれど、それは、笑顔になどなりようもなく、ただ歪な表情を時生に見せてしまうだけだった。
「なんか、それからさ、僕、人前で写真撮るの怖くなっちゃって。ううん、写真だけじゃない。何に対してもそうなんだ。いいなとか好きだなって思っても、それを人に言うのが怖くなっちゃったんだよね。だって僕には似合わなくて、そんなキャラじゃないから、また笑われちゃうんだろうなって」
笑わなくちゃ、そう思うのに、もう口角を吊り上げることも出来なくなっていた。
「ほんと、情けないよね……」
乱暴に涙を拭い、時生を見る。
すると。時生まで、ぼろぼろと大粒の涙を溢していた。
「な、なんで時生さんまで泣いてるの⁉」
「全然差些細なことじゃないよ! 大したことなくないよ! 何で京介君がそんな子達のせいで好きなことを好きって言えなくならなきゃならないの。おかしいよ。悔しいよ。悔しいよ」
時生が力強く京介を抱きしめる。
「と、時生さん……?」
「悔しい! 悔しい!」
時生がぼろぼろ涙を溢しながら叫んだ。
京介を抱きしめる手にギリギリと力が込められる。
「誰かの好きを笑う権利なんて誰にもないんだよ! おかしいよ。キャラって何、似合わないって何。何を好きでも、何をしても、そんなの自由じゃん。なんで笑われなきゃならないの、なんで奪われなきゃならないの」
「時生さん……」
「しかもお母さんの気持ちまで踏みにじられてるじゃん……お母さん、京介君に喜んで欲しかったんだよ。京介君のために、一生懸命選んで買ってくれたんだよ。プレゼントを選ぶ時ってさ、ずっと、その人の喜ぶ顔を思い浮かべてるでしょ? きっとお母さんも同じだったはずだよ」
時生はベッドに片膝をつくと、ぎゅうっ、と京介の頭を胸に抱きしめた。
「と、ととと時生さん⁉」
「大丈夫だよ、京介君。私は絶対に笑わない。京介君が何を好きでも私は絶対に笑わないよ。私は京介君がやりたいこと全部、応援するよ。だから、ゆっくりでいいからさ、また、胸を張ってカメラが趣味だって言えるようになろう。今すぐじゃなくていいから。少しずつでいいから……ね」
そう言って時生は京介の頭を撫でる。優しく、優しく、何度も。
──そうだ。
プレゼントを貰って嬉しすぎて泣いた時も、家中の物を撮影して回っている時も、彼女は嬉しそうに笑ってくれていた。彼女だけじゃない、父さんも嬉しそうに笑ってくれていた。
二人が嬉しそうに笑うのは、僕が、幸せを感じているからだ。僕が幸せだから二人も幸せだったのだ。嬉しそうに写真を撮る自分を見るのが二人の幸せなのだ。
なのに、僕はあの日から、目の前の風景を切り取ることに恐怖し、頭の片隅では常に『僕なんかには似合わないんだ』なんて想いが付きまとっていた。
僕の『好き』は誰のため?
好きなことを好きだと言いたい。
好きなことを好きだと言いたい。
僕の『好き』は僕だけの物なのに。
なのにどうして、他人の言葉に惑わされてしまうんだろう。
父さんと母さんは僕の『好き』を笑わなかったじゃないか。
いつも嬉しそうに見ていてくれたじゃないか。
胸を張りたい。
好きなことを好きだと言いたい。
誰かの悪意で僕の大切な『好き』を手放してしまいたくない。
そんなこと、母さんも、父さんも、望んでいないのだから。
僕は僕の『好き』を大切にしたいんだ──
「僕、ちゃんと、好きなことを好きだって言いたいよ。だって、僕の好きって気持ちは僕だけのものだから。僕の気持ちは僕だけのものだから……誰にも奪われたくないよ、手放したくないよ」
京介は時生にしがみつき、ぼたぼたと涙を零した。
「うん。うん。大丈夫だよ。もう誰にも奪われないよ。だって京介君には私がついてるから」
「なんか、ごめんね。僕みっともないよね」
「大丈夫大丈夫! みっともなくなんかないよ! 人間はそんなに強くないんだよ。だから、どんどん甘えちゃお。私ならいつでも京介君のこと慰めてあげられるから。だから京介君、遠慮しないで私にいっぱいお話聞かせてね」
時生は優しく言いながら、京介の頭を撫でる。
「もしまた誰かに傷つけられたら、またこうして抱きしめてあげるから。だから怖がらないで」
「うん……」
泣き疲れたのか、頭を撫でられるのが心地よかったのか、うとうとと眠気に誘われ、意識が遠のき始めた。
「……大丈夫だよ、京介君」
ゆっくりと眠りに落ちてゆく中で、時生の温かな囁きが聞こえた気がした。
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